平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 
袈裟御前の塚が京都市内に二ヶ所あります。南区上鳥羽の浄禅寺と
伏見区下鳥羽の恋塚寺で、浄禅寺は恋塚浄禅寺ともよばれています。
浄禅寺(浄土宗)は、寺伝によると袈裟御前の菩提を弔うため、
寿永元年(1182)文覚上人が建立したとしています。







恋塚

門前の植え込みの中にある五輪塔は袈裟の首を埋めた恋塚といいますが、
一説に昔この付近の池にすんでいた大鯉を埋めた「鯉塚」が
あやまって「恋塚」となったともいわれます。

しかし寺には、正保4年(1647)永井日向守直清が建立、
林羅山が撰文した袈裟の
顕彰碑があることから、当時、
この塚が袈裟御前の墓と伝えられていたと思われます。
碑は剥落がはげしく、現在はケースに入れられ恋塚の傍に立っています。

『京の石碑ものがたり』には、石碑の裏面には碑文の背景が
説明されている。と書かれ、
それは「長岡を領地に賜り今に至るが、
その内の鳥羽の里に恋塚の古蹟がある。
名のみ伝わり碑はなかった。
その来歴を尋ね、文覚の発意によるものであることを知り、
また節女の孝行を聞き、
石碑が必要だと思った。そこで石碑を建て塔を築くことにした。

表に伝え聞いたことを記し、永久に恋塚の名が伝われと望む。
正保四年十一月二十九日 日向守大江姓永井氏直清」とあります。

この石碑を建てた永井直清の父直勝は桓武平氏長田(おさだ)氏の流れを汲み、

はじめ長田氏を名のっていたが、源義朝を討ったのが長田忠致であることから、
徳川家康に仕えた時、主君殺しを嫌った家康の命で永井に改めたという。
直勝の二男直清(1591~1671)は二代将軍徳川秀忠の小姓として仕え、
寛永十年(1633)山城国長岡藩主(二万石)として勝龍寺城へ入城し、
慶安二年(1649)五十八歳の時、摂津国高槻藩主(三万六千石)となりました。

永井直清は袈裟の塚だけでなく、能因法師の墓(高槻市古曽部)や
伊勢寺(いせじ)の
伊勢姫廟堂(高槻市奥天神)、
待宵小侍従の墓(大阪府島本町)も
顕彰するなどの功績を残しています。
これらの碑文はすべて林羅山によるものであり、

儒学者林羅山と永井直清の親しい関係を推測することができます。

待宵小侍従は、「恋しい人を待ちわびる宵と恋人が帰る別れを惜しむ朝と
どちらが趣きが深いか。」と尋ねられて
♪待宵のふけゆく鐘の声きけば あかぬ別れの鳥は物かはと詠んだことから
待宵小侍従と呼ばれるようになったという。『平家物語・巻5』





境内の地蔵堂に安置する地蔵菩薩は鳥羽地蔵とよばれ、
六地蔵巡りの寺としても
知られています。
この地蔵菩薩は小野篁が冥土にて生身の地蔵尊を拝し、
蘇ってのち
一木から六体の地蔵をつくったうちの一つという。

『源平盛衰記』によると、保元年間(1156~59)西光法師が七道の辻に
六体の地蔵尊安置し、
廻り地藏と名づけたのが六地蔵めぐりの起こりと記しています。

西光は鹿ケ谷事件後、清盛の西八条邸に連行され、
厳しい尋問を受けて斬殺された後白河院近臣の一人です。

文覚については『源平盛衰記』『平家物語』で詳しく述べられ、
能・歌舞伎・浄瑠璃、芥川龍之介の小説「袈裟と盛遠」などでも知られています。
しかし出家以前の文覚が遠藤盛遠と名のり、渡辺党に所属し、上西門院に仕えた
武士であったこと以外、どんな生活をしていたのかほとんどわかりません。

ここで 『源平盛衰記(巻19・文覚発心の事附東帰節女)から、
袈裟と盛遠の物語のあらすじをご紹介しましょう。
盛遠の叔母・衣川に袈裟という美しい娘がいました。

盛遠はかって袈裟を妻に迎えたいと、衣川に内々に申し入れていましが、
袈裟は渡辺(源)渡に嫁いでしまいました。ある時、

摂津国渡辺に架かる渡辺橋が完成し盛大な橋供養が行われ、北面の武士であった
盛遠は奉行として兵士たちを指揮して警護にあたっていました。やがて供養が終わり
家路を急ぐ人波の中に輿に乗ろうとしている十六、七の美しい女房を見初めました。
彼女のあとをつけて行き、かつて盛遠が求愛した衣川の娘ということがわかりました。

盛遠は袈裟を諦めきれずに衣川の所に行き、刀を抜いて袈裟に会わせなければ
殺すと威したので
衣川は袈裟を呼んで事情を話し、手箱から小刀を取り出して
「盛遠などの手にかかって憂きめをみる前に、
我を殺し給え」と、さめざめと泣きます。
仕方なく袈裟は盛遠に会ったところ、
盛遠は「渡と縁を切って自分の妻になれ」と
衣川の命を盾にとり迫ります。困り果てた袈裟は「私を妻にしたければ、
夫を殺して下さい。そうすれば身を任せてもよい。」と約束します。

約束の日、袈裟は酒盛りをして夫にいつもより多くの酒を呑ませると、
夫は酔いつぶれて寝てしまいました。

一方、袈裟は髪を濡らし烏帽子を枕元に置いて今か今かと待っていると
、闇夜にまぎれて盛遠が忍びこんできました。
袈裟に教えられた通りに手探りで濡髪を探して一刀のもとに首をはね
家に帰ったところ、
郎党が来て「何者のしわざであろうか。
今夜渡殿の女房が斬られた。」と申すので、
袖に包んで持ち帰った
首を出してみるとなんと驚いたことにそれは袈裟の首でした。
孝行と貞節の二道に悩んだ末にとった袈裟の決断でした。
盛遠はその場に倒れこみ泣き崩れ、自分の犯した過ちを悔いました。
翌朝、つくづくと人の世の無常を感じた盛遠は渡を訪ね、
これまでのいきさつを話して首を差しのべますが、渡は「今更そなたを
斬ってもせんないこと。私は出家して袈裟の
後世を弔う。」と言うと、

盛遠も自分の罪を悔い出家し文覚と名を改めたということです。
恋塚寺(文覚と袈裟御前)  
『アクセス』
「浄禅寺」京都市南区上鳥羽岩ノ本町93 
四条大宮より久我石原町ゆき バス停地蔵前下車すぐ(1時間に2本程)
又は地下鉄竹田駅下車徒歩20分位
『参考資料』
新定「源平盛衰記」(3)新人物往来社 伊東宗裕「京の石碑ものがたり」京都新聞社
京都新聞社「日本史諸家系図人名辞典」講談社
「永井家十三代と高槻藩」高槻市しろあと歴史館 「高槻の史跡」高槻市教育委員会 
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)駿々堂 竹村俊則「京のお地蔵さん」京都新聞出版センター

 

 



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文覚寺(臨済宗天龍寺派)は、幼年期を文覚上人が過ごしたと伝えられ、
寺には上人の守り本尊という十一面観音像を安置しています。
亀岡市内には文覚寺のほかにも文覚ゆかりの伝説をもつ寺があります。

平治の乱後、源義朝の所領であった吉富荘(京都府京北町・八木町)内の
宇都郷は
没官されて平氏の所領となり、藤原成親が伝領しました。成親は宇都郷に
神吉・八代
熊田・志摩・刑部郷を加えて吉富荘として後白河院の法華堂に寄進し、
その後、吉富荘は後白河院から神護寺に寄進されています。
文覚寺には
後村上天皇の綸旨(りんし)一通、正親町天皇の綸旨二通を所蔵していますが、

いずれも高雄神護寺宛のもので神護寺との何らかの関係が考えられます。
亀岡市に文覚の伝承が生まれたのは、後白河院によって神護寺に寄進された吉富荘が
隣接していることや神護寺に近いということ、『源平盛衰記』の記事からと察せられます。



文覚寺を訪ねたのは夏の盛りのこと、境内には見事な蓮の花が咲いていました。

文覚は出家前の名を遠藤盛遠といい、大阪難波の水軍「渡辺党」出身で
上西門院に仕える武士でした。『源平盛衰記』によると「長谷観音への祈願によって
父遠藤左近監茂遠が61歳、母43歳の時に誕生したが、母は文覚を生むと
すぐに亡くなり、父も3歳の時に先立ったため、丹波国保津庄の下司(げし)
春木二郎入道道善に養われて13歳で元服した。幼い頃は養父が持て余すような
悪童であったが、やがて武芸に優れた武士となった。」とあります。
文覚出家への動機は、渡辺渡(わたる)の妻袈裟(けさ)御前に横恋慕し、
誤って袈裟を殺害したためと『源平盛衰記』は語っています。

18、9歳で出家した文覚は熊野・大峰・葛城高野・粉河・金峯山・白山・立山・富士・
伊豆・箱根・信濃の戸隠・出羽の羽黒などあまねく日本国中の修験霊場を訪ね、1
3年にわたって苦行修練を続けました。厳寒の那智では滝に打たれ、流れに流されて
浮いたり沈んだりしてしながら5、6町流れたところを不動明王の使いの
童子に助けられました。しかし「修行の邪魔をしたのは誰だ」と怒鳴る始末。
再び滝壷に戻って荒行を続けますが、ついに息絶えてしまいました。
これを見た不動明王の使い、矜羯羅(こんがら)・制多迦(せいたか)童子が滝の上から
下ってきて文覚をなでさすると生き返ったという。那智山中には48滝があるといいますが、
その中に文覚修行の滝といわれる「文覚滝」があります。
その後、文覚は都に戻り高雄の山奥で修行していました。ある時、高雄の神護寺を訪ね
その荒廃ぶりをみて、何とかして寺を再興しようと決意して勧進して歩きます。
しかし思うようには進みません。ある日、後白河院の法住殿に押しかけますが、
あいにく宴の最中、相手にされなかったため、乱暴を働き伊豆に流罪となります。
頼朝の流罪地蛭ヶ小島に近い韮山東北山中の奈古屋に多聞堂を建てて住みました。
こうして頼朝と運命的な出合いをした文覚はこういって謀反を勧めたという。

「平家には小松殿(重盛)が思慮深くて優れたお方であったが、去年八月、
お亡くなりになった。いずれ平家の世は終る。源平両氏の中で将軍の相をもつた人は
貴方以外いない。早く兵を挙げて天下を取りなさい。」というと頼朝は
「平治の乱で捕われたとき、助命嘆願してくれた池禅尼の菩提を弔い毎日法華経を
読むことしか考えていない。」と答えると「チャンスをものにしないのは天罰をこうむる」
と言って懐から白布に包んだ髑髏を取り出し、「これは貴方の父左馬頭殿(義朝)の
ものです。平治の乱後、獄舎の苔の下に埋もれて弔う人もないのを頼んでもらいうけ、
首にかけて今日まで供養してきたのだと語ります。文覚が見せる髑髏に
頼朝は半信半疑でしたが、非業に倒れた父の無念を偲び涙します。
頼朝は「自分は流人の身、これではどうにもならない。」というと文覚は「そのことなら
簡単なことです。すぐにも都に上りお許しを頂いてまいりましょう。」という。
「そう申す貴方も流人の身、他人の赦免を願うなんて信用できません。」と
答えると「我身の赦免を願い出るなら間違っていましょうが、貴方のことを
お願いするのが何故いけないのか。7、8日もあれば新都福原へ上って
後白河院の院宣をいただいてきます。」といって出て行ってしまいました。

福原に着いた文覚は後白河院の近臣である藤原光能(みつよし)を通して、
この事を後白河院に伝えると早速、平家追討の院宣を下さった。
治承4年6月、当時、後白河院は福原に幽閉中の境遇であり、清盛によって光能も
3つの官職、参議・右兵衛督・皇太后権太夫を全て、治承三年11月に解官されていました。
用事をすませた文覚は院宣を首にかけて、僅か三日で伊豆国へ帰りつきます。
頼朝は手を洗い、口をすすぎ新しい白い狩衣を着て三度拝してそれを開き、
ついに挙兵を決意する。とあり、
一般的には、頼朝が以仁王の令旨で決意し、挙兵したと考えられていますが、
『平家物語』では後白河院の院宣にあったように書かれています。

『源平争乱と平家物語』によると「承安三年(1173)に伊豆に流された文覚は
治承二年(1178)には許されて都に帰っている。平家物語では、治承三年に文覚が
流されたことになっているが事実に反する。後白河法皇の院宣を手に入れ
頼朝にもたらしたとする説については『愚管抄』は否定している。
後白河法皇によって伊豆に流された文覚だが、法皇は崇仏の念がきわめてあつく、
文覚は法皇を敬愛して流罪を許されてのちも、院御所に出入りしていた。
しかし清盛と法皇の対立は激化し、治承三年(1179)十一月清盛は法皇を幽閉した。
仏教の保護者である法皇を幽閉した清盛は文覚にとって仏敵である。
文覚は平家打倒を企て、頼朝に働きかけるために治承4年(1180)ごろ再び伊豆に下り、
後白河院と頼朝の橋渡しをしたとみられる。」とあり、
後白河院の院宣についての具体的な裏づけはないものの、文覚が何か頼朝の心を
動かすような強い働きかけをして、挙兵の決意をうながしたと考えられます。

頼朝は平家討伐後、終世、文覚を敬い一目おいています。
鎌倉には文覚邸跡があり、文覚の恩に報いるために、頼朝は鎌倉材木座に
補陀落寺(文覚開山)を建て、文覚は頼朝の助力で江ノ島に弁財天を勧請し、
頼朝、後白河院の援助を得て、念願の神護寺を再興しています。
文覚と源頼朝、後白河院、藤原光能らとの結びつきは、
文覚が上西門院に仕える武士であったためと思われます。

上西門院は父鳥羽天皇・母待賢門院の皇女として生まれ、母待賢門院の死後、
同母弟後白河天皇の准母(母に准ずる人)として皇后の位を賜り、翌年、院号を
宣下されています。母の遺領を受け継ぎ、そのゆかりの女房や侍との関わりも深く、
頼朝の母の実家である熱田大宮司家の人々が鳥羽法皇、待賢門院、上西門院に仕え、
母も上西門院の女官であったと思われることから、頼朝は女院に仕えて蔵人となりました。
頼朝が佐殿(すけどの)とよばれるのは、官職がもと
右兵衛佐(うひょうえのすけ)であったことに由来します。

院宣をとりもったという藤原光能は安達盛長の甥安達遠元の娘を妻とし、
のちに鎌倉幕府の重職につく大江広元、中原親能(ちかよし)をもうけ、
光能の妹は以仁王の妻となり、真性(四天王寺別当)を生んでいます。
安達盛長は頼朝の乳母比企尼の娘婿であり、流人時代の頼朝の側近として仕え、
在京中、頼朝に都の情報を伝え、有能な人物を紹介しています。山木兼隆襲撃前、
僅かなきっかけをつくって兼隆邸に数日間滞在し、要害の地にあった兼隆邸周囲の
地形の絵図を描いて持ち帰った藤原邦通も安達盛長の推薦を受けて頼朝に仕えていました。
頼朝は北条時政とその絵図を見ながら作戦を練ったという。
鎌倉幕府成立に際し、頼朝は京都から文人を呼び寄せ、彼らの代表として大江広元を
幕府初代政所別当に任命、幕府成立に関わる政治的決定には、広元の助言を聞いて
幕府政権を確立している。大江広元はもと朝廷に仕える官人であり、
五位に叙せられていた。兄弟にあたる中原親能が早くから頼朝に仕えていたこともあり、
招かれて頼朝の重臣となり卓越した政治手腕をふるい幕府創設に貢献しました。

頼朝の挙兵成功のために尽力した下総の豪族千葉常胤の子胤頼が
遠藤左近監持遠に紹介されて上西門院に仕えていたことや胤頼が文覚の
弟子であったこと、文覚が頼朝に挙兵を勧めたことなどが
『吾妻鏡』文治2年(1186)正月3日条にあります。
「千葉胤頼は平家が政権を握っていたとき、京都に大番役として伺候していたが、
平家にへつらうことがなかった。遠藤左近監持遠の推挙で上西門院に仕え、
従五位下に叙せられた。また持遠の仲介で神護寺の文覚上人を師とした。
文覚が伊豆にいたときに頼朝に平家討伐を勧めたことから、平家討伐の兵を挙げられ、
千葉頼胤は父常胤に勧めて頼朝の味方に参上させた。」

文覚の父については、『源平盛衰記』には遠藤左近監茂遠とあり、
『吾妻鏡』には父であるとは明記されていませんが、「胤頼を上西門院に紹介した」と
記されている遠藤左近監持遠が父とも伝えられています。
『吾妻鏡』の遠藤左近監持遠を父とすると、父は文覚3歳の時に先立った。という
『源平盛衰記』の記事は虚構ということになります。
文覚が摂津渡辺党に所属する遠藤盛遠、上西門院の北面の武士であるという点は
一致していますが、父の名は諸本によって茂遠、持遠、為長、或は盛光と異なります。
父の名のことは別にしても、出家以前のことは不明な点が多い。
文覚が頼朝に見せた髑髏は実は偽物でした。

『平家物語・巻12・時忠能登下り』によると、「文治元年(1185)8月22日頼朝は文覚を
片瀬川まで迎えに出た。父義朝殿の首、獄門にかかり後世弔う人もないのを、
義朝に目をかけられていた紺染め職人が、当時の検非違使別当に願って貰いうけ、
「頼朝殿が将来、出世して父上の首を捜されることもあるに違いない。」と東山円覚寺に
納めたおいたものを文覚が聞きだして、義朝の遺骨を首にかけて、
義朝の乳母子鎌田正清の遺骨は弟子の首にかけさせて紺染め職人とともに鎌倉に下った。
頼朝は父や鎌田正清の供養をし、鎌倉勝長寿院に葬った。」と記されています。
紺(こん)染め職人は武具に紺染めが多く用いられたところから、
義朝に召し使われていたと思われます。また紺染め職人は刑場の仕事も請け負っていました。

「円覚寺」は京都市粟田口にかつてあった寺で、清和天皇がここで出家したことから
清和源氏ゆかりの寺となり、保元の乱で処刑された
源為義やその幼子、殉死した妻が葬られていました。
文覚の滝 (飛瀧神社)  

『アクセス』
「文覚寺」京都府亀岡市保津町山ノ坊88 JR亀岡駅下車徒歩20分位
『参考資料』
加治宏江・中原俊章「中世の大阪」松籟社 上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書
 佐藤和夫「水と水軍の日本史」原書房 新潮日本古典集成「平家物語」(中)(下)新潮社
 新定「源平盛衰記」(2)新人物往来社 現代語訳「吾妻鏡」(1)(3)吉川弘文館 
「国史大辞典」吉川弘文館  「亀岡市史」(本文第一巻)亀岡市史編纂委員会 
「京都府の地名」平凡社

 



 

 

 

 



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