平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



朝日神明社は、皇大神社(此花区川岸町の鎮守社)を根幹とし、
明治になって朝日神明社(東区神崎町)、安喜良神社(西区阿波座)を
合祀し、この社名としたものです。

もとは皇大神社(天保年間創建)のあった安治川のほとりの
川岸町にありましたが、昭和6年現在地に移建しました。

最寄りの阪神なんば線西九条、JR大阪環状線西九条駅前。

屋島攻めの際、義経と梶原景時の「逆櫓論争」という有名な話があります。

義経は朝日神明社に祈願をこめているので戦勝疑いなしと
景時の論を退け平家を追討しました。この故事により
当社は逆櫓社(さかろのやしろ)とも呼ばれるようになりました。

東の鳥居



南の鳥居

初詣の参拝者でにぎわう境内。

拝殿その背後に本殿。

拝殿、左手に見えるのは平成6年に再建された摂社の春日社。

拝殿内部。

御祭神は、天照皇大神・倭比売命・春日大神・菅原道真。
合祀した安喜良神社は、菅原道真自刻の木像を
祭神として安置していたと伝えています。
太平洋戦争による空襲で境内は全焼し、
現在の社殿はすべて戦後に復興されたものです。

南の鳥居を入ると由緒書きがあります。

由緒  
當朝日神明社は、朝日・日中・夕日の浪速三神明の
一つとして有名であった朝日宮(東区神崎町)と
皇大神社(此花区川岸町)を合祀したものである。

朝日宮(逆櫓社)は朱雀天皇の天慶年間(九四〇年頃)に
平貞盛の創建するところであって
「承平・天慶の乱」の後、
貞盛の戦勝を叡感された朱雀帝は当社の御神徳を称えられ、
朝日宮という神號を賜わったという。  

當社はまさに勅願の故もあって豊臣秀吉 の崇敬も厚
く、
年々米百俵を寄進された。
又、元和元年(一六一五年)の 大阪夏の陣 に際し、
真田幸村 が当社に金色の采配を、 奉納して出陣したという。

 尚、源義経 が平家追討の途次朝日宮に戦勝の祈願をされた。
「一の谷」の合戦後、梶原景時 と史上有名な 「逆櫓の論」があったが、
義経は、當社に祈願をこめ
ているので戦勝疑いなしと
景時の論を退け平家を西海 に討滅した。
此時より当社を一名逆櫓社ともいわれる ようになったのである。

 皇大神宮は古くより川岸町に在った。この川岸町は 、
かつて南新田といわれたが伊勢神宮 の御分霊を乞い 受け
神詞を造って新田の鎮守の社として奉斎していた 。
 皇大神社は、明治四十年に朝日宮を合祀して、
「朝日神明社」と社號を改めた。
しかし川岸町一帯は世の 進むにつれ工場地として
発展した為、昭和六年現在地に遷宮した。

 第二次大戦中(一九四五年)惜しくも戦災を受け
當社境内は もちろん春日出一帯は焼土と化したが
戦後総代・氏子 崇敬者諸氏の尽力によって本殿・幣殿・
拝殿・そして
手水舎を復興し、現在に至っている。
朝日神明社(説明板より)
屋島出撃の際、義経が風雨の鎮護を祈願した朝日神明社跡(坂口王子伝承地)  
『アクセス』
「朝日神明社」 大阪市此花区春日出中1丁目6

JR大阪環状線西九条駅下車徒歩約30分
又は大阪シティバス「春日出」下車 南へ250m

『参考資料』
「大阪府の地名」平凡社、2001年 
三善貞司「大阪史跡辞典」清文堂出版、昭和61年

 

 

 



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大阪市の南大江公園に朝日神明社跡の石碑と説明板が建っています。

源義経が屋島の平家を攻撃の際、梶原景時と福島で
逆櫓論争をした時、この社に風雨の鎮護を祈願したと伝えられ、
俗に古くは逆櫓社(さかろのやしろ)とも、
天照皇大神を祭神とすることから単に大神宮とも呼ばれました。

当社は天慶年間(938~947年)に平将門を討つために
天照大神を祀り戦勝を祈願して
平貞盛が創建したという縁起を持っています。
貞盛は平清盛の六代前の祖です。
(貞盛-維衡-正度-正衡-正盛-忠盛-清盛)

また朝日神明社は、熊野九十九王子の一社坂口王子という。
当社は、昭和6年(1931)に此花区春日出中に移転しました。



朝日神明社跡(坂口王子伝承地)
朝日神明社は、天慶年間(938~947)に
平貞盛が平将門を討つために創建したという。
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)と
倭比売命(やまとひめのみこと)を祭神とし、
朝日の社名は、祭神の天照皇大神にちなむとも、
社殿が東面していたためとも考えられている。
熊野王子のひとつの坂口王子の伝承地である。

当社は逆櫓社(さかろのやしろ)とも称されたが、
これは源平合戦の際に、源義経と梶原景時が
櫓のつけ方について論争したことに由来する。
江戸時代の難波22社巡りの一社である。

明治40年(1907)3月までこの神崎町に鎮座していたが、
現在は此花区春日出中(かすがでなか)に移座している。
旧地には狸坂大明神が鎮座している。 
大阪市教育委員会 (説明板より)

此花区春日出中に移った朝日神明社(逆櫓社)  

『摂津名所図会』より 秋里離島(舜福)著 丹羽桃渓画
寛政10年(1798)頃出版

説明板の傍に祀られている狸坂大明神

一ノ谷合戦から1年後の元暦2年(1185)2月、
屋島に陣取る平家を攻撃するため、
義経は摂津渡辺で舟揃えの支度を整えますが、
出発の日に北風が吹いて出航延期になりました。

水軍に備えの整わない義経軍は、屋島を海上正面から向かわず、
阿波勝浦(現、徳島県小松島市)に上陸し陸路背後より突く作戦です。
その日、源氏の内部に対立が起こります。

軍議の場で梶原景時が形勢不利になった時、
自由に後退できるように舟の前後に櫓をつけたいと提案しますが、
義経ははじめから後退の準備をすれば気持ちまで
逃げ支度になってしまう。
臆病者の小細工とあざけ笑いました。

景時は大勢の前で恥をかかされ、両者は
一触即発の事態を迎えますが、義経を三浦義澄が景時を
畠山重忠が制止して
その場はひとまずおさまりました。

やがて日は暮れ、激しい北風はやむ気配を見せません。
暴風とはいえ、四国に向けては追い風です。
義経は怖気づく船頭たちを脅してわずか5艘で船出しました。

この時、暴風雨の鎮護を祈願したのが朝日神明社といわれています。

天満橋と天神橋が架かる大川(旧淀川)の辺は、
平安時代には渡辺とも窪津ともよばれていました。
渡辺の津(義経屋島へ出撃)  
軍議が開かれた福島
逆櫓の松跡 義経と梶原景時の争い  
『アクセス』
「朝日神明社跡」大阪市東区神崎町2(南大江公園内)

大阪市営地下鉄谷町線「谷町四丁目駅」より徒歩約12分

『参考資料』
「大阪府の地名」平凡社、2001年 三善貞司「大阪史跡辞典」清文堂出版、昭和61年

「平家物語図典」小学館、2010年 佐藤和夫「海と水軍の日本史(上巻)」原書房、1995年






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大阪市西淀川区の大野下水処理場正門前に大阪市が建立した
「判官松(ほうがんまつ)伝承地」の碑があります。





大野下水処理場傍に架かる中島大野高架橋。

 高架橋は国道43号(大野2丁目)と中島2丁目を結んでいます。

碑文には、「このあたりは 元暦二年(1185)源義経が平家追討の途次
しばしの休息をとったと伝えられる景勝の地で
明治の初めまで近くに判官松と呼ばれる老松と小丘が残っていた
 昭和六十三年三月  大阪市建立」と彫られています。


大和田住吉神社境内にも「判官松之跡」の石碑があります。
文治元年(1185)二月、屋島へ向けて暴風の中を船出した源義経は、
波浪のため大和田の浦(西淀川区大和田)へ押し流されたという。

そこで、当地の住吉大明神(大和田住吉神社)に
海上安全を祈願したところ、
嵐もやみ無事渡海に成功し、平氏を討つことができました。
その時、記念に植えた松を判官松と呼び、
明治10年落雷で焼矢するまで
大和田住吉神社に繁茂していた。と伝えられています

判官松之跡・大和田万葉歌碑(住吉神社)  
『アクセス』
「大野下水処理場正門前」 
大阪府大阪市西淀川区大野2丁目4 阪神なんば線「福駅」下車約700m
大阪シティバス「大和田橋」下車 西約200m



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大和田住吉神社境内に大和田青年団が
昭和16年に建立した「判官松之跡」の石碑があります。

社の説明板には、判官の松の由来として
「元暦2年(1185)、源義経は平家追討の軍を率いて船出するが、
暴風雨にあい漂流して大和田浦に着岸。
そこで、当村の住吉大明神に海上安全を祈願し、
松を記念樹として植えたので、里人はこれを判官松と呼んだ。

一説には義経の軍が流れ着いた時、大和田の庄屋が
鮒の昆布巻を献上しこまごまと生活の頻事を援助した。
喜んだ義経は食事の箸を地中に立てその意を天に示した。
どうしたことかみるみるうちに生きかえり松の姿に生長した。
尚この庄屋「鮒子多(ふじた)」の姓を与えたとも伝えられている。
(大和田墓地に鮒子多家の塚と墓石が現存している)

爾来この判官の松は年と共に天を突き沖を往き交う
船人たちに航海の指針として親しまれた。
明治10年雷火の為に不幸にも焼失の災にあい今はその大要を
地元青年団が石に刻み後世に伝えている。」とあります。

また地元には古くからこんな伝承もあります。

元暦元年(1184)義経は兵庫の福原にいた平氏を攻めようと
陸路西へ下向した折、当地に立ち寄り庄屋治郎左衛門の
歓待を受けました。その時、治郎左衛門は三宝に松苗を載せて寿ぎ
当地名産の鮒を昆布に巻いて差し出しました。

味も良くよろこぶというわけで縁起もよかったので、
義経は御礼に庄屋に「鮒子多(ふじた)」の姓を与え、
その松苗を植えたのが判官松だという伝えです。
さらに別の伝承では、昆布に巻いた
鮒の形を崩さないために箸を通しておきました。
その箸を義経が突き刺したら松になったともいう。

そこで大和田墓地にあるという鮒子多家の墓を訪ねました。



大和田霊園

大和田霊園の筋向いに墓はありました。


鮒子多姓の由来記 
平家物語巻11逆櫓の記によれば遡ること八百九年
元暦二年二月三日 源義経平家追討の為 摂津国渡辺今の堀江より
船出したが台風に遭い大和田に流れついた
義経は住吉神社にて航行の安全を祈願して松を植えた
 
その後松は判官松といわれ明治十年に雷火の為焼失し
今は記念碑が立てられている判官松にまつわり義経は庄屋が献上した
鮒の昆布巻の美味と奉仕を称賛して庄屋に鮒子多の姓を与えた
平成六年九月吉日 鮒子多直臣

鮒子多家の墓と塚

 
判官松之跡・大和田万葉歌碑(住吉神社)  

※当地の緊急事態宣言が延長され、安心して
外出できるようになるのはだいぶん先のことになりそうです。

PCの機嫌を見ながら少しずつでも更新させていただきます。
『アクセス』
「大和田霊園」大阪府大阪市西淀川区大和田6丁目14
阪神なんば線「出来島」駅より徒歩約7分
又は大和田住吉神社から約500m
『参考資料』
三善貞司「大阪史跡辞典」昭和61年 

  

 

 

 



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大阪市西淀川区大和田の住吉神社の境内には、
立派な判官松之跡の碑と大和田万葉歌碑があります。

住吉神社(通称名・大和田住吉)の祭神は住吉四神、
元応2年(1320)の創建と伝えられ、付近の漁民や
舟行安全の守り神として信仰されました。
明治43年(1910)に八幡神社、翌年皇大神宮社を合祀。

最寄りの阪神電鉄本線千船駅

千船駅から神崎川に架かる千船大橋を渡ります。






左手に見えるのは修理中の本殿







 拝殿内部

「判官松之跡」という銘は大阪市長坂間棟治(さかまむねじ)の書です。
裏面に碑文が刻まれています。


碑文の大意「史跡判官松紀要 元暦2年(1185)2月16日、
九郎判官は平家追討の軍を率い大物浦を船出し西国に向かうが、
途中暴風雨にあい漂流、大和田浦に着岸。
そこで、当村の住吉大明神に海上安全を祈願し、
松を記念樹として植えたので、里人はこれを判官松と呼んだ。
以後700年、樹容壮麗となり北摂の名勝として遠近に知れわたり、
淀川尻の示標として舟人の親しむところとなったが、
惜しいことに落雷のため明治10年(1877)消失した。
当時は幹の回りが十尺以上、昭和16年11月遺跡が壊滅するのを恐れて
大要を記して後世に伝える。大和田青年団」

元暦2年(1185)2月16日といえば、源氏軍が屋島に立てこもった
平家を追討しようと船出した日です。
源義経が率いるわずか5艘が暴風雨の中、佐藤兄弟、武蔵坊弁慶らが
「命令であるぞ船を早く出せ。出さねば射殺す。」と
恐れ怖がる船頭たちを脅迫し、摂津渡辺津から徳島県勝浦へ
風に乗って矢のように着いた。本当なら3日かかるところを
6時間ばかりで渡った。と『平家物語・巻11・逆櫓』は語っています。
もともと義経は梶原景時とともに150余艘の兵船で渡海する予定でしたが、
その際、義経と景時は舟に逆櫓(さかろ)を立てるかどうかで
争いもの別れしたと物語は伝えています。
だから物語に従うなら漂流はなかったことになりますが、
地元にはこのような伝承が残っているようです。

判官松の由来
平家物語巻第11逆櫓の記述によれば「元暦2年2月3日、
九郎判官義経都をたって摂津国渡辺(今の堀江)より
ふなぞろえして八嶋へすでによせんとす。
三河守範頼も同日都をたって摂津国神埼(今の西淀川)より
兵船をそろえて山陽道におもむかんとす」とある。

平家追討の軍勢は折からの台風の襲来にあり
一時退避を余儀なくされ、陣を張ったのがこの地である。
その時義経はあらためて住吉大明神に海上安全の祈願をし
一本の松の苗を手植えした。それが「判官の松」の由来である。

亦一説に義経の軍が流れ着いた時、大和田の庄屋が
鮒の昆布巻を献上しこまごまと生活の頻事を援助した。
喜んだ義経は食事の箸を地中に立てその意を天に示した。
どうしたことかみるみるうちに生きかえり松の姿に生長した。

尚この庄屋「鮒子多(ふじた)」の姓を与えたとも伝えられている。
(大和田墓地に鮒子多家の塚と墓石が現存している)
爾来この判官の松は年と共に天を突き沖を往き交う
船人たちに航海の指針として親しまれた。
明治10年雷火の為に不幸にも焼失の災にあい
今はその大要を地元青年団が石に刻み後世に伝えている。

大和田住吉神社 万葉歌碑の由来

濱清み浦なつかしき神代より  千船の泊る大和田の浦  
                           読み人しらず

万葉集にかいまみることのできる大和田を歌った古い和歌の碑である
併しこの歌の大和田の地は、神戸市の和田岬に近く、
かつて大和田の泊とよばれた附近をよんだものであるとの
説があるがこれは謬りで、摂津名所図会には、
大和田が「御手村の西北に在り此所尼崎に近くして河海の界なり、
故に魚鱗多し殊に鯉掴むという、なお浦浜古詠あり
兵庫の和田岬とするのは謬也」とことわつている。
尚土佐日記の一文を引用しこの歌をのせているので、
この万葉碑の重要性を再認識したいものである。(境内説明板より)



大和田万葉歌碑
自然石を組んだ台石の上に建つ4㍍ほどの三角型石の正面を
矩形(くけい=四角形)に磨き、正二位二寿基弘の書で、大正7年(1918)建立。
裏面に「施主高橋市蔵、大阪高橋音吉、神戸高橋卯之助、
東京千船崎富蔵」と彫られ、大正七年(1918)の建である。

歌は 浜きよくうらなつかしき神代より  千舟の泊る大和田乃浦 で、
『摂津名所図会』はじめ大抵の本には「読人知らず」と出ているが、
これは『万葉集』巻六の1067番歌で田辺福麿の作、
しかも今の大和田を詠んだものではない。
「敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時に作る歌」と詞書をもった
長歌につけた反歌二首の一つで、敏馬というのは今の神戸市灘区岩屋、
大石付近の海をいい、「敏馬の浦は大国主命の頃から多くの舟人で賑わったが、
本当に今も見事な白砂の浜が続いているよ」との意の長歌の後に、
「大和田の浦は美しいから神代の頃から多くの舟がくるのだなあ」と
反歌をつけたものである。

もともと大輪田の泊りという語は各地にあるが、
単に大輪田といえば今の神戸、つまり和田岬にいだかれた
兵庫港を指すのが常であった。
奈良時代にはすでに瀬戸航路の要津で、
延喜14年(914)の三善清行の『意見封事』に
弘仁三年(812)六月大輪田泊修復と出ており、
『摂津名所図会』等に
「浜清くの古詠兵庫和田岬とするは誤りなり」と
あるのは完全に誤りである。

同社では『摂津名所図会』の記述を引用し、
「大和田浦は当地、重要性を再認識せよ」との意の
説明板を横に建てているが、いかがであろうか。
田辺福麿は天平二十年(748)左大臣橘諸兄の使者として
大伴家持のもとに行ったことと、当時造酒司の令史だった
ことぐらいしか判らないが、江口から新庄迄の
運河が延暦4年(785)にやっと完成しているのをみても、
福麿が今の大和田で詠んだとは到底思われない。
(『大阪史跡辞典・住吉神社大和田万葉歌碑』)
源義経が姓を与えた鮒子多(ふじた)家の墓  
『アクセス』
住吉神社 大阪市西淀川区大和田5-20-20
阪神電鉄本線千船駅下車徒歩約8分。
『参考資料』
三善貞司「大阪史跡辞典」清文堂出版、昭和61年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年

 

 



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平景清(生没年未詳)は、上総介忠清の子で上総太郎判官忠綱、
上総五郎兵衛忠光の弟です。平景清と呼ばれていますが、
平氏の血筋ではなく伊勢を本拠とした藤原南家の流れをくみ、
「伊勢の藤原」を意味する伊藤氏とも称し、「悪七兵衛景清」
「悪七兵衛」の異名を持つほど勇猛果敢な豪傑でした。

祖父の景綱は『保元物語』『平治物語』に登場し、
保元の乱(1156年)では、平清盛軍の先陣をつとめて源為朝軍と戦い、
平治の乱(1160年)
では、清盛のもとで義朝軍を攻め、
戦功により伊勢守に任じられました。

景清は源平合戦において侍大将として活躍し、屋島の合戦では、
源氏の武者に腕力の勝負を挑み、美尾屋(みおや=水尾谷)十郎が
応じましたが、たちまち負けて逃げる十郎の錣(しころ)をつかみ、
冑から素手で引きちぎるという怪力ぶりを見せています。

壇ノ浦合戦で平家の武将の多くが入水や戦死し、数少ない
生存者であった平景清には、さまざまな伝承が各地に残っています。
大阪府内にもいくつかの景清伝説がありますが、
その中から「小松公園」「かぶと公園」「泪の池」をご紹介します。

達磨宗を開いた大日房能忍(のうにん)は景清の叔父(伯父とも)で、
壇ノ浦合戦後、景清を匿いましたが、疑心暗鬼になった
景清に誤って殺されたとされています。
(『本朝高僧伝』巻19・摂州三宝寺沙門能忍伝)

元禄14年(1701)刊の『摂陽群談』は、
景清は復讐を誓って壇ノ浦の戦場を敗走し、あちこちさまよったあと、
伯父の能忍のもとを訪れ、匿ってほしいと頼みます。
能忍は土蔵に隠して下男と二人で世話をし、景清が小さい頃から
そばが好きだったのを思いだし、下男に「そばを打て」と命じました。
ところが景清には「首を討て」と聞こえ、伯父が心変わりしたと思い込み、
いきなり蔵から飛び出し能忍を一刀のもとに
斬伏せたところに、
下男がそばを運んできたのではっと気づいた景清、
泣きながら近くの池で血刀を洗い、いずこともなく去っていきました。
同情した世間の人々はこの池を泪池と呼びました。と記しています。
ちなみに「そば」は小松の名産でした。

のちに西行法師は、この話を聞いて感動し、
♪よしさらば涙の池に身をなして 心のままに月やどるらむ と詠んでいます。
(そういうことなら、この身を涙の池にしてしまって、
思いのままに月を映していようではないか)

以上のような説があり、摂津国においては大日房能忍とかかわる
景清の伝承が形成されていったと思われます。
涙池は形を変えながら昭和の初め頃まであったそうですが、
今は埋立てられ小松公園になっています。

最寄りの阪急京都線上新庄駅。
 上新庄駅から稲荷商店街、小松商店街を抜けると
住宅街の一角に小松公園があります。 



この付近はほとんど田畑でしたが、昭和35年から区画整理が行われ、
新しい近代的な市街地として整備されました。
当公園はこの事業でできた十数ヶ所の公園のひとつです。
これを記念して高さ10mほどある「上中島区画整理記念碑」が
公園に建てられましたが、老朽化が進み
安全面を考えて平成29年12月末に撤去されました。


大阪市立東淀中学校の道路向かいにある「かぶと公園」




源平の戦に敗れた平家の落武者平景清が、かくまってくれた
伯父の「三宝寺大日房能忍」を誤って殺害したのを悔やんで、
この辺りで冑を脱ぎ捨てて立ち去ったと言い伝えられています。
いまもこの付近から淀川堤防までの一帯の地を
「かぶと」と称し「かぶとみち」の名も残っています。
その由来からこの公園を「かぶと公園」と命名します。




大阪市長大島靖の撰文による「区画整理碑」が建っています。

 この付近はほとんど田畑でしたが、昭和35年から区画整理が行われ、
新しい近代的な市街地として整備されました。当初、
区画整理2号公園として3594平方メートルの面積で配置された公園は、
区画整理記念公園とするため敷地を拡張し、
東側に記念像「太陽の下、みどりと、やすらぎと」と題する親子3人像と
区画整理碑が配置され、昭和50年9月30日に完成式が行われました。

大阪市に残る景清伝説とよく似た話が吹田市にもあります。

泪の池遊園には、平景清が誤って伯父の大日房能忍を切ったことを悲しんで、
泣きながらこの池で血刀を洗い、夜な夜なこの池で泪を流したと言う伝説があります。
ここは、泪の池と人々に呼ばれていた小さな池を埋めた跡といわれています。

吹田市有川面町墓地の傍にあります。




「三宝寺は、達磨宗の僧侶 能忍が12世紀末頃に開いた寺院です。
現在では寺院そのものはありませんが、東淀川区大隅・大桐一帯にあったと考えられ、
大阪市では三宝寺跡伝承地として埋蔵文化財包蔵地に指定されています。」
大阪歴史博物館HP三宝寺跡伝承地より転載。

能忍については、次のような説もあります。
大日房能忍(生没年不詳)は、もとは天台密教の僧でしたが、
弟子を介して中国・宋から臨済宗の禅を輸入し、達磨宗と称して、
仁安3年(1168)に摂津水田(現在の大阪市東淀川区大桐)に
三宝寺を建立して独特の禅宗を広めました。
人徳もあってか能忍のもとには弟子が多数集まるようになり、
七堂伽藍、僧坊48が建ち並ぶ大きな寺院に発展しました。
平家滅亡後、多くの平家の落武者がこの辺りに逃げてきましたが、
三宝寺には修行僧が1千人もいたので、出家してこの寺に身を隠し
厳しい源氏の探索から逃れようとした者も多数いました。
三宝寺は兵火で焼失したとみられますが、その年月日は不明です。

延享5年(1748)初演の中村清三郎作歌舞伎『大仏供養景清』には、
景清の伯父大日坊は賞金に目がくらみ、役人に届け出ようと駆けだすところを
景清が斬り殺し、伯父の着物に着替えて逃走する場面があります。
景清にニ枚目スターの二代目市川団十郎、大日坊に
悪役第一人者の中島三甫右衛門が扮し、大ヒットしました。
それがいつの間にか、あれは三宝寺の大日房であるという風評がたちました。

中村清三郎が実在した大日房能忍の名を借りて、
大日房を大日坊と一字変えて芝居に
取り入れた可能性も考えられます。
しかし、大日房能忍は、景清の伯父だという確証はなく、
多分無関係だと思われます。
屋島古戦場を歩く(景清の錣引き)    
平景清伝説地(平景清の墓)  
『アクセス』
「小松公園」大阪市東淀川区小松2丁目12 
阪急京都線 上新庄駅下車徒歩約13分。

「かぶと公園」 大阪府大阪市東淀川区豊新4−10
 阪急京都線 上新庄駅下車 南東へ約800m。

「泪之池公園」 吹田市内本町3-12-8 
阪急京都線 上新庄駅下車徒歩約20分。
『参考資料』
川合康編「平家物語を読む(平家物語と芸能)」吉川弘文館、2009年 
川合康編「平家物語を読む(平家物語と在地伝承・三宝寺)」吉川弘文館、2009年 
三善貞司「大阪史蹟辞典(悪七兵衛景清)」清文堂出版、昭和61年
三善貞司「大阪伝承地誌集成」清文堂、平成20年
日下力・鈴木彰・出口久徳著「平家物語を知る事典」東京堂出版、2006年
日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 

 

 

 



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野崎観音は、野崎参りやお染久松物語の舞台としても知られています。
野崎参りとは、福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)
通称野崎観音の無縁経法要に参詣することをいいます。
毎年5月1~8日の期間中はJR野崎駅から続く参道には露店が並び、
さまざまなイベントが催され、各地からの参詣者で賑わいます。
(8日は俗に「ようかび」とよび特に賑わいます。)

この賑わいの始まりは、経済的な繁栄が見られた
江戸時代の寛文から元禄(1688〜1704年)にかけてのころです。
大坂町民や近郊農民の社寺参詣が盛んになり、野崎観音でも
観音像や略縁起の木版刷りを配り、無縁経の法要を営み
参拝者の誘致活動に積極的に乗り出しました。

これが野崎参りとして有名になり、
文芸にも採りあげられるようになりました。
近松門左衛門作の浄瑠璃
『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』や
近松半二作の浄瑠璃
『新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)』の中に描かれています。

本堂隣の江口の君堂から案内板にしたがって下りると、
墓苑の一角に「お染久松の塚」があります。


油屋の1人娘お染は、店の丁稚久松と恋に落ち、
許されぬ2人の恋は、心中という結末を迎えます。
この悲恋の物語は、実際の心中事件をモデルにして
浄瑠璃や歌舞伎などに脚色され、「お染久松もの」として
くり返し上演され人気の演目となりました。

『新版歌祭文』は四場からなりますが、その内の一つが
「野崎村の段」です。
久松は奉公先の油屋の娘お染めと恋仲になりますが、
ある日、久松は身に覚えのない横領の罪を着せられ、油屋の手代小助に
引連れられて野崎村に帰り、父久作にお金を肩代わりしてもらいます。

それを追ってお染が野崎村の久松に会いに来ますが、
その時久松はお染のことを想いながらも身分違いの恋をあきらめ
お光(父の後妻の連れ子) と祝言を挙げようとしていました。
お光は二人の深い絆を察し、尼となって身を引きます。

野崎村へお染が会いに来る場面が次のように刻まれています。

「お染久松 野崎村の段 
切つても切れぬ戀衣や 本(もと)の白地をなまなかに
お染は思ひ久松の 跡を慕うて野崎村
堤傳ひにやうやうと 梅を目當に軒のつま
そなたは思ひ切る気でも 私や何ぼでもえ切らぬ
餘り逢ひたさ懐しさ 勿體ない事ながら
観音さまをかこつけて 逢ひにきたやら南やら」

野崎参りの風景、大東市歴史民俗資料館HPより転載。

野崎駅前を流れる谷田川。

大阪からの野崎観音への参詣路には船と陸路がありましたが、
陸路はだいたい川沿いの堤の上をたどるので、
両者はほとんど並行していました。

船路は八軒屋浜(現、天満橋付近)から大川(淀川の旧流路)を遡り、
寝屋川、その支流の谷田川を経て観音浜に到着します。
この堤で陸路と船の参拝者がののしり合い、それに勝てば縁起が良いという
「ふり売喧嘩」の風景が落語の「野崎詣り」の中に描かれています。

古くから大和川は、大阪と奈良を結ぶ水運として
利用されてきましたが、宝永元年(1704)の大和川の
付替え工事によつて、それまで池や川だったところは
埋め立てられて新田となり、眺望は一変しました。

中世まで恩智川は大東市の深野池(ふこうのいけ)に注いでいましたが、
大和川付替によって、寝屋川と合流し深野池は深野新田となり、
米のほか木綿や菜種の生産が盛んに行われました。
新田の中に幅7.2メートルほどの用水路が開かれ、野崎参りの川筋として
「観音井路」と称し、野崎参りの屋形舟はこの水路を通り、
着船場も観音浜と呼ばれました。このように大和川の付け替えによ り、
交通が便利になり「野崎参り」が流行し始めました。
現在、JR野崎駅近く(深野5丁目21)に観音浜の碑が建っています。

野崎観音の本堂の下にある南條神社の 祭神は、
牛頭天王・スサノオノミコトです。
例大祭:10月20日・21日 。
月並祭:毎月1日と15日当神社は、宝塔神社に対して
北の宮さん牛頭さんの呼称で親しまれ、
野崎地区の氏神として厚く信仰されています。

昭和10年に大ヒットした東海林太郎の『野崎小唄』は、
「野崎参りは屋形船でまいろ どこを向いても菜の花ざかり
粋な日傘にゃ蝶々もとまる 呼んで見ようか土手の人」と歌っています。
大東市野崎観音(福聚山慈眼寺)1  
『アクセス』
「慈眼寺(野崎観音)」大阪府大東市野崎2丁目7−1
参拝時間:9:00~16:00
JR学研都市線「野崎駅」下車 徒歩約10分。
 野崎参り5月1〜8日 8日午後2時から開経 無縁経法要

『参考資料』
「大阪府の地名」平凡社、2001年

 

 



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生駒山地に連なる飯森山の中腹に、夢の中で長谷観音のお告を受けた
江口の君が中興したと伝える野崎観音があります。
正式名は
「福聚山 慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)」という曹洞宗の寺院です。

摂津江口の江口の君(妙)が難病に苦しみ大和(奈良)の
長谷観音に参籠し病気平癒を願ったところ、
慈眼寺は長谷と同じ霊場であり、汝の家にも近いから
この寺を頼るようにとの霊夢を得ました。
早速、慈眼寺に七昼夜籠って祈ると、たちまち病は癒え、
その恩に報いるため荒廃していた寺を再興したという。

長谷寺の観音信仰は古くから盛んで、
王朝の女性たちが参詣していることが、
『枕草子』『更級日記』『源氏物語』などに見えます。
特に中世には広く普及し、
利益(りやく)の説話の舞台となっています。

『平家物語』「長谷六代」「初瀬六代」にも長谷信仰が語られています。
六代(平維盛の嫡男)は、平家滅亡後、平家残党狩りで
捕えられていましたが、文覚が頼朝に六代の助命を
願っていれられました。助命かなった六代が家に帰ると、
母(鹿ケ谷事件の首謀者、藤原成親の娘)が
六代の無事を祈って長谷寺に参籠中であったため、
六代の従者の斎藤五(斎藤実盛の息子)がはるばる
大和の長谷に下って知らせています。

江口(現、大阪市東淀川区)は、淀川と神崎川の分流点にあたり、古くは
京都と西国を結ぶ水運の要衝として栄え、社寺参詣の貴族たちをもてなす遊里があり、
美貌と高い教養を兼ね備えた遊女が多いことで知られていました。
旅の途中、雨に降られた西行が江口の君に宿を頼み、
歌の問答を行ったというのは、西行のエピソードの中で最も有名なものです。
この歌のやり取りで、江口の君(妙)の名は広まり、
謡曲『江口』にもその名を残しています。

平安時代、江口から野崎観音へは、淀川を下り高瀬(守口市)で
大和川を遡り、恩智川に入ると野崎観音の門前に着きました。
また淀川右岸の陸路でもつながっており、さらにその道筋は
生駒山を越えて大和の長谷寺に至ります。

寺伝によると、野崎観音は、行基(668〜749)が十一面観音を刻んで
安置したのが始まりで、その後荒廃していたのを江口の君が
再興に尽力したとし、開基は行基、江口の君を中興の祖としています。

鎌倉時代には、沙弥入蓮(しゃみにゅうれん)が秦氏の援助を得て
堂舎を修造しましたが、戦国時代に三好長慶・松永久秀の
兵火によって焼失し、江戸時代の元和2年(1616)頃、曹洞宗の僧、
青厳が曹洞宗寺院として堂宇を整え、仏像を安置しました。



野崎駅前の谷田川(寝屋川の支流)に架かる朱塗りの橋を渡って、
野崎参道商店街を抜けます。信号を渡ると道が狭くなり、
戦国時代に三好長慶の居城があった飯森山が迫ってきます。





坂道そして長い石段の先に山門があります。



山門(楼門)

飯盛山へのハイキングコースの入り口、
河内平野を一望できる地に南面して本堂が建っています。

本尊は行基手彫りと伝わる十一面観音菩薩 

本堂の隣にあるお堂が「江口の君堂」です。

野崎観音御詠歌の奉納額が江口の君堂の軒下に掛けられています。
「きくならば 野崎の寺の そのむかし 江口の君の 名のみのこれる」

駒札にはこのお堂の縁起が次のように記されています。
「当寺中興開基江口之君堂縁起
江口の君光相比丘尼は、淀川の対岸江口の里の長者で
藤原時代の終り頃重い病気にかかられ、当山の観音さまに
おまいりをして病気をなをしていただかれました。
同じ病気になやむ人たちをたすけて下さいますので
婦人病の方やこどものほしい人たちが沢山おまいりになります。
このお堂を左から年の数だけおまわりになると、ご利益がいただけます。
毎月十四日 御命日
 午前中、婦人病・子さづけのやいとの奉仕があります。」

江口の君は、平資盛(すけもり)の娘ともいわれる
妙(たえ)という遊女でしたが、出家してからは
光相比丘尼(こうそうびくに)と称しました。

江口の君堂の隣は心身の病気を治してくださる薬師堂です。
病気平癒・身体健全・延命長寿の功徳があるといわれています。



本堂とその左手に建つ観音堂の間から上ると、
見晴らし台へと続く山道が延びています。その途中、慈母観音像や
市指定文化財の石造九重層塔(せきぞうくじゅうそうとう)が現れます。



風化のため全文は読みとれませんが、銘文には、
永仁2年(1294)に沙弥入蓮(しゃみにゅうれん)と秦氏が
主君と両親の追善供養のために造立したと記されており、
北河内最古の層塔です。
高さ3.3m、花崗岩製で、初層軸部の四側面には、
梵字で金剛界四方仏がそれぞれ刻まれています。
全体の造りや梵字の刻まれ方から、鎌倉時代の
特徴をよく表しているといわれる石塔です。

在俗信者入蓮がどのような人物であったかは不明ですが、
秦氏は古代河内一円に勢力のあった大陸系渡来人の子孫と考えられ、
造立当時、当地方の有力者であったと思われます。
江口の君堂(寂光寺)  
野崎参り・お染久松で知られる大東市野崎観音(福聚山慈眼寺)2  
『アクセス』
「慈眼寺(野崎観音)」大東市野崎2丁目
JR学研都市線「野崎駅」下車 徒歩約10分。本堂拝観9:00~16:00

祭礼 毎年、江口の君命日の4月14日に大祭が催され、
ご開帳ご祈祷があり、子授け、縁結び、病気平癒祈願で賑わいます。
『参考資料』
「大阪府の地名」平凡社、2001年
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年

 

 

 



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『新古今和歌集』(巻10・羇旅歌)に収められた西行(1118〜1190)と
遊女妙の歌問答をテーマにした謡曲に『江口』があります。

観阿弥(世阿弥改作)が『撰集抄(せんじゅうしょう)』を典拠に
『江口』を書いてから妙の名は高まり、この謡曲をふまえた
長唄『時雨西行』が大ヒット、さらに歌舞伎『時雨西行』が
上演されると、妙と西行の出会いは、広く知られるようになり、
妙は「江口の君」と呼ばれるようになりました。

江戸時代の摂津国の旅行案内書『摂津名所図会』に描かれた江口の君
 『日本名所風俗図会』より転載。

右の大きい五輪塔が妙の供養塚、小さいほうが西行の塚。(江口の君堂本堂左前)


『新古今和歌集』の詞書(ことばがき)によると、西行が天王寺へ
参拝するために江口(現、大阪市東淀川区)を通りかかった時、
雨が降ってきたので雨宿りをしようと、とある宿の戸を叩き
一夜の宿を頼みましたが、女あるじは貸そうとしませんでした。

  世の中をいとふまでこそかたからめ 仮の宿りを惜しむ君かな 
                          西行法師
返し
  世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に 心とむなと思ふばかりぞ
                          遊女妙
( この世を厭うて出家するのはむつかしことかもしれぬが、
かりそめの宿を貸すことすら貴女は惜しむのですね、と
皮肉まじりに西行が詠んだところ、
この世の中を
「仮の宿」に例えた西行に対して、同じ詞(ことば)を使って
宿を惜しんだのではなく、出家をした方であるので、このような
現世の宿に心をお留めにならないようにとお断りしたのです。)
西行はこの返歌に大変感心したいう。この当意即妙の
受け答えは『山家集』にもあり、ほぼ実話だと思われます。

西行に仮託した鎌倉時代の説話集『撰集抄』には、
「江口遊女成尼(あまになる)事」、
「性空(しょうくう)上人発心並遊女拝事」と題する
二つの説話が載っています。

前者は西行が江口の里で遊女の有様や往来の舟を眺めて
物思いにふけっていると、時雨が激しく降ってきたため、
とある粗末な家に立ち寄って雨宿りをさせてもらおうと、
歌を贈ったところ、遊女の返歌が面白かったので
感激して宿を借り、とうとう一晩中、物語をして過ごしました。
遊女は40あまりの上品な美しい女で、「自分は幼い頃から
遊女になったがその身のはかなさを悲しみ、賤しいなりわいを疎む
気持ちが日ごとにつのり、尼になろうと思いながらも決心できず、
ついうかうかと過ごしております。」と煩悩にみちた
仮の宿に身をおく哀しみとせつなさを涙ながらに語るので、
西行も哀れに思い、墨染の衣の袖を絞るのでした。
朝がきたので名残を惜しみつつ再会を約束して別れました。
やがて約束の月がきましたが、都合がつかないので
手紙をだしたところ、出家して尼になったという
返事が届いたという仏教色の濃い説話となっています。

後者は書写山円教寺(兵庫県)の性空上人は、
日頃から生身(しょうじん)の普賢菩薩を拝みたいと念じていました。
一七日(いちしちにち)の精進の末、室津の遊女の長者は
普賢菩薩であるという夢告を得たので、すぐに室の津を訪ね、
遊女の長者を見て目を閉じると、普賢菩薩に見え、目を開くとまたもとの
遊女にもどっていたという霊験譚(れいげんたん)になっています。

謡曲『江口』は、性空上人の逸話を西行におきかえて組み立てています。
遊女と西行との和歌の贈答と、江口の里を訪れた旅僧が遊女に生身の
普賢菩薩を見たという異なったストーリーをひとつにまとめたものです。

ここで謡曲『江口』のあらすじをご紹介します。
諸国一見の僧の一行が都から天王寺へ参る途中、江口の里を通りかかり、
西行の歌を口ずさんで昔を偲んでいると、女が呼びかけながら現れ、
西行が宿を借りにきて「仮の宿を惜しむ君かな」と歌いましたが、
一夜の宿を貸さなかった遊女の返歌の真意は、それほど宿を
貸すのを惜しまなかったことを申し上げたかったために
ここまで参りました。と言い、
いぶかしがる僧に自分こそ
江口の君の霊だと告げ、黄昏の中に姿を消してしまいました。

その夜、僧たちが夜すがら読経していると、月澄み渡る川面に、
舟に乗った江口の君が2人の侍女を連れて現れ、
ふなうたを謡いながら舟遊びを展開し、六道輪廻の有様を述べ、
移ろいやすい遊女の身のはかなさを嘆きながら舞を舞っていました。
突然、遊女は普賢菩薩の姿となり、舟が白象に変じると
それに乗って光り輝く雲の中を西の空へと消えてゆきます。

西行の祖父、監物(けんもつ=中務省に属し出納をつかさどる職)
源清経は、青墓の宿(岐阜県大垣市)・江口・神崎などの
遊里に明るく、遊女に今様を教えた名手でした。
源師時(もろとき)の日記『長秋記』には、
清経の案内で、広田社(兵庫県西宮市)へ参詣した帰りに、
神崎・江口の遊女を招いて遊んだ話が書かれています。
西行の数寄(すき=風流・風雅に心をよせること)は、
その祖父から受けついだと言われています。
江口の遊女の中には相当な教養人がいましたから、江口の君と
西行の交流を事実と考えても無理なことではないと思われます。

江口の君と西行の逸話を今に伝える江口の君堂(寂光寺)
『参考資料』
新日本古典文学大系「謡曲百番」(江口)岩波書店、1998年 
三善貞司編「大阪史蹟辞典」清文堂出版、昭和61年 
森修「日本名所風俗図会」角川書店、昭和55年 
白洲正子「西行」新潮文庫、平成12年 
新潮日本古典集成「新古今和歌集(上)」新潮社、平成元年

 

 

 



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阪急京都線「上新庄」駅から大阪シティバスに乗り、
「江口君堂前」で下りると、近くの歩道橋傍に
「江口君堂参道 東へ300米」の石標が建っています。
参道を進むと、淀川堤の手前に江口君堂があります。




寂光寺(江口の君堂)
宝林山普賢院、日蓮宗妙経寺末寺、本尊釈迦多宝二仏。
寺伝によると、出家した妙こと(光相比丘尼=こうそうびくに)が
普賢菩薩に様を変えて白象に乗って去ったので、弟子の尼僧たちが
その邸跡に宝塔を建て宝林山寂光寺と名づけたとしています。

江口は神崎川が淀川から分かれる分岐点にあたります。
平安時代末期、熊野三山・高野山・四天王寺・住吉社などの参詣には、
淀川の水運にたよるところが多く、江口は交通の要衝でした。
港の宿場町として発展し、社寺参詣の貴族や
往来の客をもてなす遊女が集まり遊郭が形成されました。

当時の遊女には二通りありました。
貧しい家の娘が小舟に乗って今様を謡い、旅船に招かれて
酒宴や歌舞の相手をし、
時には色を売る遊女と
遊郭にあって礼儀作法も十分わきまえ、
詩歌・管弦の教養を身につけた高級遊女がいました。
平安末期の大江匡房(まさふさ=儒学者・歌人)の『遊女記』は、
江口には允恭(いんぎょう)天皇后の衣通(そとおり)姫に劣らぬ
美貌と教養のある遊女が多かったと記しています。

『御堂(みどう)関白日記』は、藤原道長が江口の名妓
小観音という遊女を寵愛したとか、
上東門院の住吉詣に供奉した
息子の関白頼通が中君という遊女に夢中になったと伝えています。

寺伝によると、江口の君(遊女妙)は、平資盛(重盛の次男)の
娘であったとしていますが、定かではありません。
源平争乱以後、落武者や討死した武将の妻子が遊女に身を落として
江口に多く住んでいたと思われ、江口の君の素性が平資盛の
娘であるという説もこのような所から関係づけられたようです。




仁安2年(1167)9月、西行は天王寺詣での途中、江口の里で雨にたたられ、
とある民家を訪ね雨宿りを頼みましたが、家主の江口の君は墨染姿の西行を見て、
こんな粗末な宿では恐れ多いと思ったのか断りました。
降りやまぬ雨に西行は途方にくれ、詠んだのが次の歌です。

♪世の中を いとふまでこそ かたからめ 仮の宿りを 惜しむ君かな
(貴女に出家してくれと言っても難しいでしょうが、雨宿りの宿を
貸すことぐらいはそんなに難しいことでもないでしょうに)と詠むと
遊女は、すぐさまこう返しました。

♪世をいとう 人としきけば 仮の宿に 心とむなと 思ふばかりぞ
(ご出家の身だとうかがっておりますので、私のかりそめの宿などに
心をお留めにならないようにと思っただけです。)と
皮肉まじりに軽くやり返しました。

二人の歌問答は『新古今和歌集』(巻10羇旅歌)に収められ、
女主の名は遊女妙と記されています。

ふたりの問答を刻んだ歌碑が境内の中央にあります。
正面に「南無妙法蓮華経 賜紫日顓」
右側面に西行の歌、左側面に妙の歌が刻まれています。
もとは歌塚と呼ばれて淀川の堤防上あったもので、
明治39年(1906)の淀川の改修工事際、ここに移されました。

常盤津塚 七世常磐津文字太夫(ときわづもじたゆう)の7回忌にあたる

昭和32年に彼の功績を顕彰して建立されました。

尼僧姿の江口の君座像が安置されている本堂。

君塚・西行塚 大正6年(1917)7月建立

江口の鐘
淀川を往来する川船は、時を告げるこの鐘の
美しい音色に諸行無常を感じたという。
現在の梵鐘は昭和29年の再鋳で、
高浜虚子・後藤夜半・阿波野青畝らの俳句が刻まれています。

高浜虚子  くまもなき月の江口のシテぞこれ                  
 阿波野青畝 早乙女の笠預け行く君の堂                            
 高野素十  鳥威しきらり/\と君堂に                            
 中村若沙  十三夜ともす君堂田を照らし                           
 高浜年尾  冬鵙や君の堂へと水に沿ひ                            
 後藤夜半  菜の花も減りし江口の君祭 
田村木国  梅雨茸も小さくて黄に君の墓
                        
                
当地のお盆の灯籠流しを詠んだ青畝(せいほ)句碑
 流燈の帯の崩れて海に乗る  昭和37年1月建

本堂前に江口の君堂の由来を記した説明板が建っています。
遊女妙(江口の君)は、平資盛の娘で平家滅亡後、
乳母の故郷江口に住み、のち光相比丘尼となり死後、
弟子たちが寂光寺を建立したと記してあります。

「由緒 大阪市文化財顕彰史蹟指定
当寺は摂津の国中島村大字江口に在り、宝林山普賢院寂光寺と号すも、
彼の有名な江口の君これを草創せしを以って、一に江口の君堂と称す。
 そもそも江口の君とは平資盛の息女にして、名を妙の前と言い
平家没落後に授乳母なる者の郷里、即ち江口の里に寓せしが、
星移り月は経るも、わが身に幸巡り来らざるを欺き、
後遂に往来の船に樟の一ふしを込め、
秘かに慰さむ浅ましき遊女となりぬ。

 天皇第七十九代六條帝の御宇、仁安二年長月二十日あまりの頃、
墨染の衣に網代笠、草から草へ旅寝の夢を重ねて、
数々のすぐれた和歌を後世に残せし西行法師が浪華の名刹天王寺へと
詣でての道すがらこの里を過ぎし時、家は南・北の川にさし挟み、
心は旅人の往来の船を想う遊女のありさま、
いと哀れ果敢なきものかと見たてりし程に、冬を待ち得ぬ
夕時雨にゆきくれて、怪しかる賎が伏家に立寄り、時待の間
仮の宿を乞いしに、主の遊女許す気色見せやらず、
されば西行なんとなく
 世の中をいとうふまてこそかたからめ かりのやとりを おしむ君かな

 と詠みおくれば、主の遊女ほほえみて

 世をいとふ人としけけは仮の宿に、心とむなくおもふはかりそ

 と返し、ついに一夜を佛の道のありがたさ、
歌をたしなむ、おもしろさを語り明かしき。

 かくて夜明けと共に西行は淀の川瀬を後にして雪月花を友とする
歌の旅路に立ち出ぬ、出離の縁を結びし遊君も女は心移さず
常に成佛を願う固き誓願の心を持ちいれば後生はかならず
救わるべしと深く悟り、後佛門に帰依して、
名を光相比丘尼(こうそうびくに)と改め、此の地に庵を結びぬ。

 又自らの形を俗体に刻み、久障の女身と難も菩提心をおこし、
衆生を慈念したるためしを見せしめ知らしめ貴婦賎女の至遊君
白拍子の類いをも遍く無上道に入らしむ結縁とし給う。

 かくて元久二年三月十四日、西嶺に傾く月と共に、
身は普賢菩薩(ふげんぼさつ)の貌を現わし、大牙の白象に来りて去り給いぬ。
御弟子の尼衆更なり、結縁の男女哀愁の声隣里に聞こゆ、
終に遺舎利を葬り、宝塔を建て勤行怠らざりき。

 去る明応の始め赤松丹羽守病篤く医術手を尽き、既に今はと見えし時、
この霊像を十七日信心供養せられければ菩薩の御誓違わず
夢中に異人来りて赤松氏の項を撫で給えば忽ちち平癒を得たり。

 爰に想うに妙の前の妙は転妙法輪一切妙行の妙なるべし。
さればこの君の御名を聞く人も現世安穏後生善処の
楽を極めんこと疑いあるべからず。
 其の後元弘延元の乱を得て堂舎佛閣焦土と化すも
宝塔は悉く宝像も亦儼然として安置せり。

 正徳年間普聞比丘尼来たりて再建す即ち現今のものにして、
寺域はまさに六百六十余坪、巡らすに竹木を以てし幽遠閑雅の
境内には君塚・西行塚・歌塚の史蹟を存す。

 然れども当寺に傳わる由緒ある梵鐘は遠く平安朝の昔より淀の川を往き交う船に
諸行無情を告げたりし程に、図らざりき遇ぐる大戦に召取られ、
爾来鐘無き鐘楼は十余年の長きにわたり、風雪に耐えつつも
只管再鋳の日を発願し来りしに、今回郷土史蹟を顕彰し、文化財の護持微力を
捧げんとする有志相集い梵鐘再鋳を発願す。幸い檀信徒はもとより力?強く
十方村人達の宗派を超越せる協力と浄財の寄進を得て聞声悟導の好縁を結ぶを得たり。
(昭和二十九年九月完成) 以後の建造物の改修について列記す。
一、本堂並庫裡大改修昭和三十五年 一、庫裡屋根瓦葺替
 
一、本堂屋根瓦葺替 一、鐘楼堂大改修昭和五十七年 
一、本堂屋根大改修平成二十八年 
 平成二十八年十月」

小松橋は、東淀川区相川2丁目と小松2丁目をつなぐ神崎川に架かる橋です。
阪急電鉄 相川駅 から約400m

阪急電鉄 相川駅


江口の君と西行  
江口の君再興の大東市野崎観音(福聚山慈眼寺)1  
『アクセス』
「江口の君堂」大阪市東淀川区南江口3丁目13-23
阪急電車上新庄駅下車徒歩約20分
または井高野車庫行「江口君堂前」
下車
『参考資料』
三善貞司編「大阪史蹟辞典」清文堂出版、昭和61年
「大阪府の地名」平凡社、2001年
新潮日本古典集成「新古今和歌集(上)」新潮社、平成元年

 



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院政期以降、熊野全体が浄土の地
(仏や菩薩が住む災や悪行のない国土)であるとみなされるようになり、
京の皇族・貴族たちは、生きながらにして行ける浄土をめざして歩きました。
浄土信仰の広がりにともない、鎌倉時代以降は武士の参詣も増加し、
やがて熊野信仰は庶民にも浸透し、熊野街道は「蟻の熊野詣」といわれるほど、
多くの人々の往来で賑わいました。

渡辺の津(現、大阪市天満橋付近)から熊野までの街道沿いには、
その数の多さから「九十九(くじゅうく)王子」とよばれる
神社が置かれました。そのうち住吉には
津守王子社が大阪市立墨江小学校付近にあったとされています。
大阪市立墨江小学校

熊野参詣は、平氏や源氏の武将も盛んに行いました。
特に有名なのは、平治元年(1159)12月の平清盛の熊野詣です。
保元の乱で勝利をおさめた信西(藤原通憲)・清盛と源義朝・藤原信頼は、
その後二つに分かれて対立し、義朝らは清盛が熊野詣のため、
都を留守にした機会をとらえ信西を殺害しました。平治の乱です。

清盛がこの時にとった熊野詣のルートは、淀川からの船を渡辺津で降り、
四天王寺・住吉間の阿倍野を通過し、海沿いの熊野街道を
紀伊国の田辺の北の切目王子まで進んでいました。
そこから海岸を下り田辺まで行き、山に入ると熊野本宮に至ります。
清盛一行が切目王子にいたところへ六波羅からの早馬が
追いついて事件を知らせました。一行は物詣とあって
ほとんど武装していない上、わずかな供を連れていただけです。

これを救ったのが紀伊国の武士湯浅宗重(むねしげ)と
熊野別当湛快(たんかい)です。
湯浅氏は熊野参詣路を管理して台頭した一族で、
この一族から後に文覚の弟子になる
上覚(じょうかく)や明恵(みょうえ)がでます。

宗重は都に引き返そうとした清盛に37騎もの武士を提供して
六波羅入りを助けました。この時、甲冑7領と弓矢を清盛に渡し
協力した湛快と源為義の娘である丹鶴姫(鳥居禅尼)との間に
生まれたのが湛増(たんぞう)です。

『平治物語』によると、熊野から引き返す清盛一行を阿倍野
(大阪市阿倍野区)で源義平が待ち受けているという噂があり
一行は恐れをなしますが、そこへまた早馬がやってきて噂はデマで、
実は伊勢の郎党たちが駆けつけて待っているのだと知らせました。
都での激しい合戦のすえ源氏軍は敗北し、平氏政権が誕生しました。

阿倍野に残る阿倍野王子社跡
清盛の腹心の郎党たちが、帰京する清盛一行を
この辺りで待ち受け合流したという。


 
住吉大社の東門から南海電鉄「住吉東駅」の方へ向かうと、
住吉村常盤会館(住吉区住吉2-6-12)の壁に
「住吉附近図」のプレートが架かっています。





住吉大社を挟むように紀州街道、熊野街道、住吉街道が延びています。
大阪と和歌山を結ぶ紀州街道、 住吉街道は、住吉大社付近で紀州街道から東に分岐し、
住吉大社を横切り現在の長居交差点に至る道筋です。
この図にしたがって熊野古道を止止呂支比売命
(とどろきひめみこと)神社まで歩きました。

東門の近くにあるのが葬儀社芋忠本店(住吉1ー11-1)

 
熊野街道と住吉街道が交差する角地に建つ「住之江味噌」の池田屋、
住吉大社の高灯篭を模したミニチュアが屋根に掲げられています。

大阪市内には熊野街道沿いのところどころに「熊野かいどう」の道標があります。
側面には「八軒家浜から十キロメートル」と刻まれています。

 津守寺(瑠璃寺とも)は住吉大社歴代の神主であった津守氏の氏寺で、
津守国基によって延喜元年(901) に創建されたと伝えられていますが、
昭和15年道路工事中に地元の考古学者が瓦を拾い集めて、
津守寺が創建される以前に白鳳時代の古いお寺があったことがわかりました。

神宮寺・荘厳浄土寺(しょうごんじょうどじ)とともに
住吉三大寺の一つに数えられていましたが、明治初年廃寺となりました。
その跡地の墨江(すみえ)小学校の塀に「津守廃寺跡」の説明板が架かっています。
熊野街道の津守王子が祀られていたのもこの付近とされています。

津守寺『住吉名勝図会』『大阪市の歴史』より転載

津守廃寺   1940(昭和15)年に、
このあたりの道路工事や区画整理工事に伴って、
白鳳時代(七世紀後半)の瓦や土器などの遺物が発見されました。
 このことから、近辺に古代のお寺があったのではないかと考えられ、
住吉大社や住吉の津とかかわりが深い古代氏族の津守氏から、
津守廃寺と命名されました。
津守廃寺の後身と思われる津守寺というお寺が
1868(明治元)年まで現在の墨江小学校のところにありました。
津守寺は901(延喜元)年に創建されたと伝えられ、
薬師如来をまつっていました。
住吉大社とつながりがあったことがわかっています。
 また、この津守寺に参拝した人に配られたお札を印刷した
版木が残っています。そこには本堂にまつられていた薬師如来が描かれ、
当時の様子を今に伝えています。大阪市教育委員会

墨江小学校から南下していくと街道の両側に寺院が建ち並んでいます。
その中の宝樹寺の南側を左に折れ南海高野線を渡ると
右手に止止呂支比売命神社が見えてきます。

住吉大社のすぐ東側の熊野街道沿いに祀られていた津守王子社が
現在の住吉大社末社「新宮社」であると伝えられています。

住吉大社の本殿東に末社が並び、その端に新宮社の祠があります。


祭神は伊邪那美命 (いざなみのみこと)、事解男命 (ことさかのおのみこと)、
速玉男命 (はやたまのおのみこと)です。
後鳥羽上皇の熊野御幸の際の行宮跡 止止呂支比売命神社(後鳥羽上皇行宮跡)  
 『アクセス』
「墨江小学校」大阪府大阪市住吉区墨江2丁目3-46
南海高野線「沢ノ町駅」255m

「阿倍野王子社跡」大阪市阿倍野区阿倍野元町9-4
大阪シティバス62・63・64・67号系統 王子町停留所からすぐ
阪堺電気軌道上町線 東天下茶屋停留場から徒歩約3分
大阪市高速電気軌道御堂筋線 昭和町駅から徒歩約12分

『参考資料』
大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年 「大阪府の地名」平凡社、1988年
 元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」日本出版協会、2004年
「図解聖地伊勢・熊野の謎」宝島社、2014年
佐藤和夫「海と水軍の日本史(上巻)」原書房、1995年 
日本古典文学大系31「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 



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最寄りの南海電車沢ノ町駅

止止呂支比売命(とどろきひめみこと)神社は、
もと住吉大社の摂社として祀られていました。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)とその妃の
稲田姫尊(いなだひめのみこと)を主神とする式内社です。

住吉社神主の津守経国(つねくに)が承久 (じょうきゅう) の乱の
3ヶ月前
承久3年(1221)2月、後鳥羽上皇の熊野御幸の際に、
当社松林の中に若松御所をつくり行宮(あんぐう)としたことから、
若松宮とも若松神社ともよばれています。

境内図は止止呂支比売命神社HPよりお借りし、一部文字入れしました。

あべの筋に面して正面鳥居が建っています。



拝殿内部

拝殿その背後に本殿

南海電車高野線側に後鳥羽天皇行宮址の碑があります。

 

 
境内の北側には、霰松原荒(あられまつばら)神社が鎮座、
式内社の天水分豊浦命(あめのみくまりとようらのみこと)神社です。
明治40年に当社に遷座、境内社となっています。
霰松原の地は、住之江区安立(あんりゅう)町付近であったとされ、
今は埋立てが進み、辺りは住宅地となっていますが、
江戸時代までは松原が広がる海辺でした。

住之江駅東の霰松原公園(安立2丁目)内には、
天武天皇の皇子・長皇子(ながのみこ)の万葉歌碑が建っています。

♪霰打つ 安良禮(あられ)松原 住吉(すみのえ)の
  弟日娘(おとひをとめ)と 見れど飽かぬかも  長皇子 万葉集(卷1-65)

(松原に霰のバシバシと降るありさまを、愛しい住吉の弟日娘と

いくら眺めていても飽きることがない)

黒長社
古くからこのご神木とそこに現れる蛇を信仰する人々が多く、

黒長大神として祀られています。

 平家一門は都落ちする際、安徳天皇を連れ西国へ去ったため都に
天皇が不在という事態となり、朝廷は新天皇を即位させることが急務となり、
高倉天皇の第四皇子の後鳥羽天皇(1180~1239)が4歳で即位しました。

後鳥羽天皇像 水無瀬神宮蔵 『後鳥羽上皇』角川選書より転載

建久9年(1198)、19歳の若さで皇位を4歳の息子土御門天皇に譲り、
文武にわたって多芸多才な後鳥羽上皇は、武芸や和歌
そして政治面でも意欲を見せ始めました。
何かと制約の多い天皇に比べ、自由な立場となった
上皇は先例にとらわれない政治ができたのです

熊野御幸はその最たるもので、譲位したその年にさっそく熊野御幸を行い、
承久3年(1221)の承久の乱に敗れて隠岐に流されるまでの
24年間に28回というハイペースで熊野への旅を行っています。
年2回の年が三度もあり、熱狂的な熊野信仰者で知られる後白河上皇でさえ、
35年間に34回、1年に一度の割合で御幸したのに比べても
かなり多いことになります。
そして熊野は院政と強く結びつくことで
伊勢神宮と肩を並べるほどの聖地となりました。

後鳥羽上皇の熊野御幸は、建仁元年(1201)の熊野御幸に随行した
藤原定家が記した『後鳥羽院熊野御幸記』によって知ることができます。
上皇は公卿以下20名という大勢の供を連れて京都を出発しその夜、
一行は四天王寺に宿泊しました。翌日の明け方に阿倍野王子に参り、
次いで住吉社参拝の後、奉幣、御経供養があり、里神楽・相撲などの
芸能が奉納され、御所となった住吉殿に入り、歌会が行われました。
当時、住吉明神は和歌三神として尊ばれ、
歌道に志す人々が熱烈に崇拝していました。

歴史に当たる住吉の地図より一部お借りしました。

歌会が催された住吉殿(住之江殿)は、住吉社神主津守氏居館内の
正印殿(しょういんでん)とされ、その跡地は南北朝時代の
後村上(ごむらかみ)天皇の行宮(住吉行宮)となりました。
住吉大社の南方に「津守邸址」の碑とともに
「住吉行宮跡(国指定史跡)」(住吉区墨江2丁目)の石碑が建っています。 

あらゆる分野に秀で、弓馬などの武芸を好んだ後鳥羽上皇は、
鎌倉幕府の干渉を嫌い、自らの手で何事も行おうと、
これまでの北面の武士のほかに、新たに西面の武士を置き、
また諸国の武士を招くなどして、
幕府の配下にない軍事力の掌握に務めました。
さらに鳥羽上皇の死後、女院のもとに集積された広大な皇室領を、
すべて自分の手もとに集めさせ、膨大な私領を所有しました。

上皇は和歌を通して、鎌倉幕府三代将軍源実朝とは良好な関係を保ち、
子供に恵まれなかった実朝の後継者として自身の皇子を
将軍として 鎌倉に送ることを了承していました。
しかし実朝が暗殺されると、これを拒否し、
朝廷と鎌倉幕府の関係は悪化、 時の執権義時を中心に
勢力を拡大する北条氏一族と対立を深めていきます。
上皇は皇子を将軍に据えたら、幕府の独立を進め、 公武が
分裂することになってしまうと心配して幕府の要請を断ったという。

承久の乱の引き金となったのは、後鳥羽上皇寵愛の亀菊(伊賀局)が
上皇より与えられた摂津国豊島郡倉橋(大阪府豊中市庄内)、
長江(豊中市)の両荘園の権益が地頭北条義時によって
侵されたとして義時を罷免するよう上皇に頼んだことにあります。
後鳥羽上皇は二度に亘って義時の地頭職解任を要求しましたが、
幕府は守護・地頭は終身制であると、これをはねつけました。
これにより双方の交渉は決裂、それに将軍下向問題が絡み、
承久3年5月、上皇は城南宮の 流鏑馬(やぶさめ)の武者揃えと称して
兵を集め、 北条義時追討を命じる院宣を下しました。承久の乱です。

上皇に討幕の挙兵を勧めたのは熊野のトップ、
三山検校(けんぎょう)の長厳だったといわれ、後鳥羽上皇の
度重なる 熊野御幸の間に討幕の密談をしたと思われます。
熊野の実力者が積極的に乱に加わった結果、 乱後熊野は大打撃を受け、
長厳は討幕計画に協力したとして陸奥へ流されています。

『アクセス』
「後鳥羽天皇行宮跡碑」大阪市住吉区沢ノ町1–10–4
南海高野線「沢ノ町駅」下車徒歩約1分
『参考資料』
「後鳥羽院のすべて」新人物往来社、2009年  
本郷恵子「京・鎌倉ふたつの王権」小学館、2008年
 「新修 大阪市史(第2巻)」大阪市、昭和63年 
梅原猛「日本の原郷 熊野」新潮社、1990年  
「図解聖地伊勢・熊野の謎」宝島社、2014年
「大阪府の地名」平凡社、1986年
鈴木かほる「相模三浦一族とその周辺史」新人物往来社、2007年
五味文彦「新古今集はなにを語るか 後鳥羽上皇」角川選書、平成24年
 犬養孝「万葉の旅(中)」社会思想社、昭和48

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 



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平清盛の嫡男重盛は武人としても優れ、保元の乱や平治の乱では、
見事な若武者ぶりを発揮し一門の人々に頼もしがられましたが
早くに他界してしまいました。
重盛の弟宗盛、知盛、重衡らの母は清盛の後妻時子(二位尼)です。
それに対して重盛だけは母(高階基章の娘)が異なっていましたため、
重盛亡き後、重盛の系列小松家の立場は不安定となりました。

清盛は源頼朝追討軍の総大将に戦いの経験のほとんどない
維盛(重盛の嫡男)を任命しました。手柄を立てさせ、
一門内での立場を確かなものにさせてやりたいと思ったようです。
ところが維盛は水鳥の羽音を源氏の夜襲と勘違いし、
恐れをなして戦いもせず富士川から退散しました。
祖父清盛の激しい怒りはやがて失望へと変わります。
清盛が没すると宗盛が政権を執り、
小松家は一門の主流から傍流へと追いやられます。

木曽で挙兵した義仲追討軍の大将軍として維盛は再び出陣しました。
しかし義仲軍と激突した倶利伽羅峠でまんまと義仲の策にはまって大惨敗し、
この戦いがその後の平氏の命運を決定づけることになりました。

維盛はリーダーとしての能力や政治家としての資質にも欠け、
父重盛より全てにおいて劣っていたとされていますが、若くて経験の少ない
維盛の後ろ盾となり、その不足分を補ってくれる人がいなかったともいえます。
二度の大敗で平家一門の信頼をそこなってしまい、
維盛は肩身の狭い思いをしていたと思われます。

別れを納得できない妻子との引き裂かれんばかりの嘆き、
「平家物語絵巻 巻7」林原美術館蔵 
『平家物語図典』より転載。
平家都落ちの際には、一門の人々が妻子を連れて都落ちする中、
維盛は平家の行く末を予見し、妻子を道連れにするのは不憫と思い、
家族を振り切って都を去っていきます。

妻の父は鹿ヶ谷事件で備前国に流罪・後に謀殺された藤原成親です。
維盛は平家の将来に絶望しただけでなく、
一門内部における自身と妻の立場を心配したのです。

平治の乱後、頼朝は落ち延びる途中に父とはぐれ、青墓宿で
頼盛の郎等弥平兵衛宗清に捕らわれ六波羅に連行されてしまいました。
頼朝が伊豆へ流罪と減刑されたのは、清盛に対して
池禅尼の助命嘆願と重盛の口添えがあったからです。
六代(維盛嫡男)まで都においてきたことで、宗盛や時子らは
不信感をつのらせ、維盛が源氏に通じているのではないかと終始怪しみます。
さらに妻と幼い子の悲痛な叫び声がいつまでも耳に残り、
西海に落ちた維盛を苦しめ続けます。


 
維盛は月日が過ぎるままに、故郷の妻子に一目会いたいと恋しさが募り
戦う気力は失せ屋島の陣を抜け出します。みすぼらしい姿に身を変え
弟の新三位中将(資盛=すけもり)を伴って住吉社に参拝しました。
今一度都に戻り、妻子に会わせて下さいと一晩中住吉明神に祈願します。
翌朝、釣殿でしんみりと詩歌を口ずさみ、昔、住吉の姫君がどうして松風が
絶え間なく吹くのであろうかとて、琴をかきならしているのを思い出し、
形あるものは壊れ、命あるものは滅びるように
あらゆる物はみな変わることを恨みそしっていました。

この住吉明神というのは、高貴徳王菩薩(こうきとくおうぼさつ=大威徳明王)の
変身として名を仏教に顕し、聡明で優れた君主の守護として
その恵を神国(日本)に示されました。
(『源平盛衰記巻36・維盛住吉詣並明神垂迹の事』)

『平家物語』の中には住吉神が度々現れます。
古くから住吉明神は王権の守護神・海路の守護神として、
平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めました。

『住吉大社神代記』によると、住吉神は神功皇后の新羅征討の際に
自ら国家を護る神であると明言して神功皇后に託宣を下し、
その征討を成功に導いたとしています。

鎌倉時代の説話集『古今著聞集巻1・神祇』
(慈覚大師如法経書写の折、住吉神託宣の事)には、
「住吉は四所おはします。一の御所は高貴徳王大菩薩なり。龍に乗る。
御託宣に云はく、「我はこれ兜率天の内なる高貴徳王菩薩なり。
国家を鎮護せんために、当朝墨江の辺に跡を垂。云々」と記されています。
兜率天(とそつてん)には内院と外院があり、内院は将来仏となるべき
菩薩が住む所とされ、現在は弥勒菩薩が内院で説法をしているという。

大威徳明王騎牛像 明円作 木造 平安時代 重文
『週刊古寺をゆく』より転載。

大威徳(だいいとく)明王(高貴徳王菩薩)は、
五大明王のひとつで西方の守護者とされ、
日本では六面六臂(ろっぴ)六足で、神の使いである
水牛に乗っています。悪蛇、悪竜を退散させ怨念を取りのぞく、
死後の世界をつかさどる神の出身です。

高貴徳王菩薩の託宣によって建てられた住吉神宮寺。
境内北方の末社付近に「住吉神宮寺跡」の碑があります。

神仏習合の時代になると、日本にもともとあった神道と外国からやってきた
仏教とが結びつき、神社の境内やその付近に寺(神宮寺)を建て、
神々の本体である仏菩薩を祀るようになります。
神仏習合とは、
仏菩薩が我が国においては神の姿となって現れたという考え方です。
『アクセス』
「住吉大社」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 9-89 TEL : 06-6672-0753
南海本線「住吉大社駅」から東へ徒歩3分
海高野線「住吉東駅」から西へ徒歩5分
 阪堺電気軌道(路面電車)「住吉鳥居前駅」から徒歩すぐ

開門時間
・午前6時00分(4月~9月)・午前6時30分(10月~3月)
※毎月一日と初辰日は午前6時00分開門
閉門時間
・外周門 午後4時00分 ・御垣内 午後5時00分(1年中)
『参考資料』
新定「源平盛衰記(5)」新人物往来社、1991年 
新潮日本古典集成「古今著聞集(上)」新潮社、昭和58年
大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年
佐伯快勝「古寺めぐりの仏教常識」朱鷺書房、2000年
 週刊古寺をゆく「天龍寺 大覚寺」小学館、2001年 
「平家物語図典」小学館、2010年



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古代の大阪湾には、難波津より早く開けた住吉津という
港湾施設があり、その付近に大伴連(むらじ)・
津守連・依網阿比古(よさみのあびこ)などの豪族がいました。

田裳見宿禰(たもみのすくね)を祖とする津守氏は、
住吉社(現、住吉大社)の神職を務め、遣唐使派遣時の祭祀を司り、
遣唐使の一員となって海を渡った者もいました。
この津守氏は代々音楽・和歌などの文化的素養の豊かな一族で、
中世には和歌や音楽によって知られるようになります。







社務所から駐車場の案内にしたがって進みます。

住吉社(現、住吉大社)の境内には、本殿の北東に住吉社第三十九代
神主の津守国基の薄墨社、その右側の斯主社には四十三代の国盛を、
今主社は四十八代の国助を祀っています。
この三人は平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した神主です。

左側から住吉大社境内末社の五社(神主七家祖神を祀る)と
招魂社、薄墨社、斯主(このぬし)社、今主社、八所社、新宮社が並んでいます。

薄墨社に祀られている第三十九代国基は、筝(そう)の名手でしたが、
和歌の才にも秀で『津守国基集』という自身の歌集を編んでいます。
箏と琴はよく似ていますが別の楽器です。

国基は豊かな経済力を背景に中央歌壇の有力者に接近し、
その才能が貴族社会との繋がりを強める役割を果たしました。
交流した相手は、平安時代後期の代表的な学者大江匡房(まさふさ)、
白河上皇の近臣藤原顕季(あきすえ)、待賢門院璋子
(鳥羽天皇の中宮)の父である権大納言藤原公実(きんざね)など、
当時の政界の大物ばかりでした。こうした人物との交際は、
国基の貴族社会における立場をさらに高めることになり、
成功(じょうごう=私財を上皇などに献上しその見返りに位階や官職を得ること)に
よって息子たちが対馬守・安房守に就任しています。

また国基は天喜元年(1053)に焼失した住吉神宮寺の再建、
白河天皇の命により荘厳浄土寺(住吉区帝塚山東)の再建など
住吉社の発展に尽力し中興の神主と称されました。

♪薄すみに 書く玉章と 見ゆるかな 霞める空に 帰る雁かね
(薄墨色の紙に書いた手紙のように見えるなあ 
霞んだ空に列をなして帰ってゆく雁の群は)
の和歌より.
「薄墨社」に祭神「国基霊神」として祀られました。

斯主社(このぬししゃ)に祭られている第四十三代国盛は、 
住吉神主でありながら三河国石巻神社祀職や長門国住吉社預所などを
兼務し、徳があり凄腕の人物であったといわれています。


画像は「関西の文化と歴史」より転載。
『信西古楽図』は信西(藤原通憲)原著とされる日本音楽、芸能の文献です。
四十四代長盛(1139~1220)
国盛と源為義の娘(国盛の母とも)との間に生まれた長盛は、
治承2年(1178)に神主に就任し、源平争乱から
鎌倉時代初期にかけ、時代の転換期を巧みに生き抜いた人物です。
長盛は笛や方磬(ほうけい=打楽器の一種)に優れ、
後白河院の上北面に伺候しています。
北面の武士には上北面と下北面があり、上北面は下北面より身分が高く、
院への昇殿を許され院近臣としての性格が強い立場にありました。
その地位を利用し長盛は中央での人脈を得、平家追討軍の
動静も容易に入手できたと考えられ、源平合戦の間、
住吉社では乱鎮定のための祈祷が度々行われていました。

 義経が屋島に籠る平家を追討するため、摂津渡辺を出航し無事に
阿波に上陸した
元暦2年(1185)2月16日に
住吉社の宝殿から、鏑矢が西の方角に向けて飛立つ音を
神官が聞いたと
その4日後の20日に住吉社から朝廷に上奏されました。
しかし鏑矢の音を聞いたという神官は、実際に鏑矢が飛んでいく場面を
見たのではなく、しかもこの報告が4日もあとになされていることからも、
いささか疑わしいのですが、これは住吉神の霊験のお陰ととらえられたのです。

義経が阿波に出撃した渡辺は住吉社のすぐ近くにあり、源氏の動きは
手にとるように見てとれたと思われ、これらの出来事はこの機を
巧みにとらえた長盛が都合よく合わせた脚本演出であることは明らかです。
しかし当時の人々の神仏に対する畏敬の念や住吉社への信仰心の
篤さが大きく影響し、住吉大神の賜物とされたのです。
平家一門が壇ノ浦で滅亡したのはこの年の3月のことです。

 平家全盛時代、平氏は摂津国を始めとして、河内・和泉などの
国衙機関を掌握し、荘園の支配組織も収めていました。
平家の摂津国支配に対して住吉社がどのように対処していたのかは
定かではありませんが、
平家の行く末を暗示するかのような
こういった霊験が報告されたことからも、源氏と姻戚関係にあった
津守長盛の心情をうかがい知ることができます。
こうした報告や源平合戦の間に行われた乱鎮定のための祈祷の功により、
長盛は治承5年(1181)に正五位下となり、昇進は更に進み従四位下に昇り、
住吉社へは荘園の寄進が行われました。政治的手腕に優れ、
社領の拡大に成功した長盛を『住吉松葉大記』は「大神主」と讃えています。

四十五代神主国長の子、四十六代経国(1185~1228)は
勅撰歌人であるとともに笛の上手としても知られました。
長盛の子の国長は、父に先立って亡くなり、神主職にはついていませんが、
死後の「贈神主」という形で代数に数えられているようです。

 経国は建保3年(1215)摂津守に就任し、承久2年(1220)神主となり
安貞2年(1228)に44歳で亡くなっているので神主職の在任期間は
わずか9年ですが、早くから老齢の祖父長盛を補佐していたと思われます。
経国以後、鎌倉時代から南北朝時代にかけて歴代神主は、
代々摂津守に任じられ摂津国内に政治的勢力を強め、
その勢力は盤石なものとなりました。

 承久の乱以後、京都にいた経国が住之江殿などの掃除を
人に言いつけたところ、柱や長押や妻戸などに書かれていた
昔からのそうそうたる面々の和歌がすべて削りとられてしまいました。
帰国してこれを見た経国は驚き、嘆き悲しんだという。

現在の住吉大社の南にあった津守氏館内の住之江殿(正印殿)は、
南北朝時代、後村上(ごむらかみ)天皇は吉野からここに移り、
その行宮となり、南朝の勢力挽回の中心地になります。
後醍醐天皇(後村上の父)との関係を築いていた
第五十一代津守国夏が後村上天皇を迎え入れたのです。
(住吉行宮跡 住吉区墨江二丁目720)

左側から今主社(いまぬししゃ)、八所社、新宮社(津守王子社)です。
今主社に祀られている第四十八代神主国助の生きた時代は、
急速に拡大したモンゴル帝国が日本に脅威を及ぼそうとしていました。
二度の元寇でモンゴル軍が博多に来襲した時、朝廷は大社寺に対し、
モンゴル軍撃退の加持祈祷を行うよう命じています。
それらの社寺は、暴風雨によってモンゴル軍を撃退させたのは
日本の神や仏であると主張し、幕府に対して恩賞を要求しました。
これに対し幕府は神仏の加護を信じ、この要求に応じています。

この頃、住吉社では坐摩社(現、坐摩神社)と本末(本社末社)論争を
起こしていましたが、モンゴル撃退後、
国助の弟の棟国が坐摩社神主に任じられています。
このことから当社は恩賞として荘園を与えられたのではなく、
代わりに坐摩社の支配権を得たと思われます。

以上、住吉社がもっとも権勢をふるった時代とその勢力拡大を図った
神主津守氏の動向を簡単に見てきました。
明治4年5月、政府は全国の神社に対し、神主以下、神官の世襲制の
廃止を命じる『官国幣社指定 神職・社家の解職再補任の布告』を出しました。
これにより七十四代神主国美は免職され、
津守氏は住吉社の歴史から姿を消しました。
『アクセス』
「住吉大社」大阪府大阪市住吉区住吉2丁目 9-89 TEL : 06-6672-0753
南海本線「住吉大社駅」から東へ徒歩3分
海高野線「住吉東駅」から西へ徒歩5分
 阪堺電気軌道(路面電車)「住吉鳥居前駅」から徒歩すぐ

開門時間
・午前6時00分(4月~9月)・午前6時30分(10月~3月)
※毎月一日と初辰日は午前6時00分開門
閉門時間
・外周門 午後4時00分 ・御垣内 午後5時00分(1年中)
『参考資料』
福山琢磨「大阪春秋(住吉社と住吉社神主津守氏の軌跡)」新風書房、平成24年
奥田尚・加地宏江他「関西の文化と歴史(動乱期の津守氏)」松籟社、1987年
田中卓監修「住吉大社史(鎌倉時代の住吉大社)」住吉大社奉賛会、昭和58年
「大阪府の地名」平凡社、1988年 加地宏江・中原俊章「中世の大阪」松籟社

 

 

 

 

 




 

 

 

 

 

 



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八十島(やそしま)祭は、即位大嘗会(だいじょうえ)が行わわれた
翌年、勅使が難波の海に遣わされ催行される宮廷儀式です。
新天皇の乳母で内侍(ないし)に任命された者が
祭使(まつりのつかい)になり、
生島巫(いくしまのみかんなぎ)や神祗官(しんぎかん)の
役人とともに難波を訪れ、大八洲(日本国土)の霊である
生島の神と足島(たるしま)の神それに住吉の神、
大依羅(おおよさみ)の神、海(わだつみ)の神などを祀るものです。

時代が下るにつれて禊(みそぎ)・祓(はらい)の要素が
強くなっていきますが、本来は海辺に祭壇を設け、
祭使が持参した天皇の御衣を納めた箱を開いて、
神祇官の弾く琴に合わせて海に向かって御衣を揺り動かし、
最後に祭物を海に投じるというものです。古代、
この淀川河口に浮かぶ島や中洲のことを八十島とよびました。
万物に精霊が宿っていたと信じている時代ですから、
その八十島を国土に見立て、島々の神霊を
新しく即位した天皇の体内に遷すという呪術的な祭祀です。

八十島祭は奈良時代には、天皇自身が難波津に赴き
挙行していたともいわれていますが、記録に残っているのは、
文徳天皇の嘉祥3年(850)の記事からで、
鎌倉時代に入って武家が勃興すると
公家は貧窮し断絶しました。

最初は祭場を「熊河尻(くまかわじり)」に置いていましたが、
長暦元年(1037)以後は住吉大社神主の申し出により、
住吉大社に近い「住吉代家浜」に変更して祀られたという。
(『平記』長暦元年9月25日条)
住吉の浜は大和川の付替え以降、土砂が堆積しさらに明治以降
行われた埋立開発事業・港湾整備によって海岸線は遠ざかり
現在、「住吉代家浜」は存在しません。

平安時代も半ばなると、住吉大社は多くの社領・荘園を持ち、
八十島祭の費用なども負担して
いつしか祭神も神威が高い住吉の神となっていったようです。

当初、この八十島祭の行われた熊河尻については淀川の
支流と考えられていますが、その所在地は
定かではありません。

永暦元年(1160)12月15日、二条天皇の八十島祭が行われました。
この時、典侍(てんじないしのすけ)を務めたのは清盛の妻時子です。

「時子が乳母になった時期は不明だが、
おそらくは平治の乱後であろう。」(『平清盛福原の夢』)

八十島典侍の賞として時子は、永暦元年12月24日に
従三位に叙されています。(『山槐記』同日条)

祭使の一行は、京を牛車を連ねて出発し淀から船に乗り換え、
難波津に至るのが通例でした。
神宝を入れた韓櫃(からびつ)2個、
勅使とその随行、次に平家一門の殿上人、地下人13人。
清盛の異母弟尾張守頼盛、常陸介教盛、伊賀守経盛のほかに、
時子の弟の右少弁時忠、異母弟蔵人大夫親宗(ちかむね)
それに14歳の息子淡路兵衛介宗盛がつき従います。
この日、美しく着飾った時子は唐車の左右につく8人の従者に
守られて車に乗り、騎馬で伊予守重盛が供奉し、
清盛腹心の郎党検非違使平貞能(さだよし)がそれに従います。
さらに6両の女房車が続き、警備のための衛府の武者が93人、
大型の長持4個等々という参加人数のきわめて多い華美な行列でした。
この豪奢な儀式には莫大な費用がかかりますが、
それを支えたのは平家一門の財力でした。
このことから清盛が後白河院の院司である一方、
二条天皇の有力な後盾であったことが明らかとなります。

ちなみに後白河上皇の皇子安徳天皇が即位した時には、
八十島祭の典侍に任命されたのは
重盛の妻経子(藤原成親の妹)でした。

後白河天皇の第1皇子の守仁親王(二条天皇)は、母が早世したため
美福門院得子(鳥羽院の皇后)の養子になっていました。
崇徳天皇が鳥羽院によって譲位させられ、
わずか3歳の近衛天皇が即位しましたが、この天皇が
跡継ぎのないまま若くして亡くなったため、鳥羽院や
美福門院らが次の天皇にと選んだのは聡明な守仁親王でした。
しかし、父の雅仁(まさひと)親王を差し置いて実現できず、
中継ぎとしてひとまず後白河天皇が即位したのでした。

その後、後白河天皇は退位し、二条天皇を即位させ
院政を開始しましたが、自分で政治を行おうとする二条天皇との
間には当初、政治の覇権を争う激しい対立がありました。
清盛は「あなたこなた」して、
すなわち「状況を見ながら双方に気配りをして
どちらにもいい顔をしていた」と『愚管抄』は伝えています。
こうしてその対立をうまく利用しながら清盛は出世していきました。
『参考資料』
田中卓「神社と祭祀 (八十島祭の祭場と祭神)」国書刊行会、平成6年
梅原忠治郎「八十島祭綱要」プリント社、昭和9年
三善貞司編「大阪史蹟辞典(八十島祭)」清文堂、昭和61年
「大阪府の地名」平凡社、2001年
高橋昌明「平清盛福原の夢」講談社、2007年
大阪市史編纂所編「大阪市の歴史」創元社、1999年
元木泰雄「平清盛と後白河院」角川選書、平成24年



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