平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




町石(ちょういし)道は、高野山麓の慈尊院(九度山町)から奥の院を結ぶ
行程約24Km、高低差が約700mもある高野山の参詣道です。
町石は、高野山への道しるべとして、1町(約109メートル)ごとに建てられた
高さ約3mの五輪塔形の石柱で、高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として
慈尊院までの約22キロメートルの道中に180基、弘法大師御廟まで
約4キロメートルの道中に36基、合計216基が置かれています。

山麓から一町ごとに山上までの町数を記した町石には、
梵字(古代インドの言語)と施主の名前が刻まれ、原材料の花崗岩は、
空海の生誕地讃岐国(香川県)から切り出されたものといわれています。
町石が建立される以前は、木製の卒塔婆が建っていましたが、この卒塔婆は
腐りやすく、鎌倉時代末期に石造五輪塔形のものに取り換えられました。

高野山遍照光院の覚斅(かっきょう)上人がこの道標を考案し、
文永2年から弘安8年(1285)まで21年の歳月を費やして完成しました。
この時建立された216基のうち179基が現存しています。


町石の建立には、後嵯峨上皇をはじめ執権北条政村(7代)・時宗(8代)らも援助し、
町石卒塔婆を寄進しましたが、安達泰盛が最大の功労者です。
現在、「秋田城介藤原朝臣泰盛」と刻んだ町石が五基も残っています。
「秋田城介(あきたじょうのすけ)」は、泰盛の祖父景盛が東北地方に勢力を広げて
秋田城を獲得して以来、安達家は秋田城介を世襲しています。
泰盛は父の跡を継いで秋田城介となり、陸奥守をかねていたので、
城陸奥守(じょうのむつのかみ)といいます。

泰盛は出家して高野に入り覚真と名のり、町石建立に尽力するだけでなく、
私財を投じて経典高野版の出版を行うなど文化事業にも貢献し、
その時の版木486枚が金剛三昧院に現存しています。
このように泰盛は高野山のために尽くしましたが、
たえず鎌倉との間を往復して鎌倉での政務もとっていました。



一の橋を渡って奥の院へ
一の橋から弘法大師御廟まで約2キロの参道には、
歴史上有名な人物の墓が並んでいます。


参道を少し進むと20町石があります。
根本大塔から弘法大師御廟までの道中にたつ36基のうちの1基です。



戦国史を彩った武将、武田信玄・勝頼の墓前に22町石が建っています。

『徒然草』185段には、次のような泰盛の逸話が収められています。
城陸奥守泰盛は厩から馬を引き出させる時、馬が足を揃えて横木を一跳びに
越えるのを見て、「これは勇み立っている馬だ。」と言ってその馬には乗らず
他の馬に換え、馬が足を伸ばして横木にぶつけると、「この馬は鈍くて
事故を起こしそうだ。」と言って乗りませんでした。と記し、『徒然草』の作者は
細心の注意を払う泰盛をまたとない乗馬の名人だ。と讃えています。

また泰盛は文武両道に優れ、情にも厚かったといい、
それを伝えるエピソードとして次のようなものが残っています。
肥後(熊本県)の御家人竹崎季長は、蒙古襲来の際、先駆けの功をたてましたが、
指揮官の少弐経資がこれを幕府に報告しなかったため、
恩賞をもらえず不満に思っていました。そこで馬や鞍を売って旅費をつくり、
直接訴えるため鎌倉に徒歩で向かいましたが、鎌倉ではみすぼらしい身なりの
季長に会って話を聞いてくれる奉行人はいませんでした。

しかし御恩奉行の泰盛は、竹崎季長の言い分をよく聞き、恩賞として
所領を与えると共に帰国費用や馬までも与え、季長を感激させています。
御恩奉行とは、恩賞の支給の是非を判断する役職です。
蒙古襲来の際の自分の活躍を後世に伝えるため季長が作らせた
『蒙古襲来絵詞』には、安達泰盛の甘縄邸で、
泰盛の面前で蒙古合戦の戦功を直訴する季長の姿が描かれています。

北条時宗は泰盛の妹と結婚して貞時を儲けましたが、蒙古襲来を撃退した
三年後に34歳の若さで亡くなり、弱冠14歳で第9代執権となった貞時は、
乳母の夫、平頼綱にそそのかされて安達泰盛の討伐を命じました。そして
町石建立事業が完成した年の弘安8年11月、霜月騒動で安達一族は滅びました。
『アクセス』 
「高野山」和歌山県高野町高野山132
大阪難波駅から南海電鉄高野線で極楽橋駅下車 ケーブルに乗り継いで高野山駅へ
 ケーブル高野山駅から南海りんかんバス「一の橋」下車
『参考資料』
 「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 「高野山」小学館
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 細川重男「北条氏と鎌倉幕府」講談社 
相原鐵也「鎌倉幕府のリスクマネジメント」文芸社「すらすら読める徒然草」講談社文庫

 

 



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金剛三昧院は、多くの参詣者で賑わう高野山のメインストリートから
南に入った小田原谷にある宿坊寺院です。



家並の途ぎれた先に長老坊金剛三昧院があります。

建暦元(1211)年、北条政子は源頼朝の菩提を弔うため高野山に禅定院を建て、
開山供養には栄西を招きました。堂塔が整備され山内で大きな勢力をもったのは、
三代将軍実朝が28歳という若さで亡くなってからのことです。
鎌倉幕府草創期、父の安達藤九郎(とうくろう)盛長と共に活躍した
安達景盛( 秋田城介)は、実朝が暗殺されたのを契機に出家し、
大蓮坊覚智と名のり高野山に入りました。

承久元年(1219)、実朝の菩提を弔うため、禅定院を改建し金剛三昧院と改めます。
堂宇の完成は貞応二年(1223)で、政子が施主となり、景盛が建立奉行を務め
大伽藍を造営しました。以来、安達氏三代、景盛・義景・泰盛が金剛三昧院と
高野山の強力な支援者となり、同院は高野山の中心的寺院の役割を担いました。
政子はこの改建に奉行の一人として活躍した実朝の側近葛山景倫(願性)を
由良荘(和歌山県日高郡由良町)の地頭に任命し、
その収入を三昧院維持の資にあてています。

山門の左側に国宝の多宝塔が見えます。

二層造の山門は文政年間の建築です。

正面の本堂内には愛染明王が安置されています。

本坊(重文)は鎌倉時代の建築です。

多宝塔は密教世界の中心である大日如来を象徴するといわれていますが、
高野山では特定の人の菩提を弔うためにもこの
塔が建てられました。
屋根は檜皮葺で四角形の初層に、円形の上層を重ねた二重の塔です。
塔内には金剛界の五智如来坐像(重文)が安置され、
周囲は華麗な宝相華紋の彩色で埋め尽くされています。

景盛は出家後も高野山にいながら、政治に強い影響力をもちます。
娘松下禅尼が経時(4代執権)、時頼(5代執権)を生み、彼らが執権になると
執権の外戚は三浦氏から安達氏に代わり景盛は幕府での権勢を強めます。
経時が在職わずか4年で亡くなり、時頼が執権に就任すると、景盛は時頼を動かし
長年権力の座を争って対立していた三浦一族を宝治合戦で滅ぼします。

宝治元年(1247)、高野山から鎌倉に戻った安達景盛は、義景・泰盛らに
三浦泰村らを討つよう命じます。北条勢も安達勢に加わり大戦闘となりました。
三浦一族500人は、頼朝の持仏堂・法華堂に退却しそこで自害しました。
こうして鎌倉幕府草創以来の功臣であり、北条氏と並ぶ
権門勢家の三浦氏は、七代泰村で滅亡し
安達氏の地位が確立しました。


景盛の父・安達盛長は、頼朝の乳母比企尼の娘婿で
頼朝の流人生活を側近として支え、頼朝挙兵の際には、
源家累代の家人を招集する使者となり東国各地を奔走しました。
頼朝には4人の乳母がいましたが、中でも比企尼は特別な存在でした。
頼朝は平治の乱で父を失い伊豆に流されています。
その時、都にいた比企尼は、夫の比企掃部允(かもんのじょう)と共に自領の
武蔵国比企郡に下り、20年余りの間、不遇時代の頼朝の生活を支え続けました。
その恩に報いるため頼朝は、鎌倉の中心地の一角に広大な館地を与え、
その一門や尼の娘婿を重用しました。
そして比企一門と源氏とは婚姻関係で強く結ばれます。
比企尼の養子能員(よしかず)の娘は、二代将軍頼家の妻となり嫡子
一幡(いちまん)を生み、尼の長女は安達盛長に嫁ぎ、
生まれた娘は源範頼(頼朝の弟)に嫁いでいます。
二女は頼家の乳母でもあり、河越重頼との間にできた娘は、
頼朝の命により源義経に嫁いでいます。
『アクセス』
「金剛三昧院」和歌山県伊都郡高野町高野山425 
「高野山駅」から南海りんかんバス「千手院橋」下車 徒歩10分

『参考資料』
「高野山」小学館 「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 
上横手雅敬「鎌倉時代」吉川弘文館 安田元久「武蔵の武士団」有隣新書 

細川重男「北条氏と鎌倉幕府」講談社 田端泰子「乳母の力」吉川弘文館 
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社

 


 

 



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保延元年(1135)、23歳で出家した佐藤義清(西行)は、鞍馬山や東山、
洛西嵯峨に庵を結び、32、3歳の頃から約30年間にわたって高野山に住みました。
その間、度々草庵を出て、都だけでなく吉野山、遠くは四国まで足をのばしています。

都では鳥羽上皇の葬儀に参列し、まもなく起こった保元の乱で敗れ、
仁和寺にいた崇徳院のもとにも馳せ参じました。四国讃岐では、この地に配流後、
亡くなった崇徳院の白峯御陵に詣で、弘法大師生誕の地善通寺を訪ねています。
西行入山の動機は、焼亡した伽藍の復興にあったと思われ、大塔造営奉行の
平忠盛・清盛の西八条邸に高野聖とともにしきりに出入りしています。

平安時代末期、末法思想の広まりとともに浄土教が興隆し、高野山にも
その影響が顕著に現れるようになりました。この頃、鳥羽上皇の帰依をうけた
覚鑁(かくばん)は、密教と浄土教を融合させた独自の念仏を唱えていました。

西行が高野山に入った頃は雷火で諸堂が焼失していただけでなく、上皇の
篤い帰依を受け急速に勢力を拡大した覚鑁に対して、従来の真言寺院である
金剛峯寺や京都の東寺がこれに反発し激しい紛争が続いていました。
そしてついに合戦に及び、敗れた
覚鑁は高野山を離れ、
保延六年(1140)、
根来にあった豊福寺に居を移し、晩年の活動拠点としました。
しかしながら確執は深く、その後も対立が続き、鎌倉時代の正応元年(1288)、
大伝法院と密厳院は高野山から根来に移され、根来寺が開かれました。

安元元年(1175)、本寺と末院の和解の場として、蓮華乗院が造営されました。
鳥羽上皇の菩提のために、皇女五辻斎院頌子(いつつじさいいんうたこ)内親王と
その母春日局の発願によって東別所(小田原谷)に建立され、その時同時に頌子は
蓮華乗院の維持費用として、紀伊国の南部庄の田10町を寄進しています。

春日局は徳大寺実能(さねよし)の養女で、鳥羽上皇の皇后、美福門院の女房となり、
上皇の寵愛をうけて生んだのが、頌子(のちの五辻宮)です。
上皇はことのほかこの母子を愛し、与えたのが秘蔵の所領である南部荘です。

蓮華乗院の後身にあたる大会堂(だいえどう)

治承元年(1177)、蓮華乗院は東別所(小田原谷)から現在地に移築されました。
蓮華乗院の勧進・造営・移築全てを引きうけたのが西行で、頌子亡き後、
南部庄全庄を寄進することを決めたのも彼の力であったと考えられます。
頌子内親王34歳、西行60歳の頃です。
西行にとって、頌子はかつての主・徳大寺実能(さねよし)の孫であり、
北面の武士として仕えた鳥羽上皇の娘です。
このような縁もあり、蓮華乗院勧進を行ったと思われます。

現在では大会堂(蓮華乗院)は、法会執行の際の集会所的役割を担っています。

三昧堂

大会堂の東隣に建つ三昧堂は、最初は親王院の地にあって東南院とよばれました。
この堂の修造にかかわったのが西行だとも、西行が蓮華乗院の勧進奉行として
この堂に住んだとも伝えられ、堂前の桜は、西行桜と名づけられています。

出家する前の西行が仕えていた徳大寺家の当主徳大寺実能は、
鳥羽天皇の皇后、待賢門院璋子の兄であることから、
白河院・鳥羽天皇に重用され、
保延二年(1136)には、41歳で大納言になっています。
歌人としても優れ、西行が和歌に関心もつようになったのは、
実能の家人となったことが大きかったと考えられています。
また徳大寺家の従者だったことがきっかけとなって西行は、18歳で
鳥羽上皇の北面の武士となり、上皇の身辺警衛、御幸に供奉しました。
その時の同僚に同い年の平清盛がいましたが、二人には身分差があり、
清盛は位の高い上北面、西行は下北面でした。
『アクセス』 
「高野山」和歌山県高野町高野山132

大阪難波駅から南海電鉄高野線で極楽橋駅下車。ケーブルに乗り継いで高野山駅へ
 ケーブル高野山駅から南海りんかんバス11分 金剛峯寺前下車すぐ
『参考資料』
 五味文彦「西行と清盛」新潮選書 「西行のすべて」新人物往来社
 「検証・日本史の舞台」東京堂出版 
五来重「高野聖」角川選書 「和歌山県の地名」平凡社 
「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 高橋修編「熊野水軍のさと」 清文堂

 



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不動院(菩提心院)の境内には、鳥羽天皇の皇后・美福門院得子の御陵があります。
永暦元年(1161)11月23日、女院は白河の金剛勝院御所(白河押小路殿)において
亡くなりました。本来は、鳥羽上皇の葬られた安楽寿院(鳥羽離宮)の墓に
入る予定でしたが、遺骨を深く帰依する高野山に納めるよう遺言し、
同年12月高野山内に埋葬されました。
菩提心院は、嵯峨天皇の皇子が大師堂と十二坊舎を建てたのに始まり、
度々の火災で焼失、不動明王を本尊とする不動院だけが現存しています。
女院は生前から備前国の香登荘(かがとのしょう)を寄進し、この寺を整備していました。

高野山に草庵を結んでいた西行は、女院の納骨に立ち会い次の歌を詠んでいます。
美福門院の御骨、高野の菩提心院へ渡らせ給ひけるを、見たてまつりて
♪けふや君おほふ五の雲はれて心の月をみがきいづらむ(西行上人集 三九一)
あなたの身におおっていた女人の五つの罪障がはれて、
心の月(悟りを導く清浄な心)が輝きだすでしょう。

鳥羽天皇の後宮で熾烈な女の闘いを繰り広げた待賢門院と美福門院、
美福門院の死は、かつて待賢門院の兄徳大寺実能に仕え、
待賢門院を永遠の女性と崇めた西行にとって万感の思いがあったに違いありません。

不動院は大通りから少し入った奥まった場所に位置しています。

不動院は宿坊寺院です。

落ち着いた佇まいの門をくぐると美福門院の御陵があります。





不動尊を祀る本堂

もう一つ、美福門院ゆかりの六角経蔵が壇上伽藍にあります。
金堂の西に建つこの経蔵は、鳥羽院の追善供養のため、美福門院により建立され、
女院が自ら書写した紺紙金泥一切経(国重文)が安置されていました。
その際、荒川荘を寄進したことから、経蔵は荒川経蔵、
金泥一切経は荒川経ともよばれ、現在霊宝館に保管されています。
なお、この経蔵も焼失・再建を繰り返しており、現在の建物は昭和8年の再建です。



美福門院得子は白河院近臣の権中納言藤原長実の娘で、
その美貌から鳥羽上皇に寵愛され入内しました。
鳥羽上皇は待賢門院璋子が生んだ崇徳天皇をわが子と認めず、
祖父白河院の子と思っていました。祖父が亡くなると、
上皇は白河院との関係を噂されていた待賢門院璋子を遠ざけて、
崇徳天皇を無理やり譲位させ、美福門院が生んだ近衛天皇を皇位につかせます。

病弱な近衛天皇が皇子のないまま17歳で亡くなると、
上皇は後白河天皇を即位させます。その背景には、
崇徳を嫌う美福門院と信西の策謀がありました。
わが子重仁親王の即位を強く望む崇徳新院は、弟の後白河天皇に反発します。
一方、摂関家内部でも藤原忠通、頼長兄弟との争いが起こります。
摂関家の藤原忠実の二人の息子、兄の忠通は関白の地位につき、
弟頼長は左大臣でした。忠実は頼長を溺愛し、機会があれば氏長者の地位を
頼長に譲り、同時に忠通の関白をはく奪して頼長を関白に据えたいとまで
思っていました。しかし、近衛天皇の崩御が忠実・頼長の呪詛によるものと
讒言する者がいて、忠実父子は鳥羽上皇の信頼を失い失脚します。

保元元年(1156)鳥羽上皇の死をきっかけに皇位継承に
不満を抱いていた
崇徳新院と後白河天皇、そして藤原忠通、
頼長兄弟との亀裂が絡み合って
保元の乱が起こります。
鳥羽上皇と美福門院によって失脚させられた頼長が
崇徳新院と組み、
後白河天皇には美福門院・信西・忠通がつきました。

この乱に際して、表面上は軍兵の招集などすべてを美福門院が
取り仕切っていましたが、その陰で崇徳新院を排除し
後白河天皇の地位を
盤石にしようとする天皇の乳母の夫、
信西が主導権を握っていました。

この時、源義朝・平清盛ら源平両氏の有力武士は、
後白河天皇に味方し勝利をおさめます。
鳥羽崩御後の政局を一手に取り仕切ってきた信西が、
保元の乱を勝利に導き、政治の表舞台に飛び出してきたのです。

その後、後白河天皇が退位し、二条天皇を即位させて
院政を開始すると、
信西・藤原信頼の院政派と
二条天皇のもとに集まった天皇親政派が対立します。

院政派内部では、後白河の即位とともに発言力を増した
信西が藤原信頼の恨みを買い
確執を強めていきます。
信頼は保元の乱後の恩賞をめぐって不満をつのらせていた

源義朝と結んで蜂起し信西を討ちます。
保元の乱の僅か三年後に起こった平治の乱です。


その時、熊野詣での途上にあった平清盛はすぐに京へ引きかえし

源義朝・藤原信頼方に勝利しました。この結果、
清盛は武力の棟梁の地位を獲得します。

この乱で、信西・信頼らの側近を失った後白河院は、
政治力を弱め、
二条天皇との対立が再燃します。
二条天皇の最大の後見人である美福門院は、

天皇を支えました。天皇は生母が出産直後に亡くなったため、
祖父・鳥羽上皇に引き取られ、美福門院に養育されたからです。
このような状況の中、女院は44歳の波乱に満ちたその生涯を終えました。
『アクセス』
「不動院」和歌山県伊都郡高野町大字高野山456
南海電鉄高野山駅下車、南海りんかんバスで15分「蓮花谷」下車徒歩3分
『参考資料』

元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス 五味文彦「西行と清盛」新潮選書 
「和歌山県の地名」平凡社 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 「西行のすべて」新人物往来社 
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)駿々堂 安田元久「後白河上皇」吉川弘文館 
村井康彦「平家物語の世界」徳間書店

 



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