平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



滋賀県守山市はかつて中山道の「守山の宿」として賑わいました。
江戸時代、朝に京を出発するとちょうど夕方につく距離だったことから
「京立ち守山泊まり」と呼ばれ、街道沿いには、江戸時代の「三十六歌仙絵」が
すべて保存されているという天満宮やドラマチックな仇討ち物語「謡曲望月」の
舞台になった甲屋跡や守山宿で使われていたという井戸が残っています。





この中山道(東山道が江戸時代に整備された)の北に石仏の薬師如来を祀る
源内塚と呼ばれる小さなお堂があります。
平治の乱で敗れ東国へ敗走の途中、この辺りを通りがかった
源頼朝に逆討ちされた源内兵衛真弘を哀れんだ村人たちが塚をつくり
亡がらを供養したと伝えられています。
現在「源内塚」跡に建っているという薬師堂には、薬師如来など
数体の石仏とともに源内を供養する石仏が安置されています。





さて、ここで『平治物語』から源内真弘が登場する場面の一節をご紹介しましょう。
琵琶湖畔で郎党と別れた義朝は長男悪源太義平・二男朝長・三男頼朝
佐渡式部大夫重成・平賀四郎義宣(よしのぶ)・義朝の乳母子鎌田兵衛正清
金王丸と共に八騎で落ちて行きます。

頼朝は豪胆のようにみえてもまだ13歳、なれぬ重い武具を身に着けての
一日中の合戦。おりからの雪に昼間の疲れが加わって馬上でうとうとしてしまい、
野路(現、草津市野路)辺りから一行に遅れてしまいます。はっと気づくと父や兄、
郎党たちの姿がなく夜更けの中をただ一騎心細く守山の宿に迷い込みます。
「今夜は馬の足音が度々聞こえるが、落人でもいるのではないか。捕まえてやろう。」と
平家の命を受けて落人を探していた源内真弘(さねひろ)が走り出てきます。
頼朝の馬の口に取りつき「落人であろう。とどまれ。」というと、
頼朝はあわてず「いやいや謀反人ではない。都に戦があり騒がしいので、
田舎に下ろうとしている者だ。」というが、頼朝が身に着けているのは
源家に伝わる源太産衣の鎧、源家宝刀の鬚切の太刀など
ただ者でないことは暗闇の中でも一目瞭然。「嘘をつけ。
左馬頭義朝の公達であろう。」と頼朝を馬上から抱き下ろそうとした瞬間、
頼朝は鬚切を抜き源内真弘の面をしたたかに討ったので、
頭は二つに割られてしまいました。

これを見て慌てて駆けつける宿(しゅく)の者どもを尻目にその場を走り去り
野洲の河原に出ると、頼朝を探しに戻ってきた鎌田正清とうまく行き逢います。
駒を早めて走らせ走らせ、程なく鏡の宿(竜王町)で一行に追いつきました。
義朝は、頼朝から事の次第を聞き「よくやった。」とお褒めになるが、
義平は、「13にもなる者が、馬上で眠るとは。義平は15の年には大将となり
叔父帯刀先生(たちはきせんじょう)殿を討ったものぞ。」と申されると義朝は、
「頼朝はまだ13なのだから145にもなれば立派な大将になれるよ。」などと
再会を喜び合い鏡の宿から小野の宿(彦根市小野)に入りますが、
不破の関は敵が固めていると聞き、
街道を右手にみて小関(こせき)をさして北の道へと迂回します。
源義朝敗走(不破の関・小関)  
『アクセス』
「薬師堂・源内塚」滋賀県守山市守山2丁目 JR守山駅下車 徒歩10
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 日本歴史地名大系「滋賀県の地名」平凡社 
2008
1215産経新聞夕刊(滋賀守山界隈)

 

 
 
 



 


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大津市北西部に位置する環来(もどろき)神社は、平治の乱に敗れた
源義朝が東国へ敗走途中、鏑矢と馬に付けていた鈴を献じて
武運長久を祈願した社と伝えられています。
のち平氏との戦いに勝利した頼朝が神田を寄進し、
足利尊氏も神田50町を寄進したといいます。

それ以来、戦乱に旅行に無事戻れるよう願って人々が参詣するようになり、
特に第二次世界大戦中の参詣者は全国から集まったといわれ
当時バスなどの交通機関がなかったため、江若鉄道(JR湖西線)和邇駅から
神社までの六キロの道にはお参りする人の列が延々と続いたといいます。

この辺りは古来より龍華の荘(現在の途中・上龍華・下龍華)と呼ばれた
藤原氏代々の荘園があったところで、藤原百川(ももかわ)の娘
藤原旅子は
この地に生まれました。
その後、旅子は桓武天皇夫人となって淳和天皇を生み、
薨去する際に生まれ故郷の梛(なぎ)の木の下に埋葬するよう遺言し、
この地に祀られ、当社の祭神となっています。
社名は、旅子が再び故郷に還って来たことに由来するという。

JR和邇駅から環来神社へ

和邇川に架かる環来橋
JR和邇駅より徒歩1時間半ようやく鳥居が見えてきました。

JR堅田駅前へのバス乗り場



本殿

ご神木の椰の古木が残っています。



雪化粧の両部鳥居

雪囲いに覆われた社殿


義朝は龍華越を通り堅田へ出る途中、後藤兵衛実基(さねもと)を呼び、
都に戻り実基に預けておいた姫を育て、義朝の後世を弔わせるよう命じます。
後藤兵衛は、「妻に姫を大切にお育てするよう申しつけてあるので、
自分は何処までも殿のお供をして行く末を見定めたい。」というのを義朝は、
「思うところがある。早く早く。」と急かせて都へ帰らせます。

当時5歳だったという姫は、頼朝の同母妹で、母の里つまり
熱田大宮司藤原季範の屋敷が、六条堀川の源氏館の近く六条坊門(五条通)烏丸に
あったことから坊門姫と呼ばれ、後に一条能保(よしやす)の妻となる女性です。

一条能保は後白河院の同母姉上西門院の乳母の孫で、坊門姫の母方一族も

上西門院に仕える者が多かったこと等が二人を結びつけたようです。
結婚は平治の乱の八年後だったといわれています。
のちに後藤実基は養子の基清共々一条家の家人となります。





還来(もどろき)神社で武運を祈った義朝一行は、湖岸へと向い堅田の浦にでます。
義朝は、龍華越で僧兵の矢に首を射貫かれて死んだ叔父源義隆の首を見て、
「父為義に先立たれてのちは、八幡太郎義家殿のお子様で生きておられたのは
この方だけであったのに…」と涙をはらはら流し念仏を唱えながら、
馬の太腹がつかるところまで湖に入り首を深みへと沈めました。

湖を渡る舟を探しますが、あいにくこの日は波風が激しく舟は一艘も見当たらず、
引き返して東坂本から勢多(瀬田)へと落ちていきます。
勢多から中山道を抜けようというのです。
義朝は、「これから先、この人数で一緒に行くのは危ない、とても東国まで
行き着けまい。皆には暇をとらせるので、それぞれに落ち延びてくれ
東国でまた会おう。」というので「どこまでもお供します」と郎等らは言いますが
「思うところがある。早く早く。」と強く言い渡され、仕方なく
波多野二郎義通、
三浦荒二郎義澄、長井斉藤別当実盛、岡部六弥太忠澄、猪俣小平六範綱、
熊谷二郎直実、平山武者所季重、足立右馬允(うまのじょう)遠元、金子十郎家忠、
上総介八郎広常をはじめとして20余人、
思い思いに下っていきました。
 
残るは左馬頭義朝、長男悪源太義平、次男中宮大夫進朝長、三男兵衛佐頼朝、
佐渡式部太夫重成、平賀四郎義宣(よしのぶ)、乳母子鎌田兵衛正清、
義朝の寵童金王丸以上、八騎の勢にて落ちていきます。
六波羅での討死を覚悟した義朝でしたが、生き抜いて雪辱を果たそうと、
自らが組織した武士団が多く存在する東国を目指すのでした。
(『保元物語 平治物語』)
源義朝敗走(頼朝落伍源内塚)  

『アクセス』
「還来神社」大津市伊香立途中町521-1
JR湖西線堅田駅から江若バス 細川行「還来神社前」下車 すぐ
(バスの本数が少ないのでご注意ください)
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店 日下力「平治物語」岩波書店
「源平合戦事典」吉川弘文館 「近畿文化」№657 近畿文化事務局 
角田文衛「王朝の明暗」東京堂出版 「滋賀県の歴史散歩(上)」山川出版社
  
 





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龍(竜)華越 (りゅうげごえ)は途中越ともいい、滋賀県と京都府の境にある
標高 374mの峠を越え、京都から大津市堅田を
結ぶ道をいいます。

出町から高野川左岸を北上し、八瀬・大原を経て
若狭街道(R367)を更に北へと進み、途中峠(大原小出石)を越え、
南東に下り近江国龍華へと入る道です。

また、山城・近江の国境付近の途中峠を越えることも龍華越といいます。

出町から八瀬大原、途中峠を経て若狭小浜を結ぶ道は、若狭街道といわれ、
中世後期から近世にかけて、小浜の海産物が洛中へと運ばれた道です。
なかでも鯖が多く運ばれたことから「鯖街道」とも呼ばれるようになりました。


出町橋の西詰袂に建つ鯖街道口の碑
平治の乱で敗走した源義朝は、この辺から高野川に沿って
八瀬大原へ至り、近江に至る途中峠を通り抜け、
還来(もどろき)神社に参拝した
と伝えられています。



義朝の悲劇を伝える龍華越(途中越)の峠道



大津市途中口




平治の乱に敗れた源義朝は、僅かな供と長男義平・次男朝長・
三男頼朝を連れ
京都を北へ落ち龍華越を通り抜け、
その麓で馬を休め還来神社に参拝したと伝えられています。

それから琵琶湖畔の堅田に出て東国へと向かいます。東国には義朝の郎党が
多くいるので、
何とか東国に辿りつけば身を隠すこともできるはずです。

ここで『平治物語』から「義朝龍華越」の一節をご紹介します。
一行が八瀬の松原(比叡山の西麓)へかかった所に「おーい」と呼ぶ声がするので
何者かと待つと、遠くへ落ちたはずの藤原信頼が追いつき
「もし軍に負けて東国へ落ちるときは、信頼も一緒に連れてくださると仰ったが
心がわりなさったか。」というので、義朝は「大臆病者めが、こんな一大事を
思いついて、わが身も滅び郎党も失ったわな。憎い奴め!」と
鞭で信頼の頬を
したたかに打ちました。
信頼は言葉もなく鞭の跡をさすりながら、後白河法皇のおられる
仁和寺に駆け込みましたが許されず、
六条河原で処刑され27歳の生涯を終えます。


先を急ぐ義朝主従の行く手に、近江との境に近い龍華越で棘のある木で垣を作り、
楯を垣のように並べて、延暦寺の悪僧2、300人が、待ち構えています。
一行が馬から下りて垣を打ち破りながら通る所へ、
僧兵らは容赦なく矢つぎ早やに矢の嵐を浴びせかけます。

ここで叔父陸奥六郎義隆を失い、朝長(ともなが)も太股に矢を射られます。

義隆は八幡太郎義家の六男で相模の毛利(もり)を治めていたので、
毛利六郎ともいいました。この時、生後五十日余の義隆の子頼隆は、
翌年下総国に配流され、千葉常胤の監視のもとに成長します。
治承4年(1180)頼朝が挙兵すると、千葉常胤はこれに加わり、

頼朝に頼隆を引き合わせます。

朝長は辿りついた青墓の宿で、この矢傷がもとで歩けなくなり、
父に討たれる哀れな少年です。
源義朝敗走(碊観音寺 駒飛石)  
源義朝敗走 (還来神社)
『アクセス』
「鯖街道の碑」出町橋西詰 京都市上京区河原町通今出川上る東入
市バス河原町今出川下車2分位

「途中口」江若バス「途中」下車  バスの本数が少ないのでご注意ください。
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
日本歴史地名体系「滋賀県の地名」平凡社 石田孝喜「京都史跡事典」新人物往来社
「近畿文化」№657 近畿文化会事務局 「源平合戦事典」吉川弘文館 



 

 
 
 

 

 
 



 



 
 
 


 

 

 



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