鹿ケ谷事件の背景には、増大する平家一門の権力に後白河院や
その側近が不満を抱いただけでなく、院近臣と延暦寺との衝突がありました。
安元2年(1176)8月、加賀国でちょっとした事件が起こりました。
はじめは目代と山寺の僧の紛争だったのですが、
比叡山延暦寺をめぐる大騒動となり、ついには
『平家物語』が記す鹿ヶ谷事件へと発展していきました。
加賀守師高(もろたか)とその弟で加賀国目代の師経(もろつね)が
白山中宮の末寺である涌泉(ゆうせん)の僧と衝突し、
師経がこの寺を焼き払ったことが発端でした。
この出来事には、師経と白山中宮の所領争いがあり、
師経が院の権威をバックに比叡山延暦寺の荘園を侵略、白山中宮の
所領が取り上げられ仏神事に支障がでるようになったためとされています。
今回はこの出来事にスポットをあててご紹介します。
藤原師高・師経兄弟は西光法師の子で、素性は卑しいが
父に劣らない切れ者でした。安元元年(1175)に師高は加賀守に
任じられましたが、任国に赴任すると国務を勝手気ままに行い、
社寺や貴族の荘園を没収するという暴政を行ないました。
翌年、弟の師経は目代に任命され赴任する途中、加賀国の国府近くにある
鵜川(石川県小松市)の涌泉寺で寺僧が入浴しているところに馬で乱入し、
寺僧を追い出して自分が入浴し、従者たちに馬を洗わせたため、
大げんかとなり、目代は在庁官人数千人を集め、
鵜川に押寄せて僧坊を残らず焼き払ってしまいました。
これを聞いた白山の僧兵が一斉に蜂起し、
目代館を襲撃しましたが、すでに目代は都に逃げ帰ったあとでした。
白山側の怒りはおさまらず、それなら本寺延暦寺に訴えようと
白山中宮の御輿を担いで比叡山に向いました。
目代と山寺の紛争の原因は些細なことでしたが、
白山が比叡山の末寺であったこと、師高、師経の父が後白河院第1の
側近である西光であったことから大きな問題に展開していきました。
師高の父西光(藤原師光)は、身分の低い阿波国の在庁官人
近藤氏の出身です。藤原信西の乳母子で京に出て、信西が大内裏造営の際、
それを助けるなどして活躍し、鳥羽院の寵臣の1人藤原家成の
養子となって家格を上昇させました。
したがって西光は家成の子成親(なりちか)の義弟にあたります。
成親は妹が平重盛の妻、重盛の嫡子維盛も成親の娘を妻とし、
成親の嫡男成経は平教盛の娘と結婚というように
平氏との深い姻戚関係で結ばれていました。
師光(もろみつ)は平治の乱の際、信西の最期につき従い、
信西に西光という法名を授けられました。やがて後白河院の
御倉預(財産管理)の重職につき、権勢を振うようになりました。
西光の子師高・師経は、検非違使や衛門尉という
武士にふさわしい官職に就いていましたが、父が後白河院の寵臣であったこと、
また家成の養子であったことも有利に働き、師高は加賀守に抜擢されたのです。
国守は京都にいて現地には赴かないのが普通で、現地には
目代を派遣して在庁官人とよばれる地方武士を指揮させました。
白山の訴えを聞いた延暦寺は、加賀守師高を流罪・目代の師経を
投獄させるよう度々後白河院に要求しましたが、
彼らの父親が西光であるためいっこうに承認されず、
院は目代の流罪だけで事態をおさめようとしました。
これに怒った延暦寺は日吉(ひえ)社の祭礼を中止し、
安元3年(1177)4月13日、十禅師(樹下社)・客人(白山宮)・
八王子三社の神輿を飾り立て、高倉天皇のいる
閑院(かんいん)内裏へ押寄せました。強訴(ごうそ)です。
この内裏を守るため、出動した平重盛の軍勢が威嚇のために放った
流れ矢が十禅師(じゅうぜんじ)の神輿に命中し、
衆徒らも殺傷されてしまいました。これを見た延暦寺は、
神輿を捨ててほうほうの体で比叡山に逃げ帰りました。
寺院は朝廷に対して要求が通らない場合、
強訴という強硬な手段をとる場合がありました。

日吉社の樹下社(じゅげしゃ)本殿に置かれている十禅師神輿

早速、院の御所法住寺殿で公卿会議が開かれ、
崇徳帝の保延四年の先例に倣おうと決定されました。
置き去りにされた神輿は、祗園社(現、八坂神社)に納めさせ、
神人に突き立った矢を抜かせています。
延暦寺の衆徒が神輿を担いで内裏に押寄せる例は、
永久元年(1113)白河院に強訴して以来、今度の安元三年まで
6回あったが、都を守る武士達は神輿に向って矢を放つということは
神仏に矢を引くのと同じで非常に恐れ多いことと考えていました。
今度のように神輿に矢が当たったのは始めてです。
14日夜半、大衆が再び京へ押寄せるというので、高倉天皇、
中宮徳子は院御所法住寺殿に移りました。
比叡山では神輿を射られ、神官・宮仕が射殺されたというので、
この際、延暦寺を焼き払って、山林に籠ろうと3千人の衆徒が決議しました。
(延暦寺の鎮護国家の勤めを放棄し、朝廷に打撃を与えようとしたのです。)
これに対して山門との交渉にあたったのが平時忠(清盛の義弟)で、
「衆徒が乱暴するのは悪魔のしわざである。上皇がこれを鎮められるのは
薬師如来(叡山根本中堂の本尊)が比叡山をお守りくださるのに等しい。」と
したためた書状をつかわせると、衆徒はこれを見て「なるほど」と
谷を下り坊へ引上げました。人々は一紙一句をもって三千人の衆徒の怒りを
鎮めた時忠を褒め、また衆徒たちも道理をわきまえていると評価しました。
朝廷でも会議を開き、二十日加賀守師高は解任の上、尾張国に流罪とし、
目代師経と神輿に矢をあてた重盛の家来6人は投獄されることになりました。
(平家物語・巻一)
こうして山門の要求は認められたかに見えましたが、
師高・師経の父西光が反撃に出て事態は思わぬ方向に展開します。
この出来事の舞台となった日吉大社・京都の白山神社をご覧ください。
日吉大社を歩く 京都市の白山神社
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
水原一「平家物語の世界」(上)日本放送協会「石川県の地名」平凡社
県史17「石川県の歴史」「石川県の歴史散歩」山川出版社
川合康「平家物語を読む」吉川弘文館
財団法人古代学協会編「後白河院」吉川弘文館
上杉和彦「平清盛」山川出版社
上杉和彦「歴史に裏切られた武士平清盛」アスキー新書
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書