平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




鎌倉駅東口を出て東へ、若宮大路を横断して鎌倉郵便局脇を右へ、
本覚寺前を通り夷堂(えびすどう)橋を渡って
東に進むと長興山妙本寺(日蓮宗)があります。



ここは比企ヶ谷(ひきがやつ)といい、頼朝が鎌倉に拠点を構えた時、
20年に亘る流人生活の間、支援を受けた比企尼を迎え入れた土地です。
比企ヶ谷の邸は主に比企尼が用いたようで、当時、尼の養子
比企能員(よしかず)の館は大蔵幕府の東御門近くにあり、
京都からの使者の宿舎にもなりました。
有力御家人の多くが大蔵幕府(大倉御所)の周辺に
邸宅や宿所を構え、そこから幕府に出仕していたのです。
後に比企一族が比企ヶ谷の地に邸を建てたようです。

北条政子が嫡男頼家を生んだのも比企尼の邸でした。
「木陰が涼しいです。」などと比企尼が誘ったので、頼朝と政子が
納涼に訪れたり、また、庭に他所よりも早くに白菊が咲いたと聞き、
頼朝夫妻が供を連れて訪れ、重陽の節句の
酒宴が開かれるなど、尼の邸が頼朝夫妻にとって
心安らぐ場所となっていたことが『吾妻鏡』に記されています。


総門を入り広大な境内に足を踏み入れると、右側に比企谷幼稚園があり、
その前から長い参道が続いています。
参道の石段を上ると二天門が建っています。

門の右手後方に見えるのが妙本寺が経営する比企谷幼稚園で、
昭和12年3月、八角形の夢殿を模して建てられたものです。




幕末頃に建てられた二天門

欄干には飛竜、一角獅子、像などの彫刻が施され、
向かって右側に持国天、左側には多聞天が立っています。

二天門を潜ると源頼家の嫡男一幡(いちまん)6歳が
北条氏に攻められ、比企一族とともに炎の中に消えた時、
焼け残った袖を埋めたという袖塚があります。

一幡君袖塚

袖塚の背後に建つ巨大な五輪塔は、前田利家の側室
千代保(ちよぼ)の供養塔です。
  千代保((寿福院)は、加賀藩第2代藩主前田利常の母で、
熱心な日蓮宗の信者でした。この五輪塔は千代保が人質として
江戸在住時代の元和10年(1624)に建立した
逆修塔(自分の死後の冥福を祈って建てた供養塔)です。



千代保の供養塔から少し進むと、比企能員一族の墓が並んでいます。

正面の祖師堂には、中央に日蓮上人像、右には日朗と比企能員夫妻像、
左には比企大学三郎能本(よしもと)夫妻の像が並んでいます。

日蓮上人像

北条一族は頼朝の妻政子の実家として権勢を誇っていましたが、
比企能員の娘若狭の局が頼家の側室となり、一幡(いちまん)を生むと
能員にその座を奪われそうになり、能員と対立を深めていきます。

頼朝の急死後、二代将軍となったのが18歳の頼家でした。
頼家の後見には比企氏、頼家の弟千幡(せんまん)には
北条氏がついていたことが問題をより複雑にしました。

頼家の乳父(めのと)は比企能員、乳母には比企尼の娘がなり、
千幡は北条時政の名越(なごえ)の邸で生まれ、乳母には政子の妹阿波局、
その夫阿野全成(ぜんじょう)が乳父と、一族あげて千幡に肩入れしていました。
比企氏・北条氏と異なる乳母父関係をもったことが抗争の火種となり、
時政は将軍頼家を廃し、千幡(実朝)を将軍に立てようと画策します。

 『吾妻鏡』によると、頼家の病気見舞いに訪れた政子が能員と頼家の
北条氏打倒の密談を障子の陰で立聞きし、父の時政にこれを知らせます。
能員の最期はその日の午後でした。
かねがね比企一族を討つ機会を狙っていた時政は、仏像供養をするとして
名越(なごえ)の邸に能員を招きました。
能員が北条邸に行くというので、
能員の子息や親戚は危険を察して「思わぬ事態が起こるや知れません。
軍兵をお供に加えるように」と忠告
しましたが、「薬師如来の供養であるから
それには及ぶまい。」と
郎党2人と雑色5人だけを従えて平服で出かけ、
総門を入ったところで時政の側近らに
刺殺されました。あまりにも軽率で
無謀な行動ですが、人を疑わない能員の性格がよくあらわれています。
能員の従者は比企館に逃げ帰り事情を告げました。

時政はすかさず「比企氏謀反」といって御家人を集め、比企一党が
立てこもる比企ヶ谷の館を襲撃しました。比企氏は必死に防戦しましたが、
所詮は多勢に無勢、力尽きた一族は館に火を放って全滅しました。
建仁3年(1203)9月2日のことです。(比企の乱)

『吾妻鏡』は幕府側(北条氏)に立つ記録から書かれているので、事件の発端は
能員側にあったとしていますが、北条氏による謀略という見方もあります。
『愚管抄』の著者慈円によると、頼家が地頭職を分割せず、嫡男の一幡に
すべてを譲ろうとしているのを知った時政が能員を罠にはめ謀殺したとし、
この事件を北条時政のクーデターとしています。

 比企の乱の翌朝、焼け残った一幡の菊の文様が入った小袖を
頼家の近習大輔坊源性が小御所の焼跡から見つけ、
遺骸はこの辺りにあると推測し、遺骨を拾い首にかけて
高野山へ出発し、奥の院に納めたという。(『吾妻鏡』)
源性は摂津渡辺党出身で蹴鞠や算道を学んだ京下りの頼家の側近です。

ところが、『愚管抄』や『鎌倉年代記裏書』建仁3年条には、
一幡は合戦の前に乳母に抱かれて小御所を出たが、のちに北条義時の命で
殺されたと記されています。どちらにしても比企の乱以前に
頼家の後継者と決められていた一幡は、北条氏に誅殺されたことになります。
その後の経過も『吾妻鏡』と『愚管抄』などの
史料とではかなり違いがあります。
ただ、北条氏が比企一族を滅ぼし、一幡を殺し、千幡を将軍に立て、
頼家を修禅寺
幽閉した後、殺害したことだけは確かです。

 比企一族が滅んだ時、能員の末子能本(よしもと)は生き残っていました。
能員の妻と2歳の能本は、政子と好(よしみ)があったという理由で
和田義盛に預けられ、安房国へ流罪と決まりました。(『吾妻鏡』)
 しかし、『新編鎌倉志』によると、能本は伯父の伯耆(ほうき)上人に
匿われて出家し、京都の東寺に入って順徳天皇に仕え、
天皇が承久の乱に敗れ佐渡に配流された時、
そのお供をして佐渡まで同行しました。
やがて四代将軍九条頼経の
室となっていた姪の竹御所の執り成しで許されて鎌倉に戻り、
竹御所死後にその菩提を弔うため、日蓮の弟子日朗を迎え
文応元年(1260)、比企一族の邸跡に法華堂を創建しました。

建長5年(1253)頃、能本は日蓮に帰依し
法名を日学妙本と称していたので、この法華堂は妙本寺とよばれます。


総門の右方に石碑があり、碑文には次のように刻まれています。
「比企能員邸址   能員ハ頼朝ノ乳母比企禪尼ノ養子ナルガ 
禪尼ト共ニ此ノ地ニ住セリ 此ノ地比企ヶ谷ノ名アルモ之ニ基ク
 能員ノ女頼家ノ寵ヲ受ケ若狭局ト稱シ 子一幡ヲ生ム 
建仁三年頼家疾ムヤ母政子関西ノ地頭職ヲ分チテ 頼家ノ弟千幡ニ授ケントス
 能員之ヲ憤り蜜ニ北条氏ヲ除カント謀ル 謀泄レテ 
郤ツテ北条氏ノ為一族此ノ地ニ於テ滅サル 大正十二年三月 鎌倉町青年團建」

意訳(比企能員は頼朝の乳母であった比企禪尼の養子であり、
禪尼とともにこの地に住んでいました。これに基づいて、
この土地を比企ヶ谷といいます。
能員の娘は頼家の側室となり、若狭局と称し一幡を生みました。
建仁三年(1203)体調不良が続いていた頼家が重体に陥ると、
母政子は分割相続を発表しました。それは関西38ヵ国の地頭職を
頼家の弟千幡(せんまん)に、全国の守護職と28ヵ国の地頭職を
一幡に支配させるというものです。頼家が家督を譲るとすれば、
当然嫡男の一幡に譲るべきであると、能員はこれを怒り
ひそかに北条氏打倒を図りましが、謀(はかりごと)はもれ、
逆に北条氏によって比企一族はこの地において滅ぼされてしまいました。)
比企ヶ谷妙本寺(2)蛇苦止堂・竹の御所墓・仙覚の碑  
比企尼・比企遠宗の館跡    宗悟寺(比企尼・若狭局伝承地) 
 金剛寺(比企氏一族の菩提寺) 
比企尼の娘、丹後局が生んだという島津忠久誕生石が住吉大社にあります。
住吉大社(万葉歌碑 島津忠久誕生石)  
アクセス』
「妙本寺」鎌倉市大町1-15-1 
JR横須賀線鎌倉駅東口より徒歩約9分
『参考資料』

松尾剛次「鎌倉古寺を歩く宗教都市の風景」吉川弘文館、2005年 
永井晋「鎌倉源氏三代記」吉川弘文館、2010年 
田端泰子「乳母の力」吉川弘文館、2005年 
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年 
関幸彦「北条時政と北条政子」山川出版社、2009年
上横手雅敬「鎌倉時代その光と影」吉川弘文館、平成7年
「神奈川県の歴史散歩(下)」山川出版社、2005年 
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館、2008年
 現代語訳「吾妻鏡(7)」吉川弘文館、2009年

 

 

 

 



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比企局(出家後は比企尼、生没年・出自不詳)は、武蔵国比企郡の郡司であった
比企掃部允(かもんじょう)遠宗(とおむね)の妻です。
比企氏は藤原秀郷の末裔と称し、相模国(現、神奈川県秦野市)に居住していましたが、
康和年間(1099~1104)に一族の波多野遠光が郡司として比企郡に移り住み、
比企氏を名のったとしていますが、正確な系図が残ってなく、
遠宗の父祖については明らかではありません。

源義朝が鎌倉にあって関東の勢力拡張に努め、次第に権勢を高めていった頃、
遠宗はその家人となり、義朝が関東を長子、悪源太義平に任せ
都で活躍しはじめると、義朝に従って都に上ります。
早い時期から遠宗が都に住み、そこで掃部允に任じられていることから、
比企局の実家が京都の下級官人であったとも考えられます。

ちなみに頼山陽『日本外史』の現代語訳(巻之二 頼朝、死を免る)には、
「中宮属(さかん)三善康信は、その故人なり」とあり、その
下の注釈欄には、
中宮属は皇后づきの役所の属、康信は比企の禅尼の妹の子と書かれています。
三善康信は月に三度は京都の情勢を頼朝の配所に文を書き送っていた
朝廷に仕える下級官人です。

久安3年(1147)に頼朝が生まれると、
比企局は選ばれて乳母の一人となります。
平治の乱で義朝は清盛に惨敗し、頼朝は敗走のさなか青墓で捕われ、
14歳で伊豆へ配流の身となりました。この時、比企局は夫と共に京を離れ
本拠地に戻り、頼朝が平家打倒の兵を挙げるまで物心両面でこれを援助しました。
平家を憚り顧みる者が少なかった時期、ましてや
頼朝が世に出ることなど考えられもしなかった平家全盛時代、
比企局は不遇時代の頼朝を支えた最大の功労者でした。
北条政子の父時政でさえ娘と頼朝の結婚を事後承諾するまでは、
頼朝とは距離を置いていました。

これについて『吾妻鏡』には、「頼朝が伊豆に流された時、
武蔵国比企郡を請所として、夫掃部允に連れ添って下向し、治承四年の
秋に至るまで二十年の間、何かと頼朝のお世話を申し上げた。」と
記されています。(寿永元年(1182)10月17日条)

この記事から平家は敵方であり、しかも頼朝の乳父(めのと)であった
遠宗に対して、比企郡を請所として与えたことになります。
「比企郡を請所として」の意味ですが、中世において請所というのは、荘園・公領の
現地支配を任されるかわりに一定額の年貢の納入を請け負うことをいいます。
その間に夫の掃部允が病死し、比企局は髪をおろし比企尼とよばれ、
おいの比企能員(よしかず)を猶子(養子にほぼ同じ)とし、
比企氏の家督を継がせています。

このような縁で、寿永元年(1182)8月に北条政子が頼家を生むと、
能員はその乳父(めのと)
に任じられ、比企尼の二女(河越重頼の妻)は
乳母となり、その産所は鎌倉比企ヶ谷(ひきがやつ)の尼の邸でした。
その後、頼家が成長すると平賀義信とその妻(比企尼の三女)を
乳母夫婦としてその側におきます。

比企尼に推挙され有力御家人の列に加わった能員は、
合戦で多くの功績を挙げ、幕府創立期の中心的存在となります。
娘の若狭局が頼家(二代将軍)の側室となって一幡(いちまん)と
竹御所を生むと、自らは外戚として権勢を振るい、北条氏を凌ぐようになります。
その繁栄の原点は、養母比企尼の引き立てにあったのです。しかし、頼朝の死後、
しだいに北条氏との対立が激化し、北条氏の謀略で比企一族は滅亡しましたが、
同族の比企朝宗(ともむね)の娘姫の前が北条義時の妻となっていたため、
その尽力などで一族に生き残った者がいたのです。

比企尼は男子には恵まれませんでしたが、娘が三人おり長女は丹後内侍と称し、
二条天皇に女房として仕え、優れた歌人であったという。
惟宗広言(これむねのひろこと)に嫁ぎ島津氏の祖・島津忠久を生み、
その後、離縁し関東へ下って安達盛長に再嫁したとしています。
盛長は頼朝の流人時代からの側近であり、妻の縁で頼朝に仕えたと見られ、
娘の一人が頼朝の異母弟・源範頼に嫁いでいます。

『吾妻鏡』によると、文治2年(1186)6月10日、丹後内侍が
甘縄の家(現、鎌倉市長谷付近)で病気になったので、頼朝は供の小山朝光・
千葉(東)胤頼2人だけを伴い、盛長の屋敷を密かに訪れて見舞っています。
頼朝は彼女のために願掛けをし、同月14日には丹後内侍の病気が
治ったというので、少し安心したという。
頼朝が密かに病気見舞いに訪れたり、願掛けをしたりと、両者の親密な関係が
うかがわれますが、大恩ある尼の娘であれば当然のことだったのでしょう。

この長女は流人時代の頼朝に仕えるなど、頼朝に近い女性であったことから、
島津家に伝わる史料では、祖の島津忠久を彼女と頼朝の子であるとする
頼朝落胤説がありますが、『吾妻鏡』をはじめとする
当時の史料に丹後内侍が頼朝の子を生んだとする記録はなく、
島津家が有力大名になるとともに関係づけられた伝説のようです。

二女は武蔵国の豪族河越重頼の妻となり、その娘は頼朝の計らいで
源義経の室に迎えられています。三女は伊豆国の豪族
伊東祐清に嫁ぎましたが、祐清が戦死したため、のち平賀義信と再婚します。
祐清(すけきよ)は妻の母が頼朝の乳母であった関係から
頼朝との縁が深く、親しい間柄であったようです。

父伊東祐親(すけちか)は、娘の八重姫が頼朝の子を生んだことに腹を立て、
頼朝殺害を図った時、祐清はいち早くこれを知らせ、頼朝の窮地を救っています。
頼朝は挙兵後、祐清を家人にしようとしましたが、
祐清は頼朝に敵対した父の立場をはばかり、平家方に参じる
道を選ぶことになりました。
その後、寿永2年(1183)5月、
平家軍に加わった祐清は北陸道の合戦で討ち死にしたと伝えられています。
平賀義信は源氏の一族で平治の乱に源義朝に従って出陣し、
敗戦後、義朝の東国敗走に尾張国野間まで付き従った人物です。

ところで、比企掃部允と比企尼が平治の乱後に戻った館はどこにあったのでしょうか。

①   比企遠宗のご子孫斎藤喜久江氏は、三門(みかど)館は埼玉県比企郡滑川町
和泉三門にあります。比企遠宗は源義朝の命で比企郡和泉の三門に館を建てました。
その館を三門館と呼ぶようになったのは、三門という小字にあるからです。
この地から比企の尼は伊豆の頼朝の元へ米を送り続けましたと述べられ、
『比企年鑑』(比企文化社発行 昭和27年編纂)の記事から抜粋し、
「比企遠宗館址(和泉)字三門にあり、平坦低窪の地で前後は梢々高く、
馬場、陣屋跡及び門柱石、池の痕跡等がある。廓外の柳町、八反町、
六反町等の地名も当時の名残である。」
この描写はご自身の生家周辺の景色と一致するとされています。

その後、比企氏は徳川幕府の政策で家取り潰しにあい、改名を余儀なくされ、
氏を斎藤と変え、また菩提寺の天台宗の寺だった泉福寺は
江戸時代に一度、廃寺にされました。

家に伝わっていた系図と古文書類は昭和6年の火災で焼失し、
菩提寺にあった過去帳も寺の火災で焼失してしまい、家の伝承以外、
残っている記録は殆んどないが、斎藤家では、先祖は比企遠宗であると
代々言い伝えられ、先祖が残してくれた土地や家を守り、
その後八百年もの間住み続けてきたと仰っています。(『比企遠宗の館跡』)

②   『吾妻鏡』には、毛呂季綱は伊豆の流人であった頃の頼朝を助け、
その賞として建久4年(1193)2月10日に武蔵国泉・勝田を賜った。と
書かれていることから、鎌倉時代初期には、現在の比企郡滑川町和泉付近・
比企郡嵐山町勝田付近は毛呂季綱の所領であったと考えられます。

毎月一度、頼朝のもとに比企遠宗から食料が送られてきましたが、
米の到着が遅れた時、その調達を方々で断られる中で、
武蔵国毛呂郷(現、埼玉県毛呂山町)の領主毛呂季綱だけは、
米を分け与えました。頼朝はこの時の恩を忘れなかったのです。

『埼玉県の地名』には、比企郡滑川町和泉字三門には、
三門(みかど)館があるが詳細は不明としています。

斎藤家の菩提寺泉福寺は後に真言宗から派遣された
僧によって再建されました。(『比企遠宗の館跡』)
町の北西端、滑川東岸沿いの田園地帯を前にした高台にある
八幡山泉福寺は、真言宗の寺で、開基の年代や沿革は明らかではないが、
収蔵庫に安置する本尊木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)は、
平安時代末期の作といわれ、定朝様の特色をよく伝えている。(『郷土資料事典』)

 ③   安田元久氏は、鎌倉時代前期までの比企郡はかなり狭い地域で、
現在の比企郡川島町と東松山市の区域だったとし、比企掃部允や比企尼が帰住したと
伝えられる中山郷については、現在も川島町西部の越辺川の左岸地区に中山の
地名が残るので、その地域であったと推定されると述べておられます。(『武蔵の武士団』)


成迫政則氏は、「比企氏系図」「慈光寺実録」によると、比企尼は頼朝が伊豆に流された時、
遠宗とともに関東へ下向し、比企郡(比企郡川島町中山)に住みながら、
娘婿安達藤九郎盛長、河越重頼、伊東祐清を遣わし、二十有余年頼朝に
兵糧を送るなどの援助をしたと記され、(『武蔵武士(下)』)
比企夫妻の館は、同じく川島町中山という見解を述べておられます。

慈光寺は建久4年(1193)、範頼が頼朝に謀反の疑いをかけられ殺害された時、
比企尼は範頼の遺児2人(尼の曾孫)の命乞いをし、2人を出家させ入れた寺です。
なお、川島町大字中山にある金剛寺は、比企能員(よしかず)から
十数代を経て、当地一帯に館を構えた比企一族の菩提寺です。

以上、比企宗遠館跡について書かれた資料から列記しました。
 今後の研究のさらなる進展が待たれます。
比企ヶ谷妙本寺(1)比企尼・比企能員邸跡・比企能員一族の墓  
金剛寺(比企氏一族の菩提寺)  宗悟寺(比企尼・若狭局伝承地)  
比企尼の娘、丹後局が生んだという島津忠久誕生石が住吉大社にあります。
住吉大社(万葉歌碑 島津忠久誕生石)  
『アクセス』
「三門館跡」東武東上線「森林公園」下車 徒歩約1時間
『参考資料』
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書、平成8年 
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、2005年

斎藤喜久江・斎藤和江「比企遠宗の館跡」まつやま書房、2010年
 田端泰子「歴史文化ライブラリー 乳母の力」吉川弘文館、2005年
 福島正義「武蔵武士」さきたま出版会、平成15年
頼成一・頼惟勤訳「日本外史(上)」岩波書店、1990年
奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社、1995年
「埼玉県の地名」平凡社、1993年
 「埼玉県大百科事典」埼玉新聞社、昭和56年 
「郷土資料事典11 埼玉県」ゼンリン、1997年
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
現代語訳「吾妻鏡」(3)吉川弘文館、2008年

 



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神戸市兵庫区北部の平野には、平清盛ゆかりの史跡が数多く残されています。
清盛は大病を機に出家し、嘉応元年(1169)春に六波羅の邸宅を嫡男重盛に譲り、
福原(現、神戸市兵庫区)に移り住み、没するまでの10年余のほとんどを
平野の山荘(雪見御所)で過ごしました。

 以仁王(後白河院の皇子)の平氏打倒の謀反が落着した直後の
治承4年(1180)6月、清盛は突然、遷都を強行し、
安徳天皇や高倉上皇、後白河法皇らを福原の地に移しました。
福原は現在の神戸市兵庫区にあたり、以前から清盛の山荘を始めとして
平家一門の人々が屋敷を構えていた地です。
しかし、この地に御所があったわけでなく、安徳天皇は平頼盛の山荘
(現、兵庫区荒田町)で福原遷都の第1夜を内裏とし、次いで雪見(ゆきみの)御所
北側の「平野殿」を仮の皇居として、内裏が新造されるまで過ごしました。

清盛の邸近くには湯屋(温泉)があり、清盛もその湯屋に渡ったといわれています。
中山忠親の日記『山槐記(さんかいき)』治承3年(1179)6月22日条によれば、
「雪見御所の北、約100㍍のところに湯屋があり、前太政大臣藤原忠雅(忠親の兄)が
厳島神社への参詣のついでに福原に立ち寄り、清盛と湯屋で対面した。」と記されています。

かつてこの辺は温泉街だったようで、天王谷川左岸の上三条町には、
「湯の口」という小字があり、最近まで営業していた天王温泉がありました。
その対岸の湊山町には、天然温泉の湊山温泉が営業中です。清盛が通ったという
「湯屋」はその辺りにあったと推定されています。(『平清盛福原の夢』)

平野商店街近くにある平家ゆかりの史跡
祇園神社(兵庫区上祇園町)裏山の潮音山上伽寺(ちょうおんさんじょうがじ)は、
清盛がこの山寺で海潮の響きを聞きながら経ヶ島築造計画を練ったという。

大山咋(おおやまくい)神社(兵庫区山王町)は、
清盛の親友藤原邦綱が造営した社です。

一の谷合戦で潮音山上伽寺が焼失し、また多くの平家公達が討たれました。
元暦(げんりゃく)元年の五輪塔(兵庫区五宮町)は、
これを憂い
南北朝時代に建立した供養塔と伝えられています。

時代は下り、大正2年(1913)に兵庫駅や元町と結ぶ路面電車の「平野線」が開通すると、
一帯は活気に満ち、商店街は買い物客らであふれていました。
玉田氏はご実家近くの祇園神社裏山を駆け回ったり、部活の帰りに商店街の
揚げ物屋に立ち寄ってコロッケを頬張ったり、雪見御所跡近くの「雪御所公園」で
毎日のようにサッカーボールを蹴ったと当時を懐かしんでおられます。

昭和43年(1968)、この電車が廃止されると、それまで120を超える店舗が
商店街に軒を連ねていましたが、半分ほどに減り
シャーツターが下りたままの店が目につくようになりました。

現在の平野の中心「平野交差点」には、有馬街道が通り
六甲山の北側への交通の要衝の地です。
交差点の周辺には平野商店街が広がり、
この近くには
清盛の福原の山荘「雪見御所」の旧跡があります。

そのため商店街では、2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」放送を記念して
平清盛像を建て、
清盛をイメージキャラクターにして盛り上がっています。

鎧を身にまとう武者姿の清盛像









商店街のキャラクター「きよもん」の兜は平野の「ひ」



平野商店街にあるもう一体の入道姿の清盛像です。
平野の歴史を語りつぐモニュメント浄海入道 平清盛とあります。
こちらの像は以前からあったそうです。




温泉好きの清盛が通ったという湯屋はこの辺りにあったようです。

天王谷川のほとりの湊山温泉



有馬温泉への入口有馬街道
雪見御所跡・荒田八幡神社・宝地院・薬仙寺  
『アクセス』
  「浄海入道 平清盛像」 神姫バス「平野」下車すぐ 
「平清盛像」平野交差点東南角 「平野」バス停から北へ約50㍍
「湊山温泉」神戸市湊山町26-1 水曜日定休日 午前7時~午後10時営業
「平野」バス停より徒歩約5分
『参考資料』
高橋昌明「平清盛 福原の夢」講談社選書メチエ、2007年
「読売新聞夕刊」 2017年9月30日 
「平家ゆかりの郷 平野商店街振興組合」平成25年

 

 











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平治の乱で幽閉されていた二条天皇が六波羅、後白河法皇が仁和寺に入り、
天皇親政派の武家が一斉に離脱すると、源氏軍の軍勢は半分以下に減りました。
義朝勢は一か八かの戦いを挑み、六波羅館に突入しますが、
膨張する平家軍に撃退され、義朝の野望はここに潰え去りました。
義朝は死に物狂いでなおも戦おうとしますが、乳母子の鎌田兵衛正清は
「源氏の棟梁たるものがいたずらに死に急いではなりません。」と懸命に説得し、
賀茂川の河原を北へ北へと逃れていきます。
平治元年(1159)12月下旬のことです。

『平治物語』によると、六波羅を攻撃した源氏勢を僅か二十余騎としています。
これに徒歩の武者を加えても五、六十人ほどです。
五条河原に陣を布いて中立を保っていた源頼政勢が三百余騎といいますから、
何とも少ない数です。頼政の煮え切らない態度に怒った悪源太義平が
戦いを挑んだため、頼政は結局、平家方につき、味方の武士は
次々と命を落とし、またある者は手傷を負い戦場を逃れていきました。
平家の追い討ちを受けながら、義朝は賀茂川を遡り、
高野川沿いに大原へ向かい、龍華越えをして近江に抜けようとします。
源氏の郎等たちは、命がけで敵を防ぎ、主君を落とそうとします。

この時従う者は、義朝の長男悪源太義平、次男中宮大夫進朝長、
三男右兵衛佐頼朝、叔父の陸奥六郎源義隆、佐渡式部太夫源重成、
平賀四郎義宣(よしのぶ)、乳母子鎌田兵衛正清、
金王丸の以上八騎、
それに波多野二郎義通、三浦荒二郎義澄、斉藤別当実盛、岡部六弥太忠澄、
猪俣小平六範綱、熊谷二郎直実、平山武者所季重、足立右馬允(うまのじょう)遠元、
金子十郎家忠、上総介八郎広常をはじめとして20余人です。
金王丸は義朝が尾張国の野間内海で謀殺されると、

都に戻りその死を常盤御前に報告する義朝の寵童です。

河原町通今出川の北辺りを昔は「大原口」といい、
京都七口の一つに数えられましたが、京福電鉄「出町柳」駅が
付近に設置されると、出町とよばれるようになりました。


上京区寺町今出川通り東北角には、「大原口」の道標がたち、傍には「東西南北」の
方角とともに目的地名が距離とともに示された石造道標があります
北へ行けば大原から若狭への若狭街道(鯖街道)です。

出町柳の賀茂大橋で鴨川に合流する高野(たかの)川、
春にはその堤防沿いに桜並木が続きます。

出町を流れる高野川
義朝主従はこの川沿いを北へと逃れました。


藤原信頼・源義朝が戦いに負け、大原口に落ちのびたとの噂に、比叡山西塔の
僧兵らが落ち武者狩りをしようと八瀬の千束(ちづ)が崖で待ち構えていました。
落ち武者の鎧兜を剥ぎとり、とどめをさしてやろうとというわけです。
義朝はこのことを聞き「六波羅で討死にしようというのを、
正清がつまらぬことを申すので
ここまで落ち延びて来たが、
延暦寺の僧兵などの手にかかって、討ち死にすることは口惜しい。」と嘆くと、
供の斉藤別当実盛が機転を利かせ、「信頼殿・義朝殿は六波羅で討死なさった。
ここにいるのは、諸国から駆り集められた仮武者に過ぎず、
故郷へ落ちのびようとしている名もない武者ばかりだ。
無駄な殺生はするな。
武具が欲しいなら差し上げよう。」と言って群がる僧兵の中に兜を投げ込み、
僧兵がそれを奪い合っている隙に、義朝主従はその場を脱出しました。
あわてて追いかける敵に実盛は、弓をあてがい「義朝の郎党、武蔵国の斎藤別当実盛」と
名乗りをあげて取って返せば、僧兵の中には弓矢取りは一人もおらず
かなわないと思ったのか、撤退していきました。

叡山電車八瀬比叡山口駅から碊(かけ)観音寺へ向かいます。



この峠道(367号線)は若狭街道とよばれ、昔、落人がよく通る間道でした。

「がけの坂峠」にあることから、かけ観音寺と称されたという。

「源義朝鏃遺蹟 碊観世音」と彫られています。



真言宗泉涌寺派に属する真山碊(かけ)観音寺本堂
碊観音寺には、比叡山の僧兵の襲撃に遭った義朝が、石に鏃(やじり)で
1体の観音像を刻み、源家再興を祈願したと伝える観音像が祀られています。
この像は秘仏とされ非公開となっています。




碊大弁財天女堂

当山鎮守 
碊大龍王

水子地蔵尊

念仏堂

碊観音寺近く、高野川に架かる駒飛(こまとび)橋の下にある巨石は、
義朝駒飛石といわれ、敗走途中の義朝が馬に乗ったまま飛び越えた石と伝えられています。



斉藤実盛が比叡山の僧兵の中に兜を投げ入れた場所は「甲ヶ淵」と呼ばれていましたが、
昭和10年(1935)6月28日の大洪水でこの淵はなくなりました。(「拝観パンフレット」)

甲ヶ淵は駒飛橋のもう少し上流にあったが、今は埋め立てられ、
アーバンコンフォートが建っていると土地の古老に教えていただきました。

アーバンコンフォート(京都市左京区八瀬野瀬町)
金王八幡宮(源義朝の童渋谷金王丸)   源義朝敗走(龍華越・途中越)  
『アクセス』
「碊観音寺」叡山電鉄「八瀬比叡山口」駅から367号線を北へ約600㍍
 京都バス「八瀬甲ヶ渕」下車 約2分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス、2004年
竹村俊則「鴨川周辺の史跡を歩く」京都新聞社、平成8年 
「義経ハンドブック」京都新聞出版センター、2005年
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
日本の絵巻12「平治物語絵詞」中央公論社、1994年



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