平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




藤原信頼・源義朝らの叛乱を事前に察知した信西は、藤原師光(もろみつ)ら
僅かな郎党とともに京都から宇治路を南下し、宇治から東へ入った
近江と伊賀の国境辺にある田原、その奥大道寺(だいどうじ)をめざします。

この地は3年前までは摂関家の頼長の領地でしたが、保元の乱で
頼長が朝敵として滅びたので、頼長の領地はすべて没収され、
後白河院の所領となっていました。
そのうちの田原・大道寺を信西が貰っていたのです。

信西は近江と伊賀の国境の山に分け入った辺で星の動きに異変があらわれて驚き、
郎党に都の様子を探りに行かせたところ、院御所三条東殿も信西の邸も焼き払われた上に
追手が迫っていると聞き、天変に間違いのなかったことを知ります。

もはや逃げ切れないと思った信西は、随行してきた4人の郎党に法名を授け、
穴を深く掘らせて中に入り、節を取り中通しした竹を口にあて
わずかに息ができるようにしてから土をかけてもらいました。
念仏を唱えながら往生しようとしたのですが、その行方を捜していた
摂津源氏の流れを汲む源光保(みつやす)が埋めた場所を見つけて首をとりました。

『平治物語絵巻信西の巻』には、近江と伊賀の国境辺りで自害して埋められた
信西の死体を光保の郎党が掘り起こして首を斬り落としている図が描かれています。
鎌倉後期の歴史書『百錬抄(ひゃくれんしょう)』平治元年(1159)12月17日条にも、
自害した信西の死骸が源光保に発見されたとあるので、
信西は見つけられる前に死んでいたと思われます。

ちなみに信西は藤原師光に西光(さいこう)という法名を授けます。
師光は信西が大内裏造営の際、それを助けるなどして活躍し、
鳥羽院の寵臣藤原家成の養子となります。したがって
平治の乱で藤原信頼についた公卿藤原成親(なりちか)の義弟にあたります。
平治の乱後、後白河院の第1の近臣にのしあがり勢力を振るい、
鹿ケ谷事件では、成親とともに清盛に殺害されることになります。

信西入道塚の先の山を鷲峰山(じゅぶせん)といい、修験道の開祖
役小角(えんのおづぬ)が開いたとされています。山岳信仰の霊地として栄え、
多くの坊舎が建ち並んでいましたが、今は金胎寺(こんたいじ)だけが残っています。
大道寺村は金胎寺の北側登山口として古くから開かれ、
村内を抜け金胎寺へ上る参詣道が通っています。

バス停維中前から大道寺川に沿って進みます。



鷲峰山へのハイキングコースになっています。



田原川の支流、鷲峰山から流れ出る大道(導)寺川



信西塚手前に大道寺があります。
天平勝宝8年(756)に金胎寺の泰澄が建立した大道寺があったと伝えられ
修験系の寺として栄えたようですが、戦国末期には衰退し、
昭和28年の山城水害で寺は壊滅しました。
現在の建物は平成16年に新築されたものです。









信西の塚は傍らに大道寺川が流れるのどかな風景の中にあります。
一説には、自害した信西の屍は胴のみ近くの寺に納めて胴塚として祀られ、
首は都でさらされていたのを大道寺の領民がもらいうけてこの地に塚を築いたという。
すぐ近く(道路を隔てた向い側辺)に信西首洗い池と称する小さな池があります。


信西の宝篋印塔(江戸時代)の表面には「少納言入道信西墓」と彫られています。
向かって左手に「信西入道塚」の碑と大正5(1916)年8月に有志で
この墓を整備した時に建てられた墓の由来が刻まれた石碑が右手にあります。




昔は首洗い池の案内板が建っていたそうです。

大道神社
 

祭神菅原道真

信西の首は都に持ち帰られて三条河原で検非違使に渡され、
三条大路を西に向かい西獄門(現、中京区西ノ京西円町)にかけられます。

画像は「平治物語絵詞」より引用しました。

「獄門に首をかける。」とは、首を獄門の横に立っている
樗(おうち)の木の枝に懸けることですが、絵師が勘違いしたものか
信西の首は獄門のてっぺんに懸けられたように描かれています。
西獄門の傍らには樗と思われる冬枯れの巨木が描かれ、
獄舎の板の隙間から、囚人たちの目がいっせいにのぞいています。
それを僧や稚児、烏帽子、山伏、頭巾姿のさまざまな人々が見物しています。
こうして信西は死後にまで厳しい罰が課せられます。
保元の乱で平安初期以来、絶えて久しくなかった死刑を信西の差配で断行し、
多くの人々を斬らせた報いであろうという人や
大学者・敏腕政治家の死を惜しみ同情する人々もいたという。

信西の子息

信西の子息は
有能な人達ばかりで、長男俊憲(としのり)は、
この年の4月に参議に任ぜられて公卿の仲間入りをはたしたばかり、
貞憲(さだのり)が従四位下権右中弁、
是憲(これのり)は少納言、
後妻の生んだ成範(しげのり)は
正四位下・左中将とそれぞれ要職についていました。

緒戦に勝利した 藤原信頼らは身勝手な論功行賞を行い、
信西の子息たちをことごとく流罪としました。反乱に批判的だった
藤原伊通(これみち)のとりなしで、彼らは
死罪を免れたのです。
清盛の娘と婚約を取り交していた成範は、六波羅へ助けを求めて逃げ込みますが、
身柄を信頼に引き渡されて下野国へ流され、婚約は解消されたという。
翌年には、早くも赦されて帰京し、32歳で従三位に叙され、
のち正二位中納言となり、
ことのほか桜を愛し、
邸宅に多くの桜を植え並べ「桜町中納言」とよばれます。
『平家物語』に登場する高倉天皇の寵愛を受けた小督の局は
成範の娘で信西の孫にあたります。

平治の乱で安房に配流された静憲(じょうけん)は、
まもなく召還されて後白河院の近臣となり、
『平家物語』の中では、院にも清盛にも信頼され、
二人の橋渡し的な役割をする要人となります。
法勝寺(ほっしょうじ)執行(しゅぎょう)、蓮華王院
(三十三間堂)ができてからは、そこの執行を務める法印でした。
執行とは、寺社にあって事務長として所有する荘園の事などを掌り、
大きな権限を握る立場にありました。
鹿ケ谷で
謀議が行われた場所は、『平家物語』では、俊寛が山荘を
提供したとしていますが、
『愚管抄(ぐかんしょう)』には、
静憲の山荘が舞台になったと記されています。

安居流(あぐいりゅう)唱導の祖・澄憲(ちょうけん)法印、
興福寺別当覚憲(かくけん)、
東大寺別当の勝憲(しょうけん)、
高野山蓮華谷に隠棲し、高野聖の祖と仰がれた明遍(みようへん)など、
信西の息子で僧侶となった者にも、各宗派の長となる者や著名人が出ています。

さて、信西は自害し、首をとられました。二条天皇は六波羅の清盛邸に脱出し、
一本御書所に監禁されていた後白河院は、仁和寺に逃れ、
信頼・義朝は賊軍となりました。すると天皇親政派の中から離脱する者が相次ぎ
兵力は激減し、義朝軍は熊野から帰京した清盛に大敗しました。
信西・藤原信頼(保元の乱から平治の乱へ)  
三条東殿址・信西邸跡(平治の乱のはじまり)  
『アクセス』
「信西入道塚」京都府綴喜郡宇治田原町立川宮ノ前39
京阪宇治線「宇治」駅、JR奈良線「宇治」駅、近鉄京都線「新田辺」駅から
京都京阪バス(維中前、緑苑坂、工業団地行き)約30分
(バスの本数が少ないのでご注意ください)

「維中前」下車、徒歩約25分
『参考資料』
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス、2004年
下向井龍彦「日本の歴史07武士の成長と院政」講談社、2001年
別冊太陽「王朝への挑戦平清盛」平凡社、2011年 
日本の絵巻12「平治物語絵詞」中央公論社、1994年
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店、昭和48年
古典講読シリーズ日下力「平治物語」岩波セミナーブックス、1992年
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店、昭和48年
「京都府の地名」平凡社、1991年「京都府の歴史散歩(下)」山川出版社、1999年 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
政治的な流れを忘れて関係があやふやになっているので… (yukariko)
2018-07-02 22:54:17
リンクして頂いた「保元の乱から平治の乱へ」などをもう一度読ませて頂いて、入り組んだ院や近臣達、高位の貴族間の権力争いと愛憎を整理しないと、複雑すぎて理解できませんね。
それにしても武士じゃない貴族が自殺する時どのようにするのか、深い穴の中に埋められて念仏を唱えながら往生する…という方法もあったとは。
これもかしこすぎる人の壮絶すぎる死に方ですね。
 
 
 
複雑ですね (sakura)
2018-07-03 15:04:28
文字数の多い記事「保元の乱から平治の乱へ」に
何度もお付き合いしてくださってありがとうございます。

策士信西にしては、あまりにも無残であえない最期でしたね。
武士であれば所領に逃げ込めば、守ってくれる直属の家来がいたでしょうから
例えしばらくでも身を潜めることができたでしょうに。
信西にはそうした武力もありませんし、
所領といっても3年ほど彼の支配下にあっただけの土地ですから。
地中深いところで息絶え、敵に遺骸を見つけられないようにするのが
精一杯だったのかも知れませんね。
 
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