コメント
 
 
 
一つづつ丁寧にひも解いて解説して頂いて… (yukariko)
2018-06-21 18:25:05
ようやく元の「平治の乱の始まり」の所まで戻ってきましたね。
今と違って照明もない真夜中の焼き討ちや敵襲はどれほどの混乱になったか、想像も出来ない騒ぎでしょう。

投稿された日時が2009.6になっていますから、もう丸9年ですね。
この頃の記事を読んでは烏丸通一帯の駒札や碑を見て歩いた頃を思い出します。
文化博物館はそのままですが、新風館は閉館、来年ホテルになるのですか?世の中はあっという間に移り変わりますね。
大河ドラマどころじゃないこの大がかりな物語を克明な資料や写真と共に丁寧に取りこぼさずに語って下さったこの月日のご苦労は凄いものだと思います。
どうぞこれからもよろしくお願いします。

 
 
 
そうでしたね (sakura)
2018-06-22 13:31:53
その節はありがとうございました。
平治の乱の10ヶ月前、頼朝が初出仕したという
上西門院の御所・三条南殿もみずほ銀行の壁に架かる
説明プレートで知るばかりになりましたね。

その時、殿上人の筆頭として参加した清盛42歳と13歳の頼朝が顔を合わせています。

近年、外国人観光客の急増を受け、京都はホテル建設ラッシュが続いています。

薩摩守忠度が都落ちの時、和歌の師藤原俊成に別れを告げにいったという
俊成の邸宅跡は、烏丸通に面した俊成社となって残っていましたが、
都落ちの記事を書くころには、祠はホテル・京都・ベースの一角に移されていました。

重盛の邸宅内にあった庭の遺構と推定されている積翠園(しゃくすいえん)は、
記事を投稿する時には、東山武田病院の庭園でしたが、
平成28年10月の新聞報道で、武田病院が外資系ホテル
「フォーシーズンホテル京都」として、オープンしたということを知りました。

保元・平治の乱から太政大臣任命までが清盛の絶頂期です。
保元・平治の乱の記事を書くころには、行けなかったり、
気がつかなかった史跡があります。
時代が遡ったり、下ったりでお読みいただくのには、
煩雑な記事になっていると思います。
申し訳ありませんが、これからもよろしくお願いいたします。

 
 
 
平治の乱 (揚羽蝶)
2018-06-27 23:32:18
 平治の乱は、平家にとって非常に重要な事件で、これに勝利して確固たる基盤を築きました。
その始まりの場所である三条東殿址、信西邸跡の詳しいところを調べていただいて、非常にありがたいと思います。また、京都市内に行った折には、是非訪ねてみたいと思います。
これから夏を迎え、更に暑くなりますが、お体に気を付けて取材を続けてください。
 
 
 
Re:平治の乱 (sakura)
2018-06-29 09:20:54
そうですね。
保元・平治の二つの合戦に勝利し、清盛の地位・権力は一気に高まり、
一族みな栄えるという平家の世になりましたね。

平治の乱の翌年には、清盛は武士では初めての公卿の地位に昇り、
その後も昇進を続け、臣下として最高の地位、太政大臣にまで任命されました。

もう参拝されたかも知れませんが…
信西邸跡(宮木町)のすぐ近く、
姉小路通を東へ、西洞院通を越えると北側に
高松神明神社(高松殿跡)があります。(中京区姉小路釜座東入北側です)
かつてここには後白河天皇の高松内裏があり、
保元の乱の時は天皇方の清盛や義朝らが結集した場所です。

向暑の候、揚羽蝶さまもご健康にはくれぐれもご留意ください。

 
 
 
古地図 (mich)
2020-07-07 21:39:46
すみません。

このページの冒頭に載っている地図の出典を教えて頂けないでしょうか?

旧跡を訪ね歩く際に重宝すると思い、こうして現代の地図に昔の地名などが重ね書きしてあるものを探していました。

もし不可なら似たような物でも構いません。

よろしくお願いします。
 
 
 
ご訪問ありがとうございます。 (sakura)
2020-07-08 14:37:04
michさま
お尋ねの地図は、高倉宮跡辺にあった説明板から一部転載したものです。
地図の文字、「中央郵便局」「三条通り」「高倉通り」は、私が書き込みました。

ちなみに「三条東殿遺址(さんじょうひがしどのいし)」の
石碑と駒札が建っていた烏丸御池の「新風館」(ホテル・商業施設)が
2020年6月にリニューアルオープンしました。
コロナで開業が遅れたようです。
 
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