平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




名古屋市熱田区には、祭神を平景清とする景清社があります。
この地は景清の屋敷跡といわれ、現在、熱田神宮に所蔵されている
太刀癬丸(あざまる)は、景清が奉納したと伝えています。









能には、景清を主人公にした作品が二番あります。「大仏供養」と「景清」です。
 「大仏供養」は、東大寺の大仏供養に頼朝が参拝する事を知った景清が
転害門に潜んで命を狙いますが、見つかり春日の山中に姿を消すという物語です。
『平家物語』諸本に記された平家残党の逸話や各地に残る平家残党伝説が
景清の物語として置き換えられ、英雄化された景清が描かれています。
もう一方の「景清」は、「大仏供養」の続編のような作品で、
頼朝に許された景清が自らの両目をえぐり、盲目となって日向へ赴き、
そこへ景清の娘が訪ねて来るところから始まります。
景清は熱田の遊女との間に生まれたのが女の子だったので、何の役にも立たないと
鎌倉亀ヶ江谷(やつ)の長者にあずけておいたとしています。


ここでそのあらすじをご紹介させていただきます。
「景清は平家方の勇将で悪七兵衛として知られる人物ですが、
実像ははっきりしないようです。能における景清は、平家没落後、
両眼を失い日向国(宮崎県)に流されているという設定です。
物語は景清の娘・人丸が、父恋しさに鎌倉から日向に向かう場面から始まります。
その頃、景清は粗末な草庵で乞食生活を送りながら、落ちぶれた我が身を
嘆いていました。そこへ人丸と従者が偶然通りかかり、景清に父の行方を尋ねます。

景清は人丸が自分の娘であることに気づきますが、娘の方はまさか眼前の
やつれ果てた老人が父とは思いもよりません。景清は娘のためを思って名乗らず、
他へ行って尋ねるよう言いますが、内心では薄い親子の縁を悲しく思うのでした。
人丸と従者が今度は近辺の里人に景清の居所を尋ねると、何と先ほどの
盲目の老人こそその人だと知れます。事情を聞いた里人は哀れに思い、
二人を草庵に伴って、景清に声を掛けます。悲しみから立ち直れない景清は
自分の名を聞いて耳を塞ぎますが、平家語りの「日向の勾当(こうとう)」
(勾当とは平家琵琶の官名)としての自分の境遇を思い出し、
物語をしましょう、と言い出します。その時、ついに、
里人は黙していた娘と父を対面させます。娘は名乗らない父を涙ながらに責め、
父は名を隠すしかない自らを恥じながら娘を抱き寄せるのでした。

屋島合戦での父の手柄について聞きたいという娘の所望により、
景清はかつての体験を生々しく思い出し、強敵・義経を討つため、
一人で源氏の軍に立ち向かい、敵方の三保谷(みほのや)の兜の錣
(兜の一部分)を引きちぎった(「錣引き」)、その勇猛さを語るのでした。
語り終えて心乱れた景清は、自らの死後の弔いを頼んだ後、
娘を故郷・鎌倉へと送り出します。二人の今生の別れの言葉が、
親子の形見となったのでした。」

平成19年9月9日 於:京都観世会館 
能「景清 鑑賞の前に」を転載させていただきました。

勾当は盲僧の官位で、検校(けんぎょう)・別当の下、座頭の上の位です。
平家の侍大将であった景清は、勾当を自称しています。
宮崎市生目の生目(イキメ)神社は、主祭神に応神天皇と藤原景清を祀り、
古くから眼病に霊験あらたかな神社との信仰を集めています。
江戸時代中期に刊行された『日向見聞録』によれば、
「頼朝に許された景清は鎌倉で目をえぐって怨念を断ち、日向勾当という
僧となって日向に下り、その両眼を祀ったのが生目神社だという。」

日向国は古くから琵琶が盛んな地で、景清の名を語る盲僧団の拠点があり、
彼らは景清を始祖と仰ぎ、源平合戦のさまを語り歩いていました。
生目神社の周辺にある景清伝承は、この集団によるもので、その中で景清伝説は
大きく成長していき、生目神社の縁起として勧進活動に利用されています。
平景清伝説地(平景清の墓)  
『アクセス』
「景清社」名古屋市熱田区神戸町41
名古屋市営地下鉄名城線「伝馬町」駅より徒歩6、7分
『参考資料』
川合康編「平家物語を読む(平家物語と在地伝承)」吉川弘文館、2009年 
「愛知県の地名」平凡社、1990年 日本古典文学大系「謡曲集」(2)小学館、昭和54年 
福田晃「軍記物語と民間伝承」岩崎美術社、1987年



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野間大御堂寺境内の鐘楼堂の東側に平康頼の墓があります。
『日本名所風俗図会』(6)には、
この墓について「義朝の追福をせられしゆえ、
そののち寺僧この石碑を建てしとぞ」とあり、
平康頼が義朝の墓を修理し、小さな堂も建てるなどの
仏事供養をしたため、のちに大御堂寺関係の僧が建てた
康頼の供養塔のようです。平判官康頼という呼び名は、
康頼が検非違使尉であったことを示しています。

平治の乱で平清盛に敗れた源義朝は、東国へ敗走の途中、
乳母子鎌田正清の舅長田忠致(ただむね)を頼って野間庄
(現、愛知県知多郡美浜町野間)に辿りつきましたが、
そこで恩賞ほしさの忠致の裏切りにあい、正清ともども殺害されました。

平康頼は鹿ケ谷事件で俊寛、藤原成経(成親の息)とともに
鬼界ヶ島に流されますが、翌年建礼門院の懐妊に伴い赦免、
成経とともに帰京を赦された後白河院の近習です。

かつて平康頼が尾張国の目代として任地に赴いたところ、

野間庄にあった義朝の墳墓は、詣でる人もなく
荒れ果て目を覆うばかりの有様でした。

康頼はこの墓を修理して小堂を建て、六名の僧に念仏を唱えさせ
義朝・正清・正清の妻の菩提を弔ったという。
その上、堂の維持管理のため水田三十町を寄進しています。
その恩に報いるため源頼朝は、康頼を阿波国
麻殖保(おえほ)の保司(荘園の長官)に任じました。
(『吾妻鏡』文治二年(1186)閏七月二十二日条)

平治の乱で平清盛らに滅ぼされた義朝に康頼が深く心を寄せていたものと
思われますが、
寺領寄進は経済的に大きな負担だったでしょうし、

その行為が康頼の一存であったとは考えられません。
これについて『ふるさと森山』には、
「康頼は国司平保盛の目代として尾張国に下り、保盛の許可を得て
墓の整備をした。その時期は保盛が尾張の国司に任命された
仁安元年(1166)12月から解任された仁安3年(1168)11月、
1年11ヶ月の間である。このことが後白河上皇の耳にも達して
出世の糸口となり、尾張目代の任を終えると、左衛門尉に任官され
上皇の近習にとりたてられた。」と記されています。

服部英雄氏は「康頼の奇特な行いの背景には、尾張の知行国主
藤原成親の意向があった」と述べておられます。
(『歴史を読み解くさまざまな史料と視角』)
ちなみに成親が検非違使別当(長官)だったとき、
康頼はその配下に属していました。

 そして元暦元年(1184)の成親の弟盛頼宛の「肥前国晴気保地頭職を
盛頼に与えるという源頼朝の書状(宗像大社文書)から
盛頼が大御堂寺を保護したことは間違いない。」と主張しておられます。

 成親は平治の乱(1159)で藤原信頼・義朝に与しましたが、
妹婿平重盛の懇願で死罪を免れています。
義朝への思いは強かったはずです。
盛頼は藤原定家の姉婿で、三河守、鹿ケ谷事件で解官されるまで
尾張守を歴任しています。この事件で兄の成親、
義兄弟の西光は処刑されましたが、盛頼の処罰は解官にとどまりました。

 また、若松和三郎氏は「弔うべき怨霊を書いた長講堂の過去帳には
義朝の名も連記されていることから、後白河院は平治の乱後、
義朝の霊を弔い、同人の墓を修復するように康頼に命じたのであろう。と
推定されています。」(『ふるさと阿波 平康頼考(上)』)

 野間庄は長講堂領です。(『日本史総覧Ⅱ主要荘園一覧』)
長講堂は院の持仏堂として建てられたもので、
祇王・祇女・仏御前らの名前を記した過去帳を伝えています。
そこに寄進された荘園を長講堂領とよびます。
源義朝の墓(野間大坊大御堂寺)     
『参考資料』
「ふるさと森山」鴨島町森山公民館郷土研究会 
現代語訳「吾妻鏡」(3)吉川弘文館 「半田市誌 本文篇」(半田市1971) 
 「日本名所風俗図会」(東海の巻)角川書店 
「ふるさと阿波 阿波郷土会報(177)」阿波郷土会
服部英雄「歴史を読み解く さまざまな史料と視角」青史出版
「日本史総覧Ⅱ主要荘園一覧 古代Ⅱ・中世」新人物往来社

 
 


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安養院は、宝暦五年(1755)12石余を大御堂寺から分与されて現名に改称し、
明治になると大御堂寺の三院が安養院に合併しました。

織田信長の三男信孝は、兄信雄(のぶかつ)より20日余早く生まれましたが、
信雄の母方の家柄が上だったため三男とされたといわれています。
本能寺の変後、信孝は大坂で明智光秀の婿を殺害し、続いて光秀討伐のため
攻め上る秀吉軍と摂津富田で落ちあい山崎で光秀軍を破るなど活躍し、
兄信雄と家督を争いますが秀吉によって退けられ、
信長の嫡男信忠の子・
三法師が後継に決まりました。
信孝は三法師の後見役として
岐阜城と美濃国を与えられますが、
柴田勝家と手を結び秀吉と争います。

しかし勝家は賤ヶ岳の戦いに破れて越前北庄で自害したので、
後ろ盾を失った
信孝は兄信雄の勧めに従い岐阜城を明け渡し、
野間内海に落ち大御堂寺に送られて
安養院で自害しました。
寺には信孝が切腹した時に腸を投げつけたという

血染めの掛け軸(古画の墨梅)が秘蔵されています。



信孝辞世の句
♪昔より主を討つ身(内海)の野間なれば報いを待てや羽柴筑前

「昔より主を討つ身」とは長田父子が主の義朝を
野間内海庄で殺害したことを述べています。
織田信孝の墓は、大御堂寺の源義朝の廟所にあります。
源義朝の墓(大御堂寺) 
 

密蔵院の裏山には、長田忠致の磔の松があります。


『アクセス』
「安養院」知多郡美浜町野間字東畠90-1 大御堂寺から徒歩2、3分
「密蔵院」知多郡美浜町野間字松下105  大御堂寺から徒歩5分

『参考資料』
「愛知県の地名」平凡社  圭室文雄編「日本名刹大事典」雄山閣出版 
金岡秀友編「古寺名刹大辞典」東京堂出版 「戦国武将合戦事典」吉川弘文館
 
 
 

 

 

 



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名古屋市には、源頼朝の産湯井と伝えられている所が二ヶ所あります。
一つは熱田神宮西門前の誓願寺、もう一つは瑞穂区龍泉寺門前の
「亀井水」にも、頼朝産湯井という伝承があります。

熱田神宮西門前の誓願寺





境内には頼朝公産湯の井戸があります。



頼朝(1147~99)は義朝の三男、熱田神宮の宮司(藤原季範)の娘
由良御前を母として
生まれました。
義朝の長男悪源太とも呼ばれた義平が、三浦義明(橋本の遊女とも)の

娘を母とし、次男朝長の母が波多野義通の妹と、
共に相模の豪族武士の出で
あったのに対して
頼朝の母の実家は、中流貴族の熱田大宮司家です。

母の実家の身分が高かったことにより、
頼朝は早くから源家の嫡子として育てられます。


当時、大宮司家の人々や親族は、鳥羽法皇、待賢門院璋子、

鳥羽法皇と待賢門院との間に生まれた上西門院統子、後白河天皇に
仕える者が多く、なかでも由良御前の二人の兄は後白河の北面などに、
姉二人は待賢門院、上西門院の女房として、それぞれお傍近くに仕えていました。
このような事から推測すると、頼朝の母も姉たちのように
宮仕えするうち義朝の目にとまったのでしょうか。

保元の乱に義朝が後白河天皇方についたのはこのような事情もありました。
平治元年(1159)2月、上西門院の蔵人になった直後
頼朝は13歳で母を亡くします。

熱田神宮は、日本武尊の妻となった尾張氏の娘、宮簀媛(みやずひめ)命を
祭神としています。社職は大宮司を筆頭に権宮司・神官・
中朧禰宜(ちゅうろうねぎ)・祝(はふり)・神楽座などからなっていました。

大宮司職は古くから宮簀媛の一族の尾張氏が代々世襲していましたが、
平安時代後期、尾張員職(かずもと)は、娘と尾張国司・藤原季兼との間に
生まれた季範(すえのり)に大宮司職を譲り、
以後、季範の子孫が大宮司職を継いでいきます。
季範の娘由良御前は、義朝との間に頼朝、希義と娘(後の藤原能保の妻)を儲けています。
なお、白鳥公園に隣接している白鳥古墳は、日本武尊の御陵という説があります。

熱田神宮西門向い側の誓願寺付近一帯は、平安時代末から鎌倉時代まで
熱田大宮司家の下屋敷があり、邸内にあった池の水を汲んで
頼朝の産湯に用いたと伝えられています。
その跡地に、信濃善光寺で剃髪した日秀妙光尼が亨禄2年(1529)に
誓願寺を建て、この寺に参詣した豊臣秀吉の母大政所が関白秀次に
境内地を寄進させます。その後代々尾張藩主から保護を受けます。
昭和20年(1945)まわりの町並みとともに誓願寺は戦火で
炎上してしまいましたが、戦後同寺が再建された時、頼朝誕生の伝承を
惜しむ人々によって池跡に源頼朝公産湯ノ井戸が設けられたものです。

当時大宮司家の人々は、実務を権宮司家の尾張氏に任せ
都に住んで官人として生活していましたから
源頼朝の出生地については京都と考える方が自然のようですが、
熱田説、京都説どちらとも断定はできないようです。

龍泉寺の門前に源頼朝公産湯の井といわれる亀井水があります。



「源頼朝公産湯の井と伝ふ」と彫られています。
龍泉寺の西側付近には、義経の郎党亀井六郎重清の邸があったとされています。
『吾妻鏡』文治元年(1185)五月七日条によると、
兄頼朝の怒りを買った義経は、重清を使者として
異心のない証として
鎌倉の頼朝のもとに起請文を届けています。

重清の兄、鈴木三郎重家は紀伊國藤白浦(和歌山県海南市)出身で、
義経最後の衣川合戦に援軍として都から七十五日もかけて駆けつけ、
義経の最期に殉じました。
「和殿は鎌倉殿より御恩を賜る身、ひとまず落ちよ。」という義経の言葉に、
「鎌倉殿より所領は賜っているが、判官殿のことは一日も忘れたことがない。
妻子は熊野に送ったので今は思い残すことはない。」と答えたという。

 ここで『義経記・巻8・鈴木三郎重家が高館へ来る』の一節をご紹介します。
「鎌倉殿から恩賞の領地(紀伊国とも甲斐国ともに一ヶ所)をもらいながら、
旧臣鈴木三郎重家がおちぶれた義経のもとへ、
衣川の戦いの直前、
重代の腹巻(鎧の一種)だけ持ってはるばる奥州の平泉に着いた。 
義経は
立派な鎧を馬と共に重家に贈り、
重家は惣領の家に伝わる自分の腹巻を
弟の亀井六郎重清に与えた。」
その後、衣川の合戦では、兄弟とも
ぞんぶんに戦ったところで自害します。
頼朝の弟源希義の墓 源希義神社  
『アクセス』
「誓願寺」愛知県名古屋市熱田区旗屋町243 熱田神宮西門前
 JR「熱田」駅徒歩7、8分 
「熱田神宮」  名鉄「神宮前」駅下車徒歩3分
「白鳥公園」名古屋市熱田区熱田西町
亀井山「龍泉寺」名古屋市瑞穂区井戸田4-90 地下鉄「妙音通」下車徒歩5分
『参考資料』
奥富敬之「源頼朝のすべて」新人物往来社 現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館
 五味文彦 「義経記」山川出版社 「熱田神宮の歴史」熱田神宮宝物館
 「愛知百科事典」中日新聞社  角川源義・高田実「源義経」講談社学術文庫 
「日本名所図会」(東海の巻)角川書店 「平安時代史事典」角川書店 
高木卓訳「義経記」河出書房新社 「国史大辞典」吉川弘文館

 

 



 

 

 

 



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藤原師長(もろなが)の謫居趾の碑が嶋川稲荷の境内に建っています。
謫居(たっきょ)趾は妙音通と呼ばれ、近くを流れる山崎川に架かる橋は
「師長小橋」と名づけられています。

師長がしばしば訪れた妙音通の北にある
「龍泉寺」には、
師長公画像・師長公記(二巻)が所蔵されています。




平清盛の嫡男・重盛が亡くなると、後白河法皇は重盛が知行していた
越前国を傷心の清盛からとり上げました。
この仕打ちに怒った清盛は、治承三年(1179)11月、クーデターを決行し
法皇を鳥羽殿に幽閉、側近を流罪にしました。太政大臣藤原師長も職を解かれ
尾張国井戸田(名古屋市瑞穂区)に流され、一年余をこの地で過ごしました。


師長小橋

藤原師長は左大臣藤原頼長の息子で、父が起こした保元の乱に連座し、
兄弟四人は配流となり、三人は都に戻ることなく失意のうちに没しましたが、

師長だけは九年後に都に帰り本位に復し、次々と昇進して
太政大臣まで上りつめました。そして再び井戸田に流されたというわけです。


 
師長は学問・芸能ともに優れ、琵琶と筝の奥義を極めて「妙音院」と称し、
今様は後白河法皇より伝授され、法皇のお気に入りでした。

「罪なくして配所の月見む」(無罪の身で流刑地の月を見たいものだ)
ということは、風流な人なら一度は願うことなので
この度の流罪を少しも苦にせず、師長は元気に配所へと赴きました。

白楽天も潯陽(じんよう)江のほとりに配流の日々を
送ったことに思いを馳せながら、
鳴海潟の潮路を遥かに眺め、
名月を眺めては、浦風の中で詩歌を吟じ、琵琶を弾き、和歌を詠んで、

のんびりと月日を送っていました。
ある時、当地の熱田神宮に参詣し、神に捧げるために得意の琵琶を弾き、
朗詠したところ、その音色に
神も感応し宝殿が大きく揺れ、
一座の者は、皆異様な感動に身の毛がよだったといいます。
「平家の悪行でこの地に流されなかったら、このような神のめでたい印を

拝むことはできなかったであろう」といって師長は感激の涙を流しました。
やがて清盛が死去したため、師長は帰京を赦されました。

師長はこの里の長横江氏の娘に形見として守本尊薬師如来と
白菊の琵琶を残しますが、現在の枇杷島まで師長を見送った娘は、
悲しみのあまり近くの川に身を投じます。
以後その地を枇杷島と名づけたといいます。(現在の名古屋市西区東枇杷町)

名古屋市西区東枇杷町26の「清音寺」は、娘の菩提を弔うために
建てられたと
伝えられ、寺号は娘の法名清音院からとられ、
寺宝に白菊の琵琶図を所蔵しています。
誓願寺・龍泉寺亀井水(源頼朝誕生地・亀井六郎重清邸)  
『アクセス』
「嶋川稲荷」地下鉄「妙音通」下車すぐ
亀井(きせい)山「龍泉寺」名古屋市瑞穂区井戸田町4-90
地下鉄「妙音通」下車 北へ5、6分

『参考資料』
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
「愛知百科事典」中日新聞社 
「日本名所風俗図会」(東海の巻)角川書店
「平安時代史事典」角川書店 「源平合戦事典」吉川弘文館

 

 

 




 
 
 
 
 
 
 

 



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