平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 


「畠山重忠邸址」の石碑は、鶴岡八幡宮の東の鳥居を出たところに建っています。
重忠は武蔵武士の代表格で、文武両道に秀でた武士でした。
その重忠が鎌倉に来た時に用いる宿所がここにあったのです。

畠山重忠は頼朝挙兵の際、当初は敵対しますが、その後、頼朝が安房に逃れ
上総・下総の武士を束ねると、重忠はじめ河越重頼・江戸重長らの秩父一族は
そろって長井の渡し(東京都荒川・台東区付近)に出かけ、頼朝に服従を誓いました。
そして重忠は三万ほどの頼朝の軍勢が鎌倉に入る時、その先陣をつとめています。

それは東国武士の心を一つにするのに大いに効果があり、
まだ気の許せない豪族も多かったのですが、
緒戦で平家方であった重忠が先陣を命じられたと聞き、
武蔵・相模の武士たちが競って源氏の陣に加わりました。

後に頼朝の深い信頼を得た重忠は、北条時政の娘を妻とし、
頼朝とは義兄弟の間柄となります。

重忠が鎌倉に邸宅を構えた場所は『吾妻鏡』に「南御門の宅」とあり、
大蔵幕府の南門前の一等地で、
重忠の幕府における重要な立場を示すものといえます。



「正治元年五月 頼朝ノ女三幡(さんまん)疾ミ 之ヲ治センガ為 
当世ノ名医丹波時長京都ヨリ来レル事アリ 東鑑ニ曰ク七日時長 
掃部頭親能ガ亀ガ谷ノ家ヨリ
 畠山次郎重忠ガ南御門ノ宅に移住ス 是近々ニ候ゼシメ
 姫君ノ御病悩ヲ療治シ奉ランガ為ナリト 此ノ地即チ其ノ南御門ノ宅ノ蹟ナリ
  大正十二年三月  鎌倉町青年団建」(碑文)

(正治元年(1199)5月、源頼朝の娘が病気にかかり、これを治すために、
当時一番の名医といわれた丹波時長が京都からやってきました。
七日に時長が、中原親能(ちかよし)の亀が谷(かめがやつ)の家から、
三幡の近い所に居て病気治療にあたるため、
吾妻鏡に畠山重忠の南御門の宅に移動したと書いてある
南御門邸跡がこの石碑のある辺りです。)

重忠は武勇だけでなく歌舞音曲にも優れ、
静御前が鶴岡八幡宮で舞を見せた時、銅拍子をうつなどしています。

頼朝死後、北条時政の策略により、息子の重保が謀反の疑いをかけられ、
三浦義村に由比ヶ浜で謀殺された時、何も知らない重忠は
鎌倉に変事ありと聞き、134騎を伴っただけで鎌倉に出立し、
武蔵国二俣川(現、横浜市)で北条時政の子義時の大軍に攻められ、
一族もろとも討たれました。42歳の時でした。
畠山重忠公史跡公園(畠山重忠の墓・畠山重能の墓)  
 畠山重忠(満福寺)   畠山重忠館跡(菅谷館跡)  
『アクセス』
「畠山重忠 邸 跡の石碑」
鎌倉市雪ノ下3-2 ( 鶴岡八幡宮 東鳥居 の向い )
JR「鎌倉駅」下車、徒歩12、3分 
『参考資料』
貫達人「畠山重忠」吉川弘文館 安田元彦「武蔵の武士団」有隣新書

 

 




 



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都を追われ九州に逃れた平家はやがてここも追われ、一門の新たな拠点が屋島でした。
屋島の内裏ができるまで六萬寺を安徳天皇の御所としていました。



都落ちした平家は8月末に九州に辿りつき、
肥後国(熊本県)の豪族菊池隆直の案内で大宰府に入ります。
都を出たのが7月25日ですから1ヵ月以上かかったことになり、
それまでは船上で日を送っていたものと思われます。

日宋貿易の重要な拠点でもあった大宰府を清盛次いで異母弟の頼盛が
大宰大弐(大宰府長官)となって管理していた頃から、
九州は平家の地盤であると平家の人々は思っています。

ところが清盛が亡くなる前後から平家の没落を察して
全国で叛乱が激化、九州でも菊池隆直が謀反を起こします。
九州鎮圧のために派遣された平貞能がようやく乱を平定して都へ帰り、
続いて源行綱謀反の報に淀川河口に出陣しますが、
誤報と分かり戻る途中、
都落ちの一門に遭遇し棟梁の宗盛に西国の情勢を説明、
都での決戦を進言したことは「平家一門都落ち(鵜殿)」で述べました。

当時、大宰府の現地官僚の最高責任者大宰小弐を務めていたのが
平氏家人の原田種直でした。
安徳天皇は原田種直の館(福岡の南)に入り、当面ここを行宮にします。
一門の人々の住まいは野の中、田の中にあり、歌に詠まれた
大和国の十市の里そのままのひなびた風情です。

平家は大宰府に都をつくり内裏を造営しようとしますが、
その動きを抑えにかかったのが後白河法皇です。
法皇が側近の豊後国(大分県)国司藤原頼輔(よりすけ)に
平氏を追放するよう命じると、頼輔は息子頼経を豊後国に差向けます。
頼経は同国の有力武士緒方三郎惟義に平家一門を
決して豊後国に入れてはならぬこと、
院宣に従って平家を追討するよう指示します。

緒方三郎は九州・壱岐・対馬の武士にこの院宣を伝えたので、
これらの国の主な武士達は、緒方三郎に付き従います。
都からお供をしていた菊池隆直も肥後国に帰り、
そのまま自分の城に籠もって戻っては来ません。

緒方三郎はもと重盛(清盛の嫡男)の家人だったので、
重盛の次男資盛が緒方三郎を説得する使者に選ばれ、
五百騎を従えて資盛の家人で、九州の事情に詳しい
平貞能(さだよし)とともに豊後国に出向きます。
重盛の嫡男は維盛ですが、
富士川合戦・倶利伽羅合戦で惨敗して勢力を弱め、
法皇と親密な関係にあった資盛や重盛の腹心であった貞能が
適任と緒方との折衝に派遣されました。

しかし緒方三郎は説得に応じる様子は全くなく資盛らを追返します。
さらに息子を大宰府に遣わして平家に退去を迫ります。
この時、時忠(時子の弟)は緒方らの忘恩をなじります。
その報告を聞いた緒方三郎は立腹し
「こはいかに、昔はむかし、今は今」と大宰府に大軍を差向けたので、
取るものもとりあえず逃げ出します。激しい雨の中建礼門院はじめ
女房たちまでが、かちはだしで海岸沿いを東へ。
迎えられて遠賀川河口に近い山鹿秀遠の居城に籠もりますが、
ここも敵が攻めて来るというので柳ヶ浦へ渡ります。
さらにここも追われて、漁の小船に乗り海上に出ます。
長門国(山口県)の目代紀伊道資は平家が小船に乗ったと聞き
大船百余艘調達して献上します。
これらの船に乗り込み再び瀬戸内海に出て、東へと漕ぎ出します。

この時、平貞能は出家して九州に留まり、
重盛の三男清経は前途を悲観して柳ヶ浦で入水します。
清経は「都を源氏に追い出され、九州を緒方三郎に攻め落とされ、
まるで網にかかった魚のようだ。
どこに行っても逃げ切れないであろう。」と静かに経をよみ、
念仏を唱え海に身を投げたとされる。
なお柳ヶ浦の地をめぐっては、伝承地が二ヶ所あります。
一つは北九州市門司の海岸、もう一つは大分県宇佐市柳ヶ浦です。

こうして九州各地を追われた平家は
四国の水軍・阿波民部成能(しげよし)の計らいで屋島へ逃れます。
成能は味方する四国の者の力を借りて、内裏や御所を造らせます。
平家はこの地を本拠地と決め、やっと落ち着くことになりました。
都を出てから3ヶ月目の頃のことです。

成能は阿波国の豪族で、早くより平家重臣の一人となり、
平重衡が南都の大衆を攻め、焼討を行なった際には先陣を務め、
また清盛が大輪田泊の造営を行なった時、
成能は奉行を命じられこの難工事を完成させます。







六萬寺(真言宗)
六萬寺は五剣山(八栗山)の中腹、源平屋島古戦場の東にあります。
寺伝によると天平年間に悪疫が流行し、聖武天皇の命により、
行基が創建して祈願したところ疫病は終息したという。
その後、大いに隆盛して七堂伽藍が備わった寺院となり、
薬師如来六万体を安置して六萬寺と呼ばれ、
牟礼・大町一帯に多くの支院をもち寺域も広大であったという。
源平合戦では、屋島内裏造営の間、安徳天皇の行在所とされましたが、
長宗我部元親の兵乱により鐘楼一宇を残して伽藍は焼失、
江戸時代に高松藩主松平頼重が伽藍を再興したと伝えられています。

境内の一角には、「安徳天皇生母徳子之碑」と
安徳天皇と建礼門院徳子を祀る祠があります。




平家一門都落ち(安徳天皇上陸地)  
 『アクセス』
「六萬寺」高松市牟礼町牟礼田井 
琴電「六万寺」駅下車 
北へ坂道を1kmほど団地の方向に上ります。
徒歩約20分。安徳天皇慰霊祭は例年5
月第4日曜日に行われます。

 『参考資料』
角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫 高橋昌明「平家の群像」岩波新書 
 別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社 
「香川県の地名」平凡社
 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店  「謡曲集」(中)新潮社 
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 「検証・日本史の舞台」東京堂出版

新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫

 

 

 

 



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