平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



◆左獄(東獄)跡
左獄は都におかれたふたつの獄舎(左獄・右獄)のひとつで、左京一条二坊十四町
(近衛大路南、西祠院大路西、油小路東、勘解由小路北)にありました。
現在の京都府庁の西、丁子風呂町南側から勘兵衛町を中心とする一画です。
逢坂山で捕えられ六条河原で斬られた悪源太の首は、左獄の樗の大木にかけられました。
この獄門にかけられたのは源義朝・その郎党の鎌田正清や源義仲、
さらに平宗盛が近江国篠原で斬られ、その首を獄門傍の樗にさらされています。

しかし付近にはそれを示す石碑さえなく、道行く人や辺りに住む人達でさえ
その歴史を知る人は少ないのではないでしょうか。
丁子(ちょうじ)風呂町と呼ばれている辺りは、中世までは獄門町といったとか。

人柄が愛され長い間国民的英雄だった悪源太義平
 
 

ここで『平治物語』(悪源太誅せらるる事)から、悪源太の最期をご紹介します。
青墓宿で父義朝に北国に行けと命じられた悪源太義平は、越前国足羽まで下っていた。
そこで義朝が討たれたことを聞き、父の無念を晴らそうと足羽より都に上り
六波羅の様子を窺っていると義朝の郎党、丹波国の住人志内六郎景住に行き合った。
景住は源氏の御代になるまでと、つてを頼って平家に仕えているという。
義平は「日頃のよしみを忘れてないか。親の敵を討ちたいと思うぞ。」というと
「どうして忘れましょうか。お手伝いしましょう。」と言うので、それでは頼みを
聞いてくれと「お前を主人として、義平を下人にせよ。」と言い、景住が六波羅へ
出仕するときは、義平は下人のように身をやつして一緒に行き、蓑、笠、
履物のような物を持って門の辺りに佇み様子を窺う。しかし平家一門は揃って
栄華を極め、かたや我身は運の尽きた身。警固が厳しくて狙う隙がない。

二人は三条烏丸にある宿を借りて身を隠していましたが、この宿の家主はいつも
不思議に思っていました。といいますのは、主という男は立ち居振る舞いが無骨で
話す言葉もいやしい。それに比べ下人という男の立ち居振る舞いは立派で、
物思いにふけっている様子などはただ者ではない。
主を下人にして、下人を主にした方がふさわしいのに。と常々思っていました。
ある日家主は障子のすき間から二人の様子をのぞくと、主がおかずのついてない飯、
下人が立派なおかずのついた飯をとって食べている。このものたちは源氏の郎党と
聞いていたが、下人というのはきっとあの悪源太義平であろう。六波羅では悪源太義平が
平家を狙っていると大騒ぎなさっているが、よそから平家のお耳にでも入ったら大変だと
早速六波羅に参上してこのことを申しあげた。「さては悪源太であろう捕まえろ。」と
難波二郎経遠が三百余騎引きつれて三条烏丸へ押しよせた。

悪源太は、袴の股立ち(ももだち・左右の側線の部分)をとり、石切という太刀を抜いて
ざんばら髪になって戦う。「悪源太ここにあり。さあかかってこい。」というや走り出す。
と平家の侍は左右にざっと退く。義平は真っ先に向ってきた者を2、3人斬り伏せ、
土塀の屋根に手を掛けてひらりと飛び越え、家伝いにどこへともなく消えてしまった。
経遠は景住を生け捕りにして六波羅に戻り縁の端に引いてとどめ置いた。清盛が出てきて
「汝は平家に仕える身でありながら、主を裏切って斬られることの哀れさよ。」と仰る。
景住は「源氏は重代の主、平家は今の主なり。源氏の御代になるまでと仕える我を、
下人にした貴方さまこそ、うかつ者。」と申すと「不埒な奴め。」と景住を
六条河原に引きずりだした。「景住は源氏の郎党の中では下級の武士です。それが
平家の大将軍清盛を相手にして斬られてもこの命少しも惜しくはございません。」と
言い残して念仏を唱えながら23歳の若さで処刑されてしまった。
世の人々は皆その死を悼み惜しんだという。

一方義平は、昼は大原、静原、梅津、桂、伏見など都近くを転々と居場所を変えて潜み、
夜になると六波羅へ出て平家を狙うが隙がない。すっかり疲れてしまった義平は
知人を頼って近江でしばらく休養しようと下る途中、
逢坂山で休んでいるうちについ正体もなく眠ってしまった。

逢坂山の山麓に設けられた逢坂山関址の碑

謡曲『関寺小町』で知られる長安寺(大津市逢坂2丁目)境内より
悪源太が眠りこけていた逢坂山遠望。

丁度そこへ難波二郎経遠が50余騎を引き連れて石山寺に参詣しようと通りかかった。
一行が逢坂山の関の明神の前で経文を唱えていると、折しも空ゆく雁の列が
パッと左右に分かれて乱れた。「敵野に臥す時は雁の列が乱れるということがある。
敵がこの辺にいるに違いない。」と馬から下りて一行が辺を捜すと何者かが寝ていた。
「そこに臥しているのは誰だ、名乗れ。」という声に驚いて飛び起きた義平は
「源義平ここにあり」と平家の侍相手にさんざんに斬って廻ったが、
難波二郎経遠が強く引き絞って放った弓が義平の小腕に強く当たり、
傷を負ったため、太刀が思うように握られず遂に生け捕りにされた。
悪源太を馬に乗せて六波羅に連行し侍の詰所に留めおいた。

早速、清盛が現れて「どうして義平は三百余騎で三条烏丸の宿を襲った時には
逃げ失せたのに、逢坂山では僅か五十余騎に生け捕られたのか。」とたずねると
「異国の項羽は百万騎を引き連れながら敵の高祖にとりこにされたというが、
運が尽きたときはこんなものだ。お前たちも運が尽きればこういうふうになるぞ。
義平ほどの者をしばらくでもおいておくのはよくない早く斬れ。」というので
六条河原に引き出した。「あの悪源太が斬られるぞ、さあ見に行こう。」とて、
都中の上下の人々が大勢集まってきて河原はまるで市が立ったようになった。
「下賤の者ども、そこを退きめされい。西を拝んで念仏を唱えよう」というと
びっしり詰めかけた群衆はぱっと退いた。
「ああ平家の奴らは物の道理もをわきまえない者達だよ。日中に賀茂の河原で
斬られることが悔しい。かって、保元の乱にも多くの者が処刑されたが、昼間には
人気のない山中で斬り、河原では夜に入って暗くなってから斬ったものなのに。
思えば平治の乱で清盛が熊野参詣の途中、六波羅からの早馬が切目(切部)の宿で
追いついて信頼・義朝の挙兵を伝え、帰京する清盛を義平が阿倍野辺りで
待ち受けて討とうと言ったのにあの臆病者の信頼が反対したのだ。
あの時なら二条天皇も後白河上皇も我が方にあり、何より時の勢いというものがあった。
清盛を都に入れてから一度に滅ぼそうと信頼めが命令したため
このようなことになってしまい憂き目にあうことよ。」と昼間大勢の人々の前で
斬られる屈辱にさすがの義平もつい愚痴がでてしまいます。
「何をいまさら過ぎ去ったことをおっしゃるのか。」と難波二郎経遠が太刀を抜いて
斬ろうとすると「義平をお主が斬るのか。上手く斬らないと顔にくいつくぞ。
今すぐ食いつかなくても百日中に雷となってお前を蹴殺すぞ。」と悪態をついて
手を合わせ念仏を唱えながら御年二十歳で斬られた。その首は獄門にかけられたという。

義平は死後雷となって、恨みを晴らしたことが
「平治物語・悪源太雷となる事」に書かれています。
義平を斬った難波二郎経遠が福原へ行った帰り道、摂津国昆陽野まで来た時、
今まで晴れていた空がにわかに掻き曇り、雷が激しく鳴り出した。
難波二郎経遠は「雷になってお前を蹴殺してやる。」という義平の言葉を思い出して
恐ろしくてならない。今の雷は義平であろうか。と義平を斬った太刀を抜いて額に当て、
馬に鞭あて駆けていくうち雷はいっそう激しく鳴り響く。難波の家来が松の木の下で
馬を留めて見ていると、雷が落ち馬と共に難波二郎経遠が蹴殺されてしまった。
都にも六波羅にも雷がおびただしく鳴り落ち、多くの人々が亡くなってしまった。
清盛は大騒ぎして貴僧、高僧に命じて大般若経を読ませたところ、
たちまち雷は鎮まった。恐ろしいことである。
右獄(西獄)と左獄(東獄)  
『アクセス』
「丁子風呂町」市バス堀川下立売下車5分
『参考資料』
 日本歴史地名大系「京都市の地名」平凡社
新京都坊目誌「我が町の歴史と町名の由来」京都町名の歴史調査会
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店 「図説源平合戦人物伝」学習研究社
 

 

 
 





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平治の乱(1159年)で平家に敗れた源義朝は東国へ敗走中、
長田忠致(おさだただむね)に野間(愛知県)で殺害され、
嫡男の頼朝は美濃(岐阜県)青墓宿で捕らえられました。

永暦元年(1160)、頼朝は14歳で配流地伊豆への途中、
当社に参籠して源氏の再興を祈願したという。
その三十年後、見事
源氏再興を果たした建久元年(1190)上洛の途次、
再び当社に詣で瀬田郷300石と数多くの神宝を寄進したとされています。

このことから出世開運の神として人々の厚い信仰を集めてきました。
その後、度々戦火にみまわれましたが、その都度再建し、
江戸時代には膳所藩歴代藩主の崇敬を受けています。


瀬田唐橋から東へ500mほど進むと、建部大社の鳥居が見えてきます。

二の鳥居

社伝によると、神崎郡建部郷(東近江市)に日本武尊を
建部大神として祀ったのが始まりとされ、天武天皇4年(675)、
現在地に遷したとされています。
天平勝宝7年(755)には、孝徳天皇の詔により大和一の宮、
大神神社から大己貴命を勧請し権殿に祀られ現在に至っています。


当社には八幡神は祀られていませんが、日本武尊(倭建命)の孫にあたる応神天皇、

その母神功皇后を祭神とするのが八幡神、すなわち建部大社には
八幡神のご先祖がお祀りされていることになります。


神門

例大祭 4月15日  船幸祭(せんこうさい)8月17日

拝殿前の三本杉がご神木となっています。

建部大社は、瀬田唐橋の東方に鎮座し、
近江国一の宮として屈指の歴史と由緒を持つ社です。
主神は日本武尊(倭建命)、相殿に天明玉命、
権殿に大己貴命(おおなむちのみこと)が祀られています。

さてここで『平治物語』から、
「頼朝遠流の事付けたり守康夢合わせの事」のあらすじをご紹介します。

北方の胡の国から来た馬は北風が吹くと故郷を懐かしんでいななき、
南方の越の国から飛んできた鳥は故郷のある南に向いて延びる枝に巣をつくるという。
獣や鳥でさえこのように故郷の名残りを惜しむ。まして人間であれば尚更である。

人は皆流罪というと嘆きますが、頼朝の流罪は死一等減じられ遠流となったのですから
世にもまれな喜びでした。「頼朝が流されるぞ、さあ見に行こう。」と延暦寺の僧、
園城寺の僧が大津の浜に市が立ったように多勢集まってきました。
頼朝の姿を一目見るなり
「眼つきの鋭さといい人柄といいただ者ではない。
頼朝を伊豆国に流せば千里の野に
虎の子に翼をつけて放すようなものだ。
恐ろし、恐ろし。」と僧たちは口々に言い合います。

宗清は頼朝との別れが名残惜しく、見送るうちにはや瀬田の橋を過ぎてしまいました。
「あそこに見える森は何だろう。」と頼朝が尋ねると「建部の宮といって八幡神を
祀る社です。」と宗清は答えます。「では今夜は八幡さまの御前で過ごして、
道中の無事を祈り
お暇申しあげてから伊豆へ下ろう。」と頼朝が言うと
「頼朝は流罪の身でありながら
宿場に泊まらずに神社に参籠して終夜祈願した。」と
平家の方々がお聞きになったら、
どう思われるでしょう。」と宗清は言いますが
「源氏の氏神さまにお別れもうしあげるのに
不都合はないだろう。」とおっしゃるので、
仕方なく一行は建部宮に入りました。
「南無八幡大菩薩、もう一度都へお返しください。」と
頼朝は祈ったそうですが、恐ろしいことです。


父義朝の郎党上野守康という男が、頼朝が伊豆配流と聞き、老母が重病にもかかわらず
粟田口までお見送りしようやってきました。粟田口まで来ると
せめて逢坂山までと思い直して、とうとう建部大社まで来てしまいました。
その夜、守康は霊験あらたかな夢のお告げを受けました。人が寝静まってのち
頼朝のお傍へ参って守康は小声でささやきます。「伊豆国へお行きになっても、決っして
出家だけはなさいますな。夢の中に神の示現がありました。
その夢というのは、八幡に参詣していたら御殿の中から『頼朝の弓矢はどこにあるか』
とお尋ねがあり『ここにございます。』と答えて二人の童子が弓矢を持ってくると
『納めておけこの弓矢を取り出す時がきっとくるぞ。』と言い終えて
弓矢を御殿の奥に
納められました。またその後、
佐殿(頼朝)が白い直垂姿で庭上をかしこまって通られると、

白金の盆に鮑を薄切りにし、延ばして干したのし鮑を67、8本
(60余州をさしたものか)置かれ、神さまが『さあ頼朝に与えよう』と仰り
御簾(みす)のうちから出された鮑を佐殿がふつふつとお食べになったのち、
僅か一本お残しになり『守康にやる。』といってお投げになったものを、
守康がい
ただいて食べたとも懐に入れたともはっきりと覚えぬまま夢からさめました。

正夢に違いありません。きっとご主君の時代がくると思われます。

人が何と言おうが
ご出家だけはなさいますな。」とこっそり囁きますが、
頼朝は誰かが聞いていると思われたのか、

返事はなさらず黙ってただ頷くだけでした。翌朝一行は、建部大社の八幡大菩薩に
別れを告げて出発します。守康は「せめてもう一日だけでもお供したいのですが、
老母が危篤におちいっています。」と帰り、
宗清は篠原まで送りましたが、頼朝にこれから先の無事を言いおいて、
都へと
戻って行きました。やがて伊豆国の蛭ヶ小島に到着すると、
役人は伊東や北条に「頼朝を守護するように。」と申しおいて
都に帰って行きました。

『アクセス』
「建部大社」大津市神領一丁目16-1 京阪電車「唐橋前」駅下車 徒歩15分
JR琵琶湖線「石山駅」下車 バス 「建部大社前」下車徒歩3分
 JR琵琶湖線「石山駅」下車 徒歩 20分

『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店 奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社
永原慶二「源頼朝」岩波新書 「滋賀県の歴史散歩」(上)山川出版社
「滋賀県の地名」平凡社 01・2月号「歴史読本」(古事記・日本書紀と謎の神々)新人物往来社

 

 
 
 
 

 



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「平治物語」には、亡き家盛に頼朝が似ているという話を宗清から聞いた池禅尼が、
ふびんに思い清盛に頼朝の命乞いをしたいきさつが詳しく語られていますが、はたして
それだけの理由で池禅尼は断食までして清盛に頼朝の助命を嘆願したのでしょうか。
今回は池禅尼の縁者と頼朝の母方の縁者との接点をみてこの問題を考えてみます。

藤原宗兼の娘池禅尼(宗子)は平忠盛の後妻となり家盛、頼盛を生みますが、
家盛は病をおして鳥羽院の熊野詣の供をして帰京の途中亡くなります。
池禅尼の叔母は当時宮廷社会で勢力を誇っていた善勝流藤原家保の妻となり
家成を生んでいます。この家系は家保の父顕季の母が白河天皇の乳母となった関係から
政界に進出し代々白河・鳥羽・後白河と常に院近臣の中心人物となっています。家成も
鳥羽院有力近臣として絶大な権勢を振るい鳥羽殿の安楽寿院や三重塔を造営します。
鳥羽院との間に近衛天皇を生んだ美福門院は家保の姪、家成の従姉妹にあたります。
忠盛は妻宗子の縁で家成との結びつきを強め白河院・鳥羽院の恩寵を得て
着実に出世していきます。

父正盛までは地下の受領だった忠盛が得長寿院を建立・寄進し、
鳥羽院を大いに喜ばせ念願の内裏の昇殿を許され殿上人になったことが
「平家物語」(巻一)『殿上の闇討の事』に書かれています。
得長寿院は、のちに清盛が建てた蓮華王院三十三間堂と構造・規模とも
ほぼ同じとみられ聖護院辺りにありましたが現存していません。

「然るに忠盛、未だ備前守たりし時、鳥羽の院の御願、得長寿院を造営して、
三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏を据え奉らる。供養は天承元年三月十三日なり。
勧賞には欠国を賜ふべき由仰せ下されける。上皇なほ御感の余りに、
内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて、始めて昇殿す。」

善勝流藤原氏と平家の関係は忠盛の時代だけでなく清盛の嫡子重盛が成親の妹を
妻とし、その子維盛も成親の娘と婚姻関係を結んでいます。平治の乱で
信頼方についた成親が解官だけですんだのは重盛が助命に奔走したおかげです。



美福門院の生んだ体仁(近衛天皇)が三歳の時、崇徳天皇は鳥羽上皇にだまされた形で
譲位すると、鳥羽・崇徳の不和はいっそう深まり、これが保元の乱の一因となります。
鳥羽院と美福門院は近衛天皇が即位すると病弱な天皇には皇子が
生まれないかもしれないと崇徳院の子である重仁親王、雅仁親王(後白河)の子
守仁親王(二条天皇)を養子にします。
池禅尼は重仁親王の乳母、忠盛は乳母夫となり、歌人でもあった忠盛は和歌を通じて
崇徳院とも親密な関係を築いています。

近衛天皇が即位すると美福門院の権勢が強まり、待賢門院やその周辺の人々は
影の薄い存在となり、鳥羽院との関係が疎遠になっていた待賢門院璋子が出家します。
崇徳院は母待賢門院が置かれている立場に心を痛め、
ますます美福門院を憎むようになります。
嗣子のないまま17歳の若さで近衛天皇が病死すると、重仁親王をたてたいと願う
崇徳院の気持ちに反して、鳥羽上皇は崇徳院の弟後白河天皇を即位させます。
保元元年(1156)鳥羽院が死去すると、謀反を起こさないといけない所まで
追い詰められた崇徳院が兵を集め保元の乱が起こります。
同じころ摂関家でも忠通、頼長の兄弟が家長の地位をめぐって内輪もめが起こり、
後白河天皇には忠通が崇徳院には頼長がつき天皇家・摂関家だけでなく侍として
仕える源氏、平氏の武士まで巻き込んだ戦いに発展していきます。

すでに忠盛は亡くなっていたため、池禅尼は「この軍は一定新院の御方はまけなんず、
勝べきやうもなき次第なり」とて「ひしと兄清盛につきてあれ」と頼盛に指示します。
◆新院とは上皇が二人以上いる場合、新しく上皇になった方でここでは崇徳上皇のこと。
当時鳥羽上皇は没していたため、新院という言葉を用いる必要はないが、
崇徳上皇について新院という表現が広く用いられていた。

本来なら池禅尼は重仁の乳母ですから頼盛を崇徳院のもとに参加させるのが筋ですが、
池禅尼は崇徳院方に勝ち目はないと頼盛に後白河天皇方に加わるよう諭します。
この時やはり重仁親王の乳母子にあたる清盛は美福門院得子に誘われ、後白河天皇方に
付いていました。乳母としての感情を抑え、情勢を的確に判断した池禅尼により
平家は一族内で統一した行動をとることができ、その勢力を保持することができました。
これとは逆に源氏はこの戦いで義朝の父や兄弟が崇徳院方につき
一族の多くを失っています。


次に頼朝の母方を見てみると頼朝の母は熱田大宮司家藤原季範の娘で、
季範は熱田大宮司であるとともに官人として殆どを都で過ごします。
その弟憲実は待賢門院の御願寺円勝寺に入り、
寺院内のこといっさいを掌る都維那(ついな)にまで昇進しています。
季範の娘たちも待賢門院璋子や璋子の娘上西門院に女房として仕え、頼朝の母も
上西門院の女房だったのではと云われています。息子範忠は後白河近臣、
範雅は後白河天皇の北面として仕え、祐範は園城寺に入っています。
統子内親王(上西門院)が皇后に昇ると12歳の頼朝が皇后宮権少進に任じられ、
さらに上西門院蔵人もつとめています。このことから上西門院や
その周辺の頼朝の縁者が頼朝助命に動き上西門院と親しかった池禅尼に
口添えを頼んだのではないかといわれています。

 

 


また「王朝の明暗」によると頼朝が捕らえられて以来、彼の母方の縁者の間では
助命運動が密かに進められていたのではなかろうか。その中心人物は
頼朝の母の弟である園城寺の僧祐範とし、祐範は頼朝が伊豆国へ配流された際、
家人一人を頼朝に付け、その後は毎月頼朝の許に使者をつかわせ面倒を
みたということである。祐範が白河法皇の皇子である園城寺長吏・前大僧都行慶に
頼朝の助命を懇願したとしても別に不自然ではなかろう。
行慶は従兄弟の宗賢法師を案内役とし密かに池殿を訪れ、池禅尼に
頼朝助命について尽力を懇願したとすれば、もともと頼朝に同情していた彼女は
この依頼を拒絶できなかったであろう。宗賢は池禅尼の義理の甥にあたり、待賢門院の
忠実な側近で女院が落飾したその日に出家したという人物です。
それに池禅尼には保元の乱に崇徳上皇や重仁親王を裏切った後ろめたさが
あったはずであると角田文衛先生は述べられています。
以上のことから池禅尼が一時的な感傷からだけで、死を覚悟した強い決意で
清盛に助命を懇願したのではないことが推測できるのではないでしょうか。

『参考資料』
角田文衛「王朝の明暗」東京堂出版 高橋昌明「清盛以前」文理閣 竹内理三「日本の歴史(6)」中公文庫 

「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 

奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 保立道久「義経の登場」NHKブックス





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