平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 






京都御苑の南西隅、九条池の中島に厳島神社があります。

ここはもと五摂家のひとつ九条家の屋敷跡にあたります。
明治維新後、この辺りにあった皇族・貴族などの
邸宅は逐次取り壊され、九条家も拾翠亭(しゅうすいてい)と
池および一宇の鎮守社だけを残すだけです。


社伝によると平清盛が母祇園女御のために安芸国から
摂津国・兵庫津に
勧請した厳島神社が始まりです。
その後、足利将軍義晴によって京都に移され、
さらに江戸時代の明和8年(1771)九条家の鎮守社として、
九条邸に移されました。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、
田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の
3柱の女神に祇園女御が合祀されています。

社殿前にたつ花崗岩製の鳥居は室町時代の作で、兵庫津にあったものです。
鳥居の笠木と島木の中央部がともに弓形になった
唐破風(からはふう)になっているのが珍しく、北野天満宮の
伴氏(ともうじ)社(上京区)、木島(このしま)神社(右京区)とともに
京都三珍鳥居の一つとされ、重要美術品に指定されています。







厳島神社が清盛の母と伝える祇園女御は『平家物語』
「巻6・祇園の女御」の中で、次のように紹介されています。
白河法皇の寵妃祇園女御は東山の麓、祇園のあたりに住んでいました。
5月のある雨の夜、いつものように法皇が女御のもとに通う途中、
お堂の脇から怪しく光るものが現れ、
これは鬼に違いないとお供の平忠盛に殺すよう命じました。
しかし、忠盛は殺す前に生け捕りにして正体を確かめようと
捕えてみればお堂の守をする60歳ばかりの老法師でした。
法皇は冷静な忠盛の振舞いに感服し、褒美に祇園女御を忠盛に与えました。
ところがこの時、女御はすでに清盛を宿していて、
清盛がめざましい出世を遂げた背景には、こんな事情があったというのです。

祇園女御の素性については、祇園社前の町屋の水汲み女だったとか、
法皇の御所に出仕していた女房だったとか、いろいろにいわれていますが
『吾妻鏡』は源仲宗の妻としています。いずれにしろ中宮や皇女に先立たれた
晩年の白河法皇の寵を一身に集めて栄え、権勢を誇った女性です。

白河上皇の中宮賢子が僅か28歳の若さで亡くなると、上皇は泣き暮し、
食事をとらなかったことが『扶桑略記』に書かれています。
さらにその15年後には中宮の忘れ形見、最愛の娘
郁芳(いくほう)門院までが21歳で病を得て急死してしまいました。
上皇の落胆は大きく近臣の制止を振り切り二日後には出家し、
法皇となってしまったほどです。この時、
清盛の祖父正盛は亡き皇女の菩提寺である六条院へ
私領を寄進して法皇に重用されるきっかけをつかみます。
しかし身分の低い正盛が直接上皇に寄進を申し出ることはできませんから、
主と仰ぐ祇園女御の後ろ盾があったからと思われます。


祇園女御の名が史上に初めて見えるのは、郁芳門院(媞子)の死後、
長治2年(1105)10月26日、女御が祇園社(八坂神社)の
東南に祇園堂を建て供養した時です。
その堂には約4,85mの阿弥陀仏が安置され、金銀珠玉を飾りたて、
多数の公卿殿上人が参列、その贅沢なことは人々の耳目を
驚かせるばかりだったと藤原宗忠の日記『中右記』に記されています。
鎌倉時代の説話集『古事談』には、忠盛の郎党藤大夫(とうのだゆう)に
禁令の鷹を飼わせ、祇園女御のために食用の鳥を獲らせたことが記され、
正盛に続いて忠盛も女御に仕え、引き立ててもらっていたことが窺えます。

祇園女御は祇園の近くに住んでいたのでその名がつけられ、
また洛東白河にも住房があったので白河殿とも呼ばれていました。
『今鏡』に「白河殿はあさましき宿世おはしましける人なるべし。」とあるのも
何か曰くがありそうですし、殺生が禁じられていた時代にも関わらず、
彼女の食卓には毎日のように鳥料理がのぼっていたというのもどうなのでしょう。

『平家物語』頭注には、祇園は祇園社信仰を背景に急速に発展し、
混沌と妖しい魅力をたたえた地で、貴所に仕える美女たちの
供給源となった地であろう、そうした土地柄も祇園女御の
背景に考えねばならないとあり、彼女の実像は捉えにくいようです。
祇園女御は生涯子を生むことはなかったと思われ、
藤原公実の娘璋子や威徳寺を譲った禅覚阿闍梨を猶子にしています。
威徳寺は女御が仁和寺内に建立した堂宇で、法皇崩御後はその西にあった
住坊に住み、法皇の冥福を祈ったと『仁和寺諸堂記』に見えます。
璋子はのち鳥羽天皇の中宮となり、崇徳・後白河両天皇を生み、
待賢門院と呼ばれます。璋子は入内後、法皇の寵愛を受け生んだのが
崇徳天皇だという噂があり、これが後の保元の乱の一因となります。

滋賀県多賀町にある胡宮(このみや)神社に伝わる
「仏舎利相承(そうしょう)次第」という史料に基づいて、
明治時代の歴史学者・星野恒氏は「清盛の母は祇園女御の妹であり、
清盛が3歳の時に母が亡くなったため、伯母である祇園女御が清盛を
猶子(形だけの養子)として養育した」という見解を発表されました。

この文書は、白河法皇が崩御の際、中国の育王山(阿育王寺)の
雁山塔からもたらされた仏舎利(実際は水晶)2千粒を祇園女御に
形見として与え、それを女御から猶子の清盛に譲った由来を記したものです。
しかし、この史料は後世のものであり、また記述にも
不審な点があることから、真偽のほどは定かではありません。
阿育王(あいくおう)は紀元前3C頃のインドのマガダ国の
アショーカ王のことで、育王山は晋の
太康年間(280 ~289年)にアショーカ王の舎利を得て、
その塔を建てたといわれています。

高橋昌明氏は、清盛の母を祇園女御もしくは彼女の
妹とする説があるが、前者は事実でないし後者は根拠が薄いとし、
藤原為忠の娘である可能性を指摘されています。
また清盛の破格の出世が白河法皇の落胤であったことを
証明するという説が長く流布してきましたが、
それを証明する史料がなく、もし皇子であれば位争いに
巻き込まれる可能性もありますが、清盛にはそのような様子が見えず、
現在ではこれを否定する説と支持する説に分かれていて真相は謎のままです。
忠盛燈籠・祇園女御の塚  
『アクセス』
「厳島神社」京都市上京区京都御苑6
 堺町御門から御苑内に入ります。
市バス烏丸丸太町・地下鉄烏丸線丸太町駅下車 徒歩約5分
『参考資料』

新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 高橋昌明「清盛以前」文理閣 
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書
 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(上)塙新書 
上杉和彦「平清盛」山川出版社 美川圭「院政 もうひとつの天皇制」中公新書 
井上辰雄「平清盛と平家のひとびと」遊子館
櫻井陽子「90分でわかる平家物語」小学館 別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社 
竹村俊則・加登藤信「京の石造美術めぐり」京都新聞社 
「京都府の歴史散歩」(上)山川出版社
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂

 

 



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皇居のすぐ近く、高層ビルが立ち並ぶ一角に、
平安時代の中頃、朝廷を震撼させた平将門の首塚があります。

下野猿島(茨城県坂東市神田山)で討取られた将門の首は
京へ運ばれて晒された後、一族が持ち帰り当時辺境の地であった
武蔵国芝崎村(千代田区大手町)に葬りました。

鎌倉時代末期、塚は荒廃し凶作が続いて飢饉となり、
疫病が蔓延すると人々は将門の祟りだと恐れました。
徳治2年(1307)、この惨状を見て東国遊行の途中、
立ち寄った時宗の僧、他阿真教が「蓮阿弥陀仏」という戒名を
将門に贈り、これを板碑に刻んで塚の傍に建てて供養しました。
次いで近くの安房神社を修復し将門の霊を合祀して
神田明神と改め、社の傍らに草庵を結び将門の霊を祀り
芝崎道場と称したと江戸の地誌『御府内備考』は伝えています。
これが浅草にある神田山日輪寺の起こりです。








 
碑には蓮阿弥陀仏と彫ってあります。

いつのものでしょうか、将門塚の背後には古い石灯篭があります。

徳川家康は江戸入りすると、神田明神を江戸総鎮守として手厚く保護し、
2代将軍秀忠の時、家康から引継いだ江戸城拡張工事で、
社は現在地(千代田区外神田2丁目)に遷され、
幕府の寄進で桃山風の豪華な社殿が造営されました。
塚だけは老中土井大炊頭邸内(幕末は酒井雅楽頭屋敷)に残され、
大名屋敷の庭の
築山として利用されました。大手町の内濠川に架かる
神田橋は、かつてこの地に神田明神が
あったことに由来し、
土井大炊頭利勝の屋敷があった当時は大炊殿橋ともよばれました。


将門の乱が鎮圧されて千年あまりを経た今も数多くの
将門伝説が語られています。
その最も有名なものが将門首塚です。
京で梟首された将門の首は関東目ざして飛び帰り、
武蔵国芝崎村(現在地)に落ち、落下点に塚が築かれ
夜な夜な怪光を放ったというものです。
飛んでいく途中に首が落ちて祀られたという伝承や
将門に関するさまざまな史跡が関東中心に広く分布しています。


南北朝時代の『太平記』や室町時代の『お伽草子』
『俵藤太物語』では、将門伝説が
大きく脚色され、
更に江戸時代になると新たな展開を見せます。

将門に題材をとった浄瑠璃や歌舞伎が相次いで上演され、
読本・娯楽本の
黄表紙や錦絵などが作られて
伝説は庶民の間に深く浸透していきました。


明治維新後は酒井邸跡地には大蔵省が設置され、
首塚は
元・神田明神の御手洗池といわれる
約300坪の蓮池とともに同省玄関前に残されました。

その後、開発にともなって、この塚が撤去されそうになる度に関係者に
「将門の祟り」と思われる不思議な出来事が起きています。

(1)大正12 年(1923)の関東大震災で庁舎が焼失し将門塚も崩壊したため、

大蔵省は塚を壊して池を埋立て、仮庁舎を建設したところ、
大蔵大臣
速水整爾(せいじ)はじめ大蔵官僚や工事関係者14人が
原因不明の病気や事故で
相次いで死亡しました。
これは将門塚を破壊した祟りではないかと、
昭和 3 年に塚の上に
建てた仮庁舎を撤去して塚を復元し、
盛大な慰霊祭が行われました。
大蔵省復興にあたり、崩れた
将門塚の発掘調査が行われ、
塚は5C頃に造られた小型の円墳または前方後円墳と
推測できましたが、墓主については判明しませんでした。

 その後も祟りは続き、昭和 15 年 には、大手町の逓信省航空局が
落雷を受け、大蔵省はじめ周辺の庁舎が全焼しました。
同年は将門没後一千年であったので、再び大蔵省主催で
慰霊祭が執り行われ、
同省は霞が関に移転しました。

(2)第二次世界大戦後、米軍が将門塚一帯を整地して駐車場を
作ることになりましたが、ブルドーザーの運転手が将門塚の石碑に
乗り上げて転落死し、1人が大けがをする事故が起きました。
地元住民が米軍に塚の由来を説明して首塚保存の陳情が行われ、
駐車場建設は中止されたというエピソードがあります。


その後も将門塚は畏怖・畏敬の対象となり、昭和35年、
地元企業九社が「将門塚保存会」を設立し、翌年、
日本長期信用銀行の敷地の一角が寄進されて将門塚が改修され、
さらに昭和45年に将門塚保存会により現在のように整備されました。

将門塚のまわりに置かれている大きな蛙の像に祈ると「蛙」と「帰る」の
語呂合わせから、いつの頃からか海外駐在から無事帰るという信仰が生まれ、
赴任前や海外勤務を終えたビジネスマンが参拝にくるようになりました。
『産経新聞』平成27年1月23日朝刊によると、
昭和61年11月、三井物産マニラ支店長の若王子信行さんが、
フィリピンの共産ゲリラに誘拐されて以来、
そんな姿が目立つようになったという。

東京都文化財  将門首塚の由来
 今を去ること壱千五拾有余年の昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍
平良将の子将門は、下総の国に兵を起こし忽ちにして関東八ヶ国を平定、
自ら平親皇と称して政治の革新を図ったが、平貞盛と藤原秀郷の
奇襲を受け、馬上刃刀に戦って憤死した。享年三十八才であった。
世にこれを天慶の乱という。将門の首級は京都に送られ獄門にかけられたが、
三日後、将門岩に別れを惜しみ、白光を放ちながら東 方に飛び去り、
将門の首級は武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。
大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。
村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり、
将門の首塚と語り伝えられている。
 その後もしばしば将門の怨霊が祟りをなすため、
徳治二年(1307)真教上人は、将門に蓮阿弥陀仏という
法号を追贈し、塚の前に板石塔婆を建てヽ日輪寺に供養し、
さらに傍らの神社にその霊を合わせ祀ったので
漸く将門の霊魂も鎮まりこの地の守護神になったという。

 天慶の乱の頃は、平安朝の中期に当り、藤原氏が政権を
ほしいままにして我世の春を謳歌していたが、遠い 坂東では、
国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ、
下僚は収奪に民の膏血を絞り、加えて洪水や旱魃が相続き、
人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものがあった。その為、
これらの力の弱い多くの人々が将門に寄せた期待と同情とは
極めて大きなものがあったので、今もって関東地方には
数多くの伝説と将門を祭る神社がある。
このことは将門が歴史上朝敵と呼ばれながら、
実は郷土の勇士であったことを証明しているものである。  
また、天慶の乱は武士の台頭の烽火であるとともに、
弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となってその影響するところは
社会的にも極めて大きい
茲にその由来を塚前に記す。
 
史蹟将門塚保存会 
保存会事務所 千代田区外神田2162 
神田神社内 電話(2540753
京都神田明神  
『アクセス』
「将門首塚」東京都千代田区大手町1-2 三井物産ビル東側
 東京メトロ・都営地下鉄大手町駅 
C5出入口から東へすぐ

『参考資料』
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書 

山田雄司「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」吉川弘文館 
「東京史跡事典」(上)新人物往来社
「江戸東京学事典」三省堂 「東京都の地名」平凡社 
「産経新聞」(産経抄)平成27年1月23日朝刊

 



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膏薬辻子(こうやくのずし)とよばれる路地の中ほどに
京都神田明神があります。ここは平将門の霊を供養するために
空也が塚を築いたのが始まりと伝えられています。


膏薬辻子は西洞院通りと新町通の間にあり、四条通から
綾小路通りへ抜ける
幅2㍍、長さ160㍍ばかりの狭い路地です。
この辺りは祇園祭には伯牙山(はくがやま)・郭巨山(かっきょやま)を
出すので、日ごろ人通りの少ない路地も宵山には多くの人で賑わいます。






神田明神を参拝する和服姿の男性。



ガラス戸の向うには、赤い鳥居と将門を祀る小さな社がありますが、
鍵が架かっていて中へは入れません。





賽銭箱上の説明書

東京神田明神主催で行われる(2015年5月7日~15日)神田祭のポスター

膏薬辻子は中央付近で鉤形に曲がります。

膏薬辻子を抜けた綾小路通りに面してたつ杉本家住宅
(国指定重要文化財)近世商家のたたずまいを残した
杉本家は
伯牙山の御飾所となります。

『拾遺都名所図会・巻1』によれば、
京都神田明神の辺は天慶3年、平貞盛らに討たれた
将門の首を晒したところという伝承があります。
「後世、ここに家を建てると祟りがあるというので、
神に祀って神田明神と崇め、空也上人は将門の亡霊を供養すべく、
ここに一宇の堂を建立した。」としています。
江戸時代、巻き起こった庶民の旅ブームにのって、
名所記とよばれる旅行案内書が数多く出版されました。
『拾遺都名所図会』はその一つです。

若い頃、都に出た将門は藤原忠平を主君と仰ぎ、
滝口の陣に出仕し滝口小二郎と称しましたが、
父の死により承平元年(931)頃、下総国に帰郷しました。
父の遺領や将門の妻をめぐる問題に端を発し、一旦始まった一族の内紛は、
留まる所を知らず次第に泥沼化し8年もの間続きました。
『将門略記』は、「伯父良兼は将門と娘との結婚を良しとせず、
将門と不仲となっていた。」と伝えています。

問題はその後に起こりました。
地元豪族と国司との紛争に介入した将門は国府を焼き払い、
一族の内紛は内乱にまで拡大しました。
結局、平貞盛・下野の豪族藤原秀郷に攻められ、
将門は下野猿島(茨城県坂東市神田山)で討ち取られました。
現在、将門終焉の地には、その霊を祀る国王神社が鎮座しています。
そして将門の首級は京都に届けられて東市で晒されました。
平安京には朱雀大路を中心に左右対称に官営の東西両市がありました。
東市(ひがしのいち)は現在の西本願寺の地にあり、
集まった人々に見せるため、市は罪人への尋問や
刑場としても使用され、また布教の場ともなりました。
空也上人を市聖(いちのひじり)というのは、ここで布教を行ったからです。


「京都神田明神」  御祭神 平将門命・大己貴命・少彦名命
平将門公は桓武天皇五代の後裔で、東国において武士の先駆者
「兵(つわもの)」として名を馳せた人物です。
この地は天慶の乱に敗れた将門公の首級が京都に運ばれ晒されたと
伝わる場所です。古来よりこの地に小祠が祀られておりましたが、
このたび将門公を祀る東京の神田明神よりご祭神をお迎えしました。
皇居のほとり、大手町の「将門塚」は、京の都で晒された首級が
胴体を求めて関東に飛び、力尽きて落ちた場所として、
今なお都心の霊所として、将門公の「強きを挫き、
弱きを助くる」精神を慕い、参拝が絶えません。


東京に鎮座する神田明神は、大己貴命、少彦名命とともに、
平将門命を祀る神社です。

天平二年(730)に大手町・将門塚周辺に創建され、その後、
延慶二年(1309)に将門公が合祀されました。

元和二年(1619)に江戸幕府より江戸城(現在の皇居)から見て
表鬼門守護の地へ遷座しました。江戸幕府より
「江戸総鎮守」の称号をいただき、徳川将軍をはじめ
江戸の町人たちにより崇敬されてまいりました。

神田明神の大祭・「神田祭」は「天下祭」「御用祭」とも称され、
江戸城内において徳川将軍の上覧を仰ぎました。
明治七年には、明治天皇も陛下も親しくご参拝されました。
現在は「祇園祭」とともに日本三大祭の一つに数えられ、
二年に一度、五月中旬に行われ、二百基に及ぶ
神輿担ぎが賑やかに行われております。


尚、この土地・建物は、故・神田神社責任役員氏子総代遠藤遠蔵氏の
ご遺志を継ぎ、娘の平野憲子様により寄贈されたものです。

平成二十六年十二月吉日
〒101-0021 東京都千代田区外神田1-16-2
神田神社社務所 電話 03-3254-0753 FAX 03-3255-8875 

 「神田明神由緒書」 
平将門公 武士の先駆者「兵」として古代に東国を治めた人物。
下総国(茨城県)に生まれ、長じて上京し、時の左大臣
藤原忠平に仕えました。重要文化財『将門記』によると
将門公は従四位下で鎮守将軍の父・良将の死により東国へ戻りましたが、
伯父・平良兼との不和を機に叔伯父たちと反目するようになり、
次々と戦いを仕掛けられその度ごとに勝ち続けました。
将門公は騎射に優れ合戦の故実に通じ、名誉を重んじる
「兵の道」に生きたお方でした。苦境にも挫けず戦い、
その一方で頼られると誰であろうと助け、たとえ敵であろうとも
女性には優しく接するという「弱気を助け、強気を挫く」
義侠心にあふれる人物でした。
天慶二年(939)、
常陸国の国庁に在地豪族の免罪を申入れ、和談による平和的解決を
試みましたが受け入れられず、やむなく合戦となり国府を陥れました。
以降、下野、上野、武蔵、相模などの国庁を手中に収め、
さらに八幡大神と菅原道真公の霊より東国を治める
「親皇」の称号を受けました。
これ以降将門公は謀反人とされ国家への反乱とされました。
朝廷は将門公の乱に恐れおののき、諸社寺に調伏、祈祷を命じ、
藤原秀郷と将門公の親戚・貞盛公を追捕凶賊使に任命し、
東国へ派遣しました。そして天慶三年二月十九日下総国における
秀郷・貞盛軍との壮絶な戦いの末、
将門公は神の鏑矢にあたり、志半ばで息絶えました。

将門公の首級は京へ送られこの地で晒された後、
所縁の者が東国へ持ち帰り葬り将門塚を築かれ、
延慶二年(1309)には東京・神田明神へ合祀されました。
京都将門塚保存会

平将門首塚 
 平将門(平将門の乱)    
『アクセス』
「京都神田明神」京都市下京区四条通新町西入下ル新釜座町728
四条烏丸から西へ進み、四条通南側の新町と西洞院の間の膏薬辻子を入った先にあります。
市バス「四条西洞院」からすぐ
京都市営地下鉄烏丸線四条駅・阪急京都本線烏丸駅より徒歩7分(26番出口から地上へ)
『参考資料』
下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社 橋本義彦「古文書の語る日本史」(平安)筑摩書房 
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書 
山田雄司「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」吉川弘文館 「京都市の地名」平凡社
 「京都の大路小路」小学館 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛中)駿々堂
 竹村俊則「京の史跡めぐり」京都新聞社  井上満郎「平安京再現」河出書房新書


 

 



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東京都中央区大手町にある平将門の首塚
『平家物語』は、この世は無常であり、権勢を誇る人も長くは続かず、
みな春の夜の夢のようにはかない。
武勇に優れた者も必ず滅んでしまうと冒頭の一節で語り、
それを身をもってあらわした人物として将門を登場させています。
まず中国の人たちの名が列挙され、次いで我国では承平・天慶の乱の
平将門・藤原純友、平治の乱を起こした藤原信頼などの名が挙げられ、
最後に平清盛を紹介し、清盛はこれらの誰よりも横暴であったと語ります。

将門の祖父、高望王は臣籍降下し「平」姓を与えられて上総介に任じられました。
千葉県の国司の次官です。平安時代の始めに上総・常陸・上野の
三国は親王任国と定められ、都にいる親王が守に任じられましたが、
自身は現地に赴くことはなく、
次官の介が実質的な最高権力者となり政務を代行していました。
その介に高望(たかもち)王は任じられたのです。
王は子の国香・良兼・良将(よしまさ)を伴って下向し、
四年の任期が終えても
都に戻らず東国に勢力を広げました。帰っても次の職や出世の
見込みがあるわけでなく、そのまま東国に住めば王の子孫として扱われ、
地方名士として尊敬されながら暮らすことができたのです。
桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-良将-将門


将門は京都に出て、内裏清涼殿の北にある滝口の陣に詰める
天皇護衛の滝口の武士として出仕していました。
父の鎮守府将軍良将は鎮守府在任中に貯めこんだ財貨を
時の左大臣藤原忠平に貢いで家人となり、
その縁で将門も忠平を主君と仰ぎ、
忠平の推挙によって滝口になりました。

父の急死により故郷に帰った将門は叔父たちと争うことになります。
故郷の下総国には豊田郡・猿島(さしま)郡(茨城県坂東市)を
中心にいくつも邸宅や広大な田地があり、遺領をめぐる争いが
一族の抗争へと発展し、将門は叔父の国香を討ちます。
一族の内紛が国家的な内乱に拡大したのは、天慶2年(939)のことです。

平安時代中期、京都では藤原氏が政権をほしいままにしていました。
地方では国司(受領)の権限が強化され、徴税と行政の全責任を
負わせる代わりに、国家は諸国の内政に直接介入することを控えました。
そこで受領は一定額の租税を中央に送る義務を果たすと、
さらに多く徴収して私腹を肥やし、民は暮らしにあえいでいました。
受領になれば一財産築くことができるとまでいわれ、そのポストを
希望する者が多くいましたが、天皇や上皇、摂関家などの有力者と
コネのある人物以外は中々任官できないというのが実情でした。

ちょうどその頃、隣国武蔵で都から派遣された国司(受領)と
在地勢力との間で様々な対立が起きていました。
新しい国司(知事)、権守興与王(おきよおう)と介(副知事)の
源経基が赴任し、着任早々、国内の視察と称し、
行く先々で貢物を集めて郡司(市長)との間で紛争が起こりました。
これを聞いた将門は武蔵国に向かい
仲裁に入りましたが、結局うまく調停を行うことができず
仲裁する中で、土地や租税をめぐって将門は国司と対立し、
周辺の国府を襲撃し朝廷に叛旗を翻します。

国司(受領)の無理難題に日常的に対抗していた豪族らと
手を結び大勢力となった将門は関東一円を手中に収め、
一族を坂東(関東)諸国の国司に任命し、
「新皇(京にいる天皇に対して東国の新しい天皇)」と名のりました。
新皇(しんのう)には坂東独立国の野望が語られています。
将門の声望は日増しに高まり、
民衆が将門によせた期待は大きなものがありました。
知らせを受け驚いた朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命し、
鎮圧の為に兵を派遣しますが、朝廷軍が到着する前に、
その旗の下に馳せ参じた将門の宿敵貞盛(国香の子)と
下野国の藤原秀郷(俵藤太)の連合軍が将門勢に挑みかかり、
そして一本の矢が馬上陣頭にたって戦っていた将門に命中し、
ここに坂東独立の夢は潰えたのでした。

横暴な受領(任地に赴く国司)
との軋轢を強めていた豪族たちが、
王の血筋を引く将門を棟梁として大乱となったのが将門の乱です。
『将門記(しょうもんき)』は、平安時代中期に繰り広げられた
この合戦を題材にして、将門を武勇に優れ坂東の王者となりながら、
武芸によって身を滅ぼした悲劇的な英雄として描いています。
この後、将門は長く人々に記憶され、寄せられた同情は
極めて大きく、多くの将門伝説を生み出すことになります。

この合戦で手柄を立てた貞盛はその後、
国司や陸奥守兼鎮守府将軍を歴任し、その4男維衡(これひら)が
伊勢守となって、伊勢平氏の祖となり繁栄していきます。
桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王-

①国香-②貞盛-③維衡-④正度-⑤正衡-⑥正盛-忠盛-清盛

源経基は六孫王と称し、後世、清和源氏の祖と仰がれる人物ですが、
政治的な能力がないために京都では出世の見込みはありませんでした。
しかし武芸に秀でていたため、治安が乱れていた
東国に下り武蔵介となったのです。
将門の乱では追討軍の有力メンバーとなり、時を同じくして
起こった西海の藤原純友が海賊を率いて起こした反乱にも武功を立て、
その子満仲は摂津多田(川西市)に拠点を置いて諸国の受領を歴任し、
次いで東国・東北地方で起こった戦乱で頼信・頼義・八幡太郎義家の
源氏三代は名声を高め、武家の棟梁としての地位を確立しました。
清和天皇-貞純親王-
経基-満仲-頼信-頼義-義家-義親-為義-義朝-頼朝

なお、平将門の乱と藤原純友の乱は総称して
承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)とも呼ばれます。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社 関幸彦「武士の誕生」日本放送出版協会
  竹内理三「日本の歴史・武士の登場」中公文庫
 日本古典文学全集「将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語」小学館 
井上満郎「平安京の風景」文英堂 下向井龍彦「武士の成長と院政」講談社
 水原一「平家物語の世界」(上)日本放送出版協会 川尻秋生「揺れ動く貴族社会」小学館
 



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