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平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平家打倒の兵を挙げた源頼朝は、伊豆国の代官・山木兼隆を討ち取り、
治承四年(1180)八月二十三日、三百余騎で石橋山に陣を布きましたが、
大庭景親勢と伊東祐親勢に挟み撃ちにされて完敗し、
豪雨の山中にちりぢりになって逃げ込みました。

石橋山古戦場(1)(2)では、石橋山頂上に残る
古戦場の史跡をご紹介しました。
今回は、敵の目を逃れて山中を彷徨う頼朝主従の姿を追ってみましょう。


大庭景親方の探索が山といわず谷といわずくまなく行われ、

土肥郷(湯河原町・真鶴一帯)の領主土肥実平は、石橋山から頼朝を手引きして、
石橋山の南に連なる土肥の椙山(すぎやま)に命からがら辿りつきました。
しかし敵方は執拗に追いかけてきて、頼朝は何度も死を覚悟したといいます。
『愚管抄』によると、追いつめられ自害しようと鎧を脱ぐ頼朝に「松葉を切って
鎧の下に敷き、兜を取って上に置く。」などの作法を土肥(とひ)実平が教えたという。
椙山について『神奈川県の地名』には、「土肥郷には椙山という地名はなく、
郷内の杉が群生していた山一帯とも考えられる。」と書かれています。

頼朝を探していた加藤五景貞(景員かげかずとも)・光胤、景廉、堀親家、
宇佐美実政らが、険しい峯の上に立っていた頼朝を見つけて
駆け上ってきました。
頼朝も味方が集まって来たのを見て喜びましが、
土肥実平は「皆無事で集まってくれたのは
嬉しいことであるが、
この人数では目につく。頼朝殿は実平が命にかえても
お隠し申しあげる。
ここで別れて各々生き長らえ
時期を待とうではござらぬか。」と諭したので、
従者たちは涙ながらに去って行きました。

その頃、北条時政の子息三郎宗時は土肥山から小田原南部の早河辺で
伊東祐親の軍勢に囲まれて討たれました。
伊勢から逃れてきた加藤五景貞を庇護していた
工藤茂光(もちみつ)は、
子息狩野五郎親光とともに山中をあちこちと頼朝の跡を追って
探していましたが、
茂光は肥っていたため、険しい山道を歩くことができず
ついに進退きわまり、
「おい、親光よ。敵は近づいておるぞ。急いで我が首を討て。
急げ。」と言いますが
親の生首を討つに偲びず、父を肩にかけて上ろうとしますが、
我が身一人でもやっとの山道。敵は間近に迫る。
生け捕られては恥と、茂光は親光を逃がして自害しました。


箱根権現(現・箱根神社)の19世別当行実(ぎょうじつ)は、父良尋の代から
源氏に仕え、為義から「東国の輩は、行実がもし催促したなら従うように。」と、
義朝には「駿河・伊豆の家人らは行実が催促したならば従うように。」という
公文書を与えられます。その誼から行実は伊豆配流中の頼朝と往き来をし、
しばしば頼朝のために祈祷をしてきました。
頼朝が石橋山で惨敗したことを聞いた行実は憂い嘆き、武勇に秀でた
弟永実に命じて
頼朝を探し出させ永実の僧房に匿いました。
これが治承四年八月二十四日のことです。

しかし行実の弟良暹(りょうせん)は、山木判官兼隆の祈祷師をしていたので、
行実や永実に逆らって、悪徒を集めて頼朝を襲おうとします。ここも危なくなり、
頼朝は翌日権現の山伏に案内されて土肥の椙山に戻って行きました。
後、鎌倉に本拠を構えた頼朝は箱根権現と伊豆権現を二所と呼んで
崇拝し
毎年正月には、二所詣と称して
将軍みずから参詣するのが幕府の恒例行事となりました。


八月二十六日、箱根山に潜んでいた佐々木定綱・盛綱・高綱らは、
全成(今若)に行き合ったので渋谷重国の館に連れてきました。
重国は喜んで彼らを迎えましたが、世間に知れるのを気遣って、
密かに倉の中に招きいれて膳を出して酒を勧めます。
平治の乱当時七歳だった今若は、醍醐寺で出家し僧侶となっていたものの、
以仁王の令旨が下されたのを京都で伝え聞き、修行僧のいでたちで
醍醐寺を抜け出し下向した。と後に頼朝に語っています。

渋谷重国については、「頼朝挙兵・三嶋大社」でも触れましたが、
少しつけ加えておきます。
源義朝の家人であった佐々木秀義は、平治の乱後、
近江国佐々木庄(滋賀県安土町)を没収されたため、伯母の夫藤原秀衡を頼って
奥州に向う途中、相模国渋谷荘(藤沢市長後)の領主渋谷重国が、
通りがかりの佐々木父子を引きとめて手許にとどめました。
相模国に二十年住む間に、秀義の四人の子、定綱・盛綱・高綱・経高が
頼朝の配所に出入りするようになり、秀義と重国の娘の間には義清も生まれました。
以仁王の事件後、「北条時政が頼朝を大将軍として謀反を起こそうとしている。」と
いうことを都で聞いた大庭三郎景親は、帰国後佐々木秀義を招いて
「御子息の定綱は、頼朝の許に出入りをしているようだから気をつけるよう。」と
注意すると秀義は、定綱を伊豆に使いにやり、この話を頼朝に伝えさせます。
この知らせは頼朝が挙兵を決意する引き金となりました。
重国は頼朝から挙兵への参加を呼びかけられましたが、
外孫の佐々木五郎義清とともに大庭景親について参陣しています。
『源平盛衰記』には、義清は大庭景親の妹婿とあり、
平家家人であった重国としては、致し方ない選択だったのでしょう。
その後、重国は頼朝のもとに参陣し、佐々木兄弟を匿い
その家族を援けた功により、所領を安堵され子息高重とともに御家人となりました。

頼朝と別れた加藤五景貞父子は、箱根の山中に潜伏していましたが、食料も尽き
気力もなくなり呆然としていました。景貞は息子たちに「私はもう長くは生きられない。
汝らはまだ若いのでむだに命を捨ててはならない。私をこの山に捨てておいて
頼朝殿をお尋ね申せ。」というので断腸の思いで父を伊豆山権現に送り届け、
そこで景貞は出家をすることになりました。
石橋山古戦場(1)早川駅から石橋山古戦場を歩く  
石橋山古戦場(2)佐奈田霊社・文三堂 
石橋山合戦で敵味方に分かれた渋谷一族と大庭一族  
しとどの窟(真鶴町)    しとどの窟(湯河原町)  
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 「源平盛衰記」(三)新人物往来社 「源頼朝のすべて」新人物往来社 

上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 上横手雅敬「源義経 流浪の勇者」文英堂
 「神奈川県の地名」平凡社 奥富敬之「吾妻鏡の謎」吉川弘文館

 

 

 



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R東海道線を見下ろす急斜面、そのみかん畑一帯の小さな谷間が
ネジリ畑といわれ、ここは頼朝の先鋒・佐奈田与一義忠が
俣野(またの)五郎景久と組み打ちをして長尾定景に討たれた場所です。
谷の東側、丘の上には与一を祀る佐奈田霊社が建ち、そこから100m程離れた
向かいの丘には与一の死後、敵の中に斬り込んで討たれた
郎党文三を祀る
文三堂が石橋山の激戦を今に伝えています。




佐奈田霊社は、与一が俣野景久と暗闇の中で組み討ちの最中、
「いずれが与一か」と味方からの
問いかけに「たん」が絡んで声が出ず、
そうこうしているうちに、
敵に討たれてしまったという伝承に因んで
「痰・咳・喘息止め」に
効果がある神として崇められています。


石橋山合戦の様子は『源平盛衰記』に詳しく書かれています。
盛衰記「巻20・石橋合戦の事」から与一・文三の奮戦ぶりをご紹介します。
頼朝は「敵は武蔵・相模に名のある武士が多いが今日の第一陣は
大庭・俣野兄弟であるぞ。彼らを討ち取る先陣は誰にしようか。」というと、

岡崎四郎義実が進み出て「息子の与一義忠は、弓矢を取っては誰にも
決して引けをとりません。先陣を務めるに相応しいと思います。」

そこで頼朝は「今日の戦いは、与一が先陣して手柄をたてよ。」と仰せになります。

与一は郎党の
文三家安を呼び「頼朝殿より直々に今度の軍の先陣を
務めよと承った。
多くの武士の中から選ばれたことは弓矢取る者の誇りであるが、
生きて再び帰ることは
あるまい。帰国して与一の母上や妻に
一昨日家を出たのが最期だったと伝えてくれ。

与一が討死にしたならば、二人の幼子をどこか山奥にでも隠しおいて、
頼朝殿が世にお出になったならば、名乗り出て岡崎・佐奈田の領地を継がせよ。
文三は子らの後見人となり、墓前に香華を供えて後世を弔ってくれ。」と言う
「殿が2歳の時から文三が親代わりとなり、夜は胸に抱き、昼は肩車をして

大切にお育て申しました。5、6歳におなりになると、一日も早く
人より優れた武者に
なって欲しいと、矢や的で弓の射法をお教えしました。
殿は今年25、
文三57、先陣を駆けて討ち死にするという殿を見捨てて
文三一人帰国するわけには
参りません。
どこまでも殿とご一緒する覚悟でございます。そんな用事は他の者に

お申しつけ下さい。」というので故郷へは童を遣わしました。

与一その日の装束には「青地の錦の直垂(ひたたれ)に
赤縅(あかおどし)の肩白の鎧の裾金物打ちたるを
着て、
妻黒の矢負ひ、長覆輪(ながふくりん)の剣を帯(は)きけり。
白葦毛なる馬をぞ引かせたる。」と
与一の装束が紹介されます。


頼朝は「鎧の縅(おどし)の色が敵の目につきやすい。着替えよ。」と言いますが、
もとより討死覚悟の与一は「戦場は弓矢を取る者の晴れの場、
過ぎたることはありますまい。」と15騎ばかりで進み出ます。 
与一は文三に「めざすは、大庭・俣野の兄弟であるぞ。与一が大庭に組んだら、
文三は俣野を討ち取れ。与一が俣野に組んだら、文三は大庭を討ち取れ。」と命じ、
「岡崎四郎義実の嫡子、佐奈田与一義忠、生年25。
我と思わん者は組めや、組めや。」と叫んで駆け出します。
一方、平家陣は「佐奈田与一はよき敵であるぞ。逃がすな。」と与一目指して進みます。
大庭は俣野五郎に、「何とかして佐奈田与一を討ち取れ。裾金物が光る鎧に
白葦毛の馬に乗ったのが与一であるぞ。」という。

左手は海、右手は山、暗闇に豪雨、やがて与一は目当ての俣野五郎と
出合い組み打ちを始めますが、2人共馬からどうと落ち、
上になり下になりどちらがどちらか区別がつかない乱戦が続きます。
やっと与一は俣野五郎を組み伏せ、その首をかこうとしますが、
先ほど敵将を討ち取った時、刀を拭わなかったため血糊がこびりついて
刀の鞘が抜けません。そうこうしているうちに俣野の従弟の
長尾定景が与一の背後から組みかかり首を掻き斬りました。


文三は与一の討死した所より谷一つ隔てた峰で戦っていましたが、
敵の稲毛三郎が「文三!与一は討たれたぞ。逃げよ。助けてやろう。」と声をかけます。
しかし、「文三は幼い頃より、戦いには組むということは習いましたが、
逃げ隠れするということはいまだに知りません。
貴殿の郎党が、主が討たれて逃げたとしたらどんなものでしょう。
与一殿が討たれたとあらば、文三の命はもういらぬものよ。」と敵方に斬りこみ、
屈強の兵ども8人を斬り倒してついに討死しました。




与一が俣野景久を組み伏せた畑の作物は、
みなねじれてしまうということから「ねじり畑」と名づけられています。

『吾妻鏡』には、石橋山合戦後の建久元年(1190)、
頼朝が伊豆山権現参詣の帰り、佐奈田与一と文三の墓を訪れ
落涙したと記されているので、戦死後まもなく2人の墓が築かれたようです。


文三堂への参道

石橋山古戦場(1)  
石橋山古戦場(3)土肥山中を彷徨う頼朝主従  
石橋山合戦で敵味方に分かれた渋谷一族と大庭一族  
『参考資料』
新定「源平盛衰記」(三)新人物往来社 「源頼朝のすべて」新人物往来社 
「三浦一族と相模武士」神奈川新聞社 河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館
 鈴木敬三「有職故実図典」吉川弘文館「源平合戦事典」吉川弘文館



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治承4年(1180)4月、以仁王が諸国の源氏に下した平家追討の令旨が
伊豆に配流されていた頼朝の許に届き、やがて頼朝は挙兵を決意しました。
同年8月、まず
伊豆国代官の山木兼隆を討ちとり、幸先のよいスタートを切りましたが、
まだ従う兵が少なく源氏譜代の家人三浦氏との合流を図り、
伊豆を出て石橋山に陣取りました。

そこへ押し寄せた平家方の大庭景親軍と戦いますが、頼みとしていた
三浦一族の軍勢が折からの豪雨のため到着が遅れて大敗し、
一同はちりぢりに山中に逃げ込みます。頼朝は土肥の椙山に潜んだ後、
再起を期して真鶴から小船でからくも安房(千葉県)への脱出に成功しました。


石橋山古戦場は「石橋」バス停から熱海方向に旧道に入り、線路ぎわの
急坂を上った相模湾を見下ろす位置にあり、佐奈田霊社の辺が戦闘の中心でした。
佐奈田霊社には、この合戦で討死した佐奈田与一義忠が祀られています。

JR
早川駅から歩いて石橋山古戦場へ向かいます

小雨が降るあいにくのお天気です






石橋山古戦場は道幅狭く、山は間近に迫り、すぐ下はすい込まれそうな青い海。
とても三千騎が集合できるようなスペースはありません。
きっと山も谷も武者たちで埋め尽くされていたことでしょう。





古戦場からは頼朝が安房へと脱出した真鶴半島が遠くに見えます。

佐奈田霊社

『源平盛衰記』や『吾妻鏡』を読み進めながら石橋山古戦場を訪ねましょう。
頼朝は長年つとめてきた写経を走湯山権現(伊豆山神社)に納め、
妻政子を
僧侶覚淵に預け、300騎ほど率いて相模国土肥郷に着きました。
三浦半島の豪族三浦一族がこれに合流しようとしますが、
折からの強風波浪にはばまれて、海路をとれず陸路を迂回しました。
ようやく8月23日、小田原の酒匂川(丸子川)の対岸まで到着し、
大庭景親一族の家を焼き払いましたが、大雨による増水のため
酒匂川(さかわがわ)を渡ることができず夜明けを待つことになります。


援軍が到着しないまま、頼朝は源氏の白旗に以仁王の令旨をつけて、

相模灘を見下ろす石橋山に陣を構えました。
頼朝が頼みとする武士達は北条時政一族や安達盛長・佐奈田与一義忠など、
それぞれ「家を忘れ、親を忘れて戦う覚悟」という頼もしい勇者たちです。


一方、平家側は大庭景親を大将に三千騎が海を背後に頼朝軍と谷一つ隔てて対陣し、
頼朝の後方には、伊豆の伊東祐親の300騎が襲いかかろうとしていました。


三浦軍が大庭景親一族の家を焼き払った煙が空を覆うほどに立ち上り、
三浦一族が酒匂川まできたことを知った景親は、三浦一族が頼朝軍に
加わる前に討ち取ろうと、頼朝軍に襲いかかります。

合戦に先立って大庭景親と北条時政の間で交わされた言葉戦い
(戦場での言葉による非難の応酬)が『源平盛衰記』に書かれています。
大庭景親が「昔、義家殿の後三年合戦にお供して出羽国金沢柵を攻めるとき、
16歳で先陣を駆けて、右目に矢を射られながらも、敵を討ち取り
名を後代に留めた鎌倉権五郎景政の末裔である。」と名乗ると、

北条時政は「景親は景政の子孫と名乗るが、
我君は清和天皇の第六皇子貞純親王の御子、六孫王より七代後胤、
八幡殿の四代の御孫・先(さき)の右兵衛佐(頼朝)殿であるぞ。
お主はなぜ三代相伝の君に弓を引き、矢を射るのか。」と返す。
「確かに昔は主君であったが昔は昔、今は今。恩こそ主よ。
我らが受けた平家の恩は
山よりも高く海よりも深い」と言い返し、
雨と闇の中での死闘が繰り広げられます。
石橋山古戦場(2)佐奈田霊社・文三堂    石橋山古戦場(3)土肥山中を彷徨う頼朝主従 
 石橋山合戦で敵味方に分かれた渋谷一族と大庭一族  

『アクセス』
「石橋山古戦場」小田原市石橋 JR早川駅より徒歩約1時間10
小田原駅より箱根登山バス「石橋」下車10分(バスは土・日・祝日運休・
平日もバスの本数は少ないので、箱根登山バス℡0465351271にお確かめ下さい。
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 
新定「源平盛衰記」(3)新人物往来社 川合康「源平合戦の虚像を剥ぐ」講談社 
「源頼朝のすべて」新人物往来社 佐藤和夫「海と水軍の日本史」原書房 
「平家物語図典」小学館

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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清盛の横暴を抑え諌めていた清盛の長男重盛が他界すると、
後白河法皇と清盛の間には波風が立ち始めた。清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、
高倉天皇を退位させ娘徳子が生んだ僅か三歳の安徳天皇を即位させます。
これによって皇位への道を閉ざされた後白河法皇の皇子以仁王は、
平氏討伐の令旨を下し、頼朝の叔父にあたる源行家に命じて諸国の源氏に伝えさせた。
頼朝に令旨が届いたのは「吾妻鏡」によると
治承四年(1180)4月27日のことであった。
同年5月、以仁王は頼政とともに挙兵、しかし頼政は宇治川の合戦で討死し、戦場から
逃れた以仁王も奈良への途上、光明山の鳥居前で流れ矢に当たり命をおとした。
清盛は宇治川合戦に勝利したものの京都周辺の反平家勢力を避けるため、
同年6月突如遷都を強行します。しかし山と海に挟まれた狭い地形の福原での
新都造営はなかなかはかどりません。そこへ相模国から清盛のもとに
頼朝の謀反を知らせる大庭三郎景親の早馬が到着します。

ここから「大庭が早馬の事」を読んでいきます。
治承4年9月2日相模国の住人大庭三郎景親が福原へ早馬で来て申すことには
「去る八月十七日伊豆国流人、前の右兵衛佐頼朝は、舅北条四郎時政を使わして、
伊豆国目代和泉判官兼隆を山木館で夜討ちにしました。
そののち、土肥、土屋、岡崎をはじめ伊豆相模の兵三百余騎、頼朝に誘われて
相模国石橋山に立て籠もっていたところに、景親が平家方三千余騎を引き連れて
攻めたので、兵衛佐は苦戦し僅か七、八騎になって土肥の杉山へ逃げ籠もりました。
平家方畠山庄司次郎五百余騎と源氏方三浦大介(おおすけ)義明の子三百余騎とが
鎌倉由比ガ浜、小坪ヶ浜で戦いましたが、畠山は敗れ武蔵国へ退きました。
その後畠山一族の河越小太郎重頼、稲毛三郎重成、小山田別当有重の一族、
江戸太郎重長、笠井三郎清重など三千余騎が三浦の衣笠城に押し寄せて
合戦となりました。その際、大介義明は討ち死、義明の子供は久里浜の浦(横須賀市)
から舟に乗って安房上総へと渡りました。」と報告してきました。
平家の人々はこれを聞いて都遷りのこともすっかり興ざめしてしまった。
若い公卿や殿上人は「いっそ早く大事が起こればよい。征伐に向おう。」などと
何ともうかつなことをいう。丁度この時、畠山庄司重能、小山田別当有重、
宇都宮左衛門尉朝綱は大番役で京に滞在していた。
「頼朝と親しい間柄の北条はいざ知らず、その他はまさか朝敵に味方することは
ございますまい。今に正しい情報をお聞きになると思います。」と畠山庄司重能が申すと
「そのとおりだ。」と申す人もあったが「いやいや今に一大事を引き起こすぞ。」と
囁く者もあったとか。入道相国の怒りは大変なものであった。「そもそもかの頼朝は
平治元年12月父義朝の謀反によって死罪にするはずであったのに、
お亡くなりになった池殿が嘆願されたので、罪を減じて流罪にしたのにその恩を忘れて、
弓を引き矢を放つとは神も仏もお許しになることがあるものか。
今に頼朝には天罰が下るであろう。」と仰る。
(平家物語・巻五「大庭が早馬の事」「朝敵揃への事」)

◆大庭三郎景親とは桓武平氏・鎌倉権五郎景政から出た一族で、
大庭御厨(おおばみくりや・藤沢市大庭)に所領を持ち、景政の曾孫にあたる景親は
一族の棟梁であった。鎌倉権五郎景政は後三年の役で源義家の軍に従って戦い
武名を轟かせ、景親も兄景義とともに保元の乱では義朝に従い白河殿を攻めるなど、
源氏とは縁の深い一族であった。その後、景親は何らかの事情で処刑されるところを
平氏に助けられ、その恩に報いるため平家に仕え有力家人の一人となった。
「清盛は景親が献上した坂東八カ国一の名馬を『望月』と名づけ大切にしていたが、
馬の尾に鼠が巣を作り、子を生んだため陰陽頭安倍泰親に下げ渡した。」
(平家物語巻5「物怪の事」)とありこの逸話からも景親と清盛の親しい関係が
うかがわれる。一方兄の大庭平太景義は頼朝の挙兵に応じて戦功をたて、
以後鎌倉幕府の有力御家人の一人として活躍します。
以仁王・頼政が挙兵した時、大番役のため京にいた景親はその追討にあたり、
続いて伊豆にいる頼政の孫有綱を討つため帰国した。その半月後、
頼朝が挙兵すると景親は三千の軍勢を率いて石橋山に頼朝軍と戦いこれを破った。


『参考資料』「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 「平家物語」(中)新潮日本古典集成

上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 野口実「源氏と坂東武士」吉川弘文館 「国史大辞典」吉川弘文館



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