平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




大御堂の信号を右折、滑川に架かる大御堂橋を渡り左へ、さらに右手の小道を上ると、
勝長寿院(しょうちょうじゅいん)跡の碑があります。平治の乱に敗れ、
東国へ敗走中、長田忠致(おさだただむね)によって鎌田正清(政家)とともに
殺害された父義朝の菩提を弔うために源頼朝が建立した寺院です。

頼朝自身が土地を選定し、元暦元年(1184)11月に着手、工事中にも
度々足を運び、文治元年(1185)10月24日に落慶法要が行われました。


後白河院に依頼していた義朝の首級が見つかると、門弟の首に
義朝と鎌田正清の遺骨を掛けさせて鎌倉にやってきた文覚を
頼朝は稲瀬川の川辺に出迎えて自ら受け取り、
完成前の同年9月3日勝長寿院に埋葬し、
その後宅間為久が描いた堂の壁画が完成しています。
文覚は頼朝が建てた勝長寿院のため、京において頼朝と院を結ぶ
役割を果たし義朝の首を鎌倉に下そうと奔走していたのです。

文治元年10月24日に行われた落慶法要の2日前、義経と叔父行家が頼朝追討の
院宣を受けたという知らせが入りましたが、追討を受けるのに馴れていた頼朝は
少しも動揺することなく法要の準備を行ったという。そして落慶法要終了後、
陣営に帰ると直ちに義経追討出陣令を出しました。


大御堂橋を渡った右手には文覚上人屋敷趾の碑が建っています。

勝長寿院跡は静かな住宅街の中にあります。

勝長寿院は極めて壮大であったので大御堂とも呼ばれ、
また大蔵(倉)御所の南に位置していたので南御堂とも称されました。
鶴岡八幡宮寺(神仏分離以前は鶴岡山八幡宮寺)、
永福寺(ようふくじ)と並び源頼朝が鎌倉に建立した三大寺院のひとつに
数えられましたが、江戸初期には廃絶し、現在では勝長寿院旧跡の碑と
源義朝とその腹心鎌田政家(正清)の供養塔があるだけです。

『吾妻鏡』建久5年(1194)10月25日条によると、
政家の娘が勝長寿院で父政家と義朝の追善供養を行っています。
政家の2人の息子は源平合戦で戦死し、男子がいなかったため、
頼朝はこの娘に恩賞として尾張国志濃幾(しのぎ)、
丹波国田名部(たなべ)両庄の地頭職を与えています。


文治2年(1186)4月、静御前は鶴岡八幡宮若宮の回廊で
白拍子の舞を披露した後、同年5月27日夜、
勝長寿院でも
頼朝の長女大姫が静を召して舞を見ています。

大姫は許嫁の清水冠者義高が殺されて以来、体調が優れず、
勝長寿院に籠って病気回復祈願を行っていました。
病身の大姫を心配して母政子が配慮したものと思われます。
生まれたばかりのわが子を殺された静御前には、義高を失った大姫の気持ちが
大姫には静の気持ちが痛いほどわかったのでしょう。
同年9月16日、静の母子が京へ帰る時には、
政子と大姫は憐み、多くの宝物を土産物として持たせています。

ところで木曽義仲の嫡男義高は、頼朝と義仲が対立した時、
同盟の証として鎌倉に人質として送られました。

名目は大姫の許嫁ということですが、その時義高は11歳、
大姫はまだ5、6歳という幼さでした。

その後、義仲は平家軍を討ち破り北陸道を快進撃して京に入りましたが、
軍紀が守られず、後白河法皇の信頼も失って元暦元年(1184)
頼朝の派遣した義仲追討軍のため義仲が粟津で敗死すると、
頼朝はためらわずに人質の義高を殺害しました。
日頃から義高を慕っていた大姫は哀しみ嘆き病床に伏してしまいました。

建久元年(1190)7月15日、盂蘭盆なので頼朝は勝長寿院に参り、
滅亡した平家の菩提を弔うために万灯会を行っています。


 承久元年(1219)1月27日、公暁に殺害された実朝の遺骸を
母の政子は勝長寿院の境内に葬り、実朝の追福のために
この寺の傍らに五仏堂を建て、運慶作の五大尊像を安置しました。
また、勝長寿院の奥に新御堂(奥御堂)と御所(勝長寿院奥殿)を建立し、
晩年はそこで暮らしました。御所には持仏堂が建てられ
運慶作の実朝の持仏が安置されたという。

嘉禄元年(1225)7月に政子が亡くなると、遺骸はやはり
境内に葬られましたが、現在ではその痕跡すらありません。
ちなみに寿福寺(じゅふくじ)裏手のやぐら内の政子の墓・
実朝の墓といわれる五輪塔は供養塔と考えられています。

源義朝公之墓  鎌田政家之墓

勝長寿院と源義朝主従の供養塔 
文治元年(1185)、源頼朝は父義朝の菩提を弔うため、この地に
勝長寿院を建立し、同年九月三日、義朝と郎等・鎌田正清(政家)の頚を埋葬した。
 石碑の背後の五輪塔は、主従の供養のため源義朝公主従供養塔再建委員会
(代表・鎌田丙午氏)の方々の御厚意により建てられたものです。
勝長寿寿院には、定朝作の本尊・金色阿弥陀仏像を始め、
運慶作の五大尊像などが安置され、壁画に彩られた阿弥陀堂、五仏堂、法華堂、
三重の宝塔などの荘厳な伽藍が立ち並んでいました。
鎌倉幕府滅亡後も
足利氏によって護持されましたが、十六世紀頃に廃絶したと思われます。
ここに集められた礎石は工事等で出土したものですが、柱を据えるための整形跡や
火災で焼けた痕跡が認められ、勝長寿院の歴史を語る貴重な遺物です。
 平成八年三月六日 鎌倉市教育委員会
源義朝公主従供養塔再建委員会の協力により之れを建てる。



源義朝公主従供養塔再建由来の記

この辺りは大御堂の谷戸といい文治元年(一一八五)源頼朝
父左馬頭義朝の菩提を弔うため建立した勝長寿院の
旧蹟であります 今から十数年前まではこの流れの上手
雪ノ
下四丁目十三番地十五号の地に源義朝とその郎等鎌田政家
首塚といわれる五輪の供養塔が二基残っていましたが
宅地開発でその敷地の所有者が変わり供養もその姿を消しました
谷戸の住民はこれを深く残念に思い再建を
計るべく
関係筋と協議を重ねた結果有志の浄財とこの
土地の所有者の
意によりこの度由緒ある供養塔を再
建することができました 
ここに由来を誌し感謝の意を
表します 
末永く鎌倉歴史探訪の一助となることを
願ってやみません 
  昭和五十九年四月吉日  
 源義朝公主従供養塔再建委員会



(碑文)
 院は文治元年源頼朝の先考(亡父)義朝を祀らんが為に草創する所 
一に南御堂又大御堂と言う
 此の地を大御堂が谷と言うは是が為なり  実朝及び政子も亦
此の地に葬られたりと伝へらるれども 其墓今は扇が谷寿福寺にあり
大正六年三月建之  鎌倉町青年会

(大意)
 勝長寿院は1185年に、頼朝が父義朝を祀るために建てた寺です。
南御堂とも、大御堂ともいい、この辺りを
大御堂が谷(おおみどうがやつ)と呼ぶのはこのためです。
頼朝の子の実朝と妻の政子はこの地に埋葬されたと伝えられていますが、
今それらの墓は、扇が谷(おおぎがやつ)の寿福(じゅふく)寺にあります。
稲瀬川(頼朝が範頼を見送り文覚を出迎えた川辺)  
源義朝最期の地(湯殿跡・法山寺・乱橋跡)  
アクセス』勝長寿院跡
神奈川県鎌倉市雪ノ下4  鎌倉駅東口徒歩約32分
『参考資料』
「神奈川県の地名」平凡社、1990年 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館、2008年 現代語訳「吾妻鏡(5)」吉川弘文館、2009年 
 現代語訳「吾妻鏡(6)」吉川弘文館、2009年 
松尾剛次「鎌倉古寺を歩く宗教都市の風景」吉川弘文館、2005年
 奥富敬之「鎌倉歴史散歩」新人物往来社、2010年
「武家の古都鎌倉を歩く」祥伝社新書、2013年 五味文彦「平家物語、史と説話」平凡社、2011年
神谷道倫「鎌倉史跡散策」(上)かまくら春秋社、平成19年
 「検証日本史の舞台」東京堂出版、2010年

 

 



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コメント
 
 
 
再開して下さって良かったです。 (yukariko)
2018-02-25 15:50:49
昨年12月18日の記事の後、二か月もUPされなかったのでお母様のお具合がお悪いのか、それともご体調が?…と気にかかっていました。
それから時々サイトを見せて貰っても、ずっと再開された様子がないので心配しましたが、久しぶりに新規の記事を拝見してホッとしました。
 
 
 
ありがとうございます (sakura)
2018-02-26 08:25:12
母はこの冬を越せるかどうかという状態に陥っていましたが、
2、3日前からほんの少しですが食事が摂れるようになりました。
私の方は色々なことが重なったためか血圧が高くなり
お薬を処方してもらって飲んでいます。
ご心配をおかけして申し訳ありませんでした。

ボチボチ気長にやっていこうと思っています。またよろしくお願いいたします。。

 
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