平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




六條八幡宮はもとは山田十三ヵ村の氏神で、祭神は応神天皇です。
草創の年は明らかではありませんが、寛文13年(1673)に作成された縁起によると、
神功皇后の行宮跡に後、基澄(きとう)が草庵を結び、長徳元年(995)に
村人らと宝殿を造営し、若宮八幡と呼んだのが始まりとしています。
そして丹生山田荘の領主となった六条判官源為義が、保安4年(1123)に
京都六条にあった六条左女牛(さめうし)八幡をこの地に遷して再興し、
六條八幡宮と称するようになったという。

ところが、『吾妻鏡』には、源頼朝は祖父為義のために
京都堀川の為義の六条邸の跡地を選定し、
文治元年(1185)に左女牛(さめがい)八幡宮を建立した。
さらに季厳阿闍梨(大江広元の弟)を別当職に任じ、
文治3年(1187)に平家の所領であった山田荘を
六条左女牛八幡の社領地にしたと記されているので、
(文治元年12月30日条、文治3年10月26日条)
当社の創建はこれを契機としたと思われます。

六條八幡の名は、京都堀川六条に源為義の邸宅があったため、
六条判官と呼ばれたことに由来しています。

最寄りの箕谷(みのたに)駅

六條八幡宮近くを流れる山田川







広い境内には、東から三重塔、舞殿、本殿、拝殿、薬師堂、手水舎、
社務所などが並び、鎌倉から室町時代にかけては、大いに栄えたようです。
拝殿の傍には、市の名木に指定された銀杏の大木がそびえ、

境内に建つ三重塔・薬師堂がかつての神仏習合の名残を伝えています。

舞殿

社務所、手水舎、瓦葺入母屋造の拝殿。

六條八幡宮 
鎮座地 神戸市北区山田町中字宮片57 御祭神 応神天皇
由緒 摂津丹生六條八幡宮の縁起によれば、古くは若宮八幡宮と称せられ、
昔、神功皇后紀伊の水門より難波の浦(大阪湾)務古の水門に御舟を留め給いし時、
この山田の地にしばらく行宮を営み給う所なりと伝えられている。
後、人皇60代一條院の御代に周防国大嶋郡の基澄法師がこの地に来て、
長徳元年(995年)5月、黒木の寶殿一宇を建立し、八幡三所の神霊を勧請した。
更に、人皇74代鳥羽院の御代保安4年4月(1123年)、六條判官源為義が
この山田庄の領主であった時、夢想の霊感によって六條左女牛(さめがい)の
八幡大神を京より勧請合祀し、いにしえよりの八幡宮を再造した。
これよりふたたび神徳あらわれて多くの人が崇敬し、
為義の称号をとって六條八幡宮と申奉るようになった。
なお、室町期における神仏混淆の名残りで、今も境内に
三重の塔(文正元年・1466年建立)があり、重要文化財の指定を受けている。
八幡宮の所在する東大寺領山田荘は、平清盛領越前国大蔵荘と、
永万頃(1165~1166年)交換、一時、平清盛領となるが、
平家没後、源頼朝が接収し、京都六条の若宮八幡宮に寄進されるなど、
源氏平家ゆかりの地と伝えられている。
境 内 社  
 稲荷神社 (宇賀魂命)住吉神社(住吉三神 神功皇后)山王神社( 大山祗命)
大歳神社(大歳神 高良大神)猿田彦神社(猿田彦大神)
祭  日
  1月19日  厄除祭  引目神事 
  9月第3日曜日  神幸祭  御輿渡御
  10月第2日曜日 例  祭 流鏑馬神事 神戸市登録無形民俗文化財(説明板より)





 室町中期の優美な佇まいの三重塔は、総高さ13m、
3枚の棟札とともに国の重要文化財に指定され、
この地の有力者であった鷲尾綱貞が寄進したというものです。
鷲尾家は鎌倉時代には、六條八幡の政所(まんどころ)を預かり、
室町時代には栗花落(つゆ)家とともに頭家を務める家柄でした。

鷲尾家は、現在の北区山田町東下を本家として、須磨区の白川、
同区多井畑(たいのはた)の三家があり、この一帯に勢力を張っていました。
 『摂津名所図会』には、丹生山田荘を二分するような
鷲尾氏と栗花落氏の豪壮な邸宅が描かれています。
早稲田大学古典籍総合データベース摂津名所図会より転載 (請求記号:ル04_03651_0010)


八幡神社三重塔  
重要文化財指定大正三年四月 桧皮葺、初重内部来迎柱後退
山田の歴史は、神社を中心に発展したところで、多くの文化遺産を残しています。
この塔は、五百年前の文正元年(1466年)神社の世話役であり、
地方の有力者であった鷲尾綱貞によって建てられたものです。
緑の木々を背景に、やわらかな桧皮葺(桧の皮で屋根をふく)と上層を区切る
細縁の手すりなど優美な姿を見せています。軒先の強い反(そ)りや、
上層になる程小さくなる形に時代(室町中期)の特徴が見られます。
仏教建築である塔が神社にあるのは、神仏が一体であるとの考えのあらわれですが、
明治以降は、区別され、神社にあった塔の多くは姿を消しました。
今、全国で十八、県下で三ケ所残っていますが、その一つがこれです。
神戸市教育委員会

桧皮葺の本殿

薬師堂

舞殿に神輿が据えられ、豊作を祈る秋祭り「神幸祭」の準備中です。
祭礼当日は、紺色の法被に鉢巻き姿の数十人の男たちが神輿を担いで境内を練り歩き、
最後に神輿を担いだまま山田川(志染川=しじみがわ)に入って禊を行います。
源為義の邸跡 
 源氏堀川館・左女牛井跡・若宮八幡宮 
『アクセス』
「六條八幡宮」神戸市北区山田町中字宮ノ片57 
神戸電鉄有馬線箕谷(みのたに)駅から
市バス「衝原(つくはら)」行き(111系統)乗車、
「山田小学校前」下車より徒歩約6分。バスは1時間に1本程度の運行
 または箕谷駅より徒歩約40分
『参考資料』
野村貴郎「北神戸歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター、2002年
「兵庫県の地名」平凡社、1999年 「兵庫県の歴史散歩」山川出版社、1990年
現代語訳「吾妻鏡」(2)(3)吉川弘文館、2008年 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 



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丹生(たんじょう)山の頂上にある丹生神社(祭神丹生都比売命=にふつひめのみこと)は、
創建当時丹生寺という寺院でしたが、後に明要(みょうよう)寺と改めました。
欽明天皇の三年(542)に百済の聖明(せいめい)王の王子
童男行者(どうなんぎょうじゃ)が開いたという古いお寺です。

福原遷都(1180)の時平清盛は、福原京の鎮護として丹生山を
比叡山にみたてて丹生寺を再興するとともに日吉(ひえ)山王権現を
勧請し月参りしたといわれ、土地の人は今も山王さんと呼んでいます。
清盛の信仰と庇護を受け大いに栄え、末寺を加えると
2千もの僧兵を擁したという大寺院でした。

清盛は福原から丹生山(標高514m)までの参詣道を拓き、
山頂までの参道に1町ごとに町石を建てたと伝えられています。
現在、丹生山参道には山頂までの町数を刻んだ
南北朝時代の永徳3年(1383)の銘がある町石12基が残っています。

戦国時代、三木合戦で別所長治に味方し三木城に運ばれる兵糧の
中継地点となったため羽柴秀吉の激しい攻撃にさらされ焼失しました。
塔頭の舟井坊だけは、秀吉軍側についたためのち許され復興しましたが、
往年の勢いを取り戻すことはできませんでした。
明治2年廃仏毀釈により明要寺が廃寺となったため、
鎮守社の山王社が独立して丹生神社と改称されました。



バス停「丹生神社前」近くに丹生神社の一の鳥居が建っています。
丹生山の山頂へは、この鳥居から北へ約5キロメートルあります。



鳥居の傍にたつ石碑。

麓橋を渡ります。

丹生会館

角を右に曲がったところに丹生神社宝物殿があります白壁土蔵造りの美しい建物です。

丹生寺(明要寺)の遺品を納めた丹生神社宝物殿。
室町時代後期に描かれた『明要寺参詣曼荼羅図』や
『当山景画大幅』などの宝物が所蔵されています。

地区の人々によって管理され、毎年、子供の日に開けられます。 

丹生山山頂までは、まだかなりの距離があります。

鷲尾山麓には、一ノ谷合戦に義経一行を先導した鷲尾三郎義久(経春とも)の
屋敷があったと伝えています。この合戦で義経は勝利し、
鷲尾家は戦功によって領地を与えられ栄えましたが、
秀吉の三木城攻めの時に敵対したため所領を没収されました。

太神宮の石灯篭を目印にして農道を進みます。

灯篭と鷲尾山の間の現在田んぼになっているところが邸跡です。
鷲尾山には鷲尾家の墓があります。

屋敷跡から鷲尾氏の墓所へと藍那古道を進みます。  
藍那古道は鷲尾三郎屋敷跡から藍那にかけての山道で、一ノ谷合戦の時に
義経が行軍した道といわれています。(神戸市北区山田町東下~藍那)




「鷲尾家墓所」と標された碑。

お墓に鷲尾家家紋「日の丸扇」が入っています。

丹生神社鳥居の近くには、鷲尾氏開基の曹洞宗福田寺(ふくでんじ)があります。



福田寺は室町時代まで鷲尾家の私寺として運営されてきましたが、鷲尾家衰退後、
寺の維持のために鷲尾家だけでなく近隣の檀家の寺となりました。
本堂には鷲尾氏の位牌の間があり、鷲尾氏代々の位牌が祀られています。

鷲尾氏は明治20年頃までは旧家としての格式を誇り、
昭和初期までこの地に暮らしていたという。
今は誰も住んでいませんが、お盆には岐阜の鷲尾家本家や
神戸市白川・多井畑の鷲尾家を招いているそうです。

鷲尾義久の位牌「久昌院殿義道宗本大居士」

寺の屋根には、鷲尾家の家紋「日の丸扇」が入っています。

『摂津名所図会』によると、義経から日の丸の軍扇が
与えられたことからこれを家紋にしたとしています。
鷲尾三郎義久(義経進軍三草山から一ノ谷へ)  
『アクセス』
「丹生神社一の鳥居」神戸電鉄箕谷(みのたに)駅前から
神戸市バス111系統「丹生神社前」下車すぐ
「福田寺」神戸市北区山田町東下 後ケ市12
「鷲尾氏墓所」神戸市北区山田町東東下 

『参考資料』
野村貴郎「北神戸歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター、2002年
「兵庫県の地名」平凡社、1999年 「兵庫県の歴史散歩」山川出版社、1990年
神戸新聞社編「源平50選神戸」神戸新聞総合出版センター、2004年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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多井畑厄除八幡宮から西へ約200mのところに
平家落武者と松風村雨の墓があります。
住宅地の中の少し入り組んだ場所にありますが、
所々に案内板があるので迷うことはありません。

須磨へ蟄居することになった在原行平(在原業平の異母兄)は、
多井畑(たいのはた)の村長(むらおさ)の娘「もしほ」と「こふじ」に出逢い、
「松風・村雨」と名づけて愛したといいます。多井畑には二人が水鏡として
使ったといわれている泉があり、「鏡の井」と呼ばれています。



 









石碑には👉松風村雨之墓と刻まれています。

一ノ谷合戦ではおびただしい数の武士たちが命をおとしましたが、
その名もない人々の墓を地域の人々が大切に守ってきました。
お参りにこられた地元の方にお聞きした話では、
もと13基あった墓碑が50年ほど前に1基なくなったそうです。

落武者の墓
源平一の谷の合戦(西暦一一八四年)に敗れ、この地で自害した
平家の落武者十三名の墓と今に言い伝えられています。(碑文より)





この二基の五輪塔は松風村雨の墓と伝えられ、
傍には、「松風・村雨二女之碑」と彫られた石碑が建っています。

平安時代の歌人在原行平は献歌した1首が光孝天皇のいかりにふれて
須磨に流されたといわれています。3年経って行平は都に帰ることになり、
2人の娘はやがて須磨から3㎞ほど北にある多井畑に戻って亡くなりました。

村風・村雨の墓
松風村雨の二人の姉妹は、謡曲「松風」を初め多くの文学にとりいれられ、
次のように伝説が広く世に知られています。
   在原行平は仁和2年(886年)光孝天皇の怒りにふれ
須磨の地に配流され、寂しく暮していた。その時、汐汲みに通っていた
多井畑の村長の娘”もしほ””こふじ”の姉妹をいとおしく思い、
松風、村雨の名を与え仕えさせた。 三年の歳月がたち許されて
京都に帰るとき行平は小倉百人一首で著名な
立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今かえり来む 中納言行平
 の歌を残し烏帽子、狩衣をかたわらの松の木に掛け姉妹たちへの形見とした。
   二人の姉妹はたいそう悲しんで観世音菩薩を信仰し、
行平の無事を祈っていた。後多井畑へ帰りわびしく世を去った。また、
この近くには二人の姉妹が姿を映し髪をすいたといい伝える「鏡の井」があります。
   現在でもこの伝説にちなんで行平町、松風町、村雨町、
衣掛町などの町名が残っています。令和元年六月吉日 正木勲(碑文より)

地元の方のお話によると、当時の多井畑村長のご子孫正木氏は、説明板が
風化によってだいぶ朽ちていたので、この石碑をお建てになったそうです。

十数年前に須磨を散策した時に訪れた松風村雨堂です。




松風村雨堂
松風村雨の二人の姉妹は、謡曲「松風」を初め多くの文学にとりいれられ、
次のように伝説が広く世に知られています。
  在原行平は仁和2年(886年)光孝天皇の怒りにふれ須磨の地に配流され、
寂しく暮していた。その時、汐汲みに通っていた多井畑の村長の娘
”もしほ””こふじ”の姉妹をいとおしく思い、松風、村雨の名を与え仕えさせた。 
三年の歳月がたち許されて京都に帰るとき行平は、小倉百人一首で著名な

立ち別れいなばの山の峰に生ふる    まつとし聞かば今かえり来む
 の歌を残し烏帽子、狩衣をかたわらの松の木に掛け姉妹たちへの形見とした。 
二人の姉妹はたいそう悲しんで観世音菩薩を信仰し、行平の無事を祈っていた。
後多井畑へ帰りわびしく世を去った。  また、この近くには
二人の姉妹が姿を映し髪をすいたといい伝える「鏡の井」があります。

  現在でもこの伝説にちなんで行平町、松風町、村雨町、
衣掛町などの町名が残っています。昭和46年3月
 神戸市教育委員会 須磨区役所 松風村雨堂保存会(説明板より)

謡曲「松風」と松風・村雨堂に磯馴松(いそなれまつ)
 謡曲「松風」は、宮廷歌人在原行平が須磨に流された折、
姉妹の海士女(あまおとめ)を愛した話を基に、女心の一途な恋慕や
懊悩の姿を幽玄の情趣で表現された叙情豊かな名曲である。

 須磨の浦で、いわくあり気な松を見た諸国一見の旅僧は、
海士女 松風・村雨の旧跡と聞き念仏して弔う。乞うた宿の二人の乙女は
「恋ゆえに思い乱れ世を去った松風村雨の幽霊である」と告げ、
形見の烏帽子、狩衣を着て物狂おしく舞い、妄執解脱の回向を請うと、
二人の姿は消えて、ただ松に吹く風の音が残るばかり・・・。
旧跡を訪うた旅僧の夢であった。 行平の謫居跡に彼を慕う姉妹が
結んだ庵の跡が「松風・村雨堂」と伝えられる。
別れに臨み行平が手ずから植えた「磯馴松」は堂の近くにあり、
古株のみが残って昔を語っている。謡曲史跡保存会(駒札より)

行平が狩衣をかけた磯馴松の古株が衣掛松と名づけられて残っています。
 右手の石碑には、「松風村雨堂」と彫られています。

三代目衣掛の松(きぬがけのまつ)と刻まれています。
 
2人が庵を結んで観世音菩薩を祀った観音堂 

磯馴松の古株の傍に三代目の衣掛松が青々とした葉を茂らせています。
在原行平は帰京の際に、
♪立ちわかれいなばの山の峯におふる まつとし聞かば今かへりこむ
(あなたとお別れして、私は因幡の国へ行きますが、その国の
稲羽山(いなばやま)の峰に生えている松のように、あなたが私の帰りを
待っていると聞いたなら、すぐにでも帰って来ましょう。)の和歌を添え、
形見として烏帽子と狩衣を松の木に掛けて旅立ったという。 

この和歌は、行平が38歳の時、因幡の国(鳥取県)の国司に任命され、
赴任地へ向かう際に別れを惜しんで恋人に贈った歌だとされています。
その切なさは松風村雨との別れにも通じるものがあります。 

なお、一絃琴(いちげんきん)と呼ばれる須磨琴は、
行平が浜辺に打寄せられた一枚の舟板に一本の冠の緒を
張っただけの簡単な琴をつくり、葦の茎を指にはめて
その琴を弾じながら気晴らしをしたのが始まりとされていますが、
江戸時代の前期に中国から輸入されたものともいわれています。

あちこちに散らばっていたものを集めたものでしょうか。
祠には、たくさんの供養塔が祀られています。
『アクセス』
「平家落人の墓」「松風村雨の墓」神戸市須磨区多井畑東所3
JR山陽電車「須磨駅」または、神戸市営地下鉄「妙法寺駅」
神戸市営地下鉄「名谷(みょうだに)駅」から
市バス71(一部)・72・74・88系統「多井畑厄神」下車、西へ徒歩約4分。
「鏡の井」神戸市須磨区多井畑字筋替道

「松風村雨堂」神戸市須磨区離宮前町1丁目2
山陽電鉄「須磨寺駅」から東へ徒歩約10分
 JR・山陽電鉄「須磨駅」下車
 「須磨駅前」バス停から市バス75系統「村雨堂」下車すぐ
『参考資料』
「兵庫県の歴史散歩(上)」山川出版社、1990年
NHK神戸放送局編「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター、2008年
「兵庫県の地名」平凡社、1999年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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