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源氏の世が来て義経も手柄を立てたと思うのに… (yukariko)
2010-04-02 22:52:31
常盤にすれば手柄を立てて宮廷の覚えもめでたくなった義経を追捕せよという命令が何故兄の頼朝から出るのか分からなかった事でしょう。
宮廷で官位を貰うのは京に住む人々には名誉と思いこそすれ、兄の怒りを買う、してはならない事だったというような政治的な意図など女子供には分からない論理の世界ですものね。

苦労した甲斐あってこれから義経を始め息子達も異父弟妹達も世に出られると喜んだと思うのに、何故こんな事になるのか?
昔の自分と母の関係を逆さまにしたように自分達が人質になって足手まといにならないようにと信仰していた観音堂に隠れ住んだのでしょうね。

捕えられて母娘も鎌倉まで下向したのでしょうか?
愛人で子どもを宿した静御前は人質として鎌倉に送られましたが、常盤達には義経主従にとっての重要さはそれほどでないと判断されたのではないでしょうか?

下向させられていたらどこかにその記録がある筈でしょうし。
それにしても常盤の一生は最後まで波乱万丈の生涯ですね。
 
 
 
波乱万丈の生涯でした (sakura)
2010-04-03 17:43:09
常盤が生んだ義朝の子供・今若(全成)はのちに頼家に殺され、乙若(義円)は墨俣で戦死とみな非業の最期を遂げています。
常盤は吾妻鏡のこの記事が最後で史料には出てこなくなり、あとは伝説の世界です。
義経は軍の神様とまでいわれ、戦いにかけては名人のような人でしたが、こと政治向きのこととなるとさっぱり分からない人で、側近といわれる人も世間知らずの素姓の分からない人達が大半です。
それに比べ頼朝は利口な人ですから、都から学者や役人を招いて傍におき、相談しながら政治をした人です。
一ノ谷で平家に勝利し、義経が都に戻ると後白河法皇が頼朝に無断で義経に官位を授けると、頼朝は怒り、義経の平家追討の任をとき、代わって義経の兄範頼を追討将軍にします。しかし彼は平家に負け、救いを願う便りを度々鎌倉に届けさせます。頼朝は仕方なく、もう一度義経を平家追討将軍にすると、義経軍は屋島、壇ノ浦と次々圧勝します。梶原景時の讒言を聞いた頼朝は、平家滅亡後、目だって義経を嫌うようになり、鎌倉に入ってならぬと命じたり、土佐坊昌俊を都に遣わし義経を夜襲させます。
ここまでくると、世間のことに疎い、お人好しの義経も兄が自分を殺そうとしていることにやっと気がつきます。
常盤は息子の能成(義経の異父弟)も大物浦まで義経に付き従って行っていますから、厳しい尋問を受けたと思いますが、義経と一緒に逃げ、逃走経路を知っているかもしれない静とは違うかも知れませんね。


 
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