平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
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青墓(源頼朝・平宗清・夜叉御前)
平治の乱義朝・常盤・...
/
2010-01-10
平治の乱に敗れ東国をめざす父義朝らとともに伊吹山麓の道を辿るうち、
雪の中で一行にはぐれ、年明けに青墓に到着した頼朝は義朝の妾、
延寿(えんじゅ)の長者屋敷に隠れ住んでいました。
青墓は往時の美濃の中心地でした。
東国へ往来する旅人が青墓宿(しゅく)に泊り、
その世話をしたのが土地の豪族の「長者」でした。
そのころ、尾張国司となった頼盛は、弥兵衛宗清を目代として任地に
下向させました。青墓宿に着いた宗清はその夜、遊女を泊めると
「長者の所に兵衛佐(頼朝)がいる。」と言うので、すぐに平家の侍と共に
長者屋敷に押し寄せ「兵衛佐(すけ)を出せ」という。
大炊がこのことを頼朝に告げると「覚悟しています。」と
自害しようとしている所に侍どもが押し入り、
刀を奪い取り頼朝を捕えました。
宗清が頼朝を連れて長者屋敷を出て行くと、頼朝の異母妹の夜叉御前が
「我も義朝の子なり。佐殿と一緒に一緒に」と転げまわって
泣くので宗清はじめ平家の侍たちも哀れに思います。
都に帰って平家に頼朝を御覧に入れたところ「でかした!」といって
頼朝を宗清に預けました。清盛は頼朝に使者を送り
「髭切はどこにあるのか。」と尋ねさせると、頼朝は今更隠しても
何の甲斐があろうと「青墓の長者のもとにございます。」というので、
難波六郎恒家が長者の家に行き「髭切があるそうだが、返すように」というと
長者は源氏重代の太刀を平家にとられるのは残念なことです。
たとえ佐殿が斬られたにしても、義朝にはお子様が沢山おいでになる。
この先平家の運が尽きてしまい源氏の世になることもあるでしょう。
その時この太刀を差し上げたならどんなにお喜びになるでしょう。
どうしたものかと考えあぐねていましたが、わが家には髭切にも劣らない
泉水という太刀があるのでこれを渡そう。佐殿にお尋ねになっても
「髭切です」といえば済むことだし、万が一「違う」と返事し、
平家から咎めを受けたら「私は女なので刀のことはよく知らない。」と
髭切は柄もさやも丸かったのでさし替え、泉水を差し出しました。
清盛は頼朝のもとにこの太刀を届けさせ「髭切であるか」と尋ねさせると
「そうです」といったので清盛は大そう喜びこの太刀を大切にしまいました。
夜叉御前は頼朝が捕らえられてからというもの湯水も通らず、
嘆き悲しまれるので「どうしてそんなにお嘆きになるのですか。
お命を長らえてこそ父上のご菩提を弔うことができましょうに」と
さまざまに言い聞かせると気分も和らいだご様子なので大炊も
延寿も気をゆるし、乳母も姫につきそうのはやめたその矢先の
2月1日の夜、夜叉御前は一人青墓を出て遥か遠くの杭瀬川に行き、
まだ10歳というのに身を投げたのはまことに痛ましいことです。
朝になって長者の家では夜叉御前がいないのであちこち捜していると、
通りがかりの旅人が「杭瀬川の水際に幼い子の死骸があります。」と
教えてくれました。大炊(おおい)とその娘延寿、
乳母が駆けつけてみるとなんと夜叉御前でした。
空しい遺骸を輿に乗せ帰り、朝長の墓に並べて埋めて後世を弔いました。
延寿は「義朝殿にも先立たれ、殿の形見の姫にも先立たれてしまいました。
生きている甲斐もありません。」と嘆くので大炊があれこれ宥めすかすと、
延寿は母の気持ちにそむくまいと尼になり、義朝の菩提を余念なく弔いました。
(『平治物語』頼朝生捕らるる事付けたり夜叉御前の事)
青墓の長者は当時は、女系長者制でその管轄下には数多くの遊女がいて、
延寿の一人娘である夜叉御前は長者一族にとっては大切な存在でした。
夜叉御前が身を投げた杭瀬(くいせ)川
◆「弥兵衛尉宗清」
桓武平氏・右兵衛尉平季宗の子。
頼盛の家人であった宗清は平治の乱の際、頼朝を捕えその助命に奔走します。
のち頼朝はその恩義に報いるため鎌倉に下向するよう促しますが、
宗清は頼朝の再三の招請を断り、屋島に馳せ参じます。
(『平家物語・巻10(三日平氏の事)』)
その後の宗清
那智大社~補陀洛山寺(政子熊野詣・平宗清荷坂の五地蔵)
赤坂港杭瀬川の畔に復元された常夜灯
木曽海道六十九次之内赤坂「中山道広重美術館」
皇女和宮之碑
◆「杭瀬川・赤坂宿」
夜叉御前が身を投げ、義朝が野間へ下った杭瀬川は、
もともと揖斐川の本流で川幅も広く流れも急でした。
赤坂宿は東山道の要衝として杭瀬川右岸に開け、鎌倉時代以降青墓宿が
衰退するのに代わって発展し江戸時代には中山道の宿場町として栄えます。
江戸時代にはここから舟で物資を運び出し、明治に入り石灰生産が盛んになるに
伴って杭瀬川の舟運が活発となり、赤坂に港が整備され水運の要衝となります。
大正時代の始め鉱山鉄道の役割を果たすJR美濃赤坂線が開通し急激に衰微し
さらに昭和になると下流に水門ができ赤坂港は廃絶します。
◆「兵衛府」は宣陽門・陰明門より外、建春門・宜秋門より
内を守り行幸の時に供奉し雑役を勤める役職をいいます。
督(かみ・左右各一人)・佐(すけ・左右各一人)大尉(じょう)・少尉・
大志(だいさかえ)・少志その下に府生・番長・案主(あんじゅ)・
府掌(ふしょう)・兵衛などがありました。
左右近衛、左右衛門、左右兵衛を総称して六衛府という。
源頼朝は右兵衛佐だったので「平治物語」「平家物語」には「佐殿(すけどの)」
とあり「吾妻鏡」などには、兵衛の唐名から「武衛」と書いてあります。
『アクセス』
「赤坂常夜灯」JR大垣駅から近鉄バス赤坂総合センター行「赤坂大橋」下車徒歩5分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
和田英松「官職要解」講談社学術文庫
京都造形大学編「京都学への招待」角川書店 日本歴史地名大系21「岐阜県の地名」平凡社
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野間はりつけ...
青墓宿(よし...
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武士の生き様も色々ですね。
(
yukariko
)
2010-01-14 20:49:18
源氏、平氏と色分けされていてもそこで生きる人の生きざまは色々ですね。
『ああ情けなや!』と何百年にも渡って親子してしでかした事を日本中の人に印象付けた長田忠致親子、相手方棟梁の総領息子を生け捕りながらもその助命に奔走しそれを恩に着せない生き方の宗清、
同じ家人でも主を必死に逃がそうと奔走して最後に舅に裏切られて義朝と共に死んだ鎌田正清。
これは人間の問題で源氏、平氏とは別ですね。
夜叉御前も母より父親の血を濃く引いたのか、娘であることを悔しがって身を投げてしまいますが、もう少し分別が出来る年になっていたら、自分に流れる血がどれほど大事なものか分かったでしょうに…。
子子孫孫へ血統を伝えるのは女性にしか出来ないのだから徒に嘆かず、義朝の血を伝えれば、身分ある武将に嫁ぎ、先で頼朝を頂点とする源家の武将の母として生きられたかもしれないのに…12歳ではそのような考えなど思い付きもしなかったでしょうから。
子に先立たれ嘆き悲しんでも、延寿はその又母の気持ちにそむくまいと尼になり頭殿の御菩提を弔われた。…母の気持ちいかばかりかと思いますね。
本当に人の生きざまはいろいろです
(
sakura
)
2010-01-15 16:13:49
鎌田正清は義朝の忠実な家臣として平治物語に描かれていますね。
頼朝は特に正清の遺児を気にかけて、娘を捜し出し
尾張国志濃幾(しのぎ)・丹波国田名部庄の地頭職を
与えています。
宗清は頼朝の招きに応じて鎌倉に下向するのを恥として、
主人頼盛と別れ屋島の宗盛のもとに駆けつけます。
潔い生き方ですね。
伝承なのでしょうが、熊野那智大社から大門坂さらに
維盛(重盛の子)が入水したという補陀洛山寺まで歩く途中、
宗清が一ノ谷戦いで亡くなった敦盛の冥福を祈って
積んだという塔がありました。
まだ十二歳の夜叉御前は、一連の惨劇を目にして耐えられなかったのでしょう。
地元では夜叉御前の魂は杭瀬川から揖斐川を遡り
岐阜県と福井県の県境付近にある夜叉ヶ池で成仏したと
語り伝えられているそうです。延寿は動乱の時代を生き抜いた女性ですが、
青墓の大炊一族は彼女の代で衰微していきます。
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『ああ情けなや!』と何百年にも渡って親子してしでかした事を日本中の人に印象付けた長田忠致親子、相手方棟梁の総領息子を生け捕りながらもその助命に奔走しそれを恩に着せない生き方の宗清、
同じ家人でも主を必死に逃がそうと奔走して最後に舅に裏切られて義朝と共に死んだ鎌田正清。
これは人間の問題で源氏、平氏とは別ですね。
夜叉御前も母より父親の血を濃く引いたのか、娘であることを悔しがって身を投げてしまいますが、もう少し分別が出来る年になっていたら、自分に流れる血がどれほど大事なものか分かったでしょうに…。
子子孫孫へ血統を伝えるのは女性にしか出来ないのだから徒に嘆かず、義朝の血を伝えれば、身分ある武将に嫁ぎ、先で頼朝を頂点とする源家の武将の母として生きられたかもしれないのに…12歳ではそのような考えなど思い付きもしなかったでしょうから。
子に先立たれ嘆き悲しんでも、延寿はその又母の気持ちにそむくまいと尼になり頭殿の御菩提を弔われた。…母の気持ちいかばかりかと思いますね。
頼朝は特に正清の遺児を気にかけて、娘を捜し出し
尾張国志濃幾(しのぎ)・丹波国田名部庄の地頭職を
与えています。
宗清は頼朝の招きに応じて鎌倉に下向するのを恥として、
主人頼盛と別れ屋島の宗盛のもとに駆けつけます。
潔い生き方ですね。
伝承なのでしょうが、熊野那智大社から大門坂さらに
維盛(重盛の子)が入水したという補陀洛山寺まで歩く途中、
宗清が一ノ谷戦いで亡くなった敦盛の冥福を祈って
積んだという塔がありました。
まだ十二歳の夜叉御前は、一連の惨劇を目にして耐えられなかったのでしょう。
地元では夜叉御前の魂は杭瀬川から揖斐川を遡り
岐阜県と福井県の県境付近にある夜叉ヶ池で成仏したと
語り伝えられているそうです。延寿は動乱の時代を生き抜いた女性ですが、
青墓の大炊一族は彼女の代で衰微していきます。