平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




 都を落ちた平家一門は、太宰府を目ざしましたが、九州への入口に当たる
「母字(もじ)関」が反平氏によって閉じられ(『玉葉』八月十五日条)
一門が太宰府に辿りついたのは、都を落ちてから一ヶ月以上もたってからのことです。
太宰府に到着した一行は安樂寺(太宰府天満宮)に参詣し、望郷の思いを歌に詠みました。

肥後国の菊池高直は反乱を起こして平貞能に討伐され、都に連れてこられました。
それからまもなく平家は都落ちを決行し、高直は渋々太宰府まで
同行してきましたが、肥後国に入る大津山の関は警戒が厳しいので
自分が先に行って開いてくると言い残したまま国に帰り、その後は
いくら呼んでも戻ってきません。この時点で状況を把握し平家を見限ったようです。
かつては平家に忠誠を誓った九州、壱岐、対馬の武士らも「すぐに参ります。」と
連絡をよこしながら一向にやってきません。
つき従うのは岩戸(福岡県筑紫郡)の原田(大蔵)種直ばかりです。

その頃、朝廷では平氏によって安徳天皇を連れ去られたため、代わりの天皇を
立てようとしていました。以仁王の遺児、北陸宮を擁した木曽義仲は、
この宮を皇位継承者に推しましたが、義仲の野望は実現しませんでした。
法皇の命により、故高倉院の尊成(たかひら)親王が閑院殿で即位して
後鳥羽天皇となり、都と地方に二人の天皇が存在することになりました。

平成27年の初詣は雪の太宰府天満宮でした。
年末に電車の切符を手配し日帰りで出かけましたが、予期せぬ
寒波に見舞われ、
雪が降りしきる中、太宰府から天満宮に向かいます。

花崗岩製の明神型の大鳥居(
鎌倉末期作)


雪にもかかわらず、境内は初詣の人たちで賑わっています。

本殿に向かって右側の飛梅は樹齢千年の白梅です。

太宰府に左遷される時、道真がこよなく愛した邸内の梅の木に別れを告げ、
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな と詠むと
一晩で京の都から大宰府に飛んできたという。

どこの天満宮にも牛の像があります

菅原道真が承和12年(846)乙丑年の生まれであることや
本殿創建の地が牛との縁により定められたことなどに由来しています。

江戸時代寺子屋の普及とともに、学問に秀でていた道真は、
学問の神としても信仰を集めるようになりました。
現在も受験生が多く参拝し賑わいます。

カメラのレンズを拭きながら撮影しました。


道真を祀る太宰府天満宮は、もともと道真の廟所安樂寺と一体化した
安樂寺天満宮でした。明治の神仏分離令で太宰府天満宮となり、
今日学問の神として多くの参拝者を集めています。
昌泰四年(901)左大臣藤原時平の讒言により、太宰権帥に左遷された
菅原道真は2年後に配所で失意のうちに亡くなりました。
『帝王編年記』『北野天神絵巻』によると、
道真の遺骸を筑紫国四堂のほとりに埋葬しようと、
大宰府政庁の
北東の方向に進んでいたところ、牛が突然動かなくなり、
仕方なくその場所を墓所と定め、埋葬しました。
これが安楽寺(太宰府天満宮)の始まりとしています。
その後、道真配流に関与した貴族が不慮の死を遂げ、また都で落雷などの
天変地異が続き、これが道真の祟りと恐れられ、朝廷は鎮魂のために、
道真を本官右大臣に復して正二位を贈りました。その後も安樂寺には
贈位、贈官の勅使が派遣され正一位太政大臣にまで至りました。
その背景には道真の曾孫である太宰大弐菅原輔正が道真の託宣と称して
これを巧みに利用し、安楽寺の発展を図ったとされています。

『平家物語・巻8・四宮即位』によると、平家一門は辛い流浪の旅の
一時を安樂寺で過ごし、
和歌や連歌を詠み神に奉納しています。

♪住み馴れし古き都の恋しさは 神も昔に思ひ知るらん 平重衡
(住み馴れた故郷である京の都を恋しく思う気持ちは、神となられた
菅原道真公も、昔のご経験からよくわかってくださることであろう。)と
再び都に戻れるよう祈願し、無実の罪で太宰府配流にあった道真と
義仲によって都を追われた平家一門の境遇が重ね合わされています。
『源平盛衰記』によると、この歌は平経正が詠んだとされ、
♪住みなれしふるの都の恋しさに 神も昔を忘れ給はじ 
文言が少し異なります。

「天満天神」の神となる道真の伝承は『北野天神縁起』に描かれていますが、
延慶本『平家物語』にも、かなりの紙面を割いて
それに似た内容の物語を取りあげています。

平家の人々は都から太宰府に飛んできた梅はどれであろうかと、
口々に言いながら見まわっていると、どこからともなく
123歳の童子が現れ、ある梅の古木にて
♪これやこのこち吹く風にさそわれて あるじ尋ねし梅のたち枝は
(これがあの東風に誘われて飛んできたという梅の古木の若枝です。)と
詠んだかと思うと消え去ってしまいました。
これは天神様の影向(ようごう)に違いないと一同頭をたれ、
祈願成就の思いを強くしたとしています。

平家一門の安樂寺入りは、平氏と同寺の結びつきの深さによるものです。
安能は清盛の弟頼盛が太宰大弐(だいに)であった仁安二年(1167)に
安樂寺21代別当に任じられ、平氏の太宰府政権に深く入り込みました。
平氏の拠点であった摂津国福原に別荘をもち、後白河法皇が清盛の
福原の別荘に行幸の折、公卿たちと同席し、平家都落ちでも
安樂寺に安徳天皇はじめ、一門を迎え入れています。
安樂寺別当は道真の孫平忠(へいちゅう)が任じられて以後、
代々菅原氏から選ばれ、安能の父菅原在長と兄在茂は、
僧都に任ぜられ、京都法勝寺の執行も兼任しています。

平氏が壇ノ浦で滅亡すると、源頼朝は平氏に与した安樂寺別当
安能僧都の罷免を要求しています。(『吾妻鏡』文治二年六月十五日条)
一方、安能は証拠文書を揃え、仏神事興隆の功績を挙げて弁解しましたが、
この問題が解決しないうちに急死しました。
頼朝は九州の大社寺勢力であった安樂寺を抑圧し、自分の推薦する
別当を任命して鎌倉幕府の支配下に組み入れようとした。とされています。
平家一門都落ち(安徳天皇上陸地)  
後鳥羽天皇即位(閑院跡)  
『アクセス』
「太宰府天満宮」 太宰府市宰府4-7-1 
西鉄太宰府線「太宰府駅」下車徒歩約5分。
JR博多駅→徒歩3分博多バスターミナル→西鉄バス(約42分)西鉄太宰府駅
『参考資料』

「福岡県の地名」平凡社、2004年 「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年
森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館、2012年 「福岡県百科事典」西日本新聞社、昭和57年
 別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、平成16年  

「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年 現代語訳「吾妻鏡」(3)吉川弘文館、2008年 
新定「源平盛衰記」(巻4・平家大宰府に着く附北野天神飛梅の事)新人物往来社、1994年



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北九州市門司区にある柳の御所を訪ねる途中、
立ちよったお蕎麦屋さんから「豊前大里宿」の絵地図をいただきました。
その絵図に「安徳天皇上陸地」と記されているのを見つけ、
石碑でもたっていないかと急遽予定を変更し海岸に向かいました。

現門司区大里(だいり)は、大宰府を追われた平家一門が柳の御所を
設けたことにより内裏と呼ばれていました。
江戸時代に参勤交代が行われるようになると、内裏は下関渡海の宿場町として、
九州の諸大名をはじめ人々の往来で栄えました。その後、内裏浦で唐船の
抜荷漂流が頻発し、朝廷から異国賊船平定の命を受けたため、
時の藩主が内裏の海に血を流すのは畏れ多いとして大里に改めました。

下は海岸縁を拡大した図です。

絵図を頼りに安徳天皇上陸地の大里第一船だまりへ向かいます。

海岸沿いの国道199号線を進むと、門司港レトロ地区にある
船だまりの一角に「安徳天皇上陸地」の説明板がありました。

「明治天皇記念之松」
明治三十五年(1902)、明治天皇は熊本での
陸軍大演習視察のため、下関から大里に上陸し、梅木小路を経て
鉄路熊本へ出発しました。この碑は、明治天皇の上陸を記念して、
地元の人々が大正三年(1914)に松の植樹と記念碑を建立したものです。
碑は、長い間大里漁港の防波堤にありましたが、
平成十八年三月、ゆかりの場所近くに移設されました。

また、寿永三年(1183)木曽義仲に都を追われた安徳天皇と平家一門が、
この地より上陸され柳の御所に一時滞在されました。

「薩摩守忠度卿の歌」
都なる九重の内恋しくば 柳の御所に立ちよりてみよ  北九州市(説明板より)



大里海岸緑地より平知盛が砦を構えた彦島遠望。

北陸合戦で平氏軍に大勝利した木曽義仲が逃げる平氏を追って、
都をめざして近づいてきました。平氏は義仲との倶利伽羅・篠原合戦などで
壊滅的な打撃を受け、いったん西国に落ちて軍勢を立て直すことにしました。
安徳天皇・後白河院とともに都を落ちるつもりでしたが、院はいち早く察知し、
側近を伴って延暦寺に入りました。安徳天皇・後白河院それに三種の神器さえあれば、
都落ちしたとはいえ、平家は官軍として認められます。
院を逃がしたのは大失敗でした。

寿永二年(1183)七月二十五日朝、平氏は一門の六波羅・八条邸を焼き払い、
三種の神器を携え安徳天皇を奉じて都をあとにしました。
福原に立ちより一夜を過ごした後、九州に向かいましたが、反平氏勢力が門司を
封鎖していたため、備前国児島にしばらく留まり、ようやく八月末に九州に到着しました。

頼朝の挙兵以来、各地に反平家の動きが広がり、九州でも平家の没落を察してか、
肥後国菊池隆直が平家に叛き大宰府を攻めました。隆直をはじめとする
九州の反乱鎮圧のために、平氏重代の家人平貞能(さだよし)の軍勢が派遣され、
貞能は二年かかりやっと九州を平定し、都落ち直前に京に帰ってきました。
貞能は都での決戦を主張しましたが、大将の宗盛は一門の都落ちを命じました。
西国の情勢を実際に見てきた貞能は、九州を平定したといっても、
この時期、なお不安定であり勢力回復が困難であることをよく知っていたのです。
貞能に降伏した菊池隆直は貞能に連れられて上洛した時、たまたま一門の
都落ちに遭遇し、九州まで一行の案内役を務めることになりました。

九州は平家の地盤と考えられていますが、平家が大宰府に進出する以前、
頼朝の叔父鎮西八郎為朝は九州に渡り、若くして九州を実力で制圧し、朝廷の
任命もないまま、鎮西総追捕使(ついぶし)を名のり六年になったとしています。
その後、為朝は保元の乱で敗れ伊豆大島に流罪となりましたが、
九州は短い間とはいえ、源氏にもゆかりのある地でした。

平家一門都落ち関戸院(関大明神社)   
都落ちの一行、平貞能と出会う(鵜殿) 
平家一門都落ち(太宰府天満宮)   柳の御所・御所神社  
『アクセス』
第一船だまり」JR門司駅から徒歩約5分 
なお未見ですが、「明治天皇上陸記念碑」は、レストラン「ラ・メール」傍にあります。

『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫、平成18年 「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年
 森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年 「福岡県の地名」平凡社、2004年
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、平成16年 
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館、2012年 

 



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JR奈良線の玉水駅で下り南へ進むと、東に高倉神社があります。
社にはこの地で戦死した以仁王を祀っています。その社のJR奈良線を挟んだ西側には、
以仁王の仏事を営むために開かれたという高倉山阿弥陀寺があり、境内には
光明山寺が焼けた時、運び出されたといわれる阿弥陀石仏(鎌倉時代)があります。

20年近く前のお正月に高倉神社を訪れると、村の人たちが
羽織袴の正装で迎えてくれました。お神酒を勧めて下さって、
話をして行くようにいわれましたが、その日は玉水駅から
近鉄電車山田川近くにある藤原百川夫妻の墓まで、史跡をたずねながら
歩く予定だったので、丁寧にお断りして社をあとにしました。
いつもはシーンと静まり返ったお社ですが、お正月には村の人たちが集まり
お酒を飲みながら、以仁王や筒井浄妙の話に花が咲いているようです。

その時にいただいた資料によると、
「阿弥陀寺は僧円輪の開基と伝え、もと阿弥陀堂三艸庵(さんそうあん)と
称したという。以仁王落命の折、仏事を営み、建久3年(1192)、
これに因んで山号も高倉山としたと伝える。なお、境内には厚肉彫の石仏
(阿弥陀如来坐像)があり、鎌倉時代の優品である。」と書かれています。










以仁王(もちひとおう)は後白河院の第三皇子ですが、兄の守覚法親王(仁和寺門跡)が
幼い頃に出家したので第二皇子とされています。同母兄の二条天皇が若くして
死去したとき、本来ならば弟の以仁王が皇位に就くはずですが、
清盛の妻時子の妹建春門院滋子が生んだ高倉天皇が天皇の座に就きました。
さらに建礼門院徳子が
高倉天皇の皇子言仁親王(安徳天皇)を生み、
治承4年(1180)2月には高倉帝が譲位し、3歳の安徳天皇が位を継ぐと、
以仁王の皇位継承の可能性は完全に消えてしまいました。

同年4月、以仁王は諸国の源氏や大寺社に宛てて平家追討の令旨を発しましたが、
すぐに謀反は発覚し、源頼政の指示で以仁王は高倉宮御所から
源氏とつながりが深い三井寺に逃げ込みました。南都の寺院はすぐこれに呼応しましたが、
延暦寺の協力が得られず、以仁王は頼政とともに三井寺を脱出し南都をめざしました。

『平家物語』は、以仁王と頼政軍を1千人、鳥羽作道から南都に向かって南下してきた
追手の平家軍を2万8千余騎と伝えています。一方、九条兼実は平時忠から聞いた話として、
その日記『玉葉』に頼政軍50騎ほど、平家300余騎と記しています。
「騎」は馬に乗った武者の数なので、徒歩(かち)の家来は数えません。
軍記物語では、
合戦の兵数は誇張されますが、実数はこんなものだったのかも知れません。


途中、一行は平等院に入って以仁王を休ませ、宇治橋の橋板を外して、
敵がきても橋を渡れないようにしておきましたが、頼政は馬筏で次々と川を渡ってくる
平家の大軍を見て、以仁王を南都へ先立たせましたが、もう少しのところで
南都に逃げ込めず、光明山寺の鳥居前で流れ矢に当たり戦死しました。
この時、南都の僧兵の先頭は木津に着いており、あとわずか5キロほどで
合流できたはずなのにと『平家物語』は、以仁王の不運を嘆き残念がっています。

このように以仁王はあっけなく敗死しましたが、その令旨は生き続け、
頼朝も義仲も平家打倒の挙兵は正義であるという大義名分を掲げ、
相次いで旗揚げし源平の争乱の導火線となっていきました。

世間から遠ざけられていたこともあって、以仁王の顔を知る者は少なく、
その首級の確定ができず、実はこの時王は東国へ逃れて源氏を指揮しているのだ
という以仁王生存説が広まり、平家を脅かしたことが当時の史料から知れます。
高倉神社・以仁王の墓・筒井浄妙の塚  
 『アクセス』
「阿弥陀寺」京都府山城町縛田神ノ木
JR奈良線玉水駅下車南へ徒歩15分
『参考資料』
永井晋「源頼政と木曽義仲 勝者になれなかった源氏」中公新書、2015年 
上杉和彦「戦争の日本史6 源平の争乱」吉川弘文館、2012年
斉藤幸雄「木津川歴史散歩」かもがわ出版、1993年 
「平家物語」(上)角川ソファ文庫、平成18年 
 竹村俊則「昭和京都名所図会」(南山城)駿々堂、1989



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白峯寺は黄峯・白峯・赤峯・青峯・黒峯からなる五色台連峰の西端に位置する
白峰山(標高三七七m)の山頂北側にあります。
弘法大師空海を開祖とし、のち空海の甥にあたる智証大師円珍が山中の霊木を
千手観音像に刻み
本尊としたと伝えられています。古くより霊山として
信仰されていましたが、
寺名が広く知られるようになったのは、
崇徳上皇が鼓ヶ岡の御所で没し、寺の裏山に墓所が
営まれて以後のことです。

讃岐では早くから崇徳上皇を慕う地元の有力者によって、上皇の供養が行われ、

鎌倉初期には、源頼朝が万基の石塔を奉納したことが寺伝に見えます。
再三火災にあい、室町時代には、
管領細川氏の手によって堂宇の修理が行われ、
現在の建物は慶長4年(1599)に
讃岐領主生駒親正が再建したものです。
江戸時代には、高松藩初代藩主松平頼重が寺領を寄せ
寺の保護に努めました。
以後、松平氏の尊崇厚く寺殿の改修復興を行っています。

白峯御陵石段下から白峯寺へと続く道




御陵から青海神社へと下る参道は、西行の道として整備され、
道の両側には、西行・崇徳上皇などの歌碑がたち並んでいます。





境内入口の七棟門は、左右に2棟の塀を連ねた
高麗形式の七つの棟をもつ珍しい堀重門です。

この門から参道を進むと正面に護摩堂があります。



七棟門から左に進むと、後小松天皇から賜った勅額が架かる勅額門が建っています。

勅額門の前方にあるケヤキの木は、玉章木とよばれています。



勅額門は頓証寺(とんしょうじ)の随身門であり、左右に保元の乱で
崇徳上皇を守った源為義・為朝父子の武将像が置かれていました。
現在はお遍路さんの足の無事を祈る大わらじが掛けられています。


勅額は模刻で、実物は宝物館に収蔵されており、

国の重要文化財に指定されています。

頓証寺は頓証寺殿とも呼ばれ建久2年(1191)、崇徳上皇に近侍していた
阿闍利章実が鼓岡の木の丸殿を移建して上皇の霊を
祀ったのが始まりとされ、
木の丸殿の跡地に、それに代わるものとして社を建てたのが鼓岡神社とも伝えています。

鎌倉・室町時代には白峯陵・頓証寺に対する崇敬が高まり、
頼朝は備中妹尾郷、後鳥羽院は丹波国栗村庄、備前国福岡庄を寄進しています。
現在の建物は頓証寺・勅額門とも高松藩主松平頼重再建といわれています。
京都御所紫宸殿の様式を模して庭前には、
右近の橘と左近の桜が植えられています。
頓証寺の裏には崇徳上皇の御陵があります。


頓証寺の前に立つ相模坊は、日本五天狗のひとつで讃岐では金比羅山の金剛坊、

八栗山の中条坊とともに讃岐三天狗といわれています。
謡曲『松山天狗』『雨月物語』等には
崇徳上皇の守護神として登場します。
頓証寺の左手には白峯御陵遥拝所があり、傍らに西行法師石像があります。



崇徳上皇御陵遥拝所

濱千鳥あとは都にかよへども 身は松山に音をのみぞなく






西行が白峯に詣で、負いを木に掛け祈り終わった時、
御廟が振動したと記されています。

西行像は文政の頃に後人がこれを偲んで「西行腰掛石」と伝えられる
石上に安置したもので、
傍らにはサヌカイトに刻まれた西行の歌碑があります。

よしや君 昔の玉の 床とても かゝらん後は 何にかはせん
『保元物語』には、白峯御陵に詣でた西行が鎮魂の歌を詠んだ物語が載せられています。
西行白峯詣でのことは、謡曲『松山天狗』『雨月物語』など
室町時代以後の文学の題材となっています。

勅額門の手前から右に折れて石段を上ると、
本尊千手観音を祀る本堂や大師堂などの堂宇が並んでいます。

大師堂
白峯寺は四国霊場八十八ヶ所の第八十一番札所で、

御詠歌は「霜さもく露白妙のてらのうち 御名を称ふる法のこゑごゑ」

本堂

白峯寺から車道に出て少し下ると、杉木立の中に二基の十三重石塔が石柵を巡らせています。

ともに国指定の重要文化財で、崇徳上皇の供養塔とされています。



鎌倉時代中期と末期建立の十三重石塔で、東塔は弘安元年(1278)、
西塔は「元亨四年(1324)、金剛佛子」の造立銘があり、時期的な齟齬が生じますが、
源頼朝が建てた万基の供養塔の一部ともいわれています。
この塔の上方は塔ノ峯ともいい、
無数の各種石塔が埋もれています。

白峯寺からゆるやかな勾配の山道を一時間ほど下ると 高屋バス停に至ります。

途中、瀬戸内海の雄大な景色が手に取るように望めます。

現在は埋め立てられていますが、二つのおむすび山の麓には、
崇徳上皇が上陸した松山の津がありました。
白峯寺に残る古い絵図には、白峯の断崖に波が打ち寄せて、
松山の津という入り江を作っていた図柄が描かれ、当時はこの辺まで
瀬戸内海の青い海だったことを物語っています。




高家神社まで下りるとバス停はもうすぐです。

高屋バス停

『アクセス』
「白峯寺」坂出市青海町 
坂出駅から琴参バス王越線「高屋」下車2.5キロ 徒歩約1時間
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59
 日本古典文学大系31「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48
 郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
竹田恒泰「怨霊になった天皇」小学館文庫、2012年
 



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長寛二年(1164)八月、四十六歳で亡くなった崇徳上皇は、都からの検視の後、
白峯に送られ荼毘に付されました。

都から遠く離れた地の御陵であったため、江戸時代には荒れていましたが、
初代高松藩主松平頼重、五代頼恭(よりたか)、十一代頼聡(よりとし)らにより
修復が重ねられ、参拝口を現在の南面に改めるなど今日見るように整備されました。
ちなみに歴代天皇の御陵でこのような地方にあるのは、
淳仁帝の淡路陵、安徳帝の下関阿弥陀寺陵、白峯陵の三陵だけです。







御陵は長い石段の先にあります。

西行がもうでた時には、そこらあたりの民人の墓よりも深く草におおわれ、
柵がめぐらせてあるだけの御陵であったと、
『撰集抄(せんじゅうしょう)』『長門本平家物語』に記されていますが、
そんな時代はとうに過ぎ去り、石の
玉垣を巡らせた立派な御陵です。

前面の石灯籠は、源頼朝が為義、為朝のために奉納したものといわれています。
下段の灯篭には、宮内省奉献のもの二基、
高松藩主松平頼重、同頼恭奉献のものが二基あります。


崇徳院の墓所が白峯であることを記した最初の史料は西行の『山家集』です。
「白峯と申す所に御墓の侍りけるにまゐりて」という詞書をもつ
「よしや君昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせん 」
(かって都で就いておられた玉座でさえ、亡くなられた後では何になりましょうか。
どうか憂き世のことは早く忘れ、安らかに眠って下さい。)と詠んでいます。

これは崇徳院が昔、寝所を「玉の床」と詠んだ
「松が根の枕も何かあだならん 玉の床とて君の床か」
(松の根を枕とする旅寝も、何がはかないことがあろうか。美しく飾った
床であったとしても、この無常の世に常に変わらぬ床といえようか。)を踏まえ、
かつて院は「玉座」が永遠のものでないとお詠みになっていたではありませんか。
と西行は「よしや君…」と返し、悲嘆にくれます。

西行鎮魂絶唱の歌碑。

「瀬を早み岩にせかるゝ瀧川の われても末にあはんとぞ思ふ」

激しい恋の歌ですが、譲位後まもなくの作であることから、崇徳院の
皇統がいつか日の目を見ることを願って詠まれたようにも思われます。

「濱千鳥跡は都に通へども 身は松山に音(ね)をのみぞなく」
(私の筆跡は都に送っても、身は讃岐の松山で偲び泣くばかり。)
この歌は五部大乗経を送った時のものだといわれ、望郷の念にあふれています。

西行の白峯詣の話は『保元物語』にも見え、のちに謡曲『松山天狗』や『雨月物語』
『椿説(ちんせつ)弓張月』などの近世文学の題材となって広く知られました。

「仁安三年の秋は、葭(あし)の花散る難波を通り、須磨明石の浦を吹く風が
身に沁みつつも、旅寝の日を重ねかさねて讃岐の真尾坂(みおさか)の森かげに
暫く杖をとどめた。
この里近くに崇徳院の御陵があると聞き、もうでようと
十月の始めごろにその山に登った。松や柏は奥深く茂りあい、晴天の日でさえも、
絶えず小雨がそぼ降るようである。稚児ヶ嶽という険しい峰がうしろにそびえ立ち、
千尋の谷底から立ち昇る雲や霧は、目の前がはっきりと見えなくなるような
不安な気持ちにさせる。木立のほんのわずか空いている所に、高く盛り土がしてあり、
その上に石を三段に積み重ねたのが、うばらかずらに埋もれてうら悲しい。」と、
西行が白峯御陵にもうでたところから上田秋成の『雨月物語』白峯は展開します。

西行の前に上皇の霊が現れ、わが子重仁親王が即位できなかったことを盛んに訴え、
保元の乱の正当性を主張します。それを批判する西行との間に壮絶な議論が交わされたあと、
上皇は魔道に落ちたあさましい姿を現し、現世では晴らせなかった仇敵への怨念と
復讐の念を語りますが、西行が安らかに鎮まってほしいと詠んだ
「よしや君…」の歌に、崇徳上皇の霊も怒りの表情を和らげやがて姿を消します。

『雨月物語・白峯』が描きだした崇徳院の霊のさまは、「朱をそそいだお顔に、
櫛削けずらぬ髪が膝まで乱れ、白まなこを吊り上げ、熱い息を苦し気に
ついておられる。御衣は柿色の古くすすけたのを召して手足の爪は獣のように
長く伸び、さながら魔王の形相、あさましくも恐ろしい」というものでした。
ただ江戸時代の上田秋成は、歴史上の敗者である崇徳上皇の怨霊伝説を
小説風に書いたのであって、本当の上皇の姿を伝えるものではありません。

滝沢馬琴は『保元物語』の為朝を主人公にした『椿説弓張月』を著し、保元の乱の際、
崇徳院方に馳せ参じ、奮戦した
為朝を崇徳院の墓前で自害させています。

源為朝(1139~70)は源為義の八男で、鎮西八郎為朝ともよばれ、
身の丈七尺ほど(210cm)で、弓を引く左手が右手よりも4寸(12cm)ほど長く、
生まれながらの弓の名手でした。武勇伝の多い為朝は幼少より勇猛な武者で、
もてあつかいに困った父の為義は、為朝が13歳の時に九州の豊後国に追いやると、
為朝は自ら「鎮西総追捕使」と称して九州地方の武士を傘下にいれようと奔走し、
三年の間に菊池氏原田氏などの城を破り、九州を平らげてしまいました。
しかしこうした行為は受け入れられず、為朝に出頭の宣旨が出されましたが、
応じなかったため、父為義が検非違使の職を解官されてしまいました。

そこで為朝は弁明のため上洛したところを保元の乱に巻き込まれ、
父とともに崇徳上皇、藤原頼長が籠る白河北殿に参陣しました。
為朝は後白河天皇方の高松殿の夜討ちを提言しますが、
頼長に「正々堂々と戦うべきである。」と一言のもとに退けられます。
天皇方では為朝の兄義朝の夜襲策が取りあげられ、上皇方は機先を制せられた
形となりましたが、天皇方の数をたのんだ軍勢が為朝の活躍に手こずった様子が
『保元物語』に記されています。為朝の強弓に手を焼いた義朝は火を放ち
白河北殿は炎上し、合戦はあっけなく幕を閉じました。
為朝は東山の如意山まで上皇や父らとともに逃げ、そこから一行と離れて
近江国に隠れ住んでいましたが重病にかかり、湯屋で療養していたところ、
不意をつかれて生け捕りにされ京に送られました。

死罪になるところをこのような勇士を殺すのは惜しいとされ、二度と弓が
引けないように左右の肘の筋を切られて伊豆大島へ流罪となりました。
しばらくして肘の傷が癒えると、島の代官の婿となって伊豆七島を従えて
猛威を振るいました。困った伊豆介狩野茂光は後白河院に訴え、
動員された武士たち五百余騎が軍船に乗り込んで大島へ押し寄せました。
沖のかなたに軍船の群れを見た為朝は、もはやこれまでと自害し一生を終えました。
こわごわ上陸した官軍は、まるで生きているような為朝の姿に、
誰一人近寄ることができません。ここに加藤次景廉(かとうじかげかど)が
長刀をもって後ろより狙いを定めて為朝の首を討ち落としました。

為朝に責められた原田氏はのちに平氏に従い、九州平家軍の中心的存在となり、
原田種直は平家一門都落ちに際し、安徳天皇をその城に迎えています。
為朝の首を討った加藤次景廉は、これより十年後、頼朝挙兵の際、頼朝から長刀を賜り、
伊豆国目代山木兼隆の首級をあげ、緒戦を飾ります。奥州合戦でも奮戦し、
恩賞として頼朝から美濃国遠山荘の地頭職を与えられ、子孫は遠山姓を名乗り、
江戸の名奉行として知られる遠山金四郎景元はその子孫にあたります。

『椿説弓張月』は、「為朝は大島で死んだのではなく、追討軍の手を脱して
琉球に上陸したとし、その頃、琉球では怪僧曚雲(もううん)が国政をほしいままにして
民衆を苦しめていたので、
為朝は曚雲らを成敗し、わが子舜天丸(しゅんてんまる)が
琉球王になったのを見届けてから琉球を去り、讃岐白峯の崇徳院の墓前で切腹しました。後世、
この話を聞いた人々は為朝が崇徳院の導きで生きながら神となって日本へ帰り白峯陵の前で、
遅ればせながら殉死したに違いないとその心ざしの深さに感動した。」と記しています。
九州・伊豆諸島・琉球・四国と物語が展開する途方もなくスケールの大きい為朝英雄譚です。

「讃岐院眷属をして為朝をすくう図」歌川国芳画。

『椿説弓張月』中の一場面を描いたものです。
清盛を討つため、九州から船出し嵐に襲われた源為朝父子は、讃岐院(崇徳院)の眷属である
烏天狗と為朝のために忠死した家臣の魂が乗り移った大鰐鮫(わにざめ)に救われます。

室町時代作といわれる『松山天狗』は西行が讃岐国松山の崇徳院の墓を詣でた夜、
山風が吹き、雷鳴がとどろく中、天狗どもが飛翔し、魔道に徹し怨念の権化となった
崇徳院のおどろおどろしたすさまじいありさまを見事にうたいあげています。
『アクセス』
「白峯陵」坂出市青海町 坂出駅から琴参バス王越線「青海」下車 徒歩約1時間5
または坂出駅から琴参バス王越線「高屋」下車2.5キロ 徒歩約1時間
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 
 別冊太陽「西行 捨てて生きる」平凡社、2010
 日本古典文学大系31「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年 
「源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 平岩弓枝「私家本
椿説弓張月」新潮社、2014
 
上田秋成作・円地文子訳「日本古典文庫20 雨月物語」河出書房新社、昭和63
 白洲正子「西行」新潮文庫、昭和63年 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年
「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 

 


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