平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



醍醐寺は源義朝の子で、頼朝の異母弟にあたる全成(幼名今若)が
平治の乱後、平清盛に召し出されて出家した寺です。(『平治物語』)

平治の乱に敗れた源義朝は、東国に落ち延びる途中、
身をよせた尾張国(愛知県)知多郡野間の
長田忠致(おさだただむね)によって殺害されました。
義朝の最期を聞いた常盤は、生まれたばかりの
牛若(義経)を抱いて、今若(全成)と乙若(義円)の手を引き、
伯父を頼って大和国宇陀郡(奈良県大宇陀町)へと
雪の中を落ちていきましたが、平家は常盤の老母を
六波羅に連れて行き、常盤母子の行方を厳しく尋問しました。
それを伝え聞いた常盤は都に戻り自首します。
常盤の美貌は京の町の人々を騒がせただけでなく、
清盛の心を大きく動かし、清盛は幼い三人の子供の命を
助ける代わりに、側室になるという条件で許しました。

当時8歳だった今若は醍醐寺に預けられ、出家して全成(ぜんじょう)と名のります。
「悪禅師とて希代のあら者なりけり」という剛毅な僧として知られ
醍醐寺悪禅師とも称され、のち法印・法眼(ほうげん)に次ぐ
法橋(ほっ きょう)の僧位を得ます。

『義経記』常盤の都落ちによると、今若は8つの春ごろから
仏門修行のため観音寺に入り、18の年に僧侶となり、「禅師の君と」いわれました。

 のちに、駿河国(静岡県東部)の富士の裾野にいて 阿野寺に入ったので
「禅師の君阿野全成」、「悪禅師」と人々から呼ばれた。としています。




仁王門(西大門)

五大力さんで賑わう金堂(国宝)
豊臣秀吉の命によって、和歌山県の湯浅から移築されたお堂です。

醍醐寺のシンボル五重塔(国宝)

不動堂

真如三昧耶堂(しんにょさんまやどう)

祖師堂

三宝院

南門

『吾妻鏡』によると、治承4年(1180)頼朝が平家打倒の兵を挙げると
全成はいち早く醍醐寺を抜け出して東国を目指します。

そして、石橋山合戦で頼朝が敗北した直後に佐々木三兄弟、
定綱・盛綱・高綱と箱根山中で行きあいます。

佐々木兄弟は全成を相模国(神奈川県)渋谷荘の
渋谷重国の館に連れて行き、全成はそこに匿われました。(28歳)
重国はこの兄弟とその父、佐々木秀義が平治の乱後、
相模国を通りがかった際、引きとめた相模国の豪族です。

秀義は義朝に従って平治の乱を戦い、頼朝が伊豆に配流された後も
平家の権勢におもねらなかったため、近江佐々木庄を没収され
伯母の夫である
藤原秀衡を頼って奥州に向うところでした。
父子は重国のもとで20年間を過ごし、

その間、兄弟は流人時代の頼朝に仕えるようになっていました。

重国は治承4年(1180)の石橋山合戦では平家方に属しましたが、
源氏方の佐々木定綱らをかくまったので、
養和元年(1181)8月、
頼朝に降ったのち所領を安堵され、
子息高重とともに御家人となりました

『吾妻鏡』治承4年(1180)10月1日条によると、
石橋山の戦いで
散り散りになった者たちの多くが、頼朝が当時
滞在していた
下総国鷺沼(千葉県習志野市)の宿所に集まり、
その中に全成もいました。
全成は「以仁王が平家追討の
令旨を下されたということを伝え聞き、
密かに
醍醐寺を出て修行僧を装って下向してきました。」と
語り頼朝を感激させています。


全成は同年11月には武蔵国長尾寺の別当職を与えられ、
やがて北条政子の妹
阿波局と結婚して
駿河国阿野荘(静岡県沼津市)を拝領し、
そこに居住して
阿野氏を名のり、
阿野法橋と称したとされています。

阿波局は頼朝の次男千幡(実朝)の乳母となり、

全成は乳母夫として養育にかかわります。
一方、頼朝の長男頼家の乳母には比企尼の娘
(河越重頼の妻)が選ばれています。
比企尼は甥の比企能員(よしかず)を養子とし、
能員は頼家の乳母夫となり、

従兄弟同士が乳母・乳母夫となった例です。

頼家が比企能員の娘若狭局をめとり、一幡(いちまん)をもうけると、
能員は御家人中では一目おかれる存在となりました。
ちなみに比企尼は頼朝の乳母として幼い頼朝の養育にあたり、
平治の乱で頼朝が伊豆に配流されると夫とともに所領のある
武蔵国比企郡に下り、
頼朝旗揚げまでの20年間余
食糧を伊豆に送り続け、その流人生活を支えた尼です。

鎌倉入りした頼朝は長年にわたる比企尼の恩に報いるため鎌倉の中心地に
広い敷地(現・比企ヶ谷妙本寺)を比企一族に与えています。

一幡誕生の翌、正治元年(1199)、頼朝が没し18歳の頼家が
将軍職につくと
さまざまな問題が表面化するようになりました。

頼家は妻の実家である比企氏を重用し、比企能員が幕府内で
発言力を強めると
北条氏との対立が強まるようになりました。

政子は頼家の独裁権を奪い、
鎌倉幕府の政治は有力御家人
和田義盛・三浦義澄・北条時政・比企能員ら

13人の合議によって行われることになりました。
頼家が頼朝の跡を継いで僅か3ヶ月後のことでした。

また頼家の長男一幡が将軍職を継ぐことになれば比企氏の地位は
いよいよ強まるであろうと危機感をもった北条氏は、
千幡(実朝)の将軍擁立を図り、頼家や一幡を
擁立する
比企能員との対立が一層激化していきました。

こうした中、建仁3年(1203)5月、全成は突如謀反の疑いをかけられ
頼家の命を受けた武田信光に生け捕られ、常陸に配流されました。
この時、頼家側は全成の妻の
阿波局を尋問したいからと
引渡しを迫りましたが、
姉の政子が擁護し難をのがれました。
同年6月、八田知家によって51歳で下野で討たれ、翌月、
京都の東山延年寺にいた子の頼全(らいぜん)も殺されました。
全成の妻阿波局が北条時政の娘であり、千幡(実朝)の
乳母であることから、全成は頼家と比企一族、実朝と北条氏との
対立に巻き込まれたためと考えられています。
この後、比企の乱が起こり比企氏は敗れ頼家は政子に出家させられ
実朝が将軍の地位につくことになりました。
醍醐寺最大の宗教行事、餅上げ力奉納 醍醐寺五大力さん  
『アクセス』
「醍醐寺」京都市伏見区醍醐東大路町22
地下鉄東西線「醍醐駅」下車 ②番出口より徒歩約10分

JR京都駅から、JR東海道本線(琵琶湖線)または湖西線約5分で山科駅
京都市営地下鉄東西線に乗り換え、約10分の「醍醐駅」で下車。

JR奈良線・六地蔵駅、京阪六地蔵駅で
地下鉄東西線に乗り換え約5分「醍醐駅」で下車。

京阪バス22・22A系統「醍醐寺前」下車
京阪バス山科急行線「醍醐寺」下車
『参考資料』
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 田端泰子「乳母の力」吉川弘文館 
川合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館 現代語訳「義経記」河出文庫

出雲隆「鎌倉武家事典」青蛙房 「源頼朝のすべて」新人物往来社
元木泰雄「源義経」吉川弘文館 「保元物語 平治物語」岩波書店

現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 別冊歴史読本「源義経の謎」新人 物往来社
渡辺保「北条政子」吉川弘文館 




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醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山で、笠取山全体が寺域です。
山上を上醍醐、山麓を下醍醐と呼び、醍醐寺は
貞観16年(874)修験の道場として上醍醐から始まりました。

五重塔のある下醍醐から一時間ほど山道を上醍醐へ
登っていくと五大明王を祀る五大堂があります。
五大堂は醍醐天皇の御願により朝敵降伏を祈るために建立されたという。

右端の全画面ボタンを押して切り替え、三角をクリックして
スライドショーをご覧ください。速度は右から二番目のボタンを
クリックして5に設定してくださるとゆっくりとご覧になれます。

 「五大力さん」として親しまれている五大力尊仁王会(にんのうえ)は、
 この五大明王のご利益をいただく開山以来
一千有余年続く伝統的な宗教行事です。

毎年2月15日から7日間、一山、末寺の僧侶により、
二十一座の前行が修せられます。
21日に「御影(おみえ)下り」の儀があり、
上醍醐の五大堂より
下醍醐の金堂に移り、鏡餅が供えられます。
この鏡餅は重さが100㎏もあり、
紅白の鏡餅5組が金堂に供えられます。

23日、法要を行った後、正午から始まる「餅上げ力奉納」は、
男女が特大の鏡餅(男姓は150キロ・女姓は90キロ)を
持上げて耐久時間を競い、優勝者には
この鏡餅の上部が与えられます。

昭和五十年までは上醍醐五大堂の前でしたが、
今は下醍醐の金堂前広場で行われ、
参拝者には「五大力さんの御影」が授与されます。

 なお醍醐寺は、源義経の兄今若が平治の乱後、
預けられ出家した寺です。
  『アクセス』
「醍醐寺」京都市伏見区醍醐東大路町22
地下鉄東西線「醍醐駅」下車 ②番出口より徒歩約10分

JR京都駅から、JR東海道本線(琵琶湖線)または湖西線約5分で山科駅
京都市営地下鉄東西線に乗り換え、約10分の「醍醐駅」で下車。

JR奈良線・六地蔵駅、京阪六地蔵駅で
地下鉄東西線に乗り換え約5分「醍醐駅」で下車。

 京阪バス22・22A系統「醍醐寺前」下車
京阪バス山科急行線「醍醐寺」下車
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)駿々堂
「日本のまつりと年中行事事典」桜楓社
「京都大事典」淡交社 
「醍醐寺」小学館

 

 

 

 

 

 



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神護寺は、洛西高雄山の山腹にある紅葉の名所です。バス停「高雄」から
清滝川に架かる橋を渡ると、自然石の石段の向こうに神護寺の楼門が現われます。



神護寺は最初、この地に高雄山寺があったのを、和気清麻呂が
延暦年間(782―806)
復興し氏寺にしました。中国から帰国した空海が
14年間住持し、最澄・和気真綱・仲世らに灌頂をおこなったことから
寺は平安新仏教の
道場となって栄え、寺名も神護寺と改めました。


金堂の石段から毘沙門堂・五大堂をのぞむ

空海とその弟子真済(しんぜい)を中心に整備された神護寺も二度の
火災によって
衰退の一途を辿り、ほとんど廃墟となったこの寺に
仁安三年(1168)、空海を崇拝する文覚がその遺跡を慕ってやってきました。

文覚はこの寺を修復しようと勧進帳をささげて、方々で寄附を集めて歩きましたが
思うようにはかどりません。
ある日、文覚は後白河法皇の御所
法住寺殿を訪れ、
大音声で勧進帳を読み上げます。
ちょうど御前では太政大臣師長が琵琶をかきならし、
大納言資賢は拍子をとって
風俗・催馬楽を詠い管弦の遊びが盛り上がっている
最中でした。
文覚は退出を命じられても退かず左手に勧進帳を右手に刀を持って

大暴れしたため、北面の武士によって捕らえられ伊豆に流されることになりました。
当時の伊豆の知行国主は源頼政、国守はその嫡男の仲綱です。

『源平盛衰記』には「仲綱は渡辺党の渡辺省(はぶく)に命じて、文覚護送の
用意を
整えさせます。文覚を乗せた舟は下鳥羽より淀川を下り渡辺津に上陸し、
ここに4、5日
逗留してから、海路をとり由良の湊・田辺の沖・新宮の浦に船を着けます。
そして熊野山を伏し拝み、
熊野灘から伊豆に向った。」と書かれています。
『中世の大阪』には、文覚を頼政に預け仲綱の監視のもと、

配流の地を伊豆としたことについて「誰かの、何らかの意思が働いていたと
考えられるのではないか。」とあり、後白河法皇の存在をにおわせています。


伊豆に流された文覚は源頼朝に会い挙兵を勧めた後、福原に下り
藤原光能を介して後白河法皇から平家追討の院宣を手に入れました。

頼朝と後白河法皇のかけ橋となって頼朝の挙兵の決意を促したのは
実は文覚だったのだと『平家物語』は語っています。

治承4年(1180)頼朝の挙兵が成功した後、文覚は寿永元年(1182)11月、
後白河法皇が蓮華王院に御幸の際、改めて神護寺再興のための
荘園寄進を願い出て許されています。さらに頼朝からも寄進をうけ、
神護寺の再興が軌道にのると、次に文覚は空海ゆかりの深い
東寺・西寺・高野大塔などの復興にも尽力しました。
源平の戦乱後の残党狩りで、平家の血を引く多くの子供達が

殺されるのを見た文覚は、平維盛の嫡男六代の助命を頼朝に願い出ます。
しかし頼朝は頑として許しませんでした。
再三懇願され、とうとう根負けした頼朝が渋々承諾することになりました。
頼朝は昔自分が清盛に許されて平家を滅ぼしただけに平家嫡流で
重盛の孫にあたる六代の将来を考えると不安であったに違いありません。

六代の成長とともに頼朝は「文覚は六代が謀反を起こさば
味方しかねない聖の御房なり。」とひそかに側近に囁いていたといいます。
頼朝の謀反を助けた文覚が今度は六代の謀反を助けるのではないかという疑惑です。

頼朝が亡くなると文覚の立場は悪化し、さまざまな政争に巻き込まれて
佐渡に流罪となり、六代は文覚が配流中に殺されました。
許されて佐渡から都に帰ったほぼ1年後、再び罪を問われて対馬に流されます。
その途上の鎮西で、文覚は数名の弟子に看とられながら波乱にみちた生涯を閉じました。
その後、神護寺は文覚の弟子上覚によって引き継がれ鎌倉時代に諸堂が完成し、
文覚の遺骨は上覚によって持ち帰られ遺言により高雄山頂に祀られています。

神護寺の楼門を入った境内参道の右手に和気公霊廟があります。

和気清麻呂の廟所
その山手(北)に鐘楼があり、鐘楼横から細い山道をのぼると
文覚上人の墓があります。





文覚は「神護寺の山の京都の町がよく見下ろせるところに
遺骨を置け」と遺言したと伝えられています。


文覚の墓の傍には後深草天皇の皇子で
仁和寺門跡となった性仁(しょうにん)法親王が祀られています。
性仁法親王は神護寺に入り、神護寺の興隆に尽しました。

その五輪塔は文覚上人に対する敬慕の念から文覚の五輪塔より
一回り小さく造られたといわれています。

「神護寺略記」によれば神護寺には藤原隆信が描いた後白河法皇・
源頼朝・平重盛・藤原光能(みつよし)・平業房(なりふさ)の肖像画が
かけられていたという。そのうち神護寺に今残っている国宝三幅は源頼朝、
平重盛、そして姉妹が以仁王の妾であり後白河法皇院宣に一役かった
藤原光能の像と考えられています。
文覚の滝 (飛瀧神社)    文覚寺   萱の御所(文覚と頼朝)  
恋塚寺(文覚と袈裟御前)   
恋塚浄禅寺(文覚と袈裟御前)  
文覚牢跡(文覚町・高雄町・紅葉町)  
『アクセス』
「神護寺」京都市右京区梅ヶ畑高雄町
JR京都駅、地下鉄烏丸線京都駅からJRバス「高雄・京北線」で約50分、「山城高雄」下車、徒歩約20分
阪急京都線烏丸駅、地下鉄烏丸線四条駅から市バス8号系統で約45分、「高雄」下車、徒歩約20分
バス停から朱塗りの高雄橋を渡り、そこから坂を上ると
やがて神護寺の高い石段が見えます。
「文覚上人の墓」(鐘楼横から約20分)
鐘楼横の左側から西北へ、途中に「←文覚上人墓 5分」の木製の道しるべがあります。
「和気清麻呂の墓」鐘楼横の右手から北へ300mほど上ったところに祀られています。
『参考資料』
加地宏江・中原俊章「中世の大阪」松籟社 新定「源平盛衰記」(第二巻)新人物往来社
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 梅原猛「京都発見」(7)新潮社
山田昭全「平家物語の人びと」新人物往来社 「神護寺・高山寺」小学館
「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「京都名所図会」(洛西)俊々堂
 

森浩一「京都の歴史を足元からさぐる」(嵯峨・嵐山・花園・松尾の巻)学生社
 
 

 

 





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渡辺津の鎮守社である坐摩(いかすり)神社は、
もと渡辺党の本拠地(現、天満橋の西方、中央区石町付近)にあり、
広い境内を抱えていましたが、豊臣秀吉が大阪城築城の際、
現在の東本願寺難波別院(南御堂)の西側に移転させました

坐摩神社、通称ざま神社の起こりには諸説がありますが、
神功皇后が新羅より帰還の折、淀川南岸の大江、
田蓑島
(のちの渡辺の地)
に奉祀されたのが始まりとされています。

鳥居は両側に袖鳥居をもつ「三輪鳥居」様式です。





摂津国一宮 坐摩神社
例年7月21日が夏季大祭宵宮祭、 22日が夏季大祭と
末社陶器神社例祭宵宮祭、23日が末社陶器神社例祭(せともの祭)
10月21日、
秋季大祭宵宮祭 10月22日、秋季大祭が執り行われます。





北大江公園の西側、ビルの谷間に坐摩神社行宮の小さな祠があります。

かつて坐摩神社はここに祀られていました。木製の鳥居をくぐると祠の手前に
鎮座石と書かれた案内板があり、鉄柵を覗くと石が置かれています。
神功皇后が新羅からの帰り道にこの石に腰をかけたと伝えられ、
石町(こくまち)の町名の由来という。
当時、淀川(現大川)は今より川幅が広く、この辺が岸辺だったと考えられています。
熊野・住吉社・四天王寺へ参詣する人々は、11C後半になると京の下鳥羽から淀川を
船で下り、渡辺津に上陸し、四天王寺から住吉へそれから熊野へと向いました。


この付近には、熊野詣の陸の出発点の渡辺王子(窪津王子とも)があったといわれ、
熊野詣のため渡辺津に上陸した人々は、まず渡辺王子を参拝し旅の無事を祈りました。

坐摩神社行宮 豊磐間戸・奇磐間戸神社由緒 
御祭神 豊磐間戸神・奇磐間戸神
是地は坐摩神社の旧鎮座地であって、天正十一年(1583年)豊臣秀吉大阪築城に際し
城域に当る為、現在の大阪市中央区久太郎町四丁目に遷座されるまで当地に鎮座し給うた。
社傳によると神功皇后が新羅よりご帰途の折この地に坐摩神を始めて奉斎され、
また石上に御休息されたと伝えている。 今も境内に御鎮座石が残り、
故にこの地を石町と称すともいう。 平安期、熊野詣が盛んとなり、京都から
摂津・和泉をへて、熊野本宮に至る熊野古道沿いに熊野王子社が数多く設けられたが、
淀川を船で下り最初に参詣する第一王子ともよばれる渡辺王子(別名窪津王子)社の
もとの鎮座地と云う。(坐摩神社行宮駒札より)



 
陸上交通が今日ほど発達していなかった当時、淀川は京と西国を結ぶ重要な水路でした。

この淀川河口の港渡辺津を支配していたのが水軍・騎馬軍を兼ね備えた渡辺党です。
これまで渡辺津は、江戸時代に八軒家とよばれた現在の天満橋付近にあったと
考えられてきたましが、最近の考古学の発掘成果ではそれよりも西の
天神橋周辺とする説が有力となっていいます。

『源平盛衰記』は、遠藤盛遠(文覚)が袈裟御前を見初めたのは、
渡辺橋をかけた橋供養の日で
あったとドラマチックに語っています。
現在、北区堂島川に渡辺橋がかかっていますが、
当時の橋は現在の橋とは
異なる位置にあり、天満橋と天神橋の間にあったと
推定されています。
度々の洪水のために渡辺橋は流され架けかえられたと思われます。
 

現在の天満橋付近の風景。
渡辺党には、源姓渡辺氏と遠藤姓渡辺氏があり、源姓渡辺氏は嵯峨天皇より
六代にあたる 綱を祖としています。渡辺綱といえば頼光四天王の一人とされ、
大江山酒呑童子退治や一条戻り橋で鬼の腕を斬りおとした説話で有名です。
頼光の母が嵯峨源氏俊の娘であった関係で、綱は頼光に従うようになり、
渡辺に本拠地を構えて渡辺氏を名のり、代々、競(きおう)・唱(となう)のような
一字名を称したため、「渡辺一文字名の輩(ともがら)」といわれました。

頼光の子孫である源頼政の時代になると「渡辺一文字名の輩」の面々は
彼の配下として保元の乱や平治の乱で戦い、頼政軍の主力は彼らでした。
『平家物語』では、治承4年(1180)5月の宇治川合戦、
文治元年(1185)3月の壇ノ浦合戦などに渡辺氏の活躍が記されています。

遠藤姓を名のる渡辺氏の名前は、二字名であり、平将門の追討使となった
藤原忠文を祖とします。平安時代になると源姓渡辺氏と姻戚関係を結び
両者は大きな勢力をきずきました。一門からは頼朝挙兵に深くかかわった
文覚を出し、四天王寺の執行(しぎょう)も出ています。
執行とは寺の事務・法会をつかさどる役職をいう。
源姓渡辺氏、遠藤姓渡辺氏は伝統的に弓矢の名手の家柄であったため、
メンバーの多くが渡辺に基盤をもちながら、一方では滝口として
宮中の滝口近くで宿直番(とのいばん)として天皇に仕えました。

坐摩神社は、11C以降、遠藤氏が世襲し4人の長者(神主)が管理していました。
坐摩神社の長者の一人の遠藤家国(文覚の甥)は、文覚の指図で
頼朝の挙兵に参加しています。その後、家国は頼朝・北条氏に
近臣として仕える一方、坐摩神社の神主職もつとめていることから、
鎌倉と渡辺津を船で往復していたと思われます。
のち北条氏と姻戚関係を結んだ遠藤氏は、北条氏の瀬戸内海海上支配の
一翼をになうこととなりますが、
秀吉が大阪城を建設する頃には歴史の表舞台から姿を消しました。
渡辺の津(義経屋島へ出撃)  
『アクセス』
「坐摩神社」大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号(伊藤忠商事と南御堂の裏手)
大阪市営地下鉄本町駅15番出口より西へ1つ目の角を左に折れ徒歩3分
市営地下鉄本町駅21番出口より東へ2つ目の角を右に折れ徒歩3分

開門時間  平日7:30~17:30 土日祝日 7:30~17:00

「坐摩社行宮」大阪市中央区石町2 
京阪電車「天満橋」駅、地下鉄谷町線「天満橋」下車、西へ徒歩約7

『参考資料』
加地宏江・中原俊章「中世の大阪」松籟社 河音能平「大阪の中世前期」清文堂
「大阪春秋」(№135)新風書房 「歴史を読みなおす」(武士とは何だろうか)朝日新聞社 
「検証・日本史の舞台」東京堂出版  現代語訳「吾妻鏡」(6)吉川弘文堂
 
 



 
 



 
 
 





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文覚上人ゆかりの「恋塚」は上鳥羽の「浄禅寺」にもありますが、
下鳥羽の「利剣山恋塚寺」の境内にもあります。


鳥羽街道を南へ鴨川に架かる小枝(こえだ)橋を
東に渡り、
鳥羽離宮公園を過ぎて千本赤池の交差点を横断すると

やがて左手に恋塚寺の萱葺きの山門が見えてきます。
寺伝によると、嘉応二年(1170)遠藤盛遠が出家して袈裟御前の
塚を築き菩提を弔ったのを始まりとし、境内にある袈裟御前の墓
「恋塚」にちなんで寺名としました。

鳥羽離宮公園には、もと鳥羽離宮につくられた四季になぞらえた
四つの山の一つ
秋の山とよばれる小丘があり、
庭園の築山遺跡が整備されて公園となり昔を偲ばせます。

かつて秋の山の西南方向に小さな池があり、遠藤盛遠が袈裟を斬った太刀を
洗ったところ池の水が赤く染まったので赤池とよぶようになったといい、
「千本赤池交差点」にその名を残しています。


鴨川の東側に沿って南北につらぬく鳥羽街道は、古来より都に入る
交通の要路であり、恋塚寺のある下鳥羽は、草津ともいわれ都より
西国へ赴く人々の乗船地でもあり、街道は人々の往来で賑わいました。
『平家物語』によれば、鹿ケ谷の陰謀が発覚し備前の児島に流された藤原成親や
厳島神社へ御幸された高倉上皇は、この草津の湊から乗船されたとあります。


文覚が出家した動機は「源平盛衰記」で語られ、能・歌舞伎・浄瑠璃、

芥川龍之介の「袈裟と盛遠」などによってよく知られていることは、
浄禅寺の記事でもご紹介しました。

元暦二年(1185)に文覚は「四十五箇条起請文」(国宝)を作り
後白河法皇に上程しています。
それは、神護寺の由緒にはじまり法皇に勧進した時のことや

伊豆流罪の経過など自らの半生を語り、後半は神護寺の
維持経営について
僧侶が守るべきことを記しています。
そして「これより以前のことはつぶさに別記に載せる」とあり、
文覚出家のいきさつについて別に書き記したものがあることがわかります。
しかしこの別記は残っていません。

文覚は神護寺再興を志し、承安三年(1173)に後白河院の御所法住寺へ強訴し、
伊豆に流罪になるまで、どこで何をしていたかを示す確実な史料がありません。

『京の石碑ものがたり』には、「文覚は実在の人物であるが、袈裟御前への
横恋慕は伝説だと思ったほうがよい。鎌倉時代に著された僧侶の伝記集
『元亭釈書』巻十四の文覚の項には、「十八歳の年に誤って婦人の首を斬る。
これにより剃髪した。」と書かれていることから、
似たようなことはあったのだろう。と記されています。


このことからも出家の動機は、恋愛問題にあったと推測され、
盛衰記の作者は「四十五箇条起請文」の別記を読み、虚構をまじえながら
ドラマチックに脚色したとも思われます。

文覚は『源平盛衰記』御伽草子『猿源氏』や能・浄瑠璃・歌舞伎などの
古典芸能の題材にも取り上げられ次第に伝説化され、

袈裟御前が夫の代わりになって遠藤盛遠に自らの首をはねさせた

哀話は口伝えに広まり、袈裟は貞女の鑑と賞賛され、
街道筋に面して建つ恋塚寺にはお参りする人が絶えなかったと思われます。

境内には上鳥羽の浄禅寺にある林羅山撰文と同じ文面が刻まれた石碑があります。
この碑には「昭和57年1月再建之」と刻まれているので、かつて2つの寺には
同じ文面の石
碑があったのかと思い「この石碑は再建されたものですか。」と
お寺の方にお尋ねすると、
お寺に伝えられている寛永17年(1640)の版木をもとにして、
先代がこの碑をお建てになったということでした。

浄禅寺の恋塚碑(袈裟御前顕彰碑)には、正保4年(1647)の銘があるので、
恋塚寺の版木はそれよりも古いということになります。

『京の石碑ものがたり』には、「浄禅寺にある林羅山の撰文は版木に起し、
摺り物にして配ったことがある。」と書かれていることから、
この寺の版木も浄禅寺と同様に刷り物にして参拝者に配布されていたと思われます。

林羅山撰文の版木をもとにして建てられた鳥羽恋塚碑

碑文の大意「鳥羽の恋塚は、文覚が源渡の妻のために築いたものである。
ことの起こりは遠藤盛遠が彼女に一目ぼれし、仲立ちせよと女の母を
脅したことにある(この間源平盛衰記と同様の筋なので略)。
盛遠ははなはだ悲しみ出家してしまった。その後、高雄山に住んでいる時、
袈裟の首を埋めた場所を遠く望み、塚を恋塚と名付けた。
世に伝えるところは以上のとおりである。袈裟は女の身でありながら
母に孝、夫に義、自分に節を尽した。男であってもこうはいかない。
中国長安の大昌里の節女の話などは比べものにならない。
中国には女性を祀る墓や塚がたくさんあるが、恋塚の比ではない。
孝女・貞女の行いはその名も碑も不朽である。袈裟の名もまたその類であろう。
かの塚に恋をもって名づけるのは、色欲を言うのであろうか
節義をいうのであろうか。おろそかに判断するなかれ。」
『京の石碑ものがたり』より転載させていただきました。

恋塚

本堂には、袈裟御前と渡辺渡、文覚上人の木像が安置されています。






文覚上人建立と伝えられる六字名号石と寺の縁起を記す縁起石碑

縁起石碑の表には「渡辺左衛門尉源渡妻袈裟御前秀玉尼之墓所 
天養元年六月文覚上人開基恋塚根元之地、嘉応二年建立」と刻まれています。

本堂前の「重修恋塚碑」には、岩垣竜渓の撰文による
恋塚と寺の由緒が記され、明治42年建立と刻まれています。
恋塚浄禅寺(文覚と袈裟御前)  
『アクセス』
「恋塚寺」京都市伏見区下鳥羽城ノ越町132
京阪・近鉄電車「丹波橋」駅より 西へ徒歩30
浄禅寺より南へ約30分

京阪「中書島」駅より 市バス7分 「国道下鳥羽」   下車 徒歩5
京阪「中書島」駅より 市バス7分 「下鳥羽城ノ越町」下車 徒歩2
JR
「京都」駅より  市バス 約25分「下鳥羽城ノ越町」下車 徒歩2
『参考資料』
伊東宗裕「京の石碑ものがたり」京都新聞社 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書
加地宏江・中原俊幸「中世の大阪」松籟社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)駿々堂
竹村俊則「鴨川周辺の史跡を歩く」京都新聞社



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