平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




JR東海道線北側にある三白山連城寺(れんじょうじ)は、保元3年〈1158〉8月、
遠江(とおとうみ)守に任じられた平重盛の開いた寺です。

磐田市は平安時代、遠江国(現、静岡県西部)の
国府が置かれたところで、政治・文化・経済の中心として栄え、
その中央に位置する見付地区には、古くから京都と
鎌倉・東国を結ぶ東海道の宿場町、見付宿がありました。

また、平安時代後期から太田川下流右岸、現在の
磐田市南東部地域には
伊勢神宮所領の鎌田御厨(みくりや) がおかれ、
伊勢神宮の神官によって管理されていました。
『吾妻鏡』寿永元年(1182)5月16日条によると、
伊勢神宮外宮(げぐう)禰宜(ねぎ)為保が
鎌倉殿の御所に参上して鎌田御厨(現、磐田市鎌田付近)が
遠江国守護の安田義定(よしさだ)によって押領されたと訴えると、
源頼朝はただちに安堵の下文(くだしぶみ)を為保に与えたという。

鎌田政家(正清)の墓がある鎌田地区から連城寺まで
バスでの移動はちょっと不便なので歩きました。
距離は約2㎞、30分ほどです。



三白山連城寺
寺伝によれば、平重盛が遠江守の時に建立したと伝えられています。
墓地には、平清盛と平重盛の供養塔や中泉代官大草太郎左衛門の墓があり、
裏山には4世紀後半に造られた、葺石(ふきいし)を有する
秋葉山古墳(円墳、長軸50m、短軸46m)と葺石・埴輪を有する
稲荷山古墳(前方後円墳、全長46,5m)があります。

秋葉山古墳は、国指定史跡御厨古墳群を構成する古墳の1つです。
南には、明治時代に東海道線の工事で消滅した経塚古墳がありました。
経塚古墳から出土した三角縁四神四獣鏡(さんかくぶちししんしじゅうきょう)は、
県指定有形文化財(考古資料)として連城寺で保管されています。



 山門をくぐると正面に観音立像 

本堂前にたつ大黒天と恵比寿さま
本尊:聖観世音菩薩


頌徳碑  平成十五年五月吉日 袋井市国本 大草正人謹撰書

碑文には、三白山連城寺は平重盛が天台宗で
1179年に建立したと伝えられていると刻まれています。
1179年といえば重盛の没年にあたります。


平重盛(1138~1179)は、父清盛の悪行の報いを恐れ、
諸国に寺を造営したといわれ、遠江国においては、
蓮(連)覚寺(磐田市竜洋中島)・連福寺(磐田市二之宮)・
 連城寺(磐田市新貝)を開創しました。
寺名の「蓮」「連」は重盛の法名
「城連(浄蓮)」から付けられたものという。

平氏滅亡後、寺も衰退しましたが、これを再興したのが遠江代官の一人
大草太郎左衛門家祖三代政信です。天正年間(15731592)、 
政信は萬松山(ばんしょうざん)可睡斎(かすいさい)(現、静岡県袋井市)
第11世鳳山等膳(ほうざんとうぜん)を招き、
天台宗を曹洞宗に改め中興の開山としました。
大草氏の菩提寺で墓地には歴代の墓があります。


寺の裏手JR東海道線がすぐ傍を走る墓地への上り口

急坂を上って行くと墓地に出ます。





主に僧侶のお墓として使われる無縫塔(むほうとう)



平清盛重盛両公供養塔





平重盛の墓(小松寺1)  
アクセス』
「連城寺」静岡県磐田市新貝1556 JR磐田駅から4km
桶ヶ谷沼線
「新貝」バス停 から徒歩約5分 
「鎌田政家の墓」から東北へ約2㎞
『参考資料』
「静岡県の地名」平凡社、2000年 「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年



  



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千手の前は手越(現、静岡市)の長者が千手寺に祀られている
千手観音に祈願して生まれ、千手と名付けられたと
伝えています。

一の谷合戦で捕虜となった平重衡が鎌倉へ護送されてくると、
頼朝は重衡の堂々とした態度が気に入り、囚人ながら手厚くもてなします。
頼朝だけでなく鎌倉幕府の人々が重衡を好感をもって迎えたことが
『吾妻鏡』からも窺えます。重衡の世話を命じられた千手の前は、
「眉目容姿(みめかたち)・心様、優にわりなき者」と平家物語にあるように、
聡明で容姿気質ともに優れた女性でした。
刻々と死が迫る重衡を包み込むようにやさしく接する千手は、
重衡にとってかけがえのない存在になっていったと思われます。

平家が壇ノ浦で全滅すると、南都の衆徒たちから、重衡の身柄引渡しを求める
強い要請があり、頼朝はそれを抗しきれず、重衡の処分を南都の僧に任せます。
重衡は東海道を西へ、大津から東海道をはずれ奈良に送られました。

南都が重衡を要求したのは、重衡が南都に焼き討ちをかけて東大寺大仏殿、
興福寺などの伽藍を全焼させたことによるもので、平氏に衰運の
きざしが見えはじめた頃、反平氏の拠点となった南都を抑えるために
清盛が本三位中将重衡を大将軍として攻めさせたのでした。

その後の千手について『吾妻鏡』は、重衡が処刑された3年後、
政子に仕える千手前が重衡への思いのためか御前で気を失い、間もなく息を
吹き返しましたが、3日後に24歳で死去したという記事を載せています。
(文治4年4月22日、同月25日条)
ところが『平家物語』によると、重衡の死を聞いた千手前は髪をおろし、
墨染の衣に身をやつし信濃の善光寺で修業し重衡の後世を弔い自らも
極楽往生の願いを遂げたと伝え、『吾妻鏡』とかなり違います。
『平家物語』は、合戦の敗者重衡に好意的で、重衡の罪は罪として認めながらも、
何とか重衡を救済させたいと「戒文の事」の章段に法然を登場させ
説法を受けさせています。
次いで重衡を浄土に救済する役割を千手に与え、
「千手前の事」の末尾に出家して重衡の菩提を祈る
千手の姿を書き加えたと考えられます。

重衡が法然の教義を聞くさまは、後世の『法然上人行状絵図』には見えますが、
古い系統のものにはなく、実際に重衡が法然によって受戒したかどうかは
明らかでなく、『平家物語』の創作かも知れないとも言われています。
物語は鎌倉新仏教の開祖の中でも最も民衆的で、
その教えに多くの人々が耳を傾けた法然を
重罪に苦しむ重衡の戒師として登場させたのかも知れません。

なぜ千手は善光寺で出家したのでしょうか。
これについて『新潮日本古典集成』の頭注には、「善光寺は平安時代末期より
中世以降に全国的に信仰が広まった。千手の入寺もこの宗教的機運と関連して
語られたものであろう。」と記され、千手と善光寺信仰とを結びつけた伝承のようです。

静岡県磐田市残る伝説によると、平重衡が処刑されてのち、
千手の前は髪をおろして尼となり、熊野(ゆや)御前を頼って
白拍子村に庵を結び、24歳で亡くなるまで重衡の菩提を弔ったという事です。
千手の前と熊野御前の間をとりもったのは、謡曲『熊野』の中で
熊野を京都に迎えに行ったという侍女の朝顔です。
前野の松尾八王子神社東側には、朝顔の塚がありこの物語を伝えています。

江戸時代の遠江国中泉村(磐田市)の医師山下熈庵(きあん)が著した
『古老物語』には、「豊田郡池田庄野箱村に白拍子千寿の前の廟所あり。
千寿の前は駿州手越の長者が娘なり。平重衡刑死後は尼となり当国に
蟄居の故此処を白拍子村と呼ぶ。葬る所の墓印に松を植え、
世人傾城の松と言へり。」とし、
野箱村の傾城塚が千手の前の墓と伝えています。
『磐田市誌』には、「この塚は寛文4年(1664)雷火のため焼失し、
その8年後白拍子の供養のため戒名と「白拍子之古廟」を意味する碑文を
刻んだ石碑が建立された。」とあります。




千手堂バス停の西方に建つ案内板







野箱の傾城塚

『静岡県の地名』によると、「千手寺の本尊十一面観音は千手前の念持仏と
伝えているが、後世、千手と千手観音の両者が結びつけられたらしい。」とあり、
地元に伝わる話がどこまでが本当なのかわかりませんが、
歴史的な事柄が脚色され、
能や郷土芸能(浪曲・千寿の詩・千寿てまり歌)などに
語り継がれて広まり、
伝説化していったのではないでしょうか。
なお、この地方ではいつからか千手を千寿と呼ぶようになったといいます。
平重衡と千手の前1(少将井神社)  
平重衡と千手の前2  
熊野御前と平重衡 (行興寺・池田の渡し)  
『アクセス』
「千手堂」静岡県磐田市千手堂637 
JR磐田駅よりバス掛塚線「千手堂」下車徒歩約10分
バス停北の道を西へ進み案内板から南へ
バスの本数は、日中は2時間に1本、ラッシュ時は1時間に1本程度です。

「傾城塚(千手の墓)」磐田市野箱 「朝顔の塚」磐田市前野
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
「静岡県の地名」平凡社 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(下)塙新書
 安田元久「平家の群像」塙新書 現代語訳「吾妻鏡」(奥州合戦)吉川弘文館
梅原猛「法然の哀しみ」(上)小学館文庫



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伊豆の狩野介宗茂に預けられた平重衡は、まもなく伊豆から鎌倉に移されます。
重衡の器量に感心した頼朝は、丁重にもてなし御所内の建物一軒に招き入れました。
速やかに首をはねられよ。と即刻断罪を願った重衡ですが、
これから鎌倉で一年余も過ごすことになります。


ある雨のそぼ降るものさびしい夜、頼朝は重衡の徒然を慰めようと
藤原邦綱、工藤祐経、官女の千手を遣しました。
祐経が鼓を打って今様を謡い、千手前が琵琶を弾き、重衡は横笛を吹いて
時を過ごします。祐経は以前、
平重衡に仕えていたことがあり、歌舞音曲に通じ、
頼朝の側近の中では、最も趣味の広い文化人でした。


千手前は面白くなさそうな重衡の様子を見てとり、『和漢朗詠集』から
重衡の心を汲んだ内容の「十悪といへどもなお引摂す」という朗詠を歌い
「極楽往生を願う人はみな、弥陀の称号を唱うべし。」という
弥陀の慈悲を讃える今様を4、5遍くり返すと、
重衡の気持ちが少しほぐれてきたのか、ようやく杯を傾けました。
それから琴で「五常楽」を弾くと、重衡はふざけて「この楽は五常楽であるな。
いまの自分には後生楽(後生安楽)と聞こえる。
それではすぐ往生するよう往生の急でも弾こうか」と琵琶を手にとって、
「皇じょう」の終曲にあたる急を弾きました。「五常」を「後生」にかけ、
「往生の急」を雅楽の「皇じょうの急」にしゃれて言い換えたのです。
雅楽では、楽曲を構成する三つの楽章、序・破・急(テンポが速い)があり、
重衡は皇じょうの「急」の部分を弾き、往生を急ごうという気持ちを表しました。
この逸話から重衡が清盛と時子との間の末の息子で、
両親からも大変に可愛がられて育ち
陽気で、冗談が好きな性格であったことを思い出させてくれます。

「ああ思ってもいなかった。あづまにもこのように雅びな女性がいるとは。
何かもう一曲」と重衡が所望すると、千手の前は「一樹の陰に宿りあひ、
同じ流れを結ぶも、みな是前世のちぎり」という白拍子舞につけて歌う歌を
心をこめて歌います。するとあまりの面白さに重衡も『和漢朗詠集』の中に収める
「灯闇うしては数行虞氏が涙 夜ふけて四面楚歌の声」という朗詠を歌います。

この朗詠の意味を少し説明しましょう。
昔中国で、漢の高祖(劉邦)と楚の項羽が位を争って合戦すること七十余度、
戦いごとに項羽が勝利しますが、最後には敗れ、項羽の垓下(がいか)城は
敵の大軍に包囲されます。夜が更けるにつれて包囲する四方の漢軍の中から
項羽の故郷の楚の歌が聞こえ、項羽はもはや楚の民がみな漢に降ったかと
驚き嘆き、最愛の妃虞美人と別れを惜しみ涙を流した。と『史記』にあります。

橘広相(ひろみ)が項羽の心を歌ったこの朗詠を重衡は思い出し、
項羽を自らに重ね合せ、自分が四面楚歌の状況
に置かれている事を実感し
また琴や歌でなぐさめる千手の心遣いに触れて心を開き、二人の間に流れる
時間を項羽と虞美人との最後の夜になぞらえて、歌ったのでしょうか。
『平家物語』は、「いとやさしうぞ聞こえし。」と語っています。
重衡の朗詠が優雅であっただけでなく、
二人の歌の応酬がまことに優美に聞こえた。といっているのです。


外で立ち聞きをしていた頼朝は、翌朝千手に向かい、世間体を憚って、宴に
同席しなかったのが悔やまれる。と言い重衡の芸のすばらしさを称賛すると、
その場に居合わせた斎院次官中原親義がやはり残念がり、
「そうでしたか。平家一門には、代々歌人や才人が揃っていますが、
重衡殿は歌舞音曲の名手であられますか。
いつぞやこれらの人たちを花にたとえたことがございましたが、この時、
重衡殿の
華やかさを牡丹の花にたとえられました。」と語りました。
こうして重衡の撥音や朗詠の歌いぶりは後々の語り草となりました。
そしてほんの一晩ですが、
千手前と重衡は朗詠や楽曲を通して互いに心を通わせました。
これは『吾妻鏡』、『平家物語』の中の
重衡の風流な一面が印象深く語られた一節です。
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館 新潮日本古典集成「和漢朗詠集」新潮社



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平安時代末から中世にかけての東海道の宿駅として栄えた手越宿(現、静岡市)は
遊女の里として知られ、手越長者の館跡と伝えられる場所には、
少将井神社があります。
建久四年(1193)の建立というこの古い社には、
手越少将が祀られ、
境内には、ここで生まれたという白拍子姿の千手の前の像が建っています。

一ノ谷の戦いで捕虜となった重衡は、鎌倉に護送されて一年余の月日を過ごします。
その間、重衡の身の回りの世話をしたのが千手の前です。

千手の前は手越宿の長者(宿場の長で遊女の抱え主)の娘で、
『平家物語』には、この三、四年頼朝に仕えた娘とあり、『吾妻鏡』には、
政子仕えの女房と記されているので、どちらにしても幕府に仕えていた女房です。
長者はそれなりの実力があり、格も高い人ですから、
娘が頼朝の許に奉公することは十分ありえると思われます。


千手の前の像





JR静岡駅から「安倍川橋」でバスを下り、長い橋を渡って手越へ入りました。

安倍川橋を渡り終えると手越の里

手越バス停からバスの進行方向に進み、右側の心光院の路地へ入ります。





少将井神社は狭い路地を通り抜けた山際に鎮座し、
傍には楠の老木が
青々と枝葉を繁らせています。 





拝殿、下の画像は拝殿の背後の本殿

鎌倉に護送されることになった平重衡が伊豆の国府に到着すると、
たまたま伊豆の北条にいた源頼朝は、梶原景時に命じて北条に連れて来させ、
廊で重衡に面会しさっそく尋問します。
「東大寺を焼いたのは、
故入道清盛殿の指示に従ったのか、それともそなたの咄嗟の処置だったのか。」
重衡は「奈良を焼き滅ぼしたのは、死んだ入道の命令でもないし、
自分の一存でもない。暴徒化した奈良の大衆たちを鎮圧するため出兵し、
戦いが夜に入り味方の同士討ちを避けるようと
放った火が風に煽られ、伽藍に燃え広がったもので不慮の事態だったのです。
しかし責めは一身に受ける覚悟です。
すみやかに断罪に処せられるべし。」と答えその後は何も言いません。

頼朝は剛直に言うべきことは言う重衡の毅然とした態度に感服し、
梶原景時はじめその場にいた者も皆感じ入ったといいます。
重衡の身柄を伊豆国の住人狩野介宗茂(むねもち)に預け、
頼朝が遣わしたのが千手前です。
千手の前は「何事でも重衡殿のお望をお聞きしてきて伝えよ。という頼朝殿の
仰せでございます。」と重衡に尋ねると「このような身になった今、
何を望みましょうか。ただ出家することだけが願いです。」と
いうので頼朝に報告すると「朝敵として預かっている者に出家など
断じて許されることではない。」と一蹴しました。
(『平家物語』『吾妻鏡』)

少将井神社由緒(現地説明板) 
 「 当神社の祭神は素盞鳴命(すさのうのみこと)で、
建久4年(1193年)源頼朝が鎌倉幕府を開いた翌年に当たり、
有名な富士の巻狩り、曽我兄弟の仇討ちがあった年である。
その後、東海道の要衝安倍川の渡しの宿場町として繁栄した。
手越の産土神として尊崇され、曽我物語にある工藤祐経の遊君
少将君の名と共に往昔東海道を往来する旅人にもその名を知られ、
当地の名社として今日に至っている。
明治十二年(1879年)村社に列し、明治二十二年(1889年)九月六日
手越桜山鎮座の村社神明官(天照大神)、手越向山鎮座の山王神社の
(大山咋神・おおやまくいのかみ)、手越水神鎮座の水神社
(罔象女命・みずはめのみこと) の三社を合祀し、同日手越藤木鎮座の左口神社の
猿田彦命(さるたひこのみこと)を移し境内社とした。
後に合祀して祭神は五社となる。

社殿は明治32年(1899年)7月、昭和33年(1958年)11月氏子の奉仕により
改築される。例祭は、古くは9月18日に行われたが、
明治43年(1910年)より
10月17日に改められる。
例祭には、氏子一同服装を改めて参拝するを例とし、平素は出生児の初宮詣りや、
病気平癒の祈願詣りなどがあり、神人和合の古い伝統が伝えられている。」

手越少将は、源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った際に富士野の旅館に召された
工藤祐経(すけつね)の馴染みの遊女です。『曽我物語』で知られる
曽我兄弟の仇討事件が起きたのはこの巻狩りの最中、曽我兄弟が父の仇、
工藤祐経の宿舎を襲って祐経を討ち取ります。
事件後、手越少将らが鎌倉に召しだされ事件の夜の子細や
曽我兄弟の行動について詮議を受けたことが『吾妻鏡』に記されています。

平重衡と千手の前2  
平重衡と千手の前3(千手寺)
  熊野御前と平重衡 (行興寺・池田の渡し)  
『アクセス』
「少将井神社」静岡市駿河区手越202 JR静岡駅より「手越」バス停下車 徒歩約5分
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会

「静岡県の地名」平凡社 現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)(富士の巻狩)吉川弘文館

 



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鎌倉幕府が成立すると、京都鎌倉間の往来が盛んになり、
その間を結ぶ東海道は重要なルートとなりました。
東海道の旅を記した作品には、古くは『伊勢物語』や
『更級日記』などがあり、鎌倉時代に入ると『海道記』、
『東関紀行』などの紀行文が書かれるようになりました。
紀行文は、道中の地名を文章の中に連ねて日を重ねていきます。
地名は和歌に詠まれて広く知られた場所、いわゆる歌枕が綴られます。
『平家物語・海道下』は、それらの作品の影響を受け、
重衡が東海道をいかに下って行ったかを周辺の歴史や
歌枕にちなむ故事などを紹介しながら美しい文章で綴っています。

さて梶原景時に護送された平重衡が池田宿をあとにしたのは、
三月もなかばを過ぎ、はや春も終わろうとした頃です。
遠山の桜花は残り雪かのように見え、
沿道の浦々や島々は霞にすっぽりと包まれています。
来し方行く末のことを思い重衡は、「いったいどのような宿業で
このような憂き目にあうのか」と尽きせぬものはただ涙ばかり。
小夜の中山(静岡県掛川市)へさしかかった時には、
西行の歌のようにふたたびこの峠を越えることはあるまいと思われ、
涙で袂をひどく濡らしました。

小夜の中山は、『古今和歌集』をはじめとして
勅撰和歌集などにも多く詠まれてきた古くからの歌枕です。
当時、箱根・鈴鹿とともに東海道の難所といわれていた
この峠を西行は二度越えています。
一度目は、北面の武士として鳥羽上皇に仕えた西行が
突然出家し、京を離れ諸国の歌枕を巡る旅に出た時。

二度目は平家が壇ノ浦で敗れてから一年後のことです。
平重衡の南都焼き討ちによって伽藍を失った
東大寺再建を指揮した俊乗房重源の依頼により、
大仏に貼る金箔の調達のために奥州に赴いた時、
♪年たけて又越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山
(年老いてまた小夜の中山を越えると思ったであろうか。
69歳の今、この老の身をひきずってふたたび越えている。
命があったからだなあ)と険阻なこの峠を40年以上前にも
越えたことを思いだし、「命なりけり」とその感慨を詠んでいます。
『平家物語』では、この和歌を引用していますが、
西行が小夜の中山を越えたのは、平重衡が鎌倉に下ってから
二年後の文治二年(1186)の春のことです。

蔦かずらの茂った宇都谷峠を心細く越えて手越の宿を過ぎ行けば、
北方はるか遠くに雪山が見えます。
名を問うと甲斐の白根山ということでした。重衡は涙をおさえて、
♪惜しからぬ命なれども今日までに つれなき甲斐の白根をも見つ

(惜しくもない命ですが、今日まで生き永らえてきました。
その生きがいが甲斐の白根山を見ることだったのか。)と
重衡が自嘲気味に詠んだのは、『海道記』の一節
「北に遠ざかりて雪白き山あり、
問へば甲斐の白嶺といふ。年ごろ聞きしところあれば見つ…
惜しからぬ命なれども今日あれば 生きたる甲斐の白ねをも見つ」を
借用したもので、重衡の作ではありません。


清見が関を通り過ぎ、富士山の裾野にさしかかると、
北には青山が険しくそびえ、松吹く風は寂しく、
南には青い海が広々と横たわり、岸打つ波は煙っています。
「恋ひせば痩せぬべし、恋ひせずもありけり」と
足柄明神が歌い始めたという足柄山を越え、
このくだりは、足柄明神が3年間会わなかった妻を見て、
「私を恋しがっていれば痩せているはずなのに、
太っているのは恋しがっていなかったからだ」という歌を詠み、
妻に文句を言ったという足柄山に伝わる伝説で
今様の足柄の歌詞に見えます。

こゆるぎの森、鞠子川(酒匂川の古名)、小磯大磯の浦々、
八的(やつまと、辻堂海岸)、砥上(とがみ)が原(鵠沼付近)、
御輿が崎(七里が浜)を通り過ぎ鎌倉へ到着しました。
清見(きよみ)が関
 興津は古代からの交通の要衝で清見寺(せいけんじ)の
門前には、清見が関跡の標柱が建っています。
この関は、清少納言の『枕草子』「関は…」にも書かれている
関の一つで、重衡の護送役の梶原景時が、後に襲われた地です。
鎌倉幕府創建の功労者梶原景時は、頼朝が没した翌
正治二年(1200)、御家人内の勢力争いにやぶれて鎌倉を追われ、
再起を期して西国に赴く途次、清見が関で北条時政の意向を受けた
地元の豪族に襲われ、梶原山で自害しました。
梶原山(静岡市清水区)山頂には、
「梶原景時終焉の地」の石碑が建っています。
清見寺は、寺伝によると天武天皇が清見が関を守るために
建てた仏堂が始まりと伝えられています。


静岡市内の梶原景時ゆかりの地を訪ね、
最後の目的地興津に着いた頃にはあたりは薄暗くなっていました。


清見寺の総門をくぐり、東海道本線を渡って境内に入ります。
総門の向こうに電車が走っています。

清見寺の東側の隅

清見関跡と記された標柱と関所跡の礎石が残っています。

『アクセス』
「清見関跡」静岡市清水区興津清見寺町418-1

JR興津駅から静鉄バス三保山の手線「清見寺前」下車徒歩1分
JR興津駅下車 国道1号線を静岡方面へ徒歩約20分(1200m)
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
 水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会 
「静岡県の地名」平凡社
 「静岡県の歴史散歩」山川出版社 梶原等「梶原景時」新人物往来社 
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 「東海道名所図会を読む」東京堂出版
 白洲正子「西行」新潮社 
岡田喜秋「西行の旅路」秀作社出版

 

 

 



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平重衡は鎌倉に護送される途次、池田宿(現、静岡県磐田市)の長者、
熊野(ゆや)の娘侍従のもとに一夜の宿をとります。
かつて主要な街道には、遊女を置いた大きな宿場があり、その一つ、
池田宿は、天竜川を渡る際の宿駅で平安時代には成立していました。
この宿(しゅく)の長者(遊女の主に女主人)が抱えていた遊女と
義朝との間に生まれたのが源頼朝の弟範頼です。

JR豊田町駅北口前のユーバス乗り場
藤の花と熊野御前が描かれたユーバスで行興寺を訪ねました。

侍従は重衡を見ると「おいたわしや、世が世なら
とてもお近づきになれないお方なのに、
このような所においで下さるとは…」といって一首の歌をさしあげました。
♪旅の空 埴生の小屋のいぶせさに ふるさといかに恋しかるらん
 (旅の空でこんなみすぼらしい宿にお泊りになって、
どんなにか故郷が恋しいことでしょう)

これに対して重衡は、
♪ふるさとも恋しくもなし旅の空 都もついのすみかならねば 
(旅にあっても故郷が恋しいとは思いません。
都はもはや安住の地ではないのですから)とあきらめの心境の歌を返しました。

重衡は彼女の歌に感心して、「どのような女性であろうか」と
護送役の梶原景時に尋ねると
「ご存知ありませんか。宗盛殿(重衡の兄)が遠江(静岡県西部)守だった時、
見そめ都に召して寵愛されていた女性です。老母を故郷に置いていたので、
しきりにお暇を願いましたが、お許しがないので花の季節三月になって、
♪いかにせん都の春も惜しけれど なれし東の花やちるらん
(この都の春も名残惜しいのですが、こうしている間にも東国の花が
散ってしまうかも知れません。「あづまの花」は、故郷の母を暗示しています。)と
詠んだ一首に宗盛殿は心を動かされ、帰郷を許したという
海道一の歌の名人です。」
と答えました。(平家物語・巻10・海道下)

平宗盛と侍従の逸話を題材にして脚色されたのが謡曲『熊野』です。
春爛漫の京を舞台に病気の母を思う熊野の姿が詩情豊かに描かれています。
ただ謡曲のヒロインの名は熊野ですが、
『平家物語』では熊野の娘侍従とするものが大部分で、
謡曲と同じく女主人公の名を「熊野」とするものは底本のほか屋台本があります。
筆者がテキストに使用しています
「新潮日本古典集成」(百二十句本を底本)は、
女主人公の名は熊野で、覚一本系「角川ソフィア文庫」は侍従です。

「時は平家全盛期の京、平宗盛の寵愛する熊野のもとに池田宿から侍女の
朝顔が母の手紙を持って訪れます。文には病状が思わしくないので、一目でも
会いたいという母の願いがしたためられていました。熊野は宗盛に暇を願い出ますが、
宗盛は「この春ばかりの花見の供」と帰郷を許さず清水寺への供を命じます。
牛車で行く道すがら、東山の桜は今を盛りと咲き誇っていますが、
母を案じる熊野の気持ちは沈むばかり。
やがて酒宴がはじまり涙をおさえながら舞を披露します。舞の途中、
にわかの村雨に散る桜の花に母の命を重ね合せ、花びらを扇ですくって硯にあけ、
♪いかにせん都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん と一首短冊にしたためて
宗盛に差出すと、宗盛はさすがに熊野の心を哀れと思い暇をとらせました。
後に宗盛の死を知った熊野は尼となり、33歳の若さで生涯を閉じたという。」
(謡曲・熊野)


行興寺周辺には、多くの旅人や華やかに装った遊女が行き交う時代がありました。

熊野が母の冥福を祈るために建立したのが行興寺の始まりといわれます。
寺伝によると、熊野は池田の長者が熊野権現に祈願して授かった娘といわれ、
この寺の長藤は熊野が植えたものと伝えられています。
本堂に向かって左側に国指定天然記念物の老木があり、
ほかに5本の県指定天然記念物の長藤があり、熊野公園および行興寺境内を合わせた
藤棚面積約1,600平方メートルを誇る藤の名所です。


本堂を囲むように藤棚が広がっています。

本堂の傍には熊野と母、侍女朝顔の五輪塔が祀られています。

向って右が熊野の母の墓、左熊野の墓


国指定天然記念物の藤の老木

西法寺跡の土地千坪を借りて整備された
熊野記念公園には、立派な能舞台と伝統芸能会館があります。

行興寺の本堂裏、熊野(ゆや)公園に建つ能舞台


行興寺の西方には、暴れ天竜と恐れられた天竜川の「池田の渡し」がありました。
「池田の渡し歴史風景館」には、1000年も前から続いていたと
記録されている
池田の渡船の歴史が展示されています。

現在の池田の渡し前

池田の渡し前の常夜燈がわずかに往時を偲ばせています。
『アクセス』
「行興寺」静岡県磐田市池田330
JR「豊田町駅」北口から循環ユーバス「ゆや号」乗車約25分
(1時間10分に1本程度 日曜日は運休)「熊野公園入口」下車西へ徒歩約3分
「熊野公園口」から「JR豊田町駅」乗車時間は約50分 ご注意ください。 
長藤まつり期間中の土・日曜日およびゴールデンウィーク中は、
臨時シャトルバスが運行されます。
「池田の渡し歴史風景館」静岡県磐田市池田300-3
(休館)月曜日・毎月最終火曜日・祝日の翌日、年末年始 
9:00~17:00 入館料無料 行興寺から西へ徒歩約3分
『参考資料』

「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
 水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会 
「静岡県の地名」平凡社 「静岡県の歴史散歩」山川出版社
「らんまん花舞台」(産経新聞・夕刊・2008・4・8)「古典芸能」(産経新聞・朝刊・2008・3・19)

 

 



 

 

 



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源範頼(のりより)は京と東国を往復する源義朝が、
池田宿(現、静岡県磐田市)の遊女に生ませた子で、
頼朝・義経とは異母兄弟の関係にあり、遠江国
蒲御厨(かばのみくりや=現、静岡県浜松市)で生まれたため、
「蒲冠者(かばのかじゃ)」ともいわれています。

範頼は藤原範季(後白河法皇の近臣)の子として養育されたと、
九条兼実の日記『玉葉』に記され、「範」という文字は、
範季(のりすえ)から与えられたと思われますが、
生い立ちは不明です。
藤原範季は義経が頼朝と対立して追討された時、その逃亡を助け、
義経とも縁の深い人物です。(『武門源氏の血脈』)

範頼が史料に初めて見えるのは、
寿永二年(1183)二月の野木宮合戦です。叔父の志田義弘が
鎌倉を襲おうと本拠地の常陸国志田(現、茨城県土浦市など)から
三万余騎を率いて進軍し、下野国野木宮(現、栃木県野木町)で
待ち伏せしていた頼朝方の小山朝政らに敗れました。
この時、鎌倉から馳せ着た蒲冠者範頼の名が『吾妻鏡』に記されています。

その後、木曽義仲追討、一ノ谷や壇ノ浦合戦など数々の合戦で、
大手(正面攻撃軍)の大将軍として参戦し、
その軍功によって頼朝の推挙で三河守となりました。
弟の義経が討伐されてからは、二の舞を恐れ事あるごとに
不忠がない旨の起請文を提出して、異心のないことを頼朝に誓いました。
しかし、建久四年(1193)曽我兄弟仇討事件の時、富士の狩場で
頼朝が殺されたという誤報が鎌倉に届き、嘆く政子に対して範頼が
「範頼がいます。ご安心を」と慰めた言葉が災いとなり、
謀反の疑いをかけられ、伊豆修善寺で誅殺されました。


源範頼は、現在の飯田小学校の西隣に広大な別荘を構え、
守護神として京都の伏見神社から稲荷明神を迎えました。
その後、室町時代に範頼の菩提を弔うため、
この別荘を寺にして稲荷山龍泉寺と呼びました。

六地蔵

山門

本堂

範頼ゆかりの若木の桜
蒲冠者源範頼公桜

稲荷山龍泉寺のあるこの辺りは平安時代蒲氏の別荘地でした。
源範頼公(1154~1193)は鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟で
「蒲御厨」(旧蒲・和田・飯田の範囲)で生まれ育ちました。
範頼公ゆかりの桜が埼玉県北本市東定寺(天然記念物石戸蒲桜)と
三重県鈴鹿市上野町の御曹司桜(石薬師蒲桜)にあります。
平成十五年二月九日上野町の方々のご厚意により
「石薬師蒲桜」の苗が範頼公の古里に移植されました。
龍泉寺に植えられたこの桜を「範頼公」と命名し、
範頼公とともに当地で愛されるようにと願っています。
平成十五年八月二十四日範頼公没後八一0年記念(碑文より)

石薬師蒲桜は、範頼が平家追討のため西に向かう途上、
三重県鈴鹿市の石薬師寺に詣で、「我が願い叶いなば、汝地に生きよ」と言って
馬の鞭にしていた桜の枝を地面に挿したのが、
根付いて生長したと伝えられています。


弁財天

墓地内にひときわ大きな(2、55m)
範頼の五輪の供養塔があり、塔石には
「源公大居士三河守御曹子蒲冠者源範頼公」と
刻まれていますが、建立年月日は不明です。


龍泉寺前の道、この道を隔てた所に駒塚があります。

駒塚
この地は、源範頼公の愛馬を葬った駒塚である。
範頼公は建久四年(1193)伊豆修善寺で殺害されたが、
この時、愛馬は主人が幼少期から青年期をすごした懐かしの故郷に
主人の首をくわえて走り還り息絶えたと伝えられている。
後日、忠誠を盡した愛馬を慰霊するため、馬頭観音菩薩像が建立された。
碑文より) 


忠誠を尽くした愛馬を慰霊するため、建立された馬頭観音菩薩像。
『アクセス』
「稲荷山龍泉寺」静岡県浜松市南区飯田町990 - 1
JR浜松駅前遠鉄バス「鶴見・新貝住宅」行
(ダイヤは1時間に2本位)乗車(約20分)「東部中学入口」下車徒歩約5分
 バス停からバスの進行方向に進み、飯田小学校横の路地を入ります。
道なりに進むとすぐに龍泉寺の生け垣が見えてきます。
(弁財天辺に入ります。)
「駒塚」龍泉寺山門から50mほど南方にあります。
境内南側の道路を左折(東方向)、最初の辻を右折(南方向)、
さらに右折して西に進みます。
源範頼館跡(息障院)  
『参考資料』
野口実「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」新人物往来社 
野口実「武門源氏の血脈」中央公論新社 
高橋典幸「源頼朝」山川出版社 
奥富敬之「吾妻鏡の謎」吉川弘文館 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 
「静岡県の歴史散歩」山川出版社

 

 

 

 



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黄瀬川東の八幡神社境内には、奥州平泉から駆けつけた義経と
頼朝が
腰掛けたという対面石が残されています。
ここから義経が歴史の表舞台に登場します。



三島駅南口からバスに乗り、医療センター入口で下ります。



八幡神社正面の大鳥居

富士川の合戦に勝利した頼朝は直ちに京都に上ろうとしましたが、
東国の統一が先決であるという千葉常胤らの進言で
上洛を断念して、黄瀬川宿に入った頼朝を
九郎義経が訪れ、
過ぎし日のことなどを語り喜びあいました。

大きく枝を広げたねじり柿の木



治承四年(1180年)十月、平家の軍勢が富士川の辺りまで押し寄せてきた時、
鎌倉にあった源頼朝はこの地に出陣した。たまたま、奥州からかけつけた
弟の義経と
対面し、源氏再興の苦心を語り合い、懐旧の涙にくれたという。

この対面の時、兄弟が腰かけた二つの石を対面石という。
またこの時、頼朝が柿の実を食べようとしたところ、渋柿であったので
ねじってかたわらに捨てた。
すると、後に芽を出し二本の立派な柿の木に成長し、
この二本は幹をからませねじりあっていたので、
いつしかねじり柿と
土地の人は呼ぶようになった。 清水町教育委員会(現地駒札より)

黄瀬川陣 安田靫彦画  
画像は、日本経済新聞(2007年8月5日朝刊)より引用させていただきました。


中鳥居と太鼓橋

八幡神社の大鳥居をくぐるり、桜並木の参道を進むと うっそうとした神域に入ります。
社伝によると
主神を 応神天皇とし、相殿には比売神(ひめかみ)
神功皇后を祀っています。創建年代は未詳で、 駿河国桃沢神社の故地とも
伊豆国の小川泉水神社
 
鎮座していた八幡神社をここに遷座したとも伝えられています。
以後、源頼朝は社殿の再建、境内の整備などを行い、 徳川家康は足柄越であった
東海道を箱根路に改めた時、
これまで西向きであった社殿を南向きにし、街道に面して
参道を
つくり、社領二十石、太刀を寄進するなどの篤い信仰をよせました。


社殿

拝殿内部



柿田川の湧水を引いた手水舎
その傍にたつ鳥居をくぐると源頼朝を祀る白旗社があります。


黄瀬川宿は旧東海道の要衝で、頼朝はここで二度陣を布いています。 
一度は維盛を総大将とする平家軍との富士川合戦です。
この合戦に勝利した頼朝は上洛せずに東国を固めることを決意し、
黄瀬川に戻って宿とします。
そこへ義経が奥州平泉から駆けつけ
頼朝と涙ながらに対面した逸話はよく知られています。
母親は違っても、ともに平治の乱で非業の死を遂げた源義朝を父とする兄弟、
その時、兄弟が
腰掛けたといわれる対面石が八幡神社境内北側にあります。
二つの石は、もとは江戸時代に八幡村を支配した
旗本久世氏の陣屋にあったといわれています。 
 

その5年後、文治元年(1185)11
月、
平家を壇ノ浦で
滅ぼした
頼朝は義経討伐に
上洛するため黄瀬川宿に留っていましたが、 
義経都落ちの報をうけて鎌倉に戻りました。

また三島社祭礼の夜に挙兵した頼朝は、北条時政らに命じて
伊豆国目代山木兼隆の館を襲い、兼隆を討ち取りました。
兼隆の郎従の多くは祭礼後、黄瀬川宿に逗留して
遊び歩いていたので不在であったといい、

当地が東海道の宿とともに遊興の場であったことが窺えます。  


黄瀬川宿は黄瀬川の流路変更などが要因となって、
現黄瀬川右岸の木瀬川地区だけでなく
対岸の八幡地区なども含んでいたと考えられています。
黄瀬川の陣で義経、頼朝と対面  
 

『アクセス』
「八幡神社」静岡県駿東郡清水町八幡39

JR三島駅南口①乗場から沼津登山東海バス 旧道経由沼津行(15分)

「医療センター入り口」下車3分

バスのダイヤは一時間に1、2本 

『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)(2)吉川弘文館 

「静岡県の地名」平凡社 「静岡県の歴史散歩」山川出版社
元木泰雄「源義経」吉川弘文館

 

 

 



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 富士川の戦いに勝利した頼朝は「上洛し、いっきに平家を討て。」と命じますが、
千葉介常胤、三浦義澄、上総介広常らはこれに反対しました。
まだ源氏に服属しない常陸の佐竹義政・秀義らを討ちとり東国を固めることが
先決だと主張したため、頼朝はこれに従わざるをえませんでした。
富士川合戦の翌日、一人の若者が黄瀬川の陣を訪れ「鎌倉殿にお会いしたい」と
申し出ますが、土肥実平(さねひら)・土屋宗遠・岡崎義実らは
怪しみ取り継ぎませんでした。頼朝はこれを聞き
「年のころを思えば奥州の九郎ではないか。」といったので、
実平が案内したところ果たして義経でした。
義経は頼朝の御前に進み、互いに昔を語り合って涙を流します。

頼朝は「白河院の御代、八幡太郎義家殿が後三年合戦で戦われた時、
新羅三郎義光殿が兄の苦戦を伝え聞き、官職を投げうって密かに奥州に下り、
兄を助けてたちまち敵を滅ぼされたが、この度、九郎がやってきたのは
この先祖の吉例と同じである。」と大そう喜びます。
千葉介常胤、上総介広常らが上洛を拒否したように、簡単には頼朝の命に
服そうとはしませんでした。安房の大豪族たちを統率することは、
並大抵のことではありませんでした。それだけに身内の参入は
頼朝にとって心強いものだったに違いありません。

平治元年(1159)、源義経は源義朝の末子として誕生し、
幼名を牛若、九郎と呼ばれました。この年に起こった平治の乱で
敗軍の将となった義朝は惨殺され、常盤は義朝との間にもうけた子を
出家させるという条件で三人の子供は許されました。清盛の寵愛を受け、
常盤はのちに「廊御方」とよばれる女の子を生んでいます。
ついで常盤は一条大蔵卿長成という貴族の後妻となり
能成(よししげ)をもうけました。能成は異父兄の義経が頼朝から
追われる身になると、その逃亡を助けた人物として知られています。

『吾妻鏡』には義経の生い立ちについて「義経は平治二年正月にはまだ産衣に
包まれていた。父の死にあってからは、継父の一条大蔵卿長成に養育され、
出家するために鞍馬山に登った。しかし成人する年となってから
しきりに仇討の思いを抱くようになり、自分自身の手で元服し、
秀衡の強大な勢力を頼んで奥州に下向してから今まで多くの歳月が流れた。
今度頼朝が宿望を遂げられようとするのを聞き兄の陣営に加わるために
平泉を出ようとしたところ、秀衡はこれを強く引きとめたが、
義経はひそかに館を出た。秀衡はやむをえず佐藤継信
忠信兄弟に命じてそのあとを追わせた。」と記されています。

義経が奥州平泉藤原秀衡を頼り下向した背景について
『王朝の明暗』の中で、
角田文衛氏は義経の継父長成と元鎮守府将軍で
陸奥守であった藤原基成との
姻戚関係があるとされています。
藤原基成の父は従三位大蔵卿忠隆で常盤の夫長成の
従兄弟であった。
基成の弟は平治の乱の首謀者藤原信頼(のぶより)であり、

娘は藤原秀衡と結婚して泰衡を生んでいます。藤原基成は藤原道長の兄
道隆につながり、関白基通は基成の甥という家系でした。

康治2年(1143)から仁平3年(1153)まで陸奥守を務め、守を退いてから
一旦都に上るが、平治の乱で敗れた弟藤原信頼の縁座によって陸奥に流されます。

しかし、平泉では藤原秀衡の舅として相当の影響力をもつ有力者でした。

基成が陸奥守に任じられて以降、基成の関係者が陸奥守を独占し、

陸奥国との関係が深い一族でもありました。当時、平泉は平家政権の
勢力圏外にあり、
独立国家のような存在であったため、
義経が隠れるには最も安全な場所です。

頑として出家しない義経に困りきった常盤が夫長成に頼んで
基成あての紹介状を
書いてもらい義経は奥州へ下向したと察せられます。
基成は弟の信頼が平治の乱を起こし、義朝を死に追いやったことへの
責任感から
長成の頼みをむげに断ることができず、
藤原秀衡の了解を得たものと思われます。


では、
義経を受けいれた奥州の藤原秀衡とはどのような人物だったのでしょう。
永承6年(1051)陸奥の豪族安倍氏が国司に反抗し「前九年合戦」とよばれる
反乱が起こり、朝廷は源頼義を陸奥守に任じ、安倍氏討伐に向わせました。
頼義は子の義家とともにその後12年にわたって東北地方をまきこんだ乱を
清原氏の援助を受けて苦戦しながらも鎮圧しました。
それから20年余のち、今度は奥州の覇者となった清原氏の同族争いが起こると、
陸奥守八幡太郎義家がこの争いに介入し、最終的には義家が清原清衡を助け
その叔父武衡、弟家衡らを討って清衡を勝利させました。

清衡は平泉に館を移して拠点とし、ついで実父藤原経清の姓藤原氏に改姓し、
奥州藤原氏の祖となり、二代基衡、三代秀衡と発展する基礎がつくられました。
砂金の産出もあり奥州に富と平和がもたらされ、初代清衡が中尊寺、二代基衡が
毛越寺(もうつうじ)という大寺院を造営しています。三代秀衡は宇治平等院に模した
無量光院を造営、嘉応2年(1170)鎮守府将軍に任じられ、養和元年(1181)には
陸奥守従五位上に叙せられています。文治3年(1187)奈良の大仏修復に際し、
頼朝が黄金千両を寄進したのに対して秀衡は五千両を寄進しています。
奥州藤原氏の繁栄は、八幡太郎義家のお陰であることは秀衡も知っていたはずです。

頼朝・義経対面石の画像を載せています。 八幡神社・対面石

『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 角田文衛「王朝の残映」東京堂出版 上横手雅敬「源義経」平凡社

上横手雅敬編著「源義経 流浪の勇者」文英堂 元木泰雄「源義経」吉川弘文館 
五味文彦「源義経」岩波新書 黒板勝美「義経伝」創元社

奥富敬之「義経の悲劇」角川選書 別冊歴史読本「源義経の謎」新人物往来社 
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社  「第5巻源平の盛衰」世界文化社

 



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JR吉原駅から岳南鉄道に乗り、吉原本町駅で下車、
東方向に12分ほど歩くと和田川の袂に「平家越の碑」がたっています。
この碑は平維盛率いる平家軍が、水鳥の羽音に驚いて戦わずして
敗走したという
故事にちなんで建てられた もので、
現在の富士川から6Kほど東に離れたところにあります。
かつてこの辺りの和田川の袂には「平家越え」という小字名があり、
富士川の河川敷だったといわれています。

甲斐源氏が迂回して、平家陣の後方に回ろうとしたときに
水鳥が飛び立ったと伝えられています。

平家越
治承四年(1180)十月二十日、富士川を挟んで源氏の軍勢と平家の
軍勢が対峙しました。その夜半、源氏の軍勢が動くと、近くの沼で眠っていた
水鳥が一斉に飛び立ちました。その羽音に驚いた平家軍は、
源氏の夜襲と思い込み、戦いを交えずして西へ逃げさりました。
源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのは、この辺りといわれ、
「平家越」と呼ばれています。 対岸は平家軍


現在、富士市の西部を流れている富士川は、相模川と並ぶ急流であったため
「暴れ川」と呼ばれ 、時代によって幾度も流路を変えてきました。
江戸時代までは本流がもっと東を流れ、その流れは
いく筋もの支流を集めて氾濫を繰り返していました。

江戸時代初期に築かれた雁(かりがね)堤が
富士川の流れをせき止め流路がつけかえられた結果、
一帯を「加嶋五千石」といわれる水田地帯に変えてしまいました。








「平家越碑」の北東に位置する原田公園の一角には、富士川合戦の際に
源氏軍が食糧を
いたという飯森浅間神社があります。









境内説明板には、「御祭神・木花之佐久夜昆賣命 
治承4年(西暦1180年・平安時代後期)
平両軍対陣の際、源軍は当神社に糧をおき、兵士此れを守備せしより
『飯守明神』としたと伝えられ云々」と記されています。

原田公園の西方には、呼子(よびこ)の笛を吹いて源氏の兵を集めたという
呼子坂の碑があるそうですが、
見つけることができませんでした。
富士川の合戦
『アクセス』
「平家越の碑」 富士市新橋町11-5 
JR吉原駅から岳南鉄道に乗り「吉原本町」駅下車 吉原商店街と反対方向の東へ徒歩12分位
「飯盛浅間神社」 富士市原田字飯森東 岳南鉄道「岳南原田」駅下車徒歩15分位
『参考資料』
「描かれた富士のふもと」富士市立博物館  「静岡県の地名」平凡社
「静岡県の歴史散歩」山川出版社



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治承4年(1180)8月、伊豆に配流されていた頼朝が、
平家打倒の兵を挙げ、伊豆国目代の山木兼隆を討ち初戦に
勝利しましたが、続く石橋山合戦では、平家の大庭景親軍に惨敗しました。
この頃、東国各地に反乱の火の手があがり、東国の兵が
頼朝の許に集結しているという
知らせを受け、
同年9月、清盛はこれを一掃しようと追討軍を派遣しました。
大将軍は維盛、副将軍は平忠度です。維盛は重盛の嫡男で生年二十三、
その姿は絵にも描けないほどの美しさです。
忠度は清盛の末弟で歌人としても知られる風流人、ともに馬、鞍、鎧、
太刀にいたるまで、目もまばゆいばかりの装いの出陣でした。

同年9
18日に新都(福原)を出発した追討軍は、兵を集めながら
進軍しますが、なかなか兵が集まらないまま、
同年10月18日、富士川の畔に到着しました。
一方、石橋山で敗北した頼朝は、房総半島に逃れ安房国の豪族千葉氏や
上総介らの援助を受け頼朝の軍勢は強大化していました。
さらに源氏軍は足柄山を越えて甲斐・信濃の源氏と合流し、
『山塊記』によれば、数万騎に膨れ上がり富士川に迫っていました。
これに対し維盛軍は「千騎」だったという。

維盛は東国の事情に明るい斉藤別当実盛を召して
東国武士たちの勇猛ぶりを聞きました。「武将一人につき少なくても
五百騎は率いており、馬に乗れば落ちることを
知らず、悪路を馳せても
馬を倒さず、戦いに行くときは、親が死のうが、
子が討たれようが、
その屍(しかばね)をのりこえ、のりこえ戦いまする。

西国の戦と申すは、親が討たれれば供養し、喪があけてから戦い、
子が死ねばそれが
悲しいとて攻めませぬ。
兵糧米が尽きれば、春に田を耕し秋に刈り取ってから
攻め寄せます。
夏は暑いと、冬は寒いといって嫌がりまする。東国の戦いには

そういうことはいっさいござりませぬ。
甲斐・信濃の源氏どもはこの辺りの地理に
通じております。
富士の裾野の中腹から背後に迂回するやも知れませぬ。

実盛、今度の戦で生きて都へ帰ることができるとは思っておりません。」と
申し上げると、
兵らは恐れをなし、震えわななきあいました。

こうして明日は矢合せという10月23日の夜、平家の兵が
源氏の陣を見渡すとあちこちに火が見えます。
これは戦を恐れて野山や海、川に避難した住民の夕餉の火でした。
それを兵らは、すっかり敵に囲まれたと錯覚して大騒ぎします。
その夜半、武田信義が平氏の陣の背後を襲おうと移動したところ、

折から富士沼にたくさん群がっていた
水鳥がいっせいにぱっと飛び立ちました。

もとより浮足だっていた平家軍はその羽音を源氏の襲来と勘違いし、
我先にと落ちて行きます。

あくる朝、源氏の大軍が富士川に押し寄せ、
鬨の声をあげますが、平家の陣からは物音一つしません。
人をやって様子を探らせると「皆逃げ落ちております。
平家の陣には蝿の一匹も
とんでおりませぬ。」と申す。
頼朝は馬を降りて兜をぬぎ、手水うがいをして

都の方を伏し拝み「これは全く、頼朝の軍功ではござりませぬ。
ひとえに八幡大菩薩のおはからいと存じます。」と言いました。
こうして富士川の合戦は合戦らしい合戦のないまま、
平家軍は敗れ戦いは終りました。

維盛、忠度らが帰ってくると入道清盛は追討軍の不甲斐なさに激怒し、
「維盛を鬼界が島へ流せ。
侍大将上総守忠清を死罪にせよ。」と命じますが、
一門のとりなしで何とかおさまりました。

平家越碑・飯盛浅間神社 
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館 
永原慶二「源頼朝」岩波新書 
村井康彦「平家物語の世界」徳間書房 
「平家物語がわかる」朝日新聞社 「歴史を読みなおす」(8)朝日新聞社

上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 検証「日本史の舞台」東京堂出版 
高野賢彦「安芸・若狭 武田一族」新人物往来社 
川合康「源平合戦の虚像を剥ぐ」講談社選書
「歴史人」(2012年6月号)KKベストセラーズ

 



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北条政子の父時政が政子の婿にと決めた相手は、伊豆国目代の
山木兼隆でしたが、政子と恋仲になったのは伊豆の流人頼朝でした。
時政は平家の目をはばかって、二人の仲を割こうとしましたが、
政子は深夜豪雨の中を伊豆山権現(現、伊豆山神社)で待つ
頼朝の下に走ったという。僧兵に匿われしばらくこの社に滞在し、
頼朝と政子の縁を結んだ場所としても知られています。

また頼朝が平家打倒の挙兵の際、伊豆山神社に源氏再興の
戦勝祈願をしたことや合戦に備えて
政子が伊豆山権現文陽房覚淵(かくえん)の坊に
かくまわれたなどの歴史的エピソードをもち、
頼朝・政子にちなんで縁結びの神として人気があります。

伊豆山神社の創始は不詳ですが、平安時代に神仏習合が進み、
「伊豆山権現」、「走湯(そうとう)権現」と呼ばれ、

日金山(十国峠)を霊場とする修験道の道場として発展し、
明治元年の神仏分離によって現在の社名に改められました。


頼朝は鎌倉幕府を開くと伊豆山権現を関東の総鎮守とし、
箱根権現と伊豆権現を
二所と呼んで多くの社領を寄進し、
毎年正月には二所詣と称して将軍みずから
両権現を参拝するのが
幕府の恒例行事となり社勢は栄えます。



伊豆山神社前でバスを降り、鳥居を潜り長い参道の石段を上ります。



伊豆山神社 本殿
祭神:
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
拷幡千千姫尊(たくは たちぢひめのみこと)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

延長5年(927)に編纂された『延喜式神名帳』に載せられている式内社で、
古代から現在まで継承されているお社です。


拝殿

社殿左側に長方形の頼朝政子腰掛石があります。

閑静な社殿背後の森は、古々比の森(子恋の森)ともいわれ、
古来歌枕に名高いほととぎすの名所です。
振り返ると眼下に相模灘が広がっています。


(境内説明板より)
「関八州総鎮護 伊豆山神社
御祭神 伊豆山大神 例祭日 四月十五日
鎮座地 境内は古来歌枕に名高い伊豆の御山、
子恋の森の一部で
約四万坪、海抜百七十メートル

御由緒 
当社は古来伊豆大権現、走湯大権現、又は伊豆御宮、
走湯山とも
呼ばれていましたが、明治の神仏分離令により
現在の社名に改称されました。

又、伊豆の地名の発祥地は当社であります。

社伝によると当社は最初、日金山(万葉集にいう伊豆の高嶺)に鎮まり、

次いで本宮山に移り、さらに三遷して現在の地に御鎮座になりました。

源頼朝は平治の乱の後、平家の手により伊豆の蛭ヶ小島に
配流の身となっていたが、
源家再興のことを当社に祈願し、
後に鎌倉に幕府を開くに及んで、篤く当社を崇敬し、

幕府最高の崇敬社として、関八州総鎮護とされ、
社領四里四方、海上見渡す限りの外に、
鎌倉、室町期を通して
武州、相州、上州、豆州、駿州、越州に二十三ヵ所の社領を

所有していたことが室町時代の文書「寺領知行地注文」に記され、
その所領範囲の
広大であったことが
当社の最隆昌期における状況を示しております。


鎌倉、室町の時代を経て徳川家康は江戸に幕府を開くに先立ち
二百石を寄進し、
次いで慶長になって百石と、
併せて三百石の朱印料を寄進して崇敬の誠を示しており、

歴代の将軍もこれに習い、当社を崇敬いたしておりました。

又、天皇家にあっては、第十六代仁徳天皇が勅願所となされてより、
二十二代清寧、
三十代敏達、三十三代推古、三十六代孝徳、
百五代後奈良と六朝の天皇の勅願所となり、

殊に、御奈良天皇は御宸筆の般若心経一巻(国指定重要文化財)を
御奉納になられ
国土安穏と万民の和楽を御祈願なされております。

大正三年一月十三日、皇太子であられた 昭和天皇御参拝の折
親しく、若松一株を
お手植え賜り、現在緑の葉も繁く栄えております。
また、昭和五十五年九月十二日には

皇太子浩宮徳仁親王以下の御参拝をいただいております。

なお、当社は明治以前においては神仏習合が盛んに行われた社で、
役小角をはじめ 
弘法大師、多くの山岳仏教徒や修験者が入峰し
て修行を積んだ霊場で御白河法皇の
御撰による梁塵秘抄に
「四方の霊験所は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)信濃の戸隠、

駿河の富士山、伯耆の大山」と著され、東国 東海における
第一の霊場として
聞こえていたことがしられます。

御神徳
火の神、国生みの大親神として、国の護り、
生命の充実・発展、縁結び、
家内安全、産業・事業・経営の護り、
火防鎮火、温泉守護の御神徳があります。

宝 物
後奈良天皇御宸筆般若心経一巻・古剣一振・男神立像(日本最大)以上、

国指定重要文化財、外多数の宝物を所蔵しております。
金槐和歌集  源実朝
ちはやぶる伊豆のお山の玉椿 八百万代も色はかはらし
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよるみゆ
伊豆の国や山の南に出づる湯の 速きは神の験なりけり」

※例大祭  
毎年4/14~16の3日間同神社で齋行されます。

14日は午後8時から宵宮祭があり、子供たちが町内を練り歩きます。
本祭りは15・16日で、15日は午前10時から
本殿で例大祭神事が行われ、
神女舞と実朝の舞が奉納されます。

『アクセス』
「伊豆山神社」静岡県熱海市伊豆山708―1 
JR熱海駅南口から東海バス約10分 「伊豆山神社前」下車すぐ

階段を下って国道135号線を渡ると、伊豆山神社を勧請した走湯神社があります。

国内では珍しい横穴式源泉であり、日本三大古泉の一つ「走り湯(はしりゆ)温泉」跡から
九百段余ある石段は伊豆山神社の参道です。
『参考資料』
渡辺保「北条政子」吉川弘文館 奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社 
 現代語訳「吾妻鏡」(1)(5)吉川弘文館 「静岡県の地名」平凡社
 
 
 




 
 
 
 


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三嶋大社は頼朝旗揚げ祈願の社です。
平治の乱後、蛭ヶ小島に配流の身となった頼朝は、
源氏再興祈願に何度もこの社に参詣したといわれています。

境内には頼朝政子の腰掛石や安達盛長警護の跡があり、

宝物館には
北条政子奉納の梅蒔絵手箱(国宝)、
源頼家筆の般若心経などが納められています。


三嶋(島)大社の祭神は事代主命と大山祇命、創建年代は不詳です。
もともと三宅島や大島に祀られていた社ですが、
賀茂郡白浜(現、下田市)、
さらに現在地に移されたといわれています。
中世には伊豆国一宮として、源頼朝や多くの武将の崇敬を受けました。











二度目に参拝した時はあいにくの空模様

頼朝挙兵
頼朝が決起したのは、治承4年(1180)三嶋大社祭礼の8月17日です。
攻撃目標は伊豆国目代の
山木判官平兼隆、
寅の刻(午前4時)から卯の刻(午前6時)と決定し、
安達藤九郎盛長を使者として、三嶋大社に戦勝祈願をしました。

父佐々木秀義の使いで北条に来ていた佐々木定綱は、
16日には甲冑を着けて
参上するといって帰国しましたが、
15日から降り始めた雨が決行予定前日の
16日になっても
降り止まないまま日が暮れました。
佐々木秀義の世話をしている
渋谷庄司重国は平家方です。
頼朝は佐々木兄弟が到着しないので、
事前に謀反が発覚したのではないかと心配し後悔していたという。

このため予定していた17日早朝の朝駆けはできませんでした。

『吾妻鏡』治承4年(1180)8月17日条によると、
「三島社の神事があった藤九郎(安達)盛長が奉幣の御使として社参し
間もなく帰参した。神事が行われる以前のことであった。
未の刻(午後2時)に
佐々木太郎定綱、同次郎経高、同三郎盛綱、
同四郎高綱の兄弟4人が参着した。
定綱、経高は疲れた馬に乗っており、
盛綱、高綱は徒歩であった。
頼朝はその様子をご覧になり、
感動の涙をしきりに面に浮かべ
『汝らが遅れたために
今朝の合戦をすることができなかった。この遺恨は大きい』と
仰り、兄弟は
洪水のために心ならずも遅れてしまったと謝罪した。」と記されています。


そして8月17日の深夜、山木判官兼隆の手勢が三嶋大社の祭礼に出かけ、
警備が手薄になった隙をついて山木館を襲撃しました。
北条時政とその息子宗時・義時、佐々木兄弟ら30、40人ほどの軍勢が
途中から二手に分かれ、佐々木兄弟は山木の北方に拠地をもつ
兼隆の後見人堤権守信遠館を、北条一族は山木館を攻撃しました。


信遠邸の前庭へと進んだ佐々木次郎経高はこうこうたる月影のもと
平氏を討伐する源家最初の一矢を放ちました。
山木館は堀をめぐらした堅固な構え、堤信遠を討った佐々木兄弟が
北条勢に加わりましたが、
勝負は中々決しませんでした。
ようやく明け方近くになり、
兼隆を討ちとり山木館に火がかけられました。
この間、頼朝は北条御邸で
失敗すれば
自害する覚悟で戦の結果を待っていたといいます。


安達藤九郎盛長警護の跡



頼朝政子腰掛石







『アクセス』
「三嶋大社」三島市大宮町2-1
JR
東海道本線三島駅徒歩15分伊豆箱根鉄道三島広小路駅徒歩10分
『参考資料』
 「静岡県の歴史散歩」山川出版社 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館
「平家物語」(下)新潮古典集成 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
「静岡県の地名」平凡社 奥富敬之 「源頼朝のすべて」新人物往来社

 

 
 
 
 





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治承4年(1180)8月17日、蛭ヶ小島(伊豆の国市)に流されていた
源頼朝は、伊豆国目代山木兼隆を最初の攻撃目標として
山木館を襲い、
兼隆を討ちとり源氏再興の狼煙をあげました。
それは兼隆の家来の多くが三嶋大社の祭礼に出かけた時の事でした。

この戦いに頼朝は参加せず、深夜に
北条時政の軍勢が
館を襲いましたが、中々決着がつきませんでした。
そこで頼朝の身辺警護のため北条館に残っていた
加藤次景廉(かげかど)・佐々木盛綱・堀親家らが
頼朝から長刀を賜り、
兼隆の首級をあげるという手柄をたて、
館に火をかけ凱旋したのは明け方のことでした。
こうして頼朝は諸戦で勝利を飾ることができました。


山木(平)判官兼隆は、伊勢平氏の一族・和泉守平信兼の子で、
京で検非違使として活動していました。
理由は不明ですが、
兼隆は父信兼と対立し
伊豆国山木郷に配流されていました。

伊豆の知行国主は源頼政、国守はその嫡男の仲綱でしたが、
頼政・仲綱が以仁王の乱で宇治川で敗死したため、
新たに平時忠(清盛妻時子の兄弟)が国主、その養子の
時兼が国守の地位に就き、時忠は検非違使別当の時に
部下であった兼隆を憐れみ、目代に登用しました。

『吾妻鏡』治承4年(1180)八月四日条には、
「山木(平)兼隆は、父和泉守(平)信兼の訴えによって伊豆国の
山木郷に配流され、
何年か経つうちに、清盛の権威を借りて、
周囲の郡郷に威光を
振りかざすようになっていた。
これはもともと平家の一族だったからである。

そこで、平氏を討つため、そして頼朝自身の思いをとげるため、
まず手はじめに兼隆を攻め滅ぼすこととした。

しかし、兼隆の居所は要害の地であり、行くにも帰るにも、
人や馬の往来が
大変なところなので、その地形を絵に描かせ
実情を探るため、
兼ねてから藤原邦通を密かに派遣してあった。
邦通は京都を離れて遊歴しているものであったが、
縁あって安達盛長の推薦を受け、
頼朝に仕えていた。
邦通はわずかな切っ掛けを得て
兼隆の館へ向かい、
酒を飲み流行り歌をうたった。
兼隆がこれを気に入って邦通は数日間滞在したので、
思い通りに
山川村里に至るまで全てを絵に描くことができた。」と記されています。


下の画像10枚は、江川邸付近から「山木兼隆館跡の碑」までの道順です。















小高い丘の上に残る「山木判官兼隆館跡」の石碑




「山木判官平兼隆」という名前について
「山木」は地名で現韮山町山木にあたり、その地名がやがて名字になります。
名字を名乗るということは名字の地を持っている領主ということになります。
「判官」は役職名「平」は源平藤橘など血統を示す氏名「兼隆」は実名です。
頼朝が挙兵したとき、頼朝の軍勢の主力だった武士たち、
北条・三浦・千葉・土肥・土屋・岡崎などすべて地名です。

お手数をおかけしますが、山木兼隆の墓所香山寺、
兼隆神社を合祀する皇大神社を下記のサイトでご覧ください。

山木兼隆の墓(香山寺・皇大神社)  
『アクセス』
「香山寺」 静岡県伊豆の国市韮山町山木868-1 「韮山駅」下車徒歩約35分
 『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館 「静岡県の地名」平凡社 「平安時代史事典」角川書店
関幸彦「北条時政と北条政子」山川出版社「源義経の時代」日本放送出版協会 「官職要解」講談社学術文庫
川合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館





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韮山駅
  
韮山駅から西に向かい国道136号線に出て南に500㍍ほど歩きます。
そこから西に少し入ったところに、北条時宗の三男正宗が開いたと伝わる
成福寺(じょうふくじ)
があります。

成福寺(真宗大谷派)
寺伝によると、鎌倉幕府八代執権北条時宗の子北条正宗(幼名満市丸)が、
正応二年(1289)父の死後鎌倉を離れ北条氏の故郷伊豆北条村に戻り、
伊豆の国在庁官人であった北条氏の先祖平時家・時方の庁舎持仏堂跡に
成福寺を建て両親の墓をつくり、歴代北条氏の菩提を弔った。
現在も北条氏の子孫が寺を守っています。伊豆の国市四日町981


本堂


南に進むと伝堀越御所跡(国史跡)があります。
説明板がたち、周辺の史跡や堀越御所について詳しく解説されています。
伝堀越御所跡とは、室町幕府より派遣された堀越公方
足利政知の御所があったと伝えられる場所です。

室町時代の後半、大名の勢力争いが激化し各地で戦乱が起こりました。
将軍足利義政は、当時対立していた鎌倉公方足利成氏と上杉氏との
合戦の続く関東へ兄政知を還俗させ新たな鎌倉公方として下向させますが、
政知は鎌倉に入ることができず韮山の堀越に屋形を建てとどまりました。
このため政知を堀越公方と呼び、敵対する成氏は古河公方と呼ばれ、
その後、明応二年(1493)政知の子茶々丸は、駿河勢(北条早雲)によって
滅ぼされました。北条氏の氏寺である願成就院には茶々丸が
当寺で自害したという伝承があり、境内には茶々丸の墓があります。


政子の産湯井戸の碑は伝堀越御所跡広場の向かい側にあります。

「北条政子産湯之井戸」の碑

産湯の井戸は民家の前にあります。

狩野川に面する守山の北側には、北条氏邸跡(国史跡)があります。
願成就院・守山八幡宮・北条邸跡  
『アクセス』
「政子産湯の井」
伊豆の国市寺家字守山1216
伊豆箱根鉄道韮山駅徒歩約15分
『参考資料』
「静岡県の歴史散歩」山川出版社 「静岡県の地名」平凡社

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 



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