平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平治の乱に敗れた頼朝は捕えられましたが、池禅尼のとりなしで死罪を免れ
伊豆に配流となり、京の粟田口を出て東国に向かいました。
この時代の流罪は、遠流・中流・近流の三段階あり、伊豆は流罪の中で
もっとも刑の重い遠流ということになります。
この日、頼朝の同母弟希義(まれよし)も捕えられて土佐国に流されていますが、
土佐も伊豆同様に遠流地の一つとされてきた国です。
永暦元年(1160)3月11日、伊豆まで送る役人・検非違使三善友忠に付き添われ、
頼朝は都から粟田口を出て近江・伊勢へと陸路をとり、
伊勢の阿濃津(あのつ)より海路で伊豆へと向かいます。

頼朝の乳母・比企の尼とその夫の掃部充(かもんじょう)、
亡母の弟藤原祐範が付けてくれた家人のみが頼朝の供でした。
あまりの寂しさに平氏の家人・高庭介資経(たかばのすけすけつね)が
郎党藤七資家に命じて供をさせます。
比企の尼とその夫は所領武蔵国比企郡に帰り、以後頼朝挙兵までの
二十年間、毎月食料を送るなど頼朝の生活を支えます。
東国伊豆は源氏の拠点であり代々源氏に仕えてきた武士が多くいる地域でしたが、
頼朝が当時全盛の平家一門を滅ぼすとは誰も思っていませんでした。

京都市立白川小学校前に粟田口の碑と駒札が建っています。





粟田口は京の東の出入口、粟田郷を抜けるので粟田口とよばれ、
三条口、三条橋口、大津口ともいう。『京の古道を歩く』には、
「東海道の道筋として現在の三条通より一筋南、白川小学校(旧粟田小学校)横から
粟田神社、良恩寺、佛光寺の前を通り都ホテルで行き止まりになる細道がある。
どうもその風情から考えて、これが古の東海道の跡だと思われる。」と書かれています。
ここから日ノ岡峠・逢坂山を越えて近江へと通じる道は東海道、東山道、北陸道に
通じる道筋として平安時代以降重要視されてきました。

『平家物語・巻九・河原合戦の事』には、木曽義仲の都落ちの様子が
「六條河原と
三條河原の間にて、敵襲ひかゝれば、取つて返し々、木曽、僅かなる小勢にて、
雲霞(うんか)の如くなる敵の大勢を五六度まで追返し、賀茂河さつとうち渡り、
粟田口・松坂(日ノ岡峠西)にもかゝりけり。去年信濃を出しには、
五万余騎と聞きしが、今日四宮河原を過ぐるには、主従七騎になりにけり。」とあり
『義経記』には、「鞍馬山を出た遮那王が奥州下向の際、粟田口の十禅寺の前で
金売り吉次と待ち合わせ松坂や四宮河原を過ぎ逢坂関も越え、大津の浜をよぎり
瀬田の唐橋をうち渡り近江国の鏡の宿についた。」と書かれ、
いずれも近江への途次として粟田口を通ったことが記されています。

『平治物語』によると、美濃国青墓で捕えられたのち宗清に預けられた頼朝は、
池禅尼から「日々のお世話するように」と小侍一人付けてもらった。
「去年三月に母御前に先立たれ、正月三日には父頭殿が討たれ、
兄の悪源太や大夫進も亡くなった。今日は父の35日にあたる。
このような身でなければどのような仏事でも行うことができますが、
捕われの身では何もできません。せめて卒塔婆の一本でも刻み念仏を
書いて菩提を弔いたいので小刀と檜の木を探してきてくれ。」と小侍に頼んだ。
これを小侍から聞いた宗清は小さい卒塔婆を百本作って念仏を書き、
宗清の知り合いの僧を招いた。佐殿は着ておられた小袖を脱いで僧の前に差し出し
「頼朝が世に時めいているなら、どのようなお布施も用意させていただきますが、
このような身の上ですので力が及びません。卒塔婆の供養を述べていただけませんか。」
とおっしゃると僧はこの言葉にしみじみと感じ入り、卒塔婆が立派なことや佐殿の
供養の心が深いことを仏前に申し述べ「成等正覚、頓証菩提、極楽往生」と唱えて
鐘を鳴らすと佐殿、宗清以下の者ども皆涙を流した。

「お命助かりたいと思われませんか」と宗清が佐殿に申すと「保元・平治の合戦で
亡くなった兄弟や父の後世を弔いたいので命は惜しうございます。」とおっしゃる。
「池禅尼と申される方は頼盛の母、清盛にとって継母にあたります。この方はたいそう
憐れみ深い方ですが、先年、山法師の呪詛にて右馬助家盛殿を亡くされました。
その家盛殿のお姿に佐殿はよく似てらっしゃいます。池禅尼殿にこのことを
申し上げたならお命を助けてくださるかもしれません。宗清が頼んでみましょう。」と
早速池禅尼の所に参上して「何者が申したのか分かりませんが、頼朝は池禅尼殿が
情け深い方とお聞きなさって尼殿におすがり申し上げて命だけでも助けていただき、
父の後世を弔いたいと申しています。この頼朝の姿は亡き右馬助殿に瓜二つです。」と
申すと池禅尼は「私が情け深いと誰が頼朝に申したのでしょう。忠盛の代には多くの者を
助けることができましたが、清盛の代になってからは申してもかないません。
だが頼朝が右馬助の姿に似ているとは悲しいことよ。駄目かもしれませんが、清盛に
お願いしてみましょう。」と孫の伊予守重盛を呼んで「頼朝が父義朝の後世を弔いたいと
言っているそうです。聞く所によると頼朝は亡くなった家盛にそっくりといいます。
家盛は清盛の弟ですからそなたにとっては叔父にあたります。叔父の孝養と思って
頼朝を助けてやってください。」とおっしゃるので重盛は早速父清盛のもとに参上して
このことを申されると「こればかりは池殿がおっしゃることでも承知したとは言えまい。
源平の中が悪く、源氏にこれまでどれだけ平家の者が斬られたかわからないし、
清盛が大将軍となり保元・平治の乱で源氏の兵の多くを討ったのは本当のことだ。
中でも頼朝は義朝が可愛がり右兵衛権佐まで昇進させ、将来は大将となる人物として、
いい武具も与えたと聞いている。兄弟多いなか、しかも多くの兄弟が
亡くなっているのに、頼朝が今まで生きていたのが不思議である。
助けるなどということは思いもよらない。早く斬ってしまえ。」と取り合わない。

重盛からこのことをお聞きになり池禅尼は、頼朝が斬られたら生きている甲斐がないと
湯水も口にせず悲しんでお嘆きになる。このことを伝え聞いた重盛は再度清盛に
「池禅尼殿は頼朝が斬られたらご自分も餓死すると何も口になさっていません。
年もとっていらっしゃるのでこのままだとお命が危ないと聞いています。もし尼殿が
お亡くなりになったら清盛は継母・継子の仲だからこのようなことをするのだと
人々が噂をすると父上にも差し支えがあるでしょう。頼朝一人助けたところで
何ほどのことがございましょう。平家の運が尽きたときには、諸国に多勢いる
源氏が政権をにぎるのは当然のことです。」と道理を尽して申されるので
清盛もなるほどと思ったのか頼朝を伊豆国へ流罪ということにした。

宗清は池禅尼のもとに、暇ごいをさせるために頼朝を連れて参上した。
池殿は頼朝を近くに呼び寄せてつくづく御覧になって「本当に家盛の姿かたちに
少しも違わない。そなたを遥々伊豆国まで行かせるのは心が痛む。都近くに置いて
心慰めたいものだがそれも叶わぬこと。そなたを家盛と思い春秋の衣装を年に
二度送りましょう。そなたも尼を母と思い私が亡くなったら後世を弔ってください。
伊豆国は鹿が多いところで土地の人々が集まっては狩をすると聞いています。
土地の者などとつまらぬ狩などして『流人なのに勝手な振る舞いをして。』と言われ
訴えられでもしたら又つらい目を見ます。くれぐれも注意しなさい。」と仰ると、
佐殿は「どうしてそのような振る舞いをいたしましょうか。髷を切って父義朝の後世を
弔いたいと思っております。」と申されると「よくおっしゃった。名残りが惜しくなる。
早く、早く帰りなさい。」と涙をお流しになる。三月十五日頼朝は役人とともに
都を出立し粟田口に馬を止めて名残りを惜しまれる。
『アクセス』
「粟田口の石碑」白川(旧粟田)小学校京都市東山区三条坊町52-4
 市営地下鉄東西線「東山駅」下車東へ徒歩約5分。
『参考資料』
永原慶二「源頼朝」岩波新書 「源頼朝七つの謎」新人物往来社 
奥富敬之編「源頼朝のすべて」新人物往来社 
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館 日本歴史地名大系(27)「京都市の地名」平凡社 
増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 高木卓訳「義経記」河出文庫

 
 
 
 





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青墓の宿(岐阜県大垣市)は東国へ往来する旅人の宿場で、
当時遊女で賑わった町です。

旅人の宿泊の世話をしたのが、長者とよばれる土地の豪族でした。
後白河院によって編纂された『梁塵秘抄』には、青墓宿の
阿古丸・目井・乙前(おとまえ)延寿(えんじゅ)などが登場し、
なかでも乙前は後白河院の今様の師でもありました。

西行の祖父にあたる今様の名手監物源清経は、尾張の国に
下向した折、宿泊した青墓宿で当時12、3才の乙前に出会い
その声の美しさに将来大成するだろうと京へ連れ帰ります。
西行の母方の祖父である源清経は今様の達人であっただけでなく、
蹴鞠も得意とし文武両道に通じていました。
父を早くに亡くして母方の家で育てられた西行は
清経の才能を受け継いだといわれています。

延寿は青墓の長者大炊(おおい)の娘で、義朝(頼朝の父)との間に
夜叉御前という娘を儲け、延寿の伯母は為義(義朝の父)の
晩年の愛人となって4人の子供を生んでいます。


昼飯(ひるい)バス停からJRのガードを潜ると
「史跡の里青墓町」の木標が
見えてきます。すこし行くと、
遮那王(義経)が鞍馬寺から金売り吉次とともに奥州へ下向の途中、

立ち寄ったというよしたけ庵(円興寺の一坊円願寺)があります。

よしたけ庵

遮那王は近江から杖にしてきたよしの杖を地面に突き挿し、
源氏が再び栄えるよう祈り
「♪挿し置くも形見となれや
後の世に源氏栄えばよし竹となれ」と詠み出発しました。

後にその願いが通じたのか、よしが芽をふき竹の葉が茂り
寺は「よしたけ庵」と呼ばれました。

円願寺は信長の兵火で焼失、江戸時代になって

中山道が整備されたのち、街道沿いのこの地に移転再建されましたが、
再び焼失し現在は廃寺になっています。

小篠竹の塚(照手姫の墓)

集落を外れると大谷川、この川に沿って遡れば右手に元円願寺跡。
ここは今から四百余年以前に東山道の宿場町だった青墓の
円興寺36坊のひとつ円願寺跡です。
山上の円興寺や朝長の墓に参詣できない人のために、
山上の朝長の墓と同じものをこの寺の一角に建てました。
向こうに見える山は伊吹山系、この山系の東端には
石灰の採掘で山肌を削りとられた金生山があります。
あたり一面収穫の時期を向かえ黄金色に輝く麦畑が広がっています。
この辺一帯平安時代末期には、
傀儡(くぐつ)といわれる
遊女で賑わった青墓宿が営まれていたはずですが、
宿場らしい
面影はどこにもありません。

それもそのはず、ここが宿場として栄えていたのは
鎌倉時代あたりまでのことで、以降は杭瀬(くいせ)川の
渡し場がある赤坂宿が代わって発展していきます。

今となっては大炊長者屋敷がどこにあったのかは定かではありませんが、
元円願寺から3、400m東方、JRの鉄道沿いの道の北側に
長者屋敷推定地として
好事家が建てたという石碑があるそうです。
元円願寺跡からさらに峠の方へ進むと、
大炊長者の菩提寺円興寺が見えてきます。




大炊一族、義朝の菩提を弔う円興寺

参道脇には自然石に手彫りで刻まれた歌碑が建っています。


♪遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ

   遊ぶ子どもの声聞けば わが身さえこそ揺るがるれ
(遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのであろうか、
それとも戯れをしようとして
生まれてきたのであろうか。
無心に遊ぶ子供たちの声を聞いていると
自分の体までが
自然と動きだすように思われる)
『梁塵秘抄・巻二』

 
母・待賢門院の影響を受け、今様に熱中していった後白河院は
「鳥羽院(後白河院の父)が亡くなると、
まもなく保元の乱が起こり、今様どこではなかったのだが
保元2年乙前の歌をなんとかして
聞きたいといやがる乙前を
むりやり引っ張りだし、人ばらいをして高松殿の居室で
互いに歌談義をし、その夜師弟の約束をした。

乙前に部屋を与えて留め、前から歌っていた歌で
節が違う歌は乙前の歌い方に統一して
習い直した。」
そののち、延寿とは「5月の花の頃、江口、神崎の遊女や傀儡女が

集まって供花会をしたことがあった。その時今様の話が出て
延寿が『恋せば』という
足柄を御所様にお習いしたいと
いっていると近臣の者から聞いたが
取り合わないでいたとこ
ろ『何としてでもお習い申し上げたい』というので乙前に尋ねると

『お教えなさいまし』というので夜ごとに二、三夜ほどで教えた。
その後、別れの挨拶に
来たときに今様を歌わせた時
『みごとであるぞ』と褒めると延寿はすぐさま今様で

返歌をかえしたので大変感激し褒美を与えた。」
(『梁塵秘抄口伝集 巻第十』)

円興寺本堂

昆虫採集の子供達で賑わう境内

この寺の北東、金生山の西側には麓から山頂にかけて
七堂伽藍が建ち並ぶ元円興寺がありましたが、織田信長に焼かれ
江戸時代に現在地に移転再建されています。
今年(2010年)12月28日は朝長の850年忌、
この地で十六歳で亡くなった朝長に因んで、
命日には16回梵鐘を突くそうです。
境内から山道を辿ると(裏参道)東方の山中にある
元円興寺、朝長の墓所へと通じるのですが、
「クマ出没の注意書き」に急遽予定を変更して表参道から上りました。

青墓 (源朝長の墓・元円興寺)
平治の乱から30年後、建久元年源頼朝は上洛に際し
円興寺に五千石の寺領を寄進し、大炊長者や延寿に褒賞を与え、
父義朝をだまし討ちにした長田忠致(ただむね)を斬首しました。

『アクセス』
「円興寺」岐阜県大垣市青墓町880
JR
大垣駅 「赤坂総合センター行き」バス乗車25分位終点下車
自転車で25分
赤坂総合センター隣の消防署で無料レンタサイクルをお借りしました。
『参考資料』
日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集」小学館 
桃山晴衣「梁塵秘抄 うたの旅」青土社 現代語訳「義経記」河出文庫  
日本地名大系「岐阜県の地名」平凡社 白洲正子「西行」新潮文庫
 「平安時代史事典」角川書店 「群書類従」『保暦間記』続群書類従完成会
 現代語訳「吾妻鏡」(5)吉川弘文館
 
 
 
 

 

 
 
 





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平治の乱に敗れ東国をめざす父義朝らとともに伊吹山麓の道を辿るうち、
雪の中で一行にはぐれ、年明けに青墓に到着した頼朝は義朝の妾、
延寿(えんじゅ)の長者屋敷に隠れ住んでいました。
青墓は往時の美濃の中心地でした。
東国へ往来する旅人が青墓宿(しゅく)に泊り、
その世話をしたのが土地の豪族の「長者」でした。

そのころ、尾張国司となった頼盛は、弥兵衛宗清を目代として任地に
下向させました。青墓宿に着いた宗清はその夜、遊女を泊めると
「長者の所に兵衛佐(頼朝)がいる。」と言うので、すぐに平家の侍と共に
長者屋敷に押し寄せ「兵衛佐(すけ)を出せ」という。
大炊がこのことを頼朝に告げると「覚悟しています。」と
自害しようとしている所に侍どもが押し入り、
刀を奪い取り頼朝を捕えました。
宗清が頼朝を連れて長者屋敷を出て行くと、頼朝の異母妹の夜叉御前が
「我も義朝の子なり。佐殿と一緒に一緒に」と転げまわって
泣くので宗清はじめ平家の侍たちも哀れに思います。

都に帰って平家に頼朝を御覧に入れたところ「でかした!」といって
頼朝を宗清に預けました。清盛は頼朝に使者を送り
「髭切はどこにあるのか。」と尋ねさせると、頼朝は今更隠しても
何の甲斐があろうと「青墓の長者のもとにございます。」というので、
難波六郎恒家が長者の家に行き「髭切があるそうだが、返すように」というと
長者は源氏重代の太刀を平家にとられるのは残念なことです。
たとえ佐殿が斬られたにしても、義朝にはお子様が沢山おいでになる。
この先平家の運が尽きてしまい源氏の世になることもあるでしょう。
その時この太刀を差し上げたならどんなにお喜びになるでしょう。

どうしたものかと考えあぐねていましたが、わが家には髭切にも劣らない
泉水という太刀があるのでこれを渡そう。佐殿にお尋ねになっても
「髭切です」といえば済むことだし、万が一「違う」と返事し、
平家から咎めを受けたら「私は女なので刀のことはよく知らない。」と
髭切は柄もさやも丸かったのでさし替え、泉水を差し出しました。
清盛は頼朝のもとにこの太刀を届けさせ「髭切であるか」と尋ねさせると
「そうです」といったので清盛は大そう喜びこの太刀を大切にしまいました。

夜叉御前は頼朝が捕らえられてからというもの湯水も通らず、
嘆き悲しまれるので「どうしてそんなにお嘆きになるのですか。
お命を長らえてこそ父上のご菩提を弔うことができましょうに」と
さまざまに言い聞かせると気分も和らいだご様子なので大炊も
延寿も気をゆるし、乳母も姫につきそうのはやめたその矢先の
2月1日の夜、夜叉御前は一人青墓を出て遥か遠くの杭瀬川に行き、
まだ10歳というのに身を投げたのはまことに痛ましいことです。

朝になって長者の家では夜叉御前がいないのであちこち捜していると、
通りがかりの旅人が「杭瀬川の水際に幼い子の死骸があります。」と
教えてくれました。大炊(おおい)とその娘延寿、
乳母が駆けつけてみるとなんと夜叉御前でした。
空しい遺骸を輿に乗せ帰り、朝長の墓に並べて埋めて後世を弔いました。

延寿は「義朝殿にも先立たれ、殿の形見の姫にも先立たれてしまいました。
生きている甲斐もありません。」と嘆くので大炊があれこれ宥めすかすと、
延寿は母の気持ちにそむくまいと尼になり、義朝の菩提を余念なく弔いました。
(『平治物語』頼朝生捕らるる事付けたり夜叉御前の事)

青墓の長者は当時は、女系長者制でその管轄下には数多くの遊女がいて、
延寿の一人娘である夜叉御前は長者一族にとっては大切な存在でした。



夜叉御前が身を投げた杭瀬(くいせ)川
◆「弥兵衛尉宗清」
桓武平氏・右兵衛尉平季宗の子。
頼盛の家人であった宗清は平治の乱の際、頼朝を捕えその助命に奔走します。
のち頼朝はその恩義に報いるため鎌倉に下向するよう促しますが、
宗清は頼朝の再三の招請を断り、屋島に馳せ参じます。
(『平家物語・巻10(三日平氏の事)』)

その後の宗清

那智大社~補陀洛山寺(政子熊野詣・平宗清荷坂の五地蔵)  





赤坂港杭瀬川の畔に復元された常夜灯

木曽海道六十九次之内赤坂「中山道広重美術館」

皇女和宮之碑
◆「杭瀬川・赤坂宿」
夜叉御前が身を投げ、義朝が野間へ下った杭瀬川は、
もともと揖斐川の本流で川幅も広く流れも急でした。
赤坂宿は東山道の要衝として杭瀬川右岸に開け、鎌倉時代以降青墓宿が
衰退するのに代わって発展し江戸時代には中山道の宿場町として栄えます。

江戸時代にはここから舟で物資を運び出し、明治に入り石灰生産が盛んになるに
伴って杭瀬川の舟運が活発となり、赤坂に港が整備され水運の要衝となります。
大正時代の始め鉱山鉄道の役割を果たすJR美濃赤坂線が開通し急激に衰微し
さらに昭和になると下流に水門ができ赤坂港は廃絶します。


◆「兵衛府」は宣陽門・陰明門より外、建春門・宜秋門より
内を守り行幸の時に供奉し雑役を勤める役職をいいます。
督(かみ・左右各一人)・佐(すけ・左右各一人)大尉(じょう)・少尉・
大志(だいさかえ)・少志その下に府生・番長・案主(あんじゅ)・
府掌(ふしょう)・兵衛などがありました。
左右近衛、左右衛門、左右兵衛を総称して六衛府という。
源頼朝は右兵衛佐だったので「平治物語」「平家物語」には「佐殿(すけどの)」
とあり「吾妻鏡」などには、兵衛の唐名から「武衛」と書いてあります。
『アクセス』
「赤坂常夜灯」JR大垣駅から近鉄バス赤坂総合センター行「赤坂大橋」下車徒歩5分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 
和田英松「官職要解」講談社学術文庫

京都造形大学編「京都学への招待」角川書店 日本歴史地名大系21「岐阜県の地名」平凡社
 
 
 


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長田忠致(おさだただむね)は、源氏の家人であり
源義朝の乳母子鎌田正清(政家)の舅でした。

平治元年(1159)の年末、平治の乱に敗れた義朝は、
東国へ落ちる途中、尾張国野間内海荘((現、愛知県知多郡美浜町)の領主
長田忠致を頼りましたが、平治二年
正月三日、湯殿でだまし討ちにされ、
正清も討たれ正清の妻は夫の刀を胸にあてて自害しました。

慈円の『愚管抄』には、「義朝は馬にも乗らずかちはだしで
長田忠致の家にたどり着いた。忠致が入浴をさせた所、
鎌田政家(正清)は忠致の謀略に気づき、
義朝とともに自害して果てた。」と記されていますが、
水原一氏は「純粋の歴史書としてこれを信用したいけれども、
慈円は頼朝びいきでしたから、頼朝の父義朝にせめていさぎよい最期を
遂げさせたのかもしれません。」と述べておられます。(『保元・平治物語の世界』)

平治二年正月七日、恩賞にあずかろうと長田父子は
源義朝・鎌田正清の首を持って、
六波羅の清盛の許に参上すると、
義朝を討った功で、忠致は壱岐の守に、
子息の景致( かげむね)は左衛門尉(じょう)に任命されました。

忠致は「義朝・正清は昔の将門・純友にも劣らない朝敵です。
彼らを国の乱にもせずに何事もなく討ちとりました我らに義朝の所領全部か、
せめて尾張国だけでもいただいてこそ恩賞といえましょうに。
壱岐島などいただいても、これから先何の励みになりましょう。」と

不服をいうので清盛は「相伝の主と娘婿を討つとは汝らは罪深い奴らだぞ。
お前たちほど汚らわしい奴があるだろうか。義朝は朝敵であるから、
恩賞として壱岐国をとらせたのに。
それを不足に思って辞退するというなら勝手にしろ。」と一蹴しました。
しかし忠致が再度不服を申し立てたので
壱岐国も左衛門尉の官職も取り上げられてしまいました。

「今後のために奴らを六条河原へ引き出して20日に分けて両手の指を
1本ずつ切り落とし、頸は鋸で斬ってしまいましょう。」と清盛の子
重盛にまで威され長田父子は早々に尾張へと逃げ帰りました。

世の人々はこのことを聞いて「長田は平家にさえ冷たくあしらわれ、
この先源氏の世にでもなった時には、生きたまま地中に埋められて
頸を斬られるか磔にされるか。その最期を見たいものだ。」と噂しあいました。


長田忠致父子の最期には諸説あります。
①『保暦間記(ほうりゃくかんき)』によると、「建久元年十月頼朝既に上洛す。
爰に長田庄司平忠致 此間は鎌倉に置かれたりけるを、
美濃国青墓の宿にて斬られたり。云々」とあり、
建久元年十月頼朝上洛の際、鎌倉に捕えられていた
長田忠致が青墓宿で斬られたと記されています。

②『古活字本平治物語』によると、「治承四年(1180)頼朝が伊豆で挙兵すると、
長田父子は十騎ほどで鎌倉殿の許に参上し、自らの罪科を訴え降伏すると、
頼朝は軍功があれば罪を許し恩賞を与えようと約束します。
喜んだ父子は平家追討に活躍しますが、
平氏滅亡後、頼朝は約束通り論功行賞をとらせようと
義朝の墓前で磔にしてなぶり殺しにした。」と伝えています。

③『吾妻鏡』治承四年(1180)十月十四日条によると、
「富士川合戦の直前、頼朝とは別に、独自に反平氏の行動を起こしていた
武田信義、安田義定らが駿河に侵入したのに対し、
長田父子は駿河目代橘遠茂らとともにそれを防御していました。
しかし敗れ長田父子の首はとられ、遠茂は生け捕られた」とあります。

長田屋敷跡の南方、密蔵院の裏山には美濃・尾張(身の終り)を
さずけるとして長田父子を磔にしたという松があります。
当時の松は枯れていますが、松の若木が植えられ、
背後に周ると長田が辞世に詠んだという句を刻んだ石碑が建っています。


長田屋敷跡から密蔵院の裏山を望む





長田最後の辞世
ながらえし命ばかりは壱岐守 美濃尾張をばいまぞたまはり


磔の松から長田屋敷跡を見下ろす

『保元・平治の乱を読みなおす』には、
「平治物語によると、忠致は恩賞として壱岐守に補任されたというが、確実な史料に
任官の記録はみえない。そればかりか、彼のその後も確認することができない。
頼朝に降伏して平氏追討に活躍したものの、最期は磔の極刑に処せられたとするが、
これはいくら何でも荒唐無稽である。」と記されています。


長田(平)忠致(生没年不詳)は、桓武平氏良茂流、致頼の末孫にあたります。
尾張国野間内海庄及び駿河国長田庄を所領としていたので長田庄司ともいいます。
将門の乱、平忠常の乱で東国の地盤を失った平氏は、
伊勢に勢力を張り伊勢平氏と呼ばれ致頼もその一族でした。

のちに忠盛・清盛を出して伊勢平氏の主流になる
維衡(これひら)と致頼(むねより)・致経が10C末~11C始に
伊勢の所領をめぐって戦い、敗北した致頼は隠岐に流されました。
忠致の代か彼の父祖の代に伊勢の拠点を失った一族が、
知多半島の野間内海庄に、新たな地盤を求めて移り住んできたと思われます。

河内源氏との主従関係をいつ結んだのかはわかりませんが、

京と東国を往復する義朝に近づいた忠致が義朝の乳母子
鎌田正清とも姻戚関係を結んだと考えられます。
平治の乱で源氏が平氏に敗北すると、忠致は平家に寝返り
義朝を殺害しましたが、平家からは思うような恩賞はもらえず
功をあせってかえって身を落としていったようです。

源義朝最期の地野間(湯殿跡・法山寺)  
源義朝の墓(野間大坊大御堂寺)   
 『アクセス』
「長田はりつけの松」名鉄電車知多新線 終点一つ手前「野間」駅下車徒歩12、3分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 「平安時代史事典」角川書店
元木泰雄「保元・平治の乱を読みなおす」NHKブックス
水原一「保元・平治物語の世界」日本放送出版協会
「群書類従」『保暦間記』続群書類従完成会 「半田市誌 本文篇」(半田市1971
「系図文献資料総覧」緑蔭書房 「日本名所図会」(6)角川書店
 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館

 

 

 

 
 
 
 

 



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