平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




尼崎市の松原神社には、素盞嗚命(すさのおのみこと)、
三輪明神と並んで崇徳天皇が祀られています。

保元の乱で弟の後白河天皇に敗れた崇徳院は、知足院(船岡山の東南)近くの
とある僧坊で出家し、仁和寺に入り沙汰を待っていました。
仁和寺には弟の覚性法親王がいたので、弟にすがりとりなしを頼むつもりでした。
しかしその時、父鳥羽法皇の仏事で鳥羽離宮にいた覚性はそれを断わり、
合戦から13日目に讃岐(香川県)配流という厳しい刑が下されました。
覚性法親王・後白河天皇どちらも生母は崇徳院と同じ待賢門院璋子です。

朝まだ暗いうちに仁和寺を出発し、粗末な牛車で草津湊へ向かいます。
この湊は鴨川と桂川の合流点にあった船着場です。(現・伏見区下鳥羽)
護送は囚人同様のきびしい扱いでした。院がみすぼらしい屋形舟に乗りこむと、
四方を打ちつけ、外からは鍵をかけて淀川を下ります。お供をしたのは、
重仁親王(崇徳の第1皇子)の母、兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)の他
2人の女房であったという。重仁は乱後、仁和寺で出家して僧となりますが、
わずか23歳でその生涯を終えています。

讃岐への途中、崇徳院を乗せた船は嵐にあい、一行は浜田で休息したとされ、
その縁により院の崩御後、村の鎮守の松原神社にその霊を祀ったと伝わっています。

JR立花駅前

松原神社



松原神社(浜田の神事)
主祭神は素盞嗚命で、崇徳天皇を相殿神とし、三輪明神をも配祀する。
末社は琴浦明神社、八幡宮社、稲荷神社。浜田に残る伝承によれば、
崇徳天皇が讃岐(現在の香川県)に移られる途中、大風雨を避けて
この地にご休息されたとき、村民が、このしろ、はまぐり、かき、
まてがい、ばい、ゆば、湯どうふ、よめな、しいたけ、ごぼう、
やき米、やき豆、塩おはぎ、などを差し上げてもてなしました。
その由縁から、没後も御霊を慰めおまつりするに至ったといわれています。
現在3月31日に行われている春祭りをダンゴノボーといい、
当時と同じ物を献上する神事が行われています。
また特定の家が神事に奉仕する当家の制度が残っています。
12月31日の除夜には、当屋の中の宮当番が、新しい藁を垂らした注連縄を
松竹梅に寄せ合わせて根元を笹でくくった門松に張って、拝殿前に飾り付けます。
元旦の早朝当屋の人たちは、威儀を正した服装や裃を着て、
一切無言で神事を行います。
このような当屋は、宮講と呼ばれ、
現在も神社を中心とする年中行事を踏襲して、厳粛に行っています。

なお、浜田の地は崇徳院の御影堂領が比叡山粟田社領に護持されていた史実と合致し、
古くから浜側の田地が(浜田の地名由来)開かれていたことを物語っています。
尼崎市教育委員会 (現地説明板)





松原神社拝殿

拝殿の背後に本殿。

松原神社を南下すると、中世の浜田荘の一部にあたる
崇徳院1~3丁目 という地名があります。
この地名は、近世以来の小字名で、
大字浜田(江戸期から明治22年の浜田村)の一部でした。


浜田荘は鎌倉期~室町期に見える荘園の名で、現在の浜田町1~5丁目、
崇徳院1~3丁目など尼崎南西部地域一帯です。
建長8年9月29日付の『崇徳院御影堂領目録』には、浜田荘が記され、
この荘園が鎌倉期には粟田宮に寄進された
荘園の一つであったことが知られています。

粟田宮は崇徳院の霊を慰めるため、後白河天皇によって
保元の乱の戦場跡に建てられた社です。
古代、尼崎の海岸線は現在よりかなり北側にあり、海岸部に立地している
浜田荘は、戦国期には地続きの浦浜の境界をめぐって隣接する荘園と
争いを起こしています。また江戸時代の崇徳院は海岸線に沿った
一角に位置していたことが『草場忠兵衛文書』に見えます。
『アクセス』
「松原神社」尼崎市浜田町1丁目 6 JR立花駅下車 南へ徒歩5分 松原公園隣
『参考資料』
「兵庫県の地名」(1)平凡社、1999年 「角川日本地名大辞典」(28)角川書店、平成3年
「兵庫県の難読地名がわかる本」神戸新聞総合出版センター、2006年 
「神戸~尼崎海辺の歴史」神戸新聞総合出版センター、2012年
 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」日本放送出版協会、平成16年

日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 


 



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亀岡市南部の矢田地区、法楽寺山の麓に那須与市堂があります。
縁起によれば、平安時代の一条天皇の御代に安倍晴明が法楽寺山に法楽寺を建立し、
恵心僧都(源信)作の阿弥陀如来像を本尊として深く信仰したとしています。
源平合戦の時、源義経に従って一の谷に向かう那須与一が
途中の丹波で病にかかりましたが、法楽寺の阿弥陀如来に病気回復を祈願すると
たちまち回復し、翌年の屋島合戦で扇の的を射とめ名声をあげました。
与一はその功で武蔵国太田庄(埼玉県行田市・羽生市)・丹波国五賀庄
(京都府船井郡日吉町)など五ヶ所に領地を賜り、
法楽寺を再興したと伝えられています。
江戸時代の享保元年(1716)、法楽寺は火災に遭い、本尊阿弥陀如来だけが
焦げ残りました。残った阿弥陀如来は村人達によって守られ、
明治26年(1893)、現在の場所に安置され、お堂は那須与市堂と名付けられました。

都落ちした平氏一門は、
その後屋島に本拠をおいて次第に勢力を挽回し、
福原に戻り、一ノ谷に陣を構えて京都回復をねらいます。
これに対して頼朝の命を受けた範頼(のりより)軍は山陽道(西国街道)を進み、
義経軍は丹波路を進み、平氏の背後に回る作戦を採りました。

丹波路は、山陰道とも篠山街道ともいい、
老ノ坂峠から亀岡市、篠山町を経て兵庫県に入る道です。
亀岡市は丹波路(山陰道)と京街道(丹後道)が交差する交通の要衝で、
周辺には義経の進軍にまつわる
義経腰掛岩や
義経が必勝祈願をしたという若宮神社が残っています。


府道6号線(高槻・茨木―亀岡線)沿いに那須公園があります。

公園の前を車で通りかかると、数台の車が停まり、
なにやら与市堂の方が賑やかな様子です。丘を上るとちょうど
座談会が開かれていたので、途中からでしたが参加させていただきました。









奉賛会員たちが、堂守をしながら与一が的を射った2月18日にちなみ
毎月8日・18日、28日、火災で黒く焼けた如来像に向かい、
お経をあげていました。しかし多い時は25人ほど集まっていたメンバーも
高齢化で徐々に減り、現在、90歳の会長ら2人だけになってしまい、
何とか市民の関心を高め、お堂を次の世代に引き継ぎたいという趣旨の会でした。





江戸時代の火災で焼け焦げた阿弥陀如来像。

翌日(2016・4・10)の京都新聞の記事です。
高松市出身の男性から与一の名を広めてほしいと贈られた絵。
この絵はこのあと亀岡市市役所の玄関に架けられるそうです。

那須与一供養塔

那須与一にまつわる伝承は全国各地に40余あります。
那須地方の伝承は、幼少期のエピソードや源平合戦出陣の際、寺社に戦勝祈願をして
扇の的を見事一矢で射たとか、凱旋後の寺社再建などの話題が中心です。
その他、北は青森から南は宮崎におよぶ伝承地には、与一の病気や出家、
死に関するものが大半をしめています。『那須系図』では、建久元年(1190)に
源頼朝の上洛に供奉した与一は山城国で没し、伏見の即成院に葬られたとありますが、
真偽のほどは定かではありません。屋島合戦での華々しい活躍にも関わらず、
その後の活動が一次資料にまったく見えない上に、
若くして逝った与一の姿が数多くの伝承を生んだと思われます。


与一は後世の説話や芸能に取り上げられ、
また明治時代の文部省唱歌「那須与一」にも登場し、

「一、源平勝負の晴の場所、武運はこの矢に定まると、
    那須の与一は一心不乱、ねらひ定めてひようと射る。

二、扇は夕日にきらめきて ひらひら落ちゆく波の上、

    那須与一の譽(ほまれ)は今も、屋島の浦に鳴りひびく。」と
歌われ
広く知られることになりました。



与一の扇の的の話は、湯浅常山の『常山紀談』にも出てきます。
江戸時代中期、常山は岡山藩主池田氏に仕え、戦国武将の逸話を収めた
『常山紀談』を著しています。その中から、小田原北条氏の家臣、
下野国佐野天徳寺という勇将の話をご紹介させていただきます。
ある時、琵琶法師に平家物語を語らせ、「特にあわれな話が聞きたい。
そのように心得よ」と注文をつけると、法師は「承知しました」と、
佐々木高綱の宇治川先陣争いの一節を語り始めました。
天徳寺は涙を流しながら聞いていましたが、終わると
「もう一曲、今のようなあわれな話を聞きたい」というので、
法師は那須与一の扇の的の段を語りはじめました。
するとその半ばで天徳寺は、また涙をはらはらと落としたのです。

後日、側近の者たちが「先日の『平家』は、二曲とも勇ましい手柄話だと
思っていましたのに、殿は感涙されて声を詰まらせておられました。
皆でそれはどうしてなのだろう、と話し合っています」というと天徳寺は驚いて、
「たった今までお前たちを頼もしく思っていたが、今のひと言で
がっくりしたではないか。まず佐々木高綱のことを思い浮かべてみろ。
弟の範頼にも寵臣の梶原景季(かげすえ)にも頼朝が与えなかった名馬、
生食(いけずき・池月)を特別に賜った以上、
宇治川で先陣を遂げられなかったら、生きて帰るわけにはいかぬ。と
死を覚悟して出陣した高綱の志こそがあはれというものではないか」と
涙をぬぐいながら言い、さらに続けて
「また那須与一も大勢の中から選びだされ、源平両軍が鳴りをしずめて見守る中、
ただ一騎、海に馬を乗りいれ的に向かう。もし射損じれば味方の名折れ、
馬上にて腹かき切って死のうと決意したその心中を察して見よ。
弓矢とる者ものほどあわれなことはない。
自分はいつも戦場に赴く時は、
佐々木高綱や那須与一と同じ気持ちで槍を取るから、『平家』を聞くときも
彼らの心情が察せられ、泣けてきてしまうのだ。」と語ったということです。
源義経一ノ谷へ出陣(七条口・老ノ坂峠・那須与市堂・義経腰掛岩)  
那須与一の墓・北向八幡宮・那須神社(その後の与一の足跡)  
『アクセス』
「那須与市堂」亀岡市下矢田町東法楽寺2 JR亀岡駅からバス矢田口下車徒歩約13分
(バスの時刻にご注意ください。)
JR亀岡駅から府道6号線(高槻・茨木―亀岡線)を南下し、
下矢田の交差点からさらに進むと、右手に法楽寺山という小高い丘があります。
『参考資料』
「京都府の地名」平凡社、1991年 「京都府の歴史散歩」(下)山川出版社、1999年
「栃木県歴史人物事典」下野新聞社、1995年 梶原正昭「古典講読平家物語」岩波書店、2014年 
「平家物語がわかる」朝日新聞社、1997年







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那須与一の墓が京都市の即成院(そくじょういん)にあります。
即成院は真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)の塔頭の一つで、
即成就院(そくじょうじゅいん)とも伏見寺ともよばれています。
泉涌寺の塔頭は現在九ヶ寺あり、その大半は中世他所より移されたものが多く、
古文化財や伝説を持つものが数多くあります。

『雍州府誌』によれば、即成院は正暦二年(991)に恵心僧都が伏見桃山に開いた
光明院が始まりで、寛治元年(1087)、関白藤原頼通の子で伏見長者といわれた
橘俊綱が同所に邸を建て、光明院を持仏堂にしたものであるという。

その後、即成院は荒廃しましたが、後白河院追悼のため、建久六年(1195)
宣陽門院と高階栄子によって再興され、下野国那須庄が寺領として寄進されました。
このあたりの事情から那須与一の伝承が生まれたと推定されています。
高階栄子(丹後局)の夫・
平業房は後白河院の近臣で、清盛が院を鳥羽殿に
幽閉した際に免官となり、伊豆に流されやがて殺害されました。
未亡人となった彼女は院の寵愛を得て、皇女宣陽門院(せんようもんいん)を生み、
後白河院の晩年の治世に権勢を振るいます。

秀吉の伏見城築城に当たって伏見区深草に移され、さらに明治35年に
現在地に移され、昭和10年にもとの名の即成院となりました。
二転三転としたお堂とともに、
那須与一にまつわる伝説もそのまま現在の即成院に移っています。

即成院は泉涌寺の総門を入って左手にあり、
門の脇には「元光明山即成院」と刻まれた石碑がたっています。

 即成院の山門の上には、鳳凰が据えられています。 

寺伝によれば、与一は下野国から屋島に出陣する途中、突然病に罹りましたが、
当院に参籠し、本尊の阿弥陀如来に病気平癒の祈願をしたところ病は癒え、
屋島合戦で戦功をたてました。
京に戻り再び即成院に参籠した後、
まもなく出家し34歳で当院の阿弥陀さまの前で亡くなったとしています

本堂に安置されている国重要文化財の本尊阿弥陀如来像及び
同じく重文の二十五菩薩座像は明治初年に伏見から移転しました。

二十五菩薩練供養が毎年十月に行われ、多くの参拝者で賑わうようです。
本堂を極楽浄土に見たて、地蔵堂を現世になぞらえ、
その間に高さ2m余の橋を架け、菩薩の面をつけ、金襴の菩薩の衣装をまとった
25人の子供たちが来迎和讃にあわせて橋の上を練り歩きます。
平成二十八年十月十六日(日) 午後一時

地蔵堂



石碑には「那須與市之墓参道」に刻まれ、本堂裏手に那須与一の墓といわれる
巨大な宝塔が小さな堂内に安置されています。






願いが的へ
与一の石塔の傍には、願い事を書いた扇が奉納されています。
与一はこの寺の阿弥陀如来を信仰したことにより、屋島の戦いで武名を挙げたとされ、
これに因んで祈願をすればたちどころに成就するといわれています。

高さ3メートルにも及ぶ石造の宝塔は伏見寺の遺構とされ、
石材は軟質の松香石で、今は摩滅してわかりませんが、円形の軸部には
釈迦と多宝の二仏が並んで坐るさまをあらわしていたとされています。
『山州名跡誌』は、那須与一の石塔と記しています。
一方、『石山行程』は橘俊綱の塔としています。

那須与一の墓・北向八幡宮・那須神社(その後の与一の足跡)  
屋島古戦場を歩く与一扇の的(祈り岩・駒立岩)  
那須与一の郷(那須神社)  
一の谷へ出陣途中、亀岡で病になったという与一
那須与市堂  
『アクセス』
「即成院」京都市東山区泉涌寺山内町28
JR奈良線・京阪電車「東福寺」駅下車 徒歩約10分

 市バス「泉涌寺道」下車 徒歩約7分
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社、1987年 「郷土資料事典(26)京都府」人文社、1997年

竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂、昭和55年 
「京都府の歴史散歩」(中)山川出版社、2003年 「京の石造美術めぐり」京都新聞社、1990年
上横手雅敬「鎌倉時代 その光と影」吉川弘文館、平成7年



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屋島の戦いで、那須与一がゆれ動く平家方の小舟にかかげられた扇を
見事一矢で射落とし、両軍の喝采をあびた話はよく知られています。
与一は矢を射る前に目を閉じて「南無八幡大菩薩、わが故郷の神々、日光権現、
宇都宮、那須のゆぜん大明神、どうぞあの扇の真ん中に射させてください。
これを射そんじたら、弓を切り折って自害し、誰にも二度と顔を合わせません。もう一度
本国へ帰してやろうとお思いなら、この矢を外させないで下さい。」と必死に念じました。


南無八幡大菩薩の「南無」は、神仏に帰依することを表す言葉で、「八幡大菩薩」は
那須神社とされています。「日光権現」は下野国(栃木県)二荒山の三所権現で、
下野国の一の宮として、古くから崇拝されていました。ついで「宇都宮」は下野国
宇都宮市にある二荒山神社、「那須のゆぜん大明神」は下野国那須岳の登り口にある
那須温泉(ゆせん)神社で、いずれも与一にとって、故郷の産土の神々です。

前方の森の中に見える平家の真紅の扇に狙いを定める与一

『源平盛衰記』によると、「義経はまず畠山重忠を射手に命じましたが、
重忠は持病の脚気などを理由に辞退し、彼の推挙で選ばれた与一の兄の十郎は、
一の谷合戦で弓手の肘をつき負傷していたので、代わりに年若い弟を推しました。
仕損じては源氏末代の恥になると、与一は何度も辞退しますが、
聞き入れられず、意を決して馬を海中に乗り入れましたが、内心は
不安と緊張で一杯でした。この時、与一は『平家物語』では二十歳ぐらい、
『源平盛衰記』や『那須氏系図』では、十七歳とされています。

那須与一宗隆(生没年不詳)は、那須資隆の十一男として誕生し、
「与一」は「余一」で、十に余るという事から名付けられました。
扇を射た功により、丹波・信濃・若狭・武蔵・備中など
五ヶ所に荘園を賜り、七代目の那須家惣領の身分を与えられましたが、
病のために若くして亡くなったとされています。

那須氏は藤原道長の孫道家の子貞信を祖とし、下野国那須野が原(栃木県那須地方)に
勢力を持った豪族で、与一の父資隆はその六代目にあたります。

那須神社は仁徳天皇の時代(4C)の創建で、延暦年間(782~806年)に
征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀り、金丸八幡宮と号したといわれます。
屋島合戦で手柄を立てた那須与一が土佐杉を使用して社殿を再建。
奉納した太刀は社宝として伝来しています。
那須氏没落後、戦国期以降は、黒羽(くろばね)城主大関氏の氏神としてあがめられ、
大関氏によって社殿が再興され、明治六年(1873)に那須神社と改められました。

JR那須塩原駅前から道の駅までバスで50分ほどです。





那須神社境内図

一の鳥居

二の鳥居

長い参道の両脇には杉並木が続いています。

那須神社説明板と手水舟

楼門は国重要文化財に指定されています。

大きな朱塗りの桜門が荘厳な雰囲気を醸し出しています。

八幡宮の扁額

拝殿

拝殿の奥には、国重要文化財に指定されている本殿があります。

那須神社は通称金丸八幡といいます。

奥の細道の旅で、那須路に赴いた芭蕉は、二人の弟子、黒羽の浄法寺図書(ずしょ)と
その弟の翠桃(すいとう)宅に滞在し、那須八幡宮に参詣しました。
与一が屋島の合戦で、扇の的を射落とした時、「なかでも我国の氏神である
八幡さまと誓ったのは此神社です。」と聞けば、感慨はひとしおである。と
『おくの細道』に記され、境内は国名勝「おくのほそ道」景勝地に指定されています。
黒羽では、芭蕉は雲巌寺(うんがんじ)を見学し、この寺にある禅の師である
仏頂(ぶっちょう)和尚の旧居跡を訪ねたり、那須湯本の那須温泉神社に参拝、
また殺生石を見学するなどして、十四日間に及ぶ長逗留をしています。

大田原市には中世から近世にかけて那須氏の拠点が置かれ、
ここで那須与一が誕生・成長したと伝えられています。
「道の駅那須与一の郷」に併設されている「那須与一伝承館」には、那須家から
大田原市に寄託された与一が扇の的を射た際に身に付けていたとされる
「太刀銘成高(しげたか)」や古文書、上杉謙信や豊臣秀吉が
那須家に送った書簡・伝来の絵など貴重な資料が展示してあります。
また館内の劇場では、映像とからくり人形風ロボットを組み合わせ
屋島合戦での与一の活躍が紹介されています。

道の駅の建物は
横に並び、屋根は大きな扇の形をしています。
屋島古戦場を歩く(那須与一祈り岩・駒立岩)  
那須与一の墓(即成院)  
那須与市堂  
アクセス』
「那須神社」栃木県大田原市南金丸1628 電話 0287-22-3281
「道の駅那須与一の郷」下車、約3分。
秋の例大祭・舞楽の奉納・流鏑馬[日時]  平成28年9月19日(月・祝)予定
詳細は 大田原市観光協会 へお問い合わせ下さい。 

「那須与一伝承館」栃木県大田原市南金丸1584番地6 「道の駅那須与一の郷」下車すぐ
伝承館は観覧料大人300円。午前9時~午後5時(入館は4時半まで)。
第2、第4月曜(祝日の場合は翌日)と1月1~3日休館。
電話 0287-20-
0220 

『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年
梶原正昭「古典講読 平家物語」岩波書店、2014年「栃木県の地名」平凡社、1988年 
「栃木県大百科事典」下野新聞社、昭和55年 「古典を歩く奥の細道」毎日新聞社、1988年
関屋淳子「おくのほそ道」ピエ・ブックス、2010年

 



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大阪市淀川区の光用寺には、悪七兵衛景清の墓があります。
光用寺は天平19年(747)行基が創建したと伝えられる古刹で、暦応年間(1338~42年)には、
赤松範村が「比翼さつき」と呼ばれる珍しい品種のさつきを奉納し、
江戸時代には「さつき寺」の名で親しまれました。

阪急電車南方駅前



光用寺山門



本堂裏に大小七つの塚が並んでいます。
ご住職から「七つの塚のうち二番目に大きいのが景清の墓と伝わっているが、
他は誰の塚かわからない。」と伺いました。

壇ノ浦合戦で平家の武将の多くが海に沈んだ中で、生き延びた平景清には、
各地にさまざまな伝承が残っています。
生目神社のある宮崎市にも景清廟があり、
いつ誰がこの墓を建てたのかは不明です。

景清が疑心暗鬼になって日本達磨宗を開いた叔父の能忍を誤って殺したのは、
建久五(1194)年後半から同六年と推察され、その後の景清の消息は
明らかではありませんが、『延慶本・平家物語』には、「天下が平定された後、
悪七兵衛景清は降人となって参上し、当初、和田義盛に身柄を預けられるが、
態度が不遜で一向に従わないので、義盛は手を焼き、
八田知家に預かり役を交代してもらった。
景清は後に法師となって常陸に住み、東大寺供養の日の
建久六年(1195)三月十二日、絶食して死んだ。」と記されています。

景清としては、もはや平家再興の望みは消え失せ、一方では、十年もの
長きに渡る逃亡生活にも疲れ果て、中でも匿ってくれた叔父を殺害したことが
逃亡潜伏生活の転機となったようです。頼朝は景清の忠節を惜しみ、
仕官を勧めたと思われますが、いったん降伏した上で自害しようという
景清の決心は固く、悲劇的な末路が伝わっています。

後に景清は『平家物語』から溢れだし、歌舞伎・古浄瑠璃・浄瑠璃・
幸若舞・講談・絵草子の主人公となり、鮮やかに描き出されます。
浄瑠璃や謡曲には、何度も失敗を重ねながら、それでもなお頼朝の首を
執念深く狙うという内容の作品があります。江戸時代、京や大坂の舞台では、
源平合戦を題材にした浄瑠璃・歌舞伎・能などが人気を博し、
景清は鎌倉幕府に反逆した男として広く知られ、大衆の人気を集めました。
景清の墓は、古典芸能に描かれている不撓不屈の英雄を
哀悼する人々によって、
作られたのではないでしょうか。

景清伝説地(景清爪形観音・東大寺転害門・景清土牢)  
景清伝説地(阿古屋塚)  
景清伝説地(景清社)  
屋島古戦場を歩く(景清の錣引き)  
平景清伝説地(小松公園・かぶと公園・泪の池遊園)  
アクセス』

「光用寺」大阪市淀川区西中島7-8-5; 大阪市営地下鉄御堂筋線新大阪駅から西方へ0.3km
阪急電車京都線「南方」駅下車 北方へ0.9km(徒歩約15分)
『参考資料』
角田文衛『平家後抄 落日後の平家』(下)講談社学術文庫、2001年
川合康編「平家物語を読む(平家物語と芸能)」吉川弘文館、2009年 
三善貞司「大阪伝承地誌集成」清文堂、平成20年





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