平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



法性山(ほっしょうざん)般若寺(真言律宗)は、奈良市の北部に位置し、
奈良坂(京街道)に面して建っています。般若寺バス停から坂道を北へ上ると、
優美な楼門(鎌倉時代・国宝)がまず目に入り、楼門(二階造りの門)からは
十三重の石塔(国重文)の均整の取れた美しい造形が望めます。

般若寺楼門
正門は南大門・中大門でしたが戦国時代の兵火で失われ、楼門だけが残りました。


般若寺の創建ははっきりしませんが、寺伝によると、飛鳥時代の629年に
高句麗の慧灌(えかん)が開いたとしています。
その他にも奈良時代の聖武天皇建立説や行基開基説など諸説があります。
どちらにしても、天平勝宝8年(756)の東大寺の古図に記されているので、
それ以前に創建されたことは確かです。

現在、奈良県庁の東をR369が南北に走っています。
この道を北に行くと京都に通じるので、京街道ともよばれ、かつて奈良と
京都の往来に頻繁に利用されていました。奈良坂はその途中にあり、
般若寺楼門の前から北上して木津(現京都府木津川市)・京都へ向かう道を
奈良坂越え(般若寺越え)とよぶ交通の要衝でした。
そのため、般若寺付近は平重衡の南都焼討、徳政一揆、
およそ半年間にわたり繰り広げられた松永久秀の
東大寺大仏殿の戦い・多門城の戦いの兵火にかかるなど、
多くの合戦の舞台となりました。

般若寺HPより転載した境内図に文字入れしました。

受付・拝観入口

楼門(鎌倉時代)国宝
般若寺楼門は1897(明治30)年に「古社寺保存法」により
(旧)国宝に指定され、戦後も「文化財保護法」(1950)施行と同時に
再び「国宝」に指定されました。
鎌倉時代、叡尊上人らによる
文永(1267頃)の際、文殊金堂と十三重石塔を囲む廻廊の西門として
建てられ、かつての境内の真ん中を貫く京街道に面して建っています。
室町・戦国時代には度重なる合戦の渦中におかれながらも
奇跡的に兵火をのがれました。楼閣づくりという意味の「楼門」
建築では日本最古の遺構です。はばたく鳥のつばさのような
軽やかな屋根のそりをもち、小さいながらも均等のとれた姿は
「最も美しい楼門」とたとえられています。全体の伝統の和様式で、
蟇股(かえるまた)や屋根を支える木組の肘木(ひじき)などに
新しく伝来した「大仏様」(だいぶつよう、天竺様とも)が折衷され、
二階の扉や欄干などにも軽快で繊細な感覚が見られます。
明治41年と昭和33年の大修理が行われましたが、
現在も各所に傷みが進行し修理が必要となっています。(
説明板より)



十三重石宝塔 重要文化財
(花崗岩製、総高14.2メートル、基壇辺12.3メートル)
奈良時代、平城京のため聖武天皇が大般若経を地底に収め
塔を建てたと伝えるが、現存の塔は東大寺の鎌倉復興に渡来した宋人の
石大工 伊行末(いぎょうまつ)が建長5年(1253)頃に建立した。
発願者は「大善功の人」としか判明しないが、完成させたのは
観良房良慧(かんりょうぼうりょうけい)で、続いて伽藍を再建し、
般若寺再興の願主上人と称された。以後数度の大地震や兵火、
廃仏毀釈の嵐に見舞われるも、昭和39年(1964)大修理を施し現在に至る。
初重軸には東面薬師、西面に阿弥陀、南面に釈迦、北面に
弥勒の四方仏を刻む。なお修理の際、塔内から発見の白鳳金銅阿弥陀仏と
その胎内仏は秘仏として、特別公開の時のみ公開される。(説明板より)

相輪だけが別に置かれています。
現在、頂上部分に置かれているのは後に補われたものです。
石造相輪(そうりん)
この相輪は十三重石塔の最上部に置かれる部分である。
石塔創建時(鎌倉時代、765年前)に造られた初代作で
大地震(南北朝か室町)で墜落し、三つに割れている。
昭和の初めに、国道(現県道)が般若寺旧境内を分断する形で
造られた時、工事現場で発見された。相輪は下から
露盤・覆鉢(ふくばち)・請花(うけばな)・九輪・
水煙・龍車・宝珠の七つの部分からなる。
二代目は本山西大寺の本坊庭に現存。
三代目(元禄16年作)は青銅製で当山に現存。
四代目は昭和の大修理の際、初代を模して新調された。
当相輪は、過去の大地震を記録する証しである。(説明板より)

戦国時代、旧金堂が焼けたあと寛文7年(1667)に再建された本堂。
本堂に安置されている本尊八字文殊菩薩騎獅(きし)像(
国重文)は、
再建の際に経蔵の秘仏本尊を移したものです。
文殊菩薩は、通常頭髪の結びを、
五髻(ごけい=五か所を結って髻が5
つある髪形)に
結っているのに対して、八字
文殊は八髻に結い、
真言も八字
で表されることからこの名がつけられています。

本堂前の般若寺型石灯籠
石灯籠(鎌倉時代、花崗岩製、総高3,14)
古来「般若寺型」あるいは「文殊型」と呼ばれる著名な石灯籠。
竿と笠部分は後補であるが、基台、中台、火袋、宝珠部は当初のもので、豊かな
装飾性を持つ。火袋部には鳳凰、獅子、牡丹唐草を浮彫りする。(説明板より)
灯籠の火を点す所を火袋(ひぶくろ)といいます。

重要文化財 笠塔婆(かさとうば)二基 (花崗岩製 南塔総高4,46m 北塔4,76m)

笠塔婆形式の石塔では日本最古最大の作例。また刻まれた
梵字漢字は鎌倉時代独特の雄渾な「薬研彫り」の代表作とされる。
弘長元年(1261))7月、宋人石工、伊行吉(いぎょうきち、いのゆきよし)が
父伊行末の一周忌にあたり、その追善と現存の悲母の供養のために建立した。
両塔の前面下部に伊行末の出身地、東大寺再建に従事したことなどその業績を記す。
当初は寺の南方にあったた般若野五三味(南都の惣墓)の入口、
京街道に面して建っていたが、明治初年の廃仏毀釈に遭い破壊され
明治25年に境内へ移設再建される。能の謡曲「笠卒塔婆」は本塔を題材にした
平重衡の修羅もので室町の頃は重衡の墓と見られていた。(説明板より)

2020年1月にスタートしたNHKの大河ドラマ『麒麟がくる』にも
初回から登場する
下剋上の代表的人物として悪名高い松永久秀。
その居城多門山城(たもんやまじょう)の部材が般若寺に残されています。

石塔部材群(鎌倉、室町、戦国時代)
戦国時代、般若寺の近く(南西700m)に松永弾正久秀が築いた
多門山城(現在市立若草中学校敷地)という城があって、
日本で最初の天守閣(四層櫓と推定される)を備え、壮麗な城構えは
ヨーロッパにまで名を知られていたといいます。松永は織田信長に敗れ、
城は信長の命令で打ち壊され、建物は京都へ、城壁石材は郡山城移されました。
石垣には寺の礎石や「般若野」(般若寺の南側にあった奈良の惣墓所)の墓石、
石仏などが徴発利用され、今も郡山城に多数残っています。
般若寺境内に散在する五輪塔、宝篋印塔、石仏などの部材は、
多門山城跡の住宅地(城の北側空堀跡・現在の呉竹町など)から
寺に奉納されたもので、元の「般若野」から運ばれたものと推定される。
 現在も若草中の南入口近くには大量の石仏などが集められている。
(階段下の右側にあり)
(説明板より)

松永久秀は三好長慶の家臣として頭角を現しますが、その権力を奪おうと
長慶の子の義興(よしおき)を暗殺します。さらに室町幕府
13代将軍足利義輝を暗殺して14代将軍に義栄(よしひで)を
擁立し、
畿内の支配者となりました。織田信長が上洛してくると、いち早く降伏して
その家臣となります。のちに謀叛を起こした久秀は、
居城信貴山城(奈良県生駒郡)に籠城しますが、織田信忠に攻め落とされ、
信長が欲しがっていた天下の名物「平蜘蛛の釜」とともに自爆して果てました。

大塔宮護良親王が唐櫃に隠れ危難を逃れた経蔵。

重要文化財 経蔵 (鎌倉時代)
お経の全集である一切経(大蔵経)を収納するお堂。
建物は当初、床のない全面開放の形式で建てられ
何に使われたかは不明であるが、鎌倉末期に改造された。
収蔵のお経は中国で南宋から元の時代に大普寧寺で開版された
「元版一切経」(5500巻)で800巻余が現存している。
般若寺の一切経は仏教の教学研究に利用されるとともに、
毎年4月25日(旧3月)の「文殊会式」では一週間かけて
「一切経転読供養」が営まれ滅罪生善の利益を授けることにも供された。
『太平記』によると「元弘の乱」のとき、後醍醐天皇の子息、
大塔宮護良親王が南都において討幕の活動をして敵方の探索にあい、
般若寺にかくまわれた際、当経蔵にあった大般若経の唐櫃に潜み
危難をのがれることができたという。本尊は旧超昇寺の脇仏であった
十一面観音菩薩像(室町時代)(説明板より)

三つの唐櫃のうち、大塔宮は蓋の開いているひとつに身を潜め、経で身を覆った。
『太平記絵巻』(埼玉県立博物館蔵)『太平記2』より転載。

大塔宮が隠れたという大般若経が納めてあった唐櫃(からびつ)
般若寺蔵 『太平記2』より転載。

『太平記』は、南北朝の動乱を描いた軍記物です。
後醍醐天皇の第3皇子、大塔宮護良(もりなが)親王は、11歳で
比叡山延暦寺に入り、法名を尊雲(そんうん)と号し、天台座主を
4年間務めました。比叡山の大塔に住んだことから、大塔宮と称され、
「修学修行」(=学びを深め、それを実際に行動で示すこと)をよそに、
武芸にばかり励む血気にはやる異色の門主でした。
天皇親政の時代を招くため、父の討幕計画の推進力となって活躍し、
後醍醐天皇にとって最も頼もしい皇子でした。

『太平記(巻5)大塔宮熊野落ちの事』によると、討幕計画がもれ、
後醍醐天皇が還幸されていた笠置山が幕府の大軍に攻められると
いち早く抜け出した大塔宮護良親王は、
信貴山毘沙門堂にひそみ、さらに奈良の般若寺に隠れました。
これを知った幕府方の追手興福寺の塔頭一乗院に仕える侍者、
按察法眼好専(あぜちのほうげんこうせん)は、五百余騎を率いて
未明に般若寺に攻め寄せてきました。大塔宮は防戦しようにも、
その時つき従う者が1人もなく、もはやこれまでと自害を決意しましたが、
その前にあるいは助かるかも知れぬ、隠れて見ようと思い返し、
お経を入れた唐櫃の中に身を隠して難をのがれました。
こうなっては奈良近辺は危ういので、般若寺を出て
赤松則祐(のりすけ)、村上義光ら9人のお供とともに
山伏姿に身をやつし、十津川、吉野、紀州熊野などを転々とし、
還俗してゲリラ戦を展開しました。

その後、倒幕に成功して建武の中興とよばれる天皇の親政による
天下の和平が訪れましたが、それも長くは続きませんでした。
父・後醍醐天皇のもとで大塔宮は、征夷大将軍に任じられながら、
最後は鎮守府将軍足利尊氏と対立して鎌倉に送られ、
東光寺の土牢に長期幽閉された末に殺害されました。
明治になって東光寺跡に大塔宮の霊を祀る
鎌倉宮が創建され、土牢が復元されています。

大塔宮が追手を逃れるため経蔵の唐櫃に
潜んだということをふまえて詠まれた和歌や俳句です。
♪般若寺は 端ぢかき寺 仇の手を 
            のがれわびけむ 皇子しおもほゆ 森鴎外
♪般若櫃 うつろの秋の ふかさかな 阿波野青畝(せいほ)


般若寺中興願主上人 観良坊 良慧大徳 追慕塔
戦火のため廃墟と化してした般若寺を復興した中興の祖、
観良上人を追慕するために建てられた五輪塔です。





♪般若寺のつり鐘ほそし秋の風 子規
般若寺の平重衡供養塔・藤原頼長供養塔  
『アクセス』
「般若寺」奈良市般若寺町221
JR・近鉄奈良駅よりバス青山住宅行「般若寺前」下車徒歩約5分
拝観時間9:00~17:00(最終受付16:30)
短縮拝観時間(1月・2月・7月・8月・12月)9:00 〜 16:00
拝観料金 大人500円 中・高生200円 小学生100円

聖武天皇が奉納と伝える秘仏阿弥陀如来公開
4月29日~5月10日  9月20日~11月11日
『参考資料』
「奈良県の歴史散歩(上)」山川出版社、2007年
 野島博之「図解日本史」成美堂出版、2007年
徳永真一郎「物語と史跡をたずねて 太平記物語」成美堂出版、昭和53年
日本の古典を見る「太平記(2)」世界文化社、2002年

 



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南都焼討の指揮を執った平重衡、保元の乱で戦死した
藤原頼長の供養塔が平成22年、般若寺に建てられました。

最寄りのJR奈良駅


平家による南都焼討は、治承4年(1181)12月のことでした。
4万余騎を率いて南都に向かった平重衡を、南都の僧兵7千余人が
奈良坂や般若寺に砦を築いて待ち構えていましたが、数にまさる
平家軍はこれらをたちまち陥落させ、戦いは夜戦となりました。
同年12月28日は闇夜、同士討ちを避けようと、
般若寺の門前で「火を出せ」と命じた重衡の一言が
のちの彼の運命を悲惨なものに変えました。
重衡の軍勢が松明のつもりで民家に放った火が、
強風に煽られ瞬く間に奈良の寺々の伽藍をのみつくしてしまい、
重衡は仏敵として恨みをかうことになります。

般若寺HPより転載した境内図に文字入れしました。

楼門(国宝)を入ると、すぐ傍に重衡の供養塔があります。



平重衡公供養塔
平清盛の五男。三位の中将。治承4年(1181)5月、
「以仁王の乱「を平定した後、12月11日には滋賀園城寺を焼討し、
同月25日に大軍を率いて南都へ向かう。
興福寺衆徒は奈良坂般若寺に垣楯、逆茂木を廻らせ迎え撃った。
28日、平家勢4万、南都勢7千が般若寺の地で戦い、
夜分に入り総大将重衡が般若寺の門前に立って「夜戦さになって、
暗さもくらし、さらば火を出だせ」と明かりを採る火を命じたのだが、
折からの北風にあおられた火は般若寺を焼き、東大寺興福寺など
南都の大伽藍を焼く尽くしました。後日、「一の谷」で平氏は源氏に敗れ、
重衡は「須磨」で囚われの身になり鎌倉に送られました。
しかし重衡を恨んでいた南都の大衆は身柄を引き取り、
木津川の河原で処刑し、その首を持ち帰り般若寺の門前に曝したという。
かつて般若寺の東の山裾に「重衡の首塚」と伝える塚があったが今は不明。
墓と伝えるものは京都伏見区日野、木津川市安福寺、高野山にもある。
武勇に優れた重衡は、また「なまめかしくきよらか」と評判で、
宮廷の女房方にも
人気のある公達でした。保元2年(1157)生。
文治元年(1185)6月23日示寂。享年29歳。(説明板より)

処刑された重衡の首については諸説あります。
『覚一本』によると、
木津川の畔で処刑された重衡の首は
南都僧兵によって般若寺の門前に曝されたという。

「奈良坂に懸けた。」(『愚管抄・巻5』)(『玉葉』元暦2年6月23日)
「首をば般若寺の大卒塔婆の前に釘付けにこそかけられけれ」
(『百二十句本』、『延慶本』)

釘付けにして懸けられたという大卒塔婆には、
『平家物語(下)P321』に次のような頭注が記されています。
「中川の実範上人が般若野の藤原頼長墓の道標として建てた
一丈余の石門(俗に笠卒塔婆)。
般若寺に現存する笠卒塔婆は、弘長元年(1261)宋の石工
伊行末(いのゆきすえ)の墓標として造られた別碑。」
ちなみに実範(しっぱん=中川中将上人とも)は、
藤原忠実・頼長父子が帰依した僧。

藤原頼長供養塔の背後に見える笠卒塔婆(国重文)は、かつて般若寺の
約150m南方の般若野五三昧という墓所にありましたが、
明治時代、この寺の境内に移されました。

この笠卒塔婆は、平重衡の首塚であるといわれたこともありますが、
卒塔婆に刻まれた碑文が解読された結果、
1基は宋人石工伊行吉が建立した父伊行末の墓標、1基は母の
無病息災を祈って弘長元年(1261)に建てたということが判明しました。

経蔵(重要文化財)横手に藤原頼長の供養塔が祀られています。


藤原頼長公供養塔
平安後期の人。摂政関白藤原忠実の次男。若くして内大臣(17歳)、
左大臣(29歳)となり朝廷政治に辣腕をふるう。
「日本一の大学生(だいがくしょう)」と称賛された俊才であったが、
崇徳天皇に仕え、「保元の乱」の謀主とされた。
合戦の最中流れ矢が首に刺さり重傷を負い、
奈良興福寺まで逃れたが落命す。
遺骸は「般若山のほとり」(般若寺南にあった般若野五三昧)に
葬られるも、京都から実検使が来て墓を暴いたという。
保安元年(1120)生まれ、保元元年(1156)7月14日逝去。享年37歳。
お墓は北山十八間の東方の位置だと思われるが、所在不明。(説明板より)

「般若野の五三昧(ごさんまい)」とは、都近くにあった五か所の
火葬場(山城の鳥辺野・船岡山、大和の般若野など)のひとつで、
奈良坂の南、般若寺の南側にあった南都の惣墓所です。
奈良坂は山城国と大和国を結ぶ古代からの街道で、
奈良市の北から京都府木津川市に出る坂道です。

保元元年(1156)秋のはじめ、都を舞台に後白河天皇と
崇徳上皇が敵味方となって保元の乱が勃発しました。
皇室内部では皇位継承に関して不満を持つ崇徳上皇と
後白河天皇が、摂関家では藤原頼長(よりなが)と
兄の忠通(ただみち)とが激しく対立、
皇室・摂関家のふたつの内部対立が絡み合って起こりました。

それでも鳥羽法皇が生きている間はなんとか
抑えられていましたが、その死を契機に
一気に対立は深まり、崇徳上皇と左大臣藤原頼長らは、
京都の鴨川の東、白河殿に立て籠り
源為義・平忠正らの軍勢を招きました。

一方、後白河天皇・藤原忠通側は源義朝・平清盛らを動員しました。
戦いの結果は、崇徳上皇側の敗北に終わりました。
敗れても貴族はじめ主な武士に戦死者がいない中で、
頼長だけが流れ矢を首に受けて深手を負い、それがもとでの死、
上皇は讚岐国(香川県)に配流、
為義・忠正ら武士たちはことごとく殺されました。

乱の10日後、頼長の母方の親戚、興福寺の僧玄顕(げんけん)から
合戦後、行方の分からなかった頼長の消息が朝廷に報告されました。
頼長は合戦で首に矢が刺さる瀕死の重傷を負いながらも、
舟で大堰川(おおいがわ=桂川)を下り、
木津川をさかのぼって南都まで逃げ延び、禅定院にいる
父忠実にすがろうと対面を申し出ましたが、拒絶されたため
興福寺の千覚(頼長の母の兄弟)の坊に担ぎ込まれ、
失意のうちに息をひきとったという。その夜、輿に乗せられ
般若寺付近に葬られました。合戦から3日後のことでした。

禅定院は、興福寺の僧成源が元興寺の子院として創建した寺です。
忠実は内乱に巻き込まれるのを避けて宇治にいましたが、
崇徳上皇方の敗北を聞き禅定院に逃れたのです。

頼長の末路が朝廷に報告されると、すぐに検視の役人が派遣され、
般若野に埋められていた頼長の死体を掘り暴きその死骸を確認しました。
これは後白河天皇方のブレーンであった信西(藤原通憲=みちのり)の
さしがねによるものだといわれています。
こうして死骸は般若野に捨てられたままになってしまいました。

頼長がまだ若いころ、尊敬していた信西にあなたは摂関家の
息子さんなのだから学問に励みなさいと勧められ、
信西を学問の師としましたが、学才優れた頼長は4年で
この大学者の信西を凌いでしまったとか、
信西が立身を諦めて出家する時、頼長がそれを惜しんで
泣いたというというエピソードが残っています。
それが保元の乱では相争うこととなったのですから、
考えてみれば皮肉な運命です。

藤原忠実(ただざね)は、優秀な次男の藤原頼長を溺愛し、
長男藤原忠通(ただみち)に関白職を弟に譲るよう迫りましたが、
応じなかったことから、「氏長者(藤原氏の本家)」を
忠通から強引に奪い、頼長に与えました。この結果、
忠実・頼長と忠通との対立が決定的となりました。
忠実は保元の乱の際には、表立っては関わりませんが、
頼長の後ろ盾とも黒幕ともいえる人物なのです。

あれほど頼長を可愛がっていたはずなのに、
忠実は藤原摂関家を守るために中立の立場を取り
我が子を見捨てました。このあと、
『保元物語』(左府御最後付けたり大相国御欺きの事)は、
忠実は心強く頼長を追い返したものの、
人の親として悲しみを語り、涙にくれる姿を記しています。

般若寺の門前で放った火が寒風に煽られて大きく燃え広がり、
奈良坂を駆け下り、東大寺・興福寺などを焼き尽くしてしまいました。

前回参拝した時は、楼門前の道を南へ進み、
坂を下って東大寺まで歩きました。(平成19年12月撮影)
↑奈良公園 ←柳生の標識
この坂こそ治承4年(1181)12月、平家方が放った火が駆け下った道です。

転害門(てがいもん)前(東大寺)の標識
平重衡南都焼討ち(般若寺・奈良坂・東大寺・興福寺)  
京都市の相国寺に藤原頼長の墓があります。
崇徳地蔵・崇徳天皇廟・藤原頼長桜塚・白峯神宮(保元の乱ゆかりの地3)  
『アクセス』
「般若寺」奈良市般若寺町221
JR・近鉄奈良駅よりバス青山住宅行「般若寺前」下車徒歩約5分
拝観時間9:00~17:00(最終受付16:30)
短縮拝観時間(1月・2月・7月・8月・12月)9:00 〜 16:00
拝観料金 大人500円 中・高生200円 小学生100円
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年 
倉富徳次郎「平家物語(下巻2)」角川書店、昭和52年
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」日本放送出版協会、平成16年
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年

 

 

 

 



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吉野の桜は、万葉歌を詠んだ奈良時代には詠われていませんが、
平安時代の『古今和歌集』に詠まれ、『新古今和歌集』になって
多くの歌人によって詠まれることとなりました。
その桜を有名にした一人が西行法師です。
吉野の桜を愛し多くの歌を残しました。

西行の本名は佐藤義清(のりきよ)といい、元永元年(1118)に誕生し、
建久元年(1190)に亡くなりました。
奇しくも同じ年に清盛が生まれています。
二人が生まれたのは、平安時代末期の貴族社会から
武家社会にかわる政治的転換期でした。
18歳で鳥羽院に仕え、その時の同僚清盛とは、
北面の武士として親しくつきあい、語り合いました。

23歳で突然出家し円位、西行と名のり、以後諸国行脚の日々を送り、
歌人として名を残しました。清盛の死、源平合戦、平家の滅亡を見届け、
そして源義経が衣川で自害し、源頼朝が奥州を平定した後、
72才でその生涯を終えています。従って平家の隆盛と衰亡の一部始終を
目の当たりに見て生きていたことになります。

奥千本口のバス停傍に金峯神社の修行門が建っています。
この門をくぐり、西行庵を目指します。

ゆるやかな坂道を上ると、やがて金峯神社の鳥居が見えてきます。



鳥居左手の小道を下ると義経かくれ塔、
右へ行くと西行庵・黒滝村鳳閣寺へと続きます。

老杉の中の石畳の古道を上って行くと、西行庵への案内板があります。





「左大峯道」「右鳳閣寺道」と彫られています。



「左 西行庵 0.2km」「右 鳳閣寺 4.0km」、「西行庵急坂注意」の案内板

ここから谷筋の急な坂道を下りて行くと、小さな台地が見えます。







左手は谷に面した東屋、右手に西行庵があります。

西行が庵をつくったのは標高750㍍、三方を山並みに囲まれた平地です。

1987年に西行庵が復元され、中に西行の座像が置かれています。
現在、吉野水分神社に安置されている像もかつてはここにあったという。

暁鐘成(あかつきかねなり)が著した江戸時代の『西国三十三所名所図会』には、
「凡一間半に奥行一間ばかりの草屋なり。西行上人の像を置けり、
長二尺一寸許の木造也」と記されています。

「西行庵 (現地説明板より)
 この辺りを奥の千本といい、この小さな建物が西行庵です。
鎌倉時代の初めのころ
(約八百年前)西行法師が俗界をさけて、
この地にわび住まいをした所と伝えています。
 西行はもと、京の皇居を守る武士でしたが世をはかなんで出家し、
月と花とをこよなく愛する歌人となり、吉野山で読んだといわれる西行の歌に

    とくとくと 落つる岩間の苔清水 汲みほすまでもなきすみかかな
    吉野山 去年(こぞ)の枝折(しおり)の道かへて まだ見ぬ方の 花をたずねむ
    吉野山 花のさかりは 限りなし 青葉の奥も なほさかりにて
    吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき

 この歌の詠まれた「苔清水」はこの右手奥にあり、
いまなおとくとくと清水が湧き出ています。
 旅に生き旅に死んだ俳人松尾芭蕉も、西行の歌心を慕って
二度にわたり吉野を訪れ、この地で
    露とくとく 試に 浮世すすがばや と詠んでいます。吉野町」

庵から100mほど行くと、苔清水があります。

 岩間に湧き出ている苔清水

芭蕉は生涯に二度、貞享元年(1684)9月(野ざらし紀行)と
4年後の春に(笈の小文)西行庵
を訪れ、
露がとくとくと流れ出る浮世を離れたこの地で、

♪露とくとく試(こころみ)に浮世すすがばや(野ざらし紀行)
(とくとくの清水が、昔と変わらずに雫を落としている。ためしに、
この清水で俗世間のけがれをすすいでみたいものだ。)

♪春雨の 木下(こした)につたふ清水哉(笈の小文)
(春雨が清水となって、木の下の苔むした
岩の間を伝わって流れているよ。)と句に吟じました。
この句碑が向かって左側にたっています。
右側にも「露とくとく…」の句碑があるそうですが、見落としてしまいました。

西行庵付近から見渡す吉野の山並み  
晩春の奥千本、若葉に覆われた山のところどころに桜の花が残っています。

三十歳を越した西行は、高野山を生活の根拠地とし、高野の地から度々、
都だけでなく吉野山に分け入ったり、遠くは四国まで足をのばしています。

 ♪花を見し昔の心あらためて 吉野の里に住まんとぞ思ふ 
(桜の花にあこがれて浮かれ歩いた昔の心を思い出し、
改めて昔のように吉野の里に住もうと思っている。)

西行は「吉野の里に住もうと思う」と詠んでいますが、いつから
吉野に住んだのか、
庵の生活が何年続いたのかは定かではありません。

白洲正子氏は「西行はここに庵を結んで以来、
毎年のように吉野に入った。」と推測されています。(『西行』)

吉野山にはその数3万本ともいわれる桜が下千本から中千本、
上千本、奥千本、下から上へと花期をずらして開花してゆきます。
この桜は奈良時代に役行者(えんのぎょうじゃ)が修行によって蔵王権現を感得し、
その姿を桜の木に刻んだことに始まり、吉野では桜はご神木となりました。

以来、蔵王権現や役行者の信者たちが桜を次々と植えていき、
現在のような桜の名所となったといわれています。
当時の紀行文などによると、辻々に鍬と桜の苗木を持った少年が立っていて、
参詣人に苗木を売っていた様子が書かれています。
江戸時代前期の公家で歌人でもある飛鳥井(あすかい)雅章も『芳野紀行』に
「日本が花、七曲り坂など過ぎゆくに、もろ人桜苗を求め権現に奉る」と記しています。

『芳野紀行』にある七曲り坂は、吉野山ロープウェイ右側の「七曲り坂」のことです。
近鉄吉野駅ケーブル乗場から山上の吉野山駅までは、
ロープウェイを利用するか、七曲り坂を上っていく方法があります。

近鉄電車吉野駅前







七曲り坂を上りきるとケーブル吉野山駅、
駅前に奥千本方面行きのバス停があります。
『アクセス』
「西行庵」吉野山ロープ駅から徒歩約2時間
「奥千本口」バス停下車 徒歩約25分 「金峯神社」から 徒歩約20分
『参考資料』
「奈良県の地名」平凡社、1991年  
岡田喜秋「西行の旅路」秀作社出版、2005年 
「週刊古寺をゆく 金峯山寺と吉野の名刹」小学館、2001年
白洲正子「西行」新潮文庫、昭和63年



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吉野山は奈良時代に役行者(えんのぎょうじゃ)が開いた修験の霊場で、
吉野と熊野を結ぶ
大峯奥駆道の北端に位置し、
平安時代までは山岳信仰の霊地でした。
また、頼朝に追われる身となった義経が静御前と別れた
哀話や南朝の悲劇を今に伝えています。

古くは神武東征伝説にも登場し、熊野から八咫烏に案内された神武天皇が、
吉野、国栖(吉野町)、宇陀など を経て大和に入っています。
応神天皇が吉野離宮に行幸したとき、吉野川上流に住む
国栖(くす)人が参内して酒を献上し、歌舞を奏したという伝承もあります。
以後、朝廷の節会には国栖が歌笛を奏上するのが習わしとなりました。

近江朝末期には、天智天皇と弟の大海人(おおあま)皇子の間に緊張が高まり、
兄の目をくらますため、大海人皇子(天武天皇)は吉野に逃れて隠棲し、
兄の死後、皇位の座を奪うため挙兵し、天智天皇の子、
大友皇子との戦い
に勝利をおさめました。(古代最大の内乱壬申の乱)
その天武天皇の歌碑が吉野駅からケーブル乗場への途中にあります。



天武天皇 吉野宮に幸(いでま)しし時の御製歌    

♪よき人の よしとよく見て よしと言ひし 
芳野よく見よ よき人よく見つ 万葉集(巻1・27)

(昔のよい人がよい所だと よく見てよいと言った吉野をよく見なさい 
よい人よ よく見なさい
揮毫 文学博士 文化功労者 犬養孝  現地駒札より)

金峯山寺(きんぷせんじ)の本堂蔵王堂には、本尊の蔵王権現が祀られ、
平安時代中期には、
修験者の一大拠点となっていました。
この寺に集まった僧侶、修験者らの一部は、
武力を持って勢力を振るい、悪僧化する者がいました。(=吉野法師)

蔵王堂は仏教と神道のミックスといわれる修験道の創始者、
役行者が開き、蔵王権現を祀ったのが始まりという。このお堂は
木造建築物では東大寺大仏殿についで大きく、高さが34メートルもあります。

鎌倉時代末期、大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)が
鎌倉幕府倒幕のために、蔵王堂を本陣として吉野全山に城郭を構えて
挙兵した時、蔵王堂の僧兵三千余騎がこれに従いました。
その翌年、
北条方の攻撃で吉野城は落城し、
六万余騎の幕府軍が蔵王堂に迫りました。
親王はこれが最期だと覚悟を決め、蔵王堂の前庭に兵を集めて
酒宴を開いていると、村上義光がやってきて護良(もりよし)親王を説得して
落ち延びさせ、自身はその身代わりになって自害しました。(『太平記』)



花矢倉展望台上り口にたつ三郎鐘説明板

展望台上り口付近に「世尊寺(せそんじ)跡の碑」が建っています。

世尊(せそん)寺は釈迦如来を本尊とする金峯山寺の塔頭で、
役行者が金峯山に入る前に修業したと伝えています。
明治7年(1874)に廃寺となり、
その後焼失して鐘楼と梵鐘(国重文)だけが残りました。
安置されていた聖徳太子像は吉野山内の竹林院に保管され、
輪蔵(経蔵の一種)の普賢・普成像は蔵王堂に納められています。






花矢倉展望台は、眼下に上千本や中千本、蔵王堂、
遠く金剛・葛城・二上山まで見える絶景スポットです。

義経が都を落ちて吉野の奥に逃げ込んだ時、吉野法師らが義経主従に襲いかかってきました。
義経の忠臣佐藤忠信は、義経を落ち延びさせるためその身代わりとなって戦い、
花矢倉の辺で吉野法師の中心人物覚範を討ち取っています。(『義経記』)





東大寺の「奈良太郎」、高野山の「高野二郎」と並んで「吉野三郎」あるいは
「三郎鐘」と呼ばれ、日本三古鐘のひとつとされています。

この梵鐘の銘文によれば、平忠盛が亡き母の菩提を弔うために寄進したが、
音が小さいので、20年後の永暦元年(1160)に改鋳したとあります。
現在は除夜の鐘にだけ、金峯山寺の僧侶によって撞かれます。

総高204センチ、口径123センチ、乳は五段六列、上下帯とも四方に唐草紋が
鋳(文字.などを浮き出すように鋳造する方法)されています。

忠盛の嫡子、清盛は大治4年(1129)正月、従五位下に叙せられ、
12歳で貴族社会の仲間入りを果たし、さらに左兵衛佐(さひょうえのすけ)に
任じられ、周囲の人々から驚きの目でもって見られました。
「兵衛佐」は殿上人への最短コースの一つです。
忠盛はといえば、同じ大治4年正月に従四位上に昇ったばかりです。
その息子がいきなり左兵衛佐というので、藤原宗忠は日記
『中右記(ちゅうゆうき)』に「満座の目を驚かす」と書きとめているほどです。

こうして貴族となった清盛は、その後も異例のスピードで出世していきます。
忠盛が世尊寺の鐘楼を寄進した頃の清盛の急速な栄達ぶりをご紹介します。

保延元年(1135)、父忠盛が海賊追討した功により、
18歳の若さで従四位下に昇り、その翌年、やはり父の譲りにより
中務大輔(なかつかさおおすけ)に任じられ、
翌年20歳になると、父の熊野本宮造営の功績で肥後守も兼ねました。
そして保延6年(1140)
には従四位上まで昇りました。
自分よりも清盛を早く昇進させようという忠盛の親心が窺われます。

上千本の急坂を上りつめるた子守集落の吉野水分神社の前には、
かつて世尊寺にあった石灯篭が置かれています。


吉野水分(みくまり)神社は、子守明神とも称され、水の神を祀り、
古くは吉野山の山頂、青根ヶ峰に祀られていました。
水のもつ生命力に対する神秘感は、雨を司る神をいつしか
みこもり(身ごもり)の神・子産みの神・子守の神に発展させて、
子守明神となり、子宝・安産の神様として親しまれています。

神仏習合時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされ、
修験道でも重視され、大峰修験者の守り神でした。

地蔵菩薩の垂迹とは、仏(地蔵菩薩)が民衆を救うため、
仮に姿を変えて神(子守権現)となって現れることをいいます。



左は拝殿、右が本殿、正面奥に幣殿があります。

境内は狭いのですが、現在の社殿は豊臣秀頼改築による
豪華で華麗な桃山社殿の代表で、国の重要文化財に指定されています。

本殿は三つの棟を一棟に連ねた三社一棟造で、正面の三ヵ所に破風があり、
中央に春日造、左右に流造の三殿を横に繋げたユニークな形式となっています。

右殿(向かって左)に玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像(国宝)が
祀られています。   他にも天万栲幡千幡姫命
(あめよろずたくはたちはたひめのみこと)坐像(重文)など社宝が多くあります。

水分神社を出てしばらく歩くと、高城山(標高702㍍)の登り口に
牛頭天王社跡(吉野町大字吉野山)があります。

高城山は大塔宮の吉野城の詰の城(最終拠点となる城)になったところで、
牛頭天王社はこの城(ツツジヶ城)の守神と伝えられています。

各務支考(かがみしこう)(蕉門十哲の一人)が南朝の悲しい歴史に思いを寄せて

♪歌書よりも 軍書に悲し 吉野山 と詠んでいます。 
(古くから桜の名所として歌に詠まれた哀れさよりも太平記に書かれた戦乱や
志半ばで崩御された後醍醐天皇の哀れさの方がもっと悲しい)

『アクセス』
「吉野水分神社」奈良県吉野郡吉野町吉野山1612
近鉄吉野駅からロープウェイで3分
ロープウェイ吉野山駅下車 徒歩約1時間30分
または
 吉野山駅からバスで23分「奥千本口」バス停下車、徒歩約20分
『参考資料』
「奈良県の地名」平凡社、1991年 高橋昌明編「別冊太陽平清盛」平凡社、2011年 
「近畿文化660」(吉野と大峯奥駆道)近畿文化会事務局、平成16年
「週刊古寺をゆく 金峯山寺と吉野の名刹」小学館、2001年
 「歴史と旅(古事記神話の風景)」秋田書店、2001年8月号 
「歴史読本(日本書紀と謎の古代歴史書)」新人物往来社、平成12年 
 徳永真一郎「太平記物語 物語と史跡をたずねて」成美堂出版、昭和53年

 





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藤原景清(?~1195年?)は伊勢を本拠とした上総介藤原忠清の子で、
上総判官忠綱・上総兵衛忠光の弟にあたります。
上総七郎兵衛とも悪七兵衛ともよばれ、体は大きく、公達そろいの
平家一門の中では、異色の勇猛果敢な豪傑として知られています。
本姓は藤原ですが、俗に平景清といわれます。
父の忠清は小松家(重盛やその息子たち)の有力家人で、
源氏が挙兵すると侍大将として各地を転戦し活躍します。

景清は頼政軍との宇治川の橋合戦に侍大将として初登場し、以降、義仲追討の
北陸合戦には、父忠清や兄忠光とともに侍大将として出陣し大敗します。
新宮十郎行家との播磨室山合戦、一ノ谷合戦など平家方の主要な武将の
一人とし
数々の合戦に参戦しました。
屋島合戦では、十人力のもち主という源氏方の
美尾屋(水尾谷、美穂谷)十郎と死闘を繰り広げ、何とか逃げようとする十郎の兜の錣を
素手で引きちぎる「錣引き」の場面は、屋島合戦のハイライトのひとつとなっています。
錣(しころ)は、首回りを守るために革や鉄板をつづり合わせて
作ったもので、
非常に丈夫に出来ていま

景清の一族はみな、頼朝暗殺に執念を燃やします。父忠清は一門の都落ちには
同行せず、本国の伊勢にとどまり、元暦元年(1184)に平家継(平家貞の兄
総大将となって
伊賀・伊勢で大規模な反乱を起こすと、平家残党の
平家清(平宗清の子)、平家資(家貞の弟家季の子)らとともに参加します。
反乱軍は近江に向かい追討軍と近江国境付近で激突し、佐々木氏の
礎を築いた鎌倉軍の佐々木秀義や反乱の首謀者平家継が戦死するなど、
両軍とも多くの犠牲者を出し乱は鎮圧されました。(元暦元年の乱)

忠清は戦場から敗走しましたが、翌年、捕われ六条河原でさらし首にされました。

景清の兄忠光は
ノ浦の戦場から脱出し、魚の鱗で左目をおおって盲者を装い、
人夫となって永福寺(ようふくじ)の工事現場に紛れ込み
頼朝暗殺の機会を窺っていました。しかし、その容貌を怪しまれて捕われ
和田義盛に身柄を預けられた後、湯水を絶っていたが、
六浦海岸(横浜市金沢区)で晒し首になったという記事が『吾妻鏡』に見えます。


一方、景清も一門が入水する中、ノ浦から逃れて各地でゲリラ活動を続け、
源氏追討に並々ならぬ闘志を燃やします。これについて多くの諸本が
紀伊国湯浅氏のもとに潜んでいた重盛の子息、忠房を擁して兄の忠光らと
戦ったことや伊賀大夫知忠の謀反に与したことを記しています。

あちこちさまよったあと、叔父の能忍を頼って身をよせますが、
源氏の追跡は厳しく、能忍は土蔵に隠して下男と二人で世話をします。
ある日、能忍は景清が小さい頃からそばが好きだったのを思いだし、
下男に「そばを打て」と命じました。ところが土蔵の中にいた景清には
「首を討て」と聞こえたから大変です。叔父が自分の首にかかった賞金に
目がくらんだと思い込み、いきなり蔵から飛び出し能忍を一刀のもとに
斬伏せたところに、下男がそばを運んできて、はっと気づいた景清。
いずこともなく去っていきました。大阪市のかぶと公園(豊新4丁目)には、
叔父を過って殺害したのを悔やみ、この辺りでかぶとを脱ぎ捨てて立ち去ったことや
摂津国島下郡吹田に三宝寺という大寺院を建立した大日坊能忍が
平家一門の景清を匿ったという伝承が『大阪伝承地誌集成』に記されています。
三宝寺は焼失したとみられ、現在はありません。

その後のことは諸説ありますが、『百二十句本・平家物語』には、
絡めとられて鎌倉に送られ、武勇を惜しんだ頼朝は、
宇都宮に身柄を預け帰順を勧めますが、景清は断食のすえ、
東大寺大仏供養の日に死んだとされています。

『平家物語』における景清は平家方の主要な武将の一人にすぎませんが、
その運命や過酷な逃亡生活を続けながら、執拗なまでに頼朝の命を狙い続けた姿に
能や歌舞伎・浄瑠璃などの作者は、魅力を感じたのでしょうか。
景清は古典芸能の主人公に仕立てられていき人気を集めました。
古典芸能において、景清が題材に取り上げられ、彼が登場する一連の作品を
「景清物」とよび、『平家物語』に描かれた姿からは大きく外れ、英雄化されていきます。

平家滅亡後、建久六年(1195)三月、大仏供養に加わるため将軍頼朝が
東大寺に到着した時、頼朝を狙う男が近くに潜んでいました。
『長門本』には、「大仏供養の日、南大門の東のわきに怪しげな侍がいた。
梶原景時が捕えてみると、平家の侍、薩摩中務丞宗助という男で頼朝を
殺害しようとひそんでいたと白状したので、頼朝は供養が終わった後、
六条河原で斬るよう命じた。」とあり、
また、元暦元年の乱で逃亡した小松家家人の平家資(いえすけ)は、
東大寺落慶供養に参加する頼朝の命を狙って東大寺転害門(てがいもん)
付近に潜んでいたところを捕らえられ処刑されたという。
これらの逸話が謡曲「大仏供養」や舞曲「景清」に発展し、
景清が執念深く頼朝の命を狙う様子を描いています。

景清は清水寺の音羽山に身を潜め、せめて景清一人なりとも頼朝に一太刀振おうと、
自然石に爪で観世音菩薩を彫りながら機会を待っていると、奈良で大仏供養が
行われるという情報が入り、頼朝を討とうと東大寺の転害門に隠れて
待ち伏せしますが、畠山重忠に見破られ逃亡します。



景清が爪で彫ったという小さな観音像は、
清水寺随求堂前の石灯籠の火袋内に安置されています。

清水寺には、景清の足型石とも弁慶のものともいわれる仏足石が残っています。

平家再興を企て江ノ島の岩牢から脱出し、怒りの荒事を見せる「景清」は、
歌舞伎十八番のひとつとして、江戸庶民に大人気でした。

景清を押し込めたと伝わる岩窟の跡が、
鎌倉市の化粧坂(けわいざか)と山王ヶ谷の分岐にあります。

「景清土牢」「水鑑景清」「景清窟」などともよばれている洞窟ですが、
あたりは薄暗い上に説明板もなく、うっかりすると通り過ぎてしまいます。

平景清伝説地(平景清の墓)  
『参考資料』
川合康編「平家物語を読む(平家物語と在地伝承)」吉川弘文館、2009年 
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年 川合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年
三善貞司「大阪伝承地誌集成」清文堂、平成20年 白洲正子「謡曲平家物語」講談社文芸文庫、1998年
 歴史群像シリーズ「図説・源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
   別冊歴史読本「源義経の謎」新人物往来社、2004年 「大阪府の地名」平凡社、2001年
 京都新聞社編「京都伝説散歩」河出書房新社、昭和59年 現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館、2008年
現代語訳「吾妻鏡」(6)吉川弘文館、2009年 現代語訳「吾妻鏡」(5)吉川弘文館、2009年

 



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大和郡山市今井町の瑞厳山光慶寺(浄土真宗西本願寺派)には、
平清盛自筆の赦免状があります。

平康頼のご子孫の平さまからお寄せいただいた情報で、
この寺を訪ねご住職からお話を伺いました。







縁起によると、長元元年(1028)に、皇慶阿闍梨大僧都が
山城国久世郡岩田村(八幡市岩田)に
草創し
天台宗門跡寺院、瑞厳山皇慶寺と称したのが始まりです。

次いで平康頼の嫡男左衛門尉清基の末子千代寿が出家して
光慶と名のり、
皇慶寺を光慶寺と改めて住職となり、浄土真宗としました。
その後、十一代超宗の時に現在の今井町に移転しました。


赦免状は鹿ケ谷の平家打倒の謀議が発覚し、鬼界ヶ島へ流された
僧俊寛、丹波少将成経、平判官康頼の三人の内、
成経、康頼に対して平清盛が出したものです。

事情をお話しするとご住職は「この寺は観光寺院ではないので
駒札や説明板もないし、
赦免状は先代が奈良国立博物館に預けたので
見せるものは何もないのだが」と仰って、

お寺から檀家に配布されている『光慶寺縁起略記』をくださいました。

『光慶寺縁起略記』の中にある赦免状の画像です。

一、平清盛自筆の赦免状(一通)
治承年間、鹿ケ谷で平家討滅を企て、露見し鬼界ヶ島へ流された。
僧俊寛、少将成恒、康頼法師三人の内、治承二年七月、
高倉天皇の中宮徳子(清盛の娘)難産の為、成恒、康頼の二人に対して
罪を赦した。清盛自筆の赦免状である。
全文は次の通り
「重科者遠流に免ず早く帰洛の思ひを成るべし、今度中宮御産の御祈によって
非常の赦行の間、鬼界ヶ島の流人、少将成恒、康頼法師赦免の状如件」
治承二年(1178)七月廿六日
     入道相国  花押
                      少将成恒 康頼法師

『参考資料』
「瑞厳山光慶寺縁起略記」
『アクセス』
「光慶寺」奈良県大和郡山市今井町35 JR大和路線「郡山駅」下車徒歩約7分



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平清盛は以仁王挙兵の際に手を貸した上、反平氏の拠点となっていた
奈良の東大寺・興福寺を攻撃しようとしていました。たちまち
その噂が伝わり南都の僧兵たちは、清盛への反感を一層つのらせ、
不穏な動きをしていました。こうした中、
清盛は瀬尾(せのお=妹尾)
兼康ら500余騎を奈良に送り、
これを取り締まろうとしましたが、逆に僧兵は兼康の宿所に押し寄せ、
兼康の軍兵60余人を討ち取り、その首を猿沢の池のほとりに曝しました。

そうした状況を受け清盛は、治承4年(1180)12月25日、
反平氏勢力を一掃するため平重衡(清盛の5男)を大将軍に命じて、
南都を攻撃させました。南都の僧兵7千余人は
奈良坂・般若寺に堀をほり、砦を築いてこれを待ちかまえます。
京都を出発した平家軍4万余騎は、狛(こま=山城町)に宿泊し翌朝、
軍勢を二手に分けて奈良坂・般若寺(はんにゃじ)の城郭に押し寄せ、
鬨の声をどっと挙げて同月28日に合戦となりました。

卯の刻(午前6時)に矢合わせをし、
戦いは一日中続きましたが、
しだいに数にまさる平家軍が優勢となり、二か所の城郭は
二つとも落ちました。
夜に入り余りに暗いので、重衡が般若寺の
門前に立って「火をつけよ」と命じると、播磨国の住人
福井荘(姫路市西部)の下司(げし)次郎大夫友方が楯を割り、
松明のつもりで民家に放った火が折からの強風に煽られ、
般若寺奈良坂を駆け下り、東大寺は大仏殿・講堂以下、伽藍の大半を焼失、
興福寺も金堂・講堂・南円堂をはじめ、伽藍の多くを失いました。
大将軍重衡も予想だにしない結果でした。

奈良坂・般若寺は、京都から奈良への入口にあたり、般若寺から
旧京街道を北に10分ほど歩くと、古くから奈良坂と呼ばれる峠にでます。
南都と山城国の往来に頻繁に利用された峠越えの道です。
今回は南都焼き討ちの舞台となった般若寺から東大寺、興福寺へと辿りましょう。

◆般若寺
法性山般若寺(真言律宗)は、寺伝では629年に高句麗の慧灌(えかん)が
創建したと云われていますが、その他、
奈良時代の聖武天皇建立説や行基開基説など諸説あります。
この地は平城京の鬼門の方角にあたることから、聖武天皇が都の平安を願って
大般若経を納めたことから般若寺と
よばれるようになったと伝えます。
平重衡の南都焼き討ちの際、寺は
戦場となり全て焼失しました。
「巻12・重衡の斬られの事」によると、「平家が壇ノ浦で滅びた後、重衡は
木津川の畔で首を斬られ、般若寺の門にかけられて見せしめにされた。」とあります。
鎌倉時代になると
石造十三重塔、続いて楼門、経蔵などが造営されました。
楼門の前に立つ十三重石塔は、宋の石工伊行末(いぎょうまつ)が再建したものです。


伊行末は明州(浙江省寧波)出身で東大寺再建のために重源に招かれて来日、
大仏殿や諸堂の石壇、四面回廊、法華堂前の石灯籠を造り、
この石灯籠には五位の工人としての身分「石権守行末」と刻まれています。
大仏殿修造後、叙官のお礼として石灯篭を施入したと考えられています。
伊行末の息子伊行吉が父の三回忌にあたる弘長元年(1261)に建立した
笠塔婆は我国最大の石塔婆です。もとは寺の約150m南方の
街道に面して建っていましたが、明治になって般若寺境内に移されました。

この寺はかつて荒れるにまかせていた時期も
ありましたが、
現在は春の山吹、秋には色とりどりのコスモスが境内に
咲きみだれ
「関西花の寺17番札所」として知られています。

東大寺再建に活躍した伊行末が再建した十三重の塔(国重文)


本堂には、本尊の木造八字文殊菩薩騎獅(きし)像(国重文)が安置されています。



笠塔婆2基(国重文)
弘長元年(1261)に1基は父伊行末のため、
1基は母の無病息災を祈って伊行末の嫡男伊行吉が建立しました。


兵火が駆け下った奈良坂口
◆東大寺
 東大寺は二度焼討に遭っています。平安末期の平家による南都焼討と
戦国時代、三好三人衆と松永久秀の戦いに巻き込まれて再び焼亡しました。
寺は聖武天皇の皇太子基(もとい)親王の菩提を弔うために
建てた金鐘寺を
はじまりとし、本尊は国宝盧舎那仏で奈良の大仏さんの名で親しまれています。

平重衡の南都攻めの兵火では正倉院・二月堂・法華堂・転害門などを
除く大半の堂舎が焼失しました。再建、再々建された境内には
奈良、鎌倉、江戸時代の伽藍、仏像が混在しています。



南大門の両脇には木造金剛力士立像(国宝)が一対安置されています。

南大門から大仏殿へ



南大門の真北に建つ中門(国重文)

大仏殿

大仏殿正面の八角灯籠(国宝)は、大仏開眼の752年頃の造立と考えられています。

国宝の廬舎那仏坐像

三月堂ともよばれる法華堂。その前の石灯籠(国重文)には、
建長6年(1254)に伊行末が施入したと刻まれています。

法華堂北の階段を上ると、お水取りが行われる二月堂があります。









兵火が燃え下った道筋にたつ転害門(てがいもん)



九州の宇佐八幡神を大仏の鎮守として勧請したのが始まりです。
管原道真の♪
この度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
で有名な手向山八幡宮




◆興福寺
興福寺は鏡王女(かがみのひめみこ)が夫藤原鎌足の病気回復を祈願して
山城国山階(京都市山科区)に創建した山階(やましな)寺に始まります。

その後、飛鳥を経て平城遷都に伴い藤原不比等によって現在地に移され、
興福寺と改名された藤原氏の氏寺です。
不比等の娘が聖武天皇の
妃・光明皇后となってから多くの堂塔・
仏像が天皇によって造営され、
藤原氏の氏寺として栄えていましたが
、平重衡の南都焼討でほぼ全焼しました。
この時、兵火を免れた奈良時代の諸像は国宝館に安置されています。

その後も火災と復興をくり返し、現在の諸堂は鎌倉時代以降の
建築物です。
往時は大伽藍が建ち並び栄華を誇っていた寺も明治初年の廃仏毀釈によって、
春日神社が分離し、旧境内は奈良公園になりました。
一時は廃寺同様となり、五重塔を売る話まで出たほどでしたが、
法相宗大本山興福寺として復興、平成10年に世界遺産に登録されました。
門も塀もなく境内にはどこからでも入ることができます。
♪秋風や囲(かこい)もなしに興福寺 子規の句が思い出されます。

興福寺のすぐ南、三条通りを渡ると猿沢池にでます。
妹尾兼康の部下の首がこの池の畔に掛けられました。



平家物語(巻五)奈良炎上のあらすじを載せています。
平家物語(巻五)奈良炎上 
平重衡の墓   平重衡とらわれの松跡  
般若寺の平重衡供養塔・藤原頼長供養塔  
木津川市泉橋寺(南都焼討犠牲者の供養塔)  

『アクセス』
「般若寺」奈良市般若寺町221
 JR・近鉄奈良駅よりバス青山住宅行「般若寺前」下車徒歩5分
 「東大寺」奈良市雑司町406-1 近鉄電車奈良駅下車東へ徒歩約15分
又は JR「奈良駅」、近鉄電車奈良駅より市内循環バス「大仏前」下車北へ3分
 「興福寺」奈良市登大路町48 近鉄電車奈良駅下車徒歩5分
 JR「奈良駅」下車バス停「県庁前」すぐ。 または徒歩約15分
『参考資料』
「郷土資料事典」(奈良県)人文社 「奈良県の歴史散歩(上)」山川出版社
 「奈良県の地名」平凡社
 茂木雅博「日中交流の考古学」同成社 
川勝政太郎「日本石造美術辞典」東京堂出版 「佐紀佐保」綜芸社 「興福寺」小学館

 



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有王は法勝寺の法師だった兄二人とともに俊寛に仕えた童です。
鹿ケ谷の陰謀で鬼界が島へ流罪となった3人のうち、
藤原成経と平康頼は赦され帰京しましたが、俊寛だけ戻らないので
心配した有王は
両親にも告げず、ひとり鬼界が島に渡る決心をします。

奈良の叔母のもとに暮らす俊寛の娘を訪ねて手紙を預かり、
途中追いはぎにあったりしながらも、手紙だけは髪を束ねた中に
隠すなど苦労を重ねて
やっと島にたどり着きました。

島の人に俊寛の行方を聞いても誰も知らないと言う。ある朝、
磯のほうからふらふらと歩いてくる痩せ衰えた俊寛にめぐりあうと、

藤原成経、平康頼が去り一人残された俊寛は漁師に魚をもらい、
貝や海草を拾って生き長らえてきた
辛い日々を語り始めます。
その住まいはといえば、雨露も凌げそうにないあばら家でした。


有王は娘からの手紙を見せ、「北の方さまとお子様は鞍馬の奥に逃れ、
そこで人目を忍んでお暮らしになっておられたので
有王がときどき行ってお世話をしてきましたが、ご子息
に続いて
北の方さまもついに旅立たれてしまいました。」と語ると、

「妻子に会いたいがために恥を忍んで生き延びてきたのに…」と
娘のことを気遣いながらも、
生きる気力をすっかり失くしてしまい、
可愛がっていた有王に看取られながら死のうと決意しました。 


もともと満足なものとはいえない食事をその日から止めてしまい、
ただひたすら阿弥陀の名号を唱えながら三十七歳の生涯を終えます。
それは有王が島に渡ってきて二十三日目、配流後三年のことでした。

有王は泣き明かし、それから俊寛を荼毘に付し、急いで都に戻り
俊寛の娘のところに行って鬼界ヶ島での一部始終を語りました。
娘は嘆き悲しみ十二歳で出家し、
奈良の尼寺法華寺に入り父母の後生を弔いました。 


有王はその後、俊寛の遺骨を首にかけて高野山へ上り奥院に納め、
蓮華谷の法師となり、諸国行脚して主の後世を弔いました。
「かくのごとく、人の嘆きをどんどん積み重ねて行く
平家の世の行く末が恐ろしく思われる。」と物語は語っています。

俊寛の娘が出家した法華寺
法華寺南門(国重文)

本堂(国重文)



袴腰付きの鐘楼(国重文)

 高野山奥の院入り口辺に高野聖の拠点、蓮華谷があり
高野聖は高野信仰を広める役割を担っていました。
高野山への納骨が盛んであったのは空海の入定信仰によりますが、
万寿三年(1026)正月、上東門院(一条天皇の中宮)が落飾と同時に、
髪を奥の院の御廟前に納めたのが最初だとされています。
鞍馬の奥にある大悲山峰定寺
 大悲山峰定寺 (俊寛僧都供養塔) 
 高野山蓮華谷高野聖(俊寛と有王)  
『アクセス』
「法華寺」 奈良市法華寺町882
 近鉄電車 新大宮駅徒歩20分 
近鉄電車 奈良駅よりバス 自衛隊前、西大寺北口行「法華寺前」下車3分
『参考資料』
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 「奈良県の歴史散歩」(上)山川出版社
 「源平合戦事典」吉川弘文館 日下力「平家物語を知る事典」東京堂出版

 


 
 




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吉野山の桜が歌に多く詠まれるようになったのは、平安時代からで
その桜を有名にした一人が
西行法師(1118~1190)です。
吉野の桜を愛し多くの歌を残しました。

平安時代末期の貴族社会から武家社会にかわる政治的転換期、
保元の乱の火種が大きくなり始めた保延6年(1140)頃に出家して西行となり、
義経が衣川で自害し、頼朝が奥州を平定した後、72才で没しています。
従って平家の隆盛と衰亡の一部始終を、目の当たりに見て過ごした訳です。

   

保元の乱で敗れた崇徳上皇やその母
待賢門院とは
深い繋がりがあり、
平清盛や源頼朝等とも交流がありました。

俗名佐藤義清、和歌山県那賀郡打田町生?
佐藤家はむかで退治で知られている藤原秀郷
(俵藤太)の流れをくむ武門の家柄で、
社会的には下級官吏でしたが
広い荘園を有する富裕な家でした。
母は源清経の女(むすめ)で祖父清経は
今様や蹴鞠の名手として有名であり
当時知られた風流人でした。

文武の血が西行に受け継がれて
いった
ということになります。
18歳から北面の武士として鳥羽院に
仕えましたが(平清盛とは同年同職)

23歳で京都の勝持寺で突然出家し、
円位、西行と称し一株の桜を植えました。
人々はその桜を西行桜と名づけ、寺を
花の寺とよぶようになりました。
出家の原因は厭世説、政治原因説
鳥羽上皇の中宮であった待賢門院璋子への
恋ゆえと
いう説もありますが謎とされています。
何不自由のない佐藤家の嫡子が若くして
出家したことは当時大変驚かれました。
出家後京都の周辺に居住して東山や嵯峨に
庵を
結び鞍馬にも足を運び
修行に
励んでいました。
29歳頃奥州の旅に赴き
能因法師の足跡をたどります。
後芭蕉が西行を慕って奥州を旅したとも
いわれています。(奧の細道)
以後30年ほど高野山を拠点に諸国を遍歴。
壮年時代吉野に庵を結び3年間を過ごし
大峰奧駆道修行をします。
熊野・中国・四国にも旅し
各地で数々の歌を詠みました。

(北面の武士)
御所の警備・行幸の際の皇家を司る武士
詰所が御所や鳥羽殿の北にあったので
こうよばれました。

(保元の乱)1156年
崇徳上皇と弟後白河天皇が皇位継承を
巡って皇族、公家、武士、肉親同士が相争う
戦いを
起こしました。
吉野山西行庵
横270cm奥行180cm
高さ65cmばかりの庵です。
西行庵から奧駈道に戻り青根ヶ峰を目指します。
苔清水
西行庵近くにある岩間より流れくる清水

”とくとくと落つる岩間の苔清水
汲みほすまでもなきすみかかな”西行

芭蕉もここで
”露とくとく試みに浮世すすがばや”
と詠んでいます。
昭和45年まで女性の入山を拒んできた
女人結界の碑。
この前を通り過ぎ青根ヶ峰へ
標高858mの頂上に着きました。
登山者が残していったのでしょうか
登頂記念の札がぶら下っています。

木々に囲まれて景色は望めません。
この先も熊野に向かう奧駈道が続きます。
      『アクセス』
近鉄電車「吉野駅」下車青根ヶ峰まで約8㎞ 徒歩約3時間        
   又はバス15分奧千本下車 徒歩約1時間30分。

系図は佐藤系図より、地図は吉野山ハイキングマップより
お借りしたものに一部文字入れさせていただきました。

佐藤氏は藤原秀郷より六世の孫公清にはじまり、
公清の官名が左衛門尉であったため左衛門尉の左をとって
佐藤と称したといわれます。
西行法師を平安時代末~鎌倉時代始の人とする説もありますが、
鎌倉時代の始まりを頼朝が幕府を開いた時(1192年)とする
一般的な説に従わせていただきました。


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