平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




志度合戦の史跡が「松ヶ崎義経十二本松」として、志度浜に残っています。
昔は十二本あったという松も今は数本残すだけです。

志度寺を出て東へ進みます。







松ヶ崎義経十二本松
讃岐路の源平合戦、九郎判官義経ゆかりの十二本松である。
三代物語に「松ヶ崎十二本松志度にあり。十二本松に白鷺の群集まるを見て
源氏の白旗なりとし、すなわち西へ走る」と、また志度寺蔵書に「義経公、阿波勝浦より
兵十二騎を引率してここに帷幕を張り、帳策をめぐらす。」と書かれ、
一騎ごとに一本の松を植えたと伝えられているがさだかではない。
寿永四年二月二十一日、屋島の戦に敗れた平家の軍勢が志度浦に上陸し、
反撃の態勢をとったが追撃してきた九郎判官義経軍と、志度寺周辺から松ヶ崎にかけて、
くりひろげた激戦にも敗れ、幼帝安徳天皇を奉じ、平宗盛以下平家一族が
壇ノ浦の運命を知るや知らずや志度浦を後ろに西国に落ちていったのである。
さぬき市 さぬき市観光協会(現地説明板)





志度湾から望む屋島、その右の五剣山中腹には源氏ヶ峰が見えます。
源氏ヶ峰には、ここに上って義経が平家の様子を見張っていたとか、
見張りを立てたなどという伝説があります。

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『アクセス』
「松ヶ崎義経12本松」
さぬき市志度1168-1  JR、ことでん志度駅より徒歩約15分

 

 



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文治元年(1185)2月、屋島の陣を捨て志度湾に軍船を移した平家軍は、
志度道場(現、志度寺)に陣を布き、源氏勢と志度道場(現、志度寺)から
志度湾にかけて戦いを繰り広げましたが、船をもたない源氏軍は、
海上の平氏に決定的な打撃を与えることができませんでした。


平家は伊予攻めに行っていた田内教能3000騎を待っていましたが、
教能は屋島へ帰る途中、源氏の調略にかかって降伏してしまいました。
頼みの綱を絶たれた平家一門は、
瀬戸内海を転々としながら長門国彦島へ落ちていきます。
『平家物語』は、「讃岐の志度を出で給ひて、船にこみ乗り、風にまかせ、
潮に引かれて、
いづくいともなくゆられ行くこそ悲しけれ」と綴っています。
志度合戦(田内教能降伏)  


駅前の国道を横切って北へ進み、志度合戦の時、
平氏が陣を布いた志度寺に向かいます。


やがて寺町通りと交差します。

平家が籠った志度寺は志度湾に面した志度の東にあり、
四国霊場第八十六番札所として知られています。

信濃の戸隠、駿河の富士、土佐の室生門とともに讃岐の志度道場とこそ聞け。と
『梁塵秘抄』に謡われ、平安末期には都にも聞こえた観音霊場でした。


寺伝によると、推古天皇の時代(7C初期)開基とし、その後、藤原不比等が妻の墓を建立し

「死度道場」と命名、その息子房前の時に堂宇を拡張したとしています。
しかし、寺地や伽藍配置などから実際は平安時代初期の創建とされています。
屋島源平合戦で戦死した佐藤継信の経供養の僧を当寺から招いたという伝承があります。

志度は平賀源内が育った町です。
志度寺の塔頭の一つ、常楽寺の境内平賀源内の墓があります


寺域は広大で約1万坪もあります。


高松初代藩主高松頼重寄進の仁王門(重要文化財)

高松初代藩主高松頼重寄進の本堂(重要文化財)

大師堂は
巡礼者があげるお線香で煙っています。

志度寺は伝説に彩られた古刹です。

木々に覆われた20基の五輪塔は、海女の墓と伝えられていますが、
高い丸太で囲まれ立ち入ることができません。





志度寺参拝の折に詠んだ高浜年尾の句碑 ♪盆に来て 海女をとむらふ 心あり
「高浜年尾(1900~79)は虚子の長男。年尾は正岡子規が名づけた本名です。
この句は昭和27年9月5日(旧盆16日)志度寺参拝のおり詠んだもの。」
(現地説明板より抜粋しました。)
藤戸合戦古戦場でも高浜年尾は
 ♪経ケ島  秋の下闇  深かりし   と詠んでいます。
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『アクセス』
「志度寺」さぬき市志度町志度1102 

ことでん志度駅、JR高徳線志度駅下車徒歩7、8分
『参考資料』
「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 「香川県の地名」平凡社、1989年
 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
「四国八十八ヶ所Ⅱ」小学館、2002年





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都落ちした平家一門は一旦、大宰府まで落ちのびましたが、
緒方惟義(これよし)に九州を追われ、西海を漂っていたところを、
平家が頼りにしていた阿波最大の豪族
阿波民部重能(しげよし)のはからいで、屋島に陣を布きました。

文治元年(1185)2月の屋島合戦で、平家軍は陸地から攻撃という
予想外の義経の奇襲攻撃に屋島の内裏を捨て海上に逃れました。
敵は瀬戸内海から攻めてくると思い込んでいた平家は、
入り江に兵船を停泊させて、海からの攻撃に備えていたのですが、
それを義経は見事に欺きました。
水軍をもたない源氏軍は、屋島を攻撃するのに海上正面より向かわず、
屋島背後に回り込み、急襲する方法を選んだのです。
平家が敗れた原因の一つは、平家を支えていた阿波重能の軍勢の
多くが重能の息子・田内(でんない)左衛門教能(のりよし)に
率いられて伊予攻めに行っていて留守だったことです。

平家が屋島で敗れたと聞くと、平家側についていた
瀬戸内海周辺の豪族たちは、こぞって源氏軍に寝返ります。

屋島を敗退した平家は、五剣山の岬を東にまわって志度浦に上陸し、
讃岐国の志度道場(現、志度寺)に籠りました。
要請に応じない伊予(愛媛県)の河野通信を攻めに行っている
田内左衛門教能の主力部隊3000余騎がもう戻ってくるはずですから、
源氏を志度浦に誘い込み海と陸の双方から包囲する作戦です。

平家を追って源氏軍は80騎の兵を率いて志度浦に至り攻めかかりますが、
平家はこれを見て「敵は小勢だ。討ち取れ」と1,000余人が攻め戦いました。
そのうち源氏勢200余騎が駆けつけてくると、後詰めに大軍が続いてくるとみて、
平家は再び海上に出て彦島へ退きました。

当時、知盛(清盛の4男)は一の谷合戦後、長門の彦島に砦を構え、
平家勢は東の屋島と西の長門に二分されていました。
一の谷で惨敗したものの、
屋島と関門海峡を押え瀬戸内海の東西を掌握する限り、
平氏に勝機はあると知盛は踏んでいたのです。

志度浦で首実検をした義経は、田内教能軍が戻ってくれば、
兵力の点でこれとまともに戦えないと考え、
阿波民部(田口)重能が壇ノ浦の戦いで平家を裏切り、
結果的に源氏勝利の一因となるある作戦を立て、
郎党に策を授け教能の許に遣わしました。

これを『平家物語』は、次のように語っています。
義経は「教能が今日あたり志度浦に到着するはずである。
その軍勢をなんとかしろ。」と口達者な伊勢三郎義盛に命じたのです。

義盛は白旗を掲げ、たった16騎を引連れ、しかも丸腰で3000騎の
教能軍に乗り込みました。「すでにお聞きおよびでございましょうが、
昨日、屋島の平家の陣は判官(義経)殿によって陥落しました。

安徳天皇は入水、宗盛殿は捕虜、能登殿はご自害なさいました。
あなたの父阿波民部重能殿は義盛がお預かりしております。」などと
嘘ばかり並べ立てて降伏を迫ったので、教能はまんまと騙され、
3000余騎の兵とともに兜を脱ぎ弓の弦をはずして
義経の軍門に下りました。教能がいとも簡単に騙されたのは、
屋島での戦況をうすうす知っていたからだと思われます。

こうして、義盛は持ち前の度胸と弁舌をふるい田内教能の
軍勢を戦わずして捕虜にしてしまったというわけです。

『吾妻鏡』文治元年2月21日条には、平家は讃岐国志度道場に
引き籠り、義経は80騎の兵を率いてこれを攻め、
平氏の家人田内教能が義経に帰服したこと、伊予水軍の河野通信が
30艘の兵船を率いて源氏に与したこと、熊野別当湛増も源氏に
味方するため渡海するとの噂が、京都中に流れたことが記されています。

この記事から、志度道場に陣を布いて復活のシナリオを描いていた平家は、
熊野水軍・伊予水軍などの有力水軍が源氏に加わったという情報や
田内教能の降伏に自信を失い、とても勝ち目はないと判断し、
志度浦から兵を引き、知盛勢と合流しようと
海上を西へ向かって敗走していったようです。
志度寺(志度合戦ゆかりの地)  
松ヶ崎義経12本松(志度合戦ゆかりの地) 
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『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年 現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年 
佐藤和夫「海と水軍の日本史」(上巻)原書房、1995年 安田元久「源義経」新人物往来社、2004年
 角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫、2001年






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五剣山の西の麓の小さな入江を船かくしとよびます。
平家が敵に見えないように船を停泊させていたというのがその名の謂れです。
また、平氏の猛将能登守教経にちなんで能登守の船隠しともいいます。

九州を追われ屋島に落ち着いた平家は、源氏軍が海上から攻め寄せると予想し、
庵治浦の島陰に兵船を隠していました。敵がこの入江に進入してきたら、
周囲から取り囲むつもりです。
当時、屋島は瀬戸内海のひとつの島で、
流されてきた土砂が堆積して洲ができ檀ノ浦の入江には大船が通れませんでしたから、
ここに水軍の本隊を置いていたのです。

牟礼町から県道36号線を北の庵治半島に向かうと、
「舟かくし」バス停の傍に説明板がたっています。

バス停から海岸に下りると平家船かくしがあります。

船かくしは庵治湾にいくつもあり、ここはそのひとつとされています。
一の谷合戦・水島合戦・藤戸合戦などの際にも、この船溜まりで船団を整えて出陣し、
水軍の根拠地として、源平合戦以降も室町・戦国期へと続く歴史があります。
船かくしの西の屋島に向いた小さな浦を「平家の米はかり」と称し、
平家の米倉があったといわれています。

遠くに屋根のような形をした屋島が見えます。





庵治半島の北部に位置する庵治町は、現在、特産の庵治石の切出しとともに、
海と島を中心とした観光の町で、海水浴場や温泉など多くの観光客や釣り客を集めています。

今日も一日戦い暮らし、疲れ果て兜を枕とし、あるいは鎧の片袖を敷いて眠る源氏勢。

屋島での合戦も勝利のうちに終えることができた源氏の兵たちは、日が暮れて
宇龍ヶ丘(瓜生が丘)の野山に陣をとりました。摂津渡辺の津を出航して以来、この三日間、
一睡もしてなかったので皆、死んだように眠りました。そのなかで、義経は高い所に登り、
伊勢三郎義盛は低地に潜んで見張番をし、二人とも眠らず夜を明かしました。

一方、平家方は能登守教経を大将に夜討ちの支度にかかりますが、
誰が先陣を受けもつかをめぐって侍大将同士が争っているうちに夜が明けてしまい、
平家の船団は庵治半島を東に周って志度湾へ続々と移動しはじめます。
『平家物語』は、「夜討ちをしていたなら、源氏はひとたまりもなかったであろうに。
攻め寄せて来なかったのは、よくよく源氏の運が強かったのであろう。」と語っています。
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』
「船かくし」高松市庵治町155番地7
ことでん「舟かくし」バス停徒歩3分 バスの本数が少ないのでご注意ください。
ことでん「八栗駅」より徒歩約50分 「景清の錣引き跡」から36号線を北上しました。(30~35分)
『参考資料』
「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 「香川県の地名」平凡社、1989年
角川日本地名大辞典「香川県」角川書店、平成3年 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年



 



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元歴2年(1185)2月、阿波勝浦から大坂峠を越えて讃岐に入った義経は、
屋島の対岸に馬を乗り入れ、牟礼、古高松の道筋の民家に火を放ちながら進軍しました。
そして二手に分れ、本隊は総門に向かい、義経はじめ佐藤継信・忠信兄弟、
後藤実基・清基父子ら30余騎の別動隊は、平家の陣があった屋島を目指しました。
現在、屋島は陸続きの半島となっていますが、
当時は瀬戸内海のひとつの島で、主戦場となったのは檀ノ浦一帯でした。

JR屋島駅前

屋島駅にはレンタサイクルがあります。

屋島は尾根線が平たく長く伸び屋根のような形をしていますが、
JR屋島駅北辺、背後から見た屋島は三角形に見えます。



JR屋島駅から北へ進みます。

この奥に屋島を目前にして、義経が一息いれたという場所があります。

義経鞍掛の松は材木店の倉庫裏にあります。 

源義経鞍掛の松
「寿永四年(1185)二月平家追討の命をうけた九郎判官義経は、
源氏の精鋭を率いて阿波の勝浦より大坂峠を越えて高松(高松町)の里に入り、
屋島を望むこの地で人馬を整え、平家の陣を攻めたと伝えられています。
その時大将義経がこの松に鞍をかけ休息したというのでこの名が残っています。
高松市 高松観光協会(現地説明板)」

義経鞍掛松歌碑
   勇将のその名と共に千代かけて 今にのこれる鞍掛の松
「木田郡誌より」 二00三年三月建立 


◆赤牛崎(あかばざき)
義経が屋島に渡る浅瀬を探していた所、源氏勢が放った火に驚いた赤牛が海を渡るのを見て、
浅瀬の場所を知り、そのあとを追って軍勢を進め屋島に攻め入りました。
それが赤牛崎の名の由来と伝えられています。
 

相引川は延長約5キロ、屋島の南麓、ことでん古高松駅の北を東西に流れています。
源平合戦の頃、ここはすべて海面下にあり、満潮時には海水が東西から満ち、
干潮時には東西に引き分かれたことから相引浦とよばれました。

『平家物語』は古高松と屋島との間の地形について、「陸続きではないが浅海で、
引潮時は馬の腹さえ浸からないで島へ渡ることができるとしています。」

今は小さな川に過ぎませんが、当時は赤牛崎は幅200メートル、相引川の最も狭い所でした。

生駒時代、生駒高俊が相引川に堤を築いて塩田にし、屋島と陸続きとなりましたが、
正保4年(1647)、初代高松藩主松平頼重は古来の妙跡を惜しみ、
ほぼ現況に近い相引川(水路)を復元させたという。(讃岐国大日記)

相引川によって屋島が四国本土と
切り離されているのがお分かりいただけると思います

見落としましたが、相引川の畔に赤牛崎の説明板がたっています。
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『アクセス』
「源義経鞍掛の松」JR屋島駅より北へ徒歩約3分。
「赤牛崎説明板」高松市屋島東町
ことでん古高松駅より北へ徒歩約3分。 JR屋島駅より徒歩約10分。
『参考資料』
 「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 「香川県の地名」平凡社、1989年
 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年 
奥富敬之監修「源義経の時代」日本放送出版協会、2004年
「平家物語図典」小学館、2010年







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那須与一が放った矢は扇の的に命中。
扇は夕日を受けながらひらひらと空を舞い波の上に散りました。
沖の平家は、敵ながらあまりの見事さに船端をたたいて感じ入り、
陸の源氏も、箙(矢を入れる道具)を叩いてどよめきました。
その直後、平家の中から老武者が現れ、感動のあまり
舟の上で与一の技を讃えて舞い始めました。
しかし、義経にはこの余興はまったく通じません。

伊勢三郎義盛が与一に近づき、「殿の命令だ。あの者を射とめよ。」と
言うと、すぐさま与一は2本目の矢を取ってつがえました。
今度は鏑矢でなく、殺傷能力のある尖った矢(征矢)です。
その矢が当たって平家の武者は船底に倒れこみました。
抒情的な風景そして感動のシーンが一気に凍りつき、
残虐な場面にもどった瞬間です。
平家方は何が起こったのか瞬わからず、静まりかえります。
源氏は箙を叩いて囃したて、「やあ、よく射た!」という者もあれば
「情けない。なんと無慈悲なことを。」という者も多くいます。

これに腹を立てた平家方の三人の武者が波打ち際に押しよせ、
源氏を挑発し始めると、義経の命を受けた五騎の武者がわめきながら駆け寄ります。
真っ先に突き進んだ武蔵国の住人、美尾屋(みおや=水尾谷)十郎の
馬に矢が命中し、馬から落とされた十郎は徒立(かちだ)
ちとなって戦っていました。
この時、波をけって平(藤原)景清が浜辺に上がり、
十郎の錣(兜の首まわりをおおって首を守るもの)をむんずとつかみました。
(説明板と少し異なります)
そうはさせじと逃げる十郎、しばらく引っぱりあいが続きましたが、
ついに錣(しころ)の糸が切れ、景清が兜から錣を引きちぎりました。
その錣を高くかかげ、割れるような声で「我こそは都で名高い悪七兵衛景清」と
名乗りをあげました。喜んだ平氏は歓声をあげてはやします。
世に名高いしころ引きです。平家は舟に乗り移り引き上げました。
この後、義経弓流しの名場面になります。

そして源氏の武者らは景清の首を取ろうと、夕闇せまる屋島の浜で、
再び死闘がくり広げられました。
陸から馬で攻める源氏軍と、舟上で応戦する平家軍。
この時、義経はうっかり自分の弓を海に落としました。
義経の弓流しは、この合戦から生まれたエピソードです。

「悪七兵衛」の悪は、猛々しく強いという意味で、悪いという意味ではありません。
景清は巻4「橋合戦」で、宇治川での合戦に侍大将として登場して以降、
平家の主要な武将として数々の合戦に参戦しています。



錣引き跡は祈り岩の近くにあります。



駒立岩から相引川を渡り、北へ進みます。

弓流し跡から西へ行った屋島東小学校近くにも「義経の弓流し」の案内板がたっています。
屋島古戦場を歩く(義経弓流し)  
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』
「景清錣引き跡」高松市牟礼町大字牟礼宮北 ことでん「八栗」駅より徒歩15分 
 県道36号線沿い、ことでん「祈り岩」バス停前南東。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「平家物語」(下)角川ソファ文庫、平成19年

 


 



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