平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




野崎観音は、野崎参りやお染久松物語の舞台としても知られています。
野崎参りとは、福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)
通称野崎観音の無縁経法要に参詣することをいいます。
毎年5月1~8日の期間中はJR野崎駅から続く参道には露店が並び、
さまざまなイベントが催され、各地からの参詣者で賑わいます。
(8日は俗に「ようかび」とよび特に賑わいます。)

この賑わいの始まりは、経済的な繁栄が見られた
江戸時代の寛文から元禄(1688〜1704年)にかけてのころです。
大坂町民や近郊農民の社寺参詣が盛んになり、野崎観音でも
観音像や略縁起の木版刷りを配り、無縁経の法要を営み
参拝者の誘致活動に積極的に乗り出しました。

これが野崎参りとして有名になり、
文芸にも採りあげられるようになりました。
近松門左衛門作の浄瑠璃
『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』や
近松半二作の浄瑠璃
『新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)』の中に描かれています。

本堂隣の江口の君堂から案内板にしたがって下りると、
墓苑の一角に「お染久松の塚」があります。


油屋の1人娘お染は、店の丁稚久松と恋に落ち、
許されぬ2人の恋は、心中という結末を迎えます。
この悲恋の物語は、実際の心中事件をモデルにして
浄瑠璃や歌舞伎などに脚色され、「お染久松もの」として
くり返し上演され人気の演目となりました。

『新版歌祭文』は四場からなりますが、その内の一つが
「野崎村の段」です。
久松は奉公先の油屋の娘お染めと恋仲になりますが、
ある日、久松は身に覚えのない横領の罪を着せられ、油屋の手代小助に
引連れられて野崎村に帰り、父久作にお金を肩代わりしてもらいます。

それを追ってお染が野崎村の久松に会いに来ますが、
その時久松はお染のことを想いながらも身分違いの恋をあきらめ
お光(父の後妻の連れ子) と祝言を挙げようとしていました。
お光は二人の深い絆を察し、尼となって身を引きます。

野崎村へお染が会いに来る場面が次のように刻まれています。

「お染久松 野崎村の段 
切つても切れぬ戀衣や 本(もと)の白地をなまなかに
お染は思ひ久松の 跡を慕うて野崎村
堤傳ひにやうやうと 梅を目當に軒のつま
そなたは思ひ切る気でも 私や何ぼでもえ切らぬ
餘り逢ひたさ懐しさ 勿體ない事ながら
観音さまをかこつけて 逢ひにきたやら南やら」

野崎参りの風景、大東市歴史民俗資料館HPより転載。

野崎駅前を流れる谷田川。

大阪からの野崎観音への参詣路には船と陸路がありましたが、
陸路はだいたい川沿いの堤の上をたどるので、
両者はほとんど並行していました。

船路は八軒屋浜(現、天満橋付近)から大川(淀川の旧流路)を遡り、
寝屋川、その支流の谷田川を経て観音浜に到着します。
この堤で陸路と船の参拝者がののしり合い、それに勝てば縁起が良いという
「ふり売喧嘩」の風景が落語の「野崎詣り」の中に描かれています。

古くから大和川は、大阪と奈良を結ぶ水運として
利用されてきましたが、宝永元年(1704)の大和川の
付替え工事によつて、それまで池や川だったところは
埋め立てられて新田となり、眺望は一変しました。

中世まで恩智川は大東市の深野池(ふこうのいけ)に注いでいましたが、
大和川付替によって、寝屋川と合流し深野池は深野新田となり、
米のほか木綿や菜種の生産が盛んに行われました。
新田の中に幅7.2メートルほどの用水路が開かれ、野崎参りの川筋として
「観音井路」と称し、野崎参りの屋形舟はこの水路を通り、
着船場も観音浜と呼ばれました。このように大和川の付け替えによ り、
交通が便利になり「野崎参り」が流行し始めました。
現在、JR野崎駅近く(深野5丁目21)に観音浜の碑が建っています。

野崎観音の本堂の下にある南條神社の 祭神は、
牛頭天王・スサノオノミコトです。
例大祭:10月20日・21日 。
月並祭:毎月1日と15日当神社は、宝塔神社に対して
北の宮さん牛頭さんの呼称で親しまれ、
野崎地区の氏神として厚く信仰されています。

昭和10年に大ヒットした東海林太郎の『野崎小唄』は、
「野崎参りは屋形船でまいろ どこを向いても菜の花ざかり
粋な日傘にゃ蝶々もとまる 呼んで見ようか土手の人」と歌っています。
大東市野崎観音(福聚山慈眼寺)1  
『アクセス』
「慈眼寺(野崎観音)」大阪府大東市野崎2丁目7−1
参拝時間:9:00~16:00
JR学研都市線「野崎駅」下車 徒歩約10分。
 野崎参り5月1〜8日 8日午後2時から開経 無縁経法要

『参考資料』
「大阪府の地名」平凡社、2001年

 

 



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生駒山地に連なる飯森山の中腹に、夢の中で長谷観音のお告を受けた
江口の君が中興したと伝える野崎観音があります。
正式名は
「福聚山 慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)」という曹洞宗の寺院です。

摂津江口の江口の君(妙)が難病に苦しみ大和(奈良)の
長谷観音に参籠し病気平癒を願ったところ、
慈眼寺は長谷と同じ霊場であり、汝の家にも近いから
この寺を頼るようにとの霊夢を得ました。
早速、慈眼寺に七昼夜籠って祈ると、たちまち病は癒え、
その恩に報いるため荒廃していた寺を再興したという。

長谷寺の観音信仰は古くから盛んで、
王朝の女性たちが参詣していることが、
『枕草子』『更級日記』『源氏物語』などに見えます。
特に中世には広く普及し、
利益(りやく)の説話の舞台となっています。

『平家物語』「長谷六代」「初瀬六代」にも長谷信仰が語られています。
六代(平維盛の嫡男)は、平家滅亡後、平家残党狩りで
捕えられていましたが、文覚が頼朝に六代の助命を
願っていれられました。助命かなった六代が家に帰ると、
母(鹿ケ谷事件の首謀者、藤原成親の娘)が
六代の無事を祈って長谷寺に参籠中であったため、
六代の従者の斎藤五(斎藤実盛の息子)がはるばる
大和の長谷に下って知らせています。

江口(現、大阪市東淀川区)は、淀川と神崎川の分流点にあたり、古くは
京都と西国を結ぶ水運の要衝として栄え、社寺参詣の貴族たちをもてなす遊里があり、
美貌と高い教養を兼ね備えた遊女が多いことで知られていました。
旅の途中、雨に降られた西行が江口の君に宿を頼み、
歌の問答を行ったというのは、西行のエピソードの中で最も有名なものです。
この歌のやり取りで、江口の君(妙)の名は広まり、
謡曲『江口』にもその名を残しています。

平安時代、江口から野崎観音へは、淀川を下り高瀬(守口市)で
大和川を遡り、恩智川に入ると野崎観音の門前に着きました。
また淀川右岸の陸路でもつながっており、さらにその道筋は
生駒山を越えて大和の長谷寺に至ります。

寺伝によると、野崎観音は、行基(668〜749)が十一面観音を刻んで
安置したのが始まりで、その後荒廃していたのを江口の君が
再興に尽力したとし、開基は行基、江口の君を中興の祖としています。

鎌倉時代には、沙弥入蓮(しゃみにゅうれん)が秦氏の援助を得て
堂舎を修造しましたが、戦国時代に三好長慶・松永久秀の
兵火によって焼失し、江戸時代の元和2年(1616)頃、曹洞宗の僧、
青厳が曹洞宗寺院として堂宇を整え、仏像を安置しました。



野崎駅前の谷田川(寝屋川の支流)に架かる朱塗りの橋を渡って、
野崎参道商店街を抜けます。信号を渡ると道が狭くなり、
戦国時代に三好長慶の居城があった飯森山が迫ってきます。





坂道そして長い石段の先に山門があります。



山門(楼門)

飯盛山へのハイキングコースの入り口、
河内平野を一望できる地に南面して本堂が建っています。

本尊は行基手彫りと伝わる十一面観音菩薩 

本堂の隣にあるお堂が「江口の君堂」です。

野崎観音御詠歌の奉納額が江口の君堂の軒下に掛けられています。
「きくならば 野崎の寺の そのむかし 江口の君の 名のみのこれる」

駒札にはこのお堂の縁起が次のように記されています。
「当寺中興開基江口之君堂縁起
江口の君光相比丘尼は、淀川の対岸江口の里の長者で
藤原時代の終り頃重い病気にかかられ、当山の観音さまに
おまいりをして病気をなをしていただかれました。
同じ病気になやむ人たちをたすけて下さいますので
婦人病の方やこどものほしい人たちが沢山おまいりになります。
このお堂を左から年の数だけおまわりになると、ご利益がいただけます。
毎月十四日 御命日
 午前中、婦人病・子さづけのやいとの奉仕があります。」

江口の君は、平資盛(すけもり)の娘ともいわれる
妙(たえ)という遊女でしたが、出家してからは
光相比丘尼(こうそうびくに)と称しました。

江口の君堂の隣は心身の病気を治してくださる薬師堂です。
病気平癒・身体健全・延命長寿の功徳があるといわれています。



本堂とその左手に建つ観音堂の間から上ると、
見晴らし台へと続く山道が延びています。その途中、慈母観音像や
市指定文化財の石造九重層塔(せきぞうくじゅうそうとう)が現れます。



風化のため全文は読みとれませんが、銘文には、
永仁2年(1294)に沙弥入蓮(しゃみにゅうれん)と秦氏が
主君と両親の追善供養のために造立したと記されており、
北河内最古の層塔です。
高さ3.3m、花崗岩製で、初層軸部の四側面には、
梵字で金剛界四方仏がそれぞれ刻まれています。
全体の造りや梵字の刻まれ方から、鎌倉時代の
特徴をよく表しているといわれる石塔です。

在俗信者入蓮がどのような人物であったかは不明ですが、
秦氏は古代河内一円に勢力のあった大陸系渡来人の子孫と考えられ、
造立当時、当地方の有力者であったと思われます。
江口の君堂(寂光寺)  
野崎参り・お染久松で知られる大東市野崎観音(福聚山慈眼寺)2  
『アクセス』
「慈眼寺(野崎観音)」大東市野崎2丁目
JR学研都市線「野崎駅」下車 徒歩約10分。本堂拝観9:00~16:00

祭礼 毎年、江口の君命日の4月14日に大祭が催され、
ご開帳ご祈祷があり、子授け、縁結び、病気平癒祈願で賑わいます。
『参考資料』
「大阪府の地名」平凡社、2001年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年

 

 

 



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『新古今和歌集』(巻10・羇旅歌)に収められた西行(1118〜1190)と
遊女妙の歌問答をテーマにした謡曲に『江口』があります。

観阿弥(世阿弥改作)が『撰集抄(せんじゅうしょう)』を典拠に
『江口』を書いてから妙の名は高まり、この謡曲をふまえた
長唄『時雨西行』が大ヒット、さらに歌舞伎『時雨西行』が
上演されると、妙と西行の出会いは、広く知られるようになり、
妙は「江口の君」と呼ばれるようになりました。

江戸時代の摂津国の旅行案内書『摂津名所図会』に描かれた江口の君
 『日本名所風俗図会』より転載。

右の大きい五輪塔が妙の供養塚、小さいほうが西行の塚。(江口の君堂本堂左前)


『新古今和歌集』の詞書(ことばがき)によると、西行が天王寺へ
参拝するために江口(現、大阪市東淀川区)を通りかかった時、
雨が降ってきたので雨宿りをしようと、とある宿の戸を叩き
一夜の宿を頼みましたが、女あるじは貸そうとしませんでした。

  世の中をいとふまでこそかたからめ 仮の宿りを惜しむ君かな 
                          西行法師
返し
  世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に 心とむなと思ふばかりぞ
                          遊女妙
( この世を厭うて出家するのはむつかしことかもしれぬが、
かりそめの宿を貸すことすら貴女は惜しむのですね、と
皮肉まじりに西行が詠んだところ、
この世の中を
「仮の宿」に例えた西行に対して、同じ詞(ことば)を使って
宿を惜しんだのではなく、出家をした方であるので、このような
現世の宿に心をお留めにならないようにとお断りしたのです。)
西行はこの返歌に大変感心したいう。この当意即妙の
受け答えは『山家集』にもあり、ほぼ実話だと思われます。

西行に仮託した鎌倉時代の説話集『撰集抄』には、
「江口遊女成尼(あまになる)事」、
「性空(しょうくう)上人発心並遊女拝事」と題する
二つの説話が載っています。

前者は西行が江口の里で遊女の有様や往来の舟を眺めて
物思いにふけっていると、時雨が激しく降ってきたため、
とある粗末な家に立ち寄って雨宿りをさせてもらおうと、
歌を贈ったところ、遊女の返歌が面白かったので
感激して宿を借り、とうとう一晩中、物語をして過ごしました。
遊女は40あまりの上品な美しい女で、「自分は幼い頃から
遊女になったがその身のはかなさを悲しみ、賤しいなりわいを疎む
気持ちが日ごとにつのり、尼になろうと思いながらも決心できず、
ついうかうかと過ごしております。」と煩悩にみちた
仮の宿に身をおく哀しみとせつなさを涙ながらに語るので、
西行も哀れに思い、墨染の衣の袖を絞るのでした。
朝がきたので名残を惜しみつつ再会を約束して別れました。
やがて約束の月がきましたが、都合がつかないので
手紙をだしたところ、出家して尼になったという
返事が届いたという仏教色の濃い説話となっています。

後者は書写山円教寺(兵庫県)の性空上人は、
日頃から生身(しょうじん)の普賢菩薩を拝みたいと念じていました。
一七日(いちしちにち)の精進の末、室津の遊女の長者は
普賢菩薩であるという夢告を得たので、すぐに室の津を訪ね、
遊女の長者を見て目を閉じると、普賢菩薩に見え、目を開くとまたもとの
遊女にもどっていたという霊験譚(れいげんたん)になっています。

謡曲『江口』は、性空上人の逸話を西行におきかえて組み立てています。
遊女と西行との和歌の贈答と、江口の里を訪れた旅僧が遊女に生身の
普賢菩薩を見たという異なったストーリーをひとつにまとめたものです。

ここで謡曲『江口』のあらすじをご紹介します。
諸国一見の僧の一行が都から天王寺へ参る途中、江口の里を通りかかり、
西行の歌を口ずさんで昔を偲んでいると、女が呼びかけながら現れ、
西行が宿を借りにきて「仮の宿を惜しむ君かな」と歌いましたが、
一夜の宿を貸さなかった遊女の返歌の真意は、それほど宿を
貸すのを惜しまなかったことを申し上げたかったために
ここまで参りました。と言い、
いぶかしがる僧に自分こそ
江口の君の霊だと告げ、黄昏の中に姿を消してしまいました。

その夜、僧たちが夜すがら読経していると、月澄み渡る川面に、
舟に乗った江口の君が2人の侍女を連れて現れ、
ふなうたを謡いながら舟遊びを展開し、六道輪廻の有様を述べ、
移ろいやすい遊女の身のはかなさを嘆きながら舞を舞っていました。
突然、遊女は普賢菩薩の姿となり、舟が白象に変じると
それに乗って光り輝く雲の中を西の空へと消えてゆきます。

西行の祖父、監物(けんもつ=中務省に属し出納をつかさどる職)
源清経は、青墓の宿(岐阜県大垣市)・江口・神崎などの
遊里に明るく、遊女に今様を教えた名手でした。
源師時(もろとき)の日記『長秋記』には、
清経の案内で、広田社(兵庫県西宮市)へ参詣した帰りに、
神崎・江口の遊女を招いて遊んだ話が書かれています。
西行の数寄(すき=風流・風雅に心をよせること)は、
その祖父から受けついだと言われています。
江口の遊女の中には相当な教養人がいましたから、江口の君と
西行の交流を事実と考えても無理なことではないと思われます。

江口の君と西行の逸話を今に伝える江口の君堂(寂光寺)
『参考資料』
新日本古典文学大系「謡曲百番」(江口)岩波書店、1998年 
三善貞司編「大阪史蹟辞典」清文堂出版、昭和61年 
森修「日本名所風俗図会」角川書店、昭和55年 
白洲正子「西行」新潮文庫、平成12年 
新潮日本古典集成「新古今和歌集(上)」新潮社、平成元年

 

 

 



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