平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平貞能(生没年不詳)は父家貞の代から続く有力な平氏家人で、
清盛の一の腹心といわれるとともに重盛が家督を継ぐと重盛に従い、
維盛
の乳人(めのと)藤原忠清と並んで小松家にとって重要な侍でした。

半ば死を覚悟していた重盛の熊野詣にも同行し、
特に重盛に心服していた人物として平家物語に描かれています。
貞能(さだよし)の父貞家は、桓武平氏の血を引く郎党で、
忠盛(清盛の父)が『巻1・殿上の闇討の事』で闇討に遇いかけた時、
主人につき従っていた平家の大番頭です。

維盛が富士川の戦いで敗走し、この合戦の侍大将藤原忠清が
評判をおとすと、次に頼みにされたのが貞能でした。
清盛が亡くなり謀反が全国に拡大すると、貞能は肥後守に任じられ
九州の謀反鎮圧にあたりました。
謀反の首謀者菊池隆直らを降伏させ、一応の成功をおさめたものの、
追討は困難を極め、数万の軍勢を率いてくると噂されていましたが、
都落ち直前に帰還した時には、期待に反し千余騎しか連れていませんでした。

平家一門都落ちの日、源行綱が叛乱を起こしているとの
知らせを受け、貞能は河尻(淀川河口)に鎮圧
に向かいましたが、
河尻の動きが誤報とわかって都に戻る途中、
一門の都落ちに行きあいました。
貞能は大将の宗盛に向かって、引き返して都で
決戦するように進言しますが、容れられなかったため、
重盛の次男資盛(すけもり)とともに一門と別れ、
法住寺殿内の蓮華王院に入りました。

そこで一門の中でも後白河院の覚えのよかった資盛は、
平氏の都落ちを察し、比叡山に逃れていた院の指示を
仰ごうとしましたが、連絡がうまく取れず、やむなく重盛
の墓に詣で遺骨を掘り起こして高野山に送り、
翌朝、資盛と貞能は遅れて一門に合流します。
このことからも、この時期の平氏軍は、一門と行動を同じにせず
後白河院の指示を仰ぐ資盛らと宗盛指令下の平家主流派の
人々とで成り立っていたことがうかがえます。

これより先に貞能は肥後守に任じられ、菊池隆直らの謀反平定に赴き、
鎮西やその経路の西海道の情勢をよく知っていたことから、
宗盛とは別の西国での勢力回復が難しいという
情勢判断をしていたものと思われます。

こうして木曽義仲が京都に入る直前に都落ちした平家は、
九州の原田種直らに迎えられ、ひとまず平家の荘園があった
太宰府に落ち着き、体制を立て直そうとしました。

しかし九州の有力武士たちの中には、豊後国(大分県)の豪族
緒方惟栄(これよし)のように平家に帰服しない者がいました。
当時豊後国は鼻が大きいことから鼻豊後とよばれた
藤原頼輔(よりすけ)の知行国であり、代官として現地にいた
息子の頼経(よりつね)が、後白河法皇の意を受け、
平家を追討するよう惟栄に指示し、
惟栄は九州の武士たちにこれを院宣と称して伝えたという。

ちなみに藤原師実(もろざね)の曾孫にあたる頼経は、
名門出身でありながら、のち義経に心酔してその腹心となり、
そのため二度も配流の憂き目にあっています。

惟栄はもと重盛の家人であったという縁から、資盛は補佐役として
貞能を伴い五百余騎を引き連れ、惟栄の許に和平交渉に赴きましたが、
交渉は不首尾に終わり、平家は太宰府を追われました。

さいわい長門国の目代が大船を献上してくれたので、
一門は屋島に向かいましたが、途中、清経は柳ヶ浦で入水し、
清経の兄の維盛は屋島には行ったものの、
こっそり島を抜け出し熊野の那智沖で入水しています。
この頃の小松家の人々の心情が推察できる出来事です。

忠房も屋島の戦場を逃れ、紀伊の湯浅宗重を頼り、
源氏方の熊野別当湛増と戦いましたが、合戦は長引き
頼朝が文覚を使者として巧みに宗重を説き伏せたため、
忠房の身柄は頼朝方に引き渡され、やがて殺害されました。
小松殿の公達は、一の谷合戦で戦死した師盛(もろもり)、
壇ノ浦に沈んだ資盛・有盛以外は、
すべて主流派戦線離脱者だったのです。

貞能も清経の入水と相前後し、主流派から離脱して
九州に留まり出家したという。
平家の前途に見切りをつけたのでしょうか、
それとも緒方惟栄の説得工作に失敗して責められ、
その立場がさらに辛いものとなったのでしょうか。

『平家物語』では、重盛の息子たち、維盛・資盛・清経・有盛・師盛・忠房は
「小松殿の公達」とよばれます。清盛の死後、重盛の継母である
平時子の生んだ宗盛が平氏一門の棟梁となったことで、
小松殿の公達は一門の中で微妙な立場に置かれていました。
小松家の有力家人の藤原忠清や平貞頼(貞能の息子)らも、
出家して都落ちには同行しませんでした。

頼朝が平治の乱後捕われ、頼朝の助命を清盛に嘆願したのは、
頼盛の母池の禅尼でその時、清盛を説得したのは重盛でした。
その結果頼朝は死罪を免れ伊豆へ配流されています。

頼盛は都落ちの際、京都に残る道を選び、頼朝に手厚く保護されています。
同様のことが、小松殿の公達にも期待できたはずです。
主流派と小松家の人々との気持ちのずれの理由はこんなところにもあり、
それが九州における情勢によってさらに表面化したとも考えられます。

その後、貞能の消息はようとして知れませんでしたが、
平氏一門が滅亡した3ヶ月ほど後、鎌倉の御家人
宇都宮朝綱(ともつな)のもとに突然姿を現し、
姻戚関係にある朝綱に頼朝へのとりなしを懇願しました。

『吾妻鏡』文治元年(1185)7月7日の条によると、
宇都宮朝綱は平貞能が降人となって自分のもとにやってきた事情を
頼朝に説明しましたが、頼朝は難色を示します。
それで朝綱は一家の命運をかけて頼朝に貞能の助命を強く訴えます。


「上(頼朝)が挙兵した時、大番役として都にいた畠山重能(しげよし)、
小山田有重、宇都宮朝綱は、頼朝に縁のある者として都に留め置かれ、
平家一門都落ちの際、三人は処刑されるところでしたが、
貞能が宗盛を説得したので味方のもとに参ることができ、
平氏追討に参加することができました。
貞能は上にとってもまた功のある者ではないでしょうか。」
この朝綱の主張は認められ、貞能の身柄は朝綱預りとなりました。
宇都宮氏ゆかりの地域に平貞能と平重盛にまつわる
伝承をもつ寺院があるのはそのためです。

畠山重能(重忠の父)、その弟の小山田有重、宇都宮朝綱は
大番上京中に、頼朝が挙兵したため彼らは身柄を拘束され、
そのまま平家の家人として北陸道で木曽義仲軍と戦うことになりました。
京都大番役は、諸国の武士が三年交代で京都に滞在し、宮廷、
京都警固の役に
あたったものをいいいますが、
危急の時には人質にもなります。

角田文衛氏は「妙雲寺を初めとして、その縁起が平貞能と結びついた
小松寺は諸方に見受けられる。これらを歴史的に解明するためには、
余りに史料が不足しているけれども、
貞能が宇都宮朝綱の援助を得て仏堂を建立し、
重盛はじめ平家一門の後世を弔いながら晩年を過ごしたと
みなすことは単なる推測にとどまらぬであろう。」と述べておられます。
(『平家後抄(上)』)
妙雲寺(平貞能、東国落ち)  

 都落ちの一行、平貞能と出会う(鵜殿)   平忠房の最期(湯浅城跡)  
平維盛供養塔(補陀洛山寺)  
平清経の墓(福岡県京都郡苅田町)  
緒方三郎惟栄館跡  
『参考資料』
角田文衛「平家後抄(上)」講談社学術文庫、2001年 
現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、2008年
新潮日本古典集成「平家物語(中)」新潮社、昭和60年 
河合康編「平家物語を読む」吉川弘文館、2009年
河合康「源平の内乱と公武政権」吉川弘文館、2009年
高橋昌明「平家の群像 物語から史実へ」岩波新書、2009年 
安田元久「平家の群像」塙新書、1982年

 

 

 

 



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龍国寺は、建仁3年(1203)に原田種直が平重盛の菩提を弔うため創建、
その後、
天正2年(1574)に原田隆種によって息子親種の
菩提を弔うため再興されたと伝えています。

龍国寺のある糸島(いとしま)市は、福岡県の西部に位置し、
北側と西側が玄界灘に面しています。

原田種直は藤原純友の乱で勇名をはせた大蔵春実(はるざね)の子孫で、
この大蔵一族は九州各地に広がっていました。
平清盛の大宰大弐時代にその家人となり、
種直の妻は平重盛の養女とも(頼盛の娘とも)いわれ、
平氏与党勢力の要となって働きました。


平家都落ちの時にも終始忠誠を尽し、安徳天皇一行を安徳台の
館に迎え入れました。壇ノ浦合戦に先だつ元暦2年(1185)2月には、
源範頼率いる平氏追討軍を種直といとこの板井種遠が
筑前国蘆屋の浦(福岡県遠賀郡芦屋町)で迎え撃ちましたが、
弟の敦種が戦死して敗北(蘆屋浦の戦い)。
範頼はここに拠点を築き、彦島に拠を移した
平氏の背後を攻撃するのに好都合の地の利を得ました。
続く3月の壇ノ浦の戦いにも、種直は敗れ一族の多くを失いました。

敗戦後、頼朝の厳しい追及を受け、3700町歩に及ぶ
広大な領地も没収されました。
平山季重に預けられて鎌倉の扇ヶ谷(かめがやつ)に
幽閉され、13年の歳月が過ぎました。
種直は平家重臣であったため、罪は重く、
その罪を免れることは叶わぬ身ではありましたが、
季重は種直の助命を頼朝に嘆願しついに赦免されました。

平山季重(すえしげ)は、武蔵七党の一つ 西党に属し、源家譜代の家人として
保元・平治の乱に参加、一の谷の戦いでは、義経別働隊に加わっていましたが、
途中、功名手柄を目ざして隊を抜け出し、熊谷直実と先陣争いをして
平家の陣に突入、勝利のきっかけ作ったつわものとして知られています。
平氏滅亡後の奥州征伐など、すべての戦場に出陣し戦功を挙げ、
頼朝から原田種直の没収地を賜り、以後、季重は筑前国三笠郡原田荘の
地頭職としてしばしば九州へ赴いています。

建久8年(1197)に種直は赦され、筑前国怡土(いと)庄
(現、糸島半島の一部、福岡市の一部)に領地を与えられます。
鎌倉幕府の支配力が固まると、種直の子孫、
秋月氏・深江氏・青柳氏もしだいに御家人となり、
一族およびその子孫は筑前・筑後・肥前を中心に繁栄していきます。

無人の一貴山(いちきさん)駅

 駅前にたつ観光案内板の前を通り過ぎ、県道572号線に入ります。



この標識に従って3㎞ほど山側に行くと、唐原(とうばる)集落があります。
その集落には、壇ノ浦合戦に敗れた平家の落人が隠れ住んだといわれ、
平家都落ちの際、原田種直を頼ってきた平重盛内室と息女の塚があります。

 龍国寺は突き当り右手の山麓にあります。

龍国寺全景

門前のせせらぎ、 苔むした石垣



 龍國禅寺山門

釈迦如来像右側は大乗妙典一石一字塔 

「大乗妙典一石一字塔」と彫られています。
一石一字とは、大乗妙典の経文の文字を一文字ずつ小石に書き写したもので、
それを地中
に埋め、その上に建てた供養塔がこの石です。

「龍國寺
曹洞宗庁法幢会萬歳山龍國禅寺は建仁三年(一二〇三)小松内大臣
平重盛公の菩提の為 重盛公を開基とし  ?原田種直公創建の寺なり
 初め小松山極楽寺と号し 徹慶智玄大和尚を請じて開山となし 
天台宗の寺なりしが 至徳元年(一三八四)足利将軍義満公伽藍仏像を造立し
 充祐大和尚を請じて曹洞宗となる  その後天正二年(一五七四)
高祖城主原田隆種公は四男親種公菩提の為寺を再興 号を萬歳山龍國禅寺と改め
 本室智源大和尚を請じて中興開山となし現在に至る 」(碑文より)
萬歳山は種直の法名の萬歳院からとったもので、
龍国寺は親種の龍国寺殿によるという。


本堂 




本堂内部

経蔵堂

門前に広がるのどかな田園風景 

原田種直と安徳天皇(安徳台安徳宮) 
原田種直(岩門城跡)  
熊谷直実、平山武者所季重の先陣争い(巻九・一二の懸)  
『アクセス』
「龍国寺」福岡県糸島市二丈波呂(はろ)474
JR博多駅から筑肥線「一貴山駅」下車 徒歩約45分
『参考資料』
「姓氏家系大辞典」角川書店、昭和49年 「福岡県の歴史」山川出版社、昭和49年 
「福岡県の歴史散歩」山川出版社、2008年  安田元久「武蔵の武士団」有隣新書、平成8年
「日本史大事典」平凡社、1993年 全国平家会編「平家伝承地総覧」新人物往来社、2005年
成迫政則「武蔵武士(下)」まつやま書房、平成17年

 



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『平家物語』は、平重盛(清盛の嫡男)の嫡孫である六代御前が斬られる
巻12の「断絶平家」
で終わりますが、諸本の中で一般に流布している系統には、
壇ノ浦での平家滅亡後の建礼門院の帰京から往生までを振り返って
語る箇所を一巻にまとめ『灌頂の巻』とし、物語の最後を飾っています。

謡曲大原御幸(おはらごこう)は、この『灌頂巻』に題材をとり、
大原に隠棲している建礼門院を訪ねた後白河法皇に女院が語る
「六道語り」の物語で作者は不明です。

まず登場人物のご紹介をします。
建礼門院(平徳子)は清盛の次女に生まれ、母は二位の尼とよばれた平時子、
高倉天皇に入内して皇子を生み、その皇子は僅か3歳で安徳天皇となりました。
平家一門が壇ノ浦で全滅の際、安徳帝を抱いて入水した二位の尼の後を追いましたが、
心ならずも海中から救いあげられて京へ送られ、大原の寂光院でわが子や
母をはじめ一門の菩提を弔いながらひっそりと余生を送っています。
当時右大臣だった九条兼実の日記『玉葉』には、
高倉上皇の命が今日明日に迫っていたころ、清盛夫妻は上皇崩御の際には、
建礼門院を法皇の後宮に入れようにとひそかに計画していました。
しかし普段おとなしい女院がいつになく強く拒絶したため、
沙汰闇となったことが記されています。

後白河法皇
は建礼門院にとって舅である一方、次々と平家つぶしを画策し
その追討を命じた当人、親兄弟の敵ともいえます。
法皇との対面にあたって女院の実際の心情はどのようなものだったのでしょう。
なんとも複雑な思いがあったと思われます。
大納言局
は五条大納言藤原邦綱の娘、南都焼き討ちの責任者として
斬首された
平重衡(清盛の五男)の北の方です。安徳天皇の乳母として出仕し、
父の官位、大納言佐(だいなごんのすけ)の女房名でよばれました。
壇ノ浦では二位の尼、女院に続いて神鏡をいれた唐櫃(からびつ)を抱え
海に飛び込もうとしましたが、袴の裾を敵の矢が射ぬいて生け捕りにされた後、
都に帰り夫重衡の供養を行うと、尼となり女院に仕えていました。
父邦綱はなかなかのやり手で財をなし、大福長者といわれていました。
清盛と仲が良く、清盛が死ぬと後を追うように邦綱も亡くなっています。

阿波の内侍の母は後白河法皇の乳母紀伊二位朝子、父信西(朝子の夫)は、
保元の乱後に政界を牛耳り、法皇の近臣らの反発を招き平治の乱で殺害されました。
萬里小路中納言は平家物語には登場しない謡曲作者の創作による人物です。

<あらすじ>壇ノ浦合戦の一年後の晩春のある日、後白河法皇が
萬里小路(までのこうじ)中納言を供に輿に乗って山深い大原に訪ねてきました。
その時、女院は大納言局と樒(しきみ)や花を摘みに山に入っていました。
供が荒れ果てた庵の中に声をかけると、年老いた尼が出てきて女院はお留守ですと答えます。
法皇は尼を見て「誰であるか」と尋ねると「お忘れになるのは当然です。
法皇様に可愛がっていただいた信西の娘阿波内侍です。
こんな情けない姿になりました。」と涙ながらに答えます。
しばらくすると、女院と大納言局が山から下りてきました。女院は尼になった
自身のこんな姿を見られるのも恥ずかしいとためらいながらも法皇と対面します。
法皇に「噂では六道の有様をご覧になったと聞くが、
このようなことは仏や菩薩の位に達した者でないと叶わぬはずなのに、
不審に思う」と尋ねられ、女院は自分のたどってきた生涯を天上道、
人間道、餓鬼道、修羅道、畜生道、地獄道に例えて語ります。

高倉天皇の后となり安徳天皇を生み、すべて思いのままの天上界のような
日々は長くは続きませんでした。木曽義仲に追われ、都落ちした心細さは
「人間道」の苦しみ、次いで、西海の波に漂い水に囲まれながら、
真水が飲めなくて苦しんだ生活は「餓鬼道」さながら、目の前で繰り広げられる
合戦は「修羅道」の姿そのまま。駒のひずめの音聞けば「畜生道」の
浅ましさを連想させ、壇ノ浦の合戦はまるで「地獄道」のようでした。
私は生きながら六道を見てきたのですと自らの体験を「六道」になぞらえて語り、
その苦しみよりはるかに辛いわが子安徳帝入水の悲しみを述べました。
華やかな宮中生活から凋落していった建礼門院の人生は、平家一門の運命そのものでした。
やがて時は過ぎ、夕暮れになり名残も尽きぬまま法皇は都へ帰る輿に乗り、
女院はその後を静かに見送り庵に入りました。









画像は、すべて「大原御幸(小原御幸)」より転載。
『参考資料』
能の友シリーズ11「大原御幸(小原御幸)」白竜社、2002年
白洲正子「謡曲 平家物語」講談社文芸文庫、1998年 
細川涼一「平家物語の女たち」講談社現代新書、1998年
 永井路子「平家物語の女性たち」文春文庫、2011年 
倉富徳次郎「平家物語 変革期の人間群像」NHKブックス、昭和51年



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手もとに一枚の新聞の切り抜きがあります。(日本経済新聞朝刊)
そこには緒方三郎惟栄(これよし)のご子孫、緒方容造氏の記事が掲載されています。
 
2008年4月、前年に63歳でリタイアしていた私は、思い立って謡曲を習い始めた。
やがて平家物語に材を取った「大原御幸」を手にしたとき「あっ」と声をあげそうになった。

ルーツは豊後国緒方郷
壇ノ浦で安徳帝とともに海に身を投げた建礼門院が緒方三郎惟栄(これよし)への
恨みを語る段がある。その緒方惟栄こそ、幼いときから大人たちに聞かされていた
我が緒方家の祖先なのだ。祖先が平家物語に登場しているとは考えてもいなかった。
しかし思えば亡父の名は惟吉(これよし)、大伯父は三郎だ。
それから時間を見つけては祖先の足跡を捜し始めた。
手掛かりは伝来の「大神姓 緒方代々系図」。仏壇の引き出しに放り込まれていた
古い書き付けの束。家宝の太刀。我が家のルーツは豊後郡緒方郷、
三重郷一帯、合併で大分県豊後大野市となった地域だ。
地元の歴史民俗資料館に資料を送ってもらったところ、惟栄は郷土の
英雄として扱われ、館の跡は観光スポットになっていることがわかって驚いた。

豊後武士団の統領として12世紀後半を生きた惟栄はもともと平家方であったが、
源氏に通じるようになり、九州に落ち延びてきた平氏一族を瀬戸内に押し戻して
壇ノ浦での滅亡に導いた。鎌倉幕府の事績を記録した「吾妻鏡」の
文治元年(1185年)正月26日の項に「平家を追って赤間関(下関)に至った
源範頼の軍勢が兵糧と船がなくて往生していたとき、
豊後の臼杵二郎惟隆と弟の緒方三郎惟栄が兵船82艘を献じた」とある。
しかしその後、源義経を助けた惟栄は頼朝の怒りを買って上野国沼田荘に流された。
系図は大神大太惟基(だいたこれもと)から始まる。


平家物語巻第八「緒環(おだまき)」に大蛇と豊後の国の片山里に住まう
女の間に生まれたと書かれ、旧緒方町にもその伝承が残っている。
なぜ大蛇なのか。最近になって古代朝鮮に大蛇とミミズが違うだけで、
あとは全く同じ将軍誕生説話があることを知った。
すると我が祖先は渡来系なのかもしれない。この大太から惟栄と続いた一族は
豊後を足場に大きな勢力を保ち、南北朝時代に京に移り住んだ。
系図にはこう書いてある。

建武3年(1336年)後醍醐天皇に京を追われた足利尊氏と直義兄弟が
九州に下って菊池武敏率いる大軍と筑前・多々良浜で合戦したおり、
緒方朝定(ともさだ)は劣勢の足利軍にあって奮戦した。
その戦功で山城国横大路村に所領をもらった。


京都に石塔切の記述
詳しい事情はわからないが、いつのころからか緒方一族から
藤林姓を名乗る流れが生まれる。その中の一人に藤林光政がいた。
光政の妻は明智光秀の妻と姉妹で、本能寺の変の後、
山崎の合戦で秀吉方と戦い討ち死にしたという。系図の簡潔な記述から、
戦乱の世を生き抜いてきた祖先の生々しい姿が浮かび上ってきた。
しかし残された問題は太刀だった。刀身の根本「中子(なかご)」には
「伴清定石塔切(ばんきよさだせきとうきり)時定所持」と刻まれているが、
時代も場所もわからない。手掛かりは探し物のために押入れを整理していて偶然に見つかった。
洋服をしまう紙の箱を開けたら、無造作に放り込まれた古文書の中に、
このことに関する書き付けがあったのだ。
「文明3年(1471年)2月下旬、横大路村に夜な夜なもののけが出た。
ある夜、時定が大きな古入道を切りつけ調べてみると、伴清定を祭る石塔で、
血のような赤い筋があった。」そこには詳細なスケッチも添えられていた。

京都市歴史資料館に問い合わせ、史料集「京都叢書(そうしょ)」などを当たったところ、
昨年秋になって「伏見区横大路」「伴清定の墓」「石塔アリ」といった記述を見つけた。
先祖のスケッチに出てくる浄貞院にあるらしい。そして同年師走、
系図の片隅に16世紀初めの人、藤林宗政が浄貞院を建立したという記述を発見した。
建立に際してそこに石塔を移したと考えられる。
それを知るとどうしても現地に行ってみたくなった。

500
年の歳月を超えて
今年1月7日、京都市伏見区の浄貞院を訪ね、住職の案内で裏に回った。
石塔は今も当時の姿をとどめているのか。石塔はあった。
しかも江戸期に描かれたらしいスケッチと赤筋の位置まで寸分違わない。
500年の歳月を超えて先祖と向き合った私は、震えるような思いで石塔をカメラに収めた。
(緒方容造=無職)   
(日本経済新聞朝刊 2011年3月9日 文化面より転載)

緒方容造氏がご祖先をお探しになるきっかけとなった建礼門院が
緒方三郎惟栄への恨みを語る一節を『謡曲大原御幸』からご紹介します。

平家一門が壇ノ浦に滅んだ後、生き残った建礼門院は、
尼僧となり大原の寂光院でひっそりと暮らしていました。
そこへ後白河法皇が訪れ、女院は問われるままに涙ながらに辛い体験を語ります。
ついで女院にとってさらに残酷な安徳天皇の最期の様子を知りたいといわれ、
涙をとめ意を決っして話し始めました。

「その時の有様を申すにつけて、まず恨めしい思いが先たちます。
長門の壇ノ浦でひとまず九州へ落ちのびようと一門で相談していましたのに
緒方三郎が心変わりしましたので、薩摩へ落ちようと
しましたが、
運悪く上げ潮になりそれも難しく、もはやこれまでとなりました。

それで、能登の守教経が海中に飛び込み続いて新中納言知盛が
壮絶な
最期を遂げました。その時二位殿は袴の裾を高くからげて、
『わが身は女の身であるが、敵の手にはかかるまい。』と安徳天皇の
手を取り船端に立ち『この国には逆臣が多く、浅ましいところです。
波の下には極楽世界があるので、そこへお供しましょう』と
東を向いて天照大神にお暇乞いをし、西に向かって念仏を唱え、
海の底深く沈んでしまいました。
謡曲大原御幸  緒方三郎惟栄館跡     
『参考資料』
「日本経済新聞朝刊」
能の友シリーズ11「大原御幸(小原御幸)」白竜社、2002年
画像は「大原御幸(小原御幸)」より引用




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緒方三郎惟栄館跡から400㍍ほど西、田んぼの中に板碑(いたび)がたっています。
この地は現在廃寺となっている永福寺跡です。

大型の板碑はかなり遠くからでも見えます。
高さは約3mあり、県下でも最大級の大きさの三反畑(さんたんばた)板碑です。

板碑は背後に傾いています。大分県豊後大野市緒方町上自在117
大分県指定有形文化財(昭和48320日指定)


板碑は死者の供養・追善のために建てられ、平らに加工された
石で作られた卒塔婆をいい、寺院の境内や廟所に建立される場合が多いようです。
板碑には、仏教の諸尊を梵字(ぼんじ)一文字で表した種子 (しゅじ)
あるいは仏、菩薩の像、供養者、造立年月日、趣旨などが表面に彫られ、
多くは高さ 1mほどで頭部を三角につくり、
その下に横に二条の切れこみが入っています。

三反畑板碑の材質は安山岩で、正面は額部に金剛界大日如来の種子(バン)、
碑の身部には大きく釈迦の種子(バク)、その下左右に
釈迦如来の両脇侍である普賢菩薩の種子(アン)と
文殊菩薩の種子(マン)が彫られ、下方には
「天授三丁巳十一廿九」「十方檀那」(方々の施主の意)と刻まれています。

種子とは仏像の姿を現す代わりに、梵字(古代インドの文字)で表し、
梵字は原音のまま発音されます。
このほか板碑には仏の図像を彫りだしたものもありますが、
梵字で仏像をしめすのが一般的です。


南北朝末期、天授三年(1377)11月29日の造立で、
惟栄より200年ほど後のものであり、惟栄との関連性はありませんが、
惟栄が背後の三宮八幡社から投げたため傾いているとも、
緒方一族の供養塔ともいわれ、地元では惟栄に関連づけて語り継がれています。

板碑の多くは中世関東で建立され、関東地方の場合、細工のしやすい
秩父山地の特産品である青石を材料とした板碑が広く分布しています。
鎌倉幕府創設の捨石となった三浦義明を弔うため頼朝が建立した
満昌寺境内にも鎌倉時代の板碑があります。

地元にはこの他、惟栄にまつわる言い伝えが数多く残っています。
『大友興廃記』には、惟栄が遊山のついでに、上自在村の北にある
軸丸の原というところで七尺四方の石を鉄棒で突き通した。
その石が今も残っているという力自慢の話や五月の中旬、早苗をとる頃に
惟栄がやってきて夕方になっても田植が終わらないのを見て、
沈もうとする太陽を延ばして田植を終わらせた。
これを神領に寄進して日祭田とよび、その田が今も残っているという。
惟栄を誇りとする人々の心情がうかがわれる伝説ばかりです。
緒方三郎惟栄館跡近くの交差点や橋の名「三郎大橋北交差点」、
「三郎大橋」もその気持ちのあらわれなのでしょう。
 『参考資料』
渡辺澄夫「源平の雄 緒方三郎惟栄」第一法規、昭和56年
 「大分県の地名」平凡社、1995年 「京の石造美術めぐり」京都新聞社、1990年
石井進「日本史の社会集団 中世武士団」小学館、1990年

 



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