平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平治の乱で平家に敗れた源義朝は、再起を図るため東国へ落ちる途中、
尾張野間の相伝の家人長田忠致の屋敷に辿りつきましたが、
源氏に見切りをつけた長田忠致は、主君を湯殿に誘い殺害しました。
義朝が保元の乱で父や弟を滅ぼしてから僅か三年後のことでした。
この後、義朝の嫡子の頼朝やその弟たちも配流・出家させられます。

義朝が無念の最期を遂げた野間には、義朝の廟所がある大御堂寺をはじめ
義朝にちなむ史跡や伝承遺跡が点在しています。

名鉄「野間」駅から杉谷川沿いを東へ、乱橋跡から山際へと進みます。

町指定文化財(史跡) 伝 源義朝公最期の地  
湯殿跡
平治二年(1160)正月 京都平治の乱に於いて平清盛軍に敗北した
源義朝公が源氏再興の有志をもって関東地方に逃亡の途中 
この地より西七00米にあった長田屋敷に逗留中 正月三日初湯に
招かれその入浴中に長田父子に謀殺された湯殿跡地 
(平成三年十二月三日指定) 美浜町教育委員会

湯殿跡にある義朝像。

義朝が最期を遂げたという湯殿跡。

湯殿跡から山道を上ると、法山寺に本尊の湯殿薬師が祀られています。
法山寺
縁起によると行基が薬師堂と浴室を建て、後に源頼朝が
長田忠致の湯殿跡に父義朝の冥福を祈って法山寺を建立し、
行基作の薬師像を安置し、長田の遺領を寄進しました。
江戸期には、大御堂寺領のうち21石余を分与されました。




町指定文化財(史跡) 「伝 源義朝公最期の地」
千人塚
平治二年(1160)長田父子が源義朝公を謀殺した時に長田一族が義朝公の
家臣渋谷金王丸や鷲栖玄光らと戦って討ち死にした多くの者を集めてこの地に
埋めたと言われている。また首のない義朝公の胴体を埋めたという伝えもある。
(平成三年十二月三日指定)  美浜町教育委員会





町指定文化財(史跡) 「伝 源義朝公最期の地」
乱橋跡
平治二年(1160)正月三日 義朝公謀殺の大事を聞いた家臣渋谷金王丸や
鷲栖玄光らが湯殿にかけつけるとき長田の家臣とこの地にあった
橋のあたりで乱戦し後にこの橋を乱橋と言われるようになった またその昔
法山寺の本尊薬師如来への参詣者が多く潮の満ち引きの間に
この橋を競って渡り常に橋板が乱れがちであったとも言われている
 (平成三年十二月三日指定)  美浜町教育委員会


野間はりつけの松・長田忠致屋敷跡 
さてここで『平治物語』から、(忠致心替りの事)の章段の
あらすじをご紹介させていただきます。
平治の乱に敗れ、都を落ちた義朝は、乳母子鎌田正清(政家)の舅
長田忠致(おさだただむね)を頼って知多半島に向かいます。
鷲栖の玄光(わしのすげんこう)が杭瀬(くいせ)川から義朝一行を
船に乗せ知多半島の先端野間のすぐ南の内海まで運びました。
玄光法師は青墓の長者大炊(おおい)の弟で、
大炊の娘延寿は義朝との間に夜叉御前を儲けています。
(鷲栖は現、岐阜県養老郡養老町鷲巣)

源氏の家人でもある忠致は一行を手厚くもてなし、先を急ぐ
義朝主従に
「せめて正月三ヶ日が過ぎてからお立ちください」と
引きとめられ「それでは」と
逗留することになりました。
息子の景致(かげむね)を呼んだ忠致は「さてこの殿(義朝)を

このまま下向させるか、ここで討つかどう思う。」と尋ねると
「東国へ下っても
どうせ行き着くことはできないでしょう。
人の手柄にするよりもここで討って
平家に恩賞を頂きましょう。
義朝の所領全部貰えれば云うことありませんが、

そうでなくとも尾張の国だけでも賜れば子孫繁栄は間違いありません。
殿を湯殿に騙しいれて大力の橘七五郎に組みつかせ、
弥七兵衛・濱田三郎に
刺し殺させましょう。
父上は正清を呼んで一緒に酒を飲み戦い(平治の乱)の様子を

お聞きなさいませ。そのうち殿が討たれなさったと聞いて
走り出す正清を
私が板戸の影で待ち受けていて斬りましょう。
平賀四郎は別の座敷で
もてなしておいて、
主君が斬られたと聞いて落ちて行くならほっておきましょう。

向かってくるなら斬伏せましょう。玄光と金王丸は、番所にいる
若い奴らの中に
入れ、刺し殺してしまえば問題ありません。」と
何やら恐ろしいことを申します。


いよいよ正月も三日となり、湯屋に湯を沸かさせ「都での合戦、
道中のご苦労
さぞ大変だったことでしょう。
お湯をお使い下さいませ。」と申し上げると

やがて義朝は湯殿に入ります。手筈通り鎌田正清には
舅の長田忠致が酒をすすめ、
平賀四郎義宣(よしのぶ)を座敷で、
玄光を番所でもてなします。
今なら家ごとにお風呂がありますが、当時はそういう習慣はなく、
「湯屋」というのは、家の外に特別に造った湯殿です。


湯殿の外では三人が中の様子を窺いますが、金王丸が刀を持って
義朝の背中を
流しているので、襲う隙がありません。
そのうち金王丸が「誰かおらぬか殿に御帷(単衣衣服)差し上げてくれ。」と
呼びますが、返事がないので湯殿から出たすきに三人が走りより
一人が義朝をむんずと抱き、二人の者が義朝の左右から
脇の下を二度ずつ刺しました。
「正清はおらぬか。金王丸は!義朝が討たれたぞ」
この言葉を最後に平治二年正月三日義朝は38歳で亡くなりました。
金王丸はあわてて湯殿に駆け戻り「憎い奴らめ、
一人も逃がさないぞ。」と三人残らず斬り伏せました。
一方舅と酒を飲んでいた正清は、主の一大事を聞き走り出す所を
景致に斬られ、義朝と同い年の38歳で亡くなってしまいました。

主人の謀殺を聞いた平賀四郎は、弓矢を取って走り出て、
玄光も番所から飛び出して長田父子を討とうとしまが、
二人共すでに逃げ去りどこにもいません。
平賀と玄光は背中合わせになって長田の家臣を七、八人斬りすて、
厩から馬二頭引き出して乗り走り去りました。

正清の妻は夫が討たれたと聞き、亡骸にとりついて夫の刀を
とり胸元に当て、28歳の若さであとを追いました。
娘が自害したのを聞いた忠致は「義朝を討ったのも子供達を
出世させようと思うためであったのに」と
嘆きますが今更どうしようもありません。
忠致は義朝と鎌田の首をとり死骸を一つ穴に埋めさせました。
「いくら出世したいからといって、主君と娘の婿を殺すとは長田忠致は
無法者である。義朝は保元の乱で父の首をはね、平治の乱では
家人の長田に討たれてしまった。相伝の主を討った忠致は
この先どのようになるのだろうか。おそろしや。」と人々は噂しあいます。
『アクセス』
「法山寺」愛知県美浜町野間田上 名鉄電車「野間」駅下車徒歩約7分

『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 「愛知県の地名」平凡社
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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平治の乱に敗れた 義朝は東国へ敗走の途中、美濃国青墓宿に立ちよりました。
青墓の長者大炊(おおい)の娘延寿は、義朝となじみの間柄で
2人の間に夜叉御前がいました。
それだけでなく大炊の姉は、義朝の父為義の晩年の愛人となり、
乙若・亀若・鶴若・天王を儲けています。
保元の乱後、為義や乙若以下、幼い4人の息子を処刑され、
延寿の伯母が桂川で入水したことや天王の乳人であった平太政遠が、
主君の後をおって自害したことが『保元物語』に記されています。

大炊は義朝にここで年を越してから出発するよう引きとめます。
義朝は「ここは街道沿いなので人目が多くて危い」と出立しようとする所に、
宿の男達が義朝の噂を聞きつけ多勢で押し寄せましたが、
佐渡式部重成がこの窮地を救ってくれました。
自ら義朝と名乗り、重成が自害する間に義朝らは青墓宿を出ました。

義朝は乳母子の鎌田正清に「街道は宿場、宿場で平家が固めていてとても通れまい。
ここから川をくだって尾張の内海に行きたいと思うがどうであろう。」と言うと
「鷲の栖(養老郡養老町鷲の巣)源光(平三真遠)は、永く比叡山の僧徒でしたが、
現在は養老寺の住職をしていて逞しい男です。頼りになさいませ。」と申すので
使いをやると大炊の兄弟にあたる源光は小舟を一艘用意し「追われている身なら、
萱の下に隠れてなさい。」と言って義朝・平賀四郎・鎌田正清・金王丸を乗せ、
萱の上にさらに柴を積んで杭瀬川を下っていきました。

今の杭瀬川は狭い川ですが、昔はかなりの川幅があり流れも速かったようです。
途中、関所の番人が、舟を止め積んである柴を除けます。万事休す!
源光は自分も自害し左馬頭殿にも自害して頂こうと思っていると、
関所の番小屋から一人の侍が出てきて「義朝殿が落ちるのに
どんなに小人数といっても2、30騎より少ないことはあるまいし、
こんな小さな舟で下るとも思われない。早く行け。」こうして関も無事通過し、
川から海上に出て12月29日、一行を野間内海に送り届けました。

杭瀬川に架かる杭瀬橋



義朝が頼った知多半島内海の長田(平)忠致は、尾張国野間内海荘、
駿河国長田荘を所領としていたので長田(おさだ)庄司ともいい、
源氏代々の家人です。その上、鎌田正清(正家・政清とも)の
舅でしたから、信頼し立ち寄ったというわけです。
野間内海に辿りついた時には、馬もなく裸足という惨めな姿の義朝を
長田忠致は屋敷に泊め、さまざまにもてなし新年を迎えます。

『保元・平治の乱を読みなおす』によると「長田忠致は、平将門の叔父良兼の
系統に属する。10世紀末から11世紀の初め、良兼の孫致頼(むねより)、
その子致経が伊勢の所領をめぐって、貞盛の子維衡らと抗争するが敗北。
拠点を失って尾張に逃避したのであろう。河内源氏との主従関係が
いつ形成されたのかは不明だが、鎌田正家の舅とあるから、
京と東国を往復する義朝に接近して、郎従とも姻戚関係を
結んだものと考えられる。」と書かれています。

一方、吹雪の中で父とはぐれた頼朝は「正清はおらぬか。
金王丸はおらぬか。」と呼びながら一晩中さまよい歩き、明け方近くなって
山寺の麓にある小平(栗東町小平井か)という里に迷い出ました。
とある小屋の軒下に立っていると「左馬頭殿(義朝)やご子息が大勢でこの山に
差しかかられたそうだが、この雪の中どうして落ち延びることができようか。
探して捕え平家に褒美をもらおう。」と中から話す声が聞こえてきます。

頼朝はこっそり足音を立てないように立ち去り、思案にくれ
谷川のほとりの石に腰をかけていると、ある鵜飼が頼朝を見つけ
「左馬頭殿のお子様でいらっしゃいますか。平家の侍どもが、山から里に
下りてきて家ごとに探すと聞いております。私どもの家においでなさい。」と
声をかけます。「何をかくそう。我は義朝の子なり。汝は情けある者のように
みうける。頼朝を助けよ。」と仰ると鵜飼は頼朝を背負って家に連れて帰り、
食事をさしあげるとようやく人心地がついたようです。

鵜飼は急いで納戸の床板を外して穴を深く掘って頼朝を入れ、床板を
打ち付けた所に平家の侍がやってきて家中探し、納戸の床を破ったり
天井の上までも探しますが、誰もいないので出て行きました。

鵜飼は髭切の太刀を包んで持ち頼朝を女房姿に変装させ、男が女を
連れていく様子で小関を通って青墓の宿まで送ってくれました。
頼朝は「万一自分が世に出る時がくれば訪ねてくれ。
この恩は決して忘れないぞ。」と言って鵜飼を帰します。

頼朝はこのあと青墓の宿で平宗清に捕えられて伊豆に流され、
二十余年の年月を送り世に出た時、まずこの鵜飼を訪ね
小平をはじめ十余ヶ所を与えました。
『情けは人のためならず』とはこのようなことをいうようです。
青墓の大炊の屋敷に行き「頼朝なり」と仰ると、
大炊や延寿は大喜びでさまざまにもてなします。
『アクセス』
「赤坂総合センター」
JR大垣駅 →「赤坂総合センター行き」バス 約25分終点下車
赤坂総合センター隣の消防署で無料レンタサイクルをお借りしました。
「長田屋敷跡」名鉄電車知多新線「野間」駅下車
(名鉄電車名古屋駅から約1時間)徒歩約7分

『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス

日本歴史地名大系「岐阜県の地名」平凡社 「平安時代史事典」角川書店
 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 



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 保元・平治の乱の頃には、大炊氏と源氏の間には
深い姻戚関係があったことは前回述べました。
大炊(おおい)氏の先祖多臣品治(おおのおみほむじ)は壬申の乱で
活躍し、その子(甥とも)太朝臣安万侶(おおのあそんやすまろ)は、
我国最古の歴史書古事記を編纂した人物です。

今回は時代を遡って、わが国古代史最大の争乱といわれる壬申の乱を
簡単に見てみます。壬申の乱の原因は色々ありますが、中心になるのが
天智天皇の子大友皇子とその叔父大海人(おおあま)皇子の間で
7C後半に起こった皇位継承争いです。都を近江大津宮に移していた天智天皇は
陰で自分を支えてきた同母弟の大海人皇子を後継者としていましたが、
息子の大友皇子(後の弘文天皇)が成長すると、大友皇子を太政大臣に任命し
即位を願うようになります。これをさとった大海人皇子は、
自身の微妙な立場を考慮し出家して吉野にこもります。

まもなく天智天皇が近江大津宮で崩御した後、近江朝廷が不穏な動きを
見せているとの報告を受けた大海人皇子は、美濃にある自分の領地を基盤にして
672年6月反乱を起こします。当時美濃国には、大海人皇子に与えられていた
湯沐邑(ゆのむら)があり、そこを管理していたのが多臣品治です。
湯沐邑は皇太子や皇后の領土で、湯沐邑を管理する役人を湯沐令(ゆのうながし)
といいます。大海人皇子の湯沐邑は、濃尾平野の西から長良川と揖斐川に
挟まれた地・現在の安八群、大垣市ほぼ全域とその北側の揖斐郡の一部で、
そこには鉄や銅を産出する金生山もあるという豊かな土地です。

日本書紀によると大海人皇子は、側近として仕えていた美濃の豪族
村国男依(むらくにのおより)・和珥部臣君手(わにべのおみきみて)
身毛君廣(むげつきみひろ)を呼び「聞くところによれば近江朝廷の者は、
私を殺そうとしている。急いで美濃国へ行き管理人多臣品治に告げ、兵を集め
美濃国司に圧力をかけ、まず不破道を塞げ。」と命じたと書かれています。
美濃と近江を結ぶ不破道を塞いで近江朝廷軍を防ごうというわけです。

まもなく大海人皇子も吉野から徹夜で伊賀への道を急ぎ、途中合流した
長子の高市皇子(たけちのみこ)と鈴鹿の道を塞ぎ美濃に入り、
不破の野上に行宮をおいてここから全軍に指令を出しました。
一方先手を打たれた大友皇子側は、諸国に兵を募りますが、東国に送った使者が
不破道で大海人皇子軍に阻まれ、近江軍内部でも分裂が起こります。
さらに近江朝廷を見限って大海人皇子が挙兵する数ヶ月前から
大和に帰っていた大伴吹負(ふけい)が大海人皇子側について兵を挙げて、
近江を南から攻め、東山道では、村国男依が不破から息長(おきなが・
現米原市醒ヶ井)で近江軍を破り以後連戦連勝し近江に入ります。
最終決戦地となった瀬田でも、近江大津軍は大敗し大津京は陥落します。
大友皇子は山中で首を吊り、壬申の乱は二十日位で決着がつきました。

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◆「関の藤川(藤古川)」 自害峯と不破関跡の間を流れる川で、
壬申の乱では、この川の東が大海人皇子、西が近江朝廷側であった。

◆「自害峯(弘文天皇御陵候補地)」 不破関跡から旧中山道に沿って
藤古川を越えて西へ少し行くと自害峯の道標があります。
壬申の乱で自害された大友皇子の御首をもって、村国男依は凱旋し
大海人皇子が首実検して自害峯に葬ったと伝えられています。

◆「黒血川」自害峯の麓を流れる小さな川ですが川底が深く壬申の乱では
軍事上の要所となり、両軍の血潮で川が黒々と染まったといわれています。








壬申の乱後、大海人皇子は功労者を讃え天武二年(673)
飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはら)で即位し天武天皇となります。
地方豪族政治から中央集権政治への切り替え、公地公民制の推進や
八色(やくさ)の姓を制定し、天武天皇は古代天皇制の基礎を作ります。

さらに神代から続く天皇家の系図や歴史をまとめようとしますが、

諸家(大伴氏等)が持ち寄った王統譜「帝紀」や伝承「旧辞」に誤りが多いため、
記憶力に優れた当時28歳の稗田阿礼に命じて誦習させます。
それは「勅語旧辞」と呼ばれて伝えられますが完成しませんでした。

天武十三年(684)になって、壬申の乱で三千の兵を率いて伊賀国た萩野
(たらの・三重県上野市)で近江軍を撃退した多臣品治は、
朝臣の姓を賜り翌年には御衣袴を賜りさらに持統十年(696)には、
直広壹位を授けられたとあります。

奈良時代になって元明天皇は、和銅四年(711)稗田阿礼が誦習したものを
太安万侶にまとめ編纂するよう命じます。
和銅五年(712)太安万侶は天地開闢に始まりイザナギ命・イザナミ命の
国生み神話、スサノオノ命の大蛇退治など神代より推古天皇に至る皇室の系図を
中心に神話・伝説・歌謡を収録した古事記三巻を献上します。
昭和五十四年、奈良市田原の茶畑で太安万侶の墓誌が遺骨とともに出土し
墓誌には「左京四条四坊(居住地・奈良市三条添川町、三条宮前町、三条大宮辺)
従四位下勲五等(位階勲位)太朝臣安万侶、癸亥年(養老七年・722)
七月六日を以ちて卒す。(没年) 養老七年十二月十五日乙巳」と
記してあり、ビッグニュースになりました。
『アクセス』
「不破関跡」岐阜県不破郡関ヶ原町松尾21-1 JR関ヶ原駅下車徒歩20分

「弘文天皇陵」京阪電車石山線別所駅より徒歩10分
弘文天皇参拝道の碑を西へ少し行った角(大津市の案内板あり)を左折すぐ
『参考資料』
直木孝次郎「壬申の乱と古代の美濃」大垣市文化財保護協会編 
00年7月号、01年2月号「歴史読本」新人物往来社

№649「近畿文化」近畿文化会事務局  倉野憲司校註「古事記」岩波書店 
「日本古代氏族人名辞典」吉川弘文館

 





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