平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 

船岡山は京都市北区紫野にある高さ120mの丘陵です。
京都に都が移された時、船岡山は、陰陽五行・風水思想に基づいて
玄武の
山とされ、真南に平安京の大極殿・朱雀大路が定められたといわれています。
平安中期頃から末期にかけては、葬送の地となります。
応仁の乱では、この山が西軍山名宗全の陣地となり、
東軍細川勝元を迎えて戦っています。山の東側の建勳(たけいさお)神社、
通称「けんくんじんじゃ」は、明治天皇が織田信長の偉勲を讃え、
信長公を祀られたのが起こりです。
ここから少し
足を延ばした大徳寺の北辺には、牛若丸や常盤の史跡が点在しています。




船岡山の頂上からは「左大文字」が間近に見えます。

『保元物語』によると、保元の乱後、源義朝の弟・頼賢・頼仲・為宗・為成・
為仲らは捕えられて、
船岡山で処刑され、13歳乙若や
元服前の幼い弟たちもここで処刑されたとしています。

「六条堀川の弟13歳乙若や11歳亀若・9歳鶴若・7歳天王の首も刎ねよ。」との
義朝の命を受けた波多野義通は、彼ら
をだまして船岡山に連れて行きます。
義通は義朝からの命であることを告げ、一番年長の乙若に遺言はないかと
尋ねます。
「さて義通よ、下野殿(義朝)に次のことを伝えてくれ。清盛に
だまされなさったことに
お気づきであろうか。昔も今も例のない実の父の首を斬り、
罪のない幼い弟たちまでも殺そうとなさる。源氏一門の多くを失わせ
下野殿一人にしてしまってから、平家が源氏を滅ぼそうとしていることを。源氏の
家系が絶えてしまうのが残念だ。その時になって『乙若は幼いが
よく言い当てた』と
納得されるでしょう。それは遅くて七年早くて三年に
ならぬうちのことよ。」と
いい終わると西に向かい念仏を声高に十数遍唱えて
首をのべて討たせました。
平太政遠はじめ4人の子らの乳人(めのと)も
その場で後を追い自害し、
為義の妻も桂川に身を投げました。
このように保元の乱後、
大炊一族は為義の妻、その子供達や天王の乳人(めのと)政遠と
一度に六人も失いました。
その後の平治の乱で、義朝は清盛に敗れ東国へ向かう途中、青墓に立ち寄り、
その際、大炊の弟源光は、義朝を尾張の内海へと送り届ける役目を引き受けています。
『兵範記』には、乙若以下、幼い弟たち4人の処刑は見えず、為義と義朝の弟
頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲らを同時に船岡山で処刑したとしています。

内記大夫行遠の娘は源為義の晩年の妻となり、
乙若・亀若・鶴若・天王を儲けています。


内記とは中務省に属する官名で、行遠は大夫(五位)の位をもつもと京武者で
青墓の長者と結婚し在地の武士となっています。当時、青墓宿の長者は女性で
大炊長者とも呼ばれ、その管理下には多くの遊女がいて、後白河院によって
編纂された「梁塵秘抄」には、
青墓の遊女達がうたう今様も集められています。
長者の娘延寿は義朝の娘夜叉御前を生んでいます。


織田信長がはじめて上洛したという10月19日には、毎年船岡祭が催され、
信長が好きだったという幸若舞「敦盛」の中の一節「人生五十年化天のうちを
比ぶれば、夢幻の如くなり…」に因み能「敦盛」が舞われ、鎧武者に扮した
古式砲術流儀保存会による、火縄銃の実演が行われ戦国時代を偲ばせています。




『アクセス』
「船岡山」京都市北区紫野北舟岡町 市バス「船岡山」下車3分。
「建勳神社」京都市北区紫野北舟岡町49 市バス「建勳神社前」下車すぐ
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 竹村俊則「京都名所図会」(洛中)駿々堂
 五味文彦『源義経』岩波新書 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
 野口実「源氏と坂東武者」吉川弘文館 元木泰雄編「院政の展開と内乱」吉川弘文館 
奥富敬之編「源頼朝」新人物往来社
「源平合戦事典」吉川弘文館 日本歴史地名大系「岐阜県の地名」平凡社


 
 




 
 
 





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平治の乱で敗れた義朝は、再起を図って東国を目指す途中、
美濃国(現、岐阜県)青墓の宿(しゅく)に入りました。
義朝は東国と都の間を往来する度に、青墓長者の大炊(おおい)邸で宿泊し、
長者の娘延寿(えんじゅ)との間に
夜叉御前(やしゃごぜ)という10歳になる娘がいます。

義朝一行が到着すると長者は一行を匿ってくれました。
ここで一息つくと、義朝は長子の悪源太義平と次男朝長(ともなが)に
「悪源太は北国へ下れ。朝長は信濃に下って甲斐(山梨)、
信濃の源氏一族を集めて都へ攻め上れ、
父は東国から上る。三手が一所になれば平家を滅ぼし、
源氏の世になることは間違いあるまい。」
と命じます。
しかし朝長は青墓を出たものの、龍華越えで比叡山の
僧兵に射られた太ももの傷が痛んで歩けず、
とても父の期待に応えられないと舞い戻ってきました。

義朝は「不覚者め!頼朝ならば幼くてもこうはあるまい。

敵の手にかかるより父の手で、近づいて念仏申せ。」と言いますが、
東国育ちの剛の者悪源太と違い、
中宮御所に仕える中宮太夫進朝長を
『平治物語』は「朝長生年16歳、雲の上のまじはりにて、
器量、ことがらゆふにやさしくおはしければ」と語っています。

朝長の母は、相模武士波多野義通の妹です。
波多野氏のもとで養育された朝長は、伯父の義通や母とともに
上洛して京で活動し、保元4年(1159)2月には
従五位下中宮少進(しょうじん)に任じられていました。

その朝長が首をさしのべ念仏を唱える姿に義朝は涙がとまりません。
一旦は延寿に止められましたが、結局わが手にかけました。
大炊と延寿が「ここで年を越してから東国へ下られては
如何でしょうか。」と引き止めますが
「ここは街道沿いであるので、人目も多い。」と
青墓を出ようとする所に、義朝の噂を聞きつけた土地の者らが
「落人を討て」と大勢押し寄せてきました。


これを見て佐渡(源)重成が身代わりとなって義朝を逃がします。
青墓の東、赤坂にある
児安の森(現・子安神社辺)に駆け込み、
自分を誰とも分からせないよう顔の皮をけずり、腹をかき切って
まだ29歳というのに死んでしまいました。
こうした騒ぎの間に、義朝主従は青墓の宿を出発します。

義朝一行が立ち去った青墓では、夜が明けても朝長が出てこないので、
延寿が障子を開けて見るとすでに亡骸となったが朝長が横たわっています。
泣く泣く遺体を邸の裏の竹林の傍に埋めて冥福を祈りました。

元円興寺の麓

県道大垣池田線(R241)を北へ行くと右手に青少年憩いの森遊歩道入口があります。
そこから山道を20分ほど上ると広場にでます。ここが元円興寺の仁王門跡で、
芭蕉の句碑や元円興寺跡の説明板が立てられています。

仁王門跡から道は展望台への道と元円興寺の伽藍跡や源朝長の墓への道と
二手に別れます。左手の山道に入るとすぐに刀石、源朝長の墓、
その隣には苔むした大炊氏一族の墓があります。


史跡「元円興寺跡」
延暦九年(790)三月伝教大師最澄が東国教化の途中、この地に立ち寄られて
山頂附近一帯に壮麗な七堂伽藍を配した円興寺(本尊・木造聖観音立像)を
創建されたと伝えられる。当時は、坊舎末寺等・百余ヶ寺、寺領五千俵を領し、
山麓一帯は多数の仏徒の往来もあり、繁栄したものと思われる。
天正二年(1574)織田信長の兵火にかかり、七堂伽藍は悉く灰燼に帰したが、
慶長元年(1596)田之堂(現在地)に本堂と五坊とが再建された。
しかし、承応元年(1652)雷火によって再び消失した際に、
この地はもともと湿地帯であったので、万治元年(1658)現在の円興寺が
この山の西麓に建立された。(現地説明板)


芭蕉が朝長の墓に参り悼み詠んだ
♪苔埋む 蔦(つた)のうつつの 念仏哉

芭蕉句碑



朝長の墓入口には、参拝する際の礼儀として刀を一時おいたという刀石があります。

朝長の墓



中央左から朝長、義平、義朝、
左脇には朝長と同時に切腹した家臣の五輪塔がひっそりと祀られています。





青墓大炊氏先祖の多臣品治(壬申の乱)  
朝長の墓の隣に祀られている大炊一族の墓 
大炊氏は壬申の乱で活躍した多臣品治の孫です。
多氏は大海皇子の地である多地方の荘官でしたが、
青墓に移り姓を大炊と改めました。
青墓宿(よしたけ庵・円興寺)  

『アクセス』
「元円興寺・朝長の墓」
JR大垣駅 →「赤坂総合センター行き」バス乗車25分位終点下車
→自転車で15分→青少年憩いの森遊歩道入り口→朝長の墓まで
約1㎞の細い山道を上ります。(徒歩約25分)
赤坂総合センター隣の消防署で無料レンタサイクルをお借りしました。

円興寺の境内から山道を辿ると(裏参道)東方の山中にある
元円興寺、朝長の墓所へと通じるのですが、
「クマ出没」の注意書きに予定を変更して表参道から上りました。

『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 
日本歴史地名大系「岐阜県の地名」平凡社

 



 
 
 
 





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平治の乱で敗れた義朝は、都を北へ向かい、龍華越から琵琶湖畔を南下、
湖南を廻り近江をすぎ伊吹山麓にかかると、雪はさらに深くなり
一行は秘蔵の馬を途中で捨て、武具を着けていては歩きにくかろうと
源氏重代の鎧・義朝の盾なし、悪源太義平の八龍、太夫進朝長のおもだか、

頼朝の源太産衣なども雪の中に脱ぎすてます。
日下力『平治物語』によると、平安時代の大鎧は
25~30キロ、甲は4~5キロあったという。

激しい吹雪のため視界も悪く、まだ13歳の頼朝は、ついて行けず再び
落伍してしまいます。義朝の乳母子鎌田正清が引き返し
「佐(すけ)殿(頼朝)はいらっしゃいますか。」と呼ぶが返事がありません。
義朝は、母親の家柄が兄たちよりも良い頼朝を、跡継ぎと決めていて、
源家嫡流に伝える源田産衣や髭切の太刀を平治の乱で、
初陣の頼朝の身につけさせその意思を明らかにしていました。

その頼朝がはぐれてしまい義朝は、いとほしさに「どこまでも頼朝と一緒に

行こうと思っていたのに敵に捕われて斬られてしまったか。
そうでなくともこの吹雪の中、よもや生きていることはあるまい。
自害して頼朝の処に行こう。」と刀を取り出し自害しようとするので正清は
「殿がご自害なさったら義平さま、朝長さまも殿のお供をなさいます。」など
あれこれと言って義朝を説得し先を急がせ、小関を過ぎ、
美濃国青墓の宿(あおはかのしゅく)に何とかたどりつきます。

不破の関跡から伊吹山を望む

ここで義朝が避けたという不破の関や、
不破の関の間道にあったという小関をご紹介させていただきます。
古来より畿内と東国を結ぶ東山道に設けられた不破関は、
中山道の要衝で、
東海道鈴鹿関(三重県亀山市)、
北陸道愛発(あらち)関(福井県鈴鹿市)とともに
三関と称されています。

JR東海道線関ヶ原駅を降り国道21号線から旧中山道に入ると不破関資料館、

不破関由来の碑があり、その付近一帯が不破関跡です。
ここは北には伊吹山の山並が、南には鈴鹿山脈が迫る狭間で、
畿内と東国を結ぶ東山道の要所として歴史上に度々登場した場所で、
近世には関ヶ原合戦が行われたことはよく知られています。

不破の関跡



不破関庁跡と兜掛石の駒札

不破関は、『日本書紀』天武元年六月条の壬申(じんしん)の乱に、
度々
記されている「不破」の場所です。
壬申の乱(672年)後、不破道の重要性から
不破関が設けられました。

源義朝が頼った青墓宿の長者大炊は、壬申の乱で
活躍した
多臣品治(おおのおみほむじ)の子孫にあたり「多」から「大炊」と

名乗るようになったといわれています。

桓武天皇の勅により往来の障害になっているとして、延暦八年(789)

不破の関を含む三関が廃止されましたが、いつの頃か再び不破関が復活し、
東山道を通る人や荷から関銭を徴収するようになります。非常時には
関の封鎖を命じる固関の儀式が紆余曲折をへながら江戸時代まで続きます。

不破の関の遺構は、西側を流れる藤古川の断崖、北・南・東には
土塁を
めぐらせた要塞であり、その面積は12万3500㎡におよび、
瓦葺の建物が数多く建っていました。
その中央部を東山道が通り、東山道に沿って
北東には、
国府、国分寺などの国家施設が置かれ、その東が青墓です。

この辺まで来ると一気に濃尾平野が広がっています。

美濃国分寺跡

国分寺に隣接する歴史民俗資料館

北国脇往還(のちの北国街道)沿い不破の関跡の北約1・5Kに小関(こせき)と
いう地名が見え、不破の関の間道を守る小関の所在地であったと
伝えられています。増田潔『京の古道』によると、小関とは、
主たる大関の脇道に柵を設けて作られた副次的施設の「剗(せき)」つまり
「小関」からその名はきている。とあります。

伊吹山南麓の小関は、『平治物語』の中で、義朝が東国に逃走する際に、
抜けたという関であり、これに対して不破の関のあった松尾地区を
大関と称し、
後に大関を関ヶ原と呼ぶようになります。

→大谷義隆墓と刻まれています。

藤古川橋から今須川沿いの車道に出て進むと、その先は
関ケ原町の平井集落から分岐して松尾山(標高293㍍)へと続きます。この山は
関ヶ原合戦の時、西軍から寝返った小早川秀秋が陣を構えていたという所です。
西軍の総将石田三成が小関の北・笹尾山に陣取り、南の
山中(やまなか)には、
大谷吉継(別名吉隆)軍が中山道を押さえていました。

敗退した三成は、伊吹山中で捕えられ京都六条河原で処刑されます。
『アクセス』
不破の関資料館」
岐阜県不破郡関ヶ原町松尾21-1 JR関ヶ原駅下車徒歩20分
「美濃国分寺跡」「大垣市歴史民族資料館」大垣市青野町419 JR関ヶ原駅下車徒歩40分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 日下力「平治物語」岩波書店
増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院 水原一「平家物語の世界」日本放送出版協会 
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「日本古代氏族人名辞典」吉川弘文館 
「岐阜県の地名」平凡社 「岐阜県の歴史散歩」山川出版社
 「岐阜県の歴史」山川出版社 「近畿文化」 649近畿文化事務局


 
 

 

 

 
 





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