平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




岡崎黒谷町にある金戒光明寺は、黒谷さんと呼ばれ、
法然上人や熊谷直実ゆかりの寺として知られています。
方丈前に大きく枝を広げた松の木は、出家の際、
黒谷の法然上人を訪ねた熊谷直実が鎧を池の水で洗い、
掛けたという伝説に因んで鎧掛けの松と呼ばれています。
古樹は枯れ、現在の木は二代目です。


山内塔頭の一つ、蓮池院熊谷堂は、出家した直実が庵を結んだ場所で、
応安七年(1374)に長門の住人熊谷直安によって再興されました。
堂内に安置されている法然母衣(ほろ)絹の肖像は、
法然が直実と師弟の契りを結んだ記念として
法然が自ら鏡に映し、敦盛の母衣絹に描いて与えたと伝えられ、
傍には敦盛夫人像と直実自作の木像が安置されています。
すぐ近くの法然の廟所、勢至院前には、
直実と敦盛の五輪塔が向いあわせに建っています。





松の前にたつ「鎧掛けの松」の駒札と石碑



直実が鎧を洗ったという池











一の谷の
戦場でわが子と同じ年頃の敦盛に息子小次郎の姿を見た熊谷直実は、
助けようと決心しますが、背後には味方の軍勢が迫り、
やむなくその首を斬りました。
直実は、敦盛の形見を沖に浮かぶ平家の船に届けたいと、
遺骸、衣装や笛に、子細を記した書状を添えて父経盛の許に送ると、
経盛からも息子を失った悲しみと遺骸を届けてくれた感謝の気持ちを綴った
返書が直実の許に届いた。という記事が百二十句本を底本にした
新潮日本古典集成『平家物語』や『源平盛衰記』等に見えます。
それが事実かどうかはわかりませんが、事実とすれば、
思ったことをすぐに行動に移す、まっすぐな性格の直実らしい行動です。

敦盛を討たねばならなかった事に無常を感じ、それがきっかけで
直実は出家したといわれています。しかし出家したのは、
それから七、八年後のことです。実際はそうでなく、所領争いに負けて
激怒のあまりに出家したのだ。という別の説があります。
そこで、源平合戦後の直実の足跡を辿りながら、
出家の動機を探ってみましょう。

合戦後、御家人として活躍していた直実は、文治三年(1187)八月、
鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の的立(まとたて)役を命じられます。
射手からはずされたのです。ところが直実は
「御家人は皆、同輩として同列に扱うべきなのに、射手は騎馬で、
的立役は歩行というのは不平等である。」と主張し、頼朝が
こうした役目はその人の器量によって仰せつけるので、優劣は関係ないと
いくらなだめても従わなかったため、所領の一部を没収されます。
同じ御家人でありながら、射手の世話をする的立役は、
歴戦の勇者である直実にとって屈辱であり、直実の中に、
身分差別を否定する気持ちが強かったことが読み取れます。
これ以後、幕府の行事からは姿を消し、
代わって嫡男の次郎直家が参列するようになります。

合戦においても、郎党一騎を伴うにすぎない直実のような小武士は、
手柄、それと引きかえに与えられる領地を目指して命がけで戦いました。
しかし合戦のあと、先陣をきり、敵の首を取って手柄を立てた
彼らの恩賞は、大豪族に比べ微々たるものです。
畠山重忠・和田義盛などの大豪族は、率いる家来も多く、
頼朝に戦力そのものを提供し、手勢の少ない彼らとは働きが違います。

頼朝は幕府の体制を固め、身分秩序を作り上げていきます。
御家人には、「御家人は皆朋輩なり。」という理念がありましたが、
現実に存在する大御家人と中小御家人の格差。
それは、武勇よりも身分や政治的な策が幅を利かせる体制です。
新しい時代は、武から文へと転換していき、力だけでなく
朝廷とも渡り合える政治力が求められるようになります。


その五年後、建久三年(1192)に直実は、以前から所領をめぐって
確執のあった叔父の久下権守直光との間に、
領地の境界の問題が起こり、頼朝の御前で裁判がありました。
直実は筋道をたてての話というのは苦手なため、
頼朝も不審に思うことが多く、尋問は自ずと彼に集中してしまいます。
しかし自分の正当性をうまく説明できずに憤怒して
「梶原景時が直光を引き立てているため、あらかじめ直光に有利なように
お耳に入れているのではなかろうか。直実の敗訴は決まっているのも同然だ。
この上は何を申し上げても無駄なこと」と、
用意した訴訟の書類を投げ捨てて、その場で自ら髻(もとどり)を切って
姿をくらました。という記事が『吾妻鏡』に見えます。
わき目もふらずに行動する様は、『平家物語』が語る直実とよく似ています。
その後しばらくは自分の領地に引っ込んでいた直実ですが、
やがて京に上り、法然に弟子入りし、蓮生(れんせい)と名乗り、
信仰に一途な修行をしたことが法然上人の伝記
『法然上人行状絵図』などに残っています。

直実が初めて法然と面談した時、「後生を救われるにはどうしたらいいか。」と
尋ねると、法然は「ただ、念仏を唱えれば往生できる。それだけでいい。」と
答えました。その言葉を聞いて、「自分のように罪深いものは切腹するか、
手や足を切落せば、救われる事もあるのかと思っていたが、
余りのたやすさに嬉しくて泣けました。」と語っています。
法然に心酔し、常に西に背を向けず、京から東国に下る時も、西方浄土に
背を向けることはできないと、うしろ向きに馬に乗ったという逸話があります。

ある日、法然に従って直実が関白・九条兼実の屋敷に行き、法然の法話を
庭先から聞いていましたが、遠くて声がかすかにしか聞こえないので、
「この世ほど口惜しい所はない、極楽にはこんな差別などあるまいに。」と
声高に放言したという。それを聞いた兼実は、
使いをやって大床のところで聞くことを許したという
出家前と変わらない反骨精神を伺わせる話もあります。

確かに直実出家の直接的な原因は、
叔父との所領争いにあったのかもしれませんが、
我が子と同じ年頃の敦盛を討たねばならなかったことに疑問を抱き、
武士の生業(なりわい)に無常を感じながらもずっと抑えてきた感情。
そして、武芸をもって義朝(頼朝の父)、頼朝に仕えた直実は、
武勇のみで評価されない新しい体制の中に、居場所がなくなり、
出家の道を選んだとも考えられ、土地争いに敗れて
突然出家の心が芽生え、出家を決意したのではないように思われます。


クマガイソウ
熊谷次郎直実の本拠地(熊谷市の熊谷寺)     高野山熊谷寺(熊谷直実) 
   
熊谷直実(熊谷腰掛石と鉈捨藪跡)  熊谷直実(専定寺・烏寺)  熊谷直実(鳩居堂)  
 『アクセス』
「金戒光明寺」京都市左京区黒谷町121

市バス「岡崎道」下車、徒歩10分

『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「源平盛衰記」(5)新人物往来社

山本幸司「頼朝の天下草創」講談社 上横手雅敬「平家物語の虚構と真実」(下)塙新書
櫻井陽子「清盛と平家物語」朝日出版社 水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会 
安田元久「武蔵の武士団」有隣新書 現代語訳「吾妻鏡」(5)吉川弘文館
「昭和京都名所図会」(洛東下)駿々堂

 



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山陽電鉄「須磨浦公園駅」から緩い坂を下り、海岸沿いの国道を右へ進むと、
参道の奥に周囲を石垣に囲まれたひときわ大きな五輪塔があります。
敦盛の供養塔と伝えられ、花崗岩製で総高が4メートル近くもあり、
塔の四方には梵字が刻まれています。

また、この塔は鎌倉幕府の執権北条貞時が平家一門を供養するために、
弘安九年(1286)に建立し、「集め塚」といわれていたのが
「あつもり塚」と呼ばれるようになったともいわれています。
紀年銘はありませんが、塔の様式などから
室町時代末から桃山時代の作とされています。
中世の五輪塔としては、石清水八幡神社の五輪塔に次いで、
全国で2番目の規模を誇っています。

この供養塔は古代の山陽道(後の西国街道)に面しているため、昔は街道を
往来する旅人や参勤交代の大名までが足を止めて香花を手向けたという。


須磨浦公園駅から真っすぐ海岸へ下ります。

標識に従って右へ曲がります。

敦盛が馬を乗りいれた須磨の海。

参道の左手に敦盛そばがあります。



史蹟敦盛塚
 敦盛が討たれたところは、この付近と伝えられています。










勤王の志士清河八郎がこの地を訪れ、その日記『西遊草』に
「敦盛の墓の前に茶店2軒あり、敦盛そばを商い、蕎麦は敦盛、
面はてんかひ、あんまい義経、値段は敦盛の御年16文、
などといろいろ口やかましく呼びたてり」と記しています。

一ノ谷合戦で惨敗した平家は、多くの平家公達を失いました。
その中でも、よく知られているのが敦盛です。
潔く十七歳の生涯を終えた敦盛の最期は
あまりにも有名で、人々の哀れみをさそう名場面です。

ここで『巻9・敦盛最期の事』のあらすじを簡単にご紹介します。
一ノ谷合戦で平敦盛は、西の木戸口を守っていましたが、
その背後の急峻な崖を義経軍が馬とともに滑り降りて来て、
あちこちに放火したため、平氏軍は大混乱に陥りました。
合戦もほぼ決着がついたようです。

熊谷次郎直実は、名ある武将を探して手柄を立てたいと
闘志を燃やし、海岸の方へ馬を走らせていました。
平家の武将が沖で待つ船に乗ろうとやってくるのを討ち取るつもりです。
すると鶴を縫いこんだ直垂に、萌黄匂(もえぎにおい)の鎧を着て、
鍬形打った甲、腰には黄金作りの太刀をはき、
金覆輪の鞍を置き、連銭葦毛(れんぜんあしげ)
馬に乗った武将が沖の助船に向かって馬を泳がせています。


その華麗ないでたちから、身分ある武将に違いないと、「敵に後を見せるな。
見苦しいぞ。返せ。返せ。」と大音声で呼びとめ、扇を挙げて招きます。
武将は55~65mほど岸から離れていましたが、
何と思ったのか引き返してきました。
そして浜辺に上がろうとした武将に、熊谷は馬を押し並べ、いきなりむずと組んで、
砂浜にどうと落として組み伏せ、首を取ろうと甲を押しのけて見ると、
うす化粧にお歯黒をした16、7歳の美少年でした。

わが子小次郎と同じ年頃のこの少年を見た熊谷は激しく動揺し、
一気に子を思う一人の父親に戻り、太刀先が鈍ります。
「お助けしましょう。お名乗り下さい。」と問うと、
まず自分から名乗れといいます。「名乗るほどの者ではございませんが、
武蔵の国の住人熊谷次郎直実と申します。」その名乗りを聞いて、
このような田舎侍には名乗るまい。名乗るほどの相手ではないと思ったのか。
「さては、汝のためには、よき敵であるぞ。名乗らなくても首を取り、
人に問えばわかるであろう。」と名を明かしません。

武将の毅然とした態度に熊谷は、さてこそ立派な若武者であることよ。
この殿一人討ったとて、合戦の勝敗に変わりはなかろう。
わが子の小次郎が軽い傷を負っても動転したのに、
この殿の父親は、子が討たれたと聞けば、どれほど悲しむことであろう。

しかし後ろを振り向くと、土肥実平・梶原の軍勢が、
50騎ほどで雲霞のごとく近づいてきます。
「あれをご覧ください。お助けしたいのですが、それがしがお助けしても、
味方の軍勢が見逃しません。それならば、直実の手にかけ、
後世の供養をさせていただきます。というと若武者は、少しも動じることなく
「早く、早く首をはねよ。」と言うばかり、熊谷はあまりのいとおしさに、
刀をどこへ当てたらいいのかもわからず、しばらく呆然としていましたが、
いつまでもこうしてもいられないので、泣く泣く首を斬りました。
弓矢とる身でなかったら、このような辛い思いをしなくてよかったのにと、
涙を流しながら首を包もうと鎧、直垂を解くと、
若武者の腰に錦の袋に入れた笛がさしてありました。

熊谷ははっと思い当ります。合戦の前夜、親子で先陣を狙って、
西ノ木戸口で夜の明けるのを待っていた時、
平家の城内から管弦の音色がかすかに聞こえてきました。
あの聞きなれない音色は、この方たちだったのか。わが軍には、
東国の武者が何万人といるけれども、戦場に笛を携えるような者は一人もおるまい。
やはり、高貴な方というものは、ゆかしいことよと、ひとしお憐れに思い、
味方を押しのけてでも手柄を挙げようとする自分の殺伐とした生き方とは、
別の世界があることを知るのでした。

そして戦場という緊迫した状況においても、いっときも風雅を忘れない心の豊かさ、
命を握られながら平家の武将として誇り高く振る舞った精神の気高さは、
直実の心を強く打ちました。義経に首と笛を見せ、事の次第を報告すると、
東国の武者たちも同じように涙を流しました。『平家物語』は、
熊谷直実の出家の志が起こったのは、この時からだと語っています。

この武将は、清盛の弟の修理大夫平経盛の子で、大夫敦盛、
生年十七歳ということでした。大夫敦盛の「大夫」は、五位のことで、
まだ官職についてなかったので、無官の大夫ともいいます。
 敦盛がもっていた笛は、祖父の忠盛(清盛の父)が笛の上手であったので
鳥羽院より賜ったもので、忠盛から父の経盛に伝えられ、さらに
敦盛に譲られたものです。笛の名は「小枝(さえだ)」といいます。
世阿弥作の謡曲「敦盛」などでは、この笛を「青葉」といい、
小学校唱歌でも、「青葉の笛」と歌われています。
「敦盛最期の事」の章段は、やがて能「敦盛」・幸若舞「敦盛」を
始めとして様々な芸能の題材となりました。
特に織田信長が好んで幸若舞「敦盛」を舞ったことはよく知られています。

  ところで、逃げれば逃げきれたものを、なぜ敦盛は戻ってきたのでしょう。
後から矢を射られるとでも思ったのでしょうか。逃げようという気持ちが
薄らぎ観念したのでしょうか。それとも命より名を惜しんだのでしょうか。
NHKラジオ古典講読の講師五味文彦氏は、
「平家物語、その歴史的背景を読み解く」(2012年4月~2013年3月)
放送の中で、次のように述べておられます。
「少年ということで戦の経験が少なかったことや、助ける供がいなかった。
そうしたことから、
これが最期と観念したのではないか。」

アツモリソウの名の由来は、袋状の唇弁を持つ花の姿を、
敦盛の背負った母衣に見立ててつけられています。
母衣(ほろ)とは、後方からの矢を防ぐ武具のことです。


須磨寺(敦盛首塚・首洗い池・義経腰掛の松) 
扇塚(平敦盛の室)   金戒光明寺(熊谷堂・鎧かけ松)熊谷直実  
『アクセス』
「敦盛塚」神戸市須磨区一の谷町5丁目 山陽電鉄「須磨浦公園駅」下車西へ徒歩約5分
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社 「兵庫県の歴史散歩」(上)山川出版社
 NHK神戸放送局編「新兵庫史を歩く」神戸新聞出版センター 櫻井陽子「清盛と平家物語」朝日出版社
 水原一「平家物語の世界」(下)日本放送出版協会 別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社


 

 



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源平一ノ谷合戦で源氏に捕えられ、捕虜となった武将がいました。
かつて南都攻めの大将軍であった清盛の五男平重衡です。



山陽電鉄「須磨寺駅」前には、
「平重衡とらわれの遺跡」の碑と小さな祠があります。
昔、祠の脇には「重衡とらわれの松」と呼ばれる大きな松がありました。

一ノ谷合戦で源氏方に敗れ、ここで捕らわれの身となった重衡が
その松の根元に腰を下ろして、不運な我身を思い嘆く姿を見て、
村人が哀れみ濁酒を差し出したと伝えられています。
今は、松はなく石碑だけが昔を偲ばせています。

平重衡とらわれの松跡
寿永三年(一一八四)二月七日、源平合戦の時、
生田の森から副大将平重衡は、須磨まで逃れて来たが、源氏の捕虜となり、
土地の人が哀れに思い、名物の濁酒をすすめたところ、
重衡はたいそう喜んで、「ささほろや波ここもとを打ちすぎて
 須磨で飲むこそ濁酒なれ」の一首を詠んだ。
のち鎌倉に送られ処刑された。」(現地駒札)

『平家物語・巻九・重衡生捕の事』によると、
重衡は生田森の副将軍として戦いに臨みましたが、戦いに見切りをつけた
味方の仮武者たちは逃げ散り、主従わずか二騎となってしまいました。

重衡のその日の装束は、濃い藍色地に黄色の糸で、群千鳥を縫いとった
直垂に、上は薄紫色、裾に向かって次第に濃紫に染めた鎧を着て、
「童子鹿毛(どうじかげ)」という名高い名馬に跨っていました。

乳母子の後藤兵衛盛長は、鹿子絞りの直垂に緋縅の鎧をつけ、
重衡の秘蔵の馬、「夜目なし月毛」に乗っていました。


梶原源太景季と庄四郎高家(児玉党の武士)が、
この見事ないでたちの二騎を見て、大将軍に違いないと目をつけ、
馬を急がせて追っかけてきました。
汀には味方の船が何艘も浮かんでいましたが、敵に追い迫られて
船に乗りこむ間がなく、湊川・苅藻川を渡り、
蓮の池・駒の林(現・長田区駒ヶ林町)を左右に見ながら、
板宿(現・須磨区板宿町)・須磨と、
ひたすら西を目指して逃げて行きます。

重衡らの馬はともに駿馬、みるみる追手を引き離し逃げ切れるかと
思われましたが、梶原源太がもしやと思って射た遠矢が、
重衡の馬の後足の付け根に深々と突き刺さりました。
(百二十句本によると、矢を射ったのは庄四郎高家とあり、
混乱がみられます)
これを見た盛長は、自分の馬を召し上げられるかと思い、
馬に鞭打ち、駆けて行きます。「いかに盛長、我を捨てて何処へゆく。
約束が違うぞ。」と叫ぶ重衡の声も聞こえないふりをして、鎧につけた
平家の赤旗をかなぐり捨て、脇目もふらずに去ってしまいました。

敵は近づくし、馬は弱るし、重衡はもはやこれまでと、
海に身を投げようとしますが、あいにく遠浅のため沈みようがありません。
仕方なく鎧を脱いで自害しようとするところへ、
庄四郎高家が駆けつけて取り押さえ、源氏の陣に護送しました。
自害もかなわず捕虜の身となったことは、まことに不憫なことでした。

盛長の乗っていた「夜目なし月毛」は、本来は重衡の乗替え用の馬です。
盛長はそれを奪って、その場を難なく落ち延び、
その後、熊野法師の尾中という法橋のもとに身を寄せていました。
法橋(法印・法眼に次ぐ僧の位)の死後、
後家の尼が訴訟のために京に上った時にお供をしました。
重衡の乳母子とあって、都には盛長を知っている者が多くいました。
「重衡殿からあのように可愛がられていながら、裏切るとは恥知らずな!
主の最期の供もしないで、尼さんの供をしているよ。なんと憎いことよ。」と
あちこちで非難され、罵声をあびせられると、
さすがに、盛長も恥ずかしく扇をかざして顔を隠したということです。


古代・中世において、親族や姻戚の繋がりとは別の結びつきがありました。
養子(養女)、烏帽子親子や乳母(乳父)、乳母子(乳母の子)などです。
これらは、親族や姻戚関係と同じくらい大切なものでした。

貴人の子(養君)を養育する女性を乳母(男性を乳父)といい、
乳母は夫や家族とともに、一族を挙げて貴人の家を主君と仰ぎ、
何代にも渡って主従関係を結んできました。

乳母子にとって、主君は何よりも大切な存在であり、忠実な側近として
献身的に仕え、自分の命にかえても主を守る立場にあります。
主君にとって乳母子は、最も信頼がおける従者です。

なぜ後藤兵衛盛長が土壇場で逃げたのかは、よく分かりませんが、
自分の命が惜しかったとも、
二人の結びつきがそれほど強くなかったとも、考えられます。
どちらにしても重衡はつまらない乳母子を持ったことになります。

重衡は乳母子の裏切りという不運な目にあって捕らわれの身となり、
都大路を引き回されるという屈辱を味わうこととなりました。

平重衡南都焼討ち(般若寺・奈良坂・東大寺・興福寺)  
平重衡 受戒の地  
千手の前生誕地
平重衡と千手の前1(少将井神社)  
平重衡の墓  
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 
田端泰子「乳母の力」吉川弘文館 NHK神戸編集局・編「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター

 

 

 

 



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神戸市の石水寺境内には、一ノ谷合戦で
若くして戦死した平師盛(もろもり)の塚があります。

奥畑村の龍華山小松谷にあった塚を村内の石水寺に安置したと伝えています。

師盛は清盛の嫡男で小松殿とよばれた平重盛の五男です。
一ノ谷合戦の時、兄の資盛(すけもり)を総大将に、
有盛・忠房・師盛の小松家の公達は、三草山(兵庫県加東市)の西に陣取り、
丹波路を迂回して、一ノ谷に進む義経軍を迎え撃つ体制を整えます。

しかし義経に夜討ちをかけられ、抵抗することもできずに敗走しました。
資盛・有盛・忠房は、加古川沿いに南下、播磨国高砂から
船で屋島に逃れましたが、師盛だけは平内兵衛清家(伊勢平氏の末流)、
海老(江見)次郎盛方をともなって一ノ谷に向かい平家本隊に逃れました。

『平家物語・巻九・落足の事』によれば、乱戦の中で
備中守平師盛主従7人は、小船に乗り漕ぎ出そうとしていましたが、
平知盛の侍、清衛門公長が「それがしも乗せてほしい」と
馬を飛ばして来たので、汀に船を寄せました。静かに乗ればいいものを、
大男が鎧を着たまま、ガバッと船の中に飛び移ったので
小さな船はくるりと転覆してしまい、師盛が浮き沈みしている所に、
畠山重忠の郎党が駆けつけ、熊手で引きよせて討ちとりました。
生年14歳ということであった。とあります。

しかし塚があった場所から見て疑問が残ります。
三草山の戦いに敗れ、一の谷目ざして彷徨っている時に討たれ、
一ノ谷に帰りついて三草山の戦況を報告したのは、
平内兵衛清家、海老(江見)次郎盛方とも思われます。

法然の高弟である勢観房源智は、師盛の遺児と伝えられています。
源平の争乱が終わった時、鎌倉方による残党狩りが行われ、
平家の血を引く幼子が次々と殺されました。
どのようにして、源智が生き長らえたのかは明らかではありませんが、
厳しい平家狩りを逃れ十三歳の時、法然に弟子入りします。
法然は源智の身の安全を考えて、天台座主慈円のもとで出家得度させます。

奥畑バス停から石水寺への道順です。

まっすぐに進み、突き当りを右折。


駐車場を回って山手の方向へ進みます。





石水寺の山門をくぐると右手に師盛の墓があります。
ちょうどお参りに来られた檀家の方にお願いして、
境内に入らせていただきました。

石水寺(平師盛公塚) 
神戸市生活文化観光局(現地説明板)
石水寺は京都南禅寺の末寺で、天授元年(1375)、
悦捜宗怡(えつそうそうい)禅師によって開山された禅寺です。
平清盛公の孫にあたり、重盛公の第五子である師盛公は
寿栄3年(1184)二月五日の丹波、三草山の戦いで
源義経公に破れたあと、二月七日に一ノ谷の西城戸に落ち延びました。
この一の谷の合戦の時に従者と共に小舟で逃げようとしますが、
舟は転覆し追っ手の畠山重忠の郎党により討たれてしまいます。
この平師盛公の塚は当初、奥畑村の龍華山小松谷にありましたが、
その後石水寺に移されて長く香華を供え、今日に至っています。
境内には源平の戦死者を供養し弔ったと伝えられている
神戸市最古の阿弥陀石板仏がありますが、平成七年の大震災で倒壊し、
現在は二代目の石板仏としておまつりしています。


石水寺の前の道を右へ進むと、この寺の墓地があります。

『アクセス』
「石水寺」神戸市垂水区名谷町3115
神戸市営地下鉄「名谷駅」から山陽バス「JR・山陽電鉄垂水駅」行き
「奥畑」下車 
北東へ徒歩約10分
『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下1)」角川書店
角田文衛「平家後抄」(下)講談社学術文庫  安田元久「平家の群像」塙新書
「源平と神戸」神戸新聞出版センター 別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社

 



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源平一ノ谷合戦で、平家軍の守りは固く戦いは一進一退、
勝負は中々定まりません。
この時、義経が一ノ谷背後の急坂を攻め下り、平家陣を総崩れにさせました。
当時、大輪田泊には4、50艘の軍船が用意されていましたから、
それに逃れたら助かるのですが、荒々しい坂東武者に追い回されて
討たれる者や海に沈む者が数多くいました。
平家物語は、あちこちに逃げ散らばる平家の武者、
一人一人の痛ましい最期を描いていきます。
乱戦の中、血気にはやる平経俊は清盛の子清房・清定とともに、
わずか三騎で敵中に駆け入り、さんざんに戦い、
多くの敵を討ち取ったものの、ついに討たれてしまいました。

『平家の群像』には、「若狭守経俊は、大手の東の木戸、すなわち、
生田ノ森付近の防御陣地にいて、平知盛の配下に属していた。」と記されています。
現在、西出町の鎮守稲荷神社の境内には、
佐比江の堤から移されたという経俊の五輪塔が祀られています。
平経俊1(鎮守稲荷神社)  

竹尾稲荷神社境内には、文化文政時代の絵図があり、
経俊のもとの墓の位置が記されています。

昔、佐比江の入江は湊川総門の東側まで深く入り込んでいました。
西出町は、古くは「佐比江の入江」が入りこんだ浜辺でしたが、
江戸時代になると周辺は大きく変わります。
北前船などの廻船がさかんに兵庫津へ寄港するようになり、
佐比江は船入江として整備されて活気づき、
廻船問屋高田屋の本店は、嘉兵衛が引退するまで同町にありました。

一方、佐比江は次第に埋め立てられ、新たに町として
佐比江新地が加わり、西国街道に面した花街として賑わいを見せます。
その後も埋め立ては進み、町家が次々に建ち並び、
明治6年に佐比江新地という町名は、佐比江町と改められます。

 太平の世が訪れ、旅ブームが巻き起こると、様々な名所を扱った
名所案内記が編纂され、一般に広く普及しました。
兵庫津近辺も平家伝承に重点をおいて紹介され、
現地を訪ねる人が次第に増えていきました。

寛政十年(1798)に秋里籬島(りとう)が著した『摂津名所図会』には、
平経俊は「若狭守経基(俊)墓佐比江橋の北にあり。側に稲荷祠あり。
平相国第四の舎弟修理太夫経盛の次男なり。但馬守経政の弟にして、
無官太夫敦盛の兄なり。」と紹介されています。

 古くから大輪田泊とよばれ、瀬戸内海航路の要衝として栄えた港を
平清盛は国際港に改修し、日宋貿易の拠点を九州の大宰府から
都に近い大輪田泊に移し、直接宋との貿易を始めます。
大輪田泊は鎌倉時代以後、兵庫津として発展し、
現在の神戸港へとつながります。

当時の海岸線は、埋立てや開発によって、大きく変わってしまいました。
ここで兵庫津佐比江を江戸時代の古図で見てみましょう。




文久二年(1862)の『兵庫津絵図』(早稲田大学図書館蔵)
 下は現在の七宮交差点付近の地図です。


『摂津名所図会』は、七宮神社付近の船入江の賑わいを挿絵で紹介しています。

兵庫県教育委員会で行われた兵庫津遺跡の七宮交差点の調査では、
絵図に描かれた船入江の石垣が国道2号線の下に
埋もれていることがわかりました。
また、この船入江は、幾度も修築を繰り返しながら、
明治時代中頃まで兵庫津の重要な施設として機能していたと考えられます。

車の往来が激しい七宮交差点付近(竹尾神社側より撮影)

竹尾稲荷神社由緒
御祭神 宇迦御魂大神(うがたまのおおかみ)
創立
 文化十酉年十一月吉日(1813)及び文政元年寅六月吉日(1818)の
刻記ある石灯籠二基が奉献現存す。
よってこの頃に創建されしものと推定さる。
 明治六年八月(1873)、村社格に列せられる。
高田屋嘉兵衛翁略伝
生誕
明和6年元旦(1763)現津名郡五色町都志の産。

青年期
寛政二年(1790)二十二才にて兵庫に移り樽廻船の船子、
同四年に船頭。同七年に独立。1500石積みの辰悦丸を建造。
 北前船の一角に参入。経済的地位を高め蝦夷地に着目し、
以後経営の飛躍的発展を遂げ巨冨を得て豪商となる。

壮年期
御用船頭となり、幕府の蝦夷地政策に協力。
エトロフ島を開拓し、すぐれたる航海技術を発揮、更に漁場を開発。
享和元年(1801)、名字帯刀を御免さる。

頓に険しくなりしロシアとの紛争に一身を投げ打ち平和的解決をなし、
その能力を当時両国の賞賛の的となりむ。

晩年
文政元年郷里都志村に隠居。近隣の港湾改修などに協力。
文政十年四月五日(1827)同地にて
五十九才の生涯を閉じ、同村多聞寺に葬らる。
(現地説明板)

  
高田屋嘉兵衛顕彰碑
昭和二十八年(1953)、入江育友会立上り、入江婦人会これに呼応し、
当時の原口神戸市長題字を享け、入江小学校の校門脇に建立。
平成五年十一月吉日(1993)、当境内に移設す。
天壌無窮之碑(てんじょうむきゅう)之碑 
天地の存在する限り永く繁栄し続けるの意。

この碑は明治四十五年(1912)三月、神戸市入江小学校卒業生の記念として
大正元年十二月に建立。

平成五年十一月吉日翁の碑と共に当境内に移設(現地説明板)
『アクセス』
「竹尾稲荷神社」兵庫県神戸市兵庫区七宮町一丁目
JR「神戸駅」下車 国道2号線沿いに西へ、七宮交差点を南へ進みます。徒歩約10分。
『参考資料』
安田元久「平家の群像」塙新書 「兵庫県の地名」平凡社 「兵庫県風土記」旺文社
 「日本名所風俗図会」(13)角川書店 「源平と神戸」
神戸新聞出版センター
「神戸と平家」神戸新聞出版センター 「兵庫の街道いまむかし」神戸新聞出版センター


 

 

 

 



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