平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



西楽寺は彦島の中央やや北寄りに位置し、正覚山と号する時宗の寺院です。

壇ノ浦合戦の時、平家の陣所は彦島にあり、源平合戦の舞台となりました。
彦島には西楽寺や清盛塚、ある武将の妻が平家の敗戦と夫の死を聞いて入水したという
きぬかけ岩(彦島老町)など
平家ゆかりの史跡が多くあります。

本尊は平重盛の護持仏阿弥陀如来像で、門前に建つ石標には、
「平重盛公守護仏彦嶋開闢(かいびゃく=開山)尊像安置」と刻まれています。

当寺の記録に「当山二十世梵阿(ぼんあ=室町時代の僧)俊応和尚之曰」として、
「当寺の本尊は、壇ノ浦にて平家一門入水の時、近習の岡野、百合野、
植田治部之進の三人がこの尊像を彦島に持ち帰るよう申しつけられた。とあり、
のち、健治2年(1276)一遍上人の弟子西楽がこの島を訪れ、
尊像を現在地に移し、西楽庵(寺)と称したのを始まりとしています。」

西楽寺建立後、西楽法師は彦島において平家再興をはかる人々の
野望を鎮め、生業につくよう導いたという。
従って彦島に平和をもたらした阿弥陀如来ということにもなり、
「彦嶋開闢尊像」とも呼ばれるようになりました。


下関指定有形文化財
西楽寺木造阿弥陀如来坐像 
 像高八十三・五センチメートル
指定年月日 昭和六十年十二月二十日
所在地下関市彦島本村町五丁目三番一号


西楽寺の本尊である阿弥陀如来坐像は、古くは
平重盛の持仏であったと伝えられており、
彦島の人々によって大切に守り伝えられてきました。
本像はヒノキの材を用いて、寄木造という技法でつくられています。
この寄木造りとは、いくつかの材を組み合わせて本体をつくる
仏像製作の技法です。
平安時代に考案され、以後多く用いられました。
丸く張りのある顔立ちや体型、浅めに彫られた繊細は衣の線などの表現から、
本像は平安時代の終わりごろから鎌倉時代のはじめにかけて
制作されたと考えられます。
後の時代に部分的な修理や表面の彩色がほどこされています。
平家一門と彦島の地とのかかわりをうかがわせるものとして、
また当時の文化の豊かさを伝えるものとして貴重な仏像です。
下関市教育委員会




本尊は、ヒノキ材、寄木造り、高さ83・5㎝で、
上品上生の印(弥陀定印=みだじょういん)を結んでいます。



西楽寺本尊阿弥陀如来像縁起
当西楽寺本尊阿弥陀如来は当彦島に置いては昔しから
彦島開闢尊像平重盛公護持仏として島民に尊ばれておられました。
此の阿弥陀如来はその昔、第四十代天武天皇(675)仏教に深く帰依をされ
眞の阿弥陀如来を拝せんことを発願されて奈良春日大明神に参籠祈誓をされて
一夜春日大明神の神示を受けられ、神示に従って賢門子と言える
佛師に命じられて造られた阿弥陀如来と伝えられ、それから五百年後、
平家全盛の時、平清盛の嫡男平重盛公は日々に募る父清盛の専横に心を痛めて
世の無常を観じ紀州熊野権現に参籠、平家滅亡後の平家一門の菩提の為に
眞の阿弥陀如来を拝せんことを祈誓された所「奈良東台(大)寺に
安置してある天武天皇発願の阿弥陀如来座像は極楽の眞の阿弥陀如来也」との
霊夢を受けられて急ぎ京に帰り、第八十代髙倉天皇(1168)に奏上されて
奈良東台(大)寺より件の阿弥陀如来をゆづり受けて自邸に勧請して
朝夕礼拝供養をされた阿弥陀如来と傳へられて居ります。
重盛公は父清盛の専横に心労の余り病気になられて其頃西の極楽と
呼ばれていた平智(知)盛公の知行地彦島に阿弥陀如来とともに
京を西下されて彦島に渡られて阿弥陀如来を彦島に安置して
御自分は自分の知行地九州に渡られて九州の地で亡くなられました。
平家壇之浦に滅びて五十年。河野一族から一遍(1276)と言える
浄土門の奥義を窮め襌にも達した念仏聖が出られ
念仏平和を日本国内に勧めるべく跣で日本廻国を始められ、
その途路下関に来られ、彦島の話を聞かれ
弟子西楽法師(平忠正の嫡孫)を連れて彦島に渡られ
彦島の人たちに其の否を悟らせて、西楽法師を彦島に残して
一遍は下関に帰へられました。彦島に残られた西楽法師は
島の人達と語らい、重盛公の護持仏阿弥陀如来を本尊に
精舎を建てられ、西の極楽といわれた彦島の名を取て
西楽と寺号をされました。人は変り幾星霜時は流れて明治の世となり
明治政府は西楽寺を廃寺にしました。(以下かくれて読めません)
『アクセス』
「西楽寺」下関市彦島本村町5丁目3-1
JR下関駅からサンデン交通約10分乗車「本村」下車、徒歩3分
『参考資料』
「山口県の地名」平凡社、1988年
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
安富静夫「水都(みやこ)の調べ関門海峡源平哀歌」下関郷土会、2004年
「西楽寺・阿弥陀如来像縁起」拝観パンフレット
森本繁「史実と伝承を紀行する 源平海の合戦」新人物往来社、2005年


 



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新中納言知盛(清盛の四男)が砦を構えた長門(山口県)の
彦島(下関市彦島)は、海上交通の要地で
『平家物語』には、引島(ひくじま)と記されています。

関門海峡に浮かぶ周囲25キロ余の島ですが、島といっても、
今は橋で結ばれているので車でも簡単にアクセスできます。

北九州市門司区大里海岸緑地帯より平知盛が砦を構えた彦島遠望。





知盛は屋島合戦の際、平家本陣を離れて彦島に砦を構えました。
一ノ谷で惨敗したものの、源氏は有力な水軍を持たないので、
瀬戸内海の東と西の要衝を掌握する限り、
平氏に勝機はあると知盛は踏んでいたのです。

しかし、宗盛(清盛の三男)を総大将とする平家軍は、
屋島合戦でも敗れ海上に逃れました。

義経勢はわずか150余騎でしたが、大軍に見せるため
民家に火をかけ敵陣に突入しました。背後からの奇襲攻撃を受けた
平家軍は、巻き上がる炎に驚いて海岸へ走ったのです。
そしてさしたる反撃もしないまま、知盛と合流しようと
瀬戸内海を西に向かい、彦島へ落ちて行きました。

(巻8・太宰府落)には、「長門国は新中納言知盛卿の国であった 。
国司代理(目代)は紀伊刑部大夫通資(ぎょうぶたいふみちすけ)と
いう者であった。」と書かれていますが、
知盛には長門守の経歴は見えない。長門は治承元年(1177)に
清盛が知行国守になっているので或いは国務を代行するなどのことが
あったのであろうか。」とあります。(『平家物語(中)』p273頭注)


彦島の杉田丘陵には、平清盛の塚があり、知盛が築いた根緒(ねお)城は、
この丘陵にあったのではないかといわれています。

JR下関から江の浦町に架かる関彦橋(かんげんばし)を渡り、
杉田バス停で下車すると清盛塚の案内板が見えます。
これに従って住宅街の狭い坂道を上っていくと清盛塚があります。

清盛塚に近い杉田の住宅街の中には、
「彦島杉田岩刻画(がんこくが)」があります。
岩刻画とは、岩に刻まれた古代の文字や絵などのことです。

知盛は清盛の霊を慰めるため、彦島に無銘の碑を建てたといわれています。

所々に建っている案内板に従って丘の上を目指します。



左側は無銘の石碑、右側の自然石には「清盛塚」と刻まれています。

清盛塚は、福浦湾を望む丘の上にあり、
地元の人々によって大切に守られています。

傍には「地鎮神」と刻んだ石碑も建っています。

清盛塚
寿永三年(1183)中納言知盛は亡き父清盛の遺骨を携えて
この彦島に入り平家最後の砦、根緒城の築城に取りかかり砦と定めた
この丘陵の小高い場所に納骨して墓碑を建立した。
翌年四年三月二十四日壇ノ浦の合戦に出陣したが、
再興の夢ははかなくも渦潮の中に消え失せた。
墓碑は永年無銘のまゝ荒地に放置されていたが昭和四年
土着の歴史に詳しい人達の手によって清盛塚と刻まれた。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
昭和六十二年十月
江の浦町四丁目自治会有志による聖城整備によせて
  郷土史家 澤 忠宏 記
『アクセス』「清盛塚」山口県下関市彦島江の浦町
JR「下関」駅からサンデンバス8番乗り場、約20分
 「杉田」バス停下車徒歩約15分

『参考資料』
森本繁「史実と伝承を紀行する 源平海の合戦」新人物往来社、2005年
「下関観光ガイドブック」下関観光振興課 
新潮日本古典集成「平家物語(中)」新潮社、昭和60年
 富倉徳次郎「平家物語全注釈(中巻)」角川書店、昭和42年

 

 

 

 

 



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赤間神宮の駐車場横の阿弥陀寺公園内、
関門海峡に面して「海峡守護の碇」があります。



ここから海へ下りる石段があり、関門海峡の波が打ち寄せています。



海峡守護『碇』の由来
 水天皇大神安徳天皇をまつる赤間神宮は、関門海峡の
鎮めの神と仰がれています。 今を去る八百年の昔、
源平壇ノ浦の戦いに、平家の大将知盛は全てを見収め、
碇を背に海中深く御幼帝のお供をして龍宮城へ旅立たれました。
それより「碇知盛」で能や歌舞伎に演じられ、
勇将振りがたたえられています。このいわれをもとに、
海参道の入口を選び現代の碇を奉納し、御祭神のみたまを慰め、
海峡の平安を祈るものであります。 昭和六十年五月二日
 源平八百年祭を記念して 寄進下関海洋少年団

『平家物語』によると、壇ノ浦の戦いで敗北を悟った平知盛は、
二領の鎧を着こんで入水したと書かれています。
歌舞伎の通称『碇知盛』や能『碇潜(いかりかづき)』では、
知盛は頭上に碇を戴いて海底深く沈んでいきます。

『碇知盛』で知られる歌舞伎『義経千本桜』
二段目「渡海屋」「大物浦」の段によると、
知盛は壇ノ浦で入水したかのように見せかけ、
渡海屋銀平と名前を偽って登場し、
ひそかに平家再挙を願い義経の命を狙います。
頼朝に追われる義経は、
大物浦から九州へ向かい船出します。
しかし、知盛は義経の船を襲う前に見破られて果たせず、
碇をからだに巻いて岩の上から海底に沈んでしまいました。

謡曲「碇潜」と壇の浦
謡曲「碇潜」は、平家一門の修羅の合戦の模様とその悲壮な
最後を描いた曲である。
 壇の浦の古戦場を弔いに来た旅僧が
乗り合わせた渡し舟の漁翁に軍物語を所望する。
 漁翁(実は知盛の幽霊)は能登守教経の奮戦と壮烈な最期を詳しく語り、
弔いを願う。
 旅僧の回向に導かれるように、勇将知盛の姿が現れ、
安徳天皇をはじめ一門悉く入水するまでの経過と自らの修羅の戦いの有様や
碇を頭上に戴いて海中に飛び込んだ知盛の幻影を
旅僧は見たのであった、という構成を持つ「舟弁慶」の類曲である。
 壇の浦は急流で知られる関門海峡の早鞆の瀬戸に面した一帯をいう。
 平家滅亡の悲哀やその最後を美しくした総帥の面目と情趣に
想いの馳せる海岸である。  
謡曲史跡保存会

一勇斎国芳(歌川国芳)筆「真勇競・平知盛」個人蔵
みもすそ川公園内に建つ碇を振り上げる知盛像。
壇ノ浦古戦場跡(みもすそ川公園)

『碇潜』のあらすじ
 平家ゆかりの旅の僧が無惨な最期を遂げた平家一門を弔うため
長門国早鞆(はやとも)の浦で渡し舟に乗り、
船を操る老人に壇ノ浦の合戦の様子を尋ねると、
老人は「能登守教経が源氏の大将・義経を追い詰めたが、
八艘飛びで逃げられ、敵兵2人を両脇に抱えて入水した」と
教経の奮戦と最期のありさまを語って消えました。
 僧が平家の一族を弔っていると、平知盛と二位尼らの霊が現れます。

知盛が安徳天皇の御座船に来て、二位尼に「戦いはこれまで」と
覚悟を促すと、尼は満7歳の安徳天皇を抱いて入水し、
知盛も戦での勇姿を見せた後、鎧2領に兜を2刎(はね)つけた上に、
碇の大綱を手繰り寄せて引き上げ、頭上に頂き沈んでいきました。

 『平家物語』を典拠とした謡曲で、知盛の最期に重点を置いたものですが、
一人の主人公に焦点を合わせるのでなく、壇ノ浦で滅亡していく
平家一門をまるで絵巻物でも見るように描いています。
作者、制作年代とも不明。

阿弥陀寺公園内には、
「朝鮮通信使上陸淹留(えんりゅう=滞在)之地」の碑も建っています。

朝鮮通信使が日本本土入りした最初の上陸地が下関(赤間関)で、
かつて通信使の客館となった阿弥陀寺は、
明治時代に赤間神宮と改めました。

国道9号線を挟んで阿弥陀寺公園の向かい側にある赤間神宮。

平知盛の墓・甲宗八幡神社        
知勇を兼ね備えた平知盛の最期   
『アクセス』
「赤間神宮」山口県下関市阿弥陀寺町4−1 
JR下関駅からバス10分→ 「赤間神宮前」バス停下車すぐ。
「阿弥陀寺公園」下関市阿弥陀寺町7−7
『参考資料』
金子直樹「能鑑賞二百一番」淡交社、2008年
図説「源平合戦人物伝」学習研究社、2004年
白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫、1998年

 

 



 



 

 



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