平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




白峯寺は黄峯・白峯・赤峯・青峯・黒峯からなる五色台連峰の西端に位置する
白峰山(標高三七七m)の山頂北側にあります。
弘法大師空海を開祖とし、のち空海の甥にあたる智証大師円珍が山中の霊木を
千手観音像に刻み
本尊としたと伝えられています。古くより霊山として
信仰されていましたが、
寺名が広く知られるようになったのは、
崇徳上皇が鼓ヶ岡の御所で没し、寺の裏山に墓所が
営まれて以後のことです。

讃岐では早くから崇徳上皇を慕う地元の有力者によって、上皇の供養が行われ、

鎌倉初期には、源頼朝が万基の石塔を奉納したことが寺伝に見えます。
再三火災にあい、室町時代には、
管領細川氏の手によって堂宇の修理が行われ、
現在の建物は慶長4年(1599)に
讃岐領主生駒親正が再建したものです。
江戸時代には、高松藩初代藩主松平頼重が寺領を寄せ
寺の保護に努めました。
以後、松平氏の尊崇厚く寺殿の改修復興を行っています。

白峯御陵石段下から白峯寺へと続く道




御陵から青海神社へと下る参道は、西行の道として整備され、
道の両側には、西行・崇徳上皇などの歌碑がたち並んでいます。





境内入口の七棟門は、左右に2棟の塀を連ねた
高麗形式の七つの棟をもつ珍しい堀重門です。

この門から参道を進むと正面に護摩堂があります。



七棟門から左に進むと、後小松天皇から賜った勅額が架かる勅額門が建っています。

勅額門の前方にあるケヤキの木は、玉章木とよばれています。



勅額門は頓証寺(とんしょうじ)の随身門であり、左右に保元の乱で
崇徳上皇を守った源為義・為朝父子の武将像が置かれていました。
現在はお遍路さんの足の無事を祈る大わらじが掛けられています。


勅額は模刻で、実物は宝物館に収蔵されており、

国の重要文化財に指定されています。

頓証寺は頓証寺殿とも呼ばれ建久2年(1191)、崇徳上皇に近侍していた
阿闍利章実が鼓岡の木の丸殿を移建して上皇の霊を
祀ったのが始まりとされ、
木の丸殿の跡地に、それに代わるものとして社を建てたのが鼓岡神社とも伝えています。

鎌倉・室町時代には白峯陵・頓証寺に対する崇敬が高まり、
頼朝は備中妹尾郷、後鳥羽院は丹波国栗村庄、備前国福岡庄を寄進しています。
現在の建物は頓証寺・勅額門とも高松藩主松平頼重再建といわれています。
京都御所紫宸殿の様式を模して庭前には、
右近の橘と左近の桜が植えられています。
頓証寺の裏には崇徳上皇の御陵があります。


頓証寺の前に立つ相模坊は、日本五天狗のひとつで讃岐では金比羅山の金剛坊、

八栗山の中条坊とともに讃岐三天狗といわれています。
謡曲『松山天狗』『雨月物語』等には
崇徳上皇の守護神として登場します。
頓証寺の左手には白峯御陵遥拝所があり、傍らに西行法師石像があります。



崇徳上皇御陵遥拝所

濱千鳥あとは都にかよへども 身は松山に音をのみぞなく






西行が白峯に詣で、負いを木に掛け祈り終わった時、
御廟が振動したと記されています。

西行像は文政の頃に後人がこれを偲んで「西行腰掛石」と伝えられる
石上に安置したもので、
傍らにはサヌカイトに刻まれた西行の歌碑があります。

よしや君 昔の玉の 床とても かゝらん後は 何にかはせん
『保元物語』には、白峯御陵に詣でた西行が鎮魂の歌を詠んだ物語が載せられています。
西行白峯詣でのことは、謡曲『松山天狗』『雨月物語』など
室町時代以後の文学の題材となっています。

勅額門の手前から右に折れて石段を上ると、
本尊千手観音を祀る本堂や大師堂などの堂宇が並んでいます。

大師堂
白峯寺は四国霊場八十八ヶ所の第八十一番札所で、

御詠歌は「霜さもく露白妙のてらのうち 御名を称ふる法のこゑごゑ」

本堂

白峯寺から車道に出て少し下ると、杉木立の中に二基の十三重石塔が石柵を巡らせています。

ともに国指定の重要文化財で、崇徳上皇の供養塔とされています。



鎌倉時代中期と末期建立の十三重石塔で、東塔は弘安元年(1278)、
西塔は「元亨四年(1324)、金剛佛子」の造立銘があり、時期的な齟齬が生じますが、
源頼朝が建てた万基の供養塔の一部ともいわれています。
この塔の上方は塔ノ峯ともいい、
無数の各種石塔が埋もれています。

白峯寺からゆるやかな勾配の山道を一時間ほど下ると 高屋バス停に至ります。

途中、瀬戸内海の雄大な景色が手に取るように望めます。

現在は埋め立てられていますが、二つのおむすび山の麓には、
崇徳上皇が上陸した松山の津がありました。
白峯寺に残る古い絵図には、白峯の断崖に波が打ち寄せて、
松山の津という入り江を作っていた図柄が描かれ、当時はこの辺まで
瀬戸内海の青い海だったことを物語っています。




高家神社まで下りるとバス停はもうすぐです。

高屋バス停

『アクセス』
「白峯寺」坂出市青海町 
坂出駅から琴参バス王越線「高屋」下車2.5キロ 徒歩約1時間
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59
 日本古典文学大系31「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48
 郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
竹田恒泰「怨霊になった天皇」小学館文庫、2012年
 



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長寛二年(1164)八月、四十六歳で亡くなった崇徳上皇は、都からの検視の後、
白峯に送られ荼毘に付されました。

都から遠く離れた地の御陵であったため、江戸時代には荒れていましたが、
初代高松藩主松平頼重、五代頼恭(よりたか)、十一代頼聡(よりとし)らにより
修復が重ねられ、参拝口を現在の南面に改めるなど今日見るように整備されました。
ちなみに歴代天皇の御陵でこのような地方にあるのは、
淳仁帝の淡路陵、安徳帝の下関阿弥陀寺陵、白峯陵の三陵だけです。







御陵は長い石段の先にあります。

西行がもうでた時には、そこらあたりの民人の墓よりも深く草におおわれ、
柵がめぐらせてあるだけの御陵であったと、
『撰集抄(せんじゅうしょう)』『長門本平家物語』に記されていますが、
そんな時代はとうに過ぎ去り、石の
玉垣を巡らせた立派な御陵です。

前面の石灯籠は、源頼朝が為義、為朝のために奉納したものといわれています。
下段の灯篭には、宮内省奉献のもの二基、
高松藩主松平頼重、同頼恭奉献のものが二基あります。


崇徳院の墓所が白峯であることを記した最初の史料は西行の『山家集』です。
「白峯と申す所に御墓の侍りけるにまゐりて」という詞書をもつ
「よしや君昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせん 」
(かって都で就いておられた玉座でさえ、亡くなられた後では何になりましょうか。
どうか憂き世のことは早く忘れ、安らかに眠って下さい。)と詠んでいます。

これは崇徳院が昔、寝所を「玉の床」と詠んだ
「松が根の枕も何かあだならん 玉の床とて君の床か」
(松の根を枕とする旅寝も、何がはかないことがあろうか。美しく飾った
床であったとしても、この無常の世に常に変わらぬ床といえようか。)を踏まえ、
かつて院は「玉座」が永遠のものでないとお詠みになっていたではありませんか。
と西行は「よしや君…」と返し、悲嘆にくれます。

西行鎮魂絶唱の歌碑。

「瀬を早み岩にせかるゝ瀧川の われても末にあはんとぞ思ふ」

激しい恋の歌ですが、譲位後まもなくの作であることから、崇徳院の
皇統がいつか日の目を見ることを願って詠まれたようにも思われます。

「濱千鳥跡は都に通へども 身は松山に音(ね)をのみぞなく」
(私の筆跡は都に送っても、身は讃岐の松山で偲び泣くばかり。)
この歌は五部大乗経を送った時のものだといわれ、望郷の念にあふれています。

西行の白峯詣の話は『保元物語』にも見え、のちに謡曲『松山天狗』や『雨月物語』
『椿説(ちんせつ)弓張月』などの近世文学の題材となって広く知られました。

「仁安三年の秋は、葭(あし)の花散る難波を通り、須磨明石の浦を吹く風が
身に沁みつつも、旅寝の日を重ねかさねて讃岐の真尾坂(みおさか)の森かげに
暫く杖をとどめた。
この里近くに崇徳院の御陵があると聞き、もうでようと
十月の始めごろにその山に登った。松や柏は奥深く茂りあい、晴天の日でさえも、
絶えず小雨がそぼ降るようである。稚児ヶ嶽という険しい峰がうしろにそびえ立ち、
千尋の谷底から立ち昇る雲や霧は、目の前がはっきりと見えなくなるような
不安な気持ちにさせる。木立のほんのわずか空いている所に、高く盛り土がしてあり、
その上に石を三段に積み重ねたのが、うばらかずらに埋もれてうら悲しい。」と、
西行が白峯御陵にもうでたところから上田秋成の『雨月物語』白峯は展開します。

西行の前に上皇の霊が現れ、わが子重仁親王が即位できなかったことを盛んに訴え、
保元の乱の正当性を主張します。それを批判する西行との間に壮絶な議論が交わされたあと、
上皇は魔道に落ちたあさましい姿を現し、現世では晴らせなかった仇敵への怨念と
復讐の念を語りますが、西行が安らかに鎮まってほしいと詠んだ
「よしや君…」の歌に、崇徳上皇の霊も怒りの表情を和らげやがて姿を消します。

『雨月物語・白峯』が描きだした崇徳院の霊のさまは、「朱をそそいだお顔に、
櫛削けずらぬ髪が膝まで乱れ、白まなこを吊り上げ、熱い息を苦し気に
ついておられる。御衣は柿色の古くすすけたのを召して手足の爪は獣のように
長く伸び、さながら魔王の形相、あさましくも恐ろしい」というものでした。
ただ江戸時代の上田秋成は、歴史上の敗者である崇徳上皇の怨霊伝説を
小説風に書いたのであって、本当の上皇の姿を伝えるものではありません。

滝沢馬琴は『保元物語』の為朝を主人公にした『椿説弓張月』を著し、保元の乱の際、
崇徳院方に馳せ参じ、奮戦した
為朝を崇徳院の墓前で自害させています。

源為朝(1139~70)は源為義の八男で、鎮西八郎為朝ともよばれ、
身の丈七尺ほど(210cm)で、弓を引く左手が右手よりも4寸(12cm)ほど長く、
生まれながらの弓の名手でした。武勇伝の多い為朝は幼少より勇猛な武者で、
もてあつかいに困った父の為義は、為朝が13歳の時に九州の豊後国に追いやると、
為朝は自ら「鎮西総追捕使」と称して九州地方の武士を傘下にいれようと奔走し、
三年の間に菊池氏原田氏などの城を破り、九州を平らげてしまいました。
しかしこうした行為は受け入れられず、為朝に出頭の宣旨が出されましたが、
応じなかったため、父為義が検非違使の職を解官されてしまいました。

そこで為朝は弁明のため上洛したところを保元の乱に巻き込まれ、
父とともに崇徳上皇、藤原頼長が籠る白河北殿に参陣しました。
為朝は後白河天皇方の高松殿の夜討ちを提言しますが、
頼長に「正々堂々と戦うべきである。」と一言のもとに退けられます。
天皇方では為朝の兄義朝の夜襲策が取りあげられ、上皇方は機先を制せられた
形となりましたが、天皇方の数をたのんだ軍勢が為朝の活躍に手こずった様子が
『保元物語』に記されています。為朝の強弓に手を焼いた義朝は火を放ち
白河北殿は炎上し、合戦はあっけなく幕を閉じました。
為朝は東山の如意山まで上皇や父らとともに逃げ、そこから一行と離れて
近江国に隠れ住んでいましたが重病にかかり、湯屋で療養していたところ、
不意をつかれて生け捕りにされ京に送られました。

死罪になるところをこのような勇士を殺すのは惜しいとされ、二度と弓が
引けないように左右の肘の筋を切られて伊豆大島へ流罪となりました。
しばらくして肘の傷が癒えると、島の代官の婿となって伊豆七島を従えて
猛威を振るいました。困った伊豆介狩野茂光は後白河院に訴え、
動員された武士たち五百余騎が軍船に乗り込んで大島へ押し寄せました。
沖のかなたに軍船の群れを見た為朝は、もはやこれまでと自害し一生を終えました。
こわごわ上陸した官軍は、まるで生きているような為朝の姿に、
誰一人近寄ることができません。ここに加藤次景廉(かとうじかげかど)が
長刀をもって後ろより狙いを定めて為朝の首を討ち落としました。

為朝に責められた原田氏はのちに平氏に従い、九州平家軍の中心的存在となり、
原田種直は平家一門都落ちに際し、安徳天皇をその城に迎えています。
為朝の首を討った加藤次景廉は、これより十年後、頼朝挙兵の際、頼朝から長刀を賜り、
伊豆国目代山木兼隆の首級をあげ、緒戦を飾ります。奥州合戦でも奮戦し、
恩賞として頼朝から美濃国遠山荘の地頭職を与えられ、子孫は遠山姓を名乗り、
江戸の名奉行として知られる遠山金四郎景元はその子孫にあたります。

『椿説弓張月』は、「為朝は大島で死んだのではなく、追討軍の手を脱して
琉球に上陸したとし、その頃、琉球では怪僧曚雲(もううん)が国政をほしいままにして
民衆を苦しめていたので、
為朝は曚雲らを成敗し、わが子舜天丸(しゅんてんまる)が
琉球王になったのを見届けてから琉球を去り、讃岐白峯の崇徳院の墓前で切腹しました。後世、
この話を聞いた人々は為朝が崇徳院の導きで生きながら神となって日本へ帰り白峯陵の前で、
遅ればせながら殉死したに違いないとその心ざしの深さに感動した。」と記しています。
九州・伊豆諸島・琉球・四国と物語が展開する途方もなくスケールの大きい為朝英雄譚です。

「讃岐院眷属をして為朝をすくう図」歌川国芳画。

『椿説弓張月』中の一場面を描いたものです。
清盛を討つため、九州から船出し嵐に襲われた源為朝父子は、讃岐院(崇徳院)の眷属である
烏天狗と為朝のために忠死した家臣の魂が乗り移った大鰐鮫(わにざめ)に救われます。

室町時代作といわれる『松山天狗』は西行が讃岐国松山の崇徳院の墓を詣でた夜、
山風が吹き、雷鳴がとどろく中、天狗どもが飛翔し、魔道に徹し怨念の権化となった
崇徳院のおどろおどろしたすさまじいありさまを見事にうたいあげています。
『アクセス』
「白峯陵」坂出市青海町 坂出駅から琴参バス王越線「青海」下車 徒歩約1時間5
または坂出駅から琴参バス王越線「高屋」下車2.5キロ 徒歩約1時間
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 
 別冊太陽「西行 捨てて生きる」平凡社、2010
 日本古典文学大系31「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年 
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年 
「源平合戦人物伝」学習研究社、2004年 平岩弓枝「私家本
椿説弓張月」新潮社、2014
 
上田秋成作・円地文子訳「日本古典文庫20 雨月物語」河出書房新社、昭和63
 白洲正子「西行」新潮文庫、昭和63年 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年
「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年 

 


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西行が四国へと旅立ったのは、崇徳上皇が崩御して四年後の仁安三年(1168)十月のことでした。
上賀茂神社に詣で旅の安全を祈願した後、讃岐に向かいました。松山の津に着いて、
雲井の御所、鼓ヶ岡の御所を訪ねた時には、上皇の遺跡はもはや跡形もなくなっていました。
そこで西行は「松山の波のけしきはかはらじを かたなく君はなりましにけり」
(松山の波の様子は昔と少しも変らぬというのに、上皇がおられた跡だけは
すっかり変わってしまい、なくなってしまいました。)
「松山の波に流れて浦舟の やがてむなしくなりにけるかな」
(松山の津の波に流されてきた上皇は、帰京の願いも空しくそのままこの地で
亡くなられたのですね。)と
詠み、運命の変転に悲嘆にくれながら、白峯の御陵へと先を急ぎます。
『撰集抄』には、
「白峯というところ尋ねまわり侍りしに、松の一むら茂れるほとりに杭まわしたり、
これなん御墓にやと掻き暮らされて物もおぼえず…」とあり、当時のお墓の荒廃ぶりを記しています。
西行が白峯御陵を訪れたときに通ったとされる青海(おうみ)神社から
白峯御陵までのおよそ1.34キロの参道が平成15年(2003)に整備され、
「西行法師の道」と名づけられています。道沿いには崇徳上皇と西行らの歌を
刻んだ八十八基の歌碑と石燈籠九十三基が設置されています。




西行法師のみち整備促進協議会の碑 最高顧問梅原猛 会長鎌田正隆
西行法師のみち整備事業寄進者芳名の碑

 悲運の上皇の魂(みたま)鎮めの「鎮魂の碑」

おもひきや身を浮雲となりはてて 嵐のかぜにまかすべしとは 崇徳院(保元物語)」
(自分は今、つよい風のまゝに流される浮雲のようです。
んな境遇になるとは思ってもいませんでした。)

「ほととぎす夜半に鳴くこそ哀れなれ 闇に惑ふはなれ独りかは 崇徳院(今撰集)」
(闇夜に鳴き惑うほととぎすの声は、本当に哀れで淋しいものです。
も、ほととぎすよ、それはお前一人ではありません。)

「憂きことのどろむ程は忘られて 覚めれば夢の心地こそすれ 崇徳院(保元物語)」
(うとうととする間はつらいことを忘れられますが、
ねむりから覚めると夢のように思われます。)


西行法師の道には、830段もの石段があります。宮廷歌壇の中心的存在であった上皇と
和歌で親交のあった西行は、青海神社からまだ道のない険しい山肌を御陵へと辿ったようです。


稚児ヶ岳下の展望台。



「思ひやれ都はるかに沖つ波 立ちへだてたる心細さを 崇徳院(風雅和歌集)」
(遥か遠く海を隔てたここ讃岐にいる私は大変心細く思っています。
この気持ちをどうぞ察してください。)
都から遠く離れた讃岐で
ひっそりと暮らす心細さが感じられます。


崇徳上皇が荼毘に付された稚児ヶ岳。白峯御陵の北方にあり、
三十㍍余の絶壁に滝がかかっています。





怨霊として恐れられていた崇徳上皇が西行の歌によって鎮魂されたという伝説は、
鎌倉中期にはあったようで、『保元物語』に記されています。これをもとに、
謡曲『松山天狗』、江戸時代には上田秋成が『雨月物語』の巻頭「白峯」で、
西行が上皇の霊と問答したと語っています。その怨霊の象徴となるのが、
海に投げ入れられた奥書に血書の誓状のある「五部大乗経」です。


『保元物語』によると、「崇徳上皇は弟の後白河天皇による
讃岐配流という厳しい措置を深く恨みながらも、この世の人生は失敗したが、
せめて後生菩提のためにと、配流地で指先を切った血を混ぜ、
五部大乗経の写経を行いました。完成した写本を都に送り、京に近い
八幡の石清水八幡宮か鳥羽の安楽寿院に納めてほしいと書いて、
仁和寺の弟覚性法親王のもとに送りました。この時、望郷の念をしたためた
「浜ちどり跡は都へかよへども身は松山に 音 ( ね ) をのみぞなく」の歌を
経典に添えたとされています。覚性は兄の悲痛な思いを理解し、
後白河天皇に経典奉納を願い出ましたが、後白河の側近藤原信西の指図で
この願いは聞き入られず写本は送り返されてきました。信西がこの経典には
不吉な願文が込められているかも知れないと忠告したため、叶わなかったのです。

これに激怒した上皇は髪の手入れもせず、爪も切らず、生きながら天狗の姿となり、
『日本国の大悪魔となり天皇家を民とし民を皇にする。』と呪いの言葉を書き、
自身の舌を噛み切った血で写本に署名し海底深く沈めた。」と記されています。
上皇の天狗化・怨霊化の背景には、このような事情があったのです。
世間で崇徳上皇の怨霊が取りざたされるようになるのは、上皇の死後十三年目、
西行の白峯参拝からは九年目にあたる安元三年(1177)の頃からです。

信西に受け取りを拒否され、上皇によって海底に沈められたと『保元物語』が
語る「
五部大乗経」は、実はひそかに仁和寺の元性(げんしょう)法印の
もとに届けられていたことが、吉田経房の日記『吉記』の記事で判明しました。
その寿永二年(1183)七月十六日条に、「崇徳院が讃岐で書写した五部大乗経は
崇徳院の第二皇子である元性法印のもとにある。その経典の奥書には
『天下を滅ぼすために書く』との文言が書きつけてある。」と記されています。
これが公表されたのは、平家一門が都落する頃で、当時の世情不安を
背景に人々を恐怖に陥れました。『保元物語』が成立したのは、
崇徳院が怨霊として世間に認識されて以降です。作者は『吉記』をもとにして、
血書経に関する記事を大幅に脚色して載せたと思われます。

五部大乗経が元性法印の手元にあったのだとすれば、元性と親しくしていた
西行は、早くから知っていたと思われます。西行がことのほか寒い日々を
高野山で過ごしていたころ、元性から寒さをしのぐ小袖を贈られ、
「今宵こそ あはれみ厚き 心地して 嵐の音を よそに聞きつれ」詠んだ歌が
『山家集916』に収められています。承安元年(1171)頃、元性が西行に倣って
高野山に移り、庵室を構えたことからも二人の関係の深さがうかがわれます。
「法印」とは僧侶の最高の位階を表し、法印大和尚を略して法印と言います。
山田雄司氏は『怨霊とは何か』の中で、「当時、『吉記』以外にこの経典について
記したものがないことから、この経は実在しなかったか、あるいは捏造されたもので、
『保元物語』は経を海中に沈めたことにして、経が現存しないことと整合性を
保とうとしたものと思われる。上皇は怨霊や血書の経とはまったく関係なく、
怒りに荒れ狂うこともなく、極楽浄土に導かれることを望みながら、
静かにあの世へ旅立たれた。」という見解を述べておられます。

西行は上皇が讃岐へ流されると深く悲しんで数多くの歌を送り、
仏道修行に専念することをしきりに勧めています。その中に、生前の上皇が
すさまじい怨念を抱き、それを西行が憂いていたことがうかがわれる歌があります。
「まぼろしの夢をうつつに見る人は 目もあわせでや世をあかすらん 山家集1233」

西行は上皇を心から敬慕し、上皇の不幸な運命や境遇に深い同情を寄せながらも、
この世で遂げられるかどうかわからないような幻の夢を見た人は、
後世安楽を願いつつも、眠られない夜を過ごすのでしょう。と
つき放したような冷淡とさえ思える歌を送り、配流されたことを契機に
現世の執着を捨て、仏道修行に打ち込んでほしいと説いています。

『保元物語』が語るところでは、崇徳上皇が配流先の讃岐へ出発した後、
後白河天皇方が上皇の烏丸御所の焼け残ったところを調べると、
上皇が日ごろ夢見た夢想の記が文庫に入れてあり、そこには
重祚(一度退位した君主が再び即位すること)のお告げが記されていた。」
こうして西行は生前の上皇に対しては、ひたすら仏道修行に励むことを願う
和歌を送り続け、死後にはその霊を慰めるため墓所を訪れることになります。
『アクセス』
「西行法師の道」青海神社から徒歩約50分。「青海神社」坂出市青海町759
 坂出駅からバスで約30分琴参バス王越線「青海」下車徒歩約15

歌碑とその解説が書いてある「西行法師の道」は、
JR坂出駅構内の坂出市観光協会でいただきました。
『参考資料』
佐藤和彦・樋口州男「西行」新人物文庫、2012年 
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書2014 
吉本隆明「西行論」講談社文芸文庫、1990年 高橋英夫「西行」岩波新書、1993
「西行歌枕」(株)マガジン・マガジン、2008年 別冊太陽「西行 捨てて生きる」平凡社、2010年
日本古典文学大系31「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48






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JR四国坂出駅前。



坂出駅前から青海(おうみ)行きのバスに乗り、高家神社と青海神社をたずねます。

都からの指示で、崇徳上皇の遺骸は白峰山へ葬ることになり、
長寛2
年(1164)9月16日、葬送の列は八十場の清水を出発しました。途中、
高屋村まで来たとき、にわかに風雨雷鳴があり、しばらく棺を台石の上に置くと、
その石に棺から血が流れ出たため村人は畏れ、葬式を終えてから境内に石を納め、
上皇の神霊を合祀しました。以来、高屋村の氏神である高家神社は
血の宮ともよばれ、棺の台石はいまも境内に保存されています。
棺から血がこぼれでたということは、暗殺を示唆しているようにも思われます。

高屋バス停(青海バス停の3つ手前)から、新四国曼荼羅霊場第14番
観音寺の案内板を目印に進みます。高家神社は白峰山の上り口にあたり、
御陵は左手の道を辿った山上にあります。



高家神社の祭神は、天道根命(アメノミチネノミコト)
崇徳天皇 待賢門院の三柱です。





山門を入ると手水舎、拝殿があります。

台石は拝殿背後に安置されています。

高家神社からは、二つ並んだおむすび山、
雄山(おんやま)と雌山(めんやま)が間近に見えます。
かつてこの山の東麓には、四方を打ちつけた屋形船で
護送されてきた崇徳上皇が上陸した松山の津がありました。

9月18日戌の刻(午後8時ごろ)、遺体は白峰山の西、稚児ヶ嶽で荼毘に付されましたが、
魂は都に帰りたかったのか、火葬の煙は天にのぼらず、都の方になびき、
かたまりとなって動かなかったといいます。これを見た当時の春日神社神官
福家安明が煙の下りたところに社を建て、上皇とその生母待賢門院の霊を
祭祀したのが青海神社の始まりとされ、その後、この社は青海村の氏神として
村人に手厚く祀られています。社は稚児ヶ嶽の麓にあり、煙の宮ともよばれ、
西行法師の道のスタート地点にもなっています。遺骨は白峯寺の近くに
埋葬されましたが、御陵は石を積んだだけの粗末なものだったようです。


青海バス停から白峰山麓にある青海神社をめざします。

鳥居が遠くに見えます。











平成11年「西行白峯のみち」(遊歩道整備促進協議会)発足
平成16年1月竣工 会長鎌田正隆



青海神社拝殿。

うたたねは萩ふく風におどろけど 長き夢路ぞさむる時なき 崇徳院(新古今1804)
(うたたねは萩を吹く風の音にはっと目覚めたけれども、
長い夢のような迷いの世界からは覚めるときがないよ。)


崇徳天皇は悲劇の帝でした。白河上皇の意向により五歳で即位しましたが、
最大の後ろ盾であった上皇が崩御し、父鳥羽院が院政を始めると情勢は一変しました。
鳥羽院は美福門院との間に儲けた体仁(なりひと)親王を天皇にするため、
祖父(白河上皇)の子と噂のある崇徳天皇に強く譲位を迫りました。
その近衛天皇が若くして死去するや呪詛の疑いをかけられ、わが子重仁親王の
即位を望む崇徳上皇の願いは無視され、皇位は弟の後白河天皇に移り、
皇太子にはその皇子守仁親王(二条天皇)が立ちました。

崇徳上皇は今様に熱中し、即位の器とはほど遠い29歳にもなった弟の
雅仁(まさひと)親王がまさか天皇になるとは思ってもいませんでしたし、
鳥羽院の第4皇子として誕生した後白河天皇にしてみれば、
期待もしなかった天皇の座が転がり込んできたことになります。
28年にわたり院政を展開した鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇と
同母弟後白河天皇の決裂は決定的となり、追い詰められた上皇は
兵を挙げるも失敗し、讃岐配流という厳しい措置となり、
二度と都の土を踏むことなく不遇の生涯を閉じました。

わが子を天皇にしたいと弟と争って敗れた崇徳院。
荼毘に付され、長い悪夢から覚めることができたのでしょうか。
『アクセス』
「高家神社」坂出市高屋町878 坂出駅からバスで約20
琴参バス王越線「高屋」下車徒歩約8
「青海神社」坂出市青海町759 坂出駅からバスで約30
琴参バス王越線「青海」下車徒歩約15

平成28年3月、坂出駅前から「青海」行のバスに乗り、
青海神社から西行法師の道を辿り、御陵と白峯寺を参拝し、
帰りは白峯寺から高家神社まで下り、
バス停「高屋」から坂出駅行のバスに乗りました。
(バスの本数が少ないのでご注意ください。
坂出駅か観光センターで、バスの時刻表やレンタサイクル、
乗合タクシー情報などが満載の小冊子
「坂出市公共交通マップ」がいただけます。)
『参考資料』
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8 
 元木泰雄「保元平治の乱を読みなおす」日本放送出版協会、
2004
 
「香川県の地名」平凡社、1989年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998
 新潮日本古典集成「新古今和歌集」(下)新潮社 、昭和63年
 久保田淳「新古今和歌集 全注釈六」角川学芸出版、平成24





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崇徳上皇が長寛二年(1164)八月二十六日、京都よりつき従ってきた
重仁親王の母、兵衛佐(ひょうえのすけ)局たちに看とられながら、
46歳の生涯を終えると、国司は崩御の報告をし、遺体の処置を
どのようにするか都からの指示を待ちました。沙汰が下るまでの二十日間、
まだ暑さが厳しく遺体を冷水に浸し、腐敗を防いだといわれています。
その水は八十場(やそば)の清水とよばれ、今もこんこんと涌き続けています。
遺体をこの清水に浸しておいたところ、毎夜この辺りから神光が輝いたため、
二条天皇の命でその場所に社殿を建て、神霊を鎮めました。
これが白峰宮の起こりとされています。

JR予讃線八十場駅から、ゆるやかな坂道を上って金山麓の白峰宮へ。

途中に崇徳上皇が愛でたという岩根の桜があります。







やがて両側に袖鳥居を持つ「三つ鳥居」と呼ばれる珍しい様式の
どっしりとした風格ある構えの鳥居に迎えられます。
上皇が亡くなったとき、この辺は「天皇」と呼ばれていました。
地名が寺名「
天皇寺」の由来となっています。



二条天皇によって建てられた社は、
崇徳天皇社・崇徳天皇社明の宮などとよばれ、
摩尼珠院(まにしゅいん)が別当寺となりました。摩尼珠院は空海が
八十場の泉の辺りで、霊感を得て、本尊の十一面観音像と阿弥陀如来、
愛染明王像の三像を刻み、堂を建て安置したのが始まりとされています。
崇徳上皇が崩御した際、この寺に一時遺体を安置したという縁により、
崇徳天皇社の別当寺を長い間務めました。

明治の神仏分離令により崇徳天皇社は白峰宮となり、
摩尼珠院(まにしゅいん)は廃寺となり、四国八十八ヶ所の第79番札所は、
現在の金華山高照院(こうしょういん)天皇寺に引き継がれました。
境内は3300平方㍍あり、当時の神仏習合を象徴するように、
参道の奥に白峰宮、参道の両側に天皇寺という配置になっています。



白峰宮

上皇の遺体が荼毘に付されるまで、毎夜この辺りが
光で照らされていたため、明の宮(あかりのみや)とも呼ばれています。
歴代天皇の尊崇が篤く、高倉天皇は稲束千束を納め、
源頼朝は稲束を捧げ社地を安堵し下馬の碑を建てました。
後嵯峨天皇(在位1242~46)が社殿を修築し、
宸筆の御願文と社領250石を寄進したことが社伝に見えます。

白峯寺縁起には、白峰宮について「野沢の井辺りに社檀を構え、
天王の社と申侍り、正面門客人には、為義・為朝父子の像をつくりたり」と
記していますが、戦国期には堂塔伽藍が兵火にかかって焼失し、
この父子の武将像は現存していません。

参道を振り返ると、お遍路さんの姿が目に入りました。
御詠歌は「十楽の浮世の中をたずねべし天皇さえもさすらいぞある。」

天皇寺の本堂

大師堂

天皇寺から道路を隔てた
八十場の清水へ。

八十場の清水は天皇寺境内の西方にあります。

この泉には、次のような伝説があります。景行天皇の御代、瀬戸内海の大きな悪魚
(海賊だといわれています。)を征した日本武尊の皇子、讃留霊王(さるれおう)と
その88人の兵士が悪魚の毒にあたって倒れましたが、この泉の水を飲んで
全員甦ったといい、八十甦(やそば)の水、八十八場の水とよばれるようになりました。
別名野沢井ともいわれ、金山の地下水が豊富に湧き出し長い間飲み水として使われ、
現在、八十場水ほとりの茶店トコロテンの冷し水にも利用されています。
なお、讃留霊王は古代豪族綾氏の祖とされています

野澤井は崇徳上皇の遺体を棺に納めたまま
一時安置した殯斂(ひんれん)の地です。

崇徳上皇が没した時、朝廷は埋葬の場所を指示しただけで、葬儀は国司に任せ
一切関与しませんでした。そればかりか、後白河院は崇徳上皇を反逆者として扱い、
喪に服することさえしていません。後白河院が崇徳上皇を弔うようになった
最初のきっかけは、安元二年(1176)に次々と後白河院の近親者が亡くなったことです。

保元の乱は上皇と天皇の政権争いに武士が参戦し、これを契機に平治の乱が起こり、
源平争乱と続き、時代は武士の世の中へと移っていきました。折しもこの頃、
天変地異がうち続き、こうした世情不安の原因を貴族たちは崇徳上皇の
怨霊によるものとして恐れました。そこで怨霊を鎮めるため、
崇徳上皇の名誉回復が図られます。崩御の段階では、「讃岐院」という呼び名でしたが
安元三年(1177)八月、崇徳院と改め、引き続き成勝寺で法華八講を行います。
成勝寺は院政時代、天皇・上皇・女院たちが建てた六つの寺、六勝寺の一つで
崇徳天皇の御願によって建てられた寺院です。法華八講とは、法華経八巻を
八回に分けて講議する法会で、当時天皇の忌日に供養のため盛んに行われていました。
寿永三年(1184)四月には、保元の乱の古戦場であり、崇徳上皇の御所があった
春日河原に神祠・粟田宮(現京都大学医学部付属病院)が建てられるなど、
怨霊に対して立て続けに対応がとられていきました。
『アクセス』
「白峰宮」坂出市西庄町1712 八十場駅から徒歩で約5分
「八十場の清水」坂出市西庄町1635-4 八十場駅から徒歩で約7分

『参考資料』
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年 
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書2014年 
竹田恒泰「怨霊になった天皇」小学館文庫、2012年 香川県の地名」平凡社、1989年
 元木泰雄「保元平治の乱を読みなおす」日本放送出版協会、2004年
 
 県史37「香川県の歴史」山川出版社、1997年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998年
週刊古寺をゆく「四国八十八ヶ所Ⅱ」小学館、2002年




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  鼓岡神社のすぐ北(30メートル)に崇徳上皇が使用された井戸跡があり、
今でも里人は内裏泉といって大切にしています。

鼓岡神社から北へ進みます。



内裏泉10㍍先左折、 菊塚75㍍先左、 椀塚110㍍先右折。







内裏泉からさらに県道を北に進むと、菊塚という石積があります。
菊塚は上皇と綾の局の間に生まれた皇子の墓で、
そのすぐ横にあるのが綾の局の墓と伝えられています。

皇子の名前は上皇の実名の顕仁 (あきひと)の顕の字をとり顕末(あきすえ)と
名づけられ、綾家の跡継ぎにさせたといわれています。
その際、菊の紋章、菓子ばち、御影なども賜ったという。
綾家では菊の紋章はおそれ多いと茎をつけ、一本菊の紋章としました。
見逃しましたが、いまも綾家の母屋の屋根に輝いているそうです。

里人が綾川から石を拾って来て積みあげた塚と綾の局の墓です。




盌塚(わんつか)は、崇徳上皇が使用された
食器などを埋めたところと伝えられています。











崇徳上皇が一生を終えたのは、長寛2年(1164)8月26日のことです。
その死因については病死、殺害など諸説あります。大正時代、崩御の地に
「柳田」という石碑が建てられ、現在JR予讃線沿いにこの碑が残っています。
江戸時代の地誌『讃州府誌(さんしゅうふし)』には、二条天皇が三木近安という
讃岐の武士に命じて殺害させたとあり、近安は栗毛馬に跨り、紫色の手綱を
とって鼓岡御所を襲いました。上皇は命からがら逃げ、道端の大きな
柳の木の根元にある穴に隠れましたが、見つけられ殺害されたとしています。
以来、この地では近安の手綱の紫色が嫌われ、紫の衣の者や三木姓の者は
白峯山に上れないという伝説が生まれました。
悲劇的な生涯を送った崇徳上皇にふさわしい最期ともいえます。

『保元物語』には、崇徳上皇の死因について「その後、九ヵ年を経て
御年四十六と申し長寛二年八月二十六日、終に隠れさせ給ひぬ。」と
記すだけで、詳しくは触れていません。

『今鏡』によると、崇徳院はあきれるほど辺鄙な所に、9年ほどお住まいになって、
あまりにもつらい世の中のためでしょうか、病気も年々重くなり、
長寛2年(1164)8月26日に亡くなられたとしています。
その序文に「今年は嘉二年庚寅(かのえとら)なので」とあることから、
『今鏡』が執筆されたのは、嘉応2年(1170)崇徳院が亡くなって6年目のことです。
作者は兄弟の寂念・寂然とともに「大原三寂」・「常盤三寂」とよばれた
寂超とされています。この兄弟は、和歌を好んだ父藤原為忠(ためただ)の
影響を強く受け、所々の歌合に出詠し、崇徳上皇が都におられたころから、
藤原俊成、西行らとともに和歌を通じて、極めて親しい関係にありました。
当時、歌道の中心的存在であった上皇が讃岐へ配流され、歌の道の衰微を
西行
いていたことが、寂然との贈答歌によって窺い知ることができます。

『今鏡』は、崇徳上皇の第1皇子の重仁親王が父に先立ってなくなったことや
第2皇子元性(がんしょう)法印が和歌に優れていたことなども記しています。
「重仁親王は、保元の乱後、仁和寺の花蔵院に入り、空性(くうしょう)という
法名で、寛暁(かんぎょう)大僧正のもとで真言などを学ばれていました。
聡明ですばらしい方でしたが、足の病が重くなり、
応保2年(1162)に僅か23歳でお亡くなりになりました。


上皇が配所で崩御された時、覚性法親王(かくしょうほっしんのう)の
「喪服はいつから召されるか。」というお尋ねに対して、元性法印が
うきながらその松山のかたみには こよひぞ藤の衣をば着る

(つらいことですが、都へ戻ってこられるのを待ちわびていましたが、
帰られず松山で亡くなった父をしのぶものとして、今宵喪服を着ましょう。)と
お詠みになったのは、ほんとうにしみじみ悲しく思われました。

嵐が激しいある夜、滝の音もむせび泣くようで、
心細く聞こえました時に、お詠みになった
夜もすがら枕に落つる音聞けば 心をあらふ谷川の水

(一晩中、枕元におちてくる滝の音を聞いていると、
それは穢れを清める谷川の水音と思われる)の歌を載せ、
作者は和歌に堪能であった崇徳上皇の遺風を伝えてらっしゃるのは、
優美なことです。と感想を述べています。」
元性(1151-1184)の母は河内権守源師経の娘、左兵衛局です。
早くから仁和寺の叔父覚性法親王のもとに入り、初め元性と称し、
その後覚恵(かくえ)を名のります。

讃岐に残る伝承では、重仁親王は崇徳上皇が配流されてから3年後の
平治年間、行脚僧に身をやつし、両親を追って讃岐に来たとされています。
崇徳上皇は国府の役人をはばかって綾高遠に親王を託し、
高遠は薬王寺(高松市檀紙町)に親王を預けたといわれています。
江戸時代になって、初代高松藩主松平頼重は重仁親王の話を聞き、
多くの人が参拝するのに便利な場所に移そうと、城下に近い
現在の場所(高松市番町5丁目)に寺と重仁親王の墓を移築しました。
『アクセス』
「内裏泉」坂出市府中町 讃岐府中駅から徒歩で約12分
菊塚」坂出市府中町 讃岐府中駅から徒歩約13分
「盌塚(わんつか)」讃岐府中駅から徒歩約14分
「柳田」坂出市府中町 讃岐府中駅から徒歩約12分
『参考資料』
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48

(保元物語下 新院経沈めの事付けたり崩御の事)
全訳註竹鼻績「今鏡」 (上) 講談社学術文庫、昭和59年(すべらぎの中第二 八重の潮路)
全訳註竹鼻績「今鏡」 (下) 講談社学術文庫、昭和59年(御子たち第八 腹々の御子)
 山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書2014
五味文彦「西行と清盛 時代を拓いた二人」新潮社、2011



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崇徳院は讃岐の配所で、重仁親王の母である兵衛佐局とその他の女房
1人2人だけでの寂しい暮らしをし、親しく召し使っていた人々も人目をはばかって
院を訪ねてくることはなかった。と『今鏡』に哀れ深く記されていますが、
寂然(じゃくせん・ じゃくねん)が配所に院を訪ねてしばらく滞在し、
京へ戻る際、院と詠み交わした歌が室町時代の勅撰集
『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)巻9・旅歌に収められています。

「讃岐より都へのぼるとて、道より崇徳院にたてまつりける」という
詞書(ことばがき)があり、
「なぐさめにみつゝもゆかん君が住む  そなたの山を雲なへだてそ」
これに対して、院からはこういう返しがありました。
「思ひやれ都はるかに沖つ波  立ちへだてたる心細さを」この歌からは、
都からはるかに隔たった見知らぬ土地で暮らす心細さが伝わってきます。

寂然(生没年不詳)は、兄の寂念(為業)・寂超(為経)とともに「大原三寂」とも、
「常盤三寂」ともよばれました。父藤原為忠は、白河院の乳母子知綱の孫であり、
妻は待賢門院の女房でした。為忠は三河守、安芸守、丹後守などを歴任して
富を築き、その財で造作した邸宅常盤は、和歌交流の場となっていました。

寂然の俗名は藤原頼業(よりなり)といい、康治2年(1143)壱岐の守となりましたが、
やがて辞任し、大原に隠棲しました。寂念・寂超も相前後して伊賀守、長門守を辞し
隠棲しています。寂然らは待賢門院の権勢が衰える中で出家したのです。
寂超(じゃくちょう)は歴史物語『今鏡』の著者と考えられ、
この物語は、当時の時代を知るうえで貴重な史料となっています。


崇徳天皇は鳥羽法皇の第1皇子、後白河天皇はその弟で第4皇子です。
どちらも母は待賢門院璋子です。崇徳天皇は5歳で皇位につきましたが、
保延7年(1141)、鳥羽上皇は出家して法皇となり、崇徳天皇23歳を位から
強引におろしました。これに代わって天皇の位についたのが、美福門院得子の子、
まだ3歳の近衛天皇でした。近衛天皇が即位すると、待賢門院は権勢を失い、
康治元年(1142)年に出家し、それから僅か3年後に亡くなりました。

寂然と同じように上皇の生前、讃岐の配所を訪ねた人物が『保元物語』、
『発心集』などに登場し、彼らが見た当時の木の丸殿の印象が記されています。
この説話を『保元物語』から、ご紹介させていただきます。
配所を訪ねたのは『保元物語』によると蓮誉(れんよ)、
『発心集』では蓮如となっています。
蓮如は『半井本保元物語』によると、俗名を淡路守是成といい、
楽人として上皇に召し使われていた人物です。

「鳥羽院の北面の武士であった紀伊守範道が、出家遁世して蓮誉と名乗り
諸国遍歴の聖となりました。
在俗の時は、賀茂や石清水、内侍所などで行われる
御神楽に従事する楽人でしたが、とりたてていうほどの身分ではないので、
崇徳新院にお目にかかることはありませんでした。しかし配流地での新院の
気の毒な暮らしぶりを聞き、悲しく慕わしく思いはるばると讃岐まで訪ねてきました。

着いてみれば、御所のありさまは目もあてられぬ嘆かわしいお住まいでした。
武士どもが御所を囲み、いばらが道を塞ぎ、花鳥風月の趣があるところでなく、
新院のお心をお慰めするものは何もありません。雪の朝、雨の夜の哀れを
訪ねてくるものは誰もいないであろうと思い、粗末な衣の袖を涙で濡らしました。
どうかして御所の中に入ろうとしましたが、厳しく周囲を警固しているので、
むなしく辺りをうろうろするだけです。 日も暮れ果てて夜に入り、
月が明るく照る中、笛を吹きながら、朗詠をして心を慰めました。

『幽思(ゆうし)窮(きわ)まらず  深巷(しんこう)に人なき処

愁腸(しゅうちょう)断えなむとす  閑窓(かんそう)に月のある時』

(草深い巷(ちまた)の家は訪ねる人もなく、独り住んでいると物思いは絶え間がない。
寂しい窓に月のさす時は、思いも増してはらわたもちぎれる思いだ。)
『和漢朗詠集・巻下・閑居』とあるように、浦吹く風とともに波の音や
棹さす音がどこからともなく聞こえてきて、心細さは例えようもありません。

夜も更け、月も傾き、風は冷たくなり、心寂しく立ち尽くして
悲しみの涙に濡れていると、水干をまとった人が御所から出てきました。
蓮誉は嬉しく思い事情を話すと、哀れがって御所に紛れ込ませてくれました。
新院に直接お会いすることはできませんが、
板の端に一首の和歌を書きつけて、さっきの人に渡しました。
 

「朝倉や木の丸殿にいりながら 君に知られでかへるかなしさ」
(あの朝倉にあったような木の丸殿を訪ねながら、
お会いすることもかなわず帰る事は、たいへん悲しいことです。)

「朝倉の木の丸殿」は、斉明天皇が新羅侵攻の時、福岡県朝倉郡朝倉村須川に
造ったという黒木造り(樹皮がついたままの丸太)の粗末な御殿です。
その御殿をふまえ、崇徳院の御所を詠んだものです。
院も哀れに思い近くに召しよせ都のことも聞きたく、
昔話もしたいと思いましたが、それもならず返
歌だけをことづけました。
「朝倉やただいたづらにかへすにも 釣りする海人のねをのみぞなく」
(せっかく来てくれたのに会うこともならず、朝倉にたとうべきこの御所から、
虚しく帰してしまうことになったが、そなたの好意は身にしみて嬉しく、
釣りをする漁夫のように声を立てて泣くばかりだ。)と書いてありました。
 たいへん恐れ多く思い、これを大事に笈の底深く入れ、泣く泣く都へ帰りました。」

寿永3年(1183)4月、保元の乱の古戦場であり、崇徳院の
御所跡でもある春日河原(聖護院河原町)に神祠が建てられ、
その鎮祭の際に範道(蓮誉)は兄範季とともに勅使を勤めています。
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
(保元物語下 新院経沈めの事付けたり崩御の事)
新潮日本古典集成 鴨長明「方丈記 発心集」新潮社、昭和51年 
(第六・九 宝日上人、和歌を詠じて行とする事 並 蓮如、讃州崇徳院の御所に参る事)
新潮日本古典集成「和漢朗詠集」新潮社、昭和58年 「西行のすべて」新人物往来社、1999年
五味文彦「西行と清盛 時代を拓いた二人」新潮社、2011年
 全訳註竹鼻績「今鏡」 (上) 講談社学術文庫、昭和59年(すべらぎの中第二 八重の潮路)
山田雄司「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」吉川廣文館、2007年
 山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書2014年 




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讃岐国府跡の裏手、城山(きやま)の麓に小高い丘があります。鼓岡です。
この岡には雲井御所から移った崇徳上皇が崩御するまで約6年間住んだ木の丸殿がありました。

鼓岡全景。

崇徳上皇を祀る鼓岡神社。

鼓岡神社由緒
当社地は保元平治の昔崇徳上皇の行宮木の丸殿の在ったところで、
長寛二年(一一六四年)八月二十六日崩御されるまでの六年余り
仙居あそばされた聖蹟である。建久二年(一一九一年)後白河上皇近侍
阿闍梨章実、木の丸殿を白峯御陵に移し跡地に之に代わるべき祠を建立し、
上皇の御神霊を奉斎し奉ったのが鼓岡神社の草創と云はれている。
伝うるに上皇御座遊のみぎり、時鳥の声を御聞きになり深く都を偲ばせ給い、
鳴けば聞き聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎすと御製された。
時鳥上皇の意を察してか、爾来この里では不鳴になったと云はれている。
境内には木の丸殿、擬古堂、観音堂杜鵑塚(ほととぎす塚)鼓岡行宮旧址碑、
鼓岡文庫などがあり附近には内裏泉、菊塚、盌塚などの遺跡がある。
鼓岡神社(現地説明板より)

石段の正面には鼓岡神社鳥居、右手に擬古堂(ぎこどう)の鳥居が見えます。
左手の広場には、鼓岡神社の由緒を書いた説明板などがあります。

左から説明板、鼓岡文庫、崇徳上皇念持佛三尊堂、鼓岡碑。

鼓岡行宮旧跡碑

明治40年に府中村の有志が建てた縦3㍍、横2㍍の大きな石碑です。
題字は閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)の
篆書体(てんしょたい)の文字で彫ってあります。



総坪数30坪ある擬古堂。  
 「くちぬとも 木丸殿を 忘れじと 石に心に 深く刻めり」と詠んだ
細川潤次郎は土佐藩士で、幕末から大正時代にかけての法制学者・教育家です。

擬古堂
保元元年(一一五六)年、保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐へと配流され、
長寛二(一一六四)年、ここ鼓岡にて四五歳の生涯を終えます。
上皇が暮らしたところは、御所(天皇が住む屋敷)にも関わらず、
とても粗末な造りであったため「木の丸殿(このまるでん)」と呼ばれ、
上皇を慕って訪れた笛の師蓮如(結局上皇と会うことは叶いませんでした)にも
次のように詠まれています。 
朝倉や 白峯寺に 入りながら 
     君にしられで 帰る悲しさ
この建物は、大正二(一九一三)年、崇徳上皇七百五十年大祭が
挙行された際に造られたものです。

粗末だったとされる木の丸殿を偲び、その雰囲気を模して造られているため
「擬古堂(ぎこどう)」という名称が与えられました。
また『白峯寺縁起』によると、実際に上皇が暮らした木の丸殿は、
上皇の菩提を弔うため、遠江阿闍梨章實という人物により
御陵(上皇のお墓)近くに移され、これが今の
頓証寺殿(とんしょうじでん)となったとされています。
平成二十五年三月 坂出市教育委員会(現地説明板)

木の丸殿は、とても粗末な建物だったようですから、擬古堂も皮のついた
丸木で造られ、上皇の住まいは質素なものであったということを表わしています。
一方、讃岐国府が3年がかりで建設したのだから、かなりの規模の
御所であったという説もあります。辺りには南海道の甲知駅跡があり、
擬古堂は甲知の御所ともよばれています。


眺望がいいので讃岐府中駅から讃岐国府跡にかけて、
さらに国分寺跡までくまなく見渡せます。

崇徳上皇歌碑

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の  われても末に 逢わむとぞ思ふ 


岩にせき止められて、二つに分かれた急流がやがて一つになって合流するように、
今はあなたとの仲をさかれても、いつか必ず逢おうと心に決めています。
崇徳天皇が譲位してまもなくの作とかで、
百人一首第77番、『詞花集』恋歌で広く知られています。

杜鵑塚
 啼けば聞く聞けば都の恋しさに この里過ぎよ山ほととぎす 崇徳天皇
ほととぎすの鳴く声を聞けば、崇徳天皇が都を思い出すので、
里人がホトトギスを殺したり、追い払ったりしたので、
のちにほとぎす塚をたてて供養したそうです。(駒札より)


この歌は実際には、後に承久の乱に敗れ隠岐の島に流された
後鳥羽上皇が配所で詠んだものです。
それが崇徳上皇作の歌として誤り伝えられ、
上皇の悲劇の生涯に同情した人々によって語り継がれてきたようです。
『アクセス』
「鼓岡神社」坂出市府中町乙5116 讃岐府中駅から徒歩約15分 
『参考資料』「香川県の地名」平凡社、1989年

 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998年
 郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年


 



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 崇徳上皇は鼓ヶ岡の木の丸殿(このまるでん)が完成したため、
雲井御所からそこへ移り、崩御までのおよそ6年を過ごすことになりました。
これまで上皇は綾高遠館の隣に住み、雲井御所での生活は
比較的自由で穏やかなものでしたが、
木の丸殿は国府の裏手にあり、
国府の役人の監視も厳しかったはずです。
これまでとは環境が大きく変わってしまい、
高遠の屋敷からも遠くなり、
不自由な生活を強いられることになりました。
そのためか上皇は悲嘆にくれる毎日を送るようになったという。
時には、開法寺や綾川の土手などを散策することもあったのでしょうが、
いっそう仏道修行に打ち込むようになったのはこの頃です。

坂出市はかつて讃岐国府が置かれた地で、政治・文化の中心地として栄えていました。
JR讃岐府中駅西北方向の田園地帯の中に「讃岐国府跡」の石碑が建っています。

国府とは各国ごとに置かれた役所のことで、国司(県知事)らが政務を執る施設です。
国司の下には数百人もの役人が多くの役所の施設で働いたとされ、
国府はこれらが集まった官庁街、今でいう都道府県庁にあたります。
詳しい場所はまだ特定されていませんが、
国府につながりのある
地名が多く残っていることから、
鼓ヶ岡神社の北東一帯、綾川までが讃岐国府跡と推定されています。



この辺りは古代には阿野郡甲知郷とよばれ、国府や南海道の
甲知(こうち)駅が置かれ、
古くから讃岐国(香川県)の中心地でした。





讃岐国の中央を標す境石(堺石)。

境石から綾川を渡って国府跡へ。
綾川は讃岐国府近くを流れるためその名が都に聞こえ、
藤原孝善(たかよし)は、
「霧晴れぬ 綾の川辺に 鳴く千鳥  声にや友の ゆく方を知る」と詠み『後拾遺集』
以後、歌の名所となりました。

(霧の晴れない視界の悪い綾川の川辺で鳴いている千鳥は、
姿が見えなくても友の鳴く声によってその居場所を知るのであろうか。)






国府の規模は、碑のある場所を中心に八町(約870㍍)四方だったと見られています。

綾北平野の南限にあって、三方を山で囲まれたこの地域は大化の改新による
律令制度によって讃岐国府の置かれたところである。
附近には、垣ノ内(国庁の区域)・張次(ちょうつぎ・諸帳簿を扱った役所)・
状次(じょうつぎ・書状を扱ったところ)・正倉(国庁の倉)・
印 鑰(いんやく・かぎの保管所)・聖堂(学問所)などの地名があり、
名国司菅原道真の事跡とともに讃岐国庁の姿を偲ばせ、
木ノ丸殿(擬古堂)・内裏泉・盌塚・菊塚など保元の乱によって讃岐に流された
崇徳天皇の悲しい遺跡は、保元の昔を物語る。また白鳳期建立の開法寺の塔礎石や
巨石墳新宮古墳・式内大社城山神社など古代~中世の遺跡も多く、
ここに訪れる人々を古代讃岐のロマンへ誘うところである。(現地説明板)
国府跡一帯は、近年宅地化が急速に進んでいるため、
発掘調査が継続して行われています。

讃岐国は大国に次ぐ上国で、国司として赴任した人々には、
紀夏井(きのなつい)や菅原道真、『和漢朗詠集』の編者
藤原公任(きんとう)など史上有名な人物も多くいます。
夏井は善政を行い、四年の任期が終えた時、百姓たちに望まれて
さらに二年任期を延長したといわれ、道真は五年間在任し、
大旱魃(かんばつ)の時、死装束を着て国府西にある城山(きやま)神社で、
七日間降雨を祈願し、雨を降らせ百姓たちを喜ばせたと伝えられています。
平安時代中頃になると、国司に任命されても現地に赴任しない
遙任(ようにん)が増え、代わりに目代と呼ばれる
代理人を現地へ派遣するなどしてその任にあてました。

京都の草津湊から崇徳上皇の船には、国司の藤原季行(すえゆき)が同行し
厳重な監視の下、松山の津へ到着しました。
遙任国司である季行は、讃岐へ赴任せず都に住んでいたのです。

鼓ヶ岡の傍には、白鳳時代から平安時代末期にかけて、国府とも強い関連性をもった
巨刹開法寺(かいほうじ)がありました。今は開法寺というため池となり、
時に古瓦が発掘される程度でしたが、平成11年から同20年にかけて行われた
周辺の発掘調査により僧坊や講堂、廻廊のものと思われる礎石も見つかり、
寺院内の大まかな建物の配置がわかりつつあります。

またため池のほとりには、この寺の塔跡(県史跡)が残っています。
土壇の上に自然石の礎石が並び、その中央に直径80㌢の柱穴底に、
径50㌢ほどの舎利孔をもつ心礎があります。平安時代前期、
国司を務めた菅原道真の漢詩集『菅家文草(かんけぶんそう)』の中には、
国府周辺を詠んだ詩が収められ、松山の海辺に官舎の別館が
軒を並べていたことなど、当時の府内や松山津の様子が知られます。

その巻三の「客舎冬夜(きゃくしゃとうや)」という詩に「開法寺」という名が見え、
「開法寺は府衙の西に在り」などと書き残されています。
この一文が、讃岐国府の位置を決める重要な手がかりとされています。 
『アクセス』
「讃岐国府跡の碑」坂出市府中町 讃岐府中駅から徒歩約16分
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年
 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998年

 郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年



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姫塚は崇徳上皇と綾の局との間に生まれた皇女の墓であるといわれ、
ブロック塀に囲まれた広い墓地の中に祀られています。

姫塚は広大な水田地帯の一角にあります。



姫君は幼くして亡くなったため、雲井御所の西方に埋葬し、
綾家では毎年盂蘭盆(うらぼん)に燈明を灯すという。


姫塚
 一一五六年、保元の乱にやぶれて讃岐に配流となられた崇徳上皇は、
松山の津に御着になられました。ところがまだ御所ができていないため、
在地の有力者である綾高遠が自分の館を修繕して、仮の御所とされたと
つたえられており、雲井御所跡として今も伝えられています。
さてこの仮の御所にお住まいになられていた頃、
何かと不便があってはならないとのことで、綾高遠息女である綾の局が
上皇の身の回りの世話をされておりました。
この綾の局と上皇の間に皇子と皇女が誕生したと伝えられております。
この姫塚はその皇女の墓であると伝えられております。

1坪余りの塚で高さは1メートルほどです。


姫塚からコンクリート舗装の農道を東へ200メートルばかり行くと、
綾川の堤防西側の水田の中に、高さ4メートルの碑が建っています。
碑には崇徳上皇がこの辺で過ごしたことを示す
「崇徳天皇駐蹕(ちゅうひつ)長命寺舊趾」と刻まれています。

4坪余りの地に花崗岩の石碑が建っています。

長命寺はその昔、450メートル四方の境内地に仏閣が建ち並ぶ寺院でしたが、
戦国時代長曽我部の兵火によって焼失し、さらに万治年間(1658~62)の大洪水で
この付近は荒廃したため、寺跡は必ずしも明確ではありません。崇徳上皇は
讃岐に上陸してから3年ほど後に雲井御所から鼓ヶ岡の木の丸殿に移りました。
去るにあたり、長命寺の柱に「ここもまたあらぬ雲井となりにけり 
空行く月の影にまかせて」と書き残したといわれ、
この歌から行在所はのちに雲井御所とよばれるようになりました。
長命寺に兵火が及んだ際も、上皇が墨書した柱だけが焼け残り、
万治年間の洪水で流されるまで野中に立っていたという。(『綾北問尋鈔』)

地元の伝承では、崇徳上皇の仮御所として御堂(仏堂)を提供していた綾高遠が、
いくら配流といっても上皇を自分の館内に留め置くのは憚られるとして、
近くの長命寺へ移したとしています。
上皇のここでの暮らしぶりは、長命寺の境内に射山(まとやま)を設け、
近郊の武士を集めて射芸を競って過ごしたり、ときには松ヶ浦を訪れて涼をとり、
貝拾いなどをして、しばしこの世の憂いを忘れたという話もあります。
松ヶ浦は当時白砂青松の景勝地で、松山の津を含む雲井御所北方一帯の海岸をいい、
いまは干拓されて港の面影はありませんが、
上皇はこの浦の景色を特に気に入られたようです。
『後拾遺集』(巻8・別・486)によると、
「讃岐へまかりける人につかはしける」という詞書を添え、中納言定頼は
「まつ山の松の浦風吹き寄せて 拾うて忍べ恋忘れ貝」と詠んでいます。

『保元物語』が讃岐配流となった崇徳上皇がまず入ったと記す
「二の在庁散位高遠が松山の御堂」を『綾北問尋鈔(あやきたもんじんしょう)』や
『讃岐国名所図会』は長命寺とし、『全讃史』は長命寺辺にあった綾高遠の邸としています。


現在、長命寺跡と雲井御所跡との間には綾川が流れていますが、
当時の川筋はもっと白峯側だったようですから、
高遠の屋敷から長命寺へは歩いて2、3分の所にあったはずです。
高遠の館や雲井御所、長命寺も同じ一画にあったともいえます。

綾川

綾川に架かる新雲井橋。

綾川ほとりにある綾氏の末裔が住んでおられる立派な旧家、その東側に雲井御所跡。

讃岐では近世に多くの歴史や地誌に関する書物が記されました。現在坂出に
数多く残る崇徳院伝承地のほとんどは、これに基づいてその時代に設けられたものです。
今日の坂出市の名所旧跡を著した『綾北問尋鈔』が編纂されたのは、
宝暦五年(1755)のことで、
著者は西庄村(坂出市西庄町)の大庄屋の本条左衛門です。
この書物には崇徳院関係の伝承地も記され、著者はこの書をまとめるにあたって
土地の古老の話を尋ねまわっています。
武殻王(たけかいこおう)、神功皇后、
平家の落人、『太平記』の記事、長曾我部の侵入などの歴史を述べながら、
地誌と伝説も加えて興味深く書いています。
『アクセス』
「姫塚」琴参バス王越線雲井橋下車徒歩約10分又は高松善通寺線「八十場駅」下車 徒歩約50分
 「長命寺跡」坂出市林田町 坂出駅から車で約15分 琴参バス王越線雲井橋下車徒歩約8分
レンタサイクル JR坂出駅構内の坂出市観光案内所(0877・45・1122)
料金は1日200円(500円の預かり金が必要)午前9時から午後4時半。
『参考資料』
「日本名所風俗図会」(四国の巻)角川書店、昭和56年 「香川県の地名」平凡社、1989
 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996
年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998

 山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書2014年 
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8
「香川県大百科事典」四国新聞社、昭和59年



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讃岐配流となった崇徳院は松山の津に到着しましたが、急なことで御所の
用意ができてなかったため、土地の豪族で讃岐国府に勤める役人であった
綾高遠(あやのたかとお)の松山の御堂を住まいにしました。綾氏は景行天皇の血を引く
日本武尊(やまとたけるのみこと)の皇子、武殻王(たけかいこおう)の
流れをくむ讃岐の古代豪族で、高遠はその一族と推測されています。

坂出市は東部および南部のほとんどは山地で、市街地は綾川の三角州にひらけています。
その大半は江戸時代には塩田がつくられ、その後埋め立てられているので、
海岸線はずっと北に伸び、昔の面影はありません。
綾川下流の右岸にある松山は、この川の堆積作用によって形成された地にあります。

その後、松山の御堂は綾川の洪水により流失し、あたりは田となっていましたが、
天保六年(1835)に高松藩第九代藩主松平頼恕(まつだいら よりひろ)が
場所を推定して整備し、雲井御所之碑を建てました。松平頼恕は尊王攘夷を強硬に
主張した水戸斉昭(なりあき)の兄にあたり、やはり尊王の志が厚い人物でした。

綾川に架かる新雲井橋。

崇徳院は都を懐かしんで雲井御所近くに流れる綾川を鴨川とよび、
今でも土地の人はこのあたりの綾川を鴨川とよんでいます。







雲井の御所跡は、綾川の土手を下りたところ、
遠くを山々に囲まれた田園地帯にあります。

地元の人が綾高遠の子孫の家だと教えてくれた立派な民家には、
綾○○という表札がかかっています。



綾家の東隣にある雲井の御所跡。





崇徳上皇の守り本尊の観世音を安置したものとして、土地の尊崇が厚い中川観音堂。
綾高遠の子孫、林田太次郎が宝永元年に奉納した鰐口(わにぐち)。

「この地は、保元の乱に敗れ讃岐に配流となられた崇徳上皇が、仮の御所として
過ごされた場所と伝えられ、天保六年(1835)高松藩主松平頼恕公により
雲井御所之碑が建立されている。保元の乱は平安時代の末、摂関家の藤原頼長と
忠通の争いと皇室である崇徳上皇と後白河天皇の争いが結びついて激しさを増し、
保元元年(1156)鳥羽法皇の死を契機として一挙に激化した争乱である。
結果は崇徳上皇側の大敗に終わり、上皇は讃岐に配流となった。当時三十八歳の
上皇は、国府の目代である綾高遠の館を御所とされたと伝えられている。
「綾北問尋抄」「白峰寺縁起」などでは、仮の御所で三年を過ごされながら、
都を懐かしく思い、その御所の柱に御詠歌を記されたとされ、その一首に、
ここもまた あらぬ雲井となりにけり  空行く月の影にまかせてと詠まれた歌から
雲井御所と名付け、この地は雲井の里という、と伝えられている。またこの里に
上皇が愛でた「うずら」を放たれたことから、この地は「うずらの里」とも呼ばれている。

雲井御所で約三年過ごされた上皇は、府中鼓ヶ丘木ノ丸殿に遷御され、
長寛二年(1164)八月 四十六歳の若さで崩御なされた。崩御の後、京都より御返勅が
あるまでの間、西庄の野沢井の水にお浸しし、同年九月に白峯で荼毘に付され御陵が築かれた。
時代を経て、雲井御所の所在が不明になっていたのを、江戸時代に松平頼恕公が
上皇の旧跡地として雲井御所の石碑を建立し、綾高遠の後裔とされる
綾繁次郎高近をこの地の見守り人とした。綾氏は石碑の前に大蘇鉄を二株植えたといわれ、
今も大蘇鉄が繁っている。 平成十三年十二月 坂出市教育委員会」(現地説明板)

松平頼恕はこの碑を建てる一方、現在の高松市円座町に住んでいた綾高遠の子孫を探し出して
ここに住まわせ、田地2ヘクタール(2万平方メートル)を与えて永代碑の見守りを命じました。
『アクセス』
「雲井御所跡」香川県坂出市林田町中川 JR坂出駅から車で約10分 
琴参バス王越線「雲井橋」下車徒歩約6分(バスの本数が少ないので、ご注意ください。)
琴参バス坂出営業所 ☎0877-46-2213
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年
 山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書、2014年 
郷土文化第27号「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館、平成8年
 県史37「香川県の歴史」山川出版社、1997年 「郷土資料事典 香川県」ゼンリン、1998年
「角川日本地名大辞典(37)」角川書店、昭和60年




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讃岐へ配流となった崇徳院は、保元元年(1156)7月23日、
草津湊から屋形船に乗り込み、淀川を下り大阪湾から瀬戸内海に出ました。
途中には、いろいろな名所旧跡がありますが、船からは移り行く外の景色を
眺めることもできず、警固の者から「ただ今須磨の関の沖を通っています。
あそこに淡路島が見えてきました。」という声だけをたよりに、
それぞれの地の故事に思いを馳せて心を慰めるうちに、院を乗せた船は
仁和寺を出発してから、11日目に松山の津(坂出市高屋町)に到着しました。

現在では、高松が四国の玄関口となり、高松港がよく使われますが、
当時、松山の津のあるあたりが大きな入り江になっていて、四国随一の良港でした。
現在の松山小学校付近からは、弥生時代の製塩土器などが発見されるなど、
古代には、海岸線が今よりも内陸まで入り込んでいたことが推測されています。

松山の津は、高屋と青海(おうみ)の境を流れる青海川の当時の河口にあったとされ、
中世までの河口は現在の河口より約2キロ内陸に入った地点、雄山の北東麓と
推定されています。松山の津は
綾川の上流にある讃岐国府の港であり、四国の
玄関口のひとつでもあることから、かなりの賑わいを見せていたと考えられます。


2つ並んだおむすび山、雌山(めんやま)と雄山(おんやま)の間を
さぬき浜街道が走っています。

さぬき浜街道沿いのガソリンスタンド近くに、
松山の津の石碑と説明板が建っています。



讃岐に流された崇徳院が最初に上陸したとされる場所です。
碑には、「崇徳天皇御着船地 松山津」と彫られています。

松山の津(現地説明板)
崇徳天皇(1119~1164)は平安時代末期に在位された第75代の天皇でしたが、
当時は上皇(退位した天皇)が政治の実権を握る「院政」という
政治のやり方が行われており、崇徳天皇の在位中、白河上皇、鳥羽上皇という
強力な権力者のため、政界の中枢に地位を確立できませんでした。
また実子である重仁親王の皇位継承の望みも絶たれてしまい、
崇徳上皇は、鳥羽上皇、後白河天皇やその周囲に対し強い不満を抱いていました。
これに藤原摂関家の権力争いも加わり、京の都には不穏な空気が流れるようになっていました。
そして一一五六(保元)年七月、鳥羽上皇の崩御をきっかけに、
ついに戦闘行為へと発展します。(保元の乱)。
しかし戦い自体はあっけないもので、後白河天皇方の奇襲により、
一日で決着がついてしまいました。敗れた崇徳上皇は讃岐へ配流となり、
ここ松山の津に着いたとされています。津とは港のことであり、
当時の坂出地域の玄関口となる場所でした。その頃は今よりも海が内陸部まで迫っており、
この雄山の麓も海であったと考えられます。崇徳上皇はその後8年間を
坂出で過ごされましたが、結局京都に帰ることはできず、
一一六四(長寛二)年に崩御され、白峰で荼毘に付されました。 
浜ちどり 跡はみやこへ かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく『保元物語』 
この松山の津の石碑は、松山地区の郷土史である『続・松山史』の編纂を記念し、
昭和六十一年に建てられたものです。 平成二十三年九月二十七日 坂出市教育委員会


車の往来が激しいさぬき浜街道と雌山。
『アクセス』
「松山の津の碑」坂出市高屋町
JR坂出駅から車で約15分
JR坂出駅から琴参バス王越線「高屋局前」下車 徒歩約7分
(バスは1時間に1本程度です。)

琴参バス坂出営業所 ☎0877-46-2213
『参考資料』
「香川県の地名」平凡社、1989年 「香川県の歴史散歩」山川出版社、1996年 
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会、昭和54年
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書2014年 
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年




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尼崎市の松原神社には、素盞嗚命(すさのおのみこと)、
三輪明神と並んで崇徳天皇が祀られています。

保元の乱で弟の後白河天皇に敗れた崇徳院は、知足院(船岡山の東南)近くの
とある僧坊で出家し、仁和寺に入り沙汰を待っていました。
仁和寺には弟の覚性法親王がいたので、弟にすがりとりなしを頼むつもりでした。
しかしその時、父鳥羽法皇の仏事で鳥羽離宮にいた覚性はそれを断わり、
合戦から13日目に讃岐(香川県)配流という厳しい刑が下されました。
覚性法親王・後白河天皇どちらも生母は崇徳院と同じ待賢門院璋子です。

朝まだ暗いうちに仁和寺を出発し、粗末な牛車で草津湊へ向かいます。
この湊は鴨川と桂川の合流点にあった船着場です。(現・伏見区下鳥羽)
護送は囚人同様のきびしい扱いでした。院がみすぼらしい屋形舟に乗りこむと、
四方を打ちつけ、外からは鍵をかけて淀川を下ります。お供をしたのは、
重仁親王(崇徳の第1皇子)の母、兵衛佐局(ひょうえのすけのつぼね)の他
2人の女房であったという。重仁は乱後、仁和寺で出家して僧となりますが、
わずか23歳でその生涯を終えています。

讃岐への途中、崇徳院を乗せた船は嵐にあい、一行は浜田で休息したとされ、
その縁により院の崩御後、村の鎮守の松原神社にその霊を祀ったと伝わっています。

JR立花駅前

松原神社



松原神社(浜田の神事)
主祭神は素盞嗚命で、崇徳天皇を相殿神とし、三輪明神をも配祀する。
末社は琴浦明神社、八幡宮社、稲荷神社。浜田に残る伝承によれば、
崇徳天皇が讃岐(現在の香川県)に移られる途中、大風雨を避けて
この地にご休息されたとき、村民が、このしろ、はまぐり、かき、
まてがい、ばい、ゆば、湯どうふ、よめな、しいたけ、ごぼう、
やき米、やき豆、塩おはぎ、などを差し上げてもてなしました。
その由縁から、没後も御霊を慰めおまつりするに至ったといわれています。
現在3月31日に行われている春祭りをダンゴノボーといい、
当時と同じ物を献上する神事が行われています。
また特定の家が神事に奉仕する当家の制度が残っています。
12月31日の除夜には、当屋の中の宮当番が、新しい藁を垂らした注連縄を
松竹梅に寄せ合わせて根元を笹でくくった門松に張って、拝殿前に飾り付けます。
元旦の早朝当屋の人たちは、威儀を正した服装や裃を着て、
一切無言で神事を行います。
このような当屋は、宮講と呼ばれ、
現在も神社を中心とする年中行事を踏襲して、厳粛に行っています。

なお、浜田の地は崇徳院の御影堂領が比叡山粟田社領に護持されていた史実と合致し、
古くから浜側の田地が(浜田の地名由来)開かれていたことを物語っています。
尼崎市教育委員会 (現地説明板)





松原神社拝殿

拝殿の背後に本殿。

松原神社を南下すると、中世の浜田荘の一部にあたる
崇徳院1~3丁目 という地名があります。
この地名は、近世以来の小字名で、
大字浜田(江戸期から明治22年の浜田村)の一部でした。


浜田荘は鎌倉期~室町期に見える荘園の名で、現在の浜田町1~5丁目、
崇徳院1~3丁目など尼崎南西部地域一帯です。
建長8年9月29日付の『崇徳院御影堂領目録』には、浜田荘が記され、
この荘園が鎌倉期には粟田宮に寄進された
荘園の一つであったことが知られています。

粟田宮は崇徳院の霊を慰めるため、後白河天皇によって
保元の乱の戦場跡に建てられた社です。
古代、尼崎の海岸線は現在よりかなり北側にあり、海岸部に立地している
浜田荘は、戦国期には地続きの浦浜の境界をめぐって隣接する荘園と
争いを起こしています。また江戸時代の崇徳院は海岸線に沿った
一角に位置していたことが『草場忠兵衛文書』に見えます。
『アクセス』
「松原神社」尼崎市浜田町1丁目 6 JR立花駅下車 南へ徒歩5分 松原公園隣
『参考資料』
「兵庫県の地名」(1)平凡社、1999年 「角川日本地名大辞典」(28)角川書店、平成3年
「兵庫県の難読地名がわかる本」神戸新聞総合出版センター、2006年 
「神戸~尼崎海辺の歴史」神戸新聞総合出版センター、2012年
 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」日本放送出版協会、平成16年

日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 


 



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みやこめっせ東側の植え込みの中に成勝寺跡の碑があります。

保元の乱で後白河天皇方に敗れた崇徳院は、いったんは三井寺めざして
東山の如意ヶ岳に走りましたが、夜に紛れて紫野の知足院に近い僧坊で出家し、
覚性法親王(崇徳の同母弟)を頼って仁和寺に入りました。そのことはすぐ内裏へ知らされ
10日ほど拘束された後、讃岐国に配流と決まり、仁和寺で警護にあたっていた
佐渡式部大夫重成が鳥羽草津湊まで送ることになりました。途中、鳥羽離宮の父鳥羽上皇の
安楽寿院陵に差しかかると、崇徳院は父君に最後のお別れをしたいといいましたが、
重成は後白河天皇をはばかって、力およばぬ事と認めませんでした。
しかし、牛車だけは安楽寿院陵の方向に向けてくれました。

この源重成というのは、源義朝が平治の乱で敗れて東国へ落ちる途中、
美濃青墓で落武者狩りの一行に遭遇した際に義朝を逃がした上で、
身元が割れないように顔の皮を削り「我こそは源氏の大将左馬頭義朝なり。」と
名のって散々に戦ったのちに自害する義朝の郎党です。


船は四方が打ち付けられた上に鍵まで架けられ、締め切った屋形船の中からは
移りゆく外の景色を眺めることもできませんでした。お供をしたのは、
兵衛佐局(重仁の母)と女御の僅か3名です。やがて讃岐松山の津に到着しましたが、
急なことなので住まいの用意もなく、在庁官人(国庁に勤める官人)
綾高遠(あやのたかとう)の仏堂(雲井の御所)に入りました。
その後、
国司が国府(現坂出市)の傍に造営した鼓岡の舘へ移り、讃岐の配所で
九年ほど過ごした後、長寛2年(1164)8月、46歳の生涯を終えました。
遺骸は白峯山上で荼毘にふされましたが、御陵は石を積んだだけの粗末なものでした。
仁和寺で出家した重仁親王は、すでに2年前に23歳で亡くなっていました。

平安時代の始め、平城上皇は弟の嵯峨天皇と皇位を争って挙兵し、
弟に敗れましたが、上皇は出家したことで許され平城京で余生を過ごしました。
後白河天皇が編纂した『梁塵秘抄口伝集』には、「雅仁(後白河天皇)は、
母待賢門院の御所に出入りし、母の好きな今様の世界に浸っていた。
母が亡くなると、暗く沈みきっていたが、兄の崇徳から一緒に住むようにといわれ、
暫く兄の御所に住まわせてもらい、毎夜好きな今様を歌っていた。」とあり、
仲の良い兄弟であったことがうかがわれます。
出家すれば平城上皇のように、都の片隅にでもおいてもらえると、
思ったであろう崇徳にとって讃岐配流はあまりに過酷な刑罰でした。


長年の恨みが爆発したのか、怒りに荒れ狂う崇徳院の怨霊の姿が『保元物語』に
描かれています。「鳥羽上皇の菩提を弔うため、崇徳院は三年がかりで書写した
五部大乗経を石清水八幡宮か安楽寿院(鳥羽天皇陵)に納めたいと願いましたが、
信西が「呪いがかけられているかもしれない。」といって受け取りを拒否し、
そのまま送り返されてきました。恨みに思った院は怨念火となって燃え上がり、
大乗経の奥に日本国の大魔王となる。と血書し、その経を海底深く沈め、
髪も爪も伸び放題で生きながら天狗となって死後の祟りを誓ったという。」
魔王というのは、仏法・王法を乱す霊をいい、その代表が天狗です。

崇徳院の怨霊の祟りはすさまじく、保元の乱の3年後に平治の乱(1160)が起こると、
後白河天皇側近の信西や藤原信頼が殺され、その後、息子の二条天皇が在位中に
23歳の若さで亡くなり、安元2年(1176)には、寵妃建春門院をはじめ孫の
六条天皇(二条天皇の子)が崩御するなど、後白河周辺の人々が相次いで亡くなりました。
その翌年には、内裏を焼失させ、京都の町の3分の1を焼く「太郎焼亡」とよばれる
大火災が起こり、これらはみな崇徳院の怨霊のせいだと考えられました。
そこで、後白河法皇は崩御の段階では、「讃岐院」とよばれていた院に
「崇徳院」の号を贈り、藤原頼長には、太政大臣正一位を贈りました。
引き続き、成勝寺において法華八講が修せられました。
しかし、怨霊はそんなことでは鎮まらず生き続けます。
治承3年(1179)、清盛が後白河を鳥羽殿に幽閉して政権を掌握し、
その翌年から6年間にわたる源平合戦が勃発しました。

『保元物語』が記す五部大乗経について、吉田経房の日記
『吉記』寿永2年(1183)7月16日条に次のような記事があります。
「崇徳院は讃岐国において、自筆の五部大乗経を血で書き、経典の奥には
天下滅亡の文言が書かれている。この経典は仁和寺の元性法印のもとにある。
未供養のままなので、あらためて崇徳の御願寺である成勝寺において供養し、
亡き院の怨霊を鎮めたいとの申し入れが法印からあったが、供養を行う前から崇徳院の
怨霊が戦乱を引き起こしているので、どうしようかと議論すべきである。」と記しています。
元性は崇徳院の第2皇子で、母は三河権守師経の娘です。

こうした動きの背景には、崇徳院の側近藤原教長があったとされています。
教長は保元の乱後、常陸国(茨城県)に流されましたが、許されて帰京すると
崇徳や頼長を神霊として祀るべきと唱え、怨霊慰撫の火付け役となりました。
五部大乗経の存在が公表されると、当時の不安定な社会情勢や政治情勢を背景に、
人々にその恐怖を決定づけました。そして崇徳院怨霊に対する対策が次々にとられます。

寿永2年(1183)12月29日、保元の乱の時に崇徳の御所があった
春日河原(京都大学医学部付属病院敷地)に神祠建立を決定し翌年造営されました。
崇徳院廟と頼長廟が並び建ち、両廟の周囲は筑地塀で囲まれ門がたっていました。
この廟はのちに、廟が粟田郷にあったことにより、
粟田宮とよばれるようになり、
応仁の乱の兵火により荒廃してしまいました。
また崇徳院の遺骨は分骨されて、高野山に納められ菩提が弔われました。

さらに後白河院の晩年には、院の病気平癒を願って、
讃岐の崇徳院陵に御影堂が建立され、御陵が整備されました。


山田雄司氏によると、崇徳院が配流中に詠んだ歌や
寂然が院と交わした歌などから、実際の崇徳院の讃岐での暮らしは、
無念の思いを抱きながらも、穏かであったとされています。

♪浜千鳥跡は都にかよへども 身は松山に音をのみぞなく
(浜千鳥の足跡(筆跡)は都へ飛び立つことができるが 、
わが身は都から遠く離れた松山で悲しみの声をあげて泣くばかりです。)

五部大乗経を送った時に添えたこの和歌などにみえるように心細く、
悲嘆にくれる生活だったようですが、『保元物語』が語る
天狗となって怒りに荒れ狂う姿とは程遠い余生を送ったとされます


鴨川東岸の白河の地(現在の岡崎一帯)は、桜の名所として知られ、
風光明媚な地として早くから貴族たちの別荘が並び建っていました。
この地域が大規模開発されたのが、白河・鳥羽両上皇の時代です。
寺名に「勝」の字がつく特に格の高い寺院、六つの寺が相次いで建立されました。
今は寺跡の石碑や町名に残るだけですが、白河天皇御願の法勝寺、鳥羽天皇御願の最勝寺、
堀河天皇御願の尊勝寺、待賢門院発願の円勝寺、崇徳天皇御願の成勝寺、
近衛天皇御願の延勝寺と六寺が甍を並べていました。これらを総称して六勝寺とよびます。
成勝寺は保元の乱に敗れ、讃岐国(香川県)に流された崇徳院が建てた寺院で、
院の怨霊を慰撫するために法華八講の法要がこの寺で行われました。


「みやこめっせ」の辺りにあった成勝寺は
崇徳天皇在位中の保延5年(1139)に落慶法要を行っています。
当時、岡崎一帯には壮大な寺院が林立し、周囲には皇族・貴族・僧侶、

また彼らの生活を支える商人なども集まり住んでいました。



成勝寺西方の琵琶湖疏水を越えた辺に近衛天皇御願の延勝寺がありました。
みやこめっせの西隣に「延勝寺跡」の石碑がたっています。


田中殿跡 (崇徳天皇)
崇徳天皇廟京都祇園 
『アクセス』
「成勝寺跡の碑」京都市左京区岡崎成勝寺町 
市バス「岡崎公園前」すぐ

『参考資料』 
山田雄司「怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院」中公新書 

山田雄司「跋扈する怨霊 祟りと鎮魂の日本史」吉川弘文館 
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
「崇徳上皇御遺跡案内」鎌田共済会郷土博物館 
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店

「西行のすべて」新人物往来社 「京都市の地名」平凡社
新編日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館 



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船岡山は京都市北区紫野にある高さ120mの丘陵です。
京都に都が移された時、船岡山は、陰陽五行・風水思想に基づいて
玄武の
山とされ、真南に平安京の大極殿・朱雀大路が定められたといわれています。
平安中期頃から末期にかけては、葬送の地となります。
応仁の乱では、この山が西軍山名宗全の陣地となり、
東軍細川勝元を迎えて戦っています。山の東側の建勳(たけいさお)神社、
通称「けんくんじんじゃ」は、明治天皇が織田信長の偉勲を讃え、
信長公を祀られたのが起こりです。
ここから少し
足を延ばした大徳寺の北辺には、牛若丸や常盤の史跡が点在しています。




船岡山の頂上からは「左大文字」が間近に見えます。

『保元物語』によると、保元の乱後、源義朝の弟・頼賢・頼仲・為宗・為成・
為仲らは捕えられて、
船岡山で処刑され、13歳乙若や
元服前の幼い弟たちもここで処刑されたとしています。

「六条堀川の弟13歳乙若や11歳亀若・9歳鶴若・7歳天王の首も刎ねよ。」との
義朝の命を受けた波多野義通は、彼ら
をだまして船岡山に連れて行きます。
義通は義朝からの命であることを告げ、一番年長の乙若に遺言はないかと
尋ねます。
「さて義通よ、下野殿(義朝)に次のことを伝えてくれ。清盛に
だまされなさったことに
お気づきであろうか。昔も今も例のない実の父の首を斬り、
罪のない幼い弟たちまでも殺そうとなさる。源氏一門の多くを失わせ
下野殿一人にしてしまってから、平家が源氏を滅ぼそうとしていることを。源氏の
家系が絶えてしまうのが残念だ。その時になって『乙若は幼いが
よく言い当てた』と
納得されるでしょう。それは遅くて七年早くて三年に
ならぬうちのことよ。」と
いい終わると西に向かい念仏を声高に十数遍唱えて
首をのべて討たせました。
平太政遠はじめ4人の子らの乳人(めのと)も
その場で後を追い自害し、
為義の妻も桂川に身を投げました。
このように保元の乱後、
大炊一族は為義の妻、その子供達や天王の乳人(めのと)政遠と
一度に六人も失いました。
その後の平治の乱で、義朝は清盛に敗れ東国へ向かう途中、青墓に立ち寄り、
その際、大炊の弟源光は、義朝を尾張の内海へと送り届ける役目を引き受けています。
『兵範記』には、乙若以下、幼い弟たち4人の処刑は見えず、為義と義朝の弟
頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲らを同時に船岡山で処刑したとしています。

内記大夫行遠の娘は源為義の晩年の妻となり、
乙若・亀若・鶴若・天王を儲けています。


内記とは中務省に属する官名で、行遠は大夫(五位)の位をもつもと京武者で
青墓の長者と結婚し在地の武士となっています。当時、青墓宿の長者は女性で
大炊長者とも呼ばれ、その管理下には多くの遊女がいて、後白河院によって
編纂された「梁塵秘抄」には、
青墓の遊女達がうたう今様も集められています。
長者の娘延寿は義朝の娘夜叉御前を生んでいます。


織田信長がはじめて上洛したという10月19日には、毎年船岡祭が催され、
信長が好きだったという幸若舞「敦盛」の中の一節「人生五十年化天のうちを
比ぶれば、夢幻の如くなり…」に因み能「敦盛」が舞われ、鎧武者に扮した
古式砲術流儀保存会による、火縄銃の実演が行われ戦国時代を偲ばせています。




『アクセス』
「船岡山」京都市北区紫野北舟岡町 市バス「船岡山」下車3分。
「建勳神社」京都市北区紫野北舟岡町49 市バス「建勳神社前」下車すぐ
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 竹村俊則「京都名所図会」(洛中)駿々堂
 五味文彦『源義経』岩波新書 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
 野口実「源氏と坂東武者」吉川弘文館 元木泰雄編「院政の展開と内乱」吉川弘文館 
奥富敬之編「源頼朝」新人物往来社
「源平合戦事典」吉川弘文館 日本歴史地名大系「岐阜県の地名」平凡社


 
 




 
 
 





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