平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




寿永2年(1183)7月、木曽義仲に都を追われるようにして
西国へ下った平氏一門は、その後次第に勢力を回復し、
翌年2月には福原に進出し、東の生田の森(大手)には平知盛を、
西の一ノ谷(搦手)には、平忠度を大将軍に据え城郭を構えていました。
一ノ谷合戦は、この生田の森と一ノ谷の東西10㎞ほどの
海に臨む地域が主戦場となりました。

寿永3年2月4日に京を発った源氏軍は、範頼(頼朝の異母弟)を
大将軍とする大手軍が山陽道(西国街道)から生田の森に進撃します。
義経の搦手軍は、京から丹波路を経て、播磨と丹波(兵庫県と京都府)の
国境の三草山で平氏軍を撃破し、この勢いで一ノ谷に進軍します。
三草山敗戦の知らせを受けた平宗盛は、急遽、能登守教経と
その兄越前三位 通盛(みちもり)を侍大将越中前司盛俊が守る
山の手鵯越の麓に差し向けました。
平氏の総大将宗盛は3日前に清盛の3回忌を海上で営み、そのまま安徳天皇や
建礼門院とともに船上を動かず、そこから指示を出していたのです。

途中、義経は軍勢を二隊に分け侍大将・土肥実平に主力を預け、
一ノ谷の西からの攻撃に向かわせます。
高尾山(神戸市北区山田町)の辺で再び軍勢を二手に分けて
多田行綱に主力を委ね、自らは精鋭70騎を率いて、一ノ谷の
背後に回る戦略をとります。これが有名な義経の鵯越の逆落となります。

ところが、鵯越とは一の谷後方にある鉄拐山(てっかいさん)・鉢伏山付近の
崖であるという説と、現在も地名として残り、神戸電鉄の駅名にもなっている
「鵯越」であるという2つの説があり、早くから問題視されています。


「2月7日に戦いの火ぶたが切られ、大手口では範頼軍が生田森に陣を布く
平氏軍に攻撃を仕掛け、一の谷西の搦手口では、熊谷直実と平山季重が
先陣を争って平氏軍に攻めかかり、勝敗のつきかねる激戦となりました。
しかし義経率いる精鋭が鵯越から急斜面を馬で駆け下り、その真下須磨一ノ谷の
平氏城郭の背後を不意打ちし建物に火を放ったため、驚いた搦手の
平氏軍は総崩れとなり、これによって大手の平氏軍も浮足立ち大敗します。」

以上がよく知られている平家物語が語る一ノ谷合戦の経過ですが
『平家物語』は鵯越と一ノ谷をまるで同じ山の峰と谷のように描いています。
義経が馬で駆け下りた一ノ谷の平氏城郭は鵯越の下にあるはずですが、
実際の鵯越は一の谷から直線距離で東に8kmも離れたところにあり、
その下に一ノ谷はありません。
神戸市の地図を見ると一ノ谷の背後にあるのは鉢伏山・鉄拐山です。

では一の谷合戦の勝敗を決定づけたという鵯越の坂はどこにあるのでしょうか。
近年、この地理的混乱を解消する史料、九条兼実の日記『玉葉』により
一ノ谷合戦の実像に迫る見解が出されています。
寿永3年(1183)2月8日条から合戦の経緯を見てみましょう。
7日夜半に梶原景時から平氏惨敗の知らせがもたらされ、
その報告は8日未明に時の右大臣九条兼実にも伝えられました。

まず義経から報告がきて、三草山を陥落させた後、一ノ谷を落としたという。
ついで範頼から報告があり、義経に同行した多田行綱の部隊が
山方から押しよせ、真っ先に山手の傾斜地から山の手の陣を落とした。
大手福原に攻め寄せた範頼は、一時もかからずに生田森を攻落としたという。

思いもよらぬ背後の絶壁からの奇襲に平家軍は総崩れとなり、
宗盛はじめとする平氏一門、生き残った者も先を争って
大輪田泊に停泊していた船に逃れて屋島へと敗走し、
戦いはおおむね正午には終わりを告げました。

では行綱が押しよせたという「山の手」はどこなのでしょうか。
『地域社会からみた源平合戦』では、一ノ谷合戦は後の足利尊氏と楠正成との
間で行われた湊川合戦と同じ地域で戦われたといい、『太平記』などの資料から、
この合戦において、鵯越に迂回して兵庫へ攻め込んだ軍勢を「山の手」勢と
呼んでいることから、『玉葉』が記す「山の手」こそ鵯越であり、
鵯越の坂落としとは、義経軍の別動隊多田行綱がこの坂の下に布陣している
平氏の山手陣を攻撃したことになります。行綱が鵯越に向かったのは、
この周辺の地理に詳しかったから違いないとしています。

また、一ノ谷出陣の際、義経の命を受け京の七条口(丹波口)に行綱が
搦手軍のために摂津の武士を動員していたと見られること、
さらに丹波路を経由して三草山に進んだ義経軍を行綱が道案内して
峠を無事に越えることができたので、
峠は「多田越(ただごえ)」の名がついたという伝承があります。
『平家物語』には、義経が一ノ谷での奇襲で戦功を挙げたことと、
多田行綱の鵯越からの攻撃が混同されて描かれているようです。


ではなぜ行綱の鵯越の坂落しがいつの間にか義経の戦いとなり、
彼の手柄となったのでしょうか。
『平家物語』は義経を英雄として一貫して賞賛しているのに対して
多田行綱を鹿ケ谷事件の密告者として否定的に描いていることから、
行綱の功績を抹消し、義経の軍功としたのではないだろうか。
(元木泰雄『源義経』)

多田行綱は平氏滅亡後、頼朝に領地を没収され没落したことから、
いつしか鵯越の伝承は義経の武勇伝説となって語られたのであろう。
(川合康『地域社会からみた源平合戦』)と
各氏がそれぞれの見解を述べておられます。

行綱は摂津国多田荘(兵庫県川西市など)を開発した多田満仲を祖とし
摂津源氏の嫡流で、摂津国中央部の水陸交通の要衝をおさえ
同国で最大の勢力を持っていました。
行綱が『平家物語』に初めて登場するのは、
京都東山の鹿ケ谷山荘に集まり、平氏打倒の謀議の時です。
その会合の席にいた行綱がそれを清盛に密告したのです。
その後は、平氏一門が都落ちするまでは、平氏と親密な関係を築き、
平氏が都落ちすると義仲、義仲滅亡のあとは義経と
次々に渡り歩き、一ノ谷合戦に赴く義経陣営に参加し、
地の利を得て勝利に貢献したものと思われます。

鵯越を歩く

現在鵯越の地名は、三木・藍那・鵯越とつづくコースの南端にあたり、
「神戸市兵庫区鵯越町」として残っています。
当時、三木から福原への道は、広野を経て藍那に至り、
そこから南の鵯越を越えて夢野(神戸市兵庫区)に至る道でした。

義経は三草山から三木へ進軍、ノ谷合戦前日、藍那に軍を進めてきました。
藍那の相談ヶ辻には、義経が白川方面へ進むか、
鵯越へ通じる道にしようかと迷ったという伝承があります。

相談ヶ辻から星和台五丁目の道を南下し、昔鵯越の峠だったという
鵯越墓園に入り、墓園東奥の高尾山登り口まで進むと
高尾地蔵が祀られています。その前に「義経馬つなぎの松」と
呼ばれる枯れた松があり、鵯越ルートには義経伝説が連なっています。

高尾地蔵院の先で行綱と別れた義経は、山中深く分け入り
一ノ谷の陣の背後へと進み、鉢伏山・鉄拐山から逆落としを仕掛け、
行綱は「鵯越の碑」辺から坂落としをしたと考えられています。

一ノ谷合戦において鵯越から源氏軍による攻撃はありましたが、

それは現在も地名に残る鵯越墓苑の南門を出た辺から義経ではなく、
義経別動隊の多田行綱が行ったというのです。


義経が進軍したとされる「鵯越古道」を神戸電鉄藍那駅から歩きました。
藍那集落の急坂を上っていくと、鵯越の古道に出ます。


 この辺で藍那(あいな)の集落を抜けると、三叉路に出るので
星和台への道を進みます。



南北朝時代ごろとみられる藍那の辻の宝篋印塔は、
和泉式部の墓ともいわれていますが、間違いのようです。
(神戸市北区山田町藍那)

藍那から進むと左手に曲がり、山間の畑をの中を行くと谷間が広がり、
二軒屋があります。

その先に三叉路があります。

 
進軍してきた義経がどちらの道に進もうかと思案し作戦会議を
開いた場所と伝えられています。(神戸市北区山田町藍那 藍那駅より約1㎞)
左へ行けば鵯越方面、 右へ行くと白川方面から一ノ谷で、
左の鵯越方面に
進むと星和台の住宅地に入ります。


山道を抜けると清和台住宅にでます。
前方に高尾山403m 山頂に鉄塔が建っているので、遠くからでも目につきます。

住宅街を抜けると鵯越墓園に出ます。北門付近から墓苑に入ります。
墓園センターの少し南、高尾地蔵境内に義経馬つなぎ松があります。

義経馬つなぎの松(神戸市北区山田町下谷上)藍那駅より約3900m
 
義経はこの先で兵を二つに分け、自身は多井畑(須磨区)から
一ノ谷の背後の天険に出て、急峻な崖から駆け下り、
薩摩守忠度が守る城郭を落とし勝敗を決定づけます。

義経と別れた多田行綱の部隊は直進し、現在の墓園の南門に出て
真っ先に鵯越の石碑がある辺から坂落としをし、
越中前司盛俊・ 能登守教経が守る山手の陣を攻め落としました。
川合康氏は「現地の事情に明るい行綱の素早い攻略が鵯越の逆落としという
伝説を生み出すことになったのではないだろうか。」と述べておられます。





鵯越墓苑南門へ

鵯越墓園の南門を出たところ、西神戸有料道路の脇の植込みに、
「史跡鵯越」と刻まれた碑が建っています。

「鵯越の碑」の背面には、「この道は摂播交通の古道で源平合戦のとき
 源義経がこの山道のあたりから一ノ谷へ攻め下ったと伝えられる
昭和二十九年二月」と刻まれています。 


このあたりまで来ると平家の陣地は真近に迫り、進行方向右手、
旧有料道路の反対側は苅藻川の深い谷になっています。
この谷の奥に「古明泉寺」という字名が残っています。
古明泉寺(現・雲雀丘中・小)には、越中前司盛俊の陣、
左下には能登守教経が守る氷室神社辺
が見下ろされたはずです。

神戸の氷室神社(能登守教経の山手の陣)  
鵯越から一ノ谷へ義経進軍(藍那の辻・相談が辻・義経馬つなぎの松跡・蛙岩)  
義経の鵯越の逆落し(須磨浦公園)  
一ノ谷・戦の濱の碑・安徳天皇内裏跡伝説地(一ノ谷合戦平氏惨敗の一因)  
『アクセス』
「神戸市立鵯越墓園」神戸市北区山田町下谷上字中一里山12

神戸鉄道有馬線「鵯越駅」下車南門まで徒歩約10分
「鵯越の碑」鵯越駅下車 徒歩10分
鵯越墓園の南門を出た道路脇の植え込みの中にあります。
『参考資料』
川合康・市沢哲「地域社会からみた源平合戦」歴史資料ネットワーク
川合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館 元木泰雄「源義経」吉川弘文館
近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 
別冊歴史読本「源義経の謎」新人物往来社 杜山悠「神戸歴史散歩」創元社
野村貴郎「北神戸 歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター「平家物語図典」小学館
前川佳代「源義経と壇ノ浦」吉川弘文館
 

 



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寿永2年(1183)7月、都落ちした平氏一門は、
一旦九州まで逃れますが、
その後屋島(香川県高松市)に本拠をおいて
次第に勢力を挽回し、
水島合戦(岡山県倉敷市)では、木曽軍を破り
摂津国福原に進出して
東は生田森、西は一ノ谷に陣を構えて都を窺います。
一方、木曽義仲を討った源氏軍は、休む間もなく大手(正面)・搦手(背後)の
二軍に分かれて、翌年2月4日の早朝、都を出発します。
範頼は大手軍を率いて山陽道(西国街道)を生田の森を目指し、
搦手義経軍は山陰道(丹波路)を辿り、平家の背後へと軍を進めます。

山陰道は、丹波路、篠山街道ともいい、
老ノ坂(おいのさか)峠から亀岡市、福知山市を経て兵庫県に入る道です。
亀岡市は山陰道(篠山街道)と京街道(丹後道)が交差する交通の要衝で、
周辺には義経の進軍にまつわる那須与市堂や義経腰掛岩の伝承が残されています。

七条口(丹波口)
義経が平家追討のため京を出るにあたり、
多田源氏に関する文例を集めた『雑筆(ざっぴつ)要集』に
「一谷発向なり。当国の御家人等、惣追捕使の催に随て、
一人も漏らさず、七条口に参洛せしめ、而して見参に入るべし」と
あることから、義経が出陣に際し、摂津国の軍勢を
ここに集結させたことがわかります。

この時、源頼朝から惣追捕使(そうついぶし)に任命されたのは、
摂津国中央部の水陸交通の要衝をおさえていた多田行綱と推測される。
(『源平の内乱と公武政権』)





京と山陽・山陰道方面への出入り口に当たる七条口は、丹波口とも呼ばれ
現在の七条千本付近にあり、旅籠や茶店などが並び賑わっていました。
今も千本から西の七条通りに面した辺りには、中央卸売市場や商店街が連なり、
賑やかだった七条口の往時の姿をとどめています。
老ノ坂峠
山陰道の老ノ坂峠は山城と丹波との国境、都の西境です。
この峠には源頼光が酒呑童子を退治し
鬼の首を埋めたという首塚大明神があります。
国境碑の脇の枯草に覆われて見えにくい道が
義経率いる騎馬武者が一ノ谷へと駆け抜けた山陰道です。



首塚大明神

ちなみに鎌倉幕府に叛旗をひるがえした足利尊氏が老ノ坂峠まで来た時、
一対の山鳩が白旗の上に飛来したのも、
明智光秀の軍勢が三手に分かれて夜陰亀山城(亀岡市)を出陣、
本能寺に向かった本隊が越えたのもこの峠であったと伝えられています。
那須与市堂 京都府亀岡市下矢田町東法楽寺


京都方面から国道9号線を亀岡に向かい「頼政塚」の信号を過ぎ、
さらに西に進むと府道6号線(高槻・茨木―亀岡と交差します。
この交差点を左折すると、右手に「那須与市堂」という案内板がたっています。

府道沿いに那須公園、そこからあぜ道を通り、
細い参道が続く法楽寺山の山麓に那須与市堂があります。


義経に従って一の谷に向かう那須与一は急病にかかり、この地にあった
法楽寺の本尊に病気回復を祈願すると たちまち回復したという。

屋島合戦で扇の的を射とめた功で与一は、武蔵国太田庄
(埼玉県行田市・羽生市)・丹波国五賀庄 (京都府船井郡日吉町)など
五ヶ所に領地を賜り、法楽寺を再興したと伝えられています。



那須与一供養塔









若宮神社 京都府亀岡市稗田野町佐伯出山地

那須与市堂から国道9号線に戻って西へ進み
途中、国道372号線(篠山方面に向かう)に入ります。
亀岡運動公園を過ぎて「稗田野神社」が見える交差点を左折します。
そこから細い道をまっすぐに進み、案内に従って右折すると、
義経が戦勝を祈願したという「若宮神社」の標識が見えてきます。









義経腰掛岩
若宮神社の鳥居からロープが張られた篠山街道(旧山陰道・丹波路)を
しばらく歩くと、
義経が腰をかけたといわれる「義経腰掛岩」があります。





三草山合戦(平家本陣跡)  
『アクセス』

「首塚大明神」老の坂トンネルの京都側入口横から左へ旧道を上ります。
T字路を左へ行き通行止め右手山側にあります。
国境の石碑はその手前右手にあります。
『参考資料』
「京都府の歴史散歩」(下)山川出版社 「京都府の地名」平凡社
 増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院 「京から丹波へ山陰古道」文理閣
川合康「日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」吉川弘文館
 元木泰雄「源義経」吉川弘文館 別冊歴史読本「源義経の謎」新人物往来社



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朝夷(比)奈切通し
鎌倉と横浜の六浦とを結ぶ峠道は、あまりにも早く完成したので、
武勇の誉れの高かった朝比奈三郎が一夜にして切り開いたといわれ、
三郎に因んで朝比奈切通と名づけられています。
実はこの道を作ったのは三代執権北条泰時で、
自ら陣頭指揮にあたり、土石を運び開削したもので、
大力で聞こえた巴とその子朝比奈三郎とが結びつけられた伝説です。


泉水橋バス停(鎌倉市十二所)から東へ行き、左の小道へ入ると明王院、
さらに200mほど東に進むと大江広元屋敷跡があります。
その屋敷跡から十二所バス停へ、
そこから道標に従って朝比奈切通しへ通じる旧道に入り、

太刀洗川に沿って上ると、この切通し入口付近の左手に
岩間から清水が流れ落ちています。

梶原景時が上総広常を討った太刀を洗ったという太刀洗水です。
更に進むと見えてくる小さな滝は朝比奈三郎に因んだ三郎の滝。
ここで道が分かれ、右に行くと果樹園へ、
左に行くと朝比(夷)奈切通をへて横浜市金沢区朝比奈に出ます。

泉水橋バス停から明王院

左手に見えるのが三郎の滝


三郎の滝から朝夷奈切通

国指定史跡 朝夷奈切通
朝夷奈切通は、いわゆる鎌倉七口の一つに数えられる切通で、
横浜市金沢区六浦へと通じる古道(現在の県道金沢・鎌倉線の前身)です。
鎌倉時代の六浦は、鎌倉の外港として都市鎌倉を支える重要拠点でした。
「吾妻鏡」には仁治2年(1241)に、幕府執権であった北条泰時の指揮もと、
六浦道の工事が行われた記事があり、これが造られた時期と考えられています。

その後、朝夷奈切通は何度も改修を受けて現代にいたっています。
丘陵部に残る大規模な切岸(人工的な崖)は切通道の構造を良く示しており、
周辺に残るやぐら(鎌倉時代の墓所)群、切岸・平場や納骨堂跡などの遺構と共に、
中世都市の周縁部の雰囲気を良好に伝えています。
平成21年3月 鎌倉市教育委員会






木曽義仲が討たれた粟津の戦いの後、
東国へ落ちた巴は、その後どのような人生を歩んだのでしょうか。
倶利伽羅合戦で、巴は義仲軍の大将の一人となり
数々の戦功を挙げたとされますが、
『平家物語』に巴が登場するのは
木曽義仲が討死する様を描いた『木曽の最期の事』の章段だけです。

平氏軍を破って都入りを果たした義仲ですが、僅か半年で
後白河法皇と対立し、法皇と手を結んだ鎌倉勢に追われます。
義仲は、信濃から巴、山吹という二人の美女を
都まで連れて来ていましたが、
落ちる時、山吹は病のため都に留まりました。


巴は色が白く、髪も長く、容貌はまことに美しく、しかも強弓を引き、
大太刀を振い、どんな荒馬も乗りこなす一騎当千の女武者でした。
戦となれば一方の大将に充てられ、度々の功名に肩を並べる者はなく、
義仲が手勢を減らしても討たれないで残っていました。
今井兼平と打出浜において再会した義仲は、残りの兵を集めさせ、
敵勢を駆け抜けるうちに、ついに5騎になりました。
その5騎の中にも巴はいました。
義仲は「お前は女であるからどこへでも落ちて行け。
義仲は討ち死にするか、さもなくば自害する覚悟である。
最後まで女を連れていたなどと言われるのは恥だからはやく去れ。」と
云われても落ちて行こうとはしませんでした。
しかし再三促され「では最後の戦をお目にかけましょう」と、
名高い大力、御田(恩田)八郎師重を見つけるや、
その馬にぴったりと自分の馬を並べ、やにわに御田を馬から引落とし、
たちまち首をねじ切って東国へ落ちて行ったのでした。
(『平家物語・木曽の最期の事』)

このように『平家物語』は巴を一人の女武者として描いているだけで、
義仲との関係やその素性、後日譚については、
何も語っていないためにいろいろな伝説が生まれました。
南北朝期に成立したといわれる『源平盛衰記』において、
巴の人物像は大幅に脚色され、
『平家物語』諸本にはみられない多くの話題を収めています。
そこで『巻35・巴関東下向の事』から、
巴の生い立ちやその末路をたずねてみましょう。

義仲都落ちの際に義仲を追って三条河原に駆けつけた畠山重忠は、
義仲方に萌黄糸縅(もえぎいとおどし)の鎧に、
葦毛の太く逞しい馬に乗り、射るのも強く、斬るのも早い
一人の武者が一陣に進んで戦う様を目にします。
驚いた重忠は、さてあの者は何者であろうか。と半沢六郎に尋ねると
「木曾殿の御乳父、中原兼遠の娘で樋口次郎や今井四郎の妹、巴です。
家では木曾殿の身辺の世話をして小姓のように仕えていますが、
実は木曾殿の愛妾。強弓の熟練者、荒馬乗りの上手。戦にでると
大将の一人となって活躍する恐ろしい女でございます。」と答えます。

「木曽の愛妾とは面白い。よし重忠が組んで捕虜にしてやろう。」と近づき、
巴の鎧の袖に取り付いて引っぱったため、袖の引き合いになりますが、
巴は重忠にかなわぬと思ったのか、馬に一鞭。
乗っていたのが春風という信濃第一の駿馬だったので、
一鞭当てるや鎧の袖は切れてしまい、巴は十間ばかり退いてしまいます。
重忠は「これは女ではない。鬼神の振る舞いだ。
このような者に矢を射かけられて
永代の恥を残すのもばからしい。」と兵を引きます。
なお、力じまんの畠山重忠には、宇治川合戦で、徒歩で川を渡った際、
馬を流されてつかまってきた烏帽子子の大串重親を
岸に投げあげたという逸話があります。

巴と別れの場面で義仲は
「信濃に残しておいた妻子に再び会わずに永遠の別れとなるのは悲しい。
義仲最期の有様を妻子に語り、後世を弔うよう伝えてくれ。」と言って
一人戦場から去らせます。
世の中が鎮まって後、巴は鎌倉に連れてこられ、処刑されるはずのところ、
和田義盛がこれを見て、容貌も美しいし、心は武士以上であるから、
あのような女によって、よい男子を儲けたいと思い、預かりたいと申し出ます。
頼朝は「油断できぬ女だ。義仲を滅ぼされたのを恨み、
隙を狙って何をするかわからない」と許しませんでしたが、
義盛はいろいろ申し立てて貰いうけます。
そして義盛の妻となって生んだのが、大豪傑の朝比奈三郎義秀です。

ちなみに、和田義盛は鎌倉幕府の侍所別当、
御家人統率機関の長という重要ポストを占める人物です。
のちに和田義盛は和田の乱を起こして北条氏に滅ぼされます。
この時、朝比奈三郎は比類ない働きをして見事討死。
その後、巴は越中国石黒(倶利伽羅峠の麓)に身を寄せ、
出家して木曽義仲、和田義盛、朝比奈三郎の菩提を弔い、
91歳で天寿を全うしたといいますが、実際は和田の乱の際し、
朝比奈三郎は、討たれることなく海上へ逃れ行方をくらましています。
以後、歴史上には現れません。
また朝比奈三郎を巴の子としていますが、
和田の乱の時、朝比奈三郎は38歳でしたから、
義仲の粟津合戦の頃は9歳ということになり、年齢が合わず、
盛衰記が語るこの物語を一概に信じることはできません。

水原一氏は『平家物語の世界(女武者と語り部)』の中で、
巴について次のように推測されています。
美女という語は、美しい女の他に別の意味があり、
武家で食事や主人の世話をする雑仕と同様の仕事をする女性のことで、
字は美女(びじょ)・便女(びんじょ)非上(びんじょう)とも書き、
巴は義仲の陣中に仕えた召使である。
『平家物語』の異本の中には、義仲が巴を小姓のように使い、
戦にも連れて行ったという描き方をしたものが幾つかある。
それが時代が下るにつれて、美貌の女将軍さらに中原兼遠の娘、
清水冠者義高の母にまでエスカレートしていったと考えられる。

また全国各地に巴塚や墓等の史跡が散らばり、巴伝説が見られるのは、
巫女とか瞽女(ごぜ)などと呼ばれる女性の語り部の存在があり、
彼女たちが巴を名乗って、各地を巡り
義仲の最期の模様を語り歩いたからだとし、
さらに『平家物語』諸本には「巴」としか記していないのに、
巴が巴御前という名で呼ばれるようになったのは、
盲目の語り部、瞽女(ごぜ)を起源とし、
「ごぜ」が「ごぜん」に変化したものではないか、と述べておられます。

中原兼遠の娘、今井四郎の妹、清水冠者義高の母という
一般によく知られている巴像は『源平盛衰記』から形づくられたものですが、
『平家物語の女たち』は、「美女」の語を
水原氏が述べられたように召使の女と解釈するなら、として
巴は中原兼遠の娘とするよりは、兼遠の親戚縁者の娘で、
兼遠の養女として義仲や樋口次郎、今井四郎とともに
幼少から養われた可能性が高いであろう。としています。

 『平家物語』諸本には「ともゑ」「鞆絵」「伴絵」等と表記するものもあり、
父親についても中原兼遠の娘とか孫など、諸説あって定まらないところから、
巴は架空の人物ではないかとも考えられています。
巴が実在の人物であったのか、それとも虚構であったのかは謎ですが、
どちらにしても、巴はいろいろな伝説を呼ぶような不思議な魅力をもち、
優れた女武者として絶大な人気を博したのでしょう。

『アクセス』
「朝比奈ハイキングコース」JR鎌倉駅東口から十二所方面行バス
泉水橋バス停下車3分-明王院-三郎の滝-朝比奈切通し-朝比奈バス停(距離約3㎞)
又は十二所バス停下車-朝比奈バス停(距離約2㎞)
『参考資料』

水原一「平家物語の世界」(下)放送ライブラリー 細川涼一「平家物語の女たち」講談社現代新書
水原一考定「新定源平盛衰記」(4)新人物往来社 「木曽義仲のすべて」新人物往来社 
新潮古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 「神奈川県の歴史散歩」(下)山川出版社

 



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山吹は木曽義仲が平氏追討の挙兵をした時、
巴と共に木曾から連れてきた女性です。
「木曽殿は、信濃より巴、山吹とて二人の美女を具せられたり。
山吹はいたわることありて、都にとどまりぬ。」と
『平家物語・巻九・木曽の最期の事』の章段に記されているだけで、
その後の山吹についての資料はなく、名前すら出てきません。
一方の巴は、色白く髪の長い美女であるばかりでなく、
一人当千の強さを誇る女将軍として、小督や祇王妓女などと並んで、
『平家物語』に描かれる最も有名な女性の一人となっています。
巴の前にすっかり影が薄くなった感のある山吹ですが、
伝承や浄瑠璃・歌舞伎からその足跡を辿ってみましょう。

JR大津駅の西側にかってあった秋岸寺は、
山吹御前終焉地と伝えられ、前回、
ここから
義仲寺に移された山吹供養塚をご覧いただきました。

三条京阪バスターミナルの南側の旧有済小学校にも山吹の塚があります。
義仲は落ち延びる時、六条河原から三条河原、
粟田口を経て山科から大津へ抜け、
山吹は病のため京に留めおかれたと『平家物語』が伝えていることから、
これに基づく伝承史跡と思われます。







『平家物語』の山吹は、義仲の妻や愛妾として記されていませんが、
天文4年(1739)に大坂竹本座で初演された
『ひらかな盛衰記』の中では、山吹は義仲との間に駒若丸をもうけ、
義仲の奥方として登場、義仲討死後は
大津で息絶える悲劇の女性として描かれています。
この内容を踏まえ山吹は伝承化され、
大津市秋岸寺の塚は築かれたのでしょう。

この演目は『源平盛衰記』を平仮名にしてわかりやすく脚色したもので、
「ひらかな」は「ひらがな」とよばれています。
源義経の木曽義仲討伐から一ノ谷合戦までを背景に、
義経軍功の陰に忠節や愛を貫く義仲の妻子や家臣たち、
戦いに巻きこまれた庶民の哀切を史実と
虚構を取混ぜて戯曲にしたものです。
ここで、
山吹御前と駒若丸の話を扱った
「大津旅籠屋の場」から「福島船頭権四郎住家の場」までの
あらすじをご紹介しておきます。
「大津旅籠屋(はたごや)の場」
義仲が粟津で討たれ、山吹御前と駒若丸、腰元のお筆、
義仲の家来鎌田隼人一行は、木曽をさして逃れる途中、
大津の清水屋という旅宿に泊まります。
そこで西国巡礼の旅をする権四郎と娘およし、
孫の槌松(つちまつ)という摂津福島の船頭一家と隣り合わせます。
その夜、山吹を追ってきた鎌倉方の番場忠太と捕手に襲われ、
あわてて逃げますが、混乱と暗闇の中で、
槌松と駒若丸が入れ替わります。鎌田隼人と槌松が殺され、
駒若丸も殺されたと思い込んだ山吹は悲嘆のあまり死んでしまいます。
残されたお筆は山吹御前の死骸を隠すために、
笹の枝の上に乗せてけんめいに引っぱります。

「福島船頭権四郎住家(すみか)の場」
今日は権四郎の娘およしの前夫の三回忌です。

先代の死後、権四郎の家に婿入りした男は「松右衛門」を名乗り、
正体を隠して船頭をしています。
前夫の子、槌松がこの前の旅で入れ替わってしまったのですが、
いつか本当の槌松が帰ってくるだろう、
その時、この子も無事にお返しできるようにと、
その子(駒若丸)を元の子供の名前のまま槌松と呼び、
大事に育てています。

権四郎は法事に集まった人々を前にして
大津の宿で夜襲に遭い、孫の槌松と相宿の子供を取り違えて
逃げて来たことなどを話しています。
そこへ槌松が身につけていた所書きをたよりに、
お筆が駒若丸を取り戻しにやってきます。
取り違えた子は大事な主君の若君だから返してほしい、
そっちの子供は死んだと告げると、
孫の帰りを今日か明日かと毎日待っていた権四郎は、
お筆の身勝手な言い分に、
預かっている子供(駒若丸)を殺してやると怒ります。
その子供が駒若丸と知って驚き、
そうまでしないで子供を返してあげよう、という
松右衛門ですが、舅は承知しません。

松右衛門は、しかたなく自分の正体を明かすことにします。
樋口次郎兼光、木曽四天王の一人であると名乗ります。
主君の敵をとるために義経が乗船する船の船頭となり
「逆櫓」の技術によって船を沈めようと企て、
権四郎一家の婿になったのです。

槌松は武将である自分の子であるから武士であるし、
槌松にとっても駒若丸は主君にあたるといい、
槌松がこんなりっぱな働きができたのも、
自分を婿として受け入れてくれた舅殿のおかげだと礼を言い、

ここは槌松の忠義に免じて、どうか怒りをおさめて、
駒若丸を返してやってほしいと頼みます。
しだいに権四郎の怒りも解けて改めて槌松の供養を行います。

義仲が生まれたという埼玉県比企郡嵐山町鎌形にある
班渓寺(はんけいじ)の境内にも、山吹の墓があります。
この寺では、義仲の嫡男義高の母は山吹といい、
義高の菩提を弔うために、
山吹がこの寺を創建したと伝えています。
『ひらかな盛衰記』からの影響を受け、
山吹が義仲の妻、義高の母として扱われたものと思われます。

また、愛媛県伊予市中山町佐礼谷にも山吹の塚があるとされています。
これは義仲が伊予の守に任ぜられたことに由来すると考えられていて、
地元の伝承によれば、義仲討死後、山吹御前とその従者は、
大阪から船に乗り、海路を伊予へと逃れますが、
山吹は心労と旅の疲れから病に伏して、
とうとう息絶えてしまい当地に葬られたとのことです。

 義仲が育った長野県木曽町日義には、
山吹は木曽川の背後の山、山吹山に住んでいたとか、
林昌寺には義仲の妻だったという話が伝えられています。
山吹山とともにこの周辺の木曽川に架かる橋には、
葵橋・巴橋・山吹橋と義仲にかかわりのある女性名がつけられています。
下記の記事をクリックして山吹山、班渓寺、林昌寺をご覧ください。

                                      木曽義仲の里 (徳音寺・南宮神社・旗挙八幡宮)
 
                                         大蔵合戦 (大蔵館跡・木曽義仲生誕地)

中原兼遠 林昌寺・手習天神  
 『アクセス』
「山吹御前の塚」京都市東山区大和大路通三条下ル東入ル若松町(元有済小学校内)
京阪電車「三条」駅下車 徒歩5分
有済小学校は統合により廃校となり、門は通常閉まっています。
(月・水・金・土 9~17:00)事前連絡 075(541)2151

 『参考資料』
「新版歌祭文・摂州合邦辻・ひらかな盛衰記」白水社 「木曽義仲のすべて」新人物往来社
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 「朝日将軍木曽義仲」日義村役場
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂 「義経ハンドブック」京都新聞出版センター

 

 

 



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