平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




三浦半島の中央部に位置する三浦氏の本拠衣笠城の周辺には
一族の建立した寺院が点在しています。
佐原城址にほど近い岩戸にある満願寺もその一つです。
現在は竹林を背景とした山懐に抱かれひっそりと佇む小さな寺ですが、
昭和63年の境内発掘調査により、今より数倍の広さをもつ寺域であったことが判り、
創建当時は堂々たる寺院だったと思われます。








 本堂右手の収蔵庫には佐原義連の面影を写すという像高2,24mもある
観音像(国重文)が安置されています。義連が平氏追討に赴く際、自らの姿を
運慶に彫らせ戦勝を祈願し、願が満ちたことから寺号を満願寺と称したと
伝えられていますが、実際は運慶派の地方仏師の作と考えられています。
収蔵庫には、この他に同じように大きな地蔵像(国重文)や
毘沙門天、不動明王像が残っています。


「 市制施行七十周年記念 横須賀風物百選 満願寺の諸仏と佐原十郎義連の墓
臨済宗岩戸山満願寺は、三浦大介義明の子佐原十郎義連によって
建てられたと伝えられています。
本堂の左の石段をのぼると観音堂があります。
そこには、もと、等身大以上の観音菩薩(国指定の有形文化財)、
地蔵菩薩(同)、不動明王(市指定の有形文化財)、
毘沙門天(同)の立像が安置されていました。
現在、それらは、本堂右手の収蔵庫に安置されています。
観音菩薩立像は、十九歳の義連が平家追討のため、
西国へおもむくにあたり、鎌倉時代の代表的な仏像彫刻家運慶に
自分の姿を彫らせたと寺伝にあります。
また、三浦古尋録(こじんろく)と言う書物には、
「佐原十郎ヲ観音ニ祭り巴御前ヲ地蔵ニ祭り和田ノ義盛ヲ比沙門ニ祭り
朝比奈ノ三郎ヲ不動ニ祭ルト云四尊トモ運慶ノ作」と記されています。
佐原十郎義連は、十九歳で源平の合戦に参加し、一ノ谷のひよどり越では、
一番乗りの手柄をたてた勇者で、弓の名手でもありました。
また、落ち着きのある武士で、頼朝や北条家から深く信頼されていました。
その証拠に、頼朝の寝所の護衛を命じられたり、
北条政子の弟時連が元服の折に烏帽子親をつとめたりしています。
義連は建久二年(一一九一)、七十五歳でこの世を去りました。
そのとき、多数の家臣が義連を慕って死んだと言われています。
観音堂の右手に、義連の墓と伝えられる五輪塔があります。
空・風・火・水・地輪で構成された鎌倉時代の様式を備えています。
ただ残念なことに、空・風・地輪は、のちになって補ったものと
伝えられています。」(現地説明板)





本堂横の石段の上り口には、松尾芭蕉の句碑がたち、
♪まづたのむ椎の木もあり夏木立 と刻まれています。

芭蕉は菅沼曲水に提供された幻住庵に籠り

『幻住庵記』を書きましたが、これはその結びの句で、
浦賀奉行所与力で俳人でもあった中島三郎助の筆によるものです。
奥羽行脚の後、近江湖南の石山の奥にある幻住庵に入った芭蕉は、
庵の前にある夏木立の中に大きく枝を広げている椎の木に
さまざまな思いを重ねながら、何はともあれ、
この木陰で長旅に疲れた身を休めることにしようと詠んだのです。



石段を上りつめると、観音堂側の瓦塀の中に五輪塔があり、
義連の墓と伝えられています。





鎌倉時代の貞応三年(1234)、義連の子、家連が京都泉涌寺の
開山俊芿(しゅんじょう)を横須賀市佐原の三浦館に招いて
梵宇(寺)を供養しています。その梵宇とは、満願寺のことです。
家連は紀伊守護や肥後守を歴任していますが、
このような高僧を招くことができた往時の繁栄ぶりが偲ばれます。

鎌倉時代は権力闘争が絶えない時代でした。
鎌倉を舞台にして梶原景時・比企能員・畠山重忠父子・和田義盛などの
有力御家人が次々に北条氏に倒されましたが、北条氏に手を貸したのは
三浦氏嫡流の三浦義村(義澄の子)です。
三浦一族の和田義盛は北条氏と対立して滅亡、次いで三浦氏嫡流
三浦泰村(義村の子)も宝治の乱で北条氏に敗れて滅びました。
この時、一族の行動に加わらずに生き残ったのが、
北条氏の縁に繋がる義連の子、盛連の遺子六人です。

宝治の乱後、三浦氏一族の広大な領地は削られ、
勢力範囲は三浦半島南部に限定され、佐原城・衣笠城は廃城となりました。
義連は会津にも所領があり、会津に入部した子孫は後に、
伊達氏と並び称される有力大名葦名氏となり、
福島県喜多方市熱塩(あっしお)加納町満願寺(廃寺)にも、
伝佐原義連の五輪塔が残されています。

義連の居城址  佐原義連 (佐原城址アクセス)  
   『アクセス』
「満願寺」横須賀市岩戸1-4-9
京急線北久里浜駅よりYRP野比駅行バス「岩戸」下車徒歩7、8分
バス停の近くから北西に入る道を小川に沿って進むと右手に見えてきます。
『参考資料』
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社 「三浦一族と相模武士」神奈川新聞社 
「三浦一族の史跡道」三浦一族研究会 上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 
「神奈川県の歴史散歩」山川出版社 
「神奈川県の地名」平凡社
 「検証日本史の舞台」東京堂出版 魚住孝至「芭蕉最後の一句」筑摩選書 

 



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佐原城の主は「鵯越の逆落し」の立て役者、佐原十郎義連です。
義連は相模の豪族三浦義明の末子で、一ノ谷の鵯越で絶壁に立った時、
「何のこれしきの坂、これは三浦の方の馬場よ。」と
真っ先に駆け下りた勇者で、弓馬の名手としても知られています。

頼朝の父義朝は、鎌倉の亀ケ谷に居宅を構え東国に基盤を持ち、
義朝の長男・鎌倉悪源太義平と呼ばれた義平の母は三浦義明の娘でした。
義明は頼朝が挙兵すると、一族とともにいち早く同調しました。
頼朝は三浦半島の三浦氏、房総半島の千葉氏の
強力な支援を得て挙兵を決断したと思われます。

頼朝が鎌倉に入って間もなくの頃、三浦氏の本拠地を訪ねたことがありました。
この時、頼朝に対し皆が下馬する中で、当時の関東きっての大豪族
上総介広常だけは、馬から下りずに一礼しただけでした。
広常に向かって、まだ年若い義連が無礼な態度を咎め、その宴席で
広常と三浦義明の弟にあたる岡崎義実とがささいなことで喧嘩した時、
二人の間に割って入りその場をおさめたのも義連でした。


また『義経記』には、こんな逸話が載せられています。
義経の子を宿していた静御前は、北条時政によって探し出され、
母と共に鎌倉に護送されました。
頼朝に請われて鶴岡若宮八幡宮で歌舞を舞うことになり、
静御前が舞うとの評判に、当日は群集が門前に市をなすほど詰めかけ、
追出してもすぐに幕を潜って入ってくるので、大変な騒ぎになりました。
その時に義連が機転をきかせて廻廊の真ん中に
三尺(約90㎝)の高さの舞台を造らせました。
なにぶん急なことであり、若宮の修理用に積んであった材木を運ばせ、
にわか作りの舞台を唐綾や文様を織り出した紗で飾り、
頼朝を喜ばせたとあり、ここでは舞台を美しく飾る才能も見せています。

文治五年(1189)奥州合戦では、大手軍の先陣に属して奮戦し、
頼朝から会津四郡の地を与えられています。
武勇と思慮を兼ね備えた義連は、頼朝のお気に入りだったといわれ、
側近として常に近仕し、建久元年(1190)、東大寺再建供養のため、
上洛する頼朝に従い、勲功賞として左衛門尉に任じられました。
和泉・紀伊両国の守護も務め、
さらに遠州灘に面した遠江国城飼郡笠原荘(静岡県掛川市辺)の
惣地頭兼預所(あずかりどころ)となり、本拠地の三浦半島を
海上ルートでつなぐネットワークを形成していたことになります。

聖徳院奥の標高30mほどの台畑とよばれる南から北に舌状に
突き出た台地が佐原義連の居城址と伝えられる佐原城址です。
三浦半島は平地が少なく、起伏に富んだ地形で
小高い山が続き半島全体が要害の地となっています。
三浦一族は半島の中央部に位置する衣笠城を馬蹄形に取り囲むようにして、
半島にいくつかの城を構えて防備を固め、
佐原城は馬蹄形の大手入口にあたる重要な位置を占めていました。
平安時代末には、台地の東側は久里浜の深い入り江が
佐原城近くまで入り込んでいて、義連の本拠地の三浦郡佐原は、
入り江の対岸にあった怒田城とともに、三浦水軍の拠点でもありました。

いま、佐原城址の台地には、一面に畑が広がり、
見下ろすと麓は家並に埋めつくされ、僅かに雑木の中に建つ
「佐原十郎義連城跡」と刻まれた石碑だけが往時を偲ばせます。 
佐原城址の碑は、大変わかりにくい場所にあります。
聖徳院から石碑までの道順を画像にしました。

聖徳院





聖徳院からガードをくぐります。







やっと人一人通れる道幅です

細い道を上りきると視界が開けて畑に出ます。



左側の道を200mほど進むと佐原城跡の石碑があります。
車は別のルートから上るようです。







 佐原城址(現地説明板)
 康平六年(1063)、前九年の役の戦功により、
三浦半島を領地として与えられた平大夫為通は、三浦の姓を名乗り、
現在の衣笠町に衣笠城を築きました。
以後、数代にわたり三浦半島の各所に一族を配置して、衣笠城の守りとしました。
 この台地は、第四代三浦大介義明の子佐原十郎義連
(生年不詳~建仁三年・1203年)が、城を築いた所と伝えられています。
現在、この台地を中心に残っている地名に、
的場・射矢谷・殿騎・城戸際・駿馬入・腰巻などがあり、
自然の地形を上手に利用して山城を築いた当時の様子をしのばせてくれます。
 この台地の前方、北から東にかけての地域は、内川新田と呼ばれ、
工業団地になっていますが、当時は深い入り江をはさんで、
対岸に怒田城がありこの佐原城とともに衣笠城の東面を固めていました。
 また、この台地は、昭和五十一年の一部発掘調査で、
弥生時代中期(約2000年前)から飛鳥時代(約1400年前)にかけての
村の跡であることも明らかになっています。
七、八軒の家があって、この谷戸付近に初めて水田を開発し、
稲作農業を営んでいたと考えられています。  横須賀市 
佐原義連が活躍した義経の鵯越の逆落し(須磨浦公園) をご覧ください。 
佐原十郎義連 の墓 (満願寺)  
『アクセス』
「聖徳院」横須賀市佐原3-7-1

北久里浜駅から 京急バス「佐原三丁目」下車 徒歩5分
 『参考資料』
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社 「三浦一族と相模武士」神奈川新聞社 
「三浦一族の史跡道」三浦一族研究会 「神奈川県の地名」平凡社
 「検証日本史の舞台」東京堂出版 現代語訳「義経記」河出文庫 

 



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一ノ谷(現、神戸市須磨区一ノ谷町1~5丁目)は、
鉢伏(はちぶせ)山の麓、一ノ谷川より西側の地域です。
源平古戦場として知られ、安徳天皇の内裏跡や逆落しがあります。
搦手義経軍が断崖絶壁を駆け下り鬨の声を挙げたのは、
今の一ノ谷町1~2丁目付近、鉄拐(てっかい)山・鉢伏山の
南東の急斜面が須磨の海岸に迫っている場所です。

須磨区一ノ谷町2丁目付近と鉢伏山

一ノ谷の西門は、鉄拐山・鉢伏山の 山脈がつきるところの
高台に木戸口を設け、その大将軍は薩摩守忠度でした。
鉢伏山南麓には、東から一ノ谷・二ノ谷・三ノ谷と呼ばれる谷があり、
一ノ谷をさかのぼり、少し左に入ったところは「赤旗の谷」といわれ、
平家の赤旗で満ちていたところと伝えられています。
かつて一ノ谷合戦で激しい戦いを繰り広げたこの地には、
合戦にまつわる史跡や伝説が数多く残っています。

また、山と海に挟まれた須磨は、古くから白砂青松の
景勝地として知られ、歌枕の地としても親しまれています。
 

須磨浦公園駅から東へ進むと源平合戦800年記念碑が建っています。

さらに東へ向かうと、須磨浦公園の美しい松林の中に、
昭和9年に神戸市が建てた「源平史蹟 戦(いくさ)の濱」と
刻まれた石碑があります。

一ノ谷からこの辺一帯の海岸は、激戦地となったことから
「戦いの濱」と呼ばれています。
寿永3年の義経の逆落としに因み、
毎年旧暦2月7日の早朝には軍馬のいななきが聞こえるという。

一ノ谷と戦の濱
「一ノ谷は鉄拐山と高倉山との間から流れ出た
渓流に沿う地域で、この公園の東の境界にあたる。

1184年(寿永3年)2月7日の源平の戦いでは、
平氏の陣があったといわれ、この谷を200mあまりさかのぼると、
二つに分かれ、東の一ノ谷本流に対して、西の谷を赤旗の谷と呼び、
平家の赤旗で満ちていた谷だと伝えられている。
一ノ谷から西一帯の海岸は「戦の濱」といわれ、毎年2月7日の夜明けには
松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられ、
ここが源平の戦いのなかでも特筆される激戦の地であったことが偲ばれる。
 神戸市パートナーシップ活動助成により作成
須磨浦通6丁目自治会」(現地説明板より)


義経の奇襲攻撃により、平氏の一ノ谷の陣営は総崩れとなり、
源氏勢が放った火は、天を焦がすまでに燃え広がり、
多くの武将が討たれ、また海上の助け船に乗ろうとわれ先に敗走します。
それを追って源氏の武者たちが手柄を競い合い、
浜辺は凄惨な殺戮の場となりました。

「戦の濱」の碑がある辺から北(山側)に進み、
山陽電鉄の線路を越えてつづら折れの急坂を上って行くと、
高台の住宅街の一角に一ノ谷公園(内裏跡公園)があります。

『源平と神戸』には、「寿永3年(1184)正月、
平家が屋島から福原に帰ってきたとき、
一時ここに行宮をたてて安徳天皇を迎えた。」とあります。
この宮跡から西隣にある高台は、平氏の仮屋があったところですが、
今はマンションや住宅が建ち並んでいます。


「福原鬢(びん)鏡」では、安徳天皇皇居跡としながらも、
平家の諸軍勢がこもった場所で土手の跡が今も残っているとしています。
安徳天皇が実際にここを内裏としたかどうかは定かでは ありませんが、
土地の人はその言い伝えを大切に守り継いでいます。

安徳天皇を祀る安徳宮

安徳宮
御祭神 安徳天皇(第八十一代)1178~1185
源平の戦で源氏に追われられた安徳帝は西走の途中、
一ノ谷に内裏を置かれたと伝えられている。
この地に安徳帝のご冥福を祈るために祀られたのが安徳宮である。
安徳帝は寿永四年(1185)下関壇ノ浦の戦いにて
祖母二位の尼(平清盛の妻・建礼門院の母)に抱かれ、
八才で海中に身を投じられた。

真理胡弁財天(龍神)

安徳帝は平家物語にあるように「海の下にも都があります」との
祖母二位の尼の
言葉と共に千尋の底へ鎮まれました。
海の下の都とは龍宮であって、
龍宮の主は龍神であり、
安徳帝の御守護神であると伝えられております。

公園奥には安徳天皇の冥福を祈って安徳宮が祀られ、

その前には、モルガン・ユキが奉納した石灯篭があります。

モルガン灯籠

この一対の灯籠はモルガン・ユキ(京都の美妓「雪香」旧姓加藤ユキで、
明治37年(1904)日露戦争の始まる直前に
アメリカの大富豪モルガン家の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンに
熱望され国際結婚した人。)が、
この辺りが異人山とよばれた頃この東に住んでいた。

信仰心のあついユキは宗清稲荷・安徳宮の社前に
2基の石灯籠を献納した。

一基に加藤コト、モルガンユキと母子の名を並べて刻み、
一基は”明治四十四年九月十日”と刻まれている。
平成十三年(2001)三月 史跡保存会(現地説明板より)


「安徳帝内裡趾傳説地」の石碑が建っています。

2歳で即位した安徳天皇は、壇ノ浦の戦いで二位の尼(清盛の妻)に抱かれ、
平家一門とともに関門海峡に沈んでいった8歳の幼帝です。

平氏の総大将宗盛(清盛の三男)は、一の谷合戦の三日前に
清盛の三回忌を海上で営み、上陸する間もなく突然の源氏軍の来襲に、
そのまま安徳天皇や建礼門院らと沖合の船で、戦いの情勢を見守っていたので、
実際にここに内裏があったのかどうかはっきりしませんが、
地元では、この地に一時安徳天皇の内裏があったと伝えています。

後白河法皇は源氏に対して平氏追討の命令を発する一方、戦いの直前まで、
平氏との間で三種の神器の返還をめぐる和平交渉を進めていました。
後白河法皇から宗盛は「講和の話し合いをしたい。
福原へ勅使を送るつもりだ。勅使が都に戻るまで
源氏には武力行使をさせない。」との連絡を受けていました。
講和の相談のために静賢法印(平治の乱で殺害された信西の子)を
2月8日に派遣する。という内報が平氏側に伝わりましたが、
使者の内命を受けていた静賢法印が辞退してしまい、
法皇は和平の提案をしておきながら、
結果的に平氏を騙討ちにしたことになりました。

そのような交渉は休戦状態のもとでしか進められないはずであり、
平氏側はこの内報を信じ、源氏軍が攻め寄せてくるとは、
全く想定せず油断していたようです。
同月7日、
突如源氏軍が襲来し、意表をつかれた形となりました。
法皇からの申し入れを信じ、敵襲に備えておかなかったのは、
宗盛の大失敗でした。これが平家方が惨敗した一因とされています。
宗盛が後白河に宛てた抗議の書状が
『吾妻鏡』元暦元年(1184)2月20日条に記されています。

 『アクセス』
「戦の濱の碑」山陽電鉄「須磨浦公園」下車、徒歩約10分 
須磨浦公園の東端辺にあります。
「安徳天皇内裏趾伝説地」兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町2丁目
山陽電鉄「須磨浦公園」下車、徒歩約25分
2007年4月30日には、「戦の濱」の碑辺りに
安徳天皇内裏趾への小さな道標がありました。
『参考資料』
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 安田元久「後白河上皇」吉川弘文館
 「兵庫県の地名」(1)平凡社 神戸史談会編「源平と神戸」神戸新聞出版センター
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社 「源平50選神戸」神戸新聞社
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略」角川選書374 
現代語訳「吾妻鏡(平氏滅亡)」吉川弘文館 
前川佳代「源義経と壇ノ浦」吉川弘文館



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一ノ谷合戦は事前の予想では、兵力に勝る平家が有利と言われていましたが、
結果は平氏軍の惨敗に終わりました。この合戦の勝敗を決めたのは、
思いもよらぬ平家背後の急坂を馬で駆け下った義経の逆落しです。

一ノ谷は現在の神戸市須磨区にある地名で、平家が城郭を構えたところです。

義経は丹波路から一ノ谷に向かい、三草山の平氏軍に夜襲をかけて撃破した後、
敗走する敵を追いながら南下しました。
途中で軍を二つに分け、土肥実平に7千の軍兵をつけ
一ノ谷の西方(神戸市垂水区塩屋辺)から攻撃させることにしました。
高尾山(現・鵯越墓苑内)あたりに来た時、再び軍勢を二分し、
この辺りの地理に詳しい多田行綱に主力を預け鵯越の本道を進軍させ、
自身は精鋭70騎を率いて西南に折れ、山中深くかきわけて獣道を急ぎます。

敵の意表を突き、平家の陣を背後の急峻絶壁から攻めようとする奇襲作戦です。
ここは鵯越の本道と違い、ほとんど人馬の通れない深山で、
道案内したのがこの山の猟師の息子鷲尾三郎義久(経春とも)です。
以後、鷲尾三郎は義経の忠実な郎党として最後までつき従い、
義経が頼朝に追われて奥州に逃れた時、運命をともにしています。
鷲尾三郎義久(義経進軍三草山から一ノ谷へ)  

寿永三年(1184)2月7日早朝、東西の城戸(木戸)で始まった戦は、
源平両軍互いに譲らず、勝敗の行方が定まらない中、夜を徹して
行軍した義経は、多田畑(たいのはた)に出て、午前8時過ぎに
一ノ谷の城郭を眼下に見下ろす断崖の上に出ました。

義経はこの崖を駆け下りることができたなら、勝機はあると確信し、
試しに鞍を置いた馬を数頭崖から追い落としてみると、足を折って
転がり落ちる馬もいましたが、無事に駆け下りる馬もいました。
それを見た義経は怯む味方を叱咤して「つづけ、つづけ」と下知しながら、
真っ先に駆け下り、途中、平坦な場所で一旦馬を止めました。

ところが、そこから下を覗くとさらに険しく、
苔むした大岩石が垂直に45mほども切りたっています。
降りるに降りられず、上ることもできず、さすがの義経も躊躇し、
武者らは互いに固唾をのんで眺めていました。

すると一行の中から、三浦一族の佐原十郎義連(よしつら)が前に進み出て
「我らの本拠地三浦では、朝夕、このような場所で狩りをしている。
こんな坂は三浦の馬場よ。」と言うなり真っ先に落としたので、
義経がこれに続き、続いて大勢の者が一気に駆け下りますが、
あまりの恐ろしさに荒武者達も目を閉じたまま
手綱を固く握りしめ、がむしゃらに落として行きます。
そのさまはとても人間わざには思えず、
まさに鬼神の成せるわざと見えました。下りきらないうちに
どっと挙げる鬨の声は、山々にこだまして数万騎にも聞こえます。

背後の絶壁からの攻撃を全く予想してなかった平家陣は、
一気に駆け下りてくる義経の軍勢に大混乱となります。
これが一ノ谷合戦でよく知られている義経の逆落しです。
近藤好和氏は、「それは鉢伏山や鉄拐山(てっかいさん)からと
いうことになる。」と述べておられます。(『源義経』)
鉢伏山は標高260mの山で、
須磨浦公園~鉢伏山~旗振山~鉄拐山と続いています。

そして、村上判官代基国の軍勢が平家の屋形に次々と火を放つと、
折からの激しい風に煽られて火は瞬く間に燃え広がり、
武者たちはたまらず我先にと、海辺に待機する船へ逃れようとします。

一艘の船に武具をつけた武者が4、5百人も乗ろうとするので、
大船三艘があっという間に沈んでしまい、
「以後、身分ある者は乗せても雑兵は乗せるな」との命が下され、
先に乗った侍が後から乗ろうとする雑人を太刀や薙刀で容赦なく打ち払います。
それでも何とか助かりたいと、船端にしがみつく者の腕や肘を
太刀や薙刀で斬り払ったので、辺りの海は一面真っ赤に染まりました。
こうして義経は平家軍を一気に打ち崩し、平氏軍は屋島へと落ちていきました。

山陽電鉄「須磨浦公園駅」から鉢伏山山上へとロープウェイが通っています。
ロープウェイの窓から眺めると、山が海に迫り、深い谷が幾筋も切りこみ、
下には険しい崖道が見え隠れしています。義経隊が騎馬で駆け下りた崖です。

山陽電車須磨浦公園駅からロープウェイで鉢伏(はちぶせ)山上駅へ







義経は須磨浦の一ノ谷背後にある断崖から、大将軍忠度(清盛の末弟)が守る
西木戸口を急襲しました。(鉢伏山山頂より望む)



須磨浦公園の展望台から見た一ノ谷、戦の濱(浜)
馬に乗って義経が駆け下ったところです。

まっすぐ先が和田岬、その左手が福原です。

西方には、淡路島そして明石海峡大橋が遠望できます。

山頂の回転展望閣には軽食と喫茶があり、360°の景色が眺められます。

鉢伏山(260m)は、鉄拐山(236m)に隣接し、
山頂付近には須磨浦山上遊園があります。

鉢伏山上駅から旗振山・鉢伏山・鉄拐山へ
鉢伏山の北東にあるのが鉄拐山で、この一帯の山脈をすべて
後山(背山とも)とよぶのは、一ノ谷の背後にあるためと思われます。



旗振山は江戸時代の呼び名です。



山上から一ノ谷町へ下りるハイキング道が整備されています。

鉢伏山・鉄拐山から一ノ谷町へ下りる途中に望む神戸市街。
(この山麓あたりが、義経が駆け下った搦手の西木戸口推定地)

鉢伏山の麓、一ノ谷城郭があった一ノ谷町2丁目付近

北淡路島の江崎公園より鉢伏山を望む。

一ノ谷の背後があまりに急峻なことから、義経の逆落しを疑問視する意見もありますが、
『源義経』の著者近藤好和氏は、スペインのミリタリースクールの断崖絶壁を降りる
騎馬訓練の写真から、騎馬で断崖を降りることは可能であると指摘し、さらに、
「佐原義連(よしつら)の本拠地横須賀市やその周辺は、平地が少なく山(急斜面地)がちの
地形であることから、義連の言葉は、横須賀市に50年近く暮らしている筆者には、
実感として納得できる。」とも述べておられます。

『平家物語』が「鵯越」を「一ノ谷の背後」と記述しているため、
鵯越と一ノ谷はかなりの 距離があるのに、鵯越が一ノ谷の
背後の断崖のようになってしまい、古くから
「義経が逆落しをした鵯越の位置はどこか」について
度々論争が繰り返されてきました。

一つは、兵庫区と長田区北部の境、今も地名が残る鵯越付近の鵯越説と
もう一つの説は、一ノ谷の背後、鉄拐山・鉢伏山付近からの一ノ谷説です。
一つ目の説、鵯越道からその麓へ南下する道は、山手のきつい下り坂ですが、
『平家物語』がいうような断崖を馬で駆け降りるなどというようなものでなく、
通常の攻撃で山ノ手陣を突破できたと考えられることや
鉢伏山の南東麓に一ノ谷が存在していることなどを根拠にして
義経の逆落としは、鉄拐山・鉢伏山付近の断崖から騎馬で駆け下り
平氏の一ノ谷城郭への攻撃だったと推定され、
馬の頭が下になるので逆落としと呼ばれています。

この日の合戦は、東は生田の森(大手)から西は一ノ谷(搦手)まで
東西10㎞ほどの広い地域が主戦場となりましたが、
平氏軍の虚をついて少人数で戦果を挙げた搦手義経の奇襲攻撃が
印象深かったことやこれを突破口に平氏軍が総崩れになったことから、
一ノ谷合戦と呼ぶようになりました。

鵯越から一ノ谷へ義経進軍(藍那の辻・相談が辻・義経馬つなぎの松跡・蛙岩)  
一の谷合戦逆落としの立役者佐原義連の本拠地

佐原十郎義連 の墓 (満願寺)
神戸の氷室神社(能登守教経の山手の陣)  
一ノ谷合戦と鵯越の逆落とし(相談が辻・義経馬つなぎの松・鵯越の碑)  
義経が駆け下った一ノ谷城郭
一ノ谷・戦の濱の碑・安徳天皇内裏跡伝説地(一ノ谷合戦平氏惨敗の一因)  

『アクセス』 
「鉢伏山山頂駅」山陽電鉄「須磨浦公園駅」からロープウェイ約3分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房 元木泰雄「源義経」吉川弘文館
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 「歴史人」KKベストセラーズ
安田元久「源義経」新人物往来社 「兵庫県の地名」平凡社
 歴史資料ネットワーク「地域社会からみた源平争乱」岩田書院
前川佳代「源義経と壇ノ浦」吉川弘文館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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