平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




伊豆の国市の真珠院には、伊東祐親(すけちか)の娘八重姫が祀られています。
平治の乱に敗れ、蛭ヶ小島に流された頼朝は、韮山の豪族北条時政と
伊豆最大の豪族伊東祐親らに監視されながらも、
年月を重ねるうちに監視もゆるみ、青年となった頼朝は、伊豆や相模の
土豪を引き連れ、狩りを楽しんだり、温泉に湯治に出かけたりしていました。
京都大番役で祐親が留守の間にその娘
八重と知り合い千鶴(せんづる)という男の子を生ませました。

都から三年ほどの大番役の任を終えて帰った祐親は、
この事を知ると「これが平氏の耳に入ったら一大事だ。」と3歳になる
千鶴を川に捨てさせ、八重姫を西伊豆の武士江馬小四郎に嫁がせました。
ついで頼朝も殺そうとしますが、息子の祐清(比企尼の娘婿)が
いち早く頼朝に知らせて窮地を救いました。

祐親は頼朝挙兵後は、大庭景親の軍勢に加わり石橋山合戦で
頼朝軍を敗走させ、次いで、富士川合戦の際には、
維盛軍に加わろうとして源氏軍に捕われ、その後、自害しました。
頼朝は挙兵後、祐清(すけきよ)を家人にしようとしましたが、
祐清は頼朝に敵対した父のことを考えてそれを断り、平家方に合流しています。



真珠院山門

真珠院山門傍の説明板には、次のように書かれています。
「伊東八重姫入水の地
源頼朝との契りの一子「千鶴丸」を源平相克のいけにえにされた伊東祐親の

四女「八重姫」は、悶々日を送る中、遂に意を決し治承四年七月十六日
侍女六人と共に伊東竹の内の別館をぬけ出し、亀石峠の難路に、
はやる心を沈めながら頼朝の(?)身をかくす北条時政館の門をたたきました。
然し既に政子と結ばれていることを知る 邸の門衛は冷たく、幽閉された身の我が館に
帰る術もない八重姫は、あわれ真珠ヶ淵の渦巻く流れに 悲愁の若き「いのち」を
断ってしまいました。悠久八百年、狩野川は幾度か流れを変え、
今は「古川」の小さな流れに閉ざされた悲恋のしのび音を偲ばせてくれます。
尚、当院境内に県下最古の「五輪塔」(1302)並に磨崖仏(1363)
その他宝篋院塔(1335)等々貴重な石造物が安置されています。」

説明板によると、八重姫は北条館に逃れた頼朝に会うために館を訪ねましたが、
既に頼朝と
政子が結ばれていることを知り、真珠ヶ淵の渦巻く
流れの中に身を投げたとのことです。

実際は、頼朝との仲をさかれた八重姫は、江馬小四郎に強引に嫁がされ、
一方、初恋にやぶれ傷心の頼朝の前に現われたのが北条政子というわけです。

真珠院本堂

八重姫御堂





御堂の傍には、八重姫を供養する梯子が供えてあります。
『アクセス』

「真珠院」静岡県伊豆の国市韮山町中条145-2
伊豆箱根鉄道駿豆線伊豆長岡駅から徒歩12分 
『参考資料』
「静岡県の歴史」山川出版社 「静岡県の地名」平凡社
 奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 

現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 永原慶二「源頼朝」岩波新書 
「源頼朝七つの謎」新人物往来社「官職要解」講談社学術文庫 

 

 

 


 



コメント ( 9 ) | Trackback (  )





元慶寺の竜宮造りの山門

華頂山元慶寺・天台宗延暦寺派
元慶寺を開いた僧正遍照(816~890年)は
桓武天皇の孫で、小野小町にまつわる「百夜通い」の伝説を持つ
深草少将のモデルともいわれています。
もと仁明天皇に近侍した良峯(よしみね)宗貞で、
天皇の死に伴って35才の時に出家し、
比叡山に上り名を遍照と改めました。
出家後は花山僧正とよばれ、六歌仙のひとりに数えられています。

遍照は陽成天皇の誕生に際し、寺造営を発願し、元慶寺は
天皇の母、藤原高子によって建立されたと伝えています。
一に「花山寺」とも呼ばれるのは、旧地が現在地の西北にあたる
花山山(かざんやま)にあったためです。

本堂には本尊薬師如来像や遍照自作と伝える木像や
花山法皇の宸影を安置しています。


五節の舞姫をみてよみける
♪天津風雲の通い路吹きとじよ 乙女の姿しばしとどめむ
(百人一首第12番・古今集第17、雑歌上)
はあまりにも有名です。
(大空を吹く風よ、天女が天と地を往来する時に通るという、
雲の中の通り道を吹き閉じてくれ。あの舞姫の姿をもうしばらく
ここに引き留めておきたいのだから。)


僧正遍昭の墓 山科区北花山中道町
西野山に至る大石街道の東側、

元慶寺から西南400㍍ほどの住宅街の中にあります


墓は1個の岩石からなり、傍には1本の老木があります。

元慶寺といえばもう一人忘れてならないのが、
花山法皇(968~1008年)です。
花山天皇は藤原氏の策動により、19才の若さで退位させられ、
この寺で出家して法皇になりました。
皇位を追われた法皇は熊野に向かい、那智の滝で修行を終えて
西国三十三ヶ所観音霊場の旅に出ました。
(花山法皇は衰退しかかっていた西国三十三ヶ所観音霊場の
中興の祖といわれています)
こんなことで元慶寺は西国三十三ヶ所観音霊場の番外に入っています。
熊野古道の中辺路(なかへじ)を歩いた時、箸折れ峠で、
牛と馬にまたがった花山法皇の旅姿を偲んで彫られたという
牛馬童子像に出会いました。
高さ50cmと想像していたものより、ずっと小さくて可愛いい像でした。
『アクセス』
「元慶寺」
京都市山科区北花山河原町 (JR東海道本線東山トンネル東入口近く)
御陵駅から三条通リを東南へ歩き、東山トンネルをくぐり南へ進むと、
車の往来が激しい道路に突き当たります。
この交差点を右折し、西に進むと元慶寺の案内標識があります。

地下鉄東西線御陵(みささぎ)駅下車徒歩約20分
地下鉄東西線・JR山科駅下車徒歩約30分
『参考資料』
「京都府の歴史散歩」(中)山川出版社
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)俊々堂




 



コメント ( 6 ) | Trackback (  )






猪にからむ話を尋ねて京都御所西にある護王神社と高尾山神護寺へ

奈良時代末、道鏡に杭した和気清麿呂はそのため配流されることになり、
大隈国(今の鹿児島県)へ
途中猪の群れが現れれ護衛を務めたという言い伝えがある。

(護王神社)
護王神社の祭神は和気清麿呂です。
上記の説話のためであろうか、この神社の狛犬は狛猪で、別名イノシシ神社とも呼ばれています。
その後道鏡失脚をうけて和気清麿呂は中央に復帰し平安京造営に尽力しました。



コメント ( 5 ) | Trackback (  )





山木兼隆は治承4年(1180)8月の頼朝挙兵の際、
北条時政率いる軍勢に真っ先に館を攻撃され討死しました。
父信兼との争いがもとで、伊豆に流されていた兼隆は、
宇治川合戦で敗死した伊豆国知行国主源頼政に代わり、新たに国主となった
平時忠(清盛の妻時子の兄)の目代に任命されたのです。

北条時政は娘政子と頼朝との仲を裂くため、平氏一門の山木兼隆に
縁づけようとしましたが、政子はこれを嫌い伊豆山神社(走湯山権現)で
待つ頼朝のもとに走ったという話が伝えられています。

景雲山建長寺派香山寺(臨済宗)は、八牧判官平兼隆開基、

開山は『仏乗禅師伝』によると、
建武2年(1335)3月に亡くなった天岸慧広(仏乗禅師)です。

アーチ型の石造りの山門は、もと韮山県庁の門でした。




中興開基は北条早雲、再中興開基は韮山城主の内藤信成、
寺は幾多の荒廃と再興を繰り返しながら今に至るまで維持され、
境内には、山木兼隆供養塔や兼隆室の念持仏だった
薬師如来坐像が残されています。





山木村の山木判官を祀る兼隆神社は、嘉永六年(1853)の
山木大火で
堂社を焼失し、皇大(こうたい)神社に合祀されました。









山木兼隆館跡・香山寺   
『アクセス』
 「香山寺」 静岡県伊豆の国市韮山町山木868-1 電話: 055-949-2905
 「韮山駅」下車徒歩約35分
『参考資料』
「静岡県の地名」平凡社、2000年
「源頼朝のすべて」新人物往来社、1995年





コメント ( 0 ) | Trackback (  )