平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




志度合戦の史跡が「松ヶ崎義経十二本松」として、志度浜に残っています。
昔は十二本あったという松も今は数本残すだけです。

志度寺を出て東へ進みます。







松ヶ崎義経十二本松
讃岐路の源平合戦、九郎判官義経ゆかりの十二本松である。
三代物語に「松ヶ崎十二本松志度にあり。十二本松に白鷺の群集まるを見て
源氏の白旗なりとし、すなわち西へ走る」と、また志度寺蔵書に「義経公、阿波勝浦より
兵十二騎を引率してここに帷幕を張り、帳策をめぐらす。」と書かれ、
一騎ごとに一本の松を植えたと伝えられているがさだかではない。
寿永四年二月二十一日、屋島の戦に敗れた平家の軍勢が志度浦に上陸し、
反撃の態勢をとったが追撃してきた九郎判官義経軍と、志度寺周辺から松ヶ崎にかけて、
くりひろげた激戦にも敗れ、幼帝安徳天皇を奉じ、平宗盛以下平家一族が
壇ノ浦の運命を知るや知らずや志度浦を後ろに西国に落ちていったのである。
さぬき市 さぬき市観光協会(現地説明板)





志度湾から望む屋島、その右の五剣山中腹には源氏ヶ峰が見えます。
源氏ヶ峰には、ここに上って義経が平家の様子を見張っていたとか、
見張りを立てたなどという伝説があります。

※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。
『アクセス』
「松ヶ崎義経12本松」
さぬき市志度1168-1  JR、ことでん志度駅より徒歩約15分

 

 



コメント ( 5 ) | Trackback (  )





文治元年(1185)2月、屋島の陣を捨て志度湾に軍船を移した平家軍は、
志度道場(現、志度寺)に陣を布き、源氏勢と志度道場(現、志度寺)から
志度湾にかけて戦いを繰り広げましたが、船をもたない源氏軍は、
海上の平氏に決定的な打撃を与えることができませんでした。


平家は伊予攻めに行っていた田内教能3000騎を待っていましたが、
教能は屋島へ帰る途中、源氏の調略にかかって降伏してしまいました。
頼みの綱を絶たれた平家一門は、
瀬戸内海を転々としながら長門国彦島へ落ちていきます。
『平家物語』は、「讃岐の志度を出で給ひて、船にこみ乗り、風にまかせ、
潮に引かれて、
いづくいともなくゆられ行くこそ悲しけれ」と綴っています。
志度合戦(田内教能降伏)  


駅前の国道を横切って北へ進み、志度合戦の時、
平氏が陣を布いた志度寺に向かいます。


やがて寺町通りと交差します。

平家が籠った志度寺は志度湾に面した志度の東にあり、
四国霊場第八十六番札所として知られています。

信濃の戸隠、駿河の富士、土佐の室生門とともに讃岐の志度道場とこそ聞け。と
『梁塵秘抄』に謡われ、平安末期には都にも聞こえた観音霊場でした。


寺伝によると、推古天皇の時代(7C初期)開基とし、その後、藤原不比等が妻の墓を建立し

「死度道場」と命名、その息子房前の時に堂宇を拡張したとしています。
しかし、寺地や伽藍配置などから実際は平安時代初期の創建とされています。
屋島源平合戦で戦死した佐藤継信の経供養の僧を当寺から招いたという伝承があります。

志度は平賀源内が育った町です。
志度寺の塔頭の一つ、常楽寺の境内平賀源内の墓があります


寺域は広大で約1万坪もあります。


高松初代藩主高松頼重寄進の仁王門(重要文化財)

高松初代藩主高松頼重寄進の本堂(重要文化財)

大師堂は
巡礼者があげるお線香で煙っています。

志度寺は伝説に彩られた古刹です。

木々に覆われた20基の五輪塔は、海女の墓と伝えられていますが、
高い丸太で囲まれ立ち入ることができません。





志度寺参拝の折に詠んだ高浜年尾の句碑 ♪盆に来て 海女をとむらふ 心あり
「高浜年尾(1900~79)は虚子の長男。年尾は正岡子規が名づけた本名です。
この句は昭和27年9月5日(旧盆16日)志度寺参拝のおり詠んだもの。」
(現地説明板より抜粋しました。)
藤戸合戦古戦場でも高浜年尾は
 ♪経ケ島  秋の下闇  深かりし   と詠んでいます。
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』
「志度寺」さぬき市志度町志度1102 

ことでん志度駅、JR高徳線志度駅下車徒歩7、8分
『参考資料』
「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 「香川県の地名」平凡社、1989年
 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
「四国八十八ヶ所Ⅱ」小学館、2002年





コメント ( 4 ) | Trackback (  )





都落ちした平家一門は一旦、大宰府まで落ちのびましたが、
緒方惟義(これよし)に九州を追われ、西海を漂っていたところを、
平家が頼りにしていた阿波最大の豪族
阿波民部重能(しげよし)のはからいで、屋島に陣を布きました。

文治元年(1185)2月の屋島合戦で、平家軍は陸地から攻撃という
予想外の義経の奇襲攻撃に屋島の内裏を捨て海上に逃れました。
敵は瀬戸内海から攻めてくると思い込んでいた平家は、
入り江に兵船を停泊させて、海からの攻撃に備えていたのですが、
それを義経は見事に欺きました。
水軍をもたない源氏軍は、屋島を攻撃するのに海上正面より向かわず、
屋島背後に回り込み、急襲する方法を選んだのです。
平家が敗れた原因の一つは、平家を支えていた阿波重能の軍勢の
多くが重能の息子・田内(でんない)左衛門教能(のりよし)に
率いられて伊予攻めに行っていて留守だったことです。

平家が屋島で敗れたと聞くと、平家側についていた
瀬戸内海周辺の豪族たちは、こぞって源氏軍に寝返ります。

屋島を敗退した平家は、五剣山の岬を東にまわって志度浦に上陸し、
讃岐国の志度道場(現、志度寺)に籠りました。
要請に応じない伊予(愛媛県)の河野通信を攻めに行っている
田内左衛門教能の主力部隊3000余騎がもう戻ってくるはずですから、
源氏を志度浦に誘い込み海と陸の双方から包囲する作戦です。

平家を追って源氏軍は80騎の兵を率いて志度浦に至り攻めかかりますが、
平家はこれを見て「敵は小勢だ。討ち取れ」と1,000余人が攻め戦いました。
そのうち源氏勢200余騎が駆けつけてくると、後詰めに大軍が続いてくるとみて、
平家は再び海上に出て彦島へ退きました。

当時、知盛(清盛の4男)は一の谷合戦後、長門の彦島に砦を構え、
平家勢は東の屋島と西の長門に二分されていました。
一の谷で惨敗したものの、
屋島と関門海峡を押え瀬戸内海の東西を掌握する限り、
平氏に勝機はあると知盛は踏んでいたのです。

志度浦で首実検をした義経は、田内教能軍が戻ってくれば、
兵力の点でこれとまともに戦えないと考え、
阿波民部(田口)重能が壇ノ浦の戦いで平家を裏切り、
結果的に源氏勝利の一因となるある作戦を立て、
郎党に策を授け教能の許に遣わしました。

これを『平家物語』は、次のように語っています。
義経は「教能が今日あたり志度浦に到着するはずである。
その軍勢をなんとかしろ。」と口達者な伊勢三郎義盛に命じたのです。

義盛は白旗を掲げ、たった16騎を引連れ、しかも丸腰で3000騎の
教能軍に乗り込みました。「すでにお聞きおよびでございましょうが、
昨日、屋島の平家の陣は判官(義経)殿によって陥落しました。

安徳天皇は入水、宗盛殿は捕虜、能登殿はご自害なさいました。
あなたの父阿波民部重能殿は義盛がお預かりしております。」などと
嘘ばかり並べ立てて降伏を迫ったので、教能はまんまと騙され、
3000余騎の兵とともに兜を脱ぎ弓の弦をはずして
義経の軍門に下りました。教能がいとも簡単に騙されたのは、
屋島での戦況をうすうす知っていたからだと思われます。

こうして、義盛は持ち前の度胸と弁舌をふるい田内教能の
軍勢を戦わずして捕虜にしてしまったというわけです。

『吾妻鏡』文治元年2月21日条には、平家は讃岐国志度道場に
引き籠り、義経は80騎の兵を率いてこれを攻め、
平氏の家人田内教能が義経に帰服したこと、伊予水軍の河野通信が
30艘の兵船を率いて源氏に与したこと、熊野別当湛増も源氏に
味方するため渡海するとの噂が、京都中に流れたことが記されています。

この記事から、志度道場に陣を布いて復活のシナリオを描いていた平家は、
熊野水軍・伊予水軍などの有力水軍が源氏に加わったという情報や
田内教能の降伏に自信を失い、とても勝ち目はないと判断し、
志度浦から兵を引き、知盛勢と合流しようと
海上を西へ向かって敗走していったようです。
志度寺(志度合戦ゆかりの地)  
松ヶ崎義経12本松(志度合戦ゆかりの地) 
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年 現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年 
佐藤和夫「海と水軍の日本史」(上巻)原書房、1995年 安田元久「源義経」新人物往来社、2004年
 角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫、2001年






コメント ( 4 ) | Trackback (  )





五剣山の西の麓の小さな入江を船かくしとよびます。
平家が敵に見えないように船を停泊させていたというのがその名の謂れです。
また、平氏の猛将能登守教経にちなんで能登守の船隠しともいいます。

九州を追われ屋島に落ち着いた平家は、源氏軍が海上から攻め寄せると予想し、
庵治浦の島陰に兵船を隠していました。敵がこの入江に進入してきたら、
周囲から取り囲むつもりです。
当時、屋島は瀬戸内海のひとつの島で、
流されてきた土砂が堆積して洲ができ檀ノ浦の入江には大船が通れませんでしたから、
ここに水軍の本隊を置いていたのです。

牟礼町から県道36号線を北の庵治半島に向かうと、
「舟かくし」バス停の傍に説明板がたっています。

バス停から海岸に下りると平家船かくしがあります。

船かくしは庵治湾にいくつもあり、ここはそのひとつとされています。
一の谷合戦・水島合戦・藤戸合戦などの際にも、この船溜まりで船団を整えて出陣し、
水軍の根拠地として、源平合戦以降も室町・戦国期へと続く歴史があります。
船かくしの西の屋島に向いた小さな浦を「平家の米はかり」と称し、
平家の米倉があったといわれています。

遠くに屋根のような形をした屋島が見えます。





庵治半島の北部に位置する庵治町は、現在、特産の庵治石の切出しとともに、
海と島を中心とした観光の町で、海水浴場や温泉など多くの観光客や釣り客を集めています。

今日も一日戦い暮らし、疲れ果て兜を枕とし、あるいは鎧の片袖を敷いて眠る源氏勢。

屋島での合戦も勝利のうちに終えることができた源氏の兵たちは、日が暮れて
宇龍ヶ丘(瓜生が丘)の野山に陣をとりました。摂津渡辺の津を出航して以来、この三日間、
一睡もしてなかったので皆、死んだように眠りました。そのなかで、義経は高い所に登り、
伊勢三郎義盛は低地に潜んで見張番をし、二人とも眠らず夜を明かしました。

一方、平家方は能登守教経を大将に夜討ちの支度にかかりますが、
誰が先陣を受けもつかをめぐって侍大将同士が争っているうちに夜が明けてしまい、
平家の船団は庵治半島を東に周って志度湾へ続々と移動しはじめます。
『平家物語』は、「夜討ちをしていたなら、源氏はひとたまりもなかったであろうに。
攻め寄せて来なかったのは、よくよく源氏の運が強かったのであろう。」と語っています。
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』
「船かくし」高松市庵治町155番地7
ことでん「舟かくし」バス停徒歩3分 バスの本数が少ないのでご注意ください。
ことでん「八栗駅」より徒歩約50分 「景清の錣引き跡」から36号線を北上しました。(30~35分)
『参考資料』
「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 「香川県の地名」平凡社、1989年
角川日本地名大辞典「香川県」角川書店、平成3年 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年



 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )







元歴2年(1185)2月、阿波勝浦から大坂峠を越えて讃岐に入った義経は、
屋島の対岸に馬を乗り入れ、牟礼、古高松の道筋の民家に火を放ちながら進軍しました。
そして二手に分れ、本隊は総門に向かい、義経はじめ佐藤継信・忠信兄弟、
後藤実基・清基父子ら30余騎の別動隊は、平家の陣があった屋島を目指しました。
現在、屋島は陸続きの半島となっていますが、
当時は瀬戸内海のひとつの島で、主戦場となったのは檀ノ浦一帯でした。

JR屋島駅前

屋島駅にはレンタサイクルがあります。

屋島は尾根線が平たく長く伸び屋根のような形をしていますが、
JR屋島駅北辺、背後から見た屋島は三角形に見えます。



JR屋島駅から北へ進みます。

この奥に屋島を目前にして、義経が一息いれたという場所があります。

義経鞍掛の松は材木店の倉庫裏にあります。 

源義経鞍掛の松
「寿永四年(1185)二月平家追討の命をうけた九郎判官義経は、
源氏の精鋭を率いて阿波の勝浦より大坂峠を越えて高松(高松町)の里に入り、
屋島を望むこの地で人馬を整え、平家の陣を攻めたと伝えられています。
その時大将義経がこの松に鞍をかけ休息したというのでこの名が残っています。
高松市 高松観光協会(現地説明板)」

義経鞍掛松歌碑
   勇将のその名と共に千代かけて 今にのこれる鞍掛の松
「木田郡誌より」 二00三年三月建立 


◆赤牛崎(あかばざき)
義経が屋島に渡る浅瀬を探していた所、源氏勢が放った火に驚いた赤牛が海を渡るのを見て、
浅瀬の場所を知り、そのあとを追って軍勢を進め屋島に攻め入りました。
それが赤牛崎の名の由来と伝えられています。
 

相引川は延長約5キロ、屋島の南麓、ことでん古高松駅の北を東西に流れています。
源平合戦の頃、ここはすべて海面下にあり、満潮時には海水が東西から満ち、
干潮時には東西に引き分かれたことから相引浦とよばれました。

『平家物語』は古高松と屋島との間の地形について、「陸続きではないが浅海で、
引潮時は馬の腹さえ浸からないで島へ渡ることができるとしています。」

今は小さな川に過ぎませんが、当時は赤牛崎は幅200メートル、相引川の最も狭い所でした。

生駒時代、生駒高俊が相引川に堤を築いて塩田にし、屋島と陸続きとなりましたが、
正保4年(1647)、初代高松藩主松平頼重は古来の妙跡を惜しみ、
ほぼ現況に近い相引川(水路)を復元させたという。(讃岐国大日記)

相引川によって屋島が四国本土と
切り離されているのがお分かりいただけると思います

見落としましたが、相引川の畔に赤牛崎の説明板がたっています。
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』
「源義経鞍掛の松」JR屋島駅より北へ徒歩約3分。
「赤牛崎説明板」高松市屋島東町
ことでん古高松駅より北へ徒歩約3分。 JR屋島駅より徒歩約10分。
『参考資料』
 「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 「香川県の地名」平凡社、1989年
 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年 
奥富敬之監修「源義経の時代」日本放送出版協会、2004年
「平家物語図典」小学館、2010年







コメント ( 2 ) | Trackback (  )





那須与一が放った矢は扇の的に命中。
扇は夕日を受けながらひらひらと空を舞い波の上に散りました。
沖の平家は、敵ながらあまりの見事さに船端をたたいて感じ入り、
陸の源氏も、箙(矢を入れる道具)を叩いてどよめきました。
その直後、平家の中から老武者が現れ、感動のあまり
舟の上で与一の技を讃えて舞い始めました。
しかし、義経にはこの余興はまったく通じません。

伊勢三郎義盛が与一に近づき、「殿の命令だ。あの者を射とめよ。」と
言うと、すぐさま与一は2本目の矢を取ってつがえました。
今度は鏑矢でなく、殺傷能力のある尖った矢(征矢)です。
その矢が当たって平家の武者は船底に倒れこみました。
抒情的な風景そして感動のシーンが一気に凍りつき、
残虐な場面にもどった瞬間です。
平家方は何が起こったのか瞬わからず、静まりかえります。
源氏は箙を叩いて囃したて、「やあ、よく射た!」という者もあれば
「情けない。なんと無慈悲なことを。」という者も多くいます。

これに腹を立てた平家方の三人の武者が波打ち際に押しよせ、
源氏を挑発し始めると、義経の命を受けた五騎の武者がわめきながら駆け寄ります。
真っ先に突き進んだ武蔵国の住人、美尾屋(みおや=水尾谷)十郎の
馬に矢が命中し、馬から落とされた十郎は徒立(かちだ)
ちとなって戦っていました。
この時、波をけって平(藤原)景清が浜辺に上がり、
十郎の錣(兜の首まわりをおおって首を守るもの)をむんずとつかみました。
(説明板と少し異なります)
そうはさせじと逃げる十郎、しばらく引っぱりあいが続きましたが、
ついに錣(しころ)の糸が切れ、景清が兜から錣を引きちぎりました。
その錣を高くかかげ、割れるような声で「我こそは都で名高い悪七兵衛景清」と
名乗りをあげました。喜んだ平氏は歓声をあげてはやします。
世に名高いしころ引きです。平家は舟に乗り移り引き上げました。
この後、義経弓流しの名場面になります。

そして源氏の武者らは景清の首を取ろうと、夕闇せまる屋島の浜で、
再び死闘がくり広げられました。
陸から馬で攻める源氏軍と、舟上で応戦する平家軍。
この時、義経はうっかり自分の弓を海に落としました。
義経の弓流しは、この合戦から生まれたエピソードです。

「悪七兵衛」の悪は、猛々しく強いという意味で、悪いという意味ではありません。
景清は巻4「橋合戦」で、宇治川での合戦に侍大将として登場して以降、
平家の主要な武将として数々の合戦に参戦しています。



錣引き跡は祈り岩の近くにあります。



駒立岩から相引川を渡り、北へ進みます。

弓流し跡から西へ行った屋島東小学校近くにも「義経の弓流し」の案内板がたっています。
屋島古戦場を歩く(義経弓流し)  
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』
「景清錣引き跡」高松市牟礼町大字牟礼宮北 ことでん「八栗」駅より徒歩15分 
 県道36号線沿い、ことでん「祈り岩」バス停前南東。
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「平家物語」(下)角川ソファ文庫、平成19年

 


 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )





平家物語の中で、もっとも有名な物語は那須与一の扇の的です。
洲崎寺から北へ進むと祈り岩バス停前に「いの里岩」と刻んだ石標があり、
当時、海の中にあった駒立岩はその先の川の中です。
付近には与一公園、与一橋もあります。



左手はもくもく遊らんど、その先に見えるのが与一橋



与一橋の欄干は波をデザインした石のアート
さすが石の町、周辺にはさまざまな石のオブジェがあります




那須与一が成功を祈った祈り岩。



那須与一が扇を射る時に、神明の加護を祈った場所です。
「いの里岩」の下方は、埋まっています。







祈り岩から駒立岩まで北西へ50メートル

川の中にある祈り岩の傍の小さな石には、「いのり岩レプリカ石」と刻まれています。
本物の祈り岩がすぐ近くにあるのに、何故ここにレプリカが置かれているのでしょうか。
この件について、高松市文化財課に問い合わせたところ

「高松市に合併する前の旧牟礼町がレプリカを施工したものと思われます。
旧牟礼町の人によると、祈り岩周辺が市街地の中に埋もれてしまっていて、
祈り岩から駒立岩が見えないことから、レプリカを駒立岩付近に設置し、
往時の雰囲気を再現したのではないかということです。」というお返事をいただきました。


相引川の水路には、与一が扇を射るときに駒を止めたという
駒立岩があり、潮が引くと巨岩が姿を現わします。


先の方(四角で囲んだ所)に、扇を開いた竿と女房のパネルが置かれています。





与一公園の案内板

与一公園内の扇をかたどった池の水は抜かれていて、噴水はあがっていません。  
♪もののふの誉の岩に鯊(はぜ)ひとつ 水原秋桜子

戦いが一段落した夕暮れどき、平家方から優雅に飾りたてた小舟が一艘近づいてきました。
その舟の中から女房が現れ、金色の日の丸の描かれた紅一色の扇を竿の先につけて
陸に向かって手招きします。この女房というのは、千人の雑仕から選ばれた美女で、
今年19歳の玉虫の前という建礼門院の女房です。その意図するところがわからず
義経の「あれはいかに。」との問いかけに
「扇を射よということでしょう。
誰かに射落とさせるのがよろしいでしょう。」と後藤兵衛実基が進言します。


「味方に射当てる者はいるか。」という義経の重ねての問いかけに、

実基は即座に那須太郎資高の子、那須与一宗高を推挙します。
与一宗高は小兵(小柄の武士)ではあるが、空を飛ぶ鳥の三羽に二羽を
射落とすほどの腕前だというのです。与一は辞退しますが義経は許しません。
「義経の命令に背いてはならぬ。文句をいう者は鎌倉へ帰れ。」と語気荒く言うので、
与一は命令に逆らえず、荒れる海に駒を乗り入れ駒立岩まで進めます。

それでも的の扇まで20メートルほどもあります。ちょうど激しい北風が吹いて
舟も扇も波に揺れています。両軍かたずをのんで見守っている中、
ここで射損じたなら源氏末代の恥、目を閉じ「南無八幡大菩薩、我国の神は日光権現、
宇都宮大明神、那須の温泉大明神、どうぞあの扇の真ん中を射当てさせてくださいませ。
これを射そこなうものなら弓を切り折って命を絶ちます。もう一度本国へ
迎えてやろうとお思いならば、この矢を外させないでください。…」そう祈って目を開くと
心なしか風もおさまり、的の扇も射やすくなっています。
与一は手早く鏑矢を
箙から引き抜いてすばやくつがえ、えいっとばかりに放ちました。
鏑矢とは矢の先に鏑をつけたもので、矢を射ると音を発します。
鏑 は蕪の形に似た長円形で、木や角で作り中を空洞にして
3~8個の穴をあけ、射ると穴が風を切って鳴ります。

矢を射る距離についてコメントをいただいたので、
追記させていただきます。
「与一と扇との間隔は、7段くらいはあろうと見えた。」とあります。
1段を6間とすれば80ないし90メートル。
1段を9尺とすれば20から25メートルくらいになる。
後者の方が実情に適する。(『平家物語全注釈(下巻1)』)

梶原正昭氏は「中世では、1段は9尺(2・7m)のことなので7、8段は約20mほどの
距離ということになる。」と述べておられます。(『古典講読平家物語』)

弓は強弓。鏑矢は浦一帯に鳴り響き、扇のかなめ際、
一寸ばかりの所に見事命中。
扇は天高く舞いあがり、
しばらくひらひらと舞うと春風に吹かれて海へ落ち、
金の日輪を描いた真紅の扇が夕日を受けて
白波の上に漂い、
浮いたり沈んだりしています。
これを見て、沖では平家が船端をたたいてどっと歓声をあげ、

陸では源氏が箙をたたいてどよめきました。
あまりの見事さに感極まったのか平家方の年老いた武者が、
小舟の上で舞を舞いはじめました。

ところがこの余興は義経にはまったく通じません。
「あの者も射よ。」と命じられ、
与一は仕方なくその男まで射てしまいました。
「風流を解さぬ振舞い」と平家のほうは静まりかえりましたが、
源氏方はまた箙をたたいて囃したてました。

那須氏は藤原道長の孫通家の子、貞信を祖とし、下野国那須郡に勢力を張った豪族で、
与一の父資高はその六代目にあたります。与一はその十一番目の子です。

強弓というのは、普通の弓は一人が弓をためてもう一人が弦を張る「二人張り」ですが、
それよりはるかに弦(つる)の張の強い「三人張り」「四人張り」などの
弓を引きこなし、狙った的をはずさず射抜く人のことです。

屋島合戦では、義経勢の奇襲に驚き平家が沖へ逃れた隙に、後藤実基は内裏を焼いて
敵の反撃を封じという、老練で思慮深い古つわものらしい活躍を見せています。
扇に何かいわれがあるかと義経が実基に尋ねたのは、
実基が都の武士で弓馬の故実にも通じていたからです。
那須与一の郷(那須神社)  那須与一の墓(即成院) 
那須与一の墓・北向八幡宮・那須神社(その後の与一の足跡)   
一の谷へ出陣途中、亀岡で病になったという与一 那須与市堂  
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。
『アクセス』
「祈り岩」高松市牟礼町大字牟礼宮北 ことでん「八栗」駅より徒歩15分 
ことでん「いのり岩」
バス停前
「駒立岩」高松市牟礼町大字牟礼宮北 祈り岩より1分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社、1975年 

富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
林原美術館「平家物語絵巻」株式会社クレオ、1998年

梶原正昭「古典講読平家物語」岩波書店、2014年
 新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年





 

 







コメント ( 4 ) | Trackback (  )







佐藤継信の墓は、高松市内に二ヶ所あります。
ことでん八栗駅の南、牟礼川沿いの一角ともう一ヶ所は、屋島寺参詣路沿いに祀られています。

ことでん八栗駅から踏切を越え南へ、 牟礼川沿いに少し進みます。

景行天皇皇子の神櫛王(かみくしおう)墓の東隣に佐藤継信の墓所があります。

継信の子孫が遺跡の大改修を実施し、公園のように整備しました。

もとは今の墓所の背後の平田池(ため池)の地にありましたが、
正保2年(1645)、この池を築造した時に現在地に移されました。

寛永20年(1643)には、初代高松藩主松平頼重が標石を建てています。

佐藤兵衛尉継信之墓と彫られています。



松平頼重がたてた標石の表は「佐藤次信墓」とあり、
その背後には五輪塔が祀られています。

標石の背面には、「寛永癸未仲夏上浣建之」と刻まれています。
(寛永癸未は1643年、仲夏は陰暦の5月、上浣は上旬のこと)

大夫黒馬娌處」「大夫黒供養之碑」
大夫黒はもとは院の厩で飼育されていた馬で後白河院から義経に下賜され、
一ノ谷合戦では、平家陣の背後の断崖絶壁から駆け下った馬です。
義経は大夫(五位)に叙位された時、自分の大夫にちなんで
この愛馬を
大夫黒と名づけました。
『吾妻鏡』は、義経が秘蔵の名馬を僧に与えたことを美談として讃えています。


大夫黒に乗り戦場を駆ける義経。



安徳天皇社から緩やかな坂を上ります。

屋島寺の参拝を終えた巡礼者が洲崎寺さらに八栗寺へと向かう遍路道です。

松平頼重(水戸光圀の同母兄)が四国巡礼の人々の目につくようにと設けた墓所です。
頼重は学問に熱心で、特に『平家物語』を好んで読んでいたようです。
主人の楯となって討死した継信を武士の鑑であるとして、その死を顕彰しました。
この地では、継信はとりわけ英雄のように扱われています。

佐藤継信の父は陸奥国信夫(しのぶ)庄(福島市)の豪族・
庄司
佐藤元(基)治で、平泉の藤原秀衡と同じく秀郷流藤原氏を出自としています。
秀郷流藤原氏は、平将門の乱を鎮圧したことで有名な藤原秀郷を始祖とします。

義経が挙兵した兄頼朝の軍陣に向かおうとした時、秀衡は強く止めました。
しかし、義経の決心が固いのを知り、継信・忠信兄弟に随行を命じたのです。

佐藤継信の墓
継信は寿永4年(1185)2月の源平屋島合戦のとき、平家の武将能登の守教経の強弓により、
大将義経の命危ういとみて、義経の矢面に立ち、身代わりとなって討死しました。
この継信の忠死を広く世間に知らせるために寛永20年(1643)初代高松藩主松平頼重公が、
合戦当時に義経が丁寧に葬ったあとを受けて、屋島寺へ続くこの遍路道の傍に建立したものです。
 また、墓は牟礼町王墓に残っています。
高松市 高松観光協会 (現地説明板)

義経は継信の死を深く悲しみ、近くの寺から高僧を招き、、「一日教を書いてやってくれ。」と言い、
布施の代わりに
自分の馬に金覆輪の鞍を置いて贈り、ねんごろな供養を頼みました
お経一部を何人もで、手分けして一日で書き上げることを「一日教」といいます。

馬も鞍も武士にとって大切な財産です。それほどまでして供養し、
一人の郎党の死を心から悼む義経の姿に、継信の弟忠信をはじめ家来たちは、
みな涙を流し「この主君のためなら、命を失っても惜しくない。」と言いあったという。

『吾妻鏡』文治元年(1185)2月19日の条には、「義経は継信の死を大いに嘆き悲しみ、
僧侶を招き遺骸に立派な袈裟を着せ、千株松の根元に葬り、名馬太夫黒を僧侶に与えた。
この馬は義経が行幸に供奉する際に後白河院から賜ったもので、
戦場に向かう時には必ずまたがっていた。」と記されています。
屋島古戦場を歩く佐藤継信最期(射落畠)  
馬町の佐藤継信 忠信墓    馬町十三重石塔(佐藤継信 忠信)  
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。
『アクセス』
「佐藤継信の墓」高松市牟礼町王墓 ことでん「八栗駅」徒歩5分

高松市屋島東町 遍路道沿い ことでん「八栗駅」下車 徒歩約35分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年 上横手雅敬「源義経 流浪の勇者」文英堂、2004
 奥富敬之「源義経の時代」日本放送出版協会、
2004年 川合康「平家物語を読む」吉川弘文館、2009年 
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「香川県の歴史」山川出版社、
2011
「平家物語図典」小学館、2010年


 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )







瓜生(うりゅう)が丘は屋島にいる平氏を攻めるため、義経が陣を張った場所です。

鎌長製衡株式会社のすぐ近くに瓜生が丘(宇龍ヶ岡)の碑があります。


牟礼川と鎌長製衡工場の塀沿いの道を進みます。

向こうに見える携帯電話の鉄塔が建っている小高い丘を瓜生が丘とよび、
源氏軍の陣は、この丘から長刀泉・菜切地蔵堂辺まで布かれていたと推定されています。

工場の東に「宇龍ヶ岡」と刻まれた石碑が立っています。 
義経の身代わりとなって戦死した佐藤継信が運びこまれた場所です。

六万寺の方向から見た瓜生が丘。現在は田園地帯の中にあります。

鎌長製衡の工場西には、弁慶が食事の用意のために掘った長刀泉が残っています。



長刀泉は弁慶が長刀の石突きで掘った井戸。弁慶の力自慢のエピソードです。
「菜切地蔵」、「瓜生が丘」の周辺にあることから、源氏軍の陣跡と考えられています。
説明板からは、辺りは海辺だったので飲料水に苦慮した様子がうかがえます。







JR線路の南側、菜切公民館の北の丘の上には、菜切地蔵堂があります。


地蔵堂の中央に地蔵菩薩、右側に室町時代以後の作と考えられる五輪塔、
左側に十一面観音の石彫を安置しています。
十一面観音、地蔵菩薩とも最近の作品で、
土地の人は右側の五輪塔を地蔵と呼んでいます。



弁慶が石地蔵の背中をまな板がわりにして長刀で野菜を切ったと伝え、
この辺一帯の集落を今も菜切とよんでいます。
長刀泉、菜切地蔵ともに遠い昔の伝説です。

『平家物語』の中で、弁慶は義経を守る従者の一人として記されているだけで、武勇伝は
ほとんど語られず、佐藤兄弟や伊勢三郎義盛に比べて、存在感の薄い人物として描かれています。
『源平盛衰記』によると、義経勢が屋島に向かう途中の金泉寺(徳島県板野町)で、
義経が「誰か講式読むべき」というと、弁慶が高座に昇って仏前にあった観音講式を
大音声で見事に読みあげており、文武に秀でていた人物であったことが知られます。
弁慶が注目されるのは、平氏の滅亡後、義経が頼朝に追われる身となってからです。
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。
『アクセス』
「宇龍ヶ岡の碑」高松市牟礼町菜切地区 鎌長製衡の東南 JR古高松南駅より徒歩7分
ことでん八栗駅より徒歩12分 

「菜切地蔵堂」高松市牟礼町菜切地区 鎌長製衡の南西 JR古高松南駅より徒歩5分 
「長刀泉」高松市牟礼町菜切地区 鎌長製衡工場の西  JR古高松南駅より徒歩3分
『参考資料』
上横手雅敬「源義経 流浪の勇者」文英堂、2004年 
奥富敬之「源義経の時代」日本放送出版協会、2004年
 「香川県の地名」平凡社、1989年 「新定源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年

 

 





コメント ( 2 ) | Trackback (  )





洲崎寺は檀ノ浦の入江の東にあり、対岸には屋島があります。
一帯が源平屋島合戦の舞台となったため、寺は戦火に巻き込まれ、
堂塔伽藍は焼け落ち、本尊と不動明王像だけがかろうじて焼け残ったという。
その時、教経の強弓に倒れた佐藤継信の遺体が本堂の扉に乗せて源氏の本陣まで
運び込まれています。その後、再興されるも長宗我部元親の軍勢により再び焼失し、
元禄12年(1699)、四国八十八ヶ所霊場八栗寺の願いにより再興されました。
その百年近く後の開帳の際に因幡鳥取藩の由井蔵主が継信の遺骸を運んだ
古い扉を送ってきたと『続々讃岐国大日記』に記されています。
継信の念持仏水月観音は洲崎寺に寄進され、継信の菩提寺として、
毎年3月19日に慰霊法要が行われています。

当寺は四国遍路を庶民に広めた真念法師の墓があることでも知られています。
また、檀ノ浦一帯を測量した伊能忠敬一行がこの寺に宿泊しています。

弓流し跡から北へ進みます。

五剣山の西方、牟礼浜にあります。



山門

ことでん洲崎寺バス停横にあります。

「屋島檀ノ浦の戦い」を表している庭園

本堂


鐘楼

源平屋島合戦の模様を描いた石造りの説明板



合戦のあらまし
①寿永四年二月十八日 義経率いる源氏軍は阿波勝浦に上陸する。

②平家方の桜ノ間城を攻め落とす。 
③源氏軍は淡路の江田源三ら約三十騎と合流する。
④大坂峠で平家の使者を捕える。  
⑤大内町丹生から二隊に分離する。本隊は内陸から、別隊は海岸沿いから屋島に迫る。
⑥十九日朝、屋島に到着する。別隊も合流し平家に攻め入る。
⑦那須与市ら約三十騎、赤牛崎(あかばざき)を経て安徳天皇社を焼き払う。
⑧あわてた平家は舟に乗り移り、海へと逃げる。
入り江に浮かぶ平家の舟軍と浜辺の源氏軍の戦いとなる。
⑨平家の勇将教経が総門に上陸し弓矢戦となる。
この時、源氏の勇将佐藤継信が義経の身代わりとなり討死する。
⑩夕刻、源氏勢は瓜生ヶ丘に陣を敷く。
⑪明けて二十日、当地近辺で戦いはせめぎ合いとなる。
[扇の的] [錣引き] [弓流し]等の話はこの時の出来事である。
 ⑫翌朝平家は海を越え源氏勢の背後から攻める。
義経はそれを察し、志度寺辺りで平家を打ち破る。
⑬平家は戦いに敗れ、屋島をあとに西海に落ちていく。


◆③江田源三は義経の家来。 ④義経は大坂越の難路を通って讃岐に入る途中、
屋島へ向かう文の使いを捕えます。京の女房から屋島の宗盛への手紙で、
「義経はすばやい男ですから、暴風雨に紛れて攻め寄せましょう。
十分ご用心なさいませ。」とあり、渡辺の津に源氏が船揃えしたことを知らせるものでした。

源平合戦 屋島檀ノ浦の戦い
平安時代末期 寿永二年(一一八三)七月、木曽義仲に敗れた平家は、幼帝・安徳天皇を奉じて、
六万寺と屋島檀ノ浦(安徳神社)の地に陣を布敷き、勢力の回復をはかり、
源氏軍の襲来に備えていた。時に、寿永四年(一一八五)二月十九日、平家追討の命を受けた
義経率いる源氏勢はわずか百五十騎で数千を超す軍団が守る屋島に攻め込んだ。
思いもよらぬ陸路からの急襲に慌てた平家は、辛うじて舟で沖へ逃げた。
そして、戦いは、沖の平家と陸の源氏による弓矢の合戦となった。
この戦いは、数々の英雄と悲劇を歴史に残した[佐藤継信の討死]
[扇の的]・[錣引き]・[弓流し]等、数多くの話と史跡が今に伝えられている。

※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』
「洲崎寺」高松市牟礼浜北地区 ことでん八栗駅より徒歩約12分 
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )





義経弓流しは那須与一の扇の的射などの名場面が多い、
屋島合戦の中の逸話のひとつです。



八栗駅から洲崎寺に向かう途中の道脇に
「義経弓流シ」と「源平屋島合戦古戦場」の碑がたっています。





那須与一が見事に扇を射落とした直後、平家方の50歳ほどの武者が船上に現れ、
扇の立ててあった場所で舞い始めました。
義経の命でこの武者が射殺されると、平家方はしばらく唖然としていましたが、
やがて激怒し義経軍に攻撃をしかけ乱戦となりました。そのうちどうしたはずみか、
義経は弓を海中に落とし、それを拾い上げようと必死です。
「危険なので弓をお捨てなされ、お捨てなされ。」という
郎党の声にも耳を貸さずようやくの思いで弓を拾いました。

義経は「弓が惜しくて拾ったのではない。叔父為朝(鎮西八郎)のような
強い弓ならばわざとでも落として敵に見せるところだ。
しかし自分は小柄で非力だから張の弱い弓を使っている。
それを拾われて、これが源氏の大将の弓かと笑われては末代までの恥である。
それで命がけで拾ったのだ。」と言ったので、
郎党はみなこの言葉に感じ入ったということです。

義経は弓の名手鎮西八郎為朝のように大男ではなく、体は小柄で貧弱、
弓も立派なものではありません。敵に拾われた時、何と弱弓なことよと
笑われるのが嫌さに身の危険も顧みず弓を拾ったのです。

義経の負けん気の強さと命よりも名を惜しむ武将だったことを物語る一幕です。

『源平合戦図屏風』六曲一双、右双部分。
画像は別冊太陽平家物語絵巻より引用させていただきました。

義経を中心に平家方に越中次郎盛嗣、源氏方に後藤兵衛実基が描かれています。
戦いたけなわなり、源氏方は総大将義経みずから敵船に近づいての奮戦です。
平家方は熊手を振って源氏の武者を海中に引きずり落とそうとし、
それを払いのけながら、義経が流される弓をとろうと身をのりだしています。
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』
「義経弓流し」高松市牟礼町浜北地区  ことでん八栗駅より徒歩約10分

射落畠から北へ約200m
『参考資料』
別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社、1975年 林原美術館「平家物語絵巻」株式会社クレオ、1998年

 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年
「平家物語図典」小学館、2010年







コメント ( 6 ) | Trackback (  )





琴電八栗駅の北側あたりは屋島合戦の激戦地と伝えられ、この地区には古戦場跡の
「平家総門跡」「射落畠」「義経の弓流し」「那須与一の駒立岩」「洲崎寺」などが残っています。

射落畠(いおちばた)は、佐藤継信が義経を庇って戦死した場所です。



総門跡角の道標。 「源平合戦史跡  射落畠八0米」

道標に従って進むと防火用水の向うに射落畠の碑が見えます。

合戦当時、この辺りは海近くの湿地帯でした。昭和6年(1931)5月、継信三十世の孫、
佐藤信古氏が蓮畑の一部を買い取り整地して射落畠碑と遠祖君乗馬薄墨碑を建立。







遠祖君乗馬薄墨碑
兄頼朝の挙兵を聞いた義経は、奥州平泉から兄のもとに馳せ参じます。
その時、藤原秀衡は思いとどまらせようとしましたが、どうしてもという義経に
はなむけとして秘蔵の愛馬「薄墨」を贈り、佐藤継信・忠信兄弟をつけてやりました。


佐藤継信顕彰碑
この地は源義経の四天王の一人佐藤継信戦死の場所である。
継信は鎮守府将軍藤原秀郷の後裔にして藤原秀衡に従う。

継信は若くして智略兵法に通じ、豪勇の名を知られる。
源義経陸奥に来て秀衡の批護をうけ後頼朝挙兵を援けるため都に上るに際し、
父の命により継信 忠信の兄弟もこれに従う。
連戦して平家を追い屋島壇(檀)ノ浦にいたり、
敵将平教経の挑戦をうけ、義経の身代わりとして戦死。時に年二十八才

継信はみちのくいで湯の里飯坂大鳥城の出身であり、
源平八00年祭と当クラブ結成二十周年を記念してこの碑を建立するものである。

      昭和六十年四月十八日    福島飯坂ライオンズクラブ

 お目汚しに拙句を一句  ♪故郷のヒーローかこむ 蓮の花

平家の総大将宗盛(清盛の三男)は、義経の奇襲に驚きいったんは
沖に逃げましたが、源氏の軍勢が少数だと気付いてややおちつきを取り戻し、
能登守教経(清盛の弟教盛の子)に攻撃をしかけるよう命じます。
教経(のりつね)は平家きっての猛将とうたわれ、
率いる兵らも源氏の精鋭に劣らず勇猛な勇士たちです。
すぐに態勢を立て直した教経は、巻き返しを図るべく総門に押寄せ、
沖の平家船団と屋島の浦に駒を進めた源氏勢との矢合戦となりました。

教経は評判の強弓で源氏の兵を次々に射落としていきます。どうかして義経を
一矢でしとめようと狙いをつけますが、源氏の方もそれと知って1騎当千の
兵(つわもの)らが矢おもてに立ちふさがります。教経は「そこをのけい」と叫びながら
さんざんに射ったので、十数騎ほどがあっという間に射落とされました。
次いで義経めがけて放った矢が主君の前に進み出た佐藤継信の左肩から右脇へと射ぬき、
その首を落とそうと走り寄った教経の童菊王丸を継信の弟忠信が射とめます。
やはり童の首を取られまいと、教経は左手で弓を持ちながら右手で童を抱え
岸辺の船に投げ入れました。首はとられませんでしたが、やがて息をひきとりました。
この時菊王丸、18歳。教経は年若い菊王丸が不憫でならず、
その日の合戦をやめてしまいました。
その菊王丸が相引川左岸の屋島東小学校北側に葬られています。

教経の矢にかかって、まっさかさまにどうと馬から落ちる継信。

義経は陣の後ろに担ぎ込ませた継信の手をとり、涙ながらに
「思い残すことはないか」と問うと、継信は苦しい息の下から答えます。
「弓矢とる者、敵の矢に当たって死ぬことは元より覚悟のこと。主君のお命に代わって
討たれるということは、この上ない名誉なことです。ただ思うことは故郷に残した
老母のことが気がかりなのと平家を滅ぼし、殿の御栄達を見届けることが
できないのが残念です。」と言い残して息を引き取りました。
右腕とも頼む郎党を殺され、義経もこの日は戦う気力を失いました。
屋島古戦場を歩く(佐藤継信の墓)  
屋島古戦場を歩く(安徳天皇社・菊王丸の墓) 
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』
「射落畠」高松市牟礼町牟礼浜西 琴電「八栗駅」下車徒歩5分

『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年 
冨倉徳次郎「平家物語 変革期の人間群像」NHKブックス、昭和51年
 「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 現代語訳「吾妻鏡」(頼朝の挙兵)吉川弘文館、2007年
「平家物語図典」小学館、2010年


 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )





屋島合戦の史跡は高松から琴平電鉄に乗り、
八栗駅で下りるとほとんど歩いてまわることができます。


八栗駅の北100mほど行った所に見上げるほど大きな「源平合戦総門碑」と
総門があります。ここは高松市の東はずれの石の町、牟礼町です。
庵治(あじ)・牟礼(むれ)両町は、日本三大石材産地のひとつ、
町の石材店からは石を刻む音が聞こえてきます。



平家は海側からの敵に備えて、六万寺の安徳天皇を守る総門を海岸に構えていました。
現在の門は初代高松藩主・松平頼重が再建し、その遺構を今に伝えています。
当時の六万寺は広大な寺領を有し、勢力を誇っていました。
しかし、天正11年(1583)、長曾我部元親の八栗城攻めの際に伽藍は焼失し、
現在の六万寺は寺の鎮守「愛宕権現」の地に松平頼重が再興したと伝えています。
六萬寺HPによると、源平合戦総門は六萬寺の大門跡とのこと。

その後、平氏の本陣は屋島の東麓、海岸近くに移され、総門も現在地の西に設けられました。

明治36年に牟礼保勝会が建てた「源平合戦総門碑」です。

「明治三十有六年龍集癸卯三月初一日
陸軍大将従二位 伯爵野津道貫 題額 高松欣堂 黒木安雄撰并書

距門 安徳天皇六萬寺行宮遺蹟  東南十三町
  佐藤継信墓及名馬太夫驪塚 正南二町  那須宗高射扇處祈石及駒立石 正北五町 
 雨龍岡源義経陣趾 東南四町  州崎  州崎堂今稱州崎寺正北二町」とも彫られています。
総門から史跡への直線距離、ちなみに一町は約109メートルです。

「総門 寿永二年九月、平氏は安徳天皇を奉じて六万寺を行在所として
(屋島檀の浦の行宮のできるまで)ここで門を構えて、海辺の防備に備えました。
総門はこの遺跡です。後、檀の浦に行宮をうつしてからも、
この門を南部の重鎮として大いに源氏軍を防ごうとしましたが、
ついに源氏の占領するところとなりました。当時この付近は海浜でした。
標木は松平頼重の建てたもの、野津大将題、黒木欣堂撰書
 “夏草や”の碑は久保不如帰氏作。 高松市教育委員会」(現地説明板より)





手前の句碑には 
  ♪夏草や ここにもひとつ 髑髏(されこうべ)久保不如帰
その左に
  ♪お遍路の 行きつつ 髪を束ねけり 久保五峰

平氏の主力は源氏方の河野通信を討つため伊予に出陣しているので、屋島は
手薄であると近藤親家から聞いた義経の軍勢は徹夜で馬を走らせ屋島に迫りました。
一方、平氏は正面の海から源氏は船を連ねて渡ってくるであろうと、
海からの攻撃に備えて陣を構えます。讃岐北部の浦々、島々に軍勢を置き、
牟礼や庵治浦の島陰には兵船を隠しました。
瀬戸内海に向けて城郭を檀の浦の奥深くに構えたのもそのためでした。

義経といえども船戦なら負けることはない。と平氏は高をくくっていました。
ところが阿波に上陸した義経勢は陸伝いに大坂峠から攻め寄せてきたのです。
平家方は慌てて内裏を放棄し、総門の前につないであった船に乗り沖へ漕ぎ出しました。
海上の船から大将の宗盛は、姿を現した義経勢が意外に少ないのを見て悔しがり、
やすやすと内裏を焼かせたことを悔やみましたが、いまさらどうしようもありません。
こうして安徳天皇はじめ平家一門は船をねぐらにすることになります。
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』
「源平合戦総門碑」高松市牟礼町 琴電「八栗駅」を降り、旧道を北へ向かいます。
『参考資料』

「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 「香川県の地名」平凡社、1989年
奥富敬之「源義経の時代」日本放送出版協会、2004年 「平家物語図典」小学館、2010年



コメント ( 6 ) | Trackback (  )




 安徳天皇の行宮所跡が屋島周辺に二つあります。一つは源氏ヶ峯の南麓、牟礼の六万寺です。
一門が屋島にやって来た当初、行在所となった寺で古戦場の東の方にあります。
もう一つは屋島の東麓、安徳天皇社の辺りに置かれ、六万寺から寺の西方にかけて
建てられていた建礼門院や一門の住まいをその周囲に移して御所としました。



平家の陣を背後から襲おうと、義経勢は阿波勝浦から難所の大坂峠を越え、
屋島内裏の対岸に到着しました。当時の屋島は海に浮かぶ小島でした。
引き潮の時は馬でもこの島へ容易に渡ることができると知った義経は、
小勢であることを悟られないために、屋島対岸の牟礼、古高松の道筋の家々に
火をかけながら進軍し、大軍の襲来をよそおいます。そして黒煙が天を覆おう中、
小分けにした兵をいくつも繰り出して、浅瀬を渡り一気に屋島内裏へと攻め込みました。

ちょうどその時、屋島の陣では平家に叛いた伊予の河野通信を討つため
出撃していた田口成良(重能)の子、田内教能から送られてきた通信の郎党、
百余人の首実検をしていましたが、巻き上がる炎に源氏の大軍が
押しよせてきたと勘違いし、慌てふためき陣地を捨て船に飛び乗りました。

この様子が『平家物語絵巻・大坂越』に描かれています。
右は在家に火をかけ突入する源氏軍。
左上は大将平宗盛の宿所で首実検が行われている最中です。
左下は思いがけない急襲に大軍と勘違いした平氏は、
建礼門院・二位の尼はじめ、女房たちも急いで船に乗り、沖へ逃げだします。
一の谷合戦の1年後、平家は一ノ谷に続いて、またも義経に背後から奇襲されたのでした。

義経配下の後藤兵衛実基・基清父子らは海上に逃れた平家が放置した城郭に乱入し、
平家を屋島に戻らせないように火をつけてまわり
ます。田口成良がやっとの思いで
造営した内裏や御所を、あっというまに焼き尽くしてしまいました。

内裏を焼き払った実基は、義経の父源義朝に仕え、平治の乱では義朝の長子義平に従って
活躍しました。乱後は義朝の娘(坊門姫)をひそかに養育して一条能保に嫁がせています。
屋島の合戦では、義経の老練な参謀格として登場し、扇の的の射手に弓の名手、
那須与一を推挙します。基清は実基の婿養子で西行の甥にあたり、
後に基清は京都守護となった一条能保にも仕えます。

琴電八栗駅から北へ行き、相引川を渡って県道150線を北へ進みます。
能登守
教経の童・菊王丸の墓からさらにV字路

左に進むと
安徳天皇社があります。
分かれ道には「源平屋島合戦800年祭」昭和55年3月に建てられた
左手安徳天皇社400m、佐藤継信の墓600m」と刻んだ道標がたっています。


安徳天皇の行宮は屋島合戦で焼かれ、跡地に安徳天皇社が建っています。


「安徳天皇社 寿永二年(1183)、平宗盛は、安徳天皇を奉じて一の谷から屋島に着ました。
ここは檀の浦の入江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、
戦には地の利を得たところであったので宗盛は、行宮を建て将士の陣営をつくりました。
安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれています。
高松市 高松観光協会」(現地説明板より)

 屋島の東にそびえる五剣山の中腹には、四国八十八ヶ所第85番札所
八栗寺があるため、この山を八栗山ともいいます。

所々岩肌が見える対岸の五剣山(八栗山)

安徳天皇社は相引川河口の小高い場所にあります。





境内の奥には、屋島合戦で戦死した武士たちの墓があります。 

 「寿永四年二月(1185)早春、この地で繰り広げられた源平屋島合戦は、
滅びゆくものの哀れと、追うものの雄々しさを描く一巻の絵物語として、今に伝えられている。

この戦いで散ったつわものたちの墓があちらこちらに散らばっていたものを、
いつのころからか里人たちが、安徳天皇ゆかりのこの社の本殿裏に集められていたものを、
この地へ移設のうえ供養したものである。」(碑文より)

◆菊王丸の墓(高松市屋島東町 屋島東小学校北隣辺)

「菊王丸の墓  源平合戦(1185)のとき、源氏の勇将佐藤継信は、大将義経の
身代わりとして能登守教経の強弓に倒れました。そのとき教経に仕えていた菊王丸は、
継信に駆けより首を切り落とそうとしましたが、そうはさせまいとする継信の弟
忠信の弓によって倒されました。菊王丸は、教経に抱きかかえられ、
自らの軍船に帰りましたが、息をひきとりました。教経は、菊王丸をあわれんで
この地に葬ったとつたえられています。 高松市 高松観光協会」(現地説明板より)



※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『アクセス』

「安徳天皇社」高松市屋島東町557-1 琴電八栗駅下車 徒歩約30分
『参考資料』
「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年 
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、2004年
 林原美術館「平家物語絵巻」株式会社クレオ、1998年 火坂雅志「西行 その聖と俗」PHP研究所、2012年
「平家物語図典」小学館、2010年

 



コメント ( 11 ) | Trackback (  )







寿永2年(1183)7月、北陸で木曽義仲に大敗した平家は、安徳天皇を奉じて
西海へ落ちていきました。
屋島合戦の1年半ほど前のことです。
都を捨てた平家一門は九州に落ちのび、清盛が対宋貿易の拠点としていた大宰府に
内裏を造り再起を図ろうとしました。しかし、九州の武士たちは源氏が都を制したと知るや
次々に源氏方に寝返り、一門は海上に漂う身となりました。
その後、阿波(徳島県)の豪族田口成良(重能)のはからいで四国屋島に落ち着き、
内裏が完成するまでの間、六万寺を安徳天皇の御所としていました。

やがて勢いを挽回した平家は、一ノ谷に陣を張って都をうかがいましたが、
義経の奇襲攻撃に惨敗し、ふたたび屋島に退きました。その頃、平家は
東の屋島と西の彦島を押えて瀬戸内海を掌握しようと、知盛(清盛の4男)が
長門国(山口県)に向かい、彦島に砦を築き門司関を固めました。

六万寺周辺図は、六万寺HPよりお借りしました。

六万寺は屋島古戦場の東、源氏ヶ峯の南麓にあります。源氏ヶ峯には、義経が山上に登っ
攻め手を考えたとか、見張りをたて平家軍を見下ろしたいう伝承があります。






開発が進むこのあたりには、高層団地が建ち並んでいます。

六万寺駅から北東へ向かうゆるやかな坂道を1kmほど上ると
高台に寺の甍が見えてきます。



石碑には、「源平屋島合戦古戦場」、「東讃七箇所霊場六萬寺」と刻まれています。



かつての六万寺は四十二もの支(子)院を持ち、そのひとつに洲崎寺がありました。

寺には一門が六万寺を行在所にしていた時に詠んだ歌が3首残されています。
      嬉しくも遠山寺に尋ね来て 後のうき世を洩らしつる哉
                         三位中将 平 重衡
        
        世の中は昔語りになれぬれど 紅葉の色はみしよなりけり

                         但馬守  平 経政

      いざさらば此山寺にすみ染の 衣の色を深くそめなむ
                         経誦坊  祐円

都落ちする一行の中に「経受坊の阿闍梨祐円」の名が見えます。(巻7・平家一門都落ち)

祐円は清盛の異母弟平経盛の子といわれます。

かつての大寺をしのばせる
大鐘楼。

「愛宕大権現」の扁額が架かる鳥居。
中世の兵火で焼失した六万寺は、寺の鎮守「愛宕権現」の社地に再興されました。

境内の一角、小高い場所に「安徳天皇生母徳子之碑」と
安徳天皇と建礼門院徳子を祀る祠があります。 

『アクセス』
「六万寺」高松市牟礼町牟礼  
琴電「六万寺」駅から 徒歩17、8分

安徳天皇慰霊祭 例年5月第4日曜日 13:00~
法要のあとには、コンサートや牟礼の子供たちによる演舞などが行われます。 
※屋島古戦場をご案内しています。
画面左手のCATEGORYの「屋島古戦場」をクリックしてください。

『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年 安田元久「平家の群像」塙新書、1982年 
「香川県の地名」平凡社、1989年「香川県の歴史」山川出版社、1997年
 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 「平家物語図典」小学館、2010年





コメント ( 4 ) | Trackback (  )


« 前ページ