平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 
平治の乱(1159年)で平家に敗れた源義朝は東国へ敗走中、
長田忠致(おさだただむね)に野間(愛知県)で殺害され、
嫡男の頼朝は美濃(岐阜県)青墓宿で捕らえられました。

永暦元年(1160)、頼朝は14歳で配流地伊豆への途中、
当社に参籠して源氏の再興を祈願したという。
その三十年後、見事
源氏再興を果たした建久元年(1190)上洛の途次、
再び当社に詣で瀬田郷300石と数多くの神宝を寄進したとされています。

このことから出世開運の神として人々の厚い信仰を集めてきました。
その後、度々戦火にみまわれましたが、その都度再建し、
江戸時代には膳所藩歴代藩主の崇敬を受けています。


瀬田唐橋から東へ500mほど進むと、建部大社の鳥居が見えてきます。

二の鳥居

社伝によると、神崎郡建部郷(東近江市)に日本武尊を
建部大神として祀ったのが始まりとされ、天武天皇4年(675)、
現在地に遷したとされています。
天平勝宝7年(755)には、孝徳天皇の詔により大和一の宮、
大神神社から大己貴命を勧請し権殿に祀られ現在に至っています。


当社には八幡神は祀られていませんが、日本武尊(倭建命)の孫にあたる応神天皇、

その母神功皇后を祭神とするのが八幡神、すなわち建部大社には
八幡神のご先祖がお祀りされていることになります。


神門

例大祭 4月15日  船幸祭(せんこうさい)8月17日

拝殿前の三本杉がご神木となっています。

建部大社は、瀬田唐橋の東方に鎮座し、
近江国一の宮として屈指の歴史と由緒を持つ社です。
主神は日本武尊(倭建命)、相殿に天明玉命、
権殿に大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られています。

さてここで『平治物語』から、
「頼朝遠流の事付けたり守康夢合わせの事」のあらすじをご紹介します。

北方の胡の国から来た馬は北風が吹くと故郷を懐かしんでいななき、
南方の越の国から飛んできた鳥は故郷のある南に向いて延びる枝に巣をつくるという。
獣や鳥でさえこのように故郷の名残りを惜しむ。まして人間であれば尚更である。

人は皆流罪というと嘆きますが、頼朝の流罪は死一等減じられ遠流となったのですから
世にもまれな喜びでした。「頼朝が流されるぞ、さあ見に行こう。」と延暦寺の僧、
園城寺の僧が大津の浜に市が立ったように多勢集まってきました。
頼朝の姿を一目見るなり
「眼つきの鋭さといい人柄といいただ者ではない。
頼朝を伊豆国に流せば千里の野に
虎の子に翼をつけて放すようなものだ。
恐ろし、恐ろし。」と僧たちは口々に言い合います。

宗清は頼朝との別れが名残惜しく、見送るうちにはや瀬田の橋を過ぎてしまいました。
「あそこに見える森は何だろう。」と頼朝が尋ねると「建部の宮といって八幡神を
祀る社です。」と宗清は答えます。「では今夜は八幡さまの御前で過ごして、
道中の無事を祈り
お暇申しあげてから伊豆へ下ろう。」と頼朝が言うと
「頼朝は流罪の身でありながら
宿場に泊まらずに神社に参籠して終夜祈願した。」と
平家の方々がお聞きになったら、
どう思われるでしょう。」と宗清は言いますが
「源氏の氏神さまにお別れもうしあげるのに
不都合はないだろう。」とおっしゃるので、
仕方なく一行は建部宮に入りました。
「南無八幡大菩薩、もう一度都へお返しください。」と
頼朝は祈ったそうですが、恐ろしいことです。


父義朝の郎党上野守康という男が、頼朝が伊豆配流と聞き、老母が重病にもかかわらず
粟田口までお見送りしようやってきました。粟田口まで来ると
せめて逢坂山までと思い直して、とうとう建部大社まで来てしまいました。
その夜、守康は霊験あらたかな夢のお告げを受けました。人が寝静まってのち
頼朝のお傍へ参って守康は小声でささやきます。「伊豆国へお行きになっても、決っして
出家だけはなさいますな。夢の中に神の示現がありました。
その夢というのは、八幡に参詣していたら御殿の中から『頼朝の弓矢はどこにあるか』
とお尋ねがあり『ここにございます。』と答えて二人の童子が弓矢を持ってくると
『納めておけこの弓矢を取り出す時がきっとくるぞ。』と言い終えて
弓矢を御殿の奥に
納められました。またその後、
佐殿(頼朝)が白い直垂姿で庭上をかしこまって通られると、

白金の盆に鮑を薄切りにし、延ばして干したのし鮑を67、8本
(60余州をさしたものか)置かれ、神さまが『さあ頼朝に与えよう』と仰り
御簾(みす)のうちから出された鮑を佐殿がふつふつとお食べになったのち、
僅か一本お残しになり『守康にやる。』といってお投げになったものを、
守康がい
ただいて食べたとも懐に入れたともはっきりと覚えぬまま夢からさめました。

正夢に違いありません。きっとご主君の時代がくると思われます。

人が何と言おうが
ご出家だけはなさいますな。」とこっそり囁きますが、
頼朝は誰かが聞いていると思われたのか、

返事はなさらず黙ってただ頷くだけでした。翌朝一行は、建部大社の八幡大菩薩に
別れを告げて出発します。守康は「せめてもう一日だけでもお供したいのですが、
老母が危篤におちいっています。」と帰り、
宗清は篠原まで送りましたが、頼朝にこれから先の無事を言いおいて、
都へと
戻って行きました。やがて伊豆国の蛭ヶ小島に到着すると、
役人は伊東や北条に「頼朝を守護するように。」と申しおいて
都に帰って行きました。

『アクセス』
「建部大社」大津市神領一丁目16-1 京阪電車「唐橋前」駅下車 徒歩15分
JR琵琶湖線「石山駅」下車 バス 「建部大社前」下車徒歩3分
 JR琵琶湖線「石山駅」下車 徒歩 20分

『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店 奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社
永原慶二「源頼朝」岩波新書 「滋賀県の歴史散歩」(上)山川出版社
「滋賀県の地名」平凡社 01・2月号「歴史読本」(古事記・日本書紀と謎の神々)新人物往来社

 

 
 
 
 

 



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建部大社が滋賀一宮とは知りませんでした (yukariko)
2010-02-20 11:18:39
昔の国々の中でそれぞれ一番位の高い神社が一宮と呼ばれるのですね、近畿でさえどの神社がそれに当るのか知りません。
今回の建部大社も全く知りませんでした。
滋賀は日吉大社かな?なんて思っていました。
とても立派なお宮ですね。

山城の国は上賀茂・下鴨神社(正式名称は違いますが)摂津の国は住吉大社と聞くと納得しましたが。(と座摩神社…これも不思議)

そのご祭神の由来を詳しく書いて下さっているので
源氏の守り神に配流の途中にでも参籠して行きたいと願った気持が分かります。

でも護送した宗清の人道的な扱い方や平氏の一族などに監視されながらではあっても源氏の勢力下のせいか、伊豆の配流地でも静かな、でも比較的自由な生活を20年間送れたのは、頼朝の母系が密かに後援を依頼した、平氏でも力のある池禅尼やその息子達の勢力がにらみを利かせていたせいもあるのでしょうか?
そしてここで力を蓄えた?頼朝が北条政子と結婚する事によって北条氏を後ろ盾に旗揚げをして、後の逆転に繋がる訳ですね。

TOP写真の蛭ヶ小島公園で富士を仰ぐ頼朝と政子像を
『小島じゃないんだ!』と眺めました(笑)
蛭が多い湿地帯だったのですね。

はるか昔に千葉県勝浦近辺を歩いた時に日蓮の旧跡地以外に、わざわざ友人と電車を乗り継いで頼朝が住んだ蛭ヶ小島だと言われた小さい島を見に行った事があるので、あの観光案内は何だったのだと思案しています。
頼朝は旗揚げの時に安房の国に上陸しているだけですよね(笑)
 
 
 
仁右衛門島でしょうか? (sakura)
2010-02-21 12:14:27
治承4年挙兵した頼朝は敗れ、真鶴崎から海上に出て安房に上陸。ここから頼朝は千葉県勝浦の南方、鴨川市太海浜から望む太平洋に浮かぶ島に渡り洞窟に身を潜めていた。という伝説があります。
この時頼朝をかくまったのがこの島に住む仁右衛門。のち彼は頼朝から褒美として島一帯を与えられたといいます。Yukarikoさんがいらっしゃったのはこの島かも知れませんね。

建部大社が近江国一の宮ということは由緒書きを見て知りました。立派な社です。
美夜受比免命(みやずひめのみこと)は日本武尊の死後、草薙の剣を熱田に祀ります。熱田神宮の始まりです。神宮の傍には美夜受比免命の墳といわれる断夫山古墳、日本武尊の白鳥稜があります。(日本武尊の御陵はあちこちにありますが)頼朝の母の実家とつながりますね。
この時代、勢多から草津までは東海道・東山道の共通の街道で、勢多橋の東詰には勢多宿、建部大社の南には勢多駅があり街道は大勢の人が行き交いこの社も沢山の参詣者で賑わったと思います。
座摩神社は大川の南側の断崖の上に祀られていましたが、大坂築城のとき、東区渡辺町へ遷されています。現在の石町にあるお旅所はそのあとを残すものだそうです。
頼朝の流人時代のことは詳しくは分からないようですが、おっしゃるようにそう窮屈な生活ではなかったようですね。
狩野川中洲に一つだったといわれる蛭ヶ小島の付近には、江戸時代になって蛭ヶ小島の碑が建てられ現在は一帯が公園になっています。
頼朝はここからの僅かな収入と乳母や母方叔父の援助で生計をたてていたようです。平治物語によると池禅尼が春秋の衣装を届けるとありますが、これは史実としては確認できないようです。しかし池禅尼が何らかの援助の手を差し伸べたということは推測できるのではないでしょうか。
 
 
 
ありがとうございます仁右衛門島です! (yukariko)
2010-02-21 22:06:33
20数年前に千葉に引越したテニスのペア相手と連れ立って房総半島一帯を地図を片手にあちこち歩きました。
鴨川から電車で小さい駅に行き、歩いて太平洋に浮かぶ小さな島の手前の海岸まで行きました。
確かに島の名前と同じ名の持ち主が住んでおられて、頼朝が隠れていた洞窟を見たりすると渡船は夕方5時までなので帰れなくなると言われて、口惜しい思いで渡るのを諦めて民宿に戻りました。

その島の記憶が蛭ヶ小島とごっちゃになってしまっていました。

名前を書いて貰ってぱっと思い出しました。
本当によくご存知ですね。
その記事がどこかにないかと探したのですが見つけられなかったのです。
ありがとうございました

 
 
 
やはりそうでしたか (sakura)
2010-02-22 17:15:16
平家物語頼朝挙兵のページにこの島のスクラップを挟んで手許においていました。
お友達を訪ねられたそうですが、遠いところまでよく行ってこられましたね。
地図を開くと南房総の東側一帯は国定公園に指定されています。きっと美しい景色が続く海岸線なのだと思います。
対岸からも仁右衛門島は一望でき、多い時には年間十数万人が渡ったと記事に書かれています。頼朝の敗走ルートは真鶴から海路、安房猟島(鋸南町龍島)に逃れ房総半島の西岸沿いに北上し鎌倉に入ったことが資料に見えます。
後日仁右衛門島について調べてみます。
 
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