平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




田中殿は鳥羽殿に最後に造営された御所で、
東殿の西側の「田中」とよばれた場所にありました。
治承3年(1179)の政変(清盛のクーデター)では、
平清盛により後白河院がこの御所に幽閉されました。
 
「田中殿之跡」碑の背面
由緒
十二世紀半に造営された田中殿には 保元の乱直前に崇徳上皇がおられ
白河北殿へうつって源平二氏争乱の幕は切っておとされた
殿はもともと八条院暲子内親王の御所として鳥羽法皇がつくられ
中に御堂が附属していた 昭和五十三年五月
竹田史跡保存会

鳥羽殿は白河天皇が譲位後の御所として建てたもので、総面積180万平方メートルという
広大なもので、院御所はじめ、皇族・貴族たちの邸宅が多く営まれました。
その一角にあった田中殿は鳥羽法皇の皇女八条院暲子内親王の
御所で、
周囲は池に囲まれ舟つき場や
西には寝殿、東には金剛心院などがありました。

現在、田中殿があった辺りは整備されて田中殿公園となっています。

崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子で、母は待賢門院璋子です。
祖父白河法皇の意向により、鳥羽天皇は崇徳天皇に譲位して上皇となります。
それから数年後、法皇が77歳で亡くなると、
鳥羽上皇は崇徳天皇を無理やり
譲位させ、天皇の異母弟の近衛天皇(鳥羽上皇と美福門院の子)を即位させます。
病弱な近衛天皇が17歳の若さで亡くなると、鳥羽上皇は崇徳の意向を無視し、
第四皇子の後白河天皇(崇徳新院の同母弟)を即位させました。近衛天皇の崩御に伴い、
わが子重仁親王を次の天皇にと新院が望んだのは当然のことです。
それが完全に裏切られたため、新院と後白河天皇との間には新たな確執が生じました。

説話集『古事談』には、崇徳天皇は鳥羽上皇の皇子ではなく、
待賢門院が白河法皇と密通してできた法皇の子である。と
天皇の出生の秘密が書かれています。
鳥羽上皇もそのことを知っていて、叔父子とよんで崇徳天皇を嫌っていたといいます。

後白河天皇が即位して一年後の保元元年(1156)、鳥羽上皇が重病にかかると、
事態は一気に加速し、信西や美福門院・関白藤原忠通らが源義朝・平清盛らの
有力武士を動員して、鳥羽離宮や内裏の警護にあたらせました。上皇は自分が死んだら

天下が乱れるであろうと予言しながら、安楽寿院で崩御しました。54歳でした。

安楽寿院は、鳥羽法皇の御願によって、院御所鳥羽東殿に付属して
建立
された寺院で、御殿と寺院が一体となっていました。

崇徳新院は鳥羽上皇の危篤を聞いて安楽寿院に駆けつけますが、対面は
かないませんでした。
自身の死顔を崇徳に絶対見せないよう上皇は遺言したという。
怒った新院は田中殿に引き返し、7日程とどまりますが、寵妃兵衛佐(重仁親王の母)の
知らせで危険を感じ、
田中殿を脱出して白河北殿に移ります。
新院に味方したのは、義朝の父の為義、弟の為朝らと清盛の叔父忠正でした。
後白河天皇方は先手をとり白河北殿に夜襲をしかけ、
ここに保元の乱の戦いの火ぶたがきられました。


皇位をめぐって崇徳新院と後白河天皇の対立、摂関家内部の権力争い、これに源氏、
平氏も父子、兄弟が双方に分かれて戦った結果、勝利したのは後白河天皇方でした。
戦いに敗れた崇徳新院は出家し、弟の覚性法親王を頼って仁和寺に入りますが
断わられ、仕方なく寛遍(かくへん)法務の旧房に入り、源重成の監視下に置かれました。

後白河天皇方の兵に囲まれた仁和寺の新院のもとに、西行が身の危険も顧みず
駆けつけています。西行と新院は1才違い、和歌を通じて心を通わせる親しい間柄でした。
保元の乱の10日後には、新院は鳥羽の草津の湊から、粗末な舟で讃岐へ流されました。
重仁の母・兵衛佐局らとともに八年あまりの月日をそこで過ごし、
二度と都の地をふむことなく46年の生涯を終えました。
「保元の乱ゆかりの地」(1)白河北殿
『アクセス』
「安楽寿院」 京都市伏見区竹田中内畑町地下鉄・近鉄電車竹田駅下車南西へ徒歩7、8分
 「田中殿」 (田中殿公園内)地下鉄・近鉄電車竹田駅下車
『参考資料』

村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂 
「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館 「西行のすべて」 新人物往来社
 石田孝喜「京都史跡事典」 新人物往来社 「京都府の歴史散歩(中)」山川出版社
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 
「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン





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祇園甲部歌舞練場の裏側に崇徳天皇の廟所があります。
崇徳天皇の怨霊をなだめるため、後白河上皇は保元の乱の戦場となった
白河北殿(現、左京区聖護院川原町)に崇徳院粟田宮を創始しましたが、
この宮は応仁の乱に罹災し、室町時代、後土御門天皇が
祇園万寿小路の現在地に祀りました。


この地に祀られた理由は明らかではありませんが、
それについて阿波内侍の伝説があります。

『山州名跡誌・巻1』によれば、天皇の寵妃の一人阿波内侍が天皇の崩御後、
その霊が夜毎、光ものとなって現れるので出家し、仏種尼(ぶっしゅに)と名のり、
自邸内に仏堂を建てて天皇の菩提を弔ったのが始まりといわれ、

人々はこれを光堂と呼んだとしています。その後、
鎌倉時代に大円法師が観勝寺光明院を建てたという。
応仁の乱後、寺は荒廃しましたが、江戸時代に蓮華光院と称する
門跡寺院が太秦の安井から移ってきて観勝寺を再興し、
御廟は観勝寺の子院の万寿山蓮乗院が管理していました。
明治維新後、廃仏毀釈の激しい嵐が吹き荒れ、
すべて廃寺となり御廟だけが残りました。

また『愚管抄』によると、保元の乱で敗れ、讃岐に配流された天皇の崩御後、

天皇の寵妃烏丸殿が綾小路河原(祇園町南側)の自邸内に
天皇の御影堂を建て菩提を弔ったという。
烏丸殿と阿波内侍は同一人物なのか別人なのかはわかりませんが、
どちらにしても祇園町南側の地には、
崇徳天皇ゆかりの女性が住んでおられたようです。


祇園の歌舞練場の裏庭には古塚があり、

墳丘の上に阿波内侍の石造五輪塔があります。(『京の墓碑めぐり』)

『昭和京都名所図会』によると、阿波内侍は知足院公種(きんたね)の娘で、

天皇の崩御後、仏門に入り仏種尼と称しました。

知足院公種という人物については不詳。
安井金比羅宮(崇徳天皇)  


いつ通っても崇徳天皇廟の周辺はきれいに掃き清められ静かな一角です。
ところが’07・2月に近くを通りかかると、トラックが停車し土を掘る大きな音がします。

「崇徳天皇御廟所」と刻んだ大小二基の石碑が見えます。





その後、この御廟が気になり再び同年6月にたずねてみると、
立派に再建されていました。
現在、崇徳天皇の月命日に白峯神宮の神職によって祭祀が行われています。

保元の乱に敗れた崇徳新院は讃岐に配流され、寵妃兵衛佐局(重仁親王の母)らとともに
九年の歳月をそこで過ごし、二度と都の地を踏むことなく四十六年の生涯を終えました。
兵衛佐局は法勝寺執行信縁の娘で、のち大蔵卿源行宗の養女となっています。
『保元物語』によると、「
配流地で新院は指を切りその血を混ぜた墨で、
五部大乗経の写経を行いました。完成した写本を都に送り、
京に近い八幡か鳥羽の安楽寿院に納めてほしいと嘆願しましたが、
信西の指図で後白河天皇はこれを拒否し、写本は送り返されてきました。
これに激怒した新院は天狗の姿となり、日本国の大悪魔となり、
天皇家を民とし民を皇にする。と誓い、自身の舌を噛み切った血で
写本に署名し海底深く沈めた。」という。
後世の人々は戦乱や天災が起こる度に、崇徳新院の祟りとして恐れました。
醍醐の一言寺(阿波内侍)  
白峯神宮 (崇徳天皇)  崇徳天皇(白峯御陵)  
崇徳天皇(白峯寺)  
『アクセス』
「崇徳天皇廟」 京都市東山区祇園町南側
      市バス「東山安井」下車徒歩2、3分、又は「祇園」下車徒歩5分
『参考資料』
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂 
竹村俊則「京の墓碑めぐり」京都新聞社 竹田恒泰「怨霊になった天皇」小学館文庫

 

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法金剛院の表門を出て、西側のゆるやかな坂道を5、6分上ると
法金剛院の背後に鳥羽天皇中宮待賢門院璋子の御陵があります。



鳥羽天皇皇后璋子花園西陵

宮中での華やかな生活、愛と憎しみ何もかもが終り静かに眠る待賢門院

璋子は17歳で入内し、崇徳・後白河両天皇を生みました。
入内前は鳥羽天皇の祖父白河法皇の養女として育てられたので、

崇徳天皇は法皇の子であるという噂がありました。
法皇は鳥羽天皇をむりやり退位させて上皇とし、5歳の崇徳天皇を即位させます。
天皇の母となった待賢門院璋子は、朝廷内での地位は盤石のものになります。

その後、鳥羽天皇との間に生まれた通仁親王、君仁親王は幼くして亡くなり、
25歳で生んだのが後に激動の時代を生き抜き、辣腕をふるう後白河天皇です。


白河法皇が崩御し、後ろ盾を失ってしまった待賢門院璋子に、
鳥羽上皇は若い美福門院を入内させます。
そして美福門院が生んだ近衛天皇を即位させると、
叔父子といって嫌っていた崇徳天皇を退位させました。
美福門院が皇后となり天皇の母になると、情勢は一変し美福門院の勢力が強まり、
待賢門院璋子、美福門院得子の女同士の闘いが熾烈になっていきます。

晩年、待賢門院は
法金剛院を建立し、しばしばこの寺で過ごしています。
ついにわが子仁和寺覚性法親王(鳥羽天皇第5皇子)の手出家落飾し、
その3年後、三条高倉第に於いて45歳でその生涯を終えました。

待賢門院かくれさせ給うて後、法金剛院におはして、
昔の御あと哀れに見給ひける折しも、郭公の鳴きければ
♪ふる里を見にこざりせば時鳥 だれと昔を恋ひて鳴かまし(出観集、夏)覚性法親王
(母上がお住みになった懐かしいこの寺に今日私が来なかったら時鳥よ、

おまえは誰と昔を恋しがりながら鳴いただろうか。)
法金剛院 (待賢門院璋子)  
『アクセス』
「待賢門院陵」 京都市右京区花園扇野町 JR花園下車徒歩12分位
『参考資料』
 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 「平安時代史事典」角川書店
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂

 

 






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仁安3年(1168)に、後白河法皇は、高野山に参詣される途中、
とくにこのあたりの景色を好まれ、

生母・待賢門院の菩提のためにこの寺を創建されました。
寺の名前は「母后報恩」の意味がこめられています。


往時は12の坊舎を有する大伽藍で、代々住職は皇女が勤める
尼寺でしたが、淀川の洪水や兵乱などでしだいに勢いが衰え、
一時は荒れ寺となっていたこともありました。
寺宝として後白河法皇と待賢門院の画像のほか、
享保4年(1719)の略縁起などがあります。


法皇山母恩寺はかすがえ公園の傍、閑静な住宅街の一画にあります。



後白河天皇(雅仁親王)は、鳥羽天皇の四男で四宮ともよばれ、
皇位継承の枠外にいたため、青年期は母待賢門院璋子の御所に出入りして
今様等の芸能に熱中し、気ままに暮らしていたようです。

待賢門院璋子は鳥羽天皇の中宮で、崇徳天皇後白河天皇、上西門院の母です。
女院は鳥羽上皇の寵が美福門院に傾くと、法金剛院で出家(42歳)し、
久安元年(
1145三条高倉第で亡くなります、まだ40代の半ばでした。

母の死後塞ぎがちだった雅仁親王(後白河天皇)は、兄の崇徳上皇に招かれ
上皇の御所で暮らし、夜毎今様三昧に明け暮れたといいます。
『アクセス』
「母恩寺」 大阪市都島区都島本通1-20-22
大阪市営地下鉄谷町線「都島」下車 徒歩約5分

 


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待賢門院璋子は、保元の乱で敵味方に分かれて戦った
崇徳天皇と後白河天皇そして上西門院統子などの生母です。
璋子は藤原公実(きんざね)の娘として生まれ、
幼い頃に白河法皇の養女として迎えられました。
17歳で
法皇の孫である鳥羽天皇の後宮に入り、崇徳天皇を生みましたが、
生まれた子は実は白河法皇の子という噂があったため、
鳥羽天皇は崇徳天皇を疎んじ、
叔父子とよんでいたと『古事談』にあります。
白河法皇は鳥羽天皇を強引に退位させて上皇とし、僅か5歳の崇徳天皇を
即位させました。しかし白河法皇が崩御すると情勢は一変しました。

鳥羽上皇は美福門院得子との間に儲けた体仁(なりひと)親王を天皇にするため、
祖父(白河上皇)の子と噂のある崇徳天皇に強く譲位を迫りました。
このことが保元の乱の一因とされています。
上皇の寵が若い美福門院得子に傾くと、待賢門院は法金剛院を再興し、
わが子仁和寺の覚性法親王(かくしょうほっしんのう)の手で落飾、
出家(42歳)し、晩年はこの寺で過ごすことが多くなりました。。
法金剛院表門

鐘楼
法金剛院は、平安時代のはじめ、右大臣夏原清野の山荘があった所に、
鳥羽天皇の中宮、待賢門院璋子が平安時代末に再興したものです。
もとの寺域は広大なもので、双丘や北山を借景にし自然の池を利用した池、
広い苑池を中心に西に西御堂、東に女院の御所、南には南御堂、北斗堂、
三重塔、経蔵等の建物があり、川の水を引いて滝を造り、
境内は壮麗なものだったようです。

今はJR山陰線に南北に分断され、境内は北部のみとなってしまい
池の北にある「青女(せいじょ)の滝」だけが、創建当初唯一の遺構です。
1970年改修工事が行われ、埋没していた滝の石組を掘り起こし、
滝水を引いて遣水(やりみず)をつくり、池に注ぐよう改修されました。

青女の滝
ある時、待賢門院は滝をご覧になり、滝の高さが思ったより低かったので
もう5、6尺高くするよう造園の名手静意に命じられ13尺におよぶ
壮大な滝とされたという思い入れの深い滝です。
池泉回遊式庭園
当時の池は舟を用いて行き来するほど広大なものでした。

礼堂
春は早咲きの待賢門院桜、うす紅のしだれ桜が池畔を彩ります。

仏足石

待賢門院璋子は歌人とも交流を多く持ち、また仕えた女房には
才媛が多く待賢門院堀河もその一人です。
♪長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
 は百人一首の女流作品中の傑作の一つと云われています

待賢門院堀川は崇徳院、西行とも和歌の交流があり、
特に西行法師とは親しくしていました。

 待賢門院璋子崩御後、法金剛院に待賢門院の娘
上西門院統子をたずねた西行は、
この院の紅葉を鑑賞し 
もみじみて 君が袂や 時雨るらん むかしの秋の 色をしたひて(山家集)
 と詠んでいます。

待賢門院璋子生前の華やかな頃を感慨にふけりながら、
上西門院統子と思い出話でもしていたのでしょうか。

西行の年齢は璋子よりずっと下ですが、
美貌の待賢門院璋子を深く慕っていたといわれています。
待賢門院璋子花園西陵  
後白河法皇が母の供養のために建てた寺院 母恩寺(後白河法皇)  
『アクセス』
「法金剛院」 京都市右京区花園扇野町49 JR花園駅下車徒歩5分
『参考資料』
井上満郎「平安京の風景」 文英堂
村井康彦 「平家物語の世界」徳間書店 「日本古典文学大事典」明治書院
竹村俊則 「昭和京都名所図会」(洛西)駿々堂 「日本人名大事典」(3)平凡社

 
 

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有王は法勝寺の法師だった兄二人とともに俊寛に仕えた童です。
鹿ケ谷の陰謀で鬼界が島へ流罪となった3人のうち、
藤原成経と平康頼は赦され帰京しましたが、俊寛だけ戻らないので
心配した有王は
両親にも告げず、ひとり鬼界が島に渡る決心をします。

奈良の叔母のもとに暮らす俊寛の娘を訪ねて手紙を預かり、
途中追いはぎにあったりしながらも、手紙だけは髪を束ねた中に
隠すなど苦労を重ねて
やっと島にたどり着きました。

島の人に俊寛の行方を聞いても誰も知らないと言う。ある朝、
磯のほうからふらふらと歩いてくる痩せ衰えた俊寛にめぐりあうと、

藤原成経、平康頼が去り一人残された俊寛は漁師に魚をもらい、
貝や海草を拾って生き長らえてきた
辛い日々を語り始めます。
その住まいはといえば、雨露も凌げそうにないあばら家でした。


有王は娘からの手紙を見せ、「北の方さまとお子様は鞍馬の奥に逃れ、
そこで人目を忍んでお暮らしになっておられたので
有王がときどき行ってお世話をしてきましたが、ご子息
に続いて
北の方さまもついに旅立たれてしまいました。」と語ると、

「妻子に会いたいがために恥を忍んで生き延びてきたのに…」と
娘のことを気遣いながらも、
生きる気力をすっかり失くしてしまい、
可愛がっていた有王に看取られながら死のうと決意しました。 


もともと満足なものとはいえない食事をその日から止めてしまい、
ただひたすら阿弥陀の名号を唱えながら三十七歳の生涯を終えます。
それは有王が島に渡ってきて二十三日目、配流後三年のことでした。

有王は泣き明かし、それから俊寛を荼毘に付し、急いで都に戻り
俊寛の娘のところに行って鬼界ヶ島での一部始終を語りました。
娘は嘆き悲しみ十二歳で出家し、
奈良の尼寺法華寺に入り父母の後生を弔いました。 


有王はその後、俊寛の遺骨を首にかけて高野山へ上り奥院に納め、
蓮華谷の法師となり、諸国行脚して主の後世を弔いました。
「かくのごとく、人の嘆きをどんどん積み重ねて行く
平家の世の行く末が恐ろしく思われる。」と物語は語っています。

俊寛の娘が出家した法華寺
法華寺南門(国重文)

本堂(国重文)



袴腰付きの鐘楼(国重文)

 高野山奥の院入り口辺に高野聖の拠点、蓮華谷があり
高野聖は高野信仰を広める役割を担っていました。
高野山への納骨が盛んであったのは空海の入定信仰によりますが、
万寿三年(1026)正月、上東門院(一条天皇の中宮)が落飾と同時に、
髪を奥の院の御廟前に納めたのが最初だとされています。
鞍馬の奥にある大悲山峰定寺
 大悲山峰定寺 (俊寛僧都供養塔) 
 高野山蓮華谷高野聖(俊寛と有王)  
『アクセス』
「法華寺」 奈良市法華寺町882
 近鉄電車 新大宮駅徒歩20分 
近鉄電車 奈良駅よりバス 自衛隊前、西大寺北口行「法華寺前」下車3分
『参考資料』
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 「奈良県の歴史散歩」(上)山川出版社
 「源平合戦事典」吉川弘文館 日下力「平家物語を知る事典」東京堂出版

 


 
 




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