平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



治承4年(1180)10月6日、頼朝は畠山重忠を先陣に、
千葉常胤(つねたね)を後陣にして鎌倉に入りました。
翌7日、源氏の氏神である由比(ゆい)若宮(鎌倉市材木座)を遥拝し、
同月12日、
大臣山(鶴岡八幡宮の裏山)の麓、現在の若宮辺に
由比若宮(元八幡)を遷したのが鶴岡八幡宮の始まりです。

建久2年(1191)大火によって焼失しましたが、改めてご神体を
石清水八幡宮から勧請し、現在のような石段の上に本宮(上宮)が造設され、
従来の社殿は若宮(下宮)と称されるようになりました。

若宮大路の二ノ鳥居から段葛を歩き、三ノ鳥居をくぐると、
鶴岡八幡宮の境内に入ります。この鳥居は江戸時代徳川家綱が
一ノ鳥居・二ノ鳥居とともに寄進した花崗岩製の大鳥居を
鉄筋コンクリート製に復興し、朱塗りにしたものです。
なお海岸側の一ノ鳥居は花崗岩製のまま復元されています。

若宮大路

二ノ鳥居から三の鳥居まで、若宮大路の中央には
段葛とよばれる一段高い歩道が続いています。

三ノ鳥居


三ノ鳥居をくぐると正面に石の太鼓橋が架かっています。
かつては朱塗りの板橋であったので、赤橋と呼ばれ
将軍下乗の場所でもありました。
橋の東西には二つの池があります。これは水田だったところを若宮大路造営に続いて
造成したもので、東池には旗揚(はたあげ)弁財天社が祀られています。

「政子は平家滅亡の悲願止み難く寿永元年(1182)大庭景義に命じ
境内の東西に池を掘らしめ
東の池(源氏池)には三嶋を配し
三は産なりと祝い西の池(平家池)には四島を造り
四は死なりと平家滅亡を祈った。この池が現在の源平池である。」
(旗揚弁天社御由緒記より抜粋しました。)


源氏池を覆う桜





源平池を眺めながら参道を進むと、舞殿の手前で東西方向の土道と交差します。
これが毎年9月16日に流鏑馬神事が行われる流鏑馬の馬場です。
馬に乗り東の鳥居から西の鳥居へ駆け抜け弓矢で的を射る神事です。
舞殿では、4月第2日曜日の午後に静の舞が披露されます。
この舞は次の記事でご案内させていただきます。
静御前と鎌倉(静の舞・静桜)  

本宮へ上る大石段の左手に、樹齢千年というイチョウの大木が聳えています。
この木陰に潜んでいた公暁(くぎょう)が源実朝を暗殺したという
伝説が残っていますが、この話は江戸時代になってからの創作という。
『吾妻鏡』には「公暁は実朝が石階の際(きわ)に来るを窺い、
剣を取り『親の敵(かたき)はかく討つぞ!』と叫んで襲いかかる」と記され、
石段の近くに隙を見て近寄り、実朝を襲ったとしているだけです。

隠れイチョウの名で知られるこのイチョウは
平成22年(2010)3月10日の強風に煽られ倒れました。

倒壊したイチョウの幹は高さ4メートルに切断され、
もとの場所近くに移植されました。下の画像は大イチョウの根の部分です。

承久元年(1219)1月27日、この八幡宮を舞台に幕府を震撼させた
大事件が起こりました。60㎝ほどの雪が降り積もる中、夕刻から夜にかけて、
八幡宮にて三代将軍実朝の右大臣拝賀式が行われました。
その直後、
鶴岡八幡宮別当公暁(くぎょう)は叔父実朝と将軍剣持役(けんもちやく)の
源仲章(なかあきら)に襲いかかり二人を殺害しました。
この事件の寸前、執権北条義時は体の不調を理由に
剣持役を仲章に交代し、行列から抜け出ていました。

慈円の『愚管抄』は、公暁は剣持役が代わったことを知らずに
源仲章を害したと記しています。義時は命拾いをしたことになります。

実朝の首を手にした公暁(頼家の遺児)は雪下北谷(きたがのやつ)にある
後見人の備中阿闍梨宅へ逃げ込み、食事をかきこむ間も首を離さなかったという。
そして乳母夫(めのとふ)の三浦義村を頼って使いを出し次の将軍になろうと
しましたが、執権北条義時を討ち漏らしたと知り、形勢不利になったことを
悟った義村は、計画を変更して義時にこのことを通報し、
勇猛な公暁を討つため、武勇に優れた長尾定景を遣わしました。

公暁は来るはずのない義村の使者を待ちましたが、
とうとう鶴岡八幡宮の裏山に上り、そこから西御門の義村邸に辿りつき
屋敷の塀によじ上っているところを定景に討たれたとされています。
長尾定景は石橋山の合戦で平家方の武将として戦い、
三浦一族の佐奈田与一を討ち取っています。その後、降伏した定景は
三浦義澄(義村の父)に預けられ、その家人となっていました。
三浦家には恩義があり、公暁殺害役を断れなかった理由がここにあります。
公暁は父頼家が追放され、 伊豆修善寺に幽閉されたのち、暗殺されたことで、
父に代わって将軍職についた実朝に恨みを抱いたと思われます。
こうして鎌倉幕府の源氏将軍は三代で断絶しました。


背後で公暁を操っていたのは、三浦義村、執権北条義時、
さらに義時・義村の共謀説までありますが、真偽のほどは定かではありません。
実朝の遺骸は母の政子が勝長寿院の傍(境内)に葬り、実朝の追福のために、
傍らに五仏堂を建て、運慶作の五大尊像を安置しました。
首は公暁が持ち去ったまま見つからなかったので、
残っていた頭髪で代用し埋葬されました。『愚管抄』によると、
首はのちに鎌倉八幡宮寺(鶴岡八幡宮)の裏山の雪中にあったという。


石段を上ると楼門があり、その左右には随身像を安置しています。



現在の社殿は徳川十一代将軍家斉(いえなり)が寄進し、
文政11年(1828)9月に完成したものです。楼門の上に架かる
「八幡宮」の扁額の「八」の字は、八幡様の使いとされる鳩をかたどっています。
楼門と回廊の中が本宮(国重文)です。
祭神は応神天皇、神宮皇后、比売(ひめ)神の三神で、
社殿は拝殿・幣殿・本殿と連なる壮麗な権現造りです。
建久3年(1192)頼朝の征夷大将軍任官の伝達はこの宮で行われています。

楼門の前で振り返るとまっすぐ海岸まで続く若宮通りが一望できます。



舞殿の東側奥には、頼朝が由比郷から、
八幡神を遷座したもとの社である若宮(国重文)があります。
若宮の祭神は、仁徳天皇、履中(りちゅう)天皇(仁徳天皇の第1皇子)、
履中天皇の母である仲媛命(なかつひめのみこと)の四柱です。
社殿は権現造りで、拝殿、幣殿、本殿の順で建物が連なっています。

鎌倉入りした頼朝は、現在の若宮がある辺りに由比若宮を遷座し、
取り急ぎ松の柱と茅葺の屋根という
簡素な社殿を建て、
翌年の養和元年(1181)7月、、本格的な社殿の造営に取りかかりました。
その頃の鎌倉には宮大工がいませんでしたから、
武蔵国浅草寺(せんそうじ)から宮大工を召し上げました。
鶴岡若宮の上棟式(棟上げ)があり、
工匠(たくみ)たちに馬を与えることになりました。
義経は大工(工匠の棟梁)に馬を引く役を命じられましたが、
この役を辞退し頼朝に厳しく叱られる場面がありました。


これは2人1組となり馬を引くため、自分は鎌倉殿の弟であるから
他の御家人とは立場が違うと考えた義経と弟といえども畠山重忠や
土肥実平(どひさねひら)らと対等であると叱りつけたのでした。
源氏嫡流のトップである自身と義経とは異なるということを
御家人に認識させようという頼朝の厳しい態度がよく表れている話です。

若宮から東へ進むと、木々の中に白旗(しらはた)神社が建っています。
祭神は源頼朝と実朝父子です。
黒塗りの唐破風(からはふう)の拝殿が落ち着いた佇まいを見せています。
ここまで来ると人影もまばらになり静かな雰囲気になります。

今の場所に鎮座する白旗神社でのことではありませんが、
(以前は山上の八幡宮本宮の西側にありました)
秀吉と頼朝がこの社で対面したというエピソードがあります。
天正18年(1590)7月、小田原を平定した秀吉は、奥州へ赴く途中、
鶴岡八幡宮に参拝し、白旗神社の扉を開かせ、社壇に上がり込んで
頼朝の木像に語りかけました。「我と御身は共に微小の身から天下に
号令するまでになった。しかし御身は源満仲の後胤という名門の出身で、
頼義・義家は東国に名を馳せ、為義・義朝も関東に勢力を張った。
たとえ流人となっても、挙兵すると多く者が従い、天下を統一しやすかった。
だが、氏も系図もない我は違う。だから自分の方が出世頭である。
しかし、御身と我は天下の友達だ。」と言い終えると、
笑いながら頼朝像の背中をポンポンと叩きました。
現在、この木像は東京国立博物館に収蔵されています。
なお、西御門にも頼朝を祭神とする白旗神社があります。

画像は季節がない混ぜのご紹介となっています。
段葛(鶴岡八幡宮の参詣道)  
由比若宮・元八幡(元鶴岡八幡宮)  
石橋山古戦場(2)佐奈田霊社・文三堂  
『アクセス』
「鶴岡八幡宮」鎌倉市雪ノ下2-1-31 JR鎌倉駅東口より約10分
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社、1990年 神谷道倫「鎌倉史跡散策」(上)かまくら春秋社、平成19年
「鎌倉の寺社122を歩く」PHP新書、2013年 松尾剛次「中世都市鎌倉を歩く」中公新書、2004年
高橋慎一郎「武家の古都鎌倉」山川出版社、2008年 近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房、2005年
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年 
安田元久「源義経」新人物往来社、2004年
 現代語訳「吾妻鏡(1)」吉川弘文館、2007年 現代語訳「吾妻鏡(8)」吉川弘文館、2010年
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2006年 
 



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鎌倉駅東口から広場を抜け東へ行くと、若宮大路に出ます。
左手を見ると朱塗りの鳥居が建ち、その下には段葛(だんかずら)が見えます。





二ノ鳥居から三ノ鳥居まで続く段葛 
 
源頼朝は政子の懐妊を機に安産を祈願して、由比ヶ浜から鶴岡八幡宮に至る
従来の曲がりくねった道を直線に改修した参詣道を造成しました。
当時、この辺りは湿地帯だったので土盛りをして若宮大路の中央部分に
葛石(縁石)を積み上げ、一段高く築かれたのが段葛で、
将軍の参詣などの儀礼的通路として使用していたと考えられています。

時に置道(おきみち)・作道(つくりみち)などともよばれ、
段葛と称されるになったのは、江戸時代からといわれています。
近年の発掘調査によると、若宮大路は当時の道幅は33㍍余、
その東西両側には幅3㍍、深さ1,5㍍の側溝があったことが確認されています。

 現在の段葛の道幅は、社前に進むにしたがって狭くしてあり、
遠近法を使用しているといわれています。


段葛は一ノ鳥居から三ノ鳥居までありましたが、
明治時代に一部が横須賀線の鉄道工事によって失われ、
現存するのは二ノ鳥居から三ノ鳥居までの約500㍍だけです。
両側面に玉石が積まれ、桜やツツジが植えられたのも明治以降のことです。

見事な桜並木に整備され春には多くの花見客で賑わいます。

寿永元年(1182) 3月9日に 政子の着帯の儀式が執り行われ、
同月15日、
段葛の工事が始まりました。
頼朝が鎌倉入りした2年後のことです。頼朝が自ら指示し、
北条時政はじめ、御家人総出で土石を運んで造成しました。

長女大姫が誕生した時の政子は一介の流人の妻に過ぎませんでしたが、
今度は数多くの武士団を率いる鎌倉殿の正室としてのことでした。
頼朝はじめ源家の武将一同は跡継ぎとなる男子誕生を祈ったことでしょう。
同年8月には、願いがかなって頼家が生まれています。

三の鳥居は、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊するまでは、
一の鳥居、二の鳥居とともに徳川四代将軍家綱によって
寛文8年(1668)に寄進された花崗岩製の鳥居でした。
現在の鳥居は鉄筋コンクリート造です。

文治元年(1185)5月、壇ノ浦で捕えられた平宗盛父子が
鎌倉に護送された際、若宮大路を通り、
三の鳥居前の横大路(東西に通じる道)に至り、
しばらく輿が止められ、次いで大蔵(倉)幕府に入りました。
(『吾妻鏡』文治元年5月16日条)

(碑文) 段葛だんかずら 
一に置石と称す 寿永元年三月 頼朝その夫人政子の平産祈祷の為め
 鶴丘社頭より由比海浜大鳥居辺に亘りて之を築く
 其の土石は北条時政を始め源家の諸将の是が運搬に従へる所のものなり
 明治の初年に至り二の鳥居以南其の形失へり
  大正七年三月建之 鎌倉町青年会

(大意)
 段葛は、置石(おきいし)ともいいます。寿永元年(1182)3月に、
頼朝は妻の政子の安産の願いを込めて、鶴丘八幡宮の前より
由比ヶ浜の大鳥居辺まで、この参道を築きました。
その土石を北条時政以下、源家の多くの武将たちが運びました。
明治はじめ、二の鳥居以南の段葛は失われました。



一ノ鳥居と若宮大路 
海岸側から一ノ鳥居、二ノ鳥居、三ノ鳥居と並んでいます。

鎌倉のメインストリートの若宮大路は、南北に約1,8kmあります。

若宮大路に架かる由比ヶ浜歩道橋より鶴岡八幡宮を望む
鶴岡八幡宮写真紀行  
『アクセス』
「段葛」JR鎌倉駅東口下車徒歩約10分
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社、1990年 現代語訳「吾妻鏡(1)」吉川弘文館、2007年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 松尾剛次「中世都市鎌倉を歩く」中公新書、2004年 
神谷道倫「鎌倉史跡散策」(上)かまくら春秋社、平成19年 
高橋慎一郎「武家の古都鎌倉」山川出版社、2008年

 

 

 



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稲瀬川(いなせがわ)は鎌倉大仏高徳院北方の大谷(おおやと)を源流とし、
鎌倉大仏の東方を過ぎ、江ノ電長谷駅の東傍から由比ヶ浜に注いでいます。
全長約2400㍍あり、承久の乱の頃までは、この川が鎌倉の西の境でした。

稲瀬とは水無瀬(みなのせ)がなまったものともいわれ、古くは水無瀬川、
美奈能瀬川とも称し、順徳天皇が著した歌論書『八雲御抄(やくもみしょう)』に
相模の名所として「みなのせ河」があげられています。



江ノ電長谷駅





稲瀬川の石碑は稲瀬川が由比ヶ浜に流れ込む辺の国道134号線に建っています。

かつては相応の広さの
川であったため、時には大雨による洪水の被害も受けましたが、
現在、一部を除いてほぼ全域が暗渠となっています。






(碑文)「稲瀬川
 万葉ニ鎌倉ノ美奈能瀬河トアルハ此ノ河ナリ 治承四年十月政子鎌倉ニ入ラントシテ来リ
日並ノ都合ニヨリ数日ノ間此ノ河辺ノ民家ニ逗留セル事アリ
頼朝ガ元暦九年範頼ノ出陣ヲ見送リタルモ正治元年義朝ノ遺骨ヲ出迎ヘタルモ
共ニ此ノ川辺ナリ元弘三年義貞ガ当手ノ大将大舘宗氏ノ此ノ川辺ニ於テ
討死セルモ人ノ知ル所細キ流ニモ之ニ結バル物語少ナカラザルナリ
大正十二年三月建 鎌倉町青年團建」
 (大意) 
「万葉集に鎌倉の美奈能瀬河とあるのは、この河のことです。
   治承四年十月、北条政子が鎌倉に入ろうととしてここまで来ましたが、
   日柄が悪く数日間、河辺の民家に宿泊したことがあります。
    源頼朝が元暦元年「碑文の元暦九年は誤記」に範頼の出陣を見送ったのも、
    文治元年「碑文の正治元年は誤記」に義朝の遺骨を出迎えたのも、
    共に此の河辺です。
   元弘三年(1333)、新田義貞が鎌倉に攻め入った時、この川の東西が兵火に包まれ、
極楽寺切通しの攻め口の大将大館宗氏(おおたちむねうじ)が
鎌倉幕府軍に包囲されこの川の辺りで討死し
新田軍が一旦退却したことは、人々のよく知るところです。
    こんな小さな流れにもこれにまつわる物語は沢山あります。

万葉集に歌われた美奈能瀬河(みなのせ河)も小川と化し昔の面影はありません。
稲瀬川河口の風景

頼朝と北条政子の結婚は治承元年(1177)前後でした。
頼朝が31歳、政子が21歳、同じころ長女の大姫をもうけています。
治承4年(1180)、頼朝は山木兼隆を討って反平氏の兵を挙げると、
政子は頼朝と別れ、伊豆山に匿われました。同年8月28日、石橋山の合戦で
惨敗した頼朝は真鶴から小舟に乗って安房へと落ち延びていき、
政子は伊豆山から伊豆秋戸(あきど)郷(現、熱海付近か)に
隠れ家を移していました。
同年10月、頼朝が大軍を率いて鎌倉に入部したと知ると、政子は鎌倉近くまで
来ましたが、日柄が悪いため稲瀬川西岸の民家に宿泊して鎌倉に入りました。
(『吾妻鏡』治承4年10月11日条)

また、元暦元年(1184)源範頼が平家追討使として西海に赴いた時、
頼朝は稲瀬川川辺に桟敷を構えこれを見送りました。
(『吾妻鏡』元暦元年8月8日条)

頼朝は尾張国野間で殺害された父義朝と鎌田正清(政家)の首を返すよう
後白河院に要求していました。
院は京の東獄(左獄)に掛けられた
義朝の首を検非違使に命じて探しださせると、鎌田正清の首も添えて
鎌倉に送りました。その際、頼朝は遺骨を門弟の僧たちの首に掛けさせて
鎌倉にやってきた文覚をこの川辺で迎えています。
(吉川本『吾妻鏡』文治元年(1185)8月30日条)

十数部以上書写されていたであろう『吾妻鏡』は、
南北朝・室町時代の戦乱の中で散り散りになっていました。
吉川本(きっかわぼん)は、戦国時代後期大内氏の重臣
右田弘詮(みぎたひろあき)が収集整理し、
主家の吉川家の蔵本となった『吾妻鏡』の伝本の一つです。
稲瀬川の碑文はこの本の記述を受けて、この辺で
頼朝は義朝の遺骨を受け取ったと刻まれています。

なお、筆者がテキストに使用しています一般に流布している
『吾妻鏡』(新訂増補国史大系に収められている)には、
「頼朝は勅使大江公朝を迎えるため固瀬(かたせ)川辺りに行き、文覚の
門弟たちが首に懸けていた遺骨を自ら受け取った。」と記されています。
これは中世都市鎌倉を広域に捉えた場合には、
西の境界は「固(片)瀬川」となるためと思われます。

承久3年(1221)5月、承久の変で上洛戦を敢行しようと鎌倉を出た
北条泰時はいったん稲瀬川川辺の藤沢左衛門尉清近宅に一泊して
翌日の早朝、先発隊として僅か18騎を従えて上洛していきました。
 『アクセス』
江ノ電長谷駅下車 由比ヶ浜に向かって徒歩約8分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡(1)」吉川弘文館、2007年 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 
渡辺保「人物叢書北条政子」吉川弘文館、昭和60年 奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社、1995年
 奥富敬之「歴史文化ライブラリー 吾妻鏡の謎」吉川弘文館、2009年
「神奈川県の歴史散歩(下)」山川出版社、2005年 「武家の古都鎌倉を歩く」祥伝社新書、2013年
五味文彦「平家物語、史と説話」平凡社、2011年 「鎌倉事典」東京堂出版、平成4年
 神谷道倫「鎌倉史跡散策」(上)かまくら春秋社、平成19年

 

 



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