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平安・鎌倉両時代にわたって約150年間、京都の中心部烏丸通りを挟んで
三条通北側の東西には、三条殿と呼ばれる御所がありました。
西を三条西殿、東を三条東殿とも称し、
三条東殿の東側には、東洞院(ひがしのとういん)通を
隔てて以仁王の御所高倉宮が建っていました。
その中でも三条東殿は、白河天皇をはじめ歴代天皇が里内裏として
しばしば用い、平治の乱当時は後白河院の院御所で、
源義朝の襲撃を受け炎上しました。
その後、再建され高倉天皇や順徳天皇の里内裏となりましたが、
承久3年(1221)に焼失しました。
平治元年(1159)12月9日深夜、平清盛が熊野詣に出た隙をついて、
信西と敵対していた藤原信頼が源義朝と手を結び
軍勢五百余騎で三条東殿を急襲しました。
保元の乱後、政治の実権を握っていた信西に対する襲撃です。
易・占いに通じていた信西は、天文上の異変に気づいて事態を
うすうす感じていたらしく、三条東殿に行って
このことを院に知らせようとしましたが、あいにく御所では、
管弦の催しの真っ最中だったので遠慮し、信西の息子たちも
これに参加していたので、女官に伝言しておいて家に帰りました。
そして妻の紀伊二位(後白河院の乳母)に事情を話して別れを告げ、
いち早く都から姿を消しました。
反乱軍は後白河院とその姉(妹とも)上西門院(じょうさいもんいん)を車に乗せ、
二条天皇がいる内裏に連れて行き、一本御書所に監禁しました。
それから三条東殿に火を放ち、警固の公卿や官人、女房までも殺害しました。
信西には息子が多くあり、狙ったのは後白河院に近仕する信西一族の命ですが、
なにせ真夜中のこと、人を探すのは難しく、
それならいっそのこと火をかけようということになったのです。
しかし信頼らの軍勢は、信西を見つけられず、三条東殿からほど近い
信西の邸に攻め寄せて火をかけました。平治の乱のはじまりです。
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『平治物語絵巻』には、この時、武士と紅蓮(ぐれん)の炎にせめたてられ、
まきぞえになった官人や女房たちの混乱ぶりが描かれています。
左下には、木枠で囲んだ井戸があります。
女房たちが炎をさけてこの井戸に飛び込んだものの、
折り重なって次々に溺れ死んだという。
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三条殿炎上に三条大路を公卿・殿上人が従者とともに急ぎ群参する場面。
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こども相談センターパトナ前には、高倉宮跡の石碑があります。
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新風館(しんぷうかん)前、姉小路通烏丸東入南側角に
「三条東殿遺址}の石碑と駒札が建っています。
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三條東殿遺址(さんじょうひがしどのいせき)
現在の三条烏丸交差点の東北に位置する方四十丈(約120メートル)の地は、
古の三条東殿の遺址にあたっている。十一世紀の初めここは伊予守
藤原済家の邸宅があり、それは子孫の宮内卿藤原家通に伝えられた。
崇徳天皇の天治二年(1125)白河法皇はこの地を得られ、
ここに見事な殿舎を造営し、院の御所とされた。
法皇の崩後、鳥羽上皇は三条東殿をやはり院の御所とされ、
后の待賢門院と共に住まれ、
それは長承元年(1132)七月の焼亡時まで続いた。
その後この地は皇子後白河法皇の院の御所となった。
平治元年(1159)十二月九日の夜、源義朝は軍勢五百余をもって
三条東殿を襲撃、法皇をここから連れ去って幽閉し、
かくして平治の乱が勃発した。
そのとき武士と火焔にせめたてられた多数の官女が
三条東殿の井戸に入って非業の死を遂げたという。
このように三条東殿跡は院政時代における政治的文化的中心地の
ひとつであり、その点で永く記念にされるべき遺跡である。
昭和四十一年二月 財団法人古代学協会(駒札より)
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複合商業施設新風館は、2016年3月に閉館し、
2019年末には、跡地にエースホテルが誕生します。
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ただ今工事中!(2019年撮影)
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「信西邸跡」
『平治物語・三條殿へ発向付けたり信西の宿所焼き払ふ事』によると、
信西の邸宅は、姉小路西洞院にあったとされています。
『続京都史跡事典』には、藤原信西邸跡は中京区姉小路西洞院
(あねやこうじにしのとういん)西入宮木町と記されています。
なお、邸跡を標すものはありません。
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京都市中京区宮木町「紅型宮崎」向いに架かる説明プレート
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姉小路通小川東入(宮木町)
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三条東殿遺址(生まれ変わった新風館)
一本御書所(平治の乱ゆかりの地)
三条西殿址・三条東殿址・高倉宮趾・三条高倉第
信西入道塚(信西最期の地)
『アクセス』
「新風館」京都市中京区姉小路通烏丸東入
京都市営地下鉄烏丸線・東西線烏丸御池駅(5番出口)から徒歩1分。
『参考資料』
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
別冊太陽「王朝への挑戦平清盛」平凡社、2011年
日本の絵巻12「平治物語絵詞」中央公論社、1994年
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店、昭和48年
石田孝喜「続京都史跡事典」新人物往来社、2006年
古典講読シリーズ日下力「平治物語」岩波セミナーブックス、1992年
関幸彦監修「源平争乱」青春出版社、2004年
今と違って照明もない真夜中の焼き討ちや敵襲はどれほどの混乱になったか、想像も出来ない騒ぎでしょう。
投稿された日時が2009.6になっていますから、もう丸9年ですね。
この頃の記事を読んでは烏丸通一帯の駒札や碑を見て歩いた頃を思い出します。
文化博物館はそのままですが、新風館は閉館、来年ホテルになるのですか?世の中はあっという間に移り変わりますね。
大河ドラマどころじゃないこの大がかりな物語を克明な資料や写真と共に丁寧に取りこぼさずに語って下さったこの月日のご苦労は凄いものだと思います。
どうぞこれからもよろしくお願いします。
平治の乱の10ヶ月前、頼朝が初出仕したという
上西門院の御所・三条南殿もみずほ銀行の壁に架かる
説明プレートで知るばかりになりましたね。
その時、殿上人の筆頭として参加した清盛42歳と13歳の頼朝が顔を合わせています。
近年、外国人観光客の急増を受け、京都はホテル建設ラッシュが続いています。
薩摩守忠度が都落ちの時、和歌の師藤原俊成に別れを告げにいったという
俊成の邸宅跡は、烏丸通に面した俊成社となって残っていましたが、
都落ちの記事を書くころには、祠はホテル・京都・ベースの一角に移されていました。
重盛の邸宅内にあった庭の遺構と推定されている積翠園(しゃくすいえん)は、
記事を投稿する時には、東山武田病院の庭園でしたが、
平成28年10月の新聞報道で、武田病院が外資系ホテル
「フォーシーズンホテル京都」として、オープンしたということを知りました。
保元・平治の乱から太政大臣任命までが清盛の絶頂期です。
保元・平治の乱の記事を書くころには、行けなかったり、
気がつかなかった史跡があります。
時代が遡ったり、下ったりでお読みいただくのには、
煩雑な記事になっていると思います。
申し訳ありませんが、これからもよろしくお願いいたします。
その始まりの場所である三条東殿址、信西邸跡の詳しいところを調べていただいて、非常にありがたいと思います。また、京都市内に行った折には、是非訪ねてみたいと思います。
これから夏を迎え、更に暑くなりますが、お体に気を付けて取材を続けてください。
保元・平治の二つの合戦に勝利し、清盛の地位・権力は一気に高まり、
一族みな栄えるという平家の世になりましたね。
平治の乱の翌年には、清盛は武士では初めての公卿の地位に昇り、
その後も昇進を続け、臣下として最高の地位、太政大臣にまで任命されました。
もう参拝されたかも知れませんが…
信西邸跡(宮木町)のすぐ近く、
姉小路通を東へ、西洞院通を越えると北側に
高松神明神社(高松殿跡)があります。(中京区姉小路釜座東入北側です)
かつてここには後白河天皇の高松内裏があり、
保元の乱の時は天皇方の清盛や義朝らが結集した場所です。
向暑の候、揚羽蝶さまもご健康にはくれぐれもご留意ください。
このページの冒頭に載っている地図の出典を教えて頂けないでしょうか?
旧跡を訪ね歩く際に重宝すると思い、こうして現代の地図に昔の地名などが重ね書きしてあるものを探していました。
もし不可なら似たような物でも構いません。
よろしくお願いします。
お尋ねの地図は、高倉宮跡辺にあった説明板から一部転載したものです。
地図の文字、「中央郵便局」「三条通り」「高倉通り」は、私が書き込みました。
ちなみに「三条東殿遺址(さんじょうひがしどのいし)」の
石碑と駒札が建っていた烏丸御池の「新風館」(ホテル・商業施設)が
2020年6月にリニューアルオープンしました。
コロナで開業が遅れたようです。