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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




京都市伏見区に常盤ゆかりの地が二ヶ所あります。
1・伏見区奉行町の桃山合同宿舎の一角に
「常盤就捕處(ときわしゅうほのところ)」の碑がたっています。





江戸時代に伏見奉行所が置かれ、幕末には「鳥羽伏見の戦い」の激戦地となりました。
桃陵団地(伏見区奉行町)入口には、奉行所跡の石碑がたっています。



桃陵団地入口から桃山合同宿舎へ

この地はかつての工兵第十六大隊の駐屯地でした。
その庭に椎の木があり、そこで常盤が捕えられたという伝承により、
明治44年(1911)「常盤就捕處」の石碑が建てられました。



碑の背面には、
「従四位勲二等岩崎奇一題 頭角蔵懐未嶄然 竜門母子此迍邅
  老椎独在興亡外 雪虐風餐八百年 工兵第十六大隊長佐藤正武建」
と彫られています。

平治の乱で源義朝が敗死したため、常盤は今若・乙若・牛若とともに大和国宇陀に
落ちのびましたが、都にいる老母が平家方に捕まり六波羅で厳しい取り調べを受けていると知り、
三人の子を連れ自首しようと京へ向かいます。
その途中、ここで捕えられ六波羅に引き立てられたと伝えられています。



平成22年1月、この宿舎を訪ねたところ、伏見合同庁舎は建替え工事中のため
中に入ることができませんでした。平成28年4月に再度訪ねて撮影しました。


2・伏見合同庁舎の東、大和(奈良)街道沿いの常盤町には、伏見七井に数えられる
「常盤井」がありましたが、
昭和32年(1957)の国道24号線拡張工事の際に破却され、
現在、井戸の井筒が二枚、御香宮内の弁天社前の池の石橋に転用されています。
「常盤井」には、平治の乱後、常盤が平家の追及を逃れて伏見の里の雪道に難儀しながら
大和国宇陀に落ちていく途中、この井戸で足を洗い一夜を明かしたとか、
この地に常盤が居を構えた時の愛用の井戸であったという伝承があります。



弁天社



御香宮御香水
社伝によれば、境内から香りのよい水が湧き出て、病人がこれを飲むとたちまち病が癒えました。
これにちなんで
御香宮と称されました。御香水は「名水百選」のひとつです。
宝樹寺・雪よけ松の碑 (常盤御前ゆかりの地)  
常盤が牛若丸らと身を隠した宇陀郡竜門(常盤御前の腰掛石・常盤の隠れ家)  
『アクセス』
「桃山合同宿舎」京都市伏見区西奉行町  京阪伏見桃山駅徒歩10分  
近鉄桃山御陵前駅、JR奈良線桃山駅より徒歩
「御香宮」京都市伏見区御香宮門前町174 京阪伏見桃山駅徒歩5分
近鉄桃山御陵前駅、JR奈良線桃山駅より徒歩
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社、1987年  山本真嗣「新版京・伏見歴史の旅」山川出版社、2003年
続日本絵巻大成17「前九年合戦絵詞 平治物語絵巻 結城合戦絵詞」中央公論社

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
常盤は美人の上、とても賢い人だったのでしょうね! (yukariko)
2010-03-17 23:42:50
三人の子供の命を助けたのは清水寺の観音の御利益(ごりやく)とも常盤が日本一の美人であったためともいわれるとお書きですが、とても賢い人という印象ですね。
見目かたちが美しくて助けたいと思っても、話の持って行きよう一つで相手の対応はガラッと変わってくると思います。

清盛の好き心に助けられたにせよ、まず九条女院の元に参上して庇護を願い、その権威を助けにして身ぎれいななりで清盛に会い、子供の命も母の命には代えられないと言って、清盛以外の武士たちの同情をも引き出しますね。

清盛の娘を産んだ後の再婚も以前の義朝よりずっと身分の高い貴族の北の方として密かに義朝の子供達をも影で支援し、異父弟妹を育て上げて充分な人生を送った訳だから、恐ろしい有為転変には出会ってもこの時代としては見事な人生を全うされたのですね。
日本一の美女ながらそれに頼らず、また機知と才覚を表には出さず、その後も貴族社会での見事な生きざまは本当に立派ですね。
 
 
 
お返事が遅くなりすみませんでした (sakura)
2010-03-20 11:06:23
常盤が賢い人といえば、「『平治物語』によると、平家は常盤母子の行方を知ることができず、その代わりに常盤の母が責め立てられたという。これが事実とすればおそらく相当の期間、常盤は隠れつづけることに成功したに違いない」(義経登場・保立道久)と書かれていますから

2月初めに捕えられた頼朝が、宗清の邸にとめおかれ、処刑されずに弟希義とともに流罪となりますから、常盤はこのような情勢を判断して出頭したのかも知れません。当時、皇族・貴族・寺社などに仕える人々は、主人に断ってから自分の身を処し、また主家に断りなく家来筋を勝手に逮捕することはできないという慣習があったようです。かって常盤は、九條女院に仕えていましたから、清盛も女院の立場を考えると、常盤を乱暴には扱えなかったと思いますし、女院にしても、以前自分に仕えていた者が長旅で汚れた衣装のまま、六波羅へ参上させることはできなかったのでしょう。
この後、清盛は最上級貴族への道に続く後宮組織の役人・九條院呈子の皇后宮職の権大夫に任命されています。
九條院呈子は「平家物語」(二代の后の事)に登場する多子(待賢門院の実家である閑院流徳大寺公能の女)と近衛天皇の后として競い合う関係にあった人です。12歳で元服した鳥羽院と美福門院の息子近衛は、その年多子、呈子という二人の后を迎えています。呈子の父伊通は、娘の後宮を美女たちで飾り立てたかったのでしょう。
常盤の再婚相手一条長成の家系は、先の多子の徳大寺家と歴代にわたり深い縁続きの家柄、また奥州平泉藤原秀衡の岳父基成にもつらなる家系です。この辺から義経が平泉へと出発した事情が読めるようです。
 
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