阪急京都線「上新庄」駅から大阪シティバスに乗り、
「江口君堂前」で下りると、近くの歩道橋傍に
「江口君堂参道 東へ300米」の石標が建っています。
参道を進むと、淀川堤の手前に江口君堂があります。




寂光寺(江口の君堂)
宝林山普賢院、日蓮宗妙経寺末寺、本尊釈迦多宝二仏。
寺伝によると、出家した妙こと(光相比丘尼=こうそうびくに)が
普賢菩薩に様を変えて白象に乗って去ったので、弟子の尼僧たちが
その邸跡に宝塔を建て宝林山寂光寺と名づけたとしています。

江口は神崎川が淀川から分かれる分岐点にあたります。
平安時代末期、熊野三山・高野山・四天王寺・住吉社などの参詣には、
淀川の水運にたよるところが多く、江口は交通の要衝でした。
港の宿場町として発展し、社寺参詣の貴族や
往来の客をもてなす遊女が集まり遊郭が形成されました。
当時の遊女には二通りありました。
貧しい家の娘が小舟に乗って今様を謡い、旅船に招かれて
酒宴や歌舞の相手をし、時には色を売る遊女と
遊郭にあって礼儀作法も十分わきまえ、
詩歌・管弦の教養を身につけた高級遊女がいました。
平安末期の大江匡房(まさふさ=儒学者・歌人)の『遊女記』は、
江口には允恭(いんぎょう)天皇后の衣通(そとおり)姫に劣らぬ
美貌と教養のある遊女が多かったと記しています。
『御堂(みどう)関白日記』は、藤原道長が江口の名妓
小観音という遊女を寵愛したとか、上東門院の住吉詣に供奉した
息子の関白頼通が中君という遊女に夢中になったと伝えています。
寺伝によると、江口の君(遊女妙)は、平資盛(重盛の次男)の
娘であったとしていますが、定かではありません。
源平争乱以後、落武者や討死した武将の妻子が遊女に身を落として
江口に多く住んでいたと思われ、江口の君の素性が平資盛の
娘であるという説もこのような所から関係づけられたようです。


仁安2年(1167)9月、西行は天王寺詣での途中、江口の里で雨にたたられ、
とある民家を訪ね雨宿りを頼みましたが、家主の江口の君は墨染姿の西行を見て、
こんな粗末な宿では恐れ多いと思ったのか断りました。
降りやまぬ雨に西行は途方にくれ、詠んだのが次の歌です。
♪世の中を いとふまでこそ かたからめ 仮の宿りを 惜しむ君かな
(貴女に出家してくれと言っても難しいでしょうが、雨宿りの宿を
貸すことぐらいはそんなに難しいことでもないでしょうに)と詠むと
遊女は、すぐさまこう返しました。
♪世をいとう 人としきけば 仮の宿に 心とむなと 思ふばかりぞ
(ご出家の身だとうかがっておりますので、私のかりそめの宿などに
心をお留めにならないようにと思っただけです。)と
皮肉まじりに軽くやり返しました。
二人の歌問答は『新古今和歌集』(巻10羇旅歌)に収められ、
女主の名は遊女妙と記されています。

ふたりの問答を刻んだ歌碑が境内の中央にあります。
正面に「南無妙法蓮華経 賜紫日顓」
右側面に西行の歌、左側面に妙の歌が刻まれています。
もとは歌塚と呼ばれて淀川の堤防上あったもので、
明治39年(1906)の淀川の改修工事際、ここに移されました。

常盤津塚 七世常磐津文字太夫(ときわづもじたゆう)の7回忌にあたる
昭和32年に彼の功績を顕彰して建立されました。

尼僧姿の江口の君座像が安置されている本堂。

君塚・西行塚 大正6年(1917)7月建立

江口の鐘
淀川を往来する川船は、時を告げるこの鐘の
美しい音色に諸行無常を感じたという。
現在の梵鐘は昭和29年の再鋳で、
高浜虚子・後藤夜半・阿波野青畝らの俳句が刻まれています。
高浜虚子 くまもなき月の江口のシテぞこれ
阿波野青畝 早乙女の笠預け行く君の堂
高野素十 鳥威しきらり/\と君堂に
中村若沙 十三夜ともす君堂田を照らし
高浜年尾 冬鵙や君の堂へと水に沿ひ
後藤夜半 菜の花も減りし江口の君祭
田村木国 梅雨茸も小さくて黄に君の墓
当地のお盆の灯籠流しを詠んだ青畝(せいほ)句碑
流燈の帯の崩れて海に乗る 昭和37年1月建

本堂前に江口の君堂の由来を記した説明板が建っています。
遊女妙(江口の君)は、平資盛の娘で平家滅亡後、
乳母の故郷江口に住み、のち光相比丘尼となり死後、
弟子たちが寂光寺を建立したと記してあります。

「由緒 大阪市文化財顕彰史蹟指定
当寺は摂津の国中島村大字江口に在り、宝林山普賢院寂光寺と号すも、
彼の有名な江口の君これを草創せしを以って、一に江口の君堂と称す。
そもそも江口の君とは平資盛の息女にして、名を妙の前と言い
平家没落後に授乳母なる者の郷里、即ち江口の里に寓せしが、
星移り月は経るも、わが身に幸巡り来らざるを欺き、
後遂に往来の船に樟の一ふしを込め、
秘かに慰さむ浅ましき遊女となりぬ。
天皇第七十九代六條帝の御宇、仁安二年長月二十日あまりの頃、
墨染の衣に網代笠、草から草へ旅寝の夢を重ねて、
数々のすぐれた和歌を後世に残せし西行法師が浪華の名刹天王寺へと
詣でての道すがらこの里を過ぎし時、家は南・北の川にさし挟み、
心は旅人の往来の船を想う遊女のありさま、
いと哀れ果敢なきものかと見たてりし程に、冬を待ち得ぬ
夕時雨にゆきくれて、怪しかる賎が伏家に立寄り、時待の間
仮の宿を乞いしに、主の遊女許す気色見せやらず、
されば西行なんとなく
世の中をいとうふまてこそかたからめ かりのやとりを おしむ君かな
と詠みおくれば、主の遊女ほほえみて
世をいとふ人としけけは仮の宿に、心とむなくおもふはかりそ
と返し、ついに一夜を佛の道のありがたさ、
歌をたしなむ、おもしろさを語り明かしき。
かくて夜明けと共に西行は淀の川瀬を後にして雪月花を友とする
歌の旅路に立ち出ぬ、出離の縁を結びし遊君も女は心移さず
常に成佛を願う固き誓願の心を持ちいれば後生はかならず
救わるべしと深く悟り、後佛門に帰依して、
名を光相比丘尼(こうそうびくに)と改め、此の地に庵を結びぬ。
又自らの形を俗体に刻み、久障の女身と難も菩提心をおこし、
衆生を慈念したるためしを見せしめ知らしめ貴婦賎女の至遊君
白拍子の類いをも遍く無上道に入らしむ結縁とし給う。
かくて元久二年三月十四日、西嶺に傾く月と共に、
身は普賢菩薩(ふげんぼさつ)の貌を現わし、大牙の白象に来りて去り給いぬ。
御弟子の尼衆更なり、結縁の男女哀愁の声隣里に聞こゆ、
終に遺舎利を葬り、宝塔を建て勤行怠らざりき。
去る明応の始め赤松丹羽守病篤く医術手を尽き、既に今はと見えし時、
この霊像を十七日信心供養せられければ菩薩の御誓違わず
夢中に異人来りて赤松氏の項を撫で給えば忽ちち平癒を得たり。
爰に想うに妙の前の妙は転妙法輪一切妙行の妙なるべし。
さればこの君の御名を聞く人も現世安穏後生善処の
楽を極めんこと疑いあるべからず。
其の後元弘延元の乱を得て堂舎佛閣焦土と化すも
宝塔は悉く宝像も亦儼然として安置せり。
正徳年間普聞比丘尼来たりて再建す即ち現今のものにして、
寺域はまさに六百六十余坪、巡らすに竹木を以てし幽遠閑雅の
境内には君塚・西行塚・歌塚の史蹟を存す。
然れども当寺に傳わる由緒ある梵鐘は遠く平安朝の昔より淀の川を往き交う船に
諸行無情を告げたりし程に、図らざりき遇ぐる大戦に召取られ、
爾来鐘無き鐘楼は十余年の長きにわたり、風雪に耐えつつも
只管再鋳の日を発願し来りしに、今回郷土史蹟を顕彰し、文化財の護持微力を
捧げんとする有志相集い梵鐘再鋳を発願す。幸い檀信徒はもとより力?強く
十方村人達の宗派を超越せる協力と浄財の寄進を得て聞声悟導の好縁を結ぶを得たり。
(昭和二十九年九月完成) 以後の建造物の改修について列記す。
一、本堂並庫裡大改修昭和三十五年 一、庫裡屋根瓦葺替
一、本堂屋根瓦葺替 一、鐘楼堂大改修昭和五十七年
一、本堂屋根大改修平成二十八年 平成二十八年十月」

小松橋は、東淀川区相川2丁目と小松2丁目をつなぐ神崎川に架かる橋です。
阪急電鉄 相川駅 から約400m

阪急電鉄 相川駅

江口の君と西行
江口の君再興の大東市野崎観音(福聚山慈眼寺)1
『アクセス』
「江口の君堂」大阪市東淀川区南江口3丁目13-23
阪急電車上新庄駅下車徒歩約20分
または井高野車庫行「江口君堂前」下車
『参考資料』
三善貞司編「大阪史蹟辞典」清文堂出版、昭和61年
「大阪府の地名」平凡社、2001年
新潮日本古典集成「新古今和歌集(上)」新潮社、平成元年