平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




♪ほのぼのと明石の浦のあさ霧に 嶋かくれゆく舟をしそ思ふ(柿本人麻呂・古今集巻9)

清盛は福原へ安徳天皇を伴ってきたものの、
福原は山と海に挟まれた狭い土地であるため、
新都建設するにも京域(条里)を充分にとることができません。

建設地を印南野(いなみの)にすべきだとか、
古代より西国と都を結ぶ交通の要所である
昆陽野(小屋野)にすべき、ともいわれその選定ははかどらず、
福原京の造営は遅々として進みませんでした。
印南野は、1167年清盛が大功田(国家より功労のあったものに賜った田)として
与えられた土地でしたが、水不足の土地であったため見送られました。


清盛にはここに都を遷すというはっきりとした構想はなかったようです。
公卿達の屋敷造りも進まず、京都の家屋を分解して淀川で運び
大工を連れてきて、福原で組み立てさせた者もありました。
やっと出来上がった頃には半年足らずで旧都へ還ることになります。







『参考資料』
村井康彦「平家物語の世界」東京堂出版 高橋昌明「平清盛・福原の夢」講談社


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上西門院統子(むねこ)内親王は、後白河天皇の姉で、平治の乱後、
母待賢門院璋子が晩年を過ごした法金剛院に入り、この寺で出家しました。

法金剛院

母・待賢門院璋子時代からの家臣・女房たちが仕えた上西門院の御所は、
優れた歌人を輩出し、西行らが集う文芸サロンでした。

若き日の頼朝は母が上西門院の女房であったため、上西門院の蔵人となり、
上西門院の殿上始(でんじょうはじめ)に初出仕し、
殿上人筆頭の清盛と宴の席で顔を合わせています。
しかしこの十ヶ月後には、両者は敵味方となって戦うことになります。(平治の乱)

上西門院に仕えていた女房には清盛の妻の異母妹平滋子(建春門院)がいます。
美しく聡明な彼女の評判が後白河天皇のお耳に達し、天皇の寵愛を受けた
滋子が、憲仁(高倉天皇)を生み平氏と後白河を結びつけます。
建春門院が安元二年(1176)に亡くなると後白河院と平氏の関係は終り
院の近臣と平氏の争いが激化していきます。 

平家物語巻九『小宰相の事』には、教盛(清盛の弟)の嫡男・越前三位通盛は、
法勝寺の花見で、上西門院に仕える小宰相(こざいしょう)局を見初め
文を渡しましたが、三年たっても返事が
もらえません。
通盛の最後の思いを綴った文を女院が拾い、
自ら通盛への返事を書いて二人の仲をとりもったというエピソードが見えます。 

平家物語巻五『月見の事』でふるき都の月を思い福原から京に戻り、
今様を詠い人々の涙を誘った徳大寺実定の妻・備後もやはり上西門院の女房でした。
備後は実定との間に、従一位左大臣にまで昇った徳大寺公継をもうけています。 

待賢門院堀河の妹兵衛の局は、はじめ待賢門院に仕えていましたが、
待賢門院が亡くなると上西門院に仕え多くの秀歌を詠んでいます。
のちに頼朝に謀反をそそのかす遠藤盛遠(文覚)や
その弟子千葉胤頼と女院に仕えていた人々の顔ぶれは多彩です。

法金剛院の背後、東側に「統子内親王花園東陵」があります。

文治5年(1189)7月、上西門院は64歳で亡くなりここに葬られました。
『アクセス』
「法金剛院」京都市右京区花園扇野町 JR花園駅下車 徒歩5分

「統子内親王花園東陵」京都市右京区花園寺ノ内町 今宮神社前道路を隔てた西側
JR花園駅下車 徒歩5、6分
『参考資料』
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
「昭和京都名所図会」(洛西)竹村俊則

 
 
 



 
 

 

 


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◆雪見(ゆきみの)御所旧跡の道標

湊山小学校のある辺は、雪見御所と呼ばれた清盛の山荘推定地で、この小学校の北側、
バス通りに面して「雪見御所旧跡」と彫られた石碑と
説明板がたっています。

治承4年(11806月、平清盛は安徳天皇、高倉上皇らを伴って福原へと遷都を強行し、
清盛の山荘は
安徳天皇の仮の皇居となり、山荘は御所とも呼ばれました。

都落ちの際、平家一門は福原に立ち寄り、全てを焼き払って
西国に落ち延びたため福原京の正確な場所は定かではありませんが、
付近には、今も雪御所(ゆきのごしょ)町の地名が残り、
湊山小学校一帯が雪見御所跡と推定されています。


福原京址に佇む雪見御所跡の碑

仁安二年(1167)に太政大臣を辞し、家督を重盛に譲った清盛は、
生活の本拠を福原(現・神戸市兵庫区)に移し、没するまでの
約10年間のほとんどをこの山荘で過ごし、その間、
大輪田の泊の修築や対宋貿易・福原遷都などの
大事業を計画しました。
『高倉院厳島御幸記』によると、清盛の山荘は豪華を極め、
絵にも描けぬほど美しい庭があったという。

明治39年(1906)頃、雪御所町で屋敷跡の礎石や瓦、
湊山小学校の校庭からは土器などが発掘されました。
石碑に使われている大きな石は、
その時に発見された御所の庭石(礎石とも)の一つです。


平成5年には、この小学校付近の祇園遺跡(上祇園町)から
平安時代後期の大規模な庭園跡や宴会に使った皿(かわらけ)、
中国産の陶磁器などが見つかり注目されました。

遷都時、治承4年
6月3日に福原に到着した高倉上皇は、
清盛の山荘に入りましたが、直後の4日夜には頼盛邸に移り、
安徳天皇が頼盛邸から清盛山荘にと御所を交替しました。

雪見の御所の北側には、安徳天皇が福原遷都の際に内裏が完成するまで
過ごした「平野殿」があったことが
知られています。

湊山小学校は2016年4月に付近の小学校と合併し、現在廃校となっています。
平家の地にたつ二体の清盛像 清盛の湯屋跡  

◆荒田八幡神社
古くは高田神社といい、熊野権現を祀っていましたが、明治初年の神仏分離令で、
宝地院境内にあった八幡社を合祀し、荒田八幡神社と改めました。

荒田八幡神社付近一帯には、清盛の弟・頼盛の山荘があったとされています。
福原遷都の時には、この邸が安徳天皇の行在所となりましたが、
僅か1日程で天皇は清盛邸に移りました。

替わって高倉上皇が頼盛邸を御所としましたが、
その後体調不良を訴え、陰陽師の占いに従って重衡邸に移動しました。

『神戸と平家』(地中から語る清盛の時代)によると、
厳島神社に参詣した高倉上皇の一行が
福原に立ち寄った時、
頼盛の邸で笠懸流鏑馬(かさがけやぶさめ)が
行われたとあり、
頼盛の別荘は相当広い邸だったと思われます。
また市街の設計を
朝鮮半島の人が行い、福原は異国情緒あふれる町並だったようです。

平成15年(2003)神戸大学附属病院の敷地内から、
二重堀りや建物跡が発見され大きな話題をよびました。
それは荒田八幡神社から約200m東にある神戸大学病院一帯が
頼盛の邸跡だと推定されているからです。


荒田八幡神社は玉垣に囲まれた高台に鎮座し、安徳天皇も祀られています。

安徳天皇は福原遷都の第一夜を頼盛の山荘に泊まり行在所となったので、
荒田八幡神社境内には「史蹟安徳天皇行在所址」の標石がたっています。


昭和55年、神戸史談会により建てられた「福原遷都八百年記念之碑」地院






荒田八幡神社のすぐ近くにある薬王山宝地院は、安徳天皇の菩提を弔うために
弘安2年(1279)に建立されたと伝えられています。

頼盛の山荘はこの付近一帯にわたる広大な地域を占めていたと思われ、
この寺も頼盛山荘跡ですが、荒田八幡神社が高台にあり、目につきやすいところから
山荘跡の碑が神社の境内に建てられたと考えられています。


 現在、宝地院は保育園も運営されており、
本堂の前が保育園の運動場となっています。


◆薬仙寺
清盛塚・琵琶塚前の清盛橋を渡り、しばらく行くと行基が開いたと
伝えられる薬仙寺(時宗)があります。鎌倉幕府の討幕計画に敗れ
隠岐に流された後醍醐天皇が、ひそかに隠岐を脱出して京へ向かう途中、
福厳寺(兵庫区門口町)の行在所でひどい頭痛に悩まされたことがあり、
薬仙寺の
霊水を飲まれたところ回復されたので
天皇から薬仙寺の寺名を下されたという。


後白河法皇は鳥羽殿に幽閉された後、一度は都に戻されましたが、
以仁王の謀反が発覚すると、ふたたび過酷な状況におかれました。
福原遷都の際、
福原につれてこられた法皇の「萱の御所跡」の碑が薬仙寺境内にあります。

御所とは名ばかり、
周囲には板塀をめぐらし、
一つだけ入り口を開けた小さな板屋に清盛は法皇を押し込めました。
守護の武士には原田大夫種直がつき、それを口さがない人々が
「籠(ろう)の御所」と囃したと『平家物語・巻5・都遷し』は語っています。

この石碑はもとは寺の北にある新川運河の地にありましたが、
運河の拡張工事で水没したために現在地に移築再建されました。

薬仙寺

 
夢野(現、兵庫区夢野町)には、清盛の弟平教盛の別邸があり、
福原遷都の際にこの屋敷内に後白河法皇が入ったと伝えられ、
実際の「萱の御所」は、教盛邸だったのではないかと考えられています。

萱の御所(文覚と頼朝)  
薬仙寺  
『アクセス』
「雪見御所旧跡の石碑」神戸市兵庫区雪御所町2-1 
JR神戸駅より神戸市営バス停「石井橋」下車すぐ
市立湊山小学校の北側歩道脇

「荒田八幡神社」神戸市兵庫区荒田町3丁目99 
清盛邸から頼盛邸からまでの距離は、
当時の貴族の日記に
4,5町(440mから550m)とあります。
 湊山小学校から坂道を下ると、
徒歩約12分
または、JR神戸駅下車バス停「大学病院前下車、徒歩約5分
「宝地院」は、荒田八幡神社からすぐです。


「薬仙寺」 神戸市兵庫区今在家町4-1-14 
JR「和田岬」駅下車徒歩約10分又はJR「兵庫」駅下車徒歩17分
『参考資料』
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社 「ひょうご全史(下)」神戸新聞総合出版センター
川合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館 「兵庫県の歴史散歩」(上)山川出版社
神戸史談会編「源平と神戸」神戸新聞センター 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 
歴史資料ネットワーク編「神戸と平家」神戸新聞総合出版センター
 
 








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