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歴史の裏には女ありといいますが…(笑) (yukariko)
2010-02-09 21:58:50
この複雑な姻戚関係…表に立つのは男性ですが几帳の後ろで優雅に横座りしながら、同志の女房達とひそひそと重要なやり取りがなされるのでしょうね。
このように図解して頂くと本当によく分かって「納得!」

忠盛の後妻となって一生を宮廷の第一線で一族の勢力を延ばすのを生きがいとして生き抜いた池禅尼(宗子)が亡き息子に生き写しだからと助命嘆願をしたというのはあまりにお涙頂戴の話だなあと違和感があったのです。

白河・鳥羽・崇徳・後白河そして近衛・二条の宮廷で実権を握る門院、女院、乳母、乳母夫、院の近臣団と何よりも影の実力者の女房達、そして姻戚関係の門跡寺院まで巻き込んでの入り組んだ勢力争いを解説して貰うと、頼朝の流罪に落ち着くまでの裏での駆け引きも凄かったのだなあと納得しました。

池禅尼にすれば崇徳方につくべきを後白河側に付くように息子達に指示した、その手柄を考えて欲しいと迫った訳でしょう。
天皇の皇子でさえ母親の身分、勢力のあるなしだけで扱いが天地ほども違う時代ですから頼朝もその後ろ盾がどれだけあるかが考慮された結果という訳ですね。
誰々の子という血筋だけでは駄目なのがよく分かります。
 
 
 
分かりにくかったでしょうに (sakura)
2010-02-10 16:17:48
複雑な人間関係を理解してくださってありがとうございます。
頼朝の祖父季範が熱田大宮司でありながら、熱田神宮の方はほとんど留守にして官人として都に住み待賢門院に縁を通じて近づき、子供たちを女院や上西門院・後白河のお傍近くに仕えさせることに成功しています。これが後の頼朝助命につながりましたね。

池禅尼はもともと親しく、当時発言力のあった上西門院や白河法皇の皇子にまで、助命の口添えを依頼されると断れませんね。

保元の乱の三年半前に忠盛が亡くなった時、あの辛口の摂関家の頼長(保元の乱で崇徳方についた)でさえ忠盛の死について「宇槐記抄」に
「忠盛の遺産は巨万といわれるが生前の忠盛は贅沢をせず、奢ることもなく誰もがその死を惜しんだ。」と書いています。ちょうど平家が上り坂にあるころでした。
この忠盛を影で支えたのがしっかり者の池禅尼で、彼女も夫の死後、重仁親王の乳母ではありましたが、すぐに出家しています。乳母は養君を養育するのが主な仕事ですが、彼女は重仁に授乳もしています。

清盛も幼い頃から同じ邸内で彼女に育てられていますし、ご指摘していただいたように、保元の乱で一族が結束できたのも彼女の賢明な判断のおかげですから清盛も彼女には一目置いていたと思います。

また頼朝を捕えたのが頼盛の郎党宗清で、彼が身柄を預かっていたということも池禅尼が清盛に強く迫れた理由の一つかも知れませんね。
平家は保元の乱、平治の乱と二度の合戦に勝ち、全盛時代を向えることになります。
 
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