平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



神亀元年(724)、流刑の制が定められ、罪科の軽重によって、
配流に遠流(おんる)中流(
ちゅうる)・近流(こんる)がしかれました。
伊豆、安房(あわ)、常陸(ひたち)、佐渡、隠岐(おき)とともに
土佐は遠流の国となり、応天門の変に連座した紀夏井、
保元の乱の藤原師長(もろなが)、平治の乱の
源希義(まれよし)、承久の乱の土御門上皇、元弘の乱の
尊良(たかよし)親王(後醍醐天皇の皇子)などが当国に流されました。

治承4年(1180)、土佐国は清盛の弟の教盛(のりもり)の知行国となり、
頼盛(清盛の弟)の子の仲盛が土佐守となり、
平家が土佐国を支配するようになりました。
土佐における源平の争乱は、介良(けら)荘に流された
源希義(頼朝の同母弟)が平重盛の家人に討たれたことに始まります。
介良荘は長岡郡南部にある荘園で走湯山(そうとうざん)密巌院の所領でした。
密巌院は、頼朝が挙兵前から帰依したとされる文養坊覚淵によって
創建された走湯山(伊豆山神社の古名)の別当寺です。
希義の遺骸を葬った介良の琳猷(りんゆう)も頼朝に報告に行く時、
密巌院の住僧良覚を介して事情を説明しています。
(『吾妻鏡』文治元年3月27日条)


その後、夜須(やす)行家(のち行宗)の先導する源有綱(頼政の孫)軍の
土佐入国があって、土佐の武士は源氏に荷担するものが多くなり、
壇ノ浦の戦いでは、夜須行宗のほか義経の軍に従っていた
安芸郡司の出自をもつ安芸時家・実光(さねみつ)兄弟は、
平教経(のりつね)と組討して海中に没したと伝えられています。

治承4年に頼朝が平家追討の挙兵ののち、寿永元年(1182)9月25日、
重盛の家臣で土佐国住人の蓮池家綱・平田俊遠らが平治の乱で
土佐国介良に流されていた希義の挙動を警戒して討伐に向かい、
希義は介良から同志の夜須七郎行家を頼って夜須荘へ向かう途中、
年越山(現、南国市鳶(えん)ヶ池中学校辺)で最期を遂げたと伝えられています。

行宗は希義が家綱らに包囲されたと聞き一族を率いて
希義の救援に向かいましたが、
野宮(現、香南市西野の野々宮神社)まで
きたとき、希義が討ち取られたと知り引き返しました。
家綱と俊遠が行宗を討つため兵を進めたので、
行宗は追手を避けて仏ヶ崎(現、夜須町手結)から
船を用意して一族で乗り込み海上を逃がれます。

家綱らは二人の使者を行宗の船に派遣し、偽りの甘言をもって
投降を促しますが、その意図を見抜いた行宗は使者の首を斬り、
紀伊(現、和歌山県)を経由して鎌倉の源頼朝の下に赴き、
事情を報告しそのもとで源平の戦いに参加します。
頼朝は早速、行宗を道案内に伊豆右衛門尉(源)有綱に
土佐の出兵を命じ、家綱らを討たせました。
家綱は行宗の弟小塚八郎に討たれたという。
以後、土佐では源氏の勢力が強くなります。

夜須七郎行宗は石清水八幡宮領夜須荘の荘官でした。
夜須荘は現在の香南市夜須町東南部の海岸から北に広がる荘園で、
石清水八幡宮は源氏の氏神であったため、行宗は源氏に心を寄せたといわれています。

夜須町(土佐国香美郡夜須荘、現・香南市夜須町)は高知県のほぼ中央に位置し、
三方を山に囲まれ町の中央を流れる夜須川の流域に広がっています。

夜須川下流東岸、出口(いでぐち)の城山に行宗の居城という下夜須城址があります。

夜須駅の南側から下夜須城址のある城山を望む。

駅の南側には、人工海水浴場が広がっています。
ここから東へのびる臨港道路を行くと手結(てい)港という港があります。





行宗が船出した場所と伝えられる仏ヶ崎(仏岬)は、手結港の入口に架けられている
可動橋(かどうきょう)端から海側に降りたところにあります。
この橋は港から海への出口に設置されていて、
決まった時間帯だけ道路になるという跳ね橋です。

文治3年(1187)3月10日、夜須行宗と梶原景時との間で論争が起こりました。
それは
壇ノ浦合戦の時、平氏の家人岩国兼秀・兼末兄弟を
生け捕りにし、行宗が恩賞を申しでましたが、
景時は「行宗は戦場にはいなかった。兼秀兄弟は
自ら投降してきたのである。」と横槍をいれました。
そこで行宗は壇ノ浦合戦の時は春日部兵衛尉と同じ船に乗っていたと
述べたので、頼朝は春日部を呼び出して尋問したところ、
行宗と同乗していたと証言したので、行宗の言い分が認められ、
景時は罰として鎌倉中の道路を整備するように命じられたという。

『吾妻鏡』文治4年(1187)3月15日条によると、
頼朝が鶴岡八幡宮の大般若供養に出席した際、有力御家人に続いて
隋従した隋兵30人の中に、行宗の名がみえます。
建久元年(1190)7月には、蓮池家綱・平田俊遠打倒や
たびたびの戦功によって頼朝から夜須荘の
本領安堵(頼朝の御家人となり荘園の領有権を認められる。)の
下文(くだしぶみ)を与えられました。
『アクセス』
「手結港」香南市夜須町手結
土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線 「夜須駅」下車徒歩約10分
『参考資料』
 現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館、2008年
現代語訳「吾妻鏡」(3)吉川弘文館、2008年
現代語訳「吾妻鏡」(4)吉川弘文館、2008年
梶原等「梶原景時 知られざる鎌倉本體の武士」新人物往来社、2000年
「高知県の地名」平凡社、1983年
図説「高知県の歴史」河出書房新社、1991年
「高知県の歴史散歩」山川出版社、2006年
「国史大辞典」吉川弘文館、平成1年

 

 

 



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治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で平家打倒の兵を挙げると、
土佐国介良(現、高知県高知市介良)に流され、
介良(けら)冠者(土佐冠者とも)と呼ばれれた
源希義の周辺も急に慌ただしくなりました。

『吾妻鏡』寿永元年(1182)9月25日条によると、
平家は希義が頼朝に呼応するのではないかと疑い、
平重盛の家人、土佐の住人・蓮池(はすいけ)家綱と
平田俊遠(としとお)に希義を討つように命じました。
 蓮池と平田の動向を察知した希義は、以前からの約束により、
夜須荘(現、香南市夜須町)の夜須行家(のち行宗)を頼り、
介良を出ましたが、行宗と合流する前に力およばず
年越(としごえ)山(現、JR後免駅北側の山麓)の辺りで、
討ち取られてしまいました。

希義は現在の鳶(えん)ヶ池中学校の校門辺で息絶えたと伝えられ、
校内には「源希義戦死伝承之地」の石碑が建っています。
また、校門の西側には希義が愛馬の鞍を置いたという
鞍掛けの岩も残されています。

南国市立鳶ヶ池中学校校門

校門の西側



希義の鞍掛けの岩

平治の乱(一一五九年)で源家棟梁源義朝は武運つたなく
平家棟梁平清盛の前に屈し頼朝(当時十三才)は伊豆蛭ヶ小島へ、
義経(当時一才)は鞍馬へ押し込められます。
当時三才の源希義は高知市介良の地へ配流され
平家方監視の下、二十数年間の隠忍自重の暮らしを強いられます。

寿永元年(一一八二年)九月二十五日希義ニ十五才の頃
兄頼朝の旗上げに呼応するも初戦に破れ
土佐における数少ない源氏方武将夜須七郎行家を、
ひいては鎌倉の兄頼朝を目指し東走するも途中馬をのりつぶし
遂にこの地で平家方追捕の手にかかる。
この岩は希義が愛馬の鞍をおいたとの伝承がある。

希義はこの「鞍掛けの岩」の東側鳶ヶ池中学校正門附近で首討たれますが、
平家威光を恐れ遺体は放置されていましたが僧琳猷は遺髪をとり
遺体を荼毘に付し手厚く葬ります。源希義公を顕彰する会(説明板)

鳶ヶ池中学校校内に建つ「源希義戦死伝承之地」の石碑
下の画像左手は石碑の背面です。

古活字本『平治物語』(頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事)によると、
「配所において21年を過ごした頼朝が文覚の勧めによって治承4年に
兵を挙げたの知らせに、平家は蓮池次郎権守家光に希義を討てと命じました。
平家方によって包囲された希義は、父義朝のために日課にしている
法華経を読むため持仏堂に入り、お経2巻を読み終えてから自害したという。」
仏ヶ崎から海上を逃れ鎌倉へ馳せ参じた夜須行宗  
頼朝の同母弟源希義(源頼朝の墓)  
『アクセス』
「希義の鞍掛けの岩」鳶ヶ池中学校(高知県南国市東崎530)校門の西側
土佐くろしお鉄道「後免駅」下車徒歩約15分
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡」(1)吉川弘文館、2007年
 日本古典文学大系「保元物語 平治物語」岩波書店、昭和48年
県史39「高知県の歴史」山川出版社、昭和52年

 



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高知市の介良(けら)富士の麓に眠る源希義(まれよし)をたずねました。





はりまや橋から土佐電鉄路面電車に乗って舟戸駅で下車。





途中、介良ふれあいセンター前に「介良史跡めぐり」の案内板があります。

介良川に架かる城山橋



源希義公の家紋(ささりんどう)

城山橋を渡り山手に進むと、民家の傍に
「源希義公墓所 花隈城跡 西養(さいよう)寺跡」の道標がたっています。
道標の背面には「平成二十七年 冬 建之 坂本石材」と刻まれています。





 希義の墓所への上り口左側には、平成五年に建立された
十八代当主山内豊秋氏の
小松石に刻まれた歌碑があります。
♪はかなしや同じ梢の花ながら 咲かで朽ちにし跡のしるしは
ここから右に曲がった山道を進みます。

山内一豊の山内氏は、藤原秀郷の子孫である首藤山内氏の末裔と称しています。
首藤山内氏といえば、頼朝の乳母の山内経俊の母を思い出します。
経俊は石橋山合戦で平家方として参加し、頼朝に矢を放ち、
鎧の袖に一煎を射ました。その後、その罪で領地を没収され
経俊は斬罪されることになります。息子が斬られることになり、
かつては頼朝の乳母であった母は、頼朝に泣く泣く先祖が源家に捧げた
忠を申し述べたのでようやく罪を許されたという。
源頼朝の乳母山内尼  


平治元年(1159)の平治の乱後、源頼朝の同母弟の希義は
土佐国(現、高知県)介良(けら)庄に配流されました。
治承4年(1180)、頼朝が挙兵すると希義も呼応すべく、
夜須七郎行家(行宗)を頼り、夜須荘(現、香南市夜須町)に向かいましたが、
平氏方によって年越山(現、南国市)で討ち取られてしまいます。
平氏の威光を恐れ、そのまま放置されていた希義の遺骸を
介良の琳猷(りんゆう)上人が手厚く葬りました。
琳猷は以前より希義と師僧と檀那の関係にあったので
故人の遺髪を首にかけて鎌倉に赴き、頼朝から寺領を与えられ
西養寺(真言宗)を創建し、長く法灯を伝えました。
正徳3年(1713)に焼失後衰え、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、

現在は当時の石垣の一部が残っています。
 傍らの山林の中に建つ無縫塔が源希義の墓と伝えられています。
ちなみに希義の法名は「西養寺殿円照大禅定門」です。



希義の墓所への上り口はわかりやすいのですが、
墓は林内を探しまわってやっと見つけました。

「悲運の若武者 源 希義
  平治の乱(1159)で平清盛に敗れた源氏の棟梁、源義朝は
尾張国内海の長田荘司忠致に入浴中だまし討ちにあい、
源氏一族の命運は尽きたかに見えましたが、平清盛の継母、池禅尼の
計らいで助命され、頼朝(当時十三才)は、伊豆国、蛭ヶ小島へ配流され、
牛若(後の義経、当時一才)は、京の鞍馬へ押しこめられます。 

兄頼朝と同じ父(源義朝)、母(熱田神宮藤原季範三女、由良御前)の元に
生まれた実弟、当時三才の希義も源氏の本拠、東国を目指し乳人に連れられ、
落ち行く途上香貫(かぬき)(沼津市内)にて、
平家方追補の手にかかり、ここ介良に配流されます。
介良における希義は厳しい平家方監視の中、仇と思う平清盛への憎しみ
命の恩人とも思う池禅尼への感謝の心の葛藤を胸に秘め
隠忍の日々を強いられます。
 
土佐における平家方有力武将、平田太郎俊遠の妹とも、また俊遠の
娘ともいわれていますが、平家方有力武将ゆかりの娘を嫁に貰います。
希義は、仇と思う平家また愛したであろう妻は、
平家方武将の娘、その心中たるや察するに余りあります。
 栄耀栄華を極めたさすがの平家も人心離反し、
落日の如き平家の威光の下、土佐における数少ない源氏方武将
夜須七郎行家と打倒平家の夢を描いたであろう希義は、
平家方の知るところとなり、先手を打った平家軍の前敗走したのでしょう。

  東の夜須氏をひいてはまだ見ぬ兄、頼朝の居わす鎌倉目指し
東走するも夜須氏率いる救援軍は間に合わず、
現南国市鳶ヶ池中学校正門付近で首討たれます。
時は寿永元年(1182)九月二十五日のことでした。
 時に希義には陸盛、希望という二子、また「希望」一子という説があります。

 平家の威光を恐れず放置されたままの希義の遺骸から遺髪をとり、
荼毘(だび)に伏し手厚く葬った僧琳猷(りんゆう)は、頼朝が天下を治めた後、
希義が一子希望を鎌倉へ引きつれ遺髪を献上すると、
頼朝は「亡魂再来」と涙したといわれます。

  征夷大将軍・源頼朝の庇護を受けた希義が一子源希望は、
現春野弘岡の地で基盤を固め、後の戦国時代の七守護の一人
「吉良(きら)氏(ここ介良は元々気良(きら)」へと続くも、
吉良宣直(のぶなお)は天文九年(1540)平家八木氏の末裔といわれる
本山梅渓に、仁淀川で鵜飼のおり、攻撃を受け自刃に追いやられます。
 しかし、吉良宣直の父、吉良伊予守宣経は、天文年間(1532~1555)
周防の大内氏の元から流浪の南村梅軒を招き、
儒学の一派「南学」(海南朱子学)の発祥、普及しその行動的な教えは
幕末勤皇志士の思相(想?)基盤を形成しました。
 源希義の威光は、今日まで我国の隅々迄照らしたもうているのである。
   平成七年(1995)九月二十五日 没後八一三年 源希義公を顕彰する会」

希義を弔う西養寺は、明治の「廃仏毀釈」により取壊され、
当時の住職は還浴し名を「西養二」と改め、寺子屋を開いたという。


希義を祀る源希義神社に希義の墓と伝えられる
卵塔(らんとう)型の石塔があります。



「西養寺跡無縫塔(さいようじあとむほうとう)
1994(平成6)年3月1日高知市保護有形文化財指定
   無縫塔は無辺際の宇宙を表しており、禅宗に発する。
西養寺跡無縫塔は花崗岩製の単制無縫塔で、台石の上に請花、
さらにその上面に八葉の蓮弁を刻する。
塔身正面には種子を刻した月輪の痕跡が見られる。

 この型の無縫塔は京都市大徳寺開山塔(建武4年・1337)を古例とし、
14世紀半ばから15世紀にかけて成立した。
以後時代とともに形状を変えていくが、本無縫塔は形状から、
県内における数少ない室町時代の無縫塔のひとつと思われる。

   石塔は本来、供養塔としての意味をもつが、
この無縫塔が誰のために建てられたのかは明らかではない。
『吾妻鏡』には、西養寺が源頼朝の弟・希義(まれよし)の菩提を
弔うために建てられたとある。この地が『西養寺文書』に
記されている西養寺跡に当たることから、
地元ではこの無縫塔を源希義の墓として祀り伝えている。
  1994年12月 高知市教育委員会」

鎌倉の頼朝の墓所にも、これと同様の駒札がたっています。



木立の中に墓石が静まり希義の悲哀を今に伝えています。

土佐藩第五代藩主山内豊房(やまうち とよふさ)の歌碑
♪いたはしや同じ枝葉の末ながら 咲かで朽ちにし跡のしるしは

希義の鞍掛けの岩 源希義戦死伝承之地の石碑  
『アクセス』
「源希義公墓所道標」高知県高知市介良
とさでん交通バス「介良支所前」下車、徒歩5分
土佐電鉄はりまや電停より約20分、舟戸駅下車徒歩約25分
『参考資料』
「高知県の歴史散歩」山川出版社、2006年 
「高知県の地名」平凡社、1983年
「図説高知県の歴史」河出書房、1991年 
「郷土資料事典(高知県)」ゼンリン、1998年 
現代語訳「吾妻鏡」(2)吉川弘文館、2008年

 



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慈眼山(じげんざん)玉林寺(臨済宗妙心寺派)は、阿波国麻殖(おえ)
保司(ほじ)となった平康頼が創建したと伝えられています。
寺はもと、鴨島町山路(さんじ)字東寺谷にありましたが、兵火にかかり、
江戸時代、現在地(吉野川市同町山路寺谷)に再興されました。

かつて康頼が目代として尾張に赴任していた時、
知多半島の野間庄(現、愛知県知多郡美浜町野間)に
ある
荒れ果てた源義朝の墓を弔い、小堂(大御堂寺の塔頭か)を建て、
6人の僧に義朝と鎌田正清・その妻の霊を供養させました。
その上、
水田30町を寄進して、堂を維持管理するよう計らったことがありました。

その恩に報いるため、源頼朝は平氏滅亡後の文治2年(1186)閏7月、康頼を
阿波国麻殖(おえ)保の保司(ほじ)に任命したと『吾妻鏡』は伝えています。
康頼が鬼界ヶ島から帰京して七年目、41歳の時のことです。

麻殖保とは、吉野川市鴨島町字森山付近の荘園の名です。
吉野川市は徳島県東部に位置する吉野川沿いの地で、
対岸北側には西光の故郷柿原があります。

天下を平定した源頼朝は父義朝の廟所に詣でています。
それを『吾妻鏡』建久元年(1190)10月25日条は、
次のように記しています。
「頼朝は康頼が義朝の墓を整備したのは昔のことであるから、
墳墓は荒れ果て供養は途絶えているだろうと、
日頃気にかけていました。
上洛の途次、尾張国の御家人・須細治部大夫爲基の案内で野間庄に立ち寄り、
義朝の廟所に詣でると、廟堂が荘厳で立派に飾られている光景が目に映り、
僧侶の読経の声に満ちていました。墓がしっかり守られている様子に感激し、
康頼の篤い志に改めて感謝しました。」
 

最寄りのJR徳島線鴨島(かもじまえき)駅

石灯籠の傍にある熊野神社南へ150米、→玉林寺と記された道標。


⇐玉林寺入口と記された道標






麻殖保司(荘園の長官)に着任した康頼は、職務のかたわらで、
まず、保司庁を建て、次いで後白河法皇から賜った一寸八分(約6㎝)の
千手観音を本尊とする玉林寺と補陀落寺(ふだらくじ)の二寺を建立しました。

天正年間(1573~92)、この二寺は土佐の長曾我部の戦火で焼失し、
両寺を合併して一寺として堂宇を建立し曹洞宗としましたが、
再び荒廃し江戸時代に僧宗本が玉林寺として再興し臨済宗に改めました。

玉林寺門前に大きく枝を広げ葉を茂らせるモッコク





「昭和七年三月 史跡平康頼隠棲之趾」の標柱


大悲殿



本堂

康頼が鬼界ヶ島から帰京できたのは、熊野権現に毎日赦免を祈願した
お陰だとしてこの地に熊野神社を勧請したとされています。

 うっそうと木々が茂る山道を上っていきます。

「熊野神社 山路西寺谷 山路寺谷にあり旧村社である。
祭神は伊弉諾(いざなぎ)神、伊弉冉(いざなみ)神、
熊野権現である。
平康頼が文治年間(1185~1190)に紀州熊野権現を勧請したと伝えられている。
康頼が京都の鹿ヶ谷における平家追討計画が発覚し、鬼界ヶ島へ流されたとき、
熊野権現に祈って許されたためと伝えられている。
また、境内南西隅に経塚跡があり、神木「ナギ」がある。」(現地説明板)

玉垣に寄進者の名と寄進額が刻まれています。

拝殿

本殿



玉林寺、熊野神社のある寺谷集落。

建久2年(1191)3月、正治2年(1200)に石清水八幡宮若宮社において
催された奉納歌合に
康頼は「沙弥性照(康頼入道)」として和歌を作り、
また建久6年(1195)1月の「民部卿家歌合」にも参加していることから、
康頼は60歳を過ぎると保司職を嫡男清基に譲り、
引退後は阿波と京都を往来して過ごしたものと思われます。
玉林寺から北西に700メートルほど進むと、山麓に壇(だん)とよばれる地があります。
康頼は75歳で亡くなると、遺骨はその北麓に埋葬されました。
現在、墓所には後に建てられた康頼神社があります。
遺骨は分骨され、京都市の双林寺にも葬ったとされています。
 平康頼の墓(双林寺)  
『アクセス』
「玉林寺」 徳島県吉野川市鴨島町山路寺谷
麻植塚駅 から徒歩約30分  鴨島駅 から徒歩約35分
「熊野神社」徳島県吉野川市鴨島町山路字西寺谷150
『参考資料』
現代語訳「吾妻鏡(3)」吉川弘文館、2008年 
現代語訳「吾妻鏡(5)」吉川弘文館、2009年
「ふるさと森山」鴨島町森山公民館郷土研究会、平成2年
「郷土資料事典 徳島県」(株)ゼンリン、1998年
  「徳島県の歴史散歩」山川出版社、2009年

「徳島県の地名」平凡社、2000年

 



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田口重能(しげよし)は、平安時代初期に阿波の国司となった
田口息継(おきつぐ)の子孫といわれていますが、
その出自については十分明らかになっていません。
阿波民部大夫(みんぶだいぶ)成良・粟田成良・成能ともいい、
阿波国一の武士団を形成し、
清盛の信頼厚い武将として知られていました。

『吾妻鏡』文治元年(1185)2月18日の条には、
「摂津国渡辺の津から阿波に渡った義経は、近藤六親家(ちかいえ)に
案内させ、屋島に向かう途中、背後を衝かれないよう平氏の有力家人
阿波民部重能の弟桜間介良遠(さくらますけよしとお)を攻撃したところ、
良遠は城を捨てて逃げたという。」と記されています。
強風に乗って阿波国勝浦に上陸した義経一行は、待ち受けていた
近藤六親家に道案内させて屋島へと進軍します。
途中、手始めに阿波民部重能の弟桜間良遠(能遠)を攻撃して、
一路屋島へと進軍したのです。

 重能の弟良遠は「桜間介」と名乗っており、その本拠地は桜間、
現在の徳島県名西郡石井町桜間および
徳島市国府町桜間と推定されます。
官職の介は、国司または目代に次ぐ地位で在庁官人の筆頭、
阿波国を治める国衙(こくが)の要職にありました。
良遠の城の推定地は、吉野川支流の飯尾川の南側に位置し、ここには
現在も桜間という字名が残り、名勝「桜間の池」跡が残っています。

「能遠の城に押し寄せてみると、三方は沼、一方は堀である。
桜間介は俊馬に乗ってそばの沼から逃げてしまった。」
(『平家物語・巻11・大坂越』)とあることから、
当時の桜間には、桜間の池とよばれる広大な池があり、
水に囲まれた天然の要害の地であったと推測できます。

重能は早くから清盛に仕え、平家の本拠地の都、
弟良遠は阿波を拠点として活動していました。
承安年間(1171~1175年)には、重能は日宋貿易の拠点となる
大輪田泊の修築奉行を務めています。この貿易によって得た富は
平氏政権を支える重要な財源となり、重能は武力だけでなく、
経済活動をも支える重要な武将でした。

重能が平家に接近した理由は、中央で後白河院のお気に入りとして
急速に地位を向上させた西光(藤原師光)を通じて、勢力を強めた
近藤一族の台頭があったとされます。西光の一族は近藤氏と称し、
阿波国柿原を本拠とする在庁官人でした。

清盛は鹿ケ谷事件の首謀者のひとりであった西光を殺害し、
次いで田口重能に命じて、
西光の故郷、
阿波国阿波郡柿原庁にいた4男広永(ひろなが)を襲わせています。
近藤六親家も西光の子で、この時、親家も柿原にいましたが、
板西城(現、徳島県板野郡板野町古城)へ逃れています。
義経屋島へ進軍大坂峠越(板西城跡)  

以仁王の令旨によって各地の源氏が蜂起し、6年にもおよぶ大規模な
内乱が展開されると、
治承4年(1180)の南都焼き討ちで重能は先陣を務め、
その翌年には、墨俣合戦で源氏と戦っている記事が『玉葉』にみえます。
また寿永2年(1183)には、加賀国篠原(現・石川県加賀市)で
源氏と戦火を交えるなど平氏の戦力として各地を転戦していました。

都落ち後、大宰府を追われ西海に流浪していた平家のために
讃岐の屋島に内裏造営を行い、
平氏の勢力挽回に貢献しています。
これによって重能の勢力が阿波だけでなく讃岐、さらにこの地域一帯の
海域にまでおよんでいたことがうかがえます。

讃岐の志度合戦で、嫡子田内教能(でんないのりよし)が源氏に
生け捕りになったことから、重能は大きく動揺し壇ノ浦の海戦で
平氏を裏切って義経に味方することになります。
決戦の前に平知盛は、子供のために重能が裏切るであろうことを察知し
斬捨てようとしましたが、宗盛は重能の忠節を疑わず、
知盛の申し出を許しません。知盛は歯ぎしりをして悔しがりますが、
惣領である兄の決定に従いました。その不安は的中し、
平家の作戦はすべて源氏方に知られることになります。
これによって平氏の惨敗は決定的となりました。

平家滅亡後、源氏の佐々木経高(つねたか)が阿波の初代守護として
入国したので田口氏は衰え、一族のひとりが
一宮大粟荘(現、徳島県名西郡)一宮神社(田口明神)の祠官として
残っていましたが、承久の乱後に守護に任じられた小笠原氏に滅ぼされました。

延慶本『平家物語』によると、長年信頼されていた家臣が
主を裏切ったとして、鎌倉に連行された重能の評判は悪く、
御家人たちは口々に斬刑を主張します。これを聞いた重能は
罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐いたので、火あぶりにされたという。

田口氏の城とみられる桜間城は、桜間神社付近にあったとされ、近くの八幡神社にある
五輪塔は、田口重能の供養塔と伝えられています。(『徳島県の地名』)

最寄りのJR徳島線石井駅







桜間の池の石碑は、小さな丘の上にあります。

鎌倉時代に編纂された『夫木(ふぼく)和歌集』に
♪鏡とも 見るべきものを 春くれば 
ちりのみかかる 桜間の池 と詠まれた
美しい池がありましたが、江戸時代後期には池跡になっていたようです。

文政年間(1818~30年)、徳島藩主蜂須賀斉昌(なりまさ)が
11代将軍徳川家斉(いえなり)に拝謁した時、
この桜間の池がどうなっているか尋ねられました。
帰国した斉昌は見るかげもなく荒廃した池を見て、
復旧にかかり、
海部郡由岐浦の海中にあった巨岩を文政11年(1828)から
7年間もかけて引き上げ、海路この地に運び石碑を建てました。

石碑は7トン余の巨石で、国学者屋代弘賢(ひろかた)の撰文で
碑の由来が記されています。
かつて桜間の池は東西18町(約1962㍍)、南北8町(約872㍍)もあったという。

桜間神社は桜間の池跡の傍にあります。

桜間の五輪塔がある八幡神社へ向かいます。







田口重能の供養塔と伝えられる桜間五輪塔。



志度合戦

『アクセス』
「桜間神社」徳島県名西郡石井町高川原桜間281 飯尾川南岸沿い
JR徳島線石井駅下車 徒歩約30分
「八幡神社」徳島市国府町桜間
『参考資料』
五味文彦「平家物語、史と説話」平凡社、2011年
 現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年

「徳島県の地名」平凡社、2000年 「郷土資料事典徳島県」人文社、1998年
角田文衛「平家後抄 落日後の平家(上)」講談社学術文庫、2000年
元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年 
「平家物語図典」小学館、2010年 新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年
冨倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年
県史36「徳島県の歴史」山川出版社、2015年

 

 

 

 

 



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阿波高校のグラウンドの北側に西光屋敷の石碑があります。
西光800年忌を記念して建てられたもので、
『阿波誌』は、「源師光庁 柿原広永里に在り、其の址今に存す」と
江戸時代にはその屋敷跡の伝承が伝わっていたことを記しています。


最寄りのJR徳島線鴨島(かもじまえき)駅

阿波高校の近くに二条バス停がありますが、
バスは1日に数本しかありません。

徳島県立阿波高校

正門前に関係者以外立ち入り禁止の看板がたっています。
ちょうどグラウンドでは野球部の練習中、
コーチにお願いして敷地内に入れていただきました。



「史跡 西光屋敷 吉野町建之」と彫られています。
この学校の敷地は、
西光が子の広永に治めさせていた柿原政庁跡と伝えています。


西光(藤原師光)は、柿原(現、阿波市吉野町柿原)を本拠地とした在庁官人です。
師光は近藤氏の一族で本姓は近藤氏、一族郎党を従えて
巨大な武士団をつくりあげ、在庁官人として台頭したといわれています。

平安中期になると、国司に任命されても任国には赴かないのが普通となり、
現地には
目代を派遣して在庁官人とよばれる下級役人を指揮させました。
在庁官人は多くは地元の豪族が取り立てられて世襲したので、
次第にその勢力を増し武士化する者が多くなっていきました。


師光は上洛して院近臣の信西に仕え、小才のきくことから
左衛門尉に推挙されました。

一説に師光は信西の乳母子だった縁で京に出仕したともいう。
『尊卑文脈』によると、勅命によって鳥羽院近臣の家成卿の
養子となり藤原氏に改めました。従って、
家成の子の藤原成親(なりちか)とは、義兄弟の間柄になります。

平治の乱では、信西に最後まで随行して宇治田原に逃れ、
その死に際して出家し、左衛門入道西光と呼ばれました。
出家後も法皇庁の御倉預りを務め、
後白河法皇の信頼を得て「第1の近臣」として活躍します。

安元3年(1177)5月、反平家の急先鋒となり、院の近臣藤原成親・
俊寛・平康頼らと鹿ヶ谷の俊寛の山荘で平家打倒の謀議を行いました。
これが清盛の知るところとなり、西光は首謀者の一人として
西八条第の中庭に引き立てられ、清盛に履物のまま顔を踏みつけられ、
「いやしい出自でありながら、父子ともに身分不相応な行動をし、
あげくに平家討伐に与したのか」と共謀者の名前を白状するよう迫られます。

子の身分不相応な行動とは、少し前に西光の息子
(加賀守師高と師経)のせいで、何の罪もない清盛と親しい延暦寺の
座主明雲が罷免されるという事件があったことをいっています。

西光はもとより不敵の剛の者、少しも動じることなく、
かつて京童に「高平太(たかへいだ)」と呼ばれた清盛の成上りを
徹底的に暴き嘲ったのでますます清盛の怒りを買い、
すさまじい拷問を受けて口を裂かれたうえ、
五条西朱雀で惨殺されました。

清盛は十代の頃、まともな宮仕いもせずに当時、院の近臣として
羽振りを利かせていた藤原家成の邸に柿渋染の粗末な直垂(ひたたれ)に
縄の緒の高足駄(僧や庶民の履物)を履いて出入りし、
京の口さがない若者たちに「下駄ばきの平家の総領息子」と
笑われたことが『源平盛衰記』にみえます。

処刑は通常、六条河原や北山の葬場辺りで行われましたが、
西光は清盛にとっては腹に据えかねた相手だったため、重犯人として
五条と朱雀の交差点の西側、つまり都の中央で死刑が行われたのです。

この鹿ケ谷事件の影響は柿原にもおよび、阿波国で留守を守っていた
師光の4男広永(ひろなが)は、平家の命を受けた田口成良(しげよし)に
柿原庁を追われ、土成(どなり)町宮川内(みやがわうち)で
自害したと伝えられています。阿波高校付近の
「ヒロナカ」という地名も、広永の名に由来するという。
田口成良(重能・成能とも)は、当時阿波の平家方として
最大の勢力を誇っていた桜間(現、徳島県名西郡石井町)の豪族です。
案内神社

案内神社は阿波高校からそう遠くない所にあります。







当社のある柿原は、藤原師光(西光)の所領地で『阿波誌』は、
「藤原師光庁 柿原広永里にある」としています。
祭神は猿田彦命。藤原師光・近藤親家(ちかいえ)父子を
併記しているといわれています。

鹿ケ谷事件後、阿波の平家方の田口成良に柿原庁は襲われ、
4男と5男は討死し、6男の親家は板野町板西(ばんざい)に逃れ、
その後、文治元年(1185)には、阿波国勝浦に上陸した
源義経を屋島へと案内し、義経の勝利に貢献しました。

社名の案内神社は、猿田彦命が天孫降臨に際して、その道案内を務めたこと、
藤原師光が平家打倒の
先導役を果たし、その子親家が
義経の屋島進攻の道案内をしたことにちなんだものとされています。

境内の大クス(樹齢約600年)は、昭和33年(1958)に
県の天然記念物に指定されました。

鹿ケ谷俊寛僧都山荘址   
鹿ケ谷山荘での平家打倒の密議は史実それとも
院側近を一掃するために清盛がでっちあげたのでしょうか?

鹿ケ谷の陰謀は史実か  
『アクセス』
「西光屋敷の碑」(阿波高校) 阿波市吉野町柿原字ヒロナカ180
JR徳島線鴨島駅下車 タクシーで約10分。徒歩だと約50分。  

またはJR徳島線鴨島駅から徳島バス、
JR高徳線・牟岐線徳島駅から徳島バス「二条」停下車 徒歩約6分
バスはどちらも1日に数本しかありません。ご注意ください。

「案内神社」阿波市吉野町柿原字シノ原
徳島バス「二条」停から徒歩約14分 バス停「二条中」から徒歩約10分
『参考資料』
「徳島県の地名」平凡社、2000年 「徳島県百科事典」徳島新聞社、昭和56年
 「郷土百科事典 徳島高知県」(株)ゼンリン、1998年 「徳島県の歴史散歩」山川出版社、2009年
新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年 完訳「源平盛衰記(1)」勉誠出版、2005年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年 「図説徳島県の歴史」河出書房新社、1994年



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一ノ谷合戦で惨敗した平氏は、かつて陣を布いていた屋島へ退いていました。
それを追って義経はわずか150騎ばかりの手勢を率いて
嵐のなかで船を進め、元歴2年(1185)2月18日、阿波勝浦に上陸し、
そこから休む間もなく海岸沿いを走り抜けて
勝浦川の対岸に渡り、平家方の桜間城を突破しました。
ここまでは「義経阿波から屋島へ進軍1~4」で、紹介させていただきました。
義経阿波から屋島へ進軍1  

ここから義経は現在の徳島市を北上し、
吉野川を渡って板野町に入り屋島に迫ります。
通常2日かかるといわれた讃岐への道を徹夜で騎馬を走らせ、
大坂峠を越え翌朝、讃岐牟礼(むれ)
に姿を現しました。
阿讃山脈の最東端に位置する標高270mの
大坂峠(板野郡板野町大坂)は、阿波と讃岐との国境にあり、
阿波から讃岐に最短距離で入るルートですが、
険しいつづら折れの道が続きます。

この峠入口の板野郡は、西光の四男広長が清盛の命を受けた
田口成良に攻殺された時、難を逃れた六男親家(ちかいえ)が
潜伏した地(板野郡臼井)とされ、親家が築いた
板西(ばんざい)城(板野郡板野町)があった所です。
この辺りの地理に詳しい親家の案内があったからこそ、
義経勢は深夜の難路を行軍できたと思われます。



最寄りのJR板野駅

県道122号線と徳島自動車道が交わる少し南に板西城跡600㍍の道標があります。









現在、大坂峠には板野町側に「あせび公園」があり、
瀬戸内海国立公園を眼下に見下ろす展望台が設けられ、
引田(ひけた)までの峠道は遊歩道として整備されています。

『平家物語』には、「その日は阿波の板東、板西(板野郡の東部・西部)を
行き過ぎて、大坂山を越え引田で馬を休め、
丹生野(にうの)、白鳥、古高松うち過ぎうち過ぎ、
屋島内裏の対岸牟礼に騎馬を乗り入れた。」とあり、これらの地名はJR高徳線
「引田」「讃岐白鳥」「丹生」や琴電「古高松」の駅名に残っています。



牟礼の六万寺辺り、横から撮影した屋島



疾風怒濤のように義経が屋島へと駆けたルートの周辺には、
義経にまつわる伝説や説話が数多く残されています。
その中のいくつかをご紹介させていただきます。
◆勝占(かつら)神社 (徳島市勝占町)
『源平盛衰記』によると、「田口成良(しげよし)の子
田内教能(でんないのりよし)を田内成直(しげなお)とし、
その居城を「勝宮」としています。そして
田内成良を大将とする主力軍が河野通信(みちのぶ)を攻めに
伊予に出陣していると親家から知らされた義経は、
わずかに残っていた残留部隊を散々に蹴散らしました。
義経は勝浦の「勝」に勝宮の「勝」どちらも「かつ」とよむという
縁起を担いで士気を鼓舞した
。」と記しています。
勝宮は熊山城に程近い勝占神社であると考えられており、
この社には成直が奉納したという木像の狛犬と義経が奉納したと
伝えられる雁股(かりまた)の矢じりがあるといわれています。


◆伏拝(ふしおがみ)神社(徳島市一宮町)
この地を通りがかった義経が源氏の氏神である八幡神社を見つけ、
社前に下馬して平家追討の祈願を行ったことから
伏拝神社と呼ばれるようになったという。

◆舌洗池(したらいいけ)(徳島市国府町観音寺)
義経が馬に水を飲ませた池との伝承から、
舌洗池と呼ばれるようになったとされます。

◆住吉神社(板野郡藍住町住吉)
社伝によると、阿波勝浦から讃岐に向かう義経一行の行く手を、
増水した吉野川が遮り、途方にくれた義経が住吉神社に
一心に祈願したところ、にわかに白鷺が舞い降りて来て、
浅瀬の位置を教え川を渡ることができました。
屋島合戦後、義経は社殿を造営しその恩に報いたという。

◆四国霊場3番札所金泉寺 (板野郡板野町)

『源平盛衰記』によると、義経が金泉(こんせん)寺を通りかかると、
寺では近くの住民が集まり、折しも盛大な観音講が催され
宴会が始まろうとしていました。
しかし一行の軍馬の音に驚いて村人は逃げてしまい、
義経らが酒肴を食べて峠越えの腹ごしらえをしたという
話が載っています。義経が弁慶に力試しに持ち上げさせたという
「弁慶の力石」が方丈前の池の畔にあります。

◆鎧橋 大坂峠に向かう道筋に架かる鎧橋は、
一行が休憩のために鎧を脱ぎ
木にかけたと伝えられています。

◆馬宿(うまやど)
阿波から大阪峠を越えて、讃岐に入って
最初の駅家(うまや)があったところです。
義経軍もここで馬を休めたといわれています。
屋島古戦場を歩く(屋島寺)  
『アクセス』
「板西城跡」
徳島県板野郡板野町古城 JR高徳線・板野駅から徒歩約30分
「大坂峠登り口」JR高徳線阿波大宮駅北へ約1,5K
板野町商工会  http://www.itano.biz/
『参考資料』
「徳島県の歴史散歩」山川出版社、2009年 新定「源平盛衰記」(5)新人物往来社、1991年
「図説徳島県の歴史」河出書房新社、1994年 
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年
 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年 
角田文衛「平家後抄 落日後の平家」(上)講談社学術文庫、2001年
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、平成16年 「平家物語図典」小学館、2010年



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旗山の麓、東北角に天馬石(小松島市芝生町)があります。
源平合戦で名を馳せた池月(いけずき)が天から舞いおりて石に化けたという
伝説の石で、馬の形をしたこの石にまたがると腹痛を起こすといわれています。




出陣に先立って、頼朝から梶原景季(かげすえ)は名馬磨墨(するすみ)を、
佐々木高綱は名馬池月(生食)を賜わり、川霧たちこめる宇治川に到着しました。
ここで有名な宇治川の先陣争いが両者の間で展開され、池月に乗った
佐々木高綱の計略により、梶原景季が遅れた隙に佐々木が川を渡り先陣を切りました。

天馬石から300mほど進むと、弁慶の岩屋(小松島市芝生町)と呼ばれる古墳があります。
6C後半につくられた土地の豪族の横穴式の古墳ですが、弁慶ほどの怪力でなければ、
こんな大きな岩を積み上げられないだろうということで名づけられました。

『義経記』によると、義経は兄頼朝と対立し、追われる身となった後、
ようやく辿りついた平泉で藤原泰衡に攻められ命を落としました。
その時、弁慶は自害する義経が籠る堂の前に立って薙刀を振るって戦い、
雨のような敵の矢を受け仁王立ちのまま息絶えたとされ、
「弁慶の立往生」として後世に伝えられています。



弁慶の岩屋は墓地の奥にあります。









弁慶の岩屋からさらに1.3kほど進むと、新居見城趾(小松島市新居見町)があります。
阿波に上陸した義経勢を屋島まで道案内をした近藤六親家の居城で、
当時、百騎余りの兵を養っていた山城趾です。
親家は兵を集めると二百余の軍勢は招集できたという地元の有力武士です。
鹿ケ谷事件により、西光(藤原師光)一族に対する清盛の追撃の難を逃れた
六男の親家は一時、阿波国板野郡に身を隠していました。

石碑がなければ城趾と気づきません。



くらかけの岩(小松島市新居見町山路・新居見城址から1k)
熊山城攻めのため進軍する義経が、戦いの前に春日神社の境内裏にある
大岩に馬の鞍を置いて休憩したといわれています。






新居見町の山麓を通って田浦に出ます。





くらかけの岩から2Kほど進むと、中王子(小松島市田浦町中西)の説明板があります。
義経はここから一気に勝浦川を渡り、勝利をつかんだとされています。

現在、その跡地は中王子神社になっています。

平氏政権下の阿波では田口成良(重能)が勢力を持ち、その活動範囲は阿波だけでなく
讃岐や伊予、畿内にまで及んでいました。成良の本拠地は桜間郷(石井町)ですが、
勢力拡大とともに、弟の桜間(庭)良遠が勝浦川下流の徳島市丈六町に
熊山城(一説には桜間城とも)を構えていました。
この城を屋島に行軍する途上の
義経軍に攻められ、良遠は城を捨てて逃げ、成良は阿波の本拠を奪われることになります。
良遠は簡単に敗れたことを恥じて屋島に逃げこまず行方不明となりました。
これにより義経勢が屋島に迫りつつあるということを平家軍に悟られることなく、
義経は屋島合戦の足場を固めることができました。
義経阿波から屋島へ進軍1  義経阿波から屋島へ進軍2(義経ドリームロード)  
  義経阿波から屋島へ進軍3(旗山)     義経屋島へ進軍大坂峠越(板西城跡) 
『アクセス』
「中王子神社」勢合の碑から約10k。JR牟田線中田駅まで2.2km 徒歩約40分
中王子神社からドリームロードを400m余戻ると「田浦バス停」があります。
 ここからバスに乗り徳島駅まで約30分  徳島バス 088-622-1811

『参考資料』
「徳島県の地名」平凡社、2000年 「図説徳島県の歴史」河出書房新社、1994
奥富敬之「義経の悲劇」角川選書、平成16年 近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房、2005年
 現代語訳「義経記」河出文庫、
2004年 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社、平成15年

 



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「源義経上陸の地」の碑から、のどかな田園風景を眺めながらドリームロードを進むと
八幡神社の扁額が架かる鳥居が見えてきます。



その先にある小高い丘が旗山で、頂上には6.7mの騎馬像としては
日本一の高さを誇る義経像があり、夜はライトアップされています。
上陸した義経勢が勢揃いし、士気を高めるために源氏の白旗を
掲げたことからこの丘を旗山とよぶと伝えられています。



義経の上陸した勝浦は、地形の変化により
今は海岸線が大きく変わっているようです。
小松島市田野・芝生町付近は、現在は陸地ですが、
当時は入海で、旗山(標高約20m)
は海に浮かぶ小島でした。

この辺は砂洲が発達していて船の接岸が容易であるため、
古くから義経上陸地の有力候補とされています。
田野町には勢合(せいごう)の碑や
源義経上陸地の碑が建ち、芝生町には旗山があります。



義経阿讃を征く
 新しい世の光をうけ、一一八五年天の時来る。嵐のなか、摂津渡辺の津から
海路二十五里、義経軍勢、中ノ湊の多奈に上陸、軍船勢合に集ふ。
芝生旗山に清淨と正々の白旗ひるがへる。

 渚にひかへし新居見城主近藤六親家、義経「ここは何処ぞ」親家「勝浦に候」と応へ
天神山の手勢を率ゐて先陣を承る。堂々の陣 田口良遠の熊山城を撃破して、
北山の東海寺から、あつり越へして国府に至る。
白鷺に導かれて 佳吉の吉野川を渡河し、金泉寺から阿讃の国境、松明を焚いて越ゆ。
 東讃引田の要津、馬宿の海蔵院に仮宿白鳥から朝霧ふかき田面峠、粛々と二隊に分かれる。
 熊野別当湛増率ゐる。水軍播磨灘に入る。志度 古高松 相引川 源氏が丘に
 戦機熟せり
白旗と赤旗入り交ふ天下分け目の屋島合戦
 三日にして 平家宗盛政権の本営落城
今 旗山 山頂 英雄義経の銅像威光 四方に耀る(碑文より)

 二00五年二月二十日 田村直一 撰文
平成十七年二月吉日  義経夢想祭の日 設置
  芝生 旗山  八幡神社 氏子一同  「義経」小松島PR協議会 
  寄贈 直永 田村直一  徳島市国府町西高輪一ニ九
 青山石材店 青山義明 (石碑背面より)



八幡神社の急な石段を上り右手に回り込むと、
凛々しい騎馬姿の義経像が目に飛び込んできます。

この像は義経が旗山に兵を集めたときの勇姿を描いたものです。
周囲には源氏の白旗が翻っています。





源義経公之像
この像は、源義経が元歴二年二月(一一八五年)一の谷の合戦の後、
屋島に本陣を構えた平家を討つため摂津国渡辺(現在の大阪市北区)を
嵐の中五隻の船に分乗して船出、ふだんであれば三日かかるところを
わずかな時間で阿波の勝浦に着いた。
そして、この地に源氏の白旗を標旗として掲げ軍勢を立て直した後、
地元新居見城を居城にしていた近藤六親家の兵を
先導役に屋島へ向かい、わずかの軍勢で背後より攻めた。
あわてた平家軍は海に逃れた。この奇襲戦により、戦況を有利に導いた源氏が
屋島の戦いで平家を破った。こうした史実を通して市民の郷土史への
理解を深めるとともに、これらを後世に伝えるため、 愛馬(大夫黒)に乗った
義経の銅像を製作し、ゆかりの地(旗山)に建立するものである。
銅像は尾崎俊二氏の寄贈によるもので、足元から頭までが五.三五.m、
弓の先までが六.七0mあり、現存する騎馬像のなかで日本一のものである。
この「源義経公之像」が永くふるさと小松島市の歴史を伝え、
市民の心に生き続ける事を願うものである。
平成三年七月吉日 小松島市長 (義経像説明文より)



八幡神社参道を上った右側にも、尾崎俊二氏奉納の神馬像があります。
義経阿波から屋島へ進軍2(義経ドリームロード)  
義経阿波から屋島へ進軍4(義経ドリームロード)  
『アクセス』
「旗山」小松島市芝生町宮ノ前 勢合の碑から5,3km 
徳島バス「芝生バス停」下車徒歩約7分 徳島駅まで約40分 徳島バス 088-622-1811

『参考資料』
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、2004年




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義経が阿波勝浦に上陸し、屋島に逃れた平家を追って小松島市内を
駆け抜けた道は、義経ドリームロードとして整備され、
勢合(せいごう)を起点として勝浦川沿いに佇む
中王子まで続きます。
およそ10キロの道のり
には、案内板や道標が設置され、
義経ゆかりの地名や伝説が残されています。


「源平合戦の元歴二年(1185)二月十八日 源義経は風雨の中を
散りぢりに着いた
軍船をここに集め勢ぞろいの後、屋島に向かう。」(碑文より)

阿波勝浦は現在の小松島市、義経上陸地点は、はっきりしませんが、
JR阿波赤石駅近くに勢合(せいごう)の石碑がたっています。
義経が漂着した船を集めたことからその名がついたといわれています

勢合の碑から義経ドリームロードを進み左折します。

道標に従い進むと、すぐ薄暗い森が見えてきます。
恩山寺への車の通行は不可。

四国のみち、歩き遍路の道です。

森は釈迦庵の跡で、その前に「弦張坂」の説明板があります。

平家方の田口成良が勢力を張る阿波国では、気を休めるわけにはいかなかったようです。

釈迦庵の横手からゆるやかな上り坂が800mほど続きます。

立江寺への道標、歩きへんろの道。

竹林を下って行くと敵がいないと分かって弦を弓から外して巻いたという
「弦巻坂」の説明板があり、傍には花折地蔵が祀られています。(勢合の碑から3、9キロ)





道標に従って坂を下ると牛舎横から車道に出ます。



すぐ先に弘法大師お手植えとも伝えられる「ビランジュ」が茂っています。
ビランジュの名はインドの毘蘭樹にあてたもので、
恩山寺が弘法大師ゆかりの地であることからそうよんでいます。

暖地に自生する常緑の高木で樹皮が次々に剥がれ落ち、
赤褐色の木肌があらわれることから、

ばくちに敗れ衣を剥がれるのに例えてバクチノ木ともいいます。

ここを上った先にあるのが、
四国霊場18番札所・恩山寺(真言宗)
です。

参道入口付近に義経上陸地の碑がたっています。
義経上陸の地の碑
「源平合戦の元歴二年(1185)二月十八日 
義経の軍勢は讃岐(屋島)に逃れた平家を討つため
 折からの暴風に乗じて摂津(大阪)の渡辺の浦より
船を進めこの地に上陸した。」(碑文より)


義経がここに上陸したとすれば、当時、このあたりは
海岸線だったということになります。

現在、この石碑は海岸線からかなり陸地に入った山沿いにあります。

このことについて小松島市役所産業振興課に問い合わせたところ、
次のようなお返事をいただきました。
「地図や文献等では確認できませんでしたが、義経上陸の石碑あたりは、
海岸線だったと伝えられています。
より南方の田野町の
天王社(神社)付近に「白砂」という地名が残っており、
その辺りからずっと海岸であったといわれています。」

義経の上陸地を『平家物語』は阿波勝浦とし、
『源平盛衰記』の諸本の中には、
「はちまあまこの浦(八万尼子の浦)」(勝浦川河口か)とし、
『吾妻鏡』では「椿浦」としています。
椿浦(徳島県阿南市椿泊)は小松島市のずっと南方に位置し、
屋島に進軍するには、遠回りしすぎと思われます。

菱沼一憲氏は義経を道案内した近藤親家が津田島の領主であったことから

「義経の上陸地は津田港である」と推定されています。
しかし上陸地を勝浦川の河口にある津田港(小松島市津田町)とすると、
地元に伝わる伝説と齟齬が生じてしまいます。
義経阿波から屋島へ進軍1   
義経阿波から屋島へ進軍3(旗山)  
『アクセス』
「勢合の碑」小松島市田野町 JR牟岐線「阿波赤石駅」から徒歩2分
『参考資料』
角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫、2001年 
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略-その伝説と実像」角川選書、平成17
新定「源平盛衰記」(巻5)新人物往来社、1991
 現代語訳「吾妻鏡」(平氏滅亡)吉川弘文館、
2008

 



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元暦2年(1185)2月17日、義経は屋島にこもる平家を討つため、
僅か150余騎で荒れくるう雨風を押して渡辺の津を船出し、
3日かかるところをわずか6時間で阿波の勝浦に渡ったといいます。

上陸すると海岸には平家の赤旗が翻り、百騎ほどがひかえていましたが、
義経勢に蹴散らされ、大将の近藤六親家(ちかいえ)は捕えられました。
親家からこの地の名が勝浦(現在の小松島市)であると聞くと、
義経は縁起のいい名に喜び勇みます。

近くに平家方の田口成良(重能)の弟、桜間良遠(よしとお)の
拠点があることを聞きだし直ちにその城を攻め落とし、
さらに成良の嫡男の田内教能(でんないのりよし)が源氏方の
河野通信を討つため三千騎を率いて伊予に出陣しているので、
屋島は手薄であると教えられます。
これをチャンスとみた義経は、休む間もなく夜通し駆け屋島の
背後に着きました。(『平家物語・巻11・勝浦合戦の事』)

物語は上陸地の名も屋島を守る軍勢の人数も
義経が知らなかったとしていますが、
義経の阿波上陸は、平家に深い恨みをもつ親家との
密接な連携のもと、平氏勢力の田口氏の本拠を討ち、
屋島を背後から攻めようという意図があったと思われますし、
田内教能が伊予に出陣中で
、屋島に残っている軍勢が少ないという
情報も手に入れ、周到な準備をしていたと考えられます。
義経の迅速な行動を支えたのは、親家の協力があったからです。

屋島へ義経を道案内した近藤六親家は、
西光(藤原師光)の子とされています。
西光はもとは阿波の在庁官人でしたが、後白河院側近の
信西の家来となってから頭角を現し、
平治の乱で信西が殺された後、後白河院の近臣に転じ、
きり者とうたわれ権勢を誇っていました。
治承元年(1177)、平氏に対する反感が次第に高まり、
後白河院近臣による鹿ケ谷事件が起こります。
この謀議に加わり捕われた西光は斬殺されました。

それでも清盛はおさまらず、西光の子ら(師高・師経・師平)を処刑し、
田口成良に命じて阿波郡柿原(現・阿波市吉野町柿原)にいた
四男の広長まで攻め自害させました。この時、
六男の親家も柿原にいましたが、難を逃れ板西城に潜みました。

親家も阿波の在庁官人ですが、「治承三年(1179)の政変」で
清盛が軍勢を率いて後白河院を鳥羽離宮に幽閉し
京都を制圧、院政を停止させて以後、阿波国在庁は
平家方の田口一族が掌握し、近藤氏は逼塞していました。


義経が阿波勝浦から一気に北上して讃岐の屋島に攻め寄せた道は、
義経街道と呼ばれています。

中でも小松島市田野町の勢合(せいごう)を起点として、
小松島市内の義経ゆかりの地を結ぶ約10キロメートルは
「義経ドリームロード」と称され、案内板や道標が設置され、
ハイキングコースになっています。


義経軍が阿波に上陸後、あちこちに吹き寄せられた軍船を集めて
兵たちが勢ぞろいした場所にたつ勢合の石碑。

近くには義経橋や弁慶橋などの伝説地が点在しています。
義経が屋島へ進軍したという義経ドリームロードを少し外れ、
寄り道して義経橋を渡りましょう。

勢合の碑から義経ドリームロードを進み、
水路に沿って義経橋を目ざします。

平成七年に架けられた義経橋



渡辺の津(義経屋島へ出撃) 
義経阿波から屋島へ進軍2(義経ドリームロード) 
義経阿波から屋島へ進軍3(旗山)  
『アクセス』
「勢合」小松島市田野町 JR牟岐線「阿波赤石駅」から徒歩2分

『参考資料』
「平家物語」(下)角川ソフィア文庫 新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 
角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫、2001年 元木泰雄「源義経」吉川弘文館、2007年 
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略-その伝説と実像」角川選書、平成
17
上杉和彦「源平の争乱」吉川弘文館、2012年 五味文彦「源義経」岩波新書、2004
「図説徳島県の歴史」河出書房新社、1994年 県史36「徳島県の歴史」山川出版社、2007



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大山祇神社の宝物館には、全国の国宝・重要文化財の指定を受けた武具類の
約八割が保存され、全国神社に類を見ない一大宝庫となっています。
大部分は南北朝から室町時代にかけてのものですが、源平時代の河野一族はもとより
頼朝・義経・義仲・平重盛などの奉納品も多くあります。これは源平両首脳が
河野(三島)水軍にいかに期待をかけていたかを物語っています。
中には斉明天皇奉納の唐代の禽獣葡萄(ちんじゅうぶどう)鏡(国宝)や
室町時代の三島水軍鶴姫の女性用の鎧(重文)、村上水軍の武将が詠んだ
法楽連歌(連歌懐紙は重文)なども展示されています。法楽とは神仏を慰める意味です。
館内を見て回ると歴代武将たちから奉納されたおびただしい武具類が次々に現れ、
彼らのエピソードを思い出させてくれます。

ここで宝物館内で一族の名が最も多く見られる
河野氏の興亡を源平合戦を中心にして
見てみましょう。
瀬戸内海では9C後半から海賊が出没し、京へ送られる官物が奪われるという
事件が度々起こり、政治問題となっていました。白河上皇さらに鳥羽院に
海賊退治を命じられた忠盛(清盛の父)は海賊追討のかたわら、職権を利用して
瀬戸内海を制圧し、伊予河野・越智・阿波田口氏など西国水軍を麾下におき、
勢力を拡大しながら富を蓄えていきました。

河野氏が確実に史上に登場するのは源平争乱期からです。平安時代末期、
平氏の傘下にあった河野氏ですが『平家物語・巻6・飛脚到来の事』によると、
木曽で義仲が謀反を起こし、九州でも緒方惟義始め、臼杵、戸次、松浦党などが
平家を裏切ったという飛脚が到来して皆が驚き呆れている中、
今度は伊予から「伊予国住人河野四郎通清が平家に叛き源氏に味方したので、
備後国(広島県)の豪族西寂らが伊予国に攻め渡り、
高縄城(松山市)で通清を討ち取った。」という知らせが都にもたらされました。
この時、通清の子通信は伊予を留守にしていたのです。
瀬戸内海を舞台とした海戦、源平合戦には両陣営とも、船戦に長けた
河野(三島)水軍を味方に引きいれることに必死で、河野通信のもとに
何度も使者が走りました。通清の代から反平氏に傾いていた河野氏は
讃岐志度合戦、壇ノ浦合戦に兵船を率いて義経軍に味方し活躍します。

平氏追討に貢献した河野通信は、奥州合戦にも従軍し、北条時政の娘を
妻に迎えるなど、幕府中枢に深く結びついていきました。後鳥羽天皇が
承久の乱を起こすと、通信もこれに呼応して伊予で兵を挙げましたが失敗、
所領の多くを没収され苦境に陥りました。一族のうちでただ一人
幕府方についたのが母が時政の娘であった通信の子の通久です。
以後河野氏は通久の系統を中心に一族の再興を図っていくことになります。
蒙古襲来の際、志賀島合戦でめざましい働きをしたのが通久の孫の通有でした。
『八幡愚童訓』によると、通有は負傷しながらも敵の船に乗り移って奮戦し、
散々に敵の首を斬りとり、大将を生捕りにしたとあり、通有の豪胆さは
後世にまで語り伝えられることになります。通有はこの戦乱の後、
多くの所領を与えられ、一時衰退していた河野氏の勢力を復活させました。
予備知識はこれ位にして宝物館の中に入りましょう。
宝物画像はすべて『大山祇神社』より、引用させていただきました。

宝物館・海事博物館へ



一遍上人奉納の宝篋印塔の右奥に宝物館(紫陽殿・国宝館)の入口が見えます。



紫陽殿


 伝義経奉納 赤絲威鎧・大袖付(国宝
若武者らしい華やかな茜染の赤糸で威した鎧です。
源平合戦後、佐藤忠信を使者として奉納したもので「八艘飛びの鎧」とよばれます。

ほとんどの鎧がそうなのですが、縅(おどし)毛は朽ち、
わずかな色糸で判別するだけです。

平氏が滅びると、義経は頼朝の推挙によって伊予の守となりました。

紫綾威(むらさきあやおどし)鎧・大袖付(国宝)
重厚で格調高い頼朝奉納の鎧です。
 

紺絲威鎧・兜・大袖付(国宝) 
紺色で統一された河野通信奉納鎧は鉄・革の平札(ひらざね)を
一枚まぜに、幅広で厚手の紺糸で威してあり、日本三大鎧の一つです。
源平合戦戦勝のお礼に奉納したものです。


義仲奉納の素朴な薫紫韋威(ふすべむらさきかわおどし)胴丸・大袖付(重文)
平家一門を都落ちさせた後、義仲は河野通信に源氏に味方するよう
この胴丸を社前に奉納したと伝えています。

歴代の源氏の武将には、義経の他、経基・満仲・頼光・頼信・頼義・義家・為義・義朝
義仲と
伊予の守に就任する者が多く、源氏と伊予とのつながりの深さが知られます。

伝平重盛奉納の白鞘柄の豪華な螺鈿飾(らでんかざり)太刀(重文)

小松内大臣伊予守重盛奉納  亀甲繋散蒔絵手巾掛(重文)
亀甲蒔絵を施した貴族の調度品です。

平重盛奉納 銅製水瓶(重文)
獅子鈕(ぼたん)のある蓋があり、端正で雄大な感のある宝物です。

河野通信奉納  革包太刀 銘恒真(重文)
平安時代末期の備前国の恒真作の実戦的な太刀です。

伊予守義経奉納  薙刀(重文)
先幅やや広く反りの浅い大薙刀

伝武蔵坊弁慶奉納  薙刀(重文)
京都で義経に出会った弁慶は、義経の強さに感服し最後まで献身的な家臣として
仕えたとされていますが、『平家物語』では、義経の身辺を守る
従者の一人としてしか記されず、実像は謎に包まれています。

和田小太郎義盛奉納  革箙(重文)箙とは矢を入れて背に負う道具。
義盛は三浦氏の一族で頼朝の挙兵に参加し、頼朝の武家政権が
つくられると
初代侍所別当に任じられました。

河野通有奉納 萌黄綾縅(もえぎあやおどし)腰取鎧・大袖付(重文)
平小札を一枚交ぜに、萌黄綾と異色綾を腰取に威しています。
『蒙古襲来絵詞』には、竹崎季長と河野通有父子の陣中対面の図が描かれています。

河野通有奉納 黒漆塗革張冑鉢(重文)
樫実形二重革張の冑鉢で、蒙古軍から奪い取った中国元時代の武将の冑です。

 宝物館に隣接する大三島海事博物館は、昭和天皇の海洋生物御研究のための
御採取船「葉山丸」を記念して建造されたものです。
葉山丸はじめ瀬戸内海を中心とした動・植物の標本類、水軍関係・海事関係資料と
共に全国の鉱山から奉納された代表的な鉱石類も多数展示されています。
 
 「紫陽殿・国宝館・海事博物館」 
共通拝観料大人千円 大学生・高校生800円 中学生・子供400円  
    開館時間 午前830分~午後5時(但し入館は午後430分迄)無休 
大山祇神社1  
『参考資料』
「大山祇神社」大三島宮 大山祇神社発行、平成22年 佐藤和夫「海と水軍の日本史」(上巻)原書房、1995年
 「検証日本史の舞台」」東京堂出版、2010年 「愛媛県百科大事典」(上)愛媛新聞社、1985年
「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 県史38「愛媛県の歴史」山川出版社、2003年

 



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瀬戸内海の芸予海峡に浮かぶ大三島には、伊予国一宮の
大山祇(おおやまづみ)神社が鎮座しています。
大山積大神を祭神とし、神武天皇東征の際に祭神の子孫・小千命(おちのみこと)が
先駆として四国に渡り、瀬戸内海の治安を願って大三島に勧請したのが始まりとされています。

南海・山陽・西海道の海上交通の要衝にあたり、古くから山の神、海の神として崇拝され、
信仰・観光の地として全国各地から参拝者が多く訪れます。

大山祇神社は伊予の豪族越智氏の氏神となり、伊予三島水軍の根拠地として
発展していきます。越智氏の流れをくむ河野氏は、祖神として深い信仰を寄せ、県下の
大山精神を祀る神社には、河野一族によって、寄進建立の由緒が多く伝えられています。
大山積大神の本地仏「大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)」の通の字をいただいて
河野親経の子を通清と名づけ、通清以後、通信・通久・通継・通有と
河野家の嫡子は「通」の字を名乗りました。

通信(みちのぶ)は屋島合戦・壇ノ浦合戦に水軍を率いて源氏軍に味方し、
河野氏発展の基礎を築きました。蒙古襲来には通有が当社に参籠祈願して戦功をたて、
所領を与えられるとともに以後も伊予の海賊の鎮圧にあたっています。

紫陽殿及び国宝館には源頼朝はじめ歴代の武将たちが武運長久を祈り奉納した刀剣、甲冑、
美術品などが展示され、中でも武具類は全国の国宝・重要文化財の約八割です。(『大山祇神社』)





社頭

社号石 二の鳥居

斎田(さいでん) 大山祇神社伝統神事の御田植祭(旧暦5月5日)と抜穂祭(旧暦9月9日)は、
この神田に於いて行われます。この時、御淺敷殿と斎田の間に設けられた土俵で
稲の精霊と力士が取り組み年々の豊凶を占う「一人角力(ひとりずもう)」が行われます。

総ヒノキ造りで高さが約12mもある総門(平成22年再建)を潜ると
正面にご神木である楠の巨木が聳えています。

小千命手植えの楠と伝えられており、樹齢2600年といわれています。

境内には約200本の楠があり、能因法師雨乞いの楠や河野通有兜掛けの楠などが茂り、
一括国指定の天然記念物となっています。

能因法師雨乞いの楠
♪天の川苗代水にせきくだせ 天降ります神ならば神
(天の川から水をせきとめて苗を植える地に落として 下さい。
天から降臨して、雨を降らせる 神様なら)

現在は枯れていますが、一部残っています。

蒙古襲来出陣の際、河野通有が兜を掛けたという楠。
朽ちて倒れています。


大楠の奥の石段を上ると神門・南北の回廊があります。

回廊には伊藤博文をはじめ、山本五十六などの参拝時の写真が飾られています。
近代から現代までの政治、
軍事、財政界の第一人者の方々の写真も見ることができます。



拝殿その奥に本殿があります。拝殿・本殿ともに国の重要文化財になっています。
本殿は元亨2年(1322)の兵火で焼失し、室町時代に再建され、三間社流造り檜皮葺、
外部は丹塗り、神社建築史上、流造りの代表作といわれています。


拝殿は切妻造り檜皮葺。

拝殿内陣

この神社の神紋は傍折敷(そばおしき)三文字といい、折敷の形に
「三」の字をかたどったものです。これは家紋としても使用され、
越智氏・河野氏・来島村上氏などがこのデザインを用いています。『予陽河野家譜』によると、
河野氏家紋の由来は、頼朝の前で第三席につらなったからと伝えられています。



宝物館に向かう途中に三基の宝篋印塔があります。
河野通信の孫の一遍上人寄進の河野一族の供養塔(国重文)です。
中央の塔は約4mあります。一遍の生涯を描いた『一遍聖絵』には
遊行の途中に立ち寄った大山祇神社の場面が描かれています。
大山祇神社2(河野通信)

『アクセス』
「大山祇神社」愛媛県今治市大三島町宮浦3327  0897-82-0032
山陽本線「福山駅」から今治行高速バス「大三島BSで乗換」~「大山祇神社前」下車。

または予讃線「今治駅」から大三島行高速バス「大山祇神社前」下車
『参考資料』
「大山祇神社」大三島宮 大山祇神社発行、平成22年 
佐藤和夫「海と水軍の日本史」(上巻)原書房、1995年
「検証日本史の舞台」」東京堂出版、2010年 「愛媛県百科大事典」(上)愛媛新聞社、1985年

 



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都を追われ九州に逃れた平家はやがてここも追われ、一門の新たな拠点が屋島でした。
屋島の内裏ができるまで六萬寺を安徳天皇の御所としていました。



都落ちした平家は8月末に九州に辿りつき、
肥後国(熊本県)の豪族菊池隆直の案内で大宰府に入ります。
都を出たのが7月25日ですから1ヵ月以上かかったことになり、
それまでは船上で日を送っていたものと思われます。

日宋貿易の重要な拠点でもあった大宰府を清盛次いで異母弟の頼盛が
大宰大弐(大宰府長官)となって管理していた頃から、
九州は平家の地盤であると平家の人々は思っています。

ところが清盛が亡くなる前後から平家の没落を察して
全国で叛乱が激化、九州でも菊池隆直が謀反を起こします。
九州鎮圧のために派遣された平貞能がようやく乱を平定して都へ帰り、
続いて源行綱謀反の報に淀川河口に出陣しますが、
誤報と分かり戻る途中、
都落ちの一門に遭遇し棟梁の宗盛に西国の情勢を説明、
都での決戦を進言したことは「平家一門都落ち(鵜殿)」で述べました。

当時、大宰府の現地官僚の最高責任者大宰小弐を務めていたのが
平氏家人の原田種直でした。
安徳天皇は原田種直の館(福岡の南)に入り、当面ここを行宮にします。
一門の人々の住まいは野の中、田の中にあり、歌に詠まれた
大和国の十市の里そのままのひなびた風情です。

平家は大宰府に都をつくり内裏を造営しようとしますが、
その動きを抑えにかかったのが後白河法皇です。
法皇が側近の豊後国(大分県)国司藤原頼輔(よりすけ)に
平氏を追放するよう命じると、頼輔は息子頼経を豊後国に差向けます。
頼経は同国の有力武士緒方三郎惟義に平家一門を
決して豊後国に入れてはならぬこと、
院宣に従って平家を追討するよう指示します。

緒方三郎は九州・壱岐・対馬の武士にこの院宣を伝えたので、
これらの国の主な武士達は、緒方三郎に付き従います。
都からお供をしていた菊池隆直も肥後国に帰り、
そのまま自分の城に籠もって戻っては来ません。

緒方三郎はもと重盛(清盛の嫡男)の家人だったので、
重盛の次男資盛が緒方三郎を説得する使者に選ばれ、
五百騎を従えて資盛の家人で、九州の事情に詳しい
平貞能(さだよし)とともに豊後国に出向きます。
重盛の嫡男は維盛ですが、
富士川合戦・倶利伽羅合戦で惨敗して勢力を弱め、
法皇と親密な関係にあった資盛や重盛の腹心であった貞能が
適任と緒方との折衝に派遣されました。

しかし緒方三郎は説得に応じる様子は全くなく資盛らを追返します。
さらに息子を大宰府に遣わして平家に退去を迫ります。
この時、時忠(時子の弟)は緒方らの忘恩をなじります。
その報告を聞いた緒方三郎は立腹し
「こはいかに、昔はむかし、今は今」と大宰府に大軍を差向けたので、
取るものもとりあえず逃げ出します。激しい雨の中建礼門院はじめ
女房たちまでが、かちはだしで海岸沿いを東へ。
迎えられて遠賀川河口に近い山鹿秀遠の居城に籠もりますが、
ここも敵が攻めて来るというので柳ヶ浦へ渡ります。
さらにここも追われて、漁の小船に乗り海上に出ます。
長門国(山口県)の目代紀伊道資は平家が小船に乗ったと聞き
大船百余艘調達して献上します。
これらの船に乗り込み再び瀬戸内海に出て、東へと漕ぎ出します。

この時、平貞能は出家して九州に留まり、
重盛の三男清経は前途を悲観して柳ヶ浦で入水します。
清経は「都を源氏に追い出され、九州を緒方三郎に攻め落とされ、
まるで網にかかった魚のようだ。
どこに行っても逃げ切れないであろう。」と静かに経をよみ、
念仏を唱え海に身を投げたとされる。
なお柳ヶ浦の地をめぐっては、伝承地が二ヶ所あります。
一つは北九州市門司の海岸、もう一つは大分県宇佐市柳ヶ浦です。

こうして九州各地を追われた平家は
四国の水軍・阿波民部成能(しげよし)の計らいで屋島へ逃れます。
成能は味方する四国の者の力を借りて、内裏や御所を造らせます。
平家はこの地を本拠地と決め、やっと落ち着くことになりました。
都を出てから3ヶ月目の頃のことです。

成能は阿波国の豪族で、早くより平家重臣の一人となり、
平重衡が南都の大衆を攻め、焼討を行なった際には先陣を務め、
また清盛が大輪田泊の造営を行なった時、
成能は奉行を命じられこの難工事を完成させます。







六萬寺(真言宗)
六萬寺は五剣山(八栗山)の中腹、源平屋島古戦場の東にあります。
寺伝によると天平年間に悪疫が流行し、聖武天皇の命により、
行基が創建して祈願したところ疫病は終息したという。
その後、大いに隆盛して七堂伽藍が備わった寺院となり、
薬師如来六万体を安置して六萬寺と呼ばれ、
牟礼・大町一帯に多くの支院をもち寺域も広大であったという。
源平合戦では、屋島内裏造営の間、安徳天皇の行在所とされましたが、
長宗我部元親の兵乱により鐘楼一宇を残して伽藍は焼失、
江戸時代に高松藩主松平頼重が伽藍を再興したと伝えられています。

境内の一角には、「安徳天皇生母徳子之碑」と
安徳天皇と建礼門院徳子を祀る祠があります。




平家一門都落ち(安徳天皇上陸地)  
 『アクセス』
「六萬寺」高松市牟礼町牟礼田井 
琴電「六万寺」駅下車 
北へ坂道を1kmほど団地の方向に上ります。
徒歩約20分。安徳天皇慰霊祭は例年5
月第4日曜日に行われます。

 『参考資料』
角田文衛「平家後抄」(上)講談社学術文庫 高橋昌明「平家の群像」岩波新書 
 別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社 
「香川県の地名」平凡社
 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店  「謡曲集」(中)新潮社 
上横手雅敬「源平争乱と平家物語」角川選書 「検証・日本史の舞台」東京堂出版

新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫

 

 

 

 



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