平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




櫛田宮は社伝によれば景行天皇の時に始まるといわれ、
祭神は櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)須佐之男命(スサノオノミコト)
 日本武命(ヤマトタケルノミコト)です。

佐賀県東部に位置する神埼市は、古代から中世にかけて院領荘園である
神埼荘の中心地で、その荘園の総鎮守社が櫛田宮です。

有力豪族の中には、国司の重い税から逃れるため自分の土地を
皇室や摂関政治
を行った藤原氏などの中央の有力貴族、
大きな寺院に寄進して税の免除を受け、
自分はその土地を現地で管理する荘官となる者が多く現れます。
これにより、
藤原氏や院政を布いた上皇、
さらに平安時代末期には平氏が多くの荘園を所有し、
各地の領地から送られてくる年貢が重要な財源となり、
政治の実権を握っていたのです。
神埼荘の当初の広さは690町でしたが、佐賀県の荘園の中でも
最大規模の荘園となり、その広さは3千町もあったといわれています。

当時、宋からの交易船は博多港から入ってきましたが、
神埼荘は有明海や筑後川に近く、海上交通の要衝であったため、
東シナ海から有明海に入港する宋船もあり、国内外交易による
莫大な利益があり、皇室にとって手放せない大切な荘園でした。
鳥羽上皇の時代には、平忠盛がこの荘園の管理を任されていました。

宋銭や宋時代の陶磁器などが神埼市内の遺跡から数多く出土しており、
神埼荘で有明海を通じた貿易が行われていたことを物語っています。
また、櫛田宮の東北2㎞のところには「駅ヶ里(えきがり)」という
地名が残されており、交通の要衝でもあったことを伝えています。

この社が特に栄えたのは平安時代で、当時は多くの末社をもち、
「九州大社」とも称されていました。

永久3年(1115)当社を鳥羽天皇が修造した際、
本告道景(もとおりみちかげ)・伴兼直(とものかねなお)が
勅使となって下向、両氏はこの地に永住し
伴兼直が執行(しぎょう)家の祖、本告道景は本告家の祖となり、
現在の櫛田宮の宮司は執行家の後裔です。

神埼荘には櫛田・高志・白角折(おしとり)の三社があり、
三所大明神と称され人々の尊崇を受けましたが、いずれもこの荘園の鎮守で、
執行・本告両家が三社の宮司職を分けもっていました。

承久の乱で後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗れると、神埼荘は幕府に没収され、
有力御家人が地頭に任命されます。さらに元寇の際には
河野通有(こうのみちあり)はじめ400人余の御家人に
恩賞地として分け与えられてしまい、神埼荘は消滅しました。
伊予(愛媛県)の河野氏は、源平時代には河野通信(みちのぶ)が
30艘の兵船を引き連れて讃岐屋島の義経の麾下に参じ、
平氏追い落としに一役買っています。
壇ノ浦合戦では、250艘を率いて出陣しましたが、
承久の乱で後鳥羽上皇方について没落しました。

通信の4男通久は母が北条時政の娘であったことからこの時、
幕府軍に参加し戦後、伊予温泉郡石井郷(松山市)の領有を
認められましたが、全盛時代の面影はまったくありませんでした。
元寇の時に軍功を挙げた通信の孫にあたる通有が恩賞として
肥前国神崎荘中山、肥後国下久々村、伊予国山崎荘を与えられて
勢力を回復し、河野氏中興の祖となりました。

元寇はモンゴル軍と戦ったのは武士だけでなく、
神々も蒙古を迎え撃ったとされ、幕府に戦功を報告し、
恩賞を求めています。櫛田宮も元寇に霊験をあらわしました。

南北朝時代の始めにつくられたといわれる櫛田宮の『霊験記』によれば、
「弘安の役の際に当社から剣を博多の櫛田神社に送れ」との託宣があり、
博多へ宝剣を移して異賊退散を祈り、霊験(戦功)あってモンゴル軍が退いた。

この報告が認められ、正和年間(1312~17)に櫛田宮の修築が
北条氏の一門鎮西探題北条政顕(まさあき)の肝いりで行われました。

しかし、戦国時代になると、次第に武士によって
社地が奪われて困窮し、社殿も荒廃していきました。
江戸時代になり、藩主鍋島氏の保護を受け社地が寄進され、
社殿の造営修築などはすべて藩費でまかなわれていました。

昭和27年(1952)、櫛田神社とよばれてきたものを
創建時に復して櫛田宮と改称されました。

最寄りのJR神埼駅



櫛田宮は国道34号線沿い、神埼市庁舎に隣接しています。


 
一の鳥居・二の鳥居ともに鍋島氏が奉納した肥前鳥居です。

参道に建つ肥前鳥居は、基部が大きくなる柱と笠木と島木が
一帯となるなど肥前地方独特の鳥居です。

二の鳥居には、慶長7年(1602)の造立銘がある
石造肥前鳥居で高さが3.35m、笠木の長さが4.45mあり、
佐賀県指定重要文化財になっています。

肥前鳥居は、慶長年間(1596~1615)に特に盛んに
建てられたことから慶長鳥居ともいわれ、
佐賀県を中心とした北部九州にしか見られない珍しい形のものです。

佐賀県内に広く分布するこの鳥居の特徴は、笠木のかけ出し
(先端にかけて反り返る部分)が大きな反りをみせて外方に跳ね上がり、
笠木と島木及び柱と貫(ぬき)がすべて三本継ぎとなっています。
柱は下へ行くほど太くなりどっしりとしています。





隔年4月第1土・日曜日に古式に即したみゆき大祭が大規模に斎行され、
社が神埼庄の鎮守であった時代を偲ばせています。

櫛田宮本社
神埼荘の総鎮守として中央と綿密な関係をもった神社です。







祇園社

7月の「祇園山笠」の舞台となる博多の櫛田神社は、
社伝では、創建は天平宝字元年(757)としていますが、
平安時代末期に平清盛が日宋貿易の発展と博多の繁栄を祈願して、
神埼荘の櫛田宮をこの地に勧請したという説が有力とされています。
当時の博多の人々は、町の発展に尽力した平家に恩義を感じ、
清盛の嫡男重盛が治承3年(1179)に病死した際、
その霊を慰めるために始めたのが5月に開催される
「どんたく(博多松ばやし)」の始まりだと伝えられています。



神埼市(神埼町)の東部地区は大規模な堀(クリーク)が
網野の目状に巡らされ、その一部は有明海に繋がっていました。
鎌倉時代末期には、元寇の恩賞として櫛田宮の大規模な改築工事が行われ、
有明海より船で建築資材を運んだ記録が残されており、
クリークを利用した有明海への交通ルートがあったことを知ることができます。

日宋貿易の基礎を築き巨万の富を得た平忠盛(神埼庄)  
『アクセス』
「櫛田宮」佐賀県神埼市神埼町神埼419番地1
JR長崎本線神埼駅下車、南西方向へ徒歩約10分。
『参考資料』
「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年 
県史41「佐賀県の歴史」山川出版社、2002年
「佐賀県の地名」平凡社、1988年 「佐賀県の歴史散歩」山川出版社、2001年
山田真哉「経営者・平清盛の失敗」講談社、2011年 
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上)」原書房、1995年
「大山祇神社」大山祇神社社務所、平成22年 「神社の見方」小学館、2004年

 

 



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平氏と九州のつながりは古く、元永2年(1119)正盛(清盛の祖父)に
仁和寺の荘園、肥前国(佐賀県)藤津荘の荘官
平直澄(なおずみ)追捕の宣旨が下り、直澄を討伐したことに始まります。
この時、正盛に従った100人余の武士はみな西海・南海の名士だったという。

その跡を継いだ嫡男忠盛は鳥羽院との主従関係を通じて
目覚ましい出世を遂げました。「西海に勢いのある者」ということで
山陽・南海両道の海賊征伐を命じられ、これによって瀬戸内海の
海上交通を掌握し、西国に平氏の地盤を固めていきました。

平氏栄華の基礎となったのは何よりも経済力でした。
日宋貿易や受領の富によって、鳥羽上皇のために長承元年(1132)には、
千体の観音を安置する得長寿院を京(現、左京区岡崎)に造営し、
内裏の昇殿を許されて殿上人となり、
本物の貴族の仲間入りをするまでになりました。

肥前国神埼(かんざき)庄(現、佐賀県神埼市)は長元9年(1036)に
院が直轄する荘園として、後一条院から朱雀院へ、その後は、
白河院領から鳥羽院領、後白河院領へと代々継承されています。

鳥羽院政期には、院の信任が厚かった忠盛が神埼庄の
預所(現地管理者)となり、管理を任されました。
信任を得るには財力も必要です。忠盛は財力を蓄えるために、
西国の豊かな国の受領を歴任して勢力を伸ばしました。
また、大陸との貿易港であった越前の敦賀を越前守として
管轄したことのある忠盛は宋の商人が敦賀で交易をするのを見て
日宋貿易に着目し、海外との交易を
行います。

神埼庄の荘域は神埼郡のほぼ全域に及ぶといわれています。
 
現在では筑後川が有明海に運ぶ土砂が堆積し海岸線が
遠く退いていますが、神埼庄は平安時代ごろまでは、
有明海に面する大荘園で、ここを知行していたときに
平氏は日宋貿易に深くかかわるようになりました。
忠盛はその地位を利用し、大宰府を通さない私貿易によって
貿易の利益を独占し財力を得ました。

忠盛が日宋貿易を推進したのは貿易の利に目をつけたのと、
コレクション好きの鳥羽院の歓心を買おうと大陸から入ってくる
めずらしい品々を献上するためです。

鳥羽院は白河院が崩御すると、すぐに鳥羽殿や白河殿・御所の蔵に
封をつけさせて宝物の分散を防ぎ、保延2年(1136)、
鳥羽離宮(鳥羽殿)に経蔵(宝蔵)と阿弥陀堂からなる勝光明院
(しょうこうみょういん)を造営し、宝蔵に列島内外の宝物を納めました。
阿弥陀堂は平等院鳳凰堂を、
経蔵は同じく平等院の経蔵を模して建てられています。

南殿の北に造られた北殿の勝光明院は、その基壇の一角と園地、
そして東側で経蔵が調査で見つかっています。
経蔵は堀と築地塀に囲まれていました。

北殿・南殿地域航空写真(西より 1970年頃)
手前右の広場が鳥羽離宮公園です。

長承2年(1133)8月、神埼庄に宋人周新(しゅうしん)の船が
入港したので大宰府の官人らが出向いて交易をしようとしたところ、
神埼庄の預所だった忠盛は対宋貿易の利益を横奪しようとして介入し、
鳥羽上皇の院宣であると偽った下文(くだしぶみ)を出し、
「周新の船が入港したのは神埼庄領であるから
官人がこれに関与してはならない」と拒否しました。
『長秋記』の筆者源師時が長承2年(1133)8月13日条で、
批判しているように、忠盛の行動
は貴族たちから強く非難されました。

この日宋貿易史上有名な事件について、
多くの研究者はこの時、周新の船は有明海に面した港に
到着したとしていますが、
有明海でなく博多に着岸し、
忠盛はここで取引を行ったという見解もあります。

それは博多には、神埼庄の倉敷(年貢の保管・積み出しの倉)が
あったためで、
神埼庄と大宰府また博多とは
清盛の大宰府の大弐就任以前から強い関係にあるためです。

古くから研究者の間で「大陸からの船が到着するのは、
博多だけであったのか、それとも有明海にも
入港することがあったのかどうか。」という議論があります。

服部英雄氏は「久安4年(1148)、仁和寺の荘園、肥前国杵嶋庄
(現、佐賀県杵島郡白石町、有明町一帯)から仁和寺に孔雀が献上された。
孔雀は日本にはいない。中国南部から東南アジアに生息する鳥で、
わざわざ鳥羽院が見物するほどの珍鳥だった。このことからも有明海に
外国船が入ったことは疑いない。」と主張しておられます。
(『歴史を読み解く』)

 忠盛は公卿昇進を目前としながら58歳で亡くなりましたが、
それを知った時、傲慢で他人に厳しい藤原頼長でさえ、
その日記『台記(たいき)』に
「数国の吏を経て、富は巨万を累(かさ)ねたり、
奴僕(ぬぼく)は国に満ち、武威(ぶい)は人にすぐる。
然(しか)れども人となり恭倹(きょうけん)にして、
いまだかつて奢侈(しゃし)の行あらず。時の人、之を惜しむ。」

忠盛は莫大な富と武勇を兼ね備え、地位と各国に家人を
得ることをできたが、人となりは慎み深く
奢侈な行いはなかったと記し、その死を惜しんでいます。
平家繁栄の基礎を着実に築いた一生でした。
『参考資料』
五味文彦「日本中世史①中世社会のはじまり」岩波新書、2016年
県史41「佐賀県の歴史」山川出版社、2002年 
県史40「福岡県の歴史」山川出版社、昭和49年
「佐賀県の地名」平凡社、1988年
服部英雄「歴史を読み解く さまざまな史料と視角
(久安四年、有明海にきた孔雀)」青史出版、2003年
竹内理三「日本の歴史6 武士の登場」中公文庫、昭和52年
京都市埋蔵文化財研究所監修「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン、2012年
「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年
「平家物語図典」小学館、2010年



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旧長崎街道の北に位置する石宝山法勝寺(臨済宗)の境内に俊寛の墓があります。
寺伝によると、「開山は俊寛、開基は源頼朝とも平教盛とも伝え、
鹿ヶ谷の謀議に荷担した京都法勝寺の執行俊寛は、
藤原成経、平康頼とともに鬼界ヶ島に流されたが、
成経、康頼が赦免されて帰京する時、ひそかに教盛の領地であった
肥前(佐賀県)嘉瀬津に戻り、ここで没したという。」

佐賀市郊外の嘉瀬町は、嘉瀬津の地名があるように、
中世の頃は有明湾にのぞむ港でした。
嘉瀬庄は成経の妻の父、門脇大納言教盛(清盛の異母弟)の
所領であったので、いつもここから衣食を鬼界ヶ島に送らせ、
のち成経・康頼が赦されて都に帰る途中にも立ち寄った。」と
『平家物語』にもみえます。辺境の地で三人が
生きながらえることができたのは、教盛のおかげでした。

俊寛らが配流された鬼界ヶ島には三つの説があります。
鹿児島県鹿児島郡三島村の「硫黄島」、鹿児島県大島郡喜界町の
「喜界島」、長崎県長崎市の「伊王島」です。
そのひとつ伊王島には、俊寛の墓と傍にはその死を悼んだ
北原白秋の歌碑もありますが、島の名が硫黄島と
聞こえることから生まれた伝説だと思われます。
享保4年の『長崎夜話草』は、長崎市深堀町に
有王・亀王兄弟の塚があることと関係があろうと記しています。

慈円の『愚管抄』などの史料によると鬼界ヶ島とは
硫黄島のことで、『源平盛衰記』『延慶本』『長門本』などの
読み本系には、このことがはっきりと記されています。
『長門本平家物語』によれば、「鬼界ヶ島には12の島があり、
そのうち黒島・硫黄島・永良部(えらぶ)などを総称して鬼界ヶ島という。
俊寛ら三人が流されたという鬼界ヶ島は、この中の硫黄島のことである」

また、『吾妻鏡』正嘉2年(1258)9月2日条には、
平康頼の孫俊職が(としもと)が祖父康頼と同じ硫黄島に
流罪になったと感慨深げに記していることからも明らかです。

俊職は康頼の嫡男清基の嫡男として生まれましたが、
父が承久の変で後鳥羽上皇方に味方し、阿波国麻殖(おえ)保の
保司を解任され、領地も没収されたため、上京して賊徒となり
殺人事件に関わって捕らえられました。

硫黄島は薩摩半島の南端から約40㎞のところに浮かぶ周囲14・5㎞、
人口120人ほどの今なお盛んに噴煙をあげる硫黄岳がそびえる小さな島です。
鹿児島港から硫黄島(三島村)への船便をインターネットで検索したところ、
平成28年10月1日(土)より、鹿児島港⇔三島各島区間の運航を、
週3便から週4便に増便しますとのことでした。
現在でも鬼界ヶ島はアクセスが不便で遠い島です。


俊寛・有王の墓といわれるものは九州各地に数多くあります。
中でも肥前嘉瀬庄(現、佐賀市内)の法勝寺の二人の墓、
長崎西方の伊王島の俊寛の墓などが有名です。さらに四国、
関西、北陸などにも俊寛の墓や住居跡、有王の墓などが何ヵ所もあり、
俊寛は鬼界ヶ島で亡くなったのではなく、有王に伴われこの地に来て
生涯を終えたという伝承をそれぞれに持っています。
それは高野聖(こうやひじり)によって俊寛の物語が語り広められた跡が、
そういった遺跡になって残っているのだろうと考えられています。

最寄りの鍋島駅









森林公園北の国道207号線沿いに「俊寛僧都の墓」と刻んだ碑がたっています。
ここから北に50㍍ほど入っていくと法勝寺があります。



法勝寺は近隣の寺院が住職を兼務する無住職寺院ですが、
運よくご住職がいらっしゃったので、
本堂を拝観させていただきました。

 本尊は聖観世音菩薩



源頼朝の位牌と俊寛僧都の位牌

「小松内大臣平重盛公」の位牌も出してくださいました。

 
俊寛僧都の墓
治承元年(1177)、京都東山鹿ヶ谷の俊寛の山荘で、平氏討伐の謀議、
鹿ヶ谷事件に荷担した丹波少将成経、平判官康頼、京都法勝寺俊寛僧都は、
鬼界ヶ島(薩摩)へ配流された。翌2年、成経、康頼は赦免され、
帰京することとなった。その帰途、平教盛の領地、肥前鹿(嘉)瀬庄まで
俊寛を伴い、この地に俊寛をとどめ京都へ上った。
俊寛は、荒木乗観入道の保護をうけながら配流生活を過ごしていたが
治承3年、この地で没した。と伝えられている。
その墓がここ法勝寺にあり、また、「俊寛僧都塔」
「治承四年三月二十三日」と刻まれた碑が建立されている。(現地説明板)

説明板に書かれている荒木乗観(じょうかん)入道について、
柳田國男氏は「後に法勝寺と名のったこの寺は盲僧の道場であり、
荒木はその世襲の氏の名であろうと思う。」と述べておられます。
(『柳田國男全集』)

右が俊寛の墓、左がその供養塔とご住職に教えていただきました。
俊寛の供養塔には、「俊寛僧都之塔」
「治承四年三月二十三日」と刻まれているそうですが、「俊寛」の文字が
かろうじて読める程度で、あとは風化していて読み取れません。


供養塔の左は有王の墓

俊寛に仕えていた有王という童が『平家物語・巻3』に登場し、
鬼界ヶ島にひとり残された俊寛をたずねてやがて島に渡り、
その悲惨な
最期を看取り遺骨を高野山奥の院に納めました。
そのまま蓮華谷の法師(高野聖)となって諸国を遊行し、
主の亡魂を弔いながら俊寛の悲劇を語り広めました。
俊寛の死を見届けた者は有王だけですから、
有王の目や心を通してその死が語られています。

実在が危ぶまれる人物ですが、『平家物語』以外の記録として
『高野春秋編年輯録(こうやしゅんじゅうへんねんしゅうろく)』の
治承3年(1179)の項に「夏5月□日、前法性寺執行家大童子有王丸、
鬼界島より俊寛の灰骨を□ち来たる。奥院に斂埋す。
而して発心入道し専ら追薦(追善供養のこと)を修す」と記されています。

蓮華谷は信西の息、明遍(みょうへん)が開いた
高野山僧坊集団のひとつで、神仏の奇瑞譚を説きながら
諸国を巡る高野聖の本拠としてよく知られていました。
高野聖の主な仕事は布教と寄付募集ですが、
その際に効果を発揮する宗教色ある物語を語るのが常でした。
俊寛の物語は、蓮華谷聖の主要な演目でそれを語る時、
自身を有王の生まれ変わりとして語るのが決まりだったという。

肥前は琵琶法師が活躍していた赤間が関に近く、
古くから盲目の僧たちの活動の拠点でした。柳田國男氏は、
それらのことが俊寛有王説話を生んだと考えられるとして
「俊寛・成経・康頼の三人が鬼界ヶ島に流されたこと、1年後に成経と康頼は
都に戻されたが、俊寛だけが帰って来なかったという事実をもとにして、
それが大きく脚色されて『平家物語』にみるような説話ができあがり、
『平家物語』の作者は、この高野聖が語る話を作品に吸収していった。
肥前嘉瀬庄には、蓮華谷の聖と繋がりをもった者が住んでいて、
俊寛の物語を法勝寺の盲僧たちに供給したのであろう。」と考察されています。

ところで『愚管抄』によれば、鹿ヶ谷謀議の舞台となった山荘は
俊寛のものではなく、信西の息、静憲(じょうけん)の所有であり、
さらに俊寛は赦免状が届く前に亡くなっていたと記されています。
真実がどうであれ、俊寛の悲劇は後に能や文楽・歌舞伎などの
作品となって甦り、多くの人々の涙を誘っています。

帰洛した成経と康頼はその後、それぞれの道で活躍しています。
成経は都に戻った後しばらく蟄居していましたが、
平家都落ちの直後の寿永2年8月、右少将となって官界に復帰しました。
平家の権力が急速に弱体化したため、後白河院は成経の登用を
誰にも遠慮する必要がなくなったものと思われます。
以後成経は右中将、蔵人頭と暦任し、正三位皇太后宮大夫と
順調に出世し、建仁元年3月、47歳で亡くなりました。
帰洛後の平康頼は次の記事でご覧ください。
 平康頼の墓(双林寺) 
『アクセス』
「法勝寺」佐賀市嘉瀬町大字荻野212
JR九州「鍋島駅」下車 徒歩約30分
または鍋島駅から佐賀市営バス「森林公園前」停下車約2分
『参考資料』
「郷土資料事典 佐賀県」(株)ゼンリン、1998年
 「佐賀県の地名」平凡社、1988年 
「長崎県の歴史散歩」山川出版社、1989年
「柳田國男全集9(有王と俊寛僧都)」ちくま文庫、1990年 
五来重「増補=高野聖 庶民仏教をささえた聖たち」角川選書、昭和50年
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店、昭和48年
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店、昭和62年 
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
水原一「平家物語の世界(上)」日本放送出版協会、昭和51年
「ふるさと森山」鴨島町森山公民館郷土研究会、平成2年
「検証・日本史の舞台」東京堂出版、2010年
高橋昌明編「別冊太陽平清盛 王朝への挑戦」平凡社、2011年

 

 



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龍国寺は、建仁3年(1203)に原田種直が平重盛の菩提を弔うため創建、
その後、
天正2年(1574)に原田隆種によって息子親種の
菩提を弔うため再興されたと伝えています。

龍国寺のある糸島(いとしま)市は、福岡県の西部に位置し、
北側と西側が玄界灘に面しています。

原田種直は藤原純友の乱で勇名をはせた大蔵春実(はるざね)の子孫で、
この大蔵一族は九州各地に広がっていました。
平清盛の大宰大弐時代にその家人となり、
種直の妻は平重盛の養女とも(頼盛の娘とも)いわれ、
平氏与党勢力の要となって働きました。


平家都落ちの時にも終始忠誠を尽し、安徳天皇一行を安徳台の
館に迎え入れました。壇ノ浦合戦に先だつ元暦2年(1185)2月には、
源範頼率いる平氏追討軍を種直といとこの板井種遠が
筑前国蘆屋の浦(福岡県遠賀郡芦屋町)で迎え撃ちましたが、
弟の敦種が戦死して敗北(蘆屋浦の戦い)。
範頼はここに拠点を築き、彦島に拠を移した
平氏の背後を攻撃するのに好都合の地の利を得ました。
続く3月の壇ノ浦の戦いにも、種直は敗れ一族の多くを失いました。

敗戦後、頼朝の厳しい追及を受け、3700町歩に及ぶ
広大な領地も没収されました。
平山季重に預けられて鎌倉の扇ヶ谷(かめがやつ)に
幽閉され、13年の歳月が過ぎました。
種直は平家重臣であったため、罪は重く、
その罪を免れることは叶わぬ身ではありましたが、
季重は種直の助命を頼朝に嘆願しついに赦免されました。

平山季重(すえしげ)は、武蔵七党の一つ 西党に属し、源家譜代の家人として
保元・平治の乱に参加、一の谷の戦いでは、義経別働隊に加わっていましたが、
途中、功名手柄を目ざして隊を抜け出し、熊谷直実と先陣争いをして
平家の陣に突入、勝利のきっかけ作ったつわものとして知られています。
平氏滅亡後の奥州征伐など、すべての戦場に出陣し戦功を挙げ、
頼朝から原田種直の没収地を賜り、以後、季重は筑前国三笠郡原田荘の
地頭職としてしばしば九州へ赴いています。

建久8年(1197)に種直は赦され、筑前国怡土(いと)庄
(現、糸島半島の一部、福岡市の一部)に領地を与えられます。
鎌倉幕府の支配力が固まると、種直の子孫、
秋月氏・深江氏・青柳氏もしだいに御家人となり、
一族およびその子孫は筑前・筑後・肥前を中心に繁栄していきます。

無人の一貴山(いちきさん)駅

 駅前にたつ観光案内板の前を通り過ぎ、県道572号線に入ります。



この標識に従って3㎞ほど山側に行くと、唐原(とうばる)集落があります。
その集落には、壇ノ浦合戦に敗れた平家の落人が隠れ住んだといわれ、
平家都落ちの際、原田種直を頼ってきた平重盛内室と息女の塚があります。

 龍国寺は突き当り右手の山麓にあります。

龍国寺全景

門前のせせらぎ、 苔むした石垣



 龍國禅寺山門

釈迦如来像右側は大乗妙典一石一字塔 

「大乗妙典一石一字塔」と彫られています。
一石一字とは、大乗妙典の経文の文字を一文字ずつ小石に書き写したもので、
それを地中
に埋め、その上に建てた供養塔がこの石です。

「龍國寺
曹洞宗庁法幢会萬歳山龍國禅寺は建仁三年(一二〇三)小松内大臣
平重盛公の菩提の為 重盛公を開基とし  ?原田種直公創建の寺なり
 初め小松山極楽寺と号し 徹慶智玄大和尚を請じて開山となし 
天台宗の寺なりしが 至徳元年(一三八四)足利将軍義満公伽藍仏像を造立し
 充祐大和尚を請じて曹洞宗となる  その後天正二年(一五七四)
高祖城主原田隆種公は四男親種公菩提の為寺を再興 号を萬歳山龍國禅寺と改め
 本室智源大和尚を請じて中興開山となし現在に至る 」(碑文より)
萬歳山は種直の法名の萬歳院からとったもので、
龍国寺は親種の龍国寺殿によるという。


本堂 




本堂内部

経蔵堂

門前に広がるのどかな田園風景 

原田種直と安徳天皇(安徳台安徳宮) 
原田種直(岩門城跡)  
熊谷直実、平山武者所季重の先陣争い(巻九・一二の懸)  
『アクセス』
「龍国寺」福岡県糸島市二丈波呂(はろ)474
JR博多駅から筑肥線「一貴山駅」下車 徒歩約45分
『参考資料』
「姓氏家系大辞典」角川書店、昭和49年 「福岡県の歴史」山川出版社、昭和49年 
「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年  安田元久「武蔵の武士団」有隣新書、平成8年
「日本史大事典」平凡社、1993年 全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、平成17年

 



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緒方三郎惟栄館跡から400㍍ほど西、田んぼの中に板碑(いたび)がたっています。
この地は現在廃寺となっている永福寺跡です。

大型の板碑はかなり遠くからでも見えます。
高さは約3mあり、県下でも最大級の大きさの三反畑(さんたんばた)板碑です。

板碑は背後に傾いています。大分県豊後大野市緒方町上自在117
大分県指定有形文化財(昭和48320日指定)


板碑は死者の供養・追善のために建てられ、平らに加工された
石で作られた卒塔婆をいい、寺院の境内や廟所に建立される場合が多いようです。
板碑には、仏教の諸尊を梵字(ぼんじ)一文字で表した種子 (しゅじ)
あるいは仏、菩薩の像、供養者、造立年月日、趣旨などが表面に彫られ、
多くは高さ 1mほどで頭部を三角につくり、
その下に横に二条の切れこみが入っています。

三反畑板碑の材質は安山岩で、正面は額部に金剛界大日如来の種子(バン)、
碑の身部には大きく釈迦の種子(バク)、その下左右に
釈迦如来の両脇侍である普賢菩薩の種子(アン)と
文殊菩薩の種子(マン)が彫られ、下方には
「天授三丁巳十一廿九」「十方檀那」(方々の施主の意)と刻まれています。

種子とは仏像の姿を現す代わりに、梵字(古代インドの文字)で表し、
梵字は原音のまま発音されます。
このほか板碑には仏の図像を彫りだしたものもありますが、
梵字で仏像をしめすのが一般的です。


南北朝末期、天授三年(1377)11月29日の造立で、
惟栄より200年ほど後のものであり、惟栄との関連性はありませんが、
惟栄が背後の三宮八幡社から投げたため傾いているとも、
緒方一族の供養塔ともいわれ、地元では惟栄に関連づけて語り継がれています。

板碑の多くは中世関東で建立され、関東地方の場合、細工のしやすい
秩父山地の特産品である青石を材料とした板碑が広く分布しています。
鎌倉幕府創設の捨石となった三浦義明を弔うため頼朝が建立した
満昌寺境内にも鎌倉時代の板碑があります。

地元にはこの他、惟栄にまつわる言い伝えが数多く残っています。
『大友興廃記』には、惟栄が遊山のついでに、上自在村の北にある
軸丸の原というところで七尺四方の石を鉄棒で突き通した。
その石が今も残っているという力自慢の話や五月の中旬、早苗をとる頃に
惟栄がやってきて夕方になっても田植が終わらないのを見て、
沈もうとする太陽を延ばして田植を終わらせた。
これを神領に寄進して日祭田とよび、その田が今も残っているという。
惟栄を誇りとする人々の心情がうかがわれる伝説ばかりです。
緒方三郎惟栄館跡近くの交差点や橋の名「三郎大橋北交差点」、
「三郎大橋」もその気持ちのあらわれなのでしょう。
 『参考資料』
渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年
 「大分県の地名」平凡社、1995年 「京の石造美術めぐり」京都新聞社、1990年
石井進「日本史の社会集団 中世武士団」小学館、1990年

 



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緒方三社の一宮八幡社、二宮八幡社は緒方川の右岸、三の宮八幡社は左岸にあります。

緒方三郎惟栄は緒方郷を治めていた宇佐神宮の政策に不満を持ったのか
大胆にも八幡宮総本山である宇佐神宮の焼き討ちを行いました。
しかし、その時ケガを患ったのをきっかけに祭祀(さいし)に目覚め、三つの神社を
建造したと言われています。そのひとつが惟栄自身も祭られている二宮八幡社です。
この三社の祭神は親子同士で、年に一度だけ再会し楽しい一日を過ごします。
これが旧暦の十月中旬に行われる勇壮な川越し祭りです。
(二宮八幡社説明板より)

川越し祭りは、二宮八幡社の境内に一宮社、三宮社の神輿が集います。
三宮社だけが緒方川の左岸にあるため、神輿が松明に先導され
若者たちにかつがれ、川中にたつ鳥居をくぐって川越しを行います。
各社の祭神は、一宮八幡社が父である仲哀天皇、三宮八幡社が母である神功皇后、
二宮八幡社が子である応神天皇です。
毎年、11月の中旬から下旬にかけ2日間行われ、初日の夜に一宮社神輿の行幸、
三宮社神輿の川越しが行われて二宮社に集まり、2日目には三社の神輿ともに
お浜出、直会などの諸行事を執り行い神楽や宴が催されます。
その夜、一宮社の神輿は山を上り、三宮社の神輿は川を渡って元宮に戻ります。
現在は2日間ですが、江戸時代には旧暦の10月7日から15日まで盛大に行われました。
二宮八幡社は原尻の滝近くにあり、滝のすぐ上流に一の鳥居が建っています。



「二宮八幡社」豊後大野市緒方町原尻宮下 祭神は応神天皇・緒方惟栄・大野泰盛

神門


 拝殿

 拝殿奥に本殿

二宮八幡社の社殿傍から一宮八幡社に続く山道があります。
一ノ宮八幡宮入口 これより80㍍の道しるべ



「一宮八幡社」 豊後大野市緒方町久土知 祭神は仲哀天皇

神門

あいにく修理中 



拝殿その奥に本殿 



奉納絵馬

豊後大野市歴史民俗資料館入館パンフレットには、
挿絵が描かれ緒方三郎惟栄絵馬(一宮八幡社)と書かれていますが、
それらしい絵馬は見あたりません。

『歴代鎮西要略』によると、「源頼朝から大友能直(よしなお)が豊後守護職
並びに鎮西奉行に任じられ建久6年(1195)に入国の際、その先鋒を務めた
能直の重臣古庄重吉らとこれに反対した緒方三郎惟榮(これよし)の一族である
大野九郎泰基(やすもと)、惟栄の兄臼杵(うすき)二郎惟隆が戦い(神角寺合戦)
泰基は神角寺(じんかくじ)で自害し、惟隆は降参した。」とあります。
緒方惟栄滅亡後、大野氏が豊後大神(おおが)一族の中心となりましたが、
九郎泰基の謀反で大野氏も衰退していきました。
そして頼朝の寵臣大友能直が守護職に任命され、鎌倉時代から桃山時代までの
400年間、豊後の支配は大友氏に移りました。
戦国時代の宗麟(そうりん)の時には、北九州6ヵ国の守護となりましたが、
日向にて島津義久との戦いに大敗し、豊後1国までに衰退、
さらに朝鮮出兵で失敗し改易されました。

平家追討に貢献した緒方惟栄の功績から、惟栄が豊後守護職に
任命されるべきでしたが、豊後最大の勢力を誇った
惟栄の名は歴史の表舞台から消えていきました。

大友能直が建久年間に豊後守護職並びに鎮西奉行に任命されたことは
学会で否定されている。(『源平の雄 緒方三郎惟栄』)とあり、
能直が守護職に任命されたのはもう少しあとのようです。
この段階の豊後守護は中原親能(ちかよし)で、能直が建久6年に豊後に
赴いたのが真実とすれば、養父中原親能の代官としてであろうといわれています。

緒方一族を討ち滅ぼしたあと、原尻の滝で洪水や暴風雨が相次ぎ、
泰基の霊の祟りではないかと恐れた能直は、
二宮八幡社に緒方惟栄と大野泰基の霊を祀ったとされています。

大友能直の母は波多野経家(つねいえ)の娘、父は相模古庄郷司の
近藤能成(よしなり)です。相模の豪族波多野氏と源氏は深い関係にあり、
一族の波多野義通の妹は源義朝の妾となり、頼朝の兄、
朝長(ともなが)をもうけています。平治の乱に敗れた義朝一行と共に
東国へ逃れる途中、朝長は深手を負い父の介錯により命を絶っています。

能直は、はじめ古庄(ふるしょう)氏を称し、次いで近藤を名のり、
のち母の姉の夫である中原親能の養子となり、中原能直と名のっています。
中原親能は幼少時から波多野経家に養育され、
のち頼朝の代官となり、義経のお目付け役として上洛しています。


母方の波多野経家には実子の実秀がありましたが、
実秀に子供がなかったので、外孫の能直に相模国足柄下郡大友郷を継がせ、
能直は大友能直と称しました。

能直の源頼朝落胤説は諸大友系図などによって広く知られています。
『九州治乱記』によると、能直の母は波多野経家の娘利根局で、
伊豆で頼朝に仕え頼朝の子を懐妊したため、局は姉婿の中原親能に下され、
そこで能直を生んだという。しかし『近藤系図』や
『大友系図』(群書系図)では、落胤説については記述されず、
能直の実父は近藤能成で、中原親能の養子となり大友姓を継いだとしています。
対して諸系図の中でも最も信憑性が高いとされる
『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』では、能直を頼朝の子として、
島津忠久・忠季兄弟とともに頼家、実朝と並び載せています。
しかし確証はありません。
『緒方三社川越し祭り』
 旧暦10月14日・15日に近い土曜日・日曜日に行われます。
お問い合わせ 豊後大野市緒方支所(電話0974-42-2111)
『参考資料』
「県史44大分県の歴史」山川出版社、1997年 渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年
  湯山学「波多野氏と波多野庄 興亡の歴史をたどる」夢工房、2008年 
「大分県の地名」平凡社、1995年 鈴木かほる「相模三浦氏とその周辺史」新人物往来社、2007年 
本郷恵子「日本の歴史 京・鎌倉ふたつの王権」小学館、2008年



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緒方町には緒方三社とよばれる一宮八幡社、二宮八幡社、
三宮八幡社の三つの八幡宮が鎮座しています。

江戸時代後期に岡藩の唐橋世済(せいさい)が編纂した
『豊後国誌』には、治承2年(1178)に緒方惟栄(これよし)

三社とも建てたと記されていますが未詳です。

一宮八幡社の社伝によると、惟栄は宇佐八幡宮を焼き討ちにした際に流れ矢にあたり、
どうしてもこれを抜くことができません。そこで、自領に宇佐八幡を勧請して
150町を寄進することを誓ったところ矢が抜け傷もたちまち癒えたといいます。
緒方に帰った惟栄は、台地の上にある元宮八幡(緒方町大字宮尾)から矢を射て、
第一矢のあたったところに一宮八幡社、第二矢のあたったところに二宮八幡社、
第三矢のあたったところに三宮八幡社を勧請したという。

緒方三社は、緒方川に近い緒方盆地の中心辺りにあります。

緒方惟栄館跡から三宮八幡社に向かいます。



米どころ緒方町には、緒方川と平行に井路(灌漑用水路)が流れ、
古い土塀の民家や水車が並ぶ独特の景観をつくりだしています。










三宮八幡社は緒方平野を見下ろす高台にあります。

三宮八幡社 祭神神功(じんぐう)皇后 大分県豊後大野市緒方町上自在414番

晩秋に行われる「緒方三社川越し祭り」の時には、ここから三宮神輿が降りてきます。

高い石段の上にたつ神門

 

拝殿



拝殿の背後に本殿

江戸時代、三宮八幡社の境内から平安末期の銅経筒と古刀が出土しています。
刀は朽ちていましたが、経筒は形をとどめ銘文がありました。

それによると、永久3年(1115)4月18日、願主僧定長が父母孝養のために埋納し、
鋳師は橘是貞と記されていました。報告を受けた藩主中川久貞は
「父母孝養」の銘文に感激し、久貞の命で経筒は元のように埋められ、
その上に「古器を埋める」の碑が建てられました。
経筒は昭和42年に大分県指定文化財となり、現在は三宮社の氏子によって管理されています。
したがって、十二世紀はじめには三宮八幡社は緒方に勧請されていたと考えられます。
惟栄が勧請したという伝承はともかく、緒方荘の人々の崇敬を集めていた社でした。

石碑を建てた65年後、再び文字を書いた多数の白い小石とともに経筒を掘り出しました。
藩主中川久教は曾祖父と同様に経筒を掘り当てたことを喜び、
「白小石を埋める」の碑を建立しました。三宮八幡社の裏山に碑が前後に並んで建っています。

緒方町の南は祖母山地の峰々に連なり宮崎県高千穂町に接し、
西は阿蘇くじゅう国立公園の山並みに連なる竹田市に接しています。
緒方惟栄らは三万騎を率いて大宰府を攻撃し、平家方の軍と衝突し
大宰府を陥落させましたが、
なぜ緒方軍が大宰府を落とすことができたのでしょうか。
三万騎という大軍は誇張されているのでしょうが、
それは九重山系の裾野に広がる大草原地帯を駆けまわって養われた
強力な騎馬軍団と下関と並ぶ豊後水道で活動する
海賊衆の掌握にあったとされています。

天長3年(826)の太政官符には、「豊後大野(豊後大野市など)直入(竹田市など)
両郡、騎猟(きりょう)の児(じ)を出す。兵において要(かなめ)となす。」とあり、
はやくも豊後武士萌芽のきざしがみえます。やがて両郡は豊後武士団棟梁の
大神(おおが)氏を生みだし、平安時代中期より大野直入(なおいり)地方の
広大な原野が放牧や狩猟の舞台となり、登場してきたのが豊後武士団です。
源平合戦時の緒方惟栄を筆頭に大神氏一族は大野・直入・臼杵などに
分かれ強大な武士団を形成しました。

竹田市には、義経が頼朝との関係が悪化した時、
惟栄が義経を迎え入れようとした岡城跡があります。
この城は名曲「荒城の月」を生んでいます。
参考資料』
渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年
 「大分県の地名」平凡社、1995年 
「大分県の歴史散歩」山川出版社、2000年
県史44「大分県の歴史」山川出版社、1997年



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豊後大野市は大分県の南西部に位置し、標高1700㍍の祖母(そぼ)山系を
源流とする大野川が流れ、別府湾に注いでいます。

緒方惟栄(よし)の本拠地、緒方町は豊後大野市西部の山間部にあり、
町の南部は祖母山系に連なり、大野川支流の緒方川が町内を流れています。
その流域に緒方盆地がひらけ、「緒方五千石」とうたわれた米どころとして知られています。

緒方惟栄(これよし・生没年不詳)は惟義、惟能ともいい、祖母(姥)岳大明神を祖と仰ぎ、
大蛇の末裔という伝説をもつ大神(おおが)惟基の子孫です。
惟基は大和国大神(おおみわ)氏が下向し土着したとも、宇佐八幡宮創始に関わった
宇佐大神(おおが)氏ともいい、代々大野郡の郡司であったと考えられています。

平氏の大宰府掌握後、惟栄は重盛(清盛嫡男)と主従関係を結び、
緒方荘の荘官から豊後武士団の棟梁となり、優れた指導力を発揮しますが、
九州に支配力を強めていた平家に反発し、頼朝挙兵後、重盛の家人でありながら
兵を挙げ、反平氏の中心的人物として目覚ましい活躍をしました。
緒方荘は祖母山北西一帯にあり、中世には108村を併せ持つ大領でした。

惟栄の故郷、緒方町に点在する緒方氏伝承史跡をレンタサイクルでご案内します。

JR緒方駅は無人駅です。

県道 502号線の三郎大橋北交差点西にファミリーマート緒方店があります。

さらに西へ行くと、館跡の案内板が見え、こんもりと茂る木立の中には、
石の祠や鳥居、大きな記念碑などがあります。

館跡は三郎大橋北交差点から西へ100㍍ほどのところにあります。

館跡の南端は、緒方川の北岸で断崖となり、北東部には軸丸川が緒方川に流れ込み、
天然の堀となっています。以前は西部にも堀らしきものがあったようです。


豊後大野市歴史民俗資料館に展示されている緒方三郎惟栄居館想像図、
緒方惟栄像を学芸員の方の了解を得て、撮影させていただきました。

とても小さな座像です

寿永2年(1183)大宰府に下った平氏が原田種直・山鹿秀遠らの軍事力を
背景
に勢力を取り戻すと、豊後守藤原頼輔(よりすけ)から平家を九州から
追い出すようとの命を受け、惟栄はすぐさま反平氏の旗色を強めます。
平家方も重盛の次男資盛(すけもり)に500騎の軍兵をつけ、
大宰府から豊後の緒方まで説得にやってきたのです。

「緒方三郎惟栄館跡 昭和四十七年九月二十九日町史跡指定
緒方三郎惟栄は、緒方荘の荘司で源平合戦の頃、豊後武士団の首領として
華々しい活躍をみせた。当時の緒方荘は、宇佐宮の荘園であり、緒方惟栄は、平重盛の
ご家人であったが、平家や宇佐宮の支配に強く不満を感じていた。平重盛の没後、
惟栄は反旗を翻し、寿永二年(1183)平家が都落ちし大宰府に至ったとき、
藤原頼輔の命により大軍を率い臼杵惟隆とともに大宰府を攻め、平家を追い落とした。
また、源氏が周防灘から豊後に渡り平家を攻める時、惟栄は源頼朝の命に従い、
兵船八十二艘を献上し平家討伐に大いに貢献した。
惟栄は、豊後の国衛機構を支配していたため、周防灘、豊後水道の制海権を
掌握することができ、容易に兵船を集めることができたのだといわれている。
その後、平家は壇ノ浦に追い詰められ、安徳天皇とともに滅亡した。
この功績により、惟栄は鎌倉幕府体制下では有力な御家人となり、
おそらく豊後の守護職に任じられたはずであった。ところが、
元暦元年(1184)七月、惟栄は臼杵惟隆等と共に、宇佐宮を焼き討ちし、
神殿の破壊や宝物、古文章の奪取、神官の殺害などの大罪を犯した。
年貢米未納入による宇佐宮との争いや、平家一返倒であった宇佐公通への
反感が原因と言われている。朝廷側は大いに驚き、神罰を畏れ、
緒方惟栄等を流罪に処し領地も没収することになった。
しかし文治元年(1185)十月突如として非常の赦しが発令された。
平家討伐に多大な貢献をしたための恩赦であろうといわれている。
この頃、源頼朝と義経の仲は決定的な破局をむかえていた。頼朝は義経討伐の
命令を下し、義経は後白河院に強要し頼朝討伐の院宣を下させた。
しかし義経に呼応する者はなく、やむなく九州に降ることを決心した。
義経は、院に対して豊後武士等に協力させるよう要求した。
緒方惟栄等の傑出した戦力を期待した上での要求であった。そして十一月六日、
惟栄は大物浦(現尼崎市)で義経を迎え豊後へ出発しようとした。
しかし、運悪く夜半から大風が吹き荒れ船団は壊滅してしまった。
義経は和泉浦に逃れ、惟栄等は捕らえられた。
文治二年十一月、惟栄は上州沼田荘(現群馬県沼田市)に配流された。
大蛇の子孫であると畏れられ、平家討伐におそるべき能力を発揮した惟栄は、
義経・頼朝の争いに巻き込まれ、あえなくその姿を歴史上から消してしまった。
大神姓佐伯氏系図によると、後に赦され佐伯荘に帰ったとされる。
また、伝承では、赦されて帰る途中、速見群山香郷で平家の崇りにより
落馬して死んだとも云われている。
なお、この地は古くから惟栄館跡と伝承されており、豊後国誌には
「緒方惟栄館跡緒方郷上自在田間二在リ」と記されている。緒方町教育委員会」



上自在の後藤圓次郎氏が発起人となり、波多野政男氏の撰文により
昭和12年5月27日海軍記念日に建立された「緒方三郎惟栄館趾之碑」



昭和51年5月27日に緒方洪庵の曾孫(ひまご)にあたる
緒方富雄氏(東大名誉教授・医学博士)ほか二名が発起人となり、
全国に散在する緒方一族を施主として宝篋印塔が建立されました。


緒方惟栄の後裔と称する人は全国に数多くあり、江戸時代末期の蘭学者、
医学者でもあった緒方洪庵もその一人です。

宝篋印塔の発起人・施主に見える緒方一族の名が記されています。

この地には明治26年有志によって建てられた緒方神社もありましたが、
大正年間に火事で焼失し、現在石鳥居だけが残っています。

 小祠には緒方三郎惟栄の石像が祀られています。

祠の背面には緒方村長はじめ近隣の村長の名前が刻まれています。

緒方惟栄顕彰碑には、旧緒方町元町長 元緒方会々長 故波多野正憲
国立遺伝学研究所所長 東京大学名誉教授 医学博 洪庵曾孫故緒方富雄
大分大学名誉教授文学博士歴史学者 故渡辺澄夫などの名が
緒方三郎惟栄の家紋「三つ鱗」とともに彫られています。



淡窓伝光霊流宗家 深田光霊氏の詩碑
 「一片(いっぺん)の孤忠(こちゅう)  至尊(しそん)に酬(むく)い 
英雄骨を埋(うず)む 此の丘原(きょうげん) 緒方氏族惟栄の事
 野草猶(な)留(とど)む 伝説の痕(あと)」

昭和55年11月吉日に建立された緒方惟栄八百年記念碑
平家一門都落ち(緒方惟栄)  
ご先祖は緒方三郎惟栄  
『アクセス』
「緒方三郎惟栄館跡」
大分県豊後大野市緒方町上自在340 豊肥本線JR緒方駅より西方へ

JR大分駅から特急電車が1日に2本ほど緒方駅に停車しますが、
あとは普通電車が1時間に
1本程度停車するだけです。ご注意ください。

「俚楽の郷 (りがくのさと)」豊後大野市緒方町馬場388-1
  JR緒方駅より徒歩10分 
 ℡0974-42-4822 
レンタサイクルの受付貸出を行っています。
1日:500円(保険料込) ◎電動アシスト自転車は200円増です。 休館日:火曜日
郷内には、地元の採れたて野菜をふんだんに使ったレストランが併設されています。

「豊後大野市歴史民俗資料館」豊後大野市緒方町下自在172
開館時間 9時から17時まで(入館は16時30分まで)
休館日 月曜日(祝日・休日の場合はその翌日)、
国民の休日、年末年始(12月28日から1月3日)
入館料 無料
 緒方駅から徒歩約9分 電話:0974-42-4141
『参考資料』
渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年 
「県史44大分県の歴史」山川出版社、1997年

 

 




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摂社東宮(とうぐう)神社の傍から宇佐鳥居をくぐって上宮へ向かう長い石段は、
群生するイチイガシと楠に覆われています。
宇佐神宮では境内の原生林のことを社叢(しゃそう)とよび、
国の天然記念物指定の標柱がたっています。



宇佐鳥居は宇佐神宮独特の鳥居で額や額束(ガクヅカ)がなく、柱の上部に
黒い台輪が置かれているのが特徴で、境
内の鳥居は全てこの様式にならっています。

鎌倉の元八幡、元鶴岡八幡宮ともよばれる由比若宮の鳥居



西大門  
桃山文化の華やかな唐破風(屋根の湾曲した部分のこと)をした門で、
本殿や勅使門とともに宇佐神宮を代表する建造物の一つです。


西大門から上宮境内へ

縄に結んだ無数のおみくじ

左から春日神社、西中門、八子神社 
 西回廊奥にある春日神社は、一の殿である八幡大神の傍にある脇殿です。
祭神の天児屋根命(あめのこやねのみこと)は春日大明神ともいわれ、
神功皇后を助けたとされる神です。
右手の八子(やこ)神社は、八幡大神の八王子神を祀っています。
社殿の構えはなく、西回廊の楠に鎮まっています。

丘を上り詰めた上宮の屋根は檜皮で葺かれ、壮麗な建物は朱漆塗柱(しゅうるしぬりはしら)に
黄金の金具が打たれ、総本宮にふさわしい威容を誇っています。




左の一の殿、中央の二の殿、右の三の殿の順にお参りします。
神社の拝礼作法は、基本的に、「二拝二拍手一拝」ですが、
ここでは「二礼四拍手一礼」という独特なものです。


三つの本殿を取り囲む勅使門と左右に巡る廻廊。
鎌倉初期までは33年ごとに国家が造替を行ってきましたが、次第に困難となり、
現在の本殿は幕末の造営です。最近では昭和60年に改修されました。 

本殿は八幡造と呼ばれる古い建築様式を今に伝える貴重な建築物として国宝に指定されています。

八幡造は華麗です。建物が軒を接して前後に二棟がセットとなって並び、
中央の大きな金色の樋は共用です。後ろの建物を内院、前の建物を外院といい、
横から見ると屋根がM型となります。内院には御帳台があり、
外院には椅子が置かれ、いずれも神座となっています。
御帳台は神様の夜のご座所であり、椅子は昼のご座所と考えられ、
神様が昼は外院、夜は内院に移動します。そういう二棟セットの社殿が三つあります。

一の殿・二の殿・三の殿が南面して横一列に並び、
一の殿には八幡大神(応神天皇)、二の殿には比売大神(ひめおおかみ)、
三の殿には応神天皇の母である神功皇后が祀られています。

宇佐の地は畿内や出雲同様に早くから開けたところで、
神代に比売大神が大元山とも御許山(おもとやま)ともよばれる山に天降り、
三個の巨石に宿ったとされ、宇佐神宮成立以前から
宇佐国造(くにのみやっこ)である宇佐氏がこの山を氏神として祀っていました。

二の殿

三の殿


  南中楼門(みなみちゅうろうもん)とも勅使門ともよばれる門は
皇族や勅使が通る門で、宇佐神宮を象徴する建造物の一つです。
門の左右に高良大明神、阿蘇大明神の二神が御門の神として祀られています。
八幡神が応神天皇と同一視されるようになり、
宗廟(皇室の祖先を祀った霊廟)
として皇室の信仰を受けるようになりました。

御神木の大楠


上宮から若宮坂を下り若宮神社へ

若宮神社には八幡神(応神天皇)の若宮の仁徳天皇と4人の皇子を祀り、
祭神の5体の神像は国の重要文化財に指定されています。除災難厄難の神様です。

境内入口の神橋(しんきょう)近くにある「神武天皇東遷顕彰碑」
昭和15年、現在の南宇佐一帯の地域が神武天皇聖蹟に指定されました。

『古事記』『日本書紀』によれば、天照大神の命を受け、孫のニニギノミコトは
八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺勾玉(やさかのまがたま)の
三種の神器と稲穂を持ち、高天原(たかまがはら)という天上の国から
日向の高千穂の峰に降り立ちました。これが天孫降臨による日本国の始まりです。
そこに宮を建てて住み、初代天皇とされる神武天皇の代になって天下平定の旅にでました。
日向から船出し次々と荒ぶる神を征伐服従させ、瀬戸内海を経てヤマトに入り
都を造ったとされています。これを神武東征といいます。

宇佐は日向を発った神武天皇一行が上陸した地です。
豊後水道の難所を通り抜けた一行を
宇佐国造の祖である
菟狭津彦(ウサツヒコ)とその妹菟狭津姫(ウサツヒメ)が饗応するため、
一柱騰宮(アシヒトツノアガリミヤ)を建てご馳走を奉った後、
一行は筑前の岡の水門(遠賀川河口)に向けて出発し、
岡田宮(北九州市八幡西区)で1年過ごしました。

説明碑には「一柱騰宮跡は寄藻川に架かる呉橋の南側の高台と伝えられ、
この一帯は騰隈(とうのくま)とよばれています」と刻まれています。

「宇佐八幡神輿」(碑文より)
天平勝宝4(752)年 聖武天皇の進めた東大寺大仏造立事業が完成しました。
八幡神はこの事業を支援したため、輿に乗って入京し完成間近の大仏を拝しました。
これが神輿の起源とされています。
宇佐八幡神輿フェスタは、1250年の時空を超えて八幡神輿の大仏参拝を再現し、
「神仏習合と神輿発祥の地・宇佐」を全国にアピールすることを目的に計画されました。
2002年10月5日、児童生徒を含む宇佐市民など約500人の行列が、
宇佐八幡神輿を奉じて東大寺を参拝しました。多くの人々の協力によって、
歴史に残る大事業が見事に達成されたことをここに記します。
2003年8月2日 宇佐八幡神輿フェスタ振興協議会 会長(宇佐市長)時枝正昭」

種田山頭火句碑(碑文より)
  自由律俳人・種田山頭火、本名・正一 明治十五年山口県防府市に生まれる。
 早稲田大学を病気中退し帰郷、結婚して父と酒造場を開業する。
一方、荻原井泉水が創刊した新傾向俳句誌「層雲」に投句し入門、
やがて同人・選者として活躍した。大正五年に酒造場は失敗、破産する。
 熊本へ移り無軌道な酒に浸って市電を止める事故を起こしたのを機に出家得度。
九州をはじめ東北地方まで全国を行乞漂泊の旅を続けた。
ここ宇佐神宮には、昭和四年と十三年に訪れており、禅僧でありながらも
殊のほか敬虔なおもいで参拝している。昭和十四年四国霊場巡拝を終え、
愛媛県松山市に「一草庵」を結んだが、昭和十五年十月十一日同庵に没した。
山頭火は、花鳥諷詠や季語を約束とする五・七・五の定型俳句とは異なり、
「俳句といふものは…魂の歌だ、こころのあらはれを外して俳句の本質はない」と言い、
その人生や俳句においても、より真実なるものを模索し非定型を貫いた。
行乞流転の旅にあって詠んだ数々の日本語独特な口語のリズムを生かした自由律作品は、
いまも多くの人のこころを捉えている。

 宇佐神宮
 松から朝日が赤い大鳥居  春霜にあとつけて詣でる  山頭火

宇佐神宮の祭礼
 仲秋祭(放生会)10月第2月曜日を含む土・日・月曜日
養老4年(720)大宰府より大隈隼人の叛乱が奏上され、
歌人としても知られる大伴旅人が征隼人持節大将軍に任命されました。
この時、宇佐八幡の神軍も出陣し官軍を応援し乱を鎮めましたが、
その後、病気が流行し凶作が続いたことから隼人の霊の祟りだと恐れられます。
隼人の霊を慰めるために、蜷や貝を海に放ったのが宇佐神宮放生会の起こりです。

 御神幸祭(ごしんこうさい)7月27日以降の金・土・日曜日
『参考資料』
「大分県の歴史散歩」山川出版社、2000年 「日本の神社」日本文芸社、平成19年
「大分県の地名」平凡社、1995年 「神社とお寺の基本がわかる本」宝島新書、2007年 
「歴史読本 古事記・日本書紀と謎の神々」(2001年2月号)新人物往来社、平成13年 
「歴史と旅 古事記神話の風景」(2001年8月号)秋田書店、平成13年





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宇佐神宮は全国に約4万社あるとされる八幡宮の総本宮です。
御許山(おもとさん)を奥宮とし、その麓に上宮と下宮が鎮座しています。

宇佐神宮の起こりについては諸説ありますが、宇佐氏や大神氏などの
宇佐国造(くにのみやっこ)に関係することに疑いはないとされています。
宇佐氏は菟狭津彦(うさつひこ)を祖とし、大神(おおが)氏は
大和大三輪系とも九州土着の豪族ともいわれています。
これらの氏族の信仰に辛島氏の外来の信仰が結びつき、
八幡神という一つの神格が形づくられたと見られています。
いずれも八幡神の創祀(そうし)や中央進出に力を尽した氏族です。
奈良時代には、弓削道鏡事件で宇佐神宮の存在が大きくクローズアップされ、
急速に勢力を拡大していきました。

社伝によると、欽明天皇32年(571)に応神天皇の神霊が八幡大神として
現れたことを起こりとし、御許山(大元山)647㍍は
八幡神が舞い降りた地としています。
神亀2年(725)に現在地に社殿が建てられたのち、
分霊の勧請によって石清水(いわしみず)八幡宮や鶴岡八幡宮はじめ
全国各地に分社が祀られ、多くの人々に親しまれてきました。
神道では神霊は無限に分けることができ、
分霊しても神霊は衰えることがないとされています。

八幡神の武神としての性格は、源氏が氏神としたところに由来します。
源頼義は石清水八幡宮を元八幡・由比若宮(鶴岡八幡宮)に勧請し、
源義家は石清水八幡宮で元服し「八幡太郎義家」と名のりました。

JR宇佐駅



表参道入口  左手は八幡有料駐車場 右手は土産店が連なる仲見世
初詣時期には、参道に露店や土産店がたち並び賑わいます。



宇佐神宮仲見世





寄藻川(よりもがわ)に架かる神橋
御許山から流れ出た寄藻川は、神宮の神域を流れ周防灘に注いでいます。 

神橋を渡ると、約60 ha(60万平方メートル)もの境内が広がっています。
広大な敷地には数多くのお社が祀られ、国の史跡に指定されている所だけでも約25haあります。


大鳥居

大鳥居から下宮まで200㍍ほどの表参道の左手には、
霊水の湧く菱形池や能楽殿など、右手は宝物殿や神宮庁、勅使斎館などとなっています。

宝物館前の初澤(はつさわ)池の畔には、鴨の親子の遊ぶ姿がありました。

八幡大神が現れたという神池・菱形池の水面には、能楽殿が優美な姿を写しています。

能舞台


左手が手水舎、右手は勅使斎館と神宮庁

右は応神天皇の皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を祀る春宮(とうぐう)神社
 左は外宮(げぐう)への参道 手前は上宮への参道 



二つの鳥居は左が「上宮」へ、右が「下宮」への鳥居です。下宮へ向かいます。





下宮の祭神は上宮と同じで、第一殿には八幡大神(応神天皇)、
第二殿に比売大神(ひめおおかみ)、第三殿に神功皇后 (じんぐうこうごう)を祀り、
「下宮参らにゃ片参り」といわれています。
古くは御炊殿(みけでん)といい、神前に供える食事を司るとともに、
農業や一般産業の発展の神として崇められ、
古くから日常の祭祀には、国民一般の祈願が行われてきました。
宇佐神宮と平家物語  
宇佐神宮写真集(2)  
『アクセス』
「宇佐神宮」〒872-0102 大分県宇佐市大字南宇佐2859 TEL:0978-37-0001
JR日豊本線「宇佐駅」下車(小倉駅から特急で約50分 大分駅からは特急で約40分)
宇佐駅からバスをご利用の場合は、大分北部バス「四日市方面」行き
「宇佐八幡バス停」下車 宇佐参道入口へすぐ
バス・タクシーで約10分。


宇佐八幡からJR宇佐駅行きの時刻表です。
宇佐駅からはバスが発車したところだったので、タクシーを利用しました。
時刻表は大分交通で最新のものをご確認ください。

「参拝時間」4月~9月(5時30分~21時) 10月~3月(6時~21時)
 参拝自由 
「宝物館」300円
「駐車場利用料金」 普通車  400円 二輪車   100円
『参考資料』
「大分県の地名」平凡社、1995年 「大分県の歴史散歩」山川出版社、2000年

 



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宇佐神宮は全国八幡宮の総本社です。当初は宇佐地方の
地域神であったと思われますが、朝廷が大隅・日向の隼人を討伐した際、
宇佐八幡の神軍も出陣して乱を鎮め、中央に知られるようになりました。
奈良時代になると、東大寺の大仏建立、道鏡の皇位継承事件に託宣を下し
徐々に朝廷の信頼を獲得し、国家神としての地位を確立していきました。

平安時代始めには、当宮の分霊を勧請して都付近に
石清水八幡宮(京都府八幡市八幡高坊)が造営され、
八幡信仰は広がりを見せます。特に源氏との関りが深くそ
の氏神となり、
武士たちによって各地に勧請され八幡信仰は普及しました。

神領は徐々に荘園化し、平安時代末期には、九州最大の荘園を有していました。
宇佐大宮司公通自らも平田井堰(せき)を築き、宇佐領の開発に努めています。
これは現存する中では、大分県で最古の堰で、宇佐宮の西麓に位置する
駅館川(やっかんがわ)西側の33の村、654町歩の平野をうるおすものでした。
この地域は降雨量が少なく水に恵まれない土地でしたが、公通は土木技術が
低い当時でも比較的簡単に水を引くことができた平野部の開発を進めたのです。

このころ、公通(きんみち)は大宰府を掌握した清盛と密接な関係を保ち、
仁安元年(1166)に大宰権少弐、安元2年(1176)対馬守、
治承4年(1180)には、豊前守に任じられるなど宇佐宮の全盛期を築きました。
宇佐宮は近衛家を本家としていましたが、本家が平家勢力下に入ったため、
公通は積極的に平家と結んで宇佐宮の発展をはかろうとしたのです。
このように、この頃までの豊前の歴史は宇佐宮を中心にして発展してきました。

17歳の時、平経正は宇佐八幡宮の奉幣の勅使を仰せつかって九州へ下る際、
青山(せいざん)の琵琶を賜り参詣しました。
古くから宇佐八幡への勅使は即位の報告には、和気清麻呂の子孫である
和気氏が派遣され、それ以後、3年ごとに奉幣使が立てられましたが、
石清水八幡宮が成立して以降は
天皇即位の報告に一代に一度だけ差し遣わされました。
経正が遣わされたのは、高倉天皇即位の仁安3年(1168)5月、
和気相貞(すけさだ)が正使の時と思われます。

経正は経盛(清盛の弟)の嫡子で経俊・敦盛の兄にあたり、幼少より詩歌管弦、
特に琵琶に優れ、元服するまで仁和寺に童として仕えていました。
青山というのは、平安時代の初め頃、唐から朝廷に献上された琵琶の名器です。
その後、帝から仁和寺に与えられ、琵琶の才能を見出され
覚性法親王(ほっしんのう)
から経正に下されたものでした。

「義仲追討のため副将軍として経正は北陸道へ下る途中、
竹生島に参詣し弁才天の前で琵琶の秘曲を弾いたところ、弁才天がそれに応え
白竜の姿となって経正の袖に姿を現した。」というエピソードを
『巻7・経正竹生島参詣』は伝えています。

ところが、経正が宇佐八幡宮へ勅使として派遣され、八幡の神殿に向かい、
青海波(せいがいは)の秘曲を弾いたところ、琵琶の音色に居並ぶ神官たちは
みな涙で衣の袖を絞りましたが、宇佐の神は何も反応しませんでした。
宇佐の神が反応したのは、九州へ落ち延びた平家一門が宇佐に入った時のことです。
公通や宇佐一族の館、寺院などを宿所にし、頼みにしていた宇佐八幡宮に
参籠して平家再興の祈願を執り行いました。その7日目の明け方、
宗盛は夢の中でお告げをうけました。
宝殿の扉が開き、気高い声で、

「世の中の うさには神も なきものを 何祈るらむ 心づくしに」

(憂き世には 神も力が及ばぬものを、心を尽くして
いったい何を宇佐の神に祈っているのか。)と
平家一門を見放したような冷たい神託が下されました。

一の谷合戦に敗れた平氏が屋島に退いて態勢を立て直そうとしていた頃の
元暦元年(1184)7月、宇佐宮と緒方荘の上分米(上納される年貢米)で
対立関係にあった緒方惟栄(これよし)・臼杵惟隆兄弟らが宇佐宮を
焼討ちするという大事件が起きました。緒方惟栄らは神殿に乱入し
御験(みしるし)や御正体(みしょうたい)・神宝を奪いとり、
宇佐神人を殺害するなどの狼藉を働き宇佐宮の権威は失墜しました。
この暴挙は大問題となり、いったん惟栄らは配流されますが、
平家追討の功績により非常の恩赦を得ています。

平家滅亡によって、平家方であった公通は窮地に立たされますが、
源氏の氏神である「八幡神」を大切にしていた頼朝は、
宇佐八幡宮に対して寛大な措置をとり、社殿復興に協力し、
大宮司職を公通(公通の子公房とも)に安堵しています。

こうして宇佐宮は鎌倉幕府成立後も頼朝の保護によって急激な
勢力失墜はまぬがれましたが、ペナルティとして、頼朝は大宮司体制の弱体化を進め、
建久3年(1192)には、焼失した弥勒寺金堂の造営を公通に命じています。
鎌倉時代になると、平安末期から顕著となっていた
神官層の武士化はいっそう進んでいきます。
宇佐神宮写真集(1)  
宇佐神宮写真集(2)  
参考資料』
「県史44大分県の歴史」山川出版社、1997年 渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年
 「大分県の地名」平凡社、1995年 「大分県の歴史散歩」山川出版社、2000年
 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年
 現代語訳「吾妻鑑」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年

 



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清経の墓を参拝した帰り道、この五輪塔がもとあったという若八幡神社を訪ねました。
駅館川(やっかんがわ)畔の駒札には、清経の墓は若宮八幡神社境内に
あったと書かれていましたが、この社の
社号は若八幡神社のようです。

若八幡神社は柳ヶ浦小学校グラウンドの西側に鎮座しています。

若八幡神社は、宇佐八幡宮の若宮神社・岩崎の岩崎神社・
豊後高田の若宮八幡神社と並んで四所若宮社の一つとされています。
社伝では、宇佐八幡宮の若宮造営の年と同年の仁寿2年(852)創建としていますが、
『柳ヶ浦町史』には、宇佐大宮司公通(きんみち)が江島別符開発に合わせ、
別符の鎮守として12C末に勧請したものかと記されています。

清経の五輪塔は若八幡神社の東側の田の中に(現柳ヶ浦小学校)ありましたが、
昭和13年(1938)に小松橋の畔に移されました。(『大分県の地名』)



拝殿

拝殿背後の本殿
 
境内末社

清盛の家柄は地下平氏ですが、後妻の時子は官僚貴族として仕えていた公家平氏平時信の娘です。
重盛の死後、清盛の跡を継いだのは時子の生んだ宗盛(重盛の異母弟)でした。
重盛の系譜は主流からはずされるのですが、
『平家物語』は一貫して重盛の嫡男維盛・その子六代を平家の嫡流として描いています。

重盛の長男維盛は官女の生んだ子、二男資盛(すけもり)の母は、
下総守藤原親盛の娘で二条院の内侍(二条天皇に仕えていた女官)です。
三男清経は重盛の正妻経子との間に生まれた長子で、経子の父は中納言・藤原家成です。
後白河院近臣筆頭の成親は経子の同母兄です。
当時は母の出自や家柄の実力がその子の嫡子・庶子を決定しましたから、
どうみても重盛の嫡子は清経でした。

重盛と藤原成親の妹、維盛と成親の娘との結婚は、後白河院と清盛の蜜月時代のことです。
しかし院と清盛の蜜月は長く続かず、院の寵妃建春門院滋子(時子の妹)が亡くなると、
この関係に終止符が打たれ、両者の対立が深まります。
平家打倒計画が発覚し、その中心人物の一人であった成親が殺害されると、
母の実家の後ろ盾を失った清経は後退していきました。

壇ノ浦で戦死した有盛、一の谷で戦死した師盛(もろもり)、忠房は清経の同母弟です。
忠房は屋島合戦の戦場を逃れ、紀伊の湯浅宗重を頼り湯浅城に籠りましたが、
頼朝に言葉巧みに騙され、近江の瀬田辺りで斬られたと
『巻11・断絶平家』は語っています。

さて都落ちした平家は九州大宰府に拠点を定めようとしましたが、
頼みとした豊後の豪族緒方三郎惟栄(これよし)の協力が得られないばかりか、
敵対した緒方三郎によって九州から追い落とされることになりました。
緒方三郎はもと小松家の家人であったことから、資盛が緒方との交渉にあたりましたが、
交渉は不調に終わり、傍流小松家の人々の立場は辛いものとなったと思われます。
清経が海に身をなげたという話も小松家公達の心情が推察できる事件です。

運行回数が少ない電車の出発時間が迫り、立ち寄ることができませんでしたが、
江須賀(江島村)の仏光山日輪寺(曹洞宗)は、平清経が柳ヶ浦沖で入水した後、
清経の妻が淡津三郎とともに下向し、庵を建てたのが始まりとしています。
寛文元年(1661)星岸によって再建され、境内には
清経八百回忌に建立された九重の塔があります。
淡津三郎は『謡曲清経』に清経の家臣として登場する人物です。

また清経には熊本県五家荘に逃れたという伝説もあります。
『肥後国誌』によると、清経は入水とみせかけて四国に渡り、
今治・阿波国祖谷を経て、九州に戻り、豊後竹田に逃れました。
竹田の領主緒方氏を頼り、緒方実国の娘を妻として緒方姓を名のり、
その子孫は源氏の追及を逃れ、熊本県八代郡泉村の五家荘に住んだというものです。
現在、五家荘椎原(しいばら)には、緒方家が平家屋敷として残っています。
平師盛の墓(石水寺)  
平忠房(湯浅城跡)  
『アクセス』
「若八幡神社」宇佐市大字江須賀2307の1 JR「柳ヶ浦」駅徒歩約8分
バス停「柳ヶ浦小松橋」徒歩1分
『参考資料』
「大分県の地名」平凡社、1995年 高橋昌明「平家の群像」岩波新書、2009年
 冨倉徳次郎「平家物語 変革期の人間群像」NHKブックス、昭和51年 
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店、昭和48年 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書、1994年 
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 
全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年



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宇佐市駅館川(やっかんがわ)に架かる小松橋の袂には、
平清経の墓と伝える小さな五輪塔があります。
五輪塔は昭和13年(1938)に
宇佐市江須賀より移され、のちに記念碑なども建立されています。

『平家物語』に見える豊前国柳ヶ浦には二ヵ所あります。
ひとつは北九州市門司区大里、もうひとつは宇佐市柳ヶ浦です。
この二ヵ所は直線距離でも70キロほど離れています。通説では、門司区大里の
海岸とされ、柳の御所跡などが残っていますが、清経入水の伝承はありません。
一方、宇佐八幡宮にほど近い柳ヶ浦には、御所云々の伝承はありませんが、
清経入水の伝承が残っています。ちなみに豊前国は、現在の北九州市東側、
筑豊地方の東側、大分県の北部(中津市・宇佐市)を含む広い地域です。
宇佐市に柳ヶ浦という地名が現れるのは、明治22年の「柳ヶ村」で、
近代になってからです。その名は今もJRの駅名などに使われています。

宇佐市の柳ヶ浦伝承の背景には、平家と親密な関係にあった
宇佐大宮司公通(きんみち)の存在があると考えられます。
公通は自ら駅館川(やっかんがわ)西側地域の開発を行っています。



JR日豊本線柳ヶ浦駅 





「柳浦史蹟」記念碑

冬枯れの柳の木と清経の墓

「清経終焉之地
宇佐氏に援助を求めて太宰府よりこヽ柳ヶ浦につく 謡曲清経に豊前の国柳といふところに着く
げにや所も名を得たる浦は並木の柳陰 世の中のうさにはかみのなきものをなに祈るらん 
心づくしの御宣託があり前途を悲観したものか 船板に立ち上がり腰より横笛を抜き出し
音もすみやかに吹き鳴らし今様を朗詠し入水 清経は重盛の三男で横笛の名手だったとか
 この歩道橋をつくるにあたり歴史を語り風情を残した柳の老木が
枯死したので植えついで後世に残さん為に之植
九十九年四月吉日 宇佐ロータリークラブ建之」

明治18年に架けられた小松橋、その歩道橋

周防灘に注ぐ駅館川に架かる小松橋



  『平家物語』を題材とした能には、武将が死後修羅道の苦しみを訴える修羅能があり、
その多くが世阿弥の作品とされています。
シテ(主人公)の武将の霊が現れ、能舞台の上で自身の最期の場面や死後の
修羅の苦しみを見せ、
やがて修羅地獄から救われ成仏を約束されて終わります。

平家の公達とはいえ、戦場で戦わずに入水による死を選んだ清経は、
念仏を唱え修羅の地獄から簡単に救われます。
それだけ修羅の苦しみが少なかったのだと思われます。

『源平盛衰記』が記す清経が遺した形見の髪を
♪見るたびに心づくしの髪なれば うさにぞ返すもとの社に
(見るたびに心を苦しめる髪だから、つらさに堪えず
筑紫の神の宇佐八幡の社にお返しします。)の歌とともに、清経の妻が
西国の清経のもとに送り返したことや西海を漂う流浪の末、筑紫に落ちのびた
平家一門が宇佐八幡宮に参詣し、思いがけない不吉な神託を受けたということ、
清経が入水死したというだけのわずかな『平家物語』の
記事を手がかりにして、世阿弥は曲を構成し、
形見の髪は清経の死後、
北の方に届けられたと物語を脚色しています。

宇佐八幡の託宣によって、平家一門の絶望的な運命が告げられ、清経は
来し方行く末をつくづくと考え、ある月の夜、船端に出て心静かに横笛を吹き、
今様を謡い朗詠を吟じました。心おきなく笛を楽しむと意を決して、
南無阿弥陀仏の声もろとも柳ヶ浦の沖に身を投げました。
そこには別の苦しみ、死後の修羅道が待っていました。

清経の家臣である淡津三郎は、形見の黒髪を清経の妻に届けるために都に
戻ってきました。入水の話を聞いた妻は、せめて討死にするか病死ならばともかく、
自分を残して死ぬとはあんまりだと嘆き、涙ながらに床につきました。
妻の夢の中に現れた清経の霊は、次々と押し寄せる敵を相手に刀を抜いて
立ち向かう修羅の有様を見せた後、最後の念仏によって修羅の地獄から救われ
往生できたことを喜び、姿を消していきます。(『謡曲清経』)
平清経の墓(福岡県京都郡苅田町)  
平清経(宇佐市江須賀の若八幡神社)  
『アクセス』
「清経の墓」 JR柳ヶ浦駅下車徒歩約10分
『参考資料』
「検証 日本史の舞台」東京堂出版、2010年 「大分県の地名」平凡社、1995年
新潮日本古典集成「謡曲集」(中)新潮社、昭和61年 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 
新定「源平盛衰記」(4)新人物往来社、1994年 白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫、1998年

 

 




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福岡県の北東部、周防灘に面した苅田(かんだ)町に清経の墓と伝えられる五輪塔があります。
柳ヶ浦で入水した清経の遺体は苅田の浜に流れ着き、
土地の人達がこれを火葬しこの地に葬ったといわれています。
清経が入水したのは寿永2年(1183)神無月のころ、21歳の時でした。

左中将清経は小松殿、重盛(清盛嫡男)の三男で、母は藤原成親の妹経子です。
後白河院の近臣だった成親は鹿ケ谷謀議の中心人物、
謀議発覚後、備前の国に配流され、清盛の命で惨殺されました。
成親と極めて縁が深かった清経は、この事件以後、後退していきます。

都落ちした平家一門は大宰府に内裏を構え、再起をかけようとしましたが、
かつて重盛の郎党であった豊後国の豪族緒方惟栄(義)に追われ、
豊前柳ヶ浦に至りました。しかし敵来襲の知らせを聞き、
やむなく一門は、海士の小舟に乗って海上に漕ぎだしました。

清経は何事も深く思いつめる人でしたが、ある月の夜、
舷(ふなばた)に出て横笛を吹き朗詠した後、平家の行く末を悲観し、
「都を源氏に追い落とされ、鎮西を惟栄に攻め落とされて、
まるで網にかかった魚のようだ。どこへ行こうと
しょせん逃がれることができぬ。ながらえ果つべき身でもない。」と言って、
静かに経を読み念仏を唱えながら
ほの暗い海に身を投げました。『巻8・柳ヶ浦落ち』

対等の立場の源氏に都を追われたのは仕方がないとしても、
平家の人々にとって身分が下のしかも、
もと家人に追われ九州を落ち行くのはさぞ悔しかったことでしょう。



JR苅田駅



清経の墓は雑木の茂みの中にあります。道路を挟んだ向かい側の西恩寺から撮影しました。



北条時頼(最明寺入道)には、執権を退いた晩年に諸国を巡ったという伝説が各地に残っています。


説明板の傍にたつ碑に刻まれている文字は、風化していて読み取れません。





西山浄土宗西恩寺は、東伝寺(京都郡苅田町神田町1)の末寺です。
『福岡県の地名』に「西恩寺境内には、
平清経の墓と伝える五輪塔がある。」と記されています。

平清経の墓(宇佐市小松橋袂)  
平清経(宇佐市江須賀の若八幡神社)  
『アクセス』
「清経の墓」福岡県京都郡苅田町馬場村
JR門司駅からJR苅田駅まで普通電車で約30分(小倉駅で中津行に乗り換え)
苅田駅から徒歩約15分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年 「福岡県の地名」平凡社、2004年
高橋昌明「平家の群像」岩波新書、2009年


 



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御所神社を参拝したその足で、「風呂の井戸」の説明板に書かれていた大専寺を訪ねました。
壇ノ浦で敗れた平家一門の霊を祀った風呂禅院西光山大専寺は、昔、柳村にありましたが、
慶長年間(1596~1615年)浄土真宗に改宗し、大里(だいり)宿に移りました。

大専寺は大里宿の長崎街道沿いにあり、海岸線は埋め立てが進んでいますが、
宿場内の道路は当時の面影を残し、門司往還に沿った直線の町並みになっています。





大専寺の街道を挟んだ向かいには、柳浦山西生寺が伽藍を構えています。
この寺はキリシタン取締りの踏絵寺でした。




山門

お寺が幼稚園や保育園を経営している風景は、清盛の熱病を治した水薬師寺、
重盛の阿弥陀経石を安置する正林寺でも目にしましたが、
この寺も境内には西光保育園が併設され、非公開となっています。

本堂

大専寺近くの民家の車庫横には、「大里村庄屋石原宗祐屋敷趾」の石碑が建っています。
大専寺のすぐ北側は関門海峡の波打ち際です。

古くは「柳」や「柳ヶ浦」と呼ばれていたこの地は、平安時代末期に
安徳天皇を奉じた平家一行が「柳の御所」を構えた歴史により
「内裏=大里」と呼ばれるようになりました。
 戦国時代、大宰府へ旅行した連歌師宗祇は「安徳天皇行宮跡をあわれみ、
柳が浦を過、菊の高浜を眺む」と『筑紫海道記』に記しています。

その後、江戸時代に参勤交代が行われるようになると、大里は本州渡海の宿場として、
九州の諸大名をはじめ人々の往来で賑わいました。
風呂の井戸・風呂の地蔵・不老通  
アクセス』
「西光山大専寺」 福岡県北九州市門司区大里本町1−6−13
JR門司駅徒歩約15分 JR小森江駅から0.6km
『参考資料』
「福岡県の地名」平凡社、2004年

 



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