平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



六波羅邸堀跡出土のニュースがテレビや新聞などで報道されました。
遺構が見つかったのは、清水寺から1キロほど西方にある
京都市東山区の六波羅と呼ばれる地域で、ホテル建設に伴い民間の発掘調査会社が
昨年12月から調査を進め、平家一門の屋敷の一部とみられる堀の跡などが発見されました。



産経新聞2019年5月17日(金)朝刊
武家屋敷の防御用の堀跡が出土したと、民間調査会社「文化財サービス」が16日に発表した。
平家が拠点として整備した「六波羅(ろくはら)」と呼ばれる一帯にあり、
六波羅から平家に関連する遺構が見つかったのは初めてという。
現場は世界遺産・清水寺から西に約1キロの地点で、堀跡は幅3メートル、
深さ約1・3メートルの逆台形で東西約15メートルにわたる。
堀の南側を沿ったかたちで堤防状の土塁跡も出土。
堀の西側の約5メートルが土で埋められており、倒壊防止用の石垣が組まれていた。

石の積み方はほぼ同時期の白河天皇陵の石垣に類似しているという。
出土した土器や瓦などから、堀は平清盛の祖父、正盛が邸宅を構えるなど
六波羅に拠点を置いた12世紀前半に整備されたと推定される。
当時は世情が不安定で、平家一門を守る目的だったとみられる。
その後、清盛が政治の実権を握ったことで戦乱が治まり、
堀は13世紀前半に鎌倉幕府が朝廷の監視や西国の支配を目的に
「六波羅探題(たんだい)」を設けたころにはすべて埋め戻された。
 中井均・滋賀県立大学教授(日本考古学)は「堀は区画を示す考え方もあり、
武家屋敷を方形に囲む後世の手法につながった可能性もある」と話している。
現地説明会は19日午前10時から正午まで

六波羅から出土した平家が防御用に築いたとみられる堀と清盛時代に築かれた石垣。
堀跡の幅は3メートル深さ約1・3メートルですが、
深くなるほど狭くなっています。

5月19日に行われた現地説明会には参加できませんでしたが、
先日調査地付近を訪ねてきました。
調査地:東山区五条橋東4丁目450-1他(京都市役所文化財保護課新田氏に確認)



右手に見えるのは山科方面へ続く高架橋

五条通リに面しています。

平安京における平氏の拠点は、六波羅と西八条第(殿)に築かれました。

六波羅の地は、渋谷越(しぶたにごえ)から山科を経て東国や
伊勢平氏の本拠である伊勢・伊賀方面へ通じる交通・軍事の要地でした。
西八条第(現、梅小路公園南半部からJRの線路の位置)も、
西国への出入口である七条町(現、京都駅北側一帯)に接していました。
一ノ谷合戦の際に義経が摂津国の軍勢を七条口(丹波口)に集結させて出陣していることから、
西八条第も権門勢力の拠点にふさわしい地であったことがうかがえます。

六波羅・法住寺殿復元図(山田邦和作成の原図による)
『別冊太陽平清盛』より転載。


六波羅は平安京の葬送の地であった鳥辺野(とりべの)の入口に位置し、
五条大路末が清水寺へ通じていたこともあり信仰の場として発展し、
六波羅蜜寺・珍皇寺(ちんのうじ、ちんこうじ)・念仏寺などの寺院が立ち並び、
冥界への入口といわれました。

六波羅密寺旧境内の調査で、平安時代後期の瓦などが出土していますが、
六波羅での発掘調査は少なく、建物などの跡は見つかっていませんでした。

六波羅と平氏の関りは、天仁2年(1110)に清盛の祖父の正盛が
珍皇寺付近に邸宅を構え、仏堂(常光院)を建立したことに始まり、
一門の邸宅の所在は現存する町名から推定することができます。
多門町には、六波羅邸の東に向かって開かれた惣門があり、
門脇町には平教盛(のりもり)邸の門脇殿があったとされます。
三盛町(旧泉殿町)には、敷地内に常光院を取り込む形で清盛の泉殿がありました。
南方の池殿町には、清盛の継母池禅尼の邸宅池殿があり、
息子の池大納言頼盛に引き継がれました。
池殿は泉殿より規模が大きく、清盛の娘徳子が安徳天皇を出産したのもこの邸宅でした。
小松殿とよばれた重盛の邸は、小松谷の入口(現、東山区常磐町・馬町交差点辺)から
東にかけてあり、一門の邸宅の中では後白河院の法住寺殿に一番近いところにありました。
玉をみがき、金銀をちりばめて建設され、50棟もの建物があったという西八条第、
一族郎党の屋敷が5200余宇にもおよぶ平家の一大集落であった六波羅、
寿永2年(1183)7月の平氏都落ちに際して、どちらもすべて焼失してしまいました。
『参考資料』
京都市埋蔵文化財研究所監修「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン、2012年
高橋昌明編「別冊太陽平清盛」平凡社 、2011年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 



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渋谷重国は、桓武平氏の流れをくむ武蔵きっての大豪族秩父氏の一族です。
この秩父平氏からは、河越、畠山、小山田、稲毛、江戸、葛西、豊島など、
鎌倉幕府の下で活躍する豪族を輩出しています。

『畠山系図』などによると、渋谷重国の祖父基家は、多摩川河口の
武蔵国荏原郡(えばらぐん)を領有し、同郡河崎を拠点として
河崎冠者(六位の無冠の者)とよばれました。
多摩川はかつては暴れ多摩川と称され、度々水害を繰り返していたので、
基家は用水土木事業による堤防や土手を構築するなど
よほど大規模な治水工事を行ったものと考えられています。

その孫の重国は武蔵国荏原郡から相模国高座郡渋谷荘
(神奈川県綾瀬市・藤沢市・大和市)までを領して渋谷荘司となり、
「相模国の大名の内」と称される威勢を築きました。

佐々木秀義は源為義(頼朝の祖父)の娘を妻とし、平治の乱では義朝方として戦い
平家全盛の時代になってもそれに従わなかったため、相伝の土地である
佐々木荘(現、滋賀県安土町南部一帯)を没収されてしまいました。
仕方なく子供たちを連れて藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる途中、
相模国まで来たところを重国に引き止められ、
勧められるままそこに身を寄せ20年を過ごしました。
秀衡の妻と秀義の母は姉妹で、彼女たちは安倍宗任(むねとう)の娘だったのです。

重国は平治の乱では、源義朝軍に属して戦いましたが、
平家の世になるとそれに従っていました。(『相模武士団』)
平家の郎党であった重国が佐々木父子を自分の手もとに留めたのは、
秀義の勇敢な行動に感心したためといいます。

20年渋谷荘に滞在する間に秀義は重国の娘を娶って五男義清をもうけました。
息子たち(太郎定綱・次郎経高・三郎盛綱・四郎高綱)も逞しく成長し、
渋谷重国など東国の豪族の娘と結婚し、伊豆で流人生活を
送っている頼朝のもとに出入りしていました。
『吾妻鏡』治承4年8月9日条によると、京都から帰国した
大庭景親(かげちか)は佐々木秀義を招いて頼朝討伐の密事を話し、
秀義の息子たちが頼朝の味方にならないよう説得しました。
秀義の息佐々木五郎義清の妻が景親の娘(『源平盛衰記』では妹)だったので、
景親はこの情報を教えたようです。
驚いた秀義はそれを定綱に伝え伊豆の頼朝に知らせました。
都の状況の第一報を受けて頼朝は挙兵を急ぎ、佐々木兄弟は
伊豆国目代山木兼隆攻めの主力となって戦い、緒戦に勝利しました。

頼朝挙兵当時、相模国において最大の勢力をもっていたのは、
平氏権力と結んだ大庭景親でした。平治の乱後、大庭景義は伊豆の頼朝と通じ、
一方弟の景親は坂東八ヵ国一の名馬を献上するなどして
清盛に積極的に接近し、東国の後見を務めます。
景親だけでなく、保元の乱・平治の乱で源義朝に従った
相模国の武士の多くが、平治の乱後は平家に仕えていました。
大庭兄弟の仲たがいの原因は、長男でありながら
嫡子になれなかった平太景義の恨みや所領をめぐる
争いにあったのではないかと推測されています。(『相模武士団』)

頼朝からの誘いが来た時、大庭一族は集まり、大庭三郎景親と俣野(またの)景久が
平家方につき、平太景義(能)・景俊(かげとし)兄弟が源氏に味方し、
勝負は時の運であるから、どちらが勝利しても勝った方が負けた方を助けて
生きのびようと話し合ったという説話が『源平盛衰記』に記載されています。
(巻20・佐殿・大場勢汰への事)

また『同記』には、景親が平家に従属した理由として、昔囚人として捕えられ
斬刑となるところを平家に助けられ、東国の後見として引きたててもらった
恩義があるから平氏に与したと記されていますが、詳細は不明で
事実かどうかもわからないようです。(『鎌倉武士の実像』)

治承4年(1180)8月、山木兼隆を討ちとり相模国に進んだ頼朝軍は、
大庭景親の率いる平家軍に石橋山合戦で惨敗し、箱根山中を逃げまわりました。
合戦後に景親は渋谷重国のもとを訪れ、「佐々木兄弟を探し出すまでの間、
彼らの妻子を罪人として人質にせよ。」と命じました。
「定綱らは旧恩があるので源氏に味方したが、自分は孫の義清を連れて石橋山に
駆けつけ平家方に味方した。その功を考えてほしい。」ときっぱり断りました。
その夜、箱根山中に潜んでいた定綱・盛綱・高綱は
阿野全成(頼朝の異母弟・今若丸)を連れて重国の館へ帰ってきました。

醍醐寺に預けられ僧になっていた全成は、頼朝の挙兵を伝え聞き、
諸国修行の僧を装って都から駆けつけ箱根山で佐々木兄弟と行き会ったという。
重国は喜んで彼らを倉庫に匿ってもてなしました。
経高の姿が見えないので「経高は討死したのか」と重国が尋ねると、
「思うところがあるといって来ませんでした。」と答えます。
「頼朝側に加わるのを止めたことがあるが、その忠告を振り切って
参戦し敗れたので、恥じて帰ってこれないのではないかと思い、心配して
郎従らにあなたたちの行方を
探しに行かせていたのだ。」と言うと、
重国の情けに皆々が感じ入ったということです。

箱根山から土肥杉山(湯河原町)に逃げ込み洞窟に潜む頼朝主従
(『源頼朝』山川出版社より転載)
平家の総帥大庭景親にしたがっていた梶原景時(景親のいとこ)は、
戦いに敗れ山中の洞窟に身を隠していた頼朝を知りながら見逃しています。

相模国の豪族中村氏の一族で、土肥郷(現、神奈川県湯河原町 )を
本拠としていた「湯河原駅前の土肥実平館跡 」
頼朝はこの地域の地理に明るい実平に助けられ、
平家軍の追及をかわし安房に向かうことができました。


頼朝が安房へ船出した浜 真鶴岩海岸

石橋山で敗れて箱根山中にひそんでいた頼朝は、土肥実平(さねひら)に導かれ
真鶴岬から海上を安房に逃れました。そこで待っていた三浦一族と合流し、
勢力を拡大しながら破竹の勢いで房総半島を北上し鎌倉をめざしました。
頼朝上陸地鋸南町竜島

石橋山合戦の2ヶ月後、富士川の一戦で戦わずに勝利した頼朝は論功行賞を行い、
大庭景親はじめ降伏してきた平氏方の武士らの処分を決定しました。

大庭景親は藤沢市の南東部を流れる固瀬川(現、片瀬川)
あたりで討たれ、首をさらされましたが、
渋谷重国は罪に問われることはありませんでした。
『源平盛衰記』は、頼朝が景義に景親の斬首を命じたと語っています。
(巻23・頼朝鎌倉入り、勧賞附平家方人罪科の事)

その後、重国は頼朝に臣従して所領を安堵され、
息子の高重と共に御家人となっています。

平治の乱後、奥州に落ちのびる佐々木秀義を引き止めて保護し、
石橋山合戦の際も佐々木兄弟や阿野全成を匿うなど、平氏に仕える身の
重国が一貫して
源氏に尽くしたことを頼朝が評価したものと思われます。
石橋山古戦場(1)早川駅から石橋山古戦場を歩く  
『参考資料』  
関幸彦編「相模武士団」吉川弘文館、2017年
湯山学「相模武士(5)糟屋党・渋谷党」戎光祥出版、2012年 
湯山学「相模武士(1)鎌倉党」戎光祥出版、2010年 
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
  新定「源平盛衰記」(3)新人物往来社、1989年
野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館、2007年 
石井進「鎌倉武士の実像」平凡社、2002年
 高橋典幸「源頼朝」山川出版社、2010年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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長泉寺は山号を宗福山といい、曹洞宗(禅宗)の寺です。本尊は釈迦如来で、
開山は寛永11年(1634)に没した格雲守存(かくうんしゅそん)です。

かつてここには、渋谷氏の菩提寺と伝えられる
祖師山(そしざん)菩提寺という寺があり、金王丸の山とよばれる
背後の山には、渋谷金王丸(こんのうまる)の墓があるといわれています。

ご住職のお話によると、「昔はこの寺の裏山に金王丸のものと伝えられる墓があり、
満州事変(昭和6年)の頃、先々代の住職がこの墓を掘ったら甕に入った
人骨らしきものが出てきたので本堂に保管している。
綾瀬市教育委員会の当寺の金属製の説明板もあったが、
不届き者に壊され今はない。」とのことでした。

『長後誌史』には、金王丸(高重)は和田義盛の乱で義盛に与したため、
北条氏に攻められて討死し、その首は綾瀬市早川の
長泉寺境内に葬られたとの伝承を記しています。

『相模武士』より転載。墓碑の周囲には玉石が敷いてあり、
 市史だよりの説明には、大正から昭和初期にかけて撮影されたとあります















平治の乱で敗れた源義朝が東国めざして敗走した時、最後に残った悪源太義平以下
八騎の中に金王丸はいました。青墓宿の東を流れる杭瀬川を下り、
重代の家人長田忠致(ただむね)を頼って尾張の知多半島の先端、
野間内海にたった四人で辿りついた時も金王丸は義朝に従っていました。

義朝は舅にあたる熱田大宮司家を頼りたかったのでしょうが、
すでに東海道の道筋は平家の手が回っていると考えられます。
海へ出れば道が開けるというわけです。忠致は義朝の乳母子鎌田正清(政家)の
舅でもあったので義朝もここならばひとまず安心と気を許したのでしょう。
ところが、忠致は「ここで東国に逃がしたとて誰かに討たれるであろう。
人の手柄にするくらいならば、我々の手柄にしてたんまり恩賞をいただこう。」と
息子の景致(かげむね)と諮り、義朝を湯殿に誘い謀殺しました。
義朝の最後の言葉は「正清は候はぬか。金王丸はなきか」の一声だったといいます。
そのころ、忠致に酒を勧められ問われるままに、軍(いくさ)の様(平治の乱)を
語っていた正清は、義兄弟の景致に騙し討ちにされました。
金王丸は郎党らを討ち取り、主君の訃報を伝えるため急いで都に馳せかえり、
その後出家して全国を行脚し義朝の菩提を弔ったと『平治物語』は語っています。

この物語は琵琶法師などによってくり返し語られたり、
他の芸能の素材に使われたりして
民衆の中で永く生き続けた結果、新たな伝承や異説を生みだし、
その内容も諸本によってかなりの異同があります。

江戸時代になると、金王八幡宮の周辺にはさまざまな伝説が生まれ、
各地に金王丸にまつわる伝承や史跡が数多く残っています。

渋谷金王丸が長森城(現、岐阜県岐阜市切通)を築城し、
羽島市の寺田山渋谷院西方寺は、渋谷金王丸の三男祐俊が
親鸞に帰依し西円と号して以降、
それまでの天台宗から真宗に改めたとしています。

藤沢市下土棚字渋谷の里の善然寺は、渋谷金王丸誕生の地とし、
その守り本尊を今に伝えているとしています。

三重県鈴鹿市にあった光勝寺には金王松があり、そこから関町までの四里の道は
義朝が殺された野間内海から金王丸が都へ引き返した道とされ
金王道といわれていたという。

「今日、金王丸の墓をいわれるものが綾瀬市早川の、徳治2年(1307)の銘のある
板碑を筆頭に、静岡県引佐(いなさ)郡引佐町、愛知県、滋賀県、
岡山県、長野県と数えあげられる。金王丸が渋谷氏の出身とする伝承に従えば
綾瀬市早川のものは当然としても、他の各地に点在する墓は義朝の死を語り歩いた
自称金王丸たちの足跡を示していると思われなくもない。」
(『平治物語の成立と展開』)

『平家物語』の中で、俊寛の童有王は鬼界が島へ渡り、島で主人の死を見とったのち、
俊寛の娘にこれを知らせに帰ります。その後、高野山で出家し、
諸国七道修行をしつつ主の後世を弔いました。

水原一氏は「有王の語り部の公式というものが金王丸の上にも見られ、金王丸は
義朝最期の物語を語った語り部の一人であった。」と言いきっておられます。
(『保元・平治物語の世界』)

「九州地方を中心に長門・四国・北陸などに俊寛の墓と伝える遺跡が
数多くあり
伝説の内容は少しずつ異なるが、鬼界が島の俊寛の話が
各地に伝えられているという。それは一人では
とても残しきれない数なので、有王と名のる語り手が複数存在し
旅の先々で多くの人々に俊寛の最期を語り歩いた。」
柳田國男『有王と俊寛僧都』)
それが金王丸にも見られるというのです。
金王八幡宮(源義朝の童渋谷金王丸)
『アクセス』
「長泉寺」綾瀬市早川3146 相鉄海老名駅から徒歩約20分

『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
日下力「平治物語の成立と展開」汲古書院、1997年 
日下力「古典講読シリーズ 平治物語」岩波書店、1992年
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
湯山学「相模武士(5)糟屋党・渋谷党」戎光祥出版、2012年
「柳田國男全集(9)」(物語と語り物)ちくま文庫、1990年

 



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