平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




比叡山の東麓、坂本にある日吉大社は八王子山(牛尾山)を

神体山として、その下に大宮川に沿ってゆったりと広がっています。
最澄は比叡山で修行を始めて以来、地主神として日吉山王を崇拝しました。
そのため日吉社の神々は、延暦寺の守護神・地主神ということになり、
延暦寺とともに発展し、全国に広がっていきました。
なお大衆・衆徒は延暦寺に属し、神人・宮仕は日吉大社に属していました。

日吉社には三輪明神を勧請した大宮(西本宮)と
産土神を祀る二宮(東本宮)を中心に、
宇佐宮・白山宮(客人)・十禅師(樹下社)・三宮・牛尾宮(八王子)があり、
合わせて山王七社(上七社)という。

客人(まろうど)宮は白山妙理権現を祀る白山の本宮で、中宮はその子とされ、
祗園社も神社・寺院の両面があり、この頃は延暦寺の末寺になっていました。

平安時代末期には、延暦寺の僧兵が朝廷への強訴の度に日吉社の神輿を担いで
押しかけ、これを「神輿振」と呼んで宮中では大いに恐れていました。
「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞ朕が心にかなわぬもの」と
白河上皇が自分の意のままにならないものの一つとして
山法師(延暦寺の僧兵)を数え上げたことは有名な話ですが、
後白河院政が始まってからも院勢力と延暦寺の対立はしばしば繰り返されました。



二の鳥居から日吉馬場へ



大宮橋を渡り山王鳥居をくぐる





西本宮楼門



西本宮本殿

宇佐宮拝殿



宇佐宮本殿

白山宮参道









樹下社(じゅげしゃ)本殿



樹下社拝殿には、立派な神輿が置いてありました。



白山の衆徒は白山中宮の神輿を担いで山を登り、
日吉大社の客人(まろうど)宮に納めました。客人宮というのは
白山妙理権現のことで白山中宮の神とは父子の間柄です。
アクセス』
「日吉大社」大津市坂本5-1-1 京阪電鉄石山坂本線「坂本駅」下車徒歩10分
JR湖西線 「比叡山坂本駅」下車徒歩20分
『参考資料』
「平家物語」(上)新潮古典集成 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
「滋賀県の地名」平凡社 末木文美士「中世の神と仏」山川出版社
「比叡山歴史の散歩道」講談社 「「滋賀県の歴史散歩」(上)山川出版社



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兄頼朝に追われる身となった義経は鎌倉方の厳しい追及を逃れて、
どのような経路で奥州平泉に辿り着いたのでしょう。

『義経記』や謡曲『安宅』歌舞伎『勧進帳』では義経一行の
逃走経路を北陸道としています。
義経伝承は北陸地方から能登半島の海岸部にかけて多くあり、
『義経記』には白山比咩神社や金剣宮に詣でたと記されています。

「義経一行は
見物しようと立ち寄った越前の平泉寺で危ない目に
あったものの無事難を逃れ、足早に先を急いで
加賀の篠原で1泊し、
篠原合戦で斉藤実盛が手塚光盛に討ち取られた首洗い池を見ました。
その翌日、白山社に参詣して白山比大神を拝み、
金剣宮では剣権現の神前で夜ごもりをして神楽をたむけました。」
(『義経記・平泉寺けんぶつ』)
金剣宮(きんけんぐう)
古くは剣宮(つるぎのみや)とよばれ、地名「鶴来」の由来となった宮で
白山本宮四社の一つ。境内に「義経腰掛石」があります。
木曽義仲は倶利伽羅・篠原合戦後に鞍を置いた馬20頭を奉納しています。
鶴来の町は、白山本宮四社の門前町がつながりあってできた横に細長い町です。
白山本宮白山比神社
白山は石川・福井・岐阜の3県にまたがる大嶺で、御前峰(ごぜんみね)
・剣ヶ峰・大汝峰の3つの峰が集まった休火山です。
奈良時代に福井の僧泰澄が開いたと伝えられ、
霊峰白山をご神体とし、御前峰の山頂の奥宮に白山妙理権現を祀りました。
各地に馬場(ばんば)が設けられ、それぞれから山頂に至る登山道が開かれました。

加賀は現在の白山比神社、越前は現在の平泉寺(へいせんじ)、
美濃は現在の長滝白山寺が各馬場の中核となり、平安時代末期に
この三ヶ寺は延暦寺の末寺となりました。延暦寺の守護神日吉大社では
山王七社の一つとして客宮(まろうどのみや)に白山妙理権現を祀っています。

加賀馬場として栄えたのが白山比神社を中心とした本宮四社(白山本宮
・金剣宮・三宮・岩本宮)と中宮三社(別宮・沙羅宮・中宮)の白山七社でした。
国府の背後に位置する八寺(八院)涌泉寺・護国寺・隆明寺・昌隆寺・松谷寺
・蓮花寺・善興寺・長寛寺は中宮に属して中宮八院とよばれました。
現在、寺跡を明確に残すものはなく、涌泉寺(ゆうせんじ)も鵜川、
遊泉寺の地名を伝えているだけです。

真向いに迫る船岡山(標高179㍍)











義経腰掛石



























アクセス』
「白山比咩神社」石川県白山市三宮町
北陸鉄道石川線「鶴来駅」下車
駅前から加賀白山バス「瀬女」行き 一の宮下車徒歩5分
バスは1日に数本しか運行していないのでご注意下さい
①鶴来駅から鶴来レインボーラインを通って南へ徒歩55分位
②鶴来駅から県道を南へ徒歩40分位
「金剣宮」
石川県白山市鶴来日詰町 鶴来駅から徒歩15分位
「舟岡城跡」白山市鶴来八幡町
舟岡城跡がある舟岡山(標高178m)は白山比め神社がはじめて鎮座した場所。
鶴来レインボーライン八幡町の信号を東へ(手取川側)入り白山比め神社へ向う途中、
舟岡城跡の説明板が目に入りました。
『参考資料』
「石川県の地名」平凡社 「石川県の歴史散歩」山川出版社
 高木卓訳「義経記」河出書房

 

 



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東山七条から豊国廟の参道を少し上ると南側に
新日吉(いまひえ)神宮の石碑が見えます。


永暦元年(1160)10月、後白河上皇が法住寺殿の鎮守として、
山王七社の神々を近江日吉大社から勧請し、
新日吉神社と称したのを起こりとします。

創建当初は法住寺殿の東端、現在地よりやや南の
今熊野瓦坂(今熊野日吉町)にあったと伝えられます。
平清盛が造営し、
後白河上皇の護持僧として親任の篤い昌雲が別当職に任じられました。
法住寺殿の近くに昌雲が里坊を開いたのが妙法院の始まりとされ、
以後、新日吉神社は明治までは妙法院の管理下にありました。


後白河院の参詣は36度に及び、「歴代皇室、日吉大神を尊奉せざる時は、
神罰をこうむるべきものなり」という願文を納めています。後鳥羽上皇はじめ
歴代上皇からも篤く尊崇されましたが、応仁の乱後、社運は衰微していきます。

寛永年間(1624~66)に妙法院宮堯然(ぎょうねん)法親王が
新日吉神社を再建し、豊国廟参道の中央に移しました。
明治30年(1897)、黒田・蜂須賀等の秀吉旧配下の人々が豊国廟の修築を行い、
翌年、参道の改修にともなって、新日吉神社は現在地に移転しました。

楼門


神楽殿




拝殿その背後に本殿

昭和33年(1958)10月、後白河天皇の神霊を法住寺陵より合祀し、
社名を新日吉神宮に改めました。
境内には本殿、拝殿、神楽殿、楼門などがあり、
末社として飛梅天満宮や豊国廟破壊後、木下秀吉をひそかに祀った
樹下(このもと)社などがあります。祭神は、日吉大社の上七社と後白河法皇、
相殿には素戔鳴尊(すさのおのみこと)・大年神(おおとしのかみ)を祀ります。



創建直後からはじまった小五月会(こさつきえ)には、競馬や流鏑馬・
田楽などが催されました。一時絶えていましたが、現在は新日吉祭として
例年5月第2日曜日に行なわれます。神官による馬場御供の儀が執り行われ、
妙法院門主の法楽の儀の後、鳳輦(ほうれん)や甲冑武者、
稚児たちがにぎやかに氏子区域を巡幸します。

本殿脇に日吉大神の使いが猿であることにちなみ、
神猿(まさる)
が安置されています。

京都御所の表鬼門にあたる猿ヶ辻の猿は金網に閉じ込められていますが、
なぜかこの社の阿吽の猿も金網に入れられています。
 『アクセス』
「新日吉神宮」京都市東山区妙法院前側町451-1
市バス「東山七条」下車、東へ10分くらい
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂
梅原猛「京都発見」(2)新潮社 小松和彦「京都魔界案内」知恵の森文庫・光文社 

京都新聞社編「京都・伝説散歩」河出書房新社

 

 

 



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 新熊野(いまくまの)神社は三十三間堂から東大路通を南へ進み、
J
Rの線路を越えると見える樟の森の中にあります。

東大路通に面してたつ新熊野神社の鳥居

永暦元年(1160)、後白河院が法住寺殿造営にあたり、
鎮守社として紀州熊野の神を勧請し、平清盛に命じて造営させたのが起こりです。
命を受けた清盛は、熊野の土砂や材木を用いて社域や社殿を築き、
那智の浜の青白の小石を敷いて霊地熊野を再現したとされています。





境内に入ると南側に創建当時熊野から移植したという
後白河院お手植えの樟が枝を広げています。

高さ20m樹囲6.5mにおよぶ巨木で、熊野の神々が降臨する時、
この木に宿るといわれ影向大樟(ようごうのおおくす)ともよばれています。

後白河院はこの社に百回余も参籠し、後鳥羽上皇も百五十回参拝、
参籠をしたという記録が残っています。
以後、歴代皇室の手厚い保護を受けて栄えました。

この社の舞台に立っていた観阿弥・世阿弥父子が室町将軍足利義満の目にとまり、

義満はこの親子を庇護するようになります。
猿楽の役者の身分が低かった当時としては異例なことでした。
時の将軍の援助を受けた世阿弥は、猿楽の芸術性を高めるため
義満の花の御所で教養を身につけていき、幽玄の美を完成させました。

境内の北側には、「能楽大成機縁の地」の記念碑と駒札がたっています。


応仁の乱以降、度々の兵火に見舞われ社殿を焼失し衰微しました。
江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院が再建に尽くし、
現在の本殿は当時の御所の建物を修復したものと伝えます。
高倉天皇が中宮徳子のために安産祈願を行ったことから、
現在、安産守護の神様として信仰を集めています。

熊野三山が歴史上有名になってくるのは、平安時代中期から頻繁に
行なわれた熊野御幸によってです。上皇が政治を行なう
院政期に入ると、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽の四上皇は熊野詣を
さかんに行ないました。とりわけ後白河院は熊野信仰の念が強く、
永暦元年(1160)10月の熊野詣が最初、
それから毎年のように行い、生涯に34回を数えます。

院が編んだ『梁塵秘抄』にも熊野を歌った今様が多く収められています。
熊野三山は熊野本宮大社・熊野速玉大社(新宮)・熊野那智大社に分かれ、
古くは自然信仰の神々を祀る社でした。
それは古代人が素朴な畏怖の念を抱いた樹木の霊であったり、
巨石の霊であったり、あるいは滝の霊です。この自然信仰と修験道、
仏が人々を救うために姿を変えて日本の神となって現れたとされる
当時の本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想が重なって一大ブームを起こし、
上皇や貴族だけでなく庶民の間にも広がり、
「蟻の熊野詣」といわれる盛況ぶりで人々の群れが熊野へと続きました。

若宮社

院が熊野詣に劣らぬ情熱を注いだのが今様です。
新熊野神社で平康頼らの近臣を伴い今様の会を催したことが、
『梁塵秘抄口伝集』に見えます。平康頼は後に鹿ケ谷の謀議に加わり、
鬼界ヶ島に流されましたが、熊野権現を祀って
帰洛を祈ったお陰で許された人物です。
『梁塵秘抄口伝集・巻第十』の内容は、後白河院の今様生活を記した
自叙伝です。すざましい練習の日々の様子「時には昼夜を通して歌いつづけ、
喉がはれて湯水を飲むのもつらかったほどだったという。それでも
歌うことをやめず、私にかなうものは誰一人いなかった。」と記しています。
今様の師との出会いについて「藤原信西の紹介で青墓の傀儡(くぐつ)乙前に会った。
70歳を過ぎて見苦しいからと言って断る乙前を無理に引っ張り出し、
31歳の私は乙前と師弟の契りを結んだ。」とあります。

自らが伝授した弟子たちへの批評は「平康頼は天性の美声の持ち主である。
細く清らかである上に音感がよい。沙羅林(さらりん)・早歌などよく理解して
歌うことには心得た上手であるが、じっくりと身につける努力をせず、上走りして
ものを習うために上手のわりには軽々しい歌い方をする時がある。」などと記され、
さらに熊野などの社寺参詣の折に体験した今様の霊験譚が語られています。

後白河院の母待賢門院璋子もそうとうな今様好きで、神崎の遊女かねを
傍においてその歌を楽しんでいましたが、皇子の雅仁親王(後白河)が、かねを
独占してしまうので、母から「一夜おきにさしあげましょう。」と言われたという。
十余歳からはじまる院の今様好みは母の影響があったと思われ、
さしたる今様の師はなかったが今様の名手源資賢や、かね等の歌を
聞き取って歌っていました。父鳥羽院も催馬楽という古い歌謡を好み、
後白河院の音楽好きはこのような両親の天賦を受けついだものと思われます。
『アクセス』
「新熊野神社」京都市東山区椥ノ森町42 市バス「今熊野」下車すぐ
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社  竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂 
森浩一「京都の歴史を足元からさぐる」(洛東の巻)学生社 「新熊野神社」新熊野神社
桃山晴衣「梁塵秘抄うたの旅」青土社 馬場光子「梁塵秘抄口伝集」講談社学術文庫 
植木朝子「梁塵秘抄」角川ソフィア文庫 五来重「熊野詣」講談社学術文庫
梅原猛「京都発見」(2)新潮社 新編日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館

 

 



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建久3年(1192)3月13日、後白河法皇は、六条殿(六条御所)で、
66歳の波乱の生涯を閉じました。大音声に念仏を唱えながら、
に定印を結び座ったままの大往生であったという。

遺骸は蓮華王院東、法住寺殿の一角に設けられた法華堂に埋葬されました。
堂の内部には後白河天皇の法体姿の木像を安置し、
床下地中には、石室が造られ棺が納められました。
その北隣には建春門院滋子の墓所の法華堂があったので、
蓮華王院の千手観音像に面して二つの法華堂が並んでいたことになります。

現在、滋子の陵地は不明、後白河上皇の法華堂のみが残っていますが、
幕末、全国的に幕府が行なった天皇陵修築の際に
新設された門が邪魔をして法華堂の全容は見えません。

土日祝日は、御陵の扉は閉じられています。

御陵の参道は法住寺の北側にあります。

後白河天皇法住寺陵





法住寺水天門(竜宮門)

当時は現在の法住寺水天門を通る参道でした。
水天門前にたつ「旧御陵正門」の石碑

法住寺本堂

天正14年(1586)に三十三間堂は豊臣秀吉が造営した方広寺の
三内寺院とされましたが、豊臣家滅亡後、三十三間堂はじめ
大仏殿、新日吉神社など、すべて妙法院の管理下におかれました。

御陵の南に接する法住寺は、後白河天皇陵の守護寺として
妙法院によって建立され、法住寺殿にちなんで寺名としました。
明治維新後、御陵を宮内庁が管理するようになり、
大興徳院と改められましたが、昭和30年、再びもとの名にもどりました。
本尊の不動明王像は「身代わり不動」とよばれ方除け・厄除けのご利益で知られ、
大石内蔵助もあだ討ちの成功を祈ったと伝えられます。
これに因んで赤穂四十七士の像が本堂に祀られています。
また寺では
「今様歌合せの会」が開かれています。
『アクセス』
「後白河天皇陵」
京都駅より市バス「博物館・三十三間堂前」下車2分
「法住寺」京都市東山区三十三間堂廻り655
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社  竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂 
安田元久「後白河上皇」吉川弘文館 森浩一「京都の歴史を足元からさぐる」(洛東の巻)学生社

 



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京都の名所の一つに三十三間堂があります。
平清盛が後白河上皇のために千手観音像一千一体を安置する御堂を
造営し寄進したもので、長寛二年(1164)12月、
上皇の御所法住寺殿の西に建てられました。
正式名は蓮華王院(天台宗)といい、堂の内陣の柱間(はしらま)が
三十三あることから三十三間堂とよばれ、現在は妙法院に属します。
南北118m・東西22m、堂内の中央に
千手観音坐像一体が安置され、その左右に千手観音像五百体ずつ
計一千一体が並び28部衆とともに祀られています。

右端の全画面ボタンを押して切り替え三角をクリックしてスライドショーを
ご覧ください。切り替えの時間は右から二番目のボタンを5に
設定してくださるとゆっくりと変わります。
 

平安時代末期は、一度参拝するより二度、三度というように数の信仰が
盛り上がり、貴族は数を争って仏像を造り塔を建てました。
この多数量崇拝と結びついて千手観音信仰が盛んになりました。
観音経によると観音は人々を救うために三十三の姿に変身して現れるという。
三十三間堂に千一体祀られているということは三万三千三十三の観音が
あることになり、その手は千本であるからさらに霊験が増し、
人々のどんな願い事も見逃さず目配りし、
計り知れない救いの手を衆生に差しのべてくれます。

このお堂は木曽義仲の法住寺合戦の兵火をまぬがれましたが、
慶長元年(1249)、火災に遭い創建時にあった五重塔などの
堂塔とともに焼失しました。この時、かろうじて
百二十四体の観音像や28部衆は堂外に運びだされました。
鎌倉時代後期に創建時の姿に再建され、七百五十年あまり前の姿を
今に伝えています。この堂のモデルとなったのが、清盛の父忠盛が、
鳥羽院のために造営した得長寿院(とくちょうじゅいん)です。

白河南殿(岡崎)の一角に建立され、内陣の柱間が三十三あったことから
俗に三十三間堂と呼ばれて一千一体の聖観音像が安置されました。
この功によって忠盛は但馬国の国守に任命されるとともに、殿上人に
列せられ権力の手がかりをつかみました。元暦2年(1185)、得長寿院は
地震で倒壊して現在跡形もありませんが、両寺院の規模・構造とも
ほぼ同じであったので、その姿を蓮華王院に見ることができます。

豊臣秀吉によって北隣に方広寺大仏殿が創建されると、蓮華王院は
その山内寺院として編入され千手堂と称され、南大門と西大門が新たに
つくられました。さらにその後方広寺が妙法院の管理となったことから
三十三間堂も妙法院の管理となり、西大門は七条通の拡張により、
東寺の南大門として移建されました。
『アクセス』
「三十三間堂」京都市東山区三十三間堂廻り町657
京都駅より市バス「博物館・三十三間堂前」下車すぐ
『参考資料』
「京都市の地名」平凡社 竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂 
森浩一「京都の歴史を足元からさぐる」(洛東の巻)学生社 



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