南都焼討の指揮を執った平重衡、保元の乱で戦死した
藤原頼長の供養塔が平成22年、般若寺に建てられました。
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最寄りのJR奈良駅
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平家による南都焼討は、治承4年(1181)12月のことでした。
4万余騎を率いて南都に向かった平重衡を、南都の僧兵7千余人が
奈良坂や般若寺に砦を築いて待ち構えていましたが、数にまさる
平家軍はこれらをたちまち陥落させ、戦いは夜戦となりました。
同年12月28日は闇夜、同士討ちを避けようと、
般若寺の門前で「火を出せ」と命じた重衡の一言が
のちの彼の運命を悲惨なものに変えました。
重衡の軍勢が松明のつもりで民家に放った火が、
強風に煽られ瞬く間に奈良の寺々の伽藍をのみつくしてしまい、
重衡は仏敵として恨みをかうことになります。
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般若寺HPより転載した境内図に文字入れしました。
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楼門(国宝)を入ると、すぐ傍に重衡の供養塔があります。
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平重衡公供養塔
平清盛の五男。三位の中将。治承4年(1181)5月、
「以仁王の乱「を平定した後、12月11日には滋賀園城寺を焼討し、
同月25日に大軍を率いて南都へ向かう。
興福寺衆徒は奈良坂般若寺に垣楯、逆茂木を廻らせ迎え撃った。
28日、平家勢4万、南都勢7千が般若寺の地で戦い、
夜分に入り総大将重衡が般若寺の門前に立って「夜戦さになって、
暗さもくらし、さらば火を出だせ」と明かりを採る火を命じたのだが、
折からの北風にあおられた火は般若寺を焼き、東大寺興福寺など
南都の大伽藍を焼く尽くしました。後日、「一の谷」で平氏は源氏に敗れ、
重衡は「須磨」で囚われの身になり鎌倉に送られました。
しかし重衡を恨んでいた南都の大衆は身柄を引き取り、
木津川の河原で処刑し、その首を持ち帰り般若寺の門前に曝したという。
かつて般若寺の東の山裾に「重衡の首塚」と伝える塚があったが今は不明。
墓と伝えるものは京都伏見区日野、木津川市安福寺、高野山にもある。
武勇に優れた重衡は、また「なまめかしくきよらか」と評判で、
宮廷の女房方にも人気のある公達でした。保元2年(1157)生。
文治元年(1185)6月23日示寂。享年29歳。(説明板より)
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処刑された重衡の首については諸説あります。
『覚一本』によると、木津川の畔で処刑された重衡の首は
南都僧兵によって般若寺の門前に曝されたという。
「奈良坂に懸けた。」(『愚管抄・巻5』)(『玉葉』元暦2年6月23日)
「首をば般若寺の大卒塔婆の前に釘付けにこそかけられけれ」
(『百二十句本』、『延慶本』)
釘付けにして懸けられたという大卒塔婆には、
『平家物語(下)P321』に次のような頭注が記されています。
「中川の実範上人が般若野の藤原頼長墓の道標として建てた
一丈余の石門(俗に笠卒塔婆)。
般若寺に現存する笠卒塔婆は、弘長元年(1261)宋の石工
伊行末(いのゆきすえ)の墓標として造られた別碑。」
ちなみに実範(しっぱん=中川中将上人とも)は、
藤原忠実・頼長父子が帰依した僧。
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藤原頼長供養塔の背後に見える笠卒塔婆(国重文)は、かつて般若寺の
約150m南方の般若野五三昧という墓所にありましたが、
明治時代、この寺の境内に移されました。
この笠卒塔婆は、平重衡の首塚であるといわれたこともありますが、
卒塔婆に刻まれた碑文が解読された結果、
1基は宋人石工伊行吉が建立した父伊行末の墓標、1基は母の
無病息災を祈って弘長元年(1261)に建てたということが判明しました。
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経蔵(重要文化財)横手に藤原頼長の供養塔が祀られています。
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藤原頼長公供養塔
平安後期の人。摂政関白藤原忠実の次男。若くして内大臣(17歳)、
左大臣(29歳)となり朝廷政治に辣腕をふるう。
「日本一の大学生(だいがくしょう)」と称賛された俊才であったが、
崇徳天皇に仕え、「保元の乱」の謀主とされた。
合戦の最中流れ矢が首に刺さり重傷を負い、
奈良興福寺まで逃れたが落命す。
遺骸は「般若山のほとり」(般若寺南にあった般若野五三昧)に
葬られるも、京都から実検使が来て墓を暴いたという。
保安元年(1120)生まれ、保元元年(1156)7月14日逝去。享年37歳。
お墓は北山十八間の東方の位置だと思われるが、所在不明。(説明板より)
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「般若野の五三昧(ごさんまい)」とは、都近くにあった五か所の
火葬場(山城の鳥辺野・船岡山、大和の般若野など)のひとつで、
奈良坂の南、般若寺の南側にあった南都の惣墓所です。
奈良坂は山城国と大和国を結ぶ古代からの街道で、
奈良市の北から京都府木津川市に出る坂道です。
保元元年(1156)秋のはじめ、都を舞台に後白河天皇と
崇徳上皇が敵味方となって保元の乱が勃発しました。
皇室内部では皇位継承に関して不満を持つ崇徳上皇と
後白河天皇が、摂関家では藤原頼長(よりなが)と
兄の忠通(ただみち)とが激しく対立、
皇室・摂関家のふたつの内部対立が絡み合って起こりました。
それでも鳥羽法皇が生きている間はなんとか
抑えられていましたが、その死を契機に
一気に対立は深まり、崇徳上皇と左大臣藤原頼長らは、
京都の鴨川の東、白河殿に立て籠り
源為義・平忠正らの軍勢を招きました。
一方、後白河天皇・藤原忠通側は源義朝・平清盛らを動員しました。
戦いの結果は、崇徳上皇側の敗北に終わりました。
敗れても貴族はじめ主な武士に戦死者がいない中で、
頼長だけが流れ矢を首に受けて深手を負い、それがもとでの死、
上皇は讚岐国(香川県)に配流、
為義・忠正ら武士たちはことごとく殺されました。
乱の10日後、頼長の母方の親戚、興福寺の僧玄顕(げんけん)から
合戦後、行方の分からなかった頼長の消息が朝廷に報告されました。
頼長は合戦で首に矢が刺さる瀕死の重傷を負いながらも、
舟で大堰川(おおいがわ=桂川)を下り、
木津川をさかのぼって南都まで逃げ延び、禅定院にいる
父忠実にすがろうと対面を申し出ましたが、拒絶されたため
興福寺の千覚(頼長の母の兄弟)の坊に担ぎ込まれ、
失意のうちに息をひきとったという。その夜、輿に乗せられ
般若寺付近に葬られました。合戦から3日後のことでした。
禅定院は、興福寺の僧成源が元興寺の子院として創建した寺です。
忠実は内乱に巻き込まれるのを避けて宇治にいましたが、
崇徳上皇方の敗北を聞き禅定院に逃れたのです。
頼長の末路が朝廷に報告されると、すぐに検視の役人が派遣され、
般若野に埋められていた頼長の死体を掘り暴きその死骸を確認しました。
これは後白河天皇方のブレーンであった信西(藤原通憲=みちのり)の
さしがねによるものだといわれています。
こうして死骸は般若野に捨てられたままになってしまいました。
頼長がまだ若いころ、尊敬していた信西にあなたは摂関家の
息子さんなのだから学問に励みなさいと勧められ、
信西を学問の師としましたが、学才優れた頼長は4年で
この大学者の信西を凌いでしまったとか、
信西が立身を諦めて出家する時、頼長がそれを惜しんで
泣いたというというエピソードが残っています。
それが保元の乱では相争うこととなったのですから、
考えてみれば皮肉な運命です。
藤原忠実(ただざね)は、優秀な次男の藤原頼長を溺愛し、
長男藤原忠通(ただみち)に関白職を弟に譲るよう迫りましたが、
応じなかったことから、「氏長者(藤原氏の本家)」を
忠通から強引に奪い、頼長に与えました。この結果、
忠実・頼長と忠通との対立が決定的となりました。
忠実は保元の乱の際には、表立っては関わりませんが、
頼長の後ろ盾とも黒幕ともいえる人物なのです。
あれほど頼長を可愛がっていたはずなのに、
忠実は藤原摂関家を守るために中立の立場を取り
我が子を見捨てました。このあと、
『保元物語』(左府御最後付けたり大相国御欺きの事)は、
忠実は心強く頼長を追い返したものの、
人の親として悲しみを語り、涙にくれる姿を記しています。
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般若寺の門前で放った火が寒風に煽られて大きく燃え広がり、
奈良坂を駆け下り、東大寺・興福寺などを焼き尽くしてしまいました。
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前回参拝した時は、楼門前の道を南へ進み、
坂を下って東大寺まで歩きました。(平成19年12月撮影)
↑奈良公園 ←柳生の標識
この坂こそ治承4年(1181)12月、平家方が放った火が駆け下った道です。
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転害門(てがいもん)前(東大寺)の標識
平重衡南都焼討ち(般若寺・奈良坂・東大寺・興福寺)
京都市の相国寺に藤原頼長の墓があります。
崇徳地蔵・崇徳天皇廟・藤原頼長桜塚・白峯神宮(保元の乱ゆかりの地3)
『アクセス』
「般若寺」奈良市般若寺町221
JR・近鉄奈良駅よりバス青山住宅行「般若寺前」下車徒歩約5分
拝観時間9:00~17:00(最終受付16:30)
短縮拝観時間(1月・2月・7月・8月・12月)9:00 〜 16:00
拝観料金 大人500円 中・高生200円 小学生100円
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
倉富徳次郎「平家物語(下巻2)」角川書店、昭和52年
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」日本放送出版協会、平成16年
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年