平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



大和郡山市今井町の瑞厳山光慶寺(浄土真宗西本願寺派)には、
平清盛自筆の赦免状があります。

平康頼のご子孫の平さまからお寄せいただいた情報で、
この寺を訪ねご住職からお話を伺いました。







縁起によると、長元元年(1028)に、皇慶阿闍梨大僧都が
山城国久世郡岩田村(八幡市岩田)に
草創し
天台宗門跡寺院、瑞厳山皇慶寺と称したのが始まりです。

次いで平康頼の嫡男左衛門尉清基の末子千代寿が出家して
光慶と名のり、
皇慶寺を光慶寺と改めて住職となり、浄土真宗としました。
その後、十一代超宗の時に現在の今井町に移転しました。


赦免状は鹿ケ谷の平家打倒の謀議が発覚し、鬼界ヶ島へ流された
僧俊寛、丹波少将成経、平判官康頼の三人の内、
成経、康頼に対して平清盛が出したものです。

事情をお話しするとご住職は「この寺は観光寺院ではないので
駒札や説明板もないし、
赦免状は先代が奈良国立博物館に預けたので
見せるものは何もないのだが」と仰って、

お寺から檀家に配布されている『光慶寺縁起略記』をくださいました。

『光慶寺縁起略記』の中にある赦免状の画像です。

一、平清盛自筆の赦免状(一通)
治承年間、鹿ケ谷で平家討滅を企て、露見し鬼界ヶ島へ流された。
僧俊寛、少将成恒、康頼法師三人の内、治承二年七月、
高倉天皇の中宮徳子(清盛の娘)難産の為、成恒、康頼の二人に対して
罪を赦した。清盛自筆の赦免状である。
全文は次の通り
「重科者遠流に免ず早く帰洛の思ひを成るべし、今度中宮御産の御祈によって
非常の赦行の間、鬼界ヶ島の流人、少将成恒、康頼法師赦免の状如件」
治承二年(1178)七月廿六日
     入道相国  花押
                      少将成恒 康頼法師

『参考資料』
「瑞厳山光慶寺縁起略記」
『アクセス』
「光慶寺」奈良県大和郡山市今井町35 JR大和路線「郡山駅」下車徒歩約7分



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地御前神社は厳島の対岸、明神山の社叢を背にして鎮座しています。
かつて厳島神社も伊勢神宮同様、内宮と外宮から成り、
明治維新までは厳島神社を内宮、当社を外宮(現在は摂社)としていました。
厳島が聖地と見なされた時代、島には社殿を造ることが許されなかったため、
対岸に神社を造って神を祀り、外宮はその島を遥拝する社でした。
その後、次第に島を禁足地とする意識は薄れ、島内に社殿が建てられるようになると、
祭祀の中心は外宮から内宮に移っていきました。

現在の地御前神社は、拝殿一宇・本殿二宇・幣殿一宇からなっていますが、
仁安3年(1169)に厳島神社神主佐伯景弘が書き残した文書によると、
十九宇の社殿があったとされ、当時の規模の大きさを物語っています。
この頃、清盛は私財をつぎこみ厳島神社の社殿を寝殿造りに作り替え、廻廊をめぐらし、
大鳥居を建て替えているので、外宮の修造も清盛の援助によるものとされます。

社伝によると、創建は厳島神社と同じ推古天皇元年(593)頃と伝えられています。
祭神も厳島神社と同じで、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)を主祭神として、
田心姫命(タゴリヒメノミコト)、湍津姫命タギツヒメノミコト)のいわゆる宗像三女神を祀っています。



国道2号線、広島電鉄宮島線とJR山陽本線に挟まれて建っています。

拝殿、その背後に本殿。

社殿は国道2号線そばにありますが、車の往来が激しいこの国道はかつて海でした。

画像は早稲田大学古典籍総合データーベース「厳島図会」よりお借りしました。
江戸時代に発行された「厳島図絵」を見ると、地御前神社のすぐ前には海が広がり、
鳥居は海中にたっています。

平安朝ころ、都で盛んに行われていた管絃の風習を平清盛は厳島神社に移しました。
都で行われていたのは、河川や貴族の邸宅内で苑池に船を浮かべる「管絃の遊び」でしたが、
清盛はこれを神事として瀬戸内海で催すようになりました。
楽器も多く、
人数も多いことから大型の船でないと間に合わず、貿易船を用いたものと思われます。
現在、旧歴の6月17日の夜に催される管絃祭は、午後4時厳島神社の本殿で
発輦祭(はつれんさい)が行われ、次いで本殿から出た
鳳輦(ほうれん)を管絃船に移し、3艘の漕ぎ船にひかれ大鳥居沖に進みます。
船内で管絃を合奏しながら対岸の地御前神社の入江に入り、
管弦3曲を奉納して厳島神社に還ります。

また、陰暦の5月5日には、御陵衣祭が催され雅楽舞や流鏑馬神事が奉納されます。
『アクセス』
「地御前神社」 広島県廿日市市地御前5丁目
広島電鉄宮島線「地御前駅」から徒歩約10分。

『参考資料』
「広島県の地名」平凡社 「伊都岐島」厳島神社社務所 日下力「厳島神社と平家納経」青春出版社



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阪神電車杭瀬駅で電車を降りて、国道2号線沿いに1㎞ほど東へ進みます。
左門殿(さもんど)川にかかる左門橋の信号を左折し、
800mほど北へ行くと塩野義製薬杭瀬事業所が見えてきます。
さらに進むと塩野義製薬の北端、

神崎川西岸に「寺江亭阯伝説地」の碑が建っています。
塩野義製薬建設の際、多くの礎石が出土し、この辺が五条権大納言
藤原邦綱の別邸(寺江山荘)跡と推定されています。

源通親(みちちか)の『高倉院厳島御幸記』には、
藤原邦綱が河尻(神崎川河口一帯の名称)に営んだ
「河尻の寺江」に高倉院の行宮を設けたことがみえます。

『山塊記』治承4年(1180)3月19日条に藤原邦綱の別邸
寺江山荘が当地に設けられたこと、同年6月の福原遷都以後は
当地を経由して旧都と福原を往来する高貴な人物の宿舎としても
利用されたことが貴族の日記に見られます。
(同記同年8月10日条など)

『高倉院厳島御幸記』によると、山荘は寝殿造りで神崎川の川べりにあり、
川の水が庭内に引き込まれ、厩の葦毛の馬2頭には見事な鞍が置かれていました。
御殿の障子には唐風の絵と大和絵が描かれ、設えは上皇の部屋だけでなく、
随行の上達部や殿上人の居所も贅をつくしたものであったとあり、
大福長者といわれた邦綱の財力をうかがわせる豪奢な舘だったようです。


創建は治承4年(1180)と推定され、後白河院や高倉院、
安徳天皇・建礼門院など多くの貴人、要人がこの山荘を訪れています。

邦綱は娘が六条・高倉天皇の乳母をつとめ、次女の藤原輔子が
安徳天皇の乳母で平重衡の北の方だったことなどにより、
清盛のもとで正二位大納言にまで昇り、
清盛と同じころに発病し、相前後して亡くなりました。

左門橋の信号



左門橋の信号を通り過ぎ、左門殿(さもんど)川に架かる
左門橋から神崎川と左手の塩野義製薬を望む


左門橋の信号を左折し、
塩野義製薬の生垣の先端まで進みます。




寺江亭跡(
現地説明板)
平安時代末、平氏政権の有力者の五条権大納言藤原邦綱が
築いた別邸が寺江亭です。彼の娘が六条・高倉・
安徳天皇三代の乳人(めのと)でしたので、
清盛の下で権勢をふるうことができたのです。
邦綱は、
神崎川の河尻に別荘をもち
(寺江にあったので寺江亭と呼ばれる)
多くの貴人らを招いていました。

寺江は尼崎に近い大物とも考える説がありましたが、
尼崎より約2㎞の地と記された
当時の日記もあり、
塩野義製薬株式会社の工場建設のときに、
かなりの礎石が
採取されましたので、当地が跡地と推定されています。

また、建物の創建は、治承3年(1179)から
4年にかけてのものとみられています。
記録によると、
川から直接邸内へ船に乗ったまま入ることができ、

建物の豪華さは京都の邸にひけをとらないと記されています。
尼崎市教育委員会

当時、寺江亭(寺江山荘とも)があった河尻は神崎川の河口にあたるため、
川が運ぶ土砂が堆積して砂浜が広がっていました。
神崎川は淀川とつながり、朝、京都を発ち淀川を下ると夕方には着くため、
河尻にはさまざまな貴族の別荘が建ち並び、京都と福原、
西国を往来する皇族や貴族たちの格好の宿所となりました。
治承4年(1180)3月の高倉上皇の厳島御幸でも
京都から川船で淀川を下った上皇一行は、
そのまま寺江亭へ船を乗りつけ釣殿に降りています。

治承4年6月、清盛は福原遷都を強行しましたが、
新都造営は遅々として進まず、今年は2月に即位した
安徳天皇の大嘗会が行われなくてはならないのですが、
福原では大極殿・豊楽院がないので沙汰やみとなり、
例年通りの新嘗祭と五節だけが行われることになりました。
しかし、その新嘗祭さえも京都の神祇官で執り行われました。

その上、富士川合戦で大敗した後、源氏の蜂起が各地で
相次ぎ内乱状態となり、福原に軍事拠点を定める
清盛の戦略は打撃を受け、やむなく清盛は還都を決定し、
福原新都は半年でその役目を終えました。


病気がちだった高倉上皇が急いで福原を出ると、摂政はじめ、
太政大臣以下の公卿・殿上人たちは我先にとお供をします。
『源平盛衰記』は、これを「公卿も殿上人も、上下の北面賎の女、
賎の男に至るまで手をすり額をつきて悦び合へり」と著しています。
同年11月23日、安徳天皇は福原の御所を出て、
宇治河の亭(福原の藤原邦綱の邸)に移り、翌朝、
輿に乗り福原を出立、大物(尼崎)に行き、
ここから船に乗り寺江亭に到着しました。
その夜、天皇は寺江亭に、上皇は山城法眼の別荘に宿をとり、
後白河法皇だけは船の中で夜を明かすことになりました。

翌25日、一行は淀川を遡って鳥羽の草津湊(京都市伏見区)に
着くはずでしたが、大風にあい唐崎(高槻市)で一泊し、
26日に京都に着くと天皇は邦綱の五条東洞院に、
上皇は頼盛の池殿、後白河法皇は六波羅の泉殿に入りました。


安徳天皇が乗船した大物(だいもつ)は神崎川の右岸にあり、
河尻の下流にあったとされています。
大物は文治元年(1185)に頼朝と対立した義経が
西国へ逃れようと船出し、遭難したことで知られています。


「寺江亭阯傳説地」の標柱の傍には「聖趾不滅」の石碑があります。

石碑には次のように刻まれています。
治承四年三月高倉上皇厳島御幸ノ御時 前大納言藤原邦綱寺江亭ニ迎ヘ奉ル 
亭ノ壮麗ナリシ状夙ク 史乗ノ證スル所ナリ 同年六月安徳天皇福原遷都ノ御途次 
後白河法皇高倉上皇ト御共ニ 茲ニ臨幸アラセ給ヒ

同年十一月 還幸ノ砌重ネテ御駐泊ノ御事アリ
寺江亭ノ故阯實ニ附近ナリト傳ヘラル 神崎川ノ水溶溶トシテ流ルル所 
上畿ノ文化夙ニ水驛ニ洽ク 地方繁榮ノ端緒早ク茲ニ發ス 
物變リ星移リテ河畔ノ風趣舊ノ如クナラスト雖モ 此ノ岸頭ニ莅ム時
 人ヲシテ懐古ノ情ニ堪ヘサラシムルモノアリ

昭和十五年十一月 兵庫縣史蹟調査會委員 吉井良尚撰 
 怡軒 片岡辰之助書

碑の背面には、昭和十六年三月 兵庫縣史蹟保存規定ニヨリ認定 
   株式会社塩野義商店社長 塩野義三郎建之 」

現在の工場が建ち並び堤防のある風景から、砂浜が広がるリゾート地に
貴族の別荘が多くあったという、当時の様子を想像するのは難しいです。
高倉院厳島御幸(瀧宮神社)  
『アクセス』 
「塩野義製薬杭瀬事業所」兵庫県尼崎市杭瀬寺島2丁目1
「寺江亭跡」尼崎市今福2-17

阪神電車杭瀬駅から徒歩約30分 市バス「杭瀬団地」東約600m
『参考資料』
元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫 高橋昌明「平清盛 福原の夢」講談社選書メチエ 
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新日本古典文学大系「中世日記紀行集」岩波書店
「神戸~尼崎海辺の歴史 古代から近現代まで」神戸新聞総合出版センター
 新定「源平盛衰記」(3)新人物往来社 「兵庫県の地名」(Ⅰ)平凡社 
「兵庫県の歴史散歩」(上)山川出版社 



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平清盛が経ヶ島築造にあたり、会下山(えげやま)の南麓から
社殿を移したと伝わる七宮神社が兵庫区七宮町にあります。


七宮交差点



七宮交差点から七宮神社境内へ

祭神は大巳貴命(おおなむちのみこと)で兵庫津の産土神です。

同社所蔵の古文書や記録類は、戦災ですべて焼失してしまいました。

同社の木遣(きやり)音頭は、清盛が経ヶ島を築くにあたって会下山麓から
社を移転した際、奉納した獅子舞や用材を運ぶ時に歌ったものという。

七宮神社(経ケ島築造伝説)
創建の年代は定かでありませんが、一説にはもとは会下山(えげやま)の
南麓の集落で、北風家が祀っていたと伝えられます。
清盛が経ケ島築造の工事を進めるにあたり、
暴風雨でなかなか進まないのを不審に思い、調べたところ、
築造に必要な土砂をとっていた塩槌山(しおつちやま)に住む神が怒って
暴風雨を起こすことがわかり、そこにあった神社を現在の七宮町に移築し
祀ったところ、無事築造できたと謂われています。(説明板より)

『七宮大明神記』によれば、経ヶ島の工事は難航したが、この神社に
参詣したことで成就したという。また同書は、一説には会下山の
南麓にあったが、清盛が経ヶ島を築くに当たって移転させたという
社伝も紹介する。(『源平50選神戸』)


会下山は鵯越道から真っすぐに南下すると、最初にぶつかる丘で
源平一の谷合戦では主戦場となった所です。
辺りにはこの合戦で討死した平家公達の塚や墓が残されています。


摂津名所図会が描く現在の七宮交差点付近の船入江の賑わい

兵庫県教育委員会で行われた兵庫津遺跡の七宮交差点の調査では、
絵図に描かれた船入江の石垣が国道2号線の下に埋もれていることがわかりました。
また、この船入江は明治時代中頃まで兵庫津の重要な施設として機能していたとされます。

遣唐使が廃止されて以来、日本は事実上の鎖国状態で、
日宋貿易は私的に大宰府で行われていただけでした。
大輪田泊に宋の貿易船が入港したのは、嘉応2年(1170)9月のことです。
この時、清盛は福原の山荘で宋人を後白河院に対面させています。
これを保守的な貴族たちは、「未曾有の事である。まるで天魔の行いのようだ」と
これまで外国からの使者に院が会うことなどなかったと非難しましたが、
院も清盛も全く気にしませんでした。
後白河院は貴族社会の因習にとらわれない進歩的な考えの持ち主でしたから、
日宋貿易に関しても清盛に協力的でした。宋から院と清盛に届けられた供物に対し、
翌年の承安3年(1173)、両者は返礼の品を贈っています。
これは宋との貿易を朝廷が認めたことになり、貿易は半公的な性格をおび、順調に
展開していくことになります。同年、清盛は大輪田泊を国際貿易港として発展させようと、
阿波民部重良を奉行として私費を投じ、波風よけの人工島の築造を始めました。


築島工事は難工事で大風や大波でたちまち崩れ去ったため、迷信深い公卿たちは、
「人柱を立てるべし」と決議しましたが、「それは罪業だ」といって清盛は反対し、
石の表面に一切経を書かせ、この石を廃船に積んで船ごと沈めました。
そのためこの人口島は経ヶ島(経の島)と名づけられ、一応、2年後には完成を見ましたが、
しかし完全には修復できず、私財にも限界があることから、清盛は国家事業による
改修を願い出ます。これが許可されたのは治承4年(1180)2月のことでした。
その三ヶ月後には、以仁王の謀反が起こり、源平の争乱が始まると、
改修計画は実行に移されることはありませんでした。
こうして清盛が完工を見ることができなかった経ヶ島築造工事は、
東大寺の大仏勧進僧重源の国営工事によって完成しました。

大輪田泊はその後、兵庫津、兵庫港として発展し、度々埋立て整備が行われ、
経ヶ島は陸地となり大きく変わってしまったため、この島の詳しい場所は不明です。

『源平と神戸』は、経ヶ島の位置について、築島寺が島上町にあることや旧図、
中山忠親の日記『山塊記』の記事などから、次のように見当がつけられるとしています。
南端…新川運河南側の南岸
北端…島上町北の松屋町辺
西端…新川運河に架かる大輪田橋辺
これは南北約900m、東西約420m、面積約11万5千坪

風鈴さまより塩槌山(しおつちやま)についての情報をいただきました。
追記させて頂きます。

『西摂大観』によると、羽坂通には平安時代まで塩槌山と呼ばれる
小山があったが、平清盛が経ヶ島を築くため崩したという。
塩槌山には大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られ、
その神の怒りで風波を引き起こさぬようにと、
七宮神社を建立して島の完成と港の安全を祈願したとされる。
(以上、大輪田の泊と平清盛の時代
神戸市兵庫区総務部まちづくり課のサイトより転写)

地下鉄海岸線「中央市場駅」付近には、大輪田泊をしのぶ史跡が点在しています。
大輪田泊・経ヶ島(古代大輪田泊の石椋・築島寺・金光寺・和田神社)
『アクセス』
「七宮神社」神戸市兵庫区七宮町2丁目3-21
JR神戸線「神戸」駅より、国道2号線に沿って西へ徒歩約10分
神戸市バス「七宮町」バス停下車すぐ
『参考資料』

高橋昌明編「王朝への挑戦 平清盛」別冊太陽・平凡社 「兵庫県の地名」(Ⅰ)平凡社
神戸史談会「福原遷都から800年 源平と神戸」神戸新聞出版センター 
「兵庫県の歴史」山川出版社 
元木泰雄「平清盛の闘い」角川ソフィア文庫 
杜山悠「神戸歴史散歩」創元社 「源平50選神戸」神戸新聞社

 



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