平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 
私学共済事業団の旅館「白河院」の前に「此付近白河院址」の石碑がたっています。
昔、現在の岡崎法勝寺一帯には藤原家代々の別荘があったところで、
白河院とよばれていました。平安時代後半、退位を目前にひかえた白河天皇に
摂関家の藤原師実(もろざね)が「白河院」を献上し、承保二年(1075)
天皇はこの地に壮大な寺院、法勝寺を建立しすぐに院政を行いました。



白河院並びに法勝寺跡(現地駒札)

法勝寺は東は岡崎道より300m東、西は岡崎道、南は現在の動物園の南、
北は冷泉通より50m南に囲まれた広大な寺域を有し、
境内には、金堂・講堂・阿弥陀堂などの諸堂が建ち並んでいました。
中でも八角九重塔は壮大な高塔であったといわれています。

院政期(11~12C)の京都には、鴨川東岸の白河の地(現在の岡崎一帯)に
多くの寺院や院の御所・御堂などが相次いで建立され、
皇族や貴族が別荘を営み、「勝」の字のつく寺が
白河上皇、鳥羽上皇の時代に相次いで造営されました。
法勝寺は尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺(じょうしょうじ)、延勝寺とともに
六勝寺と総称された寺です。
東から白河天皇御願の法勝寺、岡崎グラウンド西側付近から
京都会館にかけて鳥羽天皇御願の最勝寺、
京都会館から琵琶湖疏水を中心とした堀河天皇御願の尊勝寺、
美術館から府立図書館附近が待賢門院発願の円勝寺、
みやこメッセ付近に崇徳天皇御願の成勝寺、
その西方の琵琶湖疏水を越えた辺に近衛天皇御願の延勝寺がありました。


法勝寺伽藍模型

法勝寺を象徴するのは高さ八十一メートル余の八角九重の塔です。

八角九重の塔というのも大変珍しいものですが、その高さに人々は驚き
この塔を建てた白河上皇の偉大な力を再認識しました。
(東寺の塔の高さ五十五メートル)

現在、動物園の中には「法勝寺の塔跡」の碑があり、
あたりは静かな佇まいの家並みが多いところです。
動物園内の法勝寺八角九重塔の碑の写真などを載せています。
御面倒おかけしますが、下のサイトをご覧下さい。

六勝寺と白河殿1(六勝寺の小道・法勝寺跡・円勝寺跡)  

白河院跡にたつ旅館の庭園は、京都市指定名勝の白河院庭園です。
係りの方にお願いして拝見させていただきました。

東山を借景とし、琵琶湖疏水を引き入れた池泉回遊式の本格的な山水庭園で、
作庭は七代目小川治兵衛です。










『参考資料』
井上満朗「平安京の風景」文英堂 林屋辰三郎「中世の開幕」講談社現代新書
「京都市の地名」平凡社 井上満朗「平安京再現」河出書房新書


 

 

 

 

 



 

 

 

 

 
 

 

 
 


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鹿ケ谷事件の背景には、増大する平家一門の権力に後白河院や
その側近が不満を抱いただけでなく、院近臣と延暦寺との衝突がありました。

安元2年(1176)8月、加賀国でちょっとした事件が起こりました。
はじめは目代と山寺の僧の紛争だったのですが、
比叡山延暦寺をめぐる大騒動となり、ついには
『平家物語』が記す鹿ヶ谷事件へと発展していきました。

加賀守師高(もろたか)とその弟で加賀国目代の師経(もろつね)が
白山中宮の末寺である涌泉(ゆうせん)の僧と衝突し、
師経がこの寺を焼き払ったことが発端でした。
この出来事には、師経と白山中宮の所領争いがあり、
師経が院の権威をバックに比叡山延暦寺の荘園を侵略、白山中宮の
所領が取り上げられ仏神事に支障がでるようになったためとされています。
今回はこの
出来事にスポットをあててご紹介します。

藤原師高・師経兄弟は西光法師の子で、素性は卑しいが
父に劣らない切れ者でした。
安元元年(1175)に師高は加賀守に
任じられましたが、任国に赴任すると国務を勝手気ままに行い、
社寺や貴族の荘園を没収するという暴政を行ないました。
翌年、弟の師経は目代に任命され赴任する途中、加賀国の国府近くにある
鵜川(石川県小松市)の涌泉寺で寺僧が入浴しているところに馬で乱入し、
寺僧を追い出して自分が入浴し、従者たちに馬を洗わせたため、
大げんかとなり、目代は在庁官人数千人を集め、
鵜川に押寄せて僧坊を残らず焼き払ってしまいました。
これを聞いた白山の僧兵が一斉に蜂起し、
目代館を襲撃しましたが、すでに目代は都に逃げ帰ったあとでした。

白山側の怒りはおさまらず、それなら本寺延暦寺に訴えようと
白山中宮の御輿を担いで比叡山に向いました。
目代と山寺の紛争の原因は些細なことでしたが、
白山が比叡山の末寺であったこと、師高、師経の父が後白河院第1の
側近である西光であったことから大きな問題に展開していきました。
 

師高の父西光(藤原師光)は、身分の低い阿波国の在庁官人
近藤氏の出身です。藤原信西の乳母子で京に出て、信西が大内裏造営の際、
それを助けるなどして活躍し、鳥羽院の寵臣の1人藤原家成の
養子となって家格を上昇させました。
したがって西光は家成の子成親(なりちか)の義弟にあたります。
成親は妹が平重盛の妻、重盛の嫡子維盛も成親の娘を妻とし、
成親の嫡男成経は平教盛の娘と結婚というように
平氏との深い姻戚関係で結ばれていました。

師光(もろみつ)は平治の乱の際、信西の最期につき従い、
信西に西光という法名を授けられました。やがて後白河院の
御倉預(財産管理)の重職につき、権勢を振うようになりました。
西光の子師高・師経は、検非違使や衛門尉という
武士にふさわしい官職に就いていましたが、
父が後白河院の寵臣であったこと、
また家成の養子であったことも有利に働き、師高は加賀守に抜擢されたのです。
国守は京都にいて現地には赴かないのが普通で、現地には
目代を派遣して在庁官人とよばれる地方武士を指揮させました。
 

白山の訴えを聞いた延暦寺は、加賀守師高を流罪・目代の師経を
投獄させるよう度々後白河院に要求しましたが、
彼らの父親が西光であるためいっこうに承認されず、
院は目代の流罪だけで事態をおさめようとしました。
これに怒った延暦寺は日吉(ひえ)社の祭礼を中止し、
安元3年(1177)4月13日、十禅師(樹下社)・客人(白山宮)・
八王子三社の神輿を飾り立て、高倉天皇のいる
閑院(かんいん)内裏へ押寄せました。強訴(ごうそ)です。
この内裏を守るため、出動した平重盛の軍勢が威嚇のために放った
流れ矢が十禅師(じゅうぜんじ)の
神輿に命中し、
衆徒らも殺傷されてしまいました。これを見た延暦寺は、
神輿を捨ててほうほうの体で比叡山に逃げ帰りました。

寺院は朝廷に対して要求が通らない場合、
強訴という強硬な手段をとる場合がありました。

日吉社の樹下社(じゅげしゃ)本殿に置かれている十禅師神輿

早速、院の御所法住寺殿で公卿会議が開かれ、
崇徳帝の保延四年の先例に倣おうと決定されました。
置き去りにされた神輿は、祗園社(現、八坂神社)に納めさせ、
神人に突き立った矢を抜かせています。
延暦寺の衆徒が神輿を担いで内裏に押寄せる例は、
永久元年(1113)白河院に強訴して以来、今度の安元三年まで
6回あったが、都を守る武士達は神輿に向って矢を放つということは
神仏に矢を引くのと同じで非常に恐れ多いことと考えていました。
今度のように神輿に矢が当たったのは始めてです。

 14日夜半、大衆が再び京へ押寄せるというので、高倉天皇、
中宮徳子は院御所法住寺殿に移りました。
比叡山では神輿を射られ、神官・宮仕が射殺されたというので、
この際、延暦寺を焼き払って、山林に籠ろうと3千人の衆徒が決議しました。
(延暦寺の鎮護国家の勤めを放棄し、朝廷に打撃を与えようとしたのです。)

これに対して山門との交渉にあたったのが平時忠(清盛の義弟)で、
「衆徒が乱暴するのは悪魔のしわざである。上皇がこれを鎮められるのは
薬師如来(叡山根本中堂の本尊)が比叡山をお守りくださるのに等しい。」と
したためた書状をつかわせると、衆徒はこれを見て「なるほど」と
谷を下り坊へ引上げました。人々は一紙一句をもって三千人の衆徒の怒りを
鎮めた時忠を褒め、また衆徒たちも道理をわきまえていると評価しました。
朝廷でも会議を開き、二十日加賀守師高は解任の上、尾張国に流罪とし、
目代師経と神輿に矢をあてた重盛の家来6人は投獄されることになりました。
(平家物語・巻一)
こうして山門の要求は認められたかに見えましたが、
師高・師経の父西光が反撃に出て事態は思わぬ方向に展開します。
この出来事の舞台となった日吉大社・京都の白山神社を
ご覧ください。
 日吉大社を歩く 京都市の白山神社
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 
水原一「平家物語の世界」(上)日本放送協会
「石川県の地名」平凡社
 県史17「石川県の歴史」「石川県の歴史散歩」山川出版社

川合康「平家物語を読む」吉川弘文館 
財団法人古代学協会編「後白河院」吉川弘文館 
上杉和彦「平清盛」山川出版社
上杉和彦「歴史に裏切られた武士平清盛」アスキー新書
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書 





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満願寺は示現(じげん)山といい、もとは京の西ノ京にあった
日蓮宗に属する寺で、「洛陽妙見札所」の一つに数えられています。

この寺は六勝寺の一つ法勝寺の北限に建つと見られ、
辺りには俊寛僧都の邸があったといわれています。
俊寛の父は法印権大僧都・法勝寺上座寛雅で、
俊寛は僧都という位を貰い、法勝寺の執行(寺務長官)
を務めていました。

京都市の岡崎、美術館や動物園のある辺りは、
当時、六勝寺と呼ばれる
法勝寺・最勝寺・延勝寺・成勝寺・円勝寺・尊勝寺という大寺が六つあり、
法勝寺はその中で一番大きな寺院でした。


法勝寺復元模型

藤原成親、西光、平康頼ら後白河法皇の近臣が俊寛の山荘に集まり
平家打倒の密議をした鹿ケ谷事件は、密告により西光は斬罪、
成親は備前に流されて暗殺、成親の子の成経や康頼、俊寛は鬼界が島へ流されました。
やがて成経や康頼は許されますが、俊寛だけが許されませんでした。
それは、清盛は自分が目をかけた俊寛が密議の場所を提供したことが、
どうしても許せなかったからであると『平家物語』は語っています。しかし、
『愚管抄』によれば、鹿ケ谷の山荘の持ち主は俊寛ではなく、静賢法印の山荘とあり、
俊寛がそのために許されなかったというのは疑わしく
赦免の使いが来る前に亡くなったのではないかと考えられています。
鬼界ヶ島の俊寛の話は能や浄瑠璃・歌舞伎に脚色され、
今も盛んに上演され多くの人々の涙を誘っています。


満願寺境内には法勝寺執行俊寛僧都居住跡の石碑がたち、
南にある閼伽井(あかい)は法勝寺の井戸と伝えられています。









石碑には、「俊寛僧都故居之碑」と刻まれています。

井戸は俊寛荒行井戸とも伝えられています。

高野聖(俊寛と有王)  鹿ケ谷俊寛僧都山荘址  
『アクセス』
「満願寺」 京都市左京区岡崎法勝寺町130
市バス動物園前下車 徒歩約5分
『参考資料』
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 林屋辰三郎「中世の開幕」講談社現代新書
竹村俊則「昭和京都名所図会」洛東(下)駿々堂 佐伯真一「平家物語」山川出版社



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鹿ケ谷事件は、清盛が力を持ち過ぎることに朝廷内部には不満が渦巻き、
同じような思いを抱く後白河院の近臣たちが平家打倒を企てたものです。
当時は平家の全盛期、一門が朝廷内で幅を利かせ、
位階の授与や官職の任命は清盛の思うままでした。

安元の大火や比叡山との騒動で、洛中には僧兵がしきりに出入り、
社会不安が起こり世の中が
騒然としているのを巧みに利用し、
平家打倒の謀議が鹿ケ谷の俊寛の山荘で
「今様を楽しむ会」と銘打って度々もたれていました。
密議には後白河院も加わることもありましたが、
平家一門に対して悪態をつきながら宴会に流れるのが常でした。

この事件は、身分不相応にも左大将の地位をうかがっていた
新大納言藤原成親(なりちか)の出世欲から
始まりました。
清盛の嫡男重盛が左大将に、右大将には三男の
宗盛が任命され、結局、
左右大将のポストを平家に2つとも取られたことが直接のきっかけでした。
成親の父の藤原家成(いえなり)卿は、鳥羽上皇第1のお気に入りで、
若いころの清盛がその屋敷によく出入りし、
忠盛とも親しい関係にあった貴族です。

安元3年(1177)5月のある夜、後白河院が静憲(じょうけん)法印を
伴って俊寛の山荘に赴いた時、藤原成親、西光、平康頼、俊寛僧都、
いずれも院の側近ばかりが集まり
宴席で平家打倒の相談をしていました。傍で聞いていた
静憲は驚いてその無謀を指摘し、「用心なさるがよい。
人の耳があります。」と注意したといいます。

武士では、摂津国に地盤をもつ源氏の多田蔵人行綱が成親に
武力を見込まれ、軍資金として白布50反贈られ誘われましたが、
つらつら考えるに口先の勢いばかりで、このクーデターが
成功するとはとても思えず悩んだ末、ひそかに西八条邸に
参上して清盛に密告し、この計画は頓挫します。烈火のごとく怒った
清盛の命で、関係者はただちに捕えられ
厳しく処分されます。

成親はかつて平治の乱でも、謀反人藤原信頼に与して敗れ、
死罪になるところでしたが、妹が平重盛の妻、娘が重盛の子維盛に
嫁いでいたことなどから、重盛の取りなしで解官で済んでいたのです。
この度も重盛に助けられて死刑を免れ、いったん
備前国(岡山県東部)に流罪となりますが、
後に配流地で惨殺されます。藤原成親の墓(吉備の中山有木の別所)  

西光は斬られ、俊寛は
康頼、父成親の重罪に連座した
丹波少将成経(なりつね)とともに鬼界が島に流されて行きました。
その後、建礼門院徳子懐妊の大赦で、康頼と成経は京へ帰りましたが、
俊寛は一人島に残され流罪地で死んだという。

鹿ケ谷事件の舞台となった「
俊寛僧都山荘址」を示す石碑は、
如意ヶ嶽(大文字山)に続く山道の途中、標高312m余りの地点にあります。
始めて訪ねる人には、俊寛の山荘址への道はわかりにくいかも知れません。

順を追って画像にしました。

まず哲学の道(霊鑑寺への道しるべ)から疎水を渡って
少し行くと霊鑑寺(れいがんじ)があります。
この寺の横に建つ「此奧俊寛山荘地」の石標から
坂道を山の方(東)へ道なりに10分位上ると、

やがて右手に瑞光院(浪切不動明王)が見え、その先の草むらに
京都一周トレイル47・「俊寛僧都旧跡道八丁」の石碑が見えます。

哲学の道傍の道しるべ

疎水を渡って少し東へ行くと霊鑑寺があります。

霊鑑寺傍に昭和14年(1939)京都市教育会建立の
「此奧俊寛山荘址」の石標。ここから道幅が狭くなります。

坂道をどんどん上ります。

右手に浪切不動明王があります。

浪切不動の先にあるトレイル47の標識に従って道を左に折れ、
すぐ右手の雑草の生い茂る山道を上っていきます。

上り口に道標があります。



桜谷川の渓谷沿いに20分ほど上ると、楼門の滝がしぶきを上げています。
この滝の辺り一帯に昔、三井寺の別院如意寺があり、
その楼門のほとりにあったので、滝は楼門滝とも如意ノ滝ともいいます。

滝横の如意寺遺構の急な石段を上ると、滝の上に高さ3㍍、幅1・5㍍の自然石に
昭和十年(1935)建立された「俊寛僧都忠誠の碑」(公爵一条実孝書)と
彫られ
た碑
が建っています。

俊寛は後白河院の近臣で、法勝寺の執行(しゅぎょう)として、
寺の事務を管轄する立場にある僧でした。

「俊寛僧都忠誠の碑」の下段には、碑の由来が刻まれた
高さ1・8メートルほどの
「俊寛僧都鹿谷山荘遺址記」があります。
上段の顕彰碑(正碑)と同年の昭和十年(1935)建立です。(副碑)

碑文によると、石碑の建立者西垣精之助は、夢の中で俊寛の山荘を
訪れました。夢からさめて覚えている景色をたよりにこの場所を探し出し、
2千歩(2千坪)の土地を購入し俊寛を顕彰する石碑を建立したという。
碑文の作者は、雨山(うざん)という号で知られる
漢学者の長尾甲(1864~1942)です。晩年は京都で過ごしていますが、
夏目漱石とは、熊本の第5高等学校で同僚でした。
西垣精之助は京都市東山区祇園十二段家(和食)の当時の主人です。

碑文の大意(『京都石碑探偵より転写』)
昔から心ある人は権力者が暴虐のかぎりを尽くすことに憤りを持ち、
こいつらを一掃して人民を安心させようと計画したものであった。
その事が成功すれば「義挙」と讃えられた。しかし失敗すれば「乱賊」と
ののしられたのである。だから世に伝える歴史というものはあてにならない。

 平清盛は権力をほしいままにして、天皇さえ自分の好き勝手に即位させ、
気に入らない者は退位させた。俊寛は村上天皇の末裔で、
清盛のやることを憎んでいたので、成親等の計画を聞き、
いざという時には奈良興福寺の僧兵を率いて味方するという密約を結び、
自分の山荘で仲間と計画を練った。ところが、蹶起直前に
行綱が清盛に密告し、俊寛は同志とともに硫黄島(鬼界島)に流された。
ほかの者は罪をゆるされて都に帰ることができたのに、
俊寛はひとり島に残され非業の死を遂げた。
清盛がいかに俊寛の知略を憎んだかがわかるだろう。

 俊寛は僧侶である。僧侶の身でありながら謀議に加わったのは、
平氏の横暴を見るに見かねて立ち上がったのだが、つまらぬ裏切り者の
せいで謀反の罪を着せられたわけである。
俊寛の志は歴史の書物にも無視され続け、山荘の跡は草に覆われ
獣の跳梁する地になってしまった。悲しいことである。

 西垣精之助さんは気骨のある人で、世の中に正義を訴えることを
常に思っていた。ある夜、夢の中で俊寛の山荘を訪れた。
目がさめて夢の光景を求め、この地に来たところ、
まわりのようすは夢と寸分も相違がなかった。不思議に思い、
歴史書を読みあさり、はじめて俊寛が義憤から清盛に逆らったことを知った。
そこで俊寛を顕彰しその魂魄を慰めるために石碑を建立したいと思い、
二千歩あまりの土地を購入した。

「俊寛僧都忠誠之碑」の背後の道を東へ行くと如意ヶ嶽(大文字山)、
さらに東へ辿れば三井寺へと続き、絶好の城郭でした。




『平家物語・巻一・鹿の谷の事』には、
「東山鹿の谷といふ所は、後は三井寺に続いて、ゆゝしき城郭にてぞありける。
それに俊寛僧都の山荘あり。かれに常は寄り合ひ寄り合ひ、
平家亡すべき謀をぞ運(めぐら)しける。」と書かれています。
トレイル47から「俊寛僧都忠誠之碑」迄はうす暗くて細い山道です。

『愚管抄』によると、鹿ヶ谷の山荘は俊寛のものではなく、
静憲法印の所有であり、さらに鬼界が島に赦免状が届いた時には、
すでに俊寛は亡くなっていたとされています。
俊寛だけが都に帰って来なかったという事実から、
物語は組み立てられていったようです。

静憲(信西の子)も後白河院の近臣で、平治の乱で安房国に配流されましたが、
ほどなく帰京し、俊寛の前に法勝寺の執行を務めていました。
思慮深い人物であったとされ、『平家物語』中での静憲法印は、
院と清盛の橋渡し的な役目を果たしています。物語には、
この事件に静憲を巻き込むことを避けたいという意図があったと思われます。

ちなみに法印は僧侶の最高位。執行とは、寺社にあって事務長として、
朝廷から授けられた封戸(ふこ)や所有する荘園の事などを掌る
僧職で、大きな権限を握る立場にありました。


俊寛僧都の邸跡に建つという満願寺、
大悲山峰定寺で俊寛妻子のその後をご覧ください。
俊寛屋敷跡(満願寺・俊寛僧都故居之碑)  
大悲山峰定寺 (俊寛僧都供養塔) 
有王と俊寛の娘(法華寺)    高野山蓮華谷高野聖(俊寛と有王) 

俊寛の墓(法勝寺)鬼界ヶ島はどこか  
   鹿ケ谷事件の背景  鹿ケ谷の陰謀は史実か     
『アクセス』
「霊鑑寺」京都市左京区鹿ヶ谷大黒谷町 
市バス「錦林車庫前」下車 霊鑑寺まで徒歩約7
霊鑑寺から「俊寛僧都忠誠之碑」まで約30分
『参考資料』
石田孝喜「京都史跡事典」(コンパクト版)新人物往来社 
伊東宗裕「京都石碑探偵」光村推古院 竹村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社 
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
 
 



 

 

 

 

 
 






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清水寺の音羽の滝から寺の裏門を出て、清閑寺に通じる歌の中山を
しばらく行くと、紅葉に囲まれた六条天皇陵・高倉天皇陵が見えてきます。
古来から、歌の中山はここを訪れた文人歌人が詩歌を残した山道です。

高倉天皇陵内には小督の小さな宝篋印塔がありますが、
宮内庁管理の天皇陵のため立ち入ることはできません。
六条天皇は後白河法皇の孫にあたり、二条天皇の皇子で、
僅か2歳で即位し5歳で皇位を高倉天皇に譲り、
13歳で病を得て亡くなった薄幸の皇子です。

御陵右手の石段を上ると清閑寺山門があります。

歌の中山清閑寺は智積院に属する真言宗智山派の寺で、延暦21年(802)、
紹継法師が開基した音羽山(清水山)の中腹にある紅葉の名所です。

山門を入ると二基の供養塔が並んでいます。
左が小督、右は紹継法師の供養塔です。

石垣に囲まれた大きな石を要石といいます。
そこに立てば京都の街があたかも扇を開いたように広がり、
扇の要にあたることから「要石」とよばれています。
昔は山科・大津方面から京都へ入る際、この付近を通りましたが、
東の方からこの寺にたどりついて、はじめて京都の町が見えたので、
名所となっていたようです。           

要石から京都の町を見渡しました。

本尊十一面千手観音像を安置する本堂

鐘楼
高倉天皇は建春門院滋子(清盛の妻の妹)が後白河法皇との間に儲けた皇子です。
天皇の中宮は清盛の娘徳子で、二人の間の皇子が安徳天皇です。
高倉天皇は清盛と父後白河法皇の対立に心を痛め、わずか三歳の安徳天皇に譲位し、
病身をおして厳島神社へ参詣するなど父と清盛の融和に努めました。
しかし以仁王の謀反、福原遷都、南都焼討と心労が重なりわずか21歳で、

平頼盛の六波羅池殿で崩御、遺骸はその日のうちに遺言により清閑寺に移されました。

『平家物語』によると、小督は高倉天皇に寵愛され皇女範子(のりこ)内親王
(坊門院)を
生みましたが、娘徳子の皇子誕生を待ちわびる清盛の怒りにふれ、

ついに尼にされて嵯峨野に追いやられました。このことがあって
天皇の悩みは
いっそう深くなり間もなく亡くなられたという。
小督は清閑寺に入って尼になり、

その縁で天皇はこの寺への思いが深かったようです。
小督(琴きき橋跡碑・琴聴橋・小督塚) 
『アクセス』
「清閑寺」京都市東山区清閑寺山ノ内町11−1 清水寺裏門から徒歩約15分
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)俊々堂 新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社
 「新定源平盛衰記」(第1巻)新人物往来社 梅原猛「京都発見(2)」新潮社         



 



 

 

 






 


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