平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



神戸市須磨区北部にある多井畑(たいのはた)に多井畑厄除八幡宮があります。

一ノ谷合戦に向かう際、この地を通った源義経が戦勝を祈願した社と伝えられています。

バス停多井畑厄神を降りると、多井畑厄除八幡宮の鳥居が見えます。

厄除八幡宮 祭神応神天皇







奈良時代後半の神護景雲(じんごけいうん)4年(770)6月に疫病が大流行し、
それを鎮めるために朝廷は都の四隅と畿内(大和・山城・河内・摂津・和泉)の
国境10ヶ所に疫神を祀り、疫病を祓う祈願を行わせました。

多井畑厄除八幡宮は、古代の山陽道(のちの西国街道)の摂津と
播磨の国境に位置していたため、この地に疫神が祀られました。
 のちに八幡宮を勧請し、八幡信仰と疫祓いが結びついて
厄除八幡として有名になり、多井畑の厄神さんの愛称で親しまれています。
毎年1月18日から20日にかけて厄除祭が行われ、厄年のお祓いや疫病退散、
病気平癒の祈願と厄除けにたくさんの参拝者が訪れて賑わいます。

神額「厄除八幡宮」が掲げられています。
氏神の八幡神社は俗に厄除八幡宮といいます。



拝殿

本殿

拝殿左手の石段を上ると厄神祭塚があります。



日本最古の厄除けの霊地と伝えられています。

厄神祭塚

義経一ノ谷へ進軍(義経腰掛の松 ほんがんさん)  
『アクセス』
JR山陽電車「須磨駅」または、神戸市営地下鉄「妙法寺駅」 、
神戸市営地下鉄「名谷(みょうだに)駅」から
市バス71(一部)・72・74・88系統「多井畑厄神」下車すぐ

『参考資料』
NHK神戸放送局編「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター、2008年

「兵庫県の歴史散歩(上)」山川出版社、1990年「兵庫県の地名」平凡社、1999年

 

 

 



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高尾山の西、高尾地蔵で軍議を開き合戦の相談をした義経一行は、
鷲尾三郎義久に案内され鵯越と白川の分岐点、
蛙岩のところからから山中に入り、白川に出て妙法寺の西から
多井畑(たいのはた)を通り、鉄拐山(てっかいさん)を目ざしました。
その途中一行が休憩をしたという「義経腰掛の松」が多井畑に残っています。
ちなみに白川・多井畑には、鷲尾一族の集落がありました。

バス停「妙法寺駅前」から「多井畑厄神」停まで乗車。


一ノ谷付近の古代山陽道(後の西国街道)は、山が海に迫った難路であり、
波が激しい場合は通行不能となるため、須磨寺の手前から鉄拐山・鉢伏山の
東にある多井畑峠を越え、鉢伏山の北側を迂回し塩屋に抜けました。
一説には平安時代末期まで、現在の神戸市西部では、
山陽道は山間部を通っていたという。

「義経腰掛の松」が多井畑厄除八幡宮鳥居の南西約50m、古代の山陽道沿いにあります。



 右手奥に多井畑厄除八幡宮が見えます。
バス停「多井畑厄神」から、バス道を少しもどった多井畑峠より撮影。
義経一行が駆け抜けた峠道です。

多井畑厄除八幡宮から古代山陽道を通って義経腰掛の松へ







義経腰掛の松
 1184年(寿永3年)2月7日未明源義経一行は多井畑厄除八幡宮で戦勝祈願した後、
この松の木の下で休息をとり一の谷に向かったと伝えられている。
それから後、村人はこの場所に社を作り「ほんがんさん」の愛称で
親しみと尊敬を込めてお祀りしている。
多井畑厄除八幡宮 多井畑歴史研究会 多井畑自治会

多井畑厄除八幡宮  

義経腰掛の松に隣接して数多くの供養塔が並べられています。
 一ノ谷合戦で命を落とした人達を祀る塚や塔を集めたものでしょうか。

三草山の夜戦後、播磨の三木の辺で義経と別れ、
明石方面から迂回した土肥実平軍は、2月7日の午前6時の
開戦に遅れまいと進軍し、一の谷・西の木戸に着きましたが、
すでに義経別動隊に加わっていた熊谷次郎直実父子と
平山武者所季重(すえしげ)がこの木戸におし寄せ、
一ノ谷の城郭を攻撃していました。
直実と季重は、義経隊は馬で一ノ谷背後の崖を一斉に駆け下りるので、
先陣はねらえないと合戦前夜、功名を競ってひそかに隊を抜け出し、
鵯越の蛙岩から白川、多井畑、下畑を経て塩屋付近に出て、
未明、西の木戸口に現れたのです。

先陣の功名をあげようと、本隊を抜け、本隊よりも先に
単独で攻撃を仕掛けることを「抜け駆け」といいます。
出世は手柄に比例するため功名争いは熾烈でした。

 平氏搦手が陣取る一の谷は、狭い谷あいの地形で前面が海、
西北は絶壁が迫っている場所でした。 この攻撃が難しい地に
城郭を構えていた平氏は、防備体制に自信を持ち、
敵が現れるはずがない山頂部には兵を配備していませんでした。

義経は70騎の精鋭を従え徹夜の行軍で、7日午前8時頃、鉄拐山を東に越え
鉢伏山・礒の途(鉄拐山から鉢伏山へと続く尾根)に到着し、
一ノ谷の城郭を眼下に見下ろす崖の上に出ました。
東西の木戸(生田の森・一ノ谷)で午前6時に開始された合戦は、
今やたけなわ、戦況を見守ると一進一退の膠着状態です。

義経みずから先頭にたち、 躊躇する坂東武者らを叱咤し
険峻な崖から中段の平坦地まで一気に駆け下りました。
そこから先はさらに険しく垂直の壁のような崖がそそり立っています。
さすがの義経も怯みましたが、三浦の佐原義連が進み出て
「このような崖は我が故郷では馬場のようなもの」と言うなり駆け下りました。
これを見て勇気を得た武者らが続き、鬨の声を挙げました。
これが今に「鵯越の逆落とし」として
語り伝えられている義経の奇襲戦法です。

こうして一ノ谷合戦の命運が決まったとされています。

防備が手薄な城郭の背後を突かれた平氏軍は大混乱に陥り、
一門の多くを失い海上を屋島へと敗走しました。

義経の奇襲によって一ノ谷の陣が大混乱に陥っていたころ、鵯越の麓、山の手陣の
木戸口にも義経隊から分かれた摂津源氏の流れを汲む多田行綱軍が攻め寄せ、
越前三位通盛・能登守教経・越中前司盛俊らを攻め落としていました。
義経の鵯越の逆落し(須磨浦公園)  
鵯越から一ノ谷へ義経進軍(藍那の辻・相談が辻・義経馬つなぎの松跡・蛙岩)  
『アクセス』
「義経腰かけの松」兵庫県神戸市須磨区多井畑
JR山陽電車「須磨駅」または、神戸市営地下鉄「妙法寺駅」
神戸市営地下鉄「名谷(みょうだに)駅」から
市バス71(一部)・72・74・88系統「多井畑厄神」下車、西南へ徒歩約3分
『参考資料』
野村貴郎「北神戸歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター、2002年
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
安田元久「源義経」新人物往来社、2004年
菱沼一憲「源義経の合戦と戦略」角川選書、平成17年
別冊歴史読本「源義経の生涯」新人物往来社、平成16年
神戸史談会「源平と神戸」神戸新聞出版センター、昭和56年
「兵庫県の地名」平凡社、1989年
都市研究会編「地図と地形で楽しむ 神戸歴史散歩」洋泉社、2018年

 



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三草山合戦で平資盛らの軍勢に勝利した義経は、三木から鵯越に向かい、
一ノ谷合戦の前日、寿永3年(1184)2月6日藍那(あいな)に
軍を進めました。そこから一ノ谷の陣の背後に向かいます。
『平家物語』によると、案内者となったのは、
この山の猟師の息子、鷲尾三郎義久(経春とも)だったという。

その経路は必ずしも明らかではありませんが、藍那を南下し
六甲山系を高尾山の西で越え、鵯越から多井畑(たいのはた)を経て
薩摩守忠度が守る西木戸の背後に出たと思われます。
鵯越とは、三木方面から藍那、高尾山(403m)の中腹を通り、
福原や大輪田泊へ出る山中の古道の呼び名です。

一ノ谷合戦で問題となるのは、鵯越という地名と一ノ谷との関係です。
『平家物語』には琵琶法師の語った詞章(音楽的要素のある作品の文章)を
そのまま記した「語り本」と現在の小説のような読み物として
普及してきた「読み本」があります。
語り本系の『平家物語』では、一ノ谷の背後鵯越から
義経軍が急峻な崖を駆け下り、逆落とししたとし、
一ノ谷と鵯越が間近にあるように描いています。

また『吾妻鏡』元暦元年(1184)2月7日条には、
「源九郎義経は、特に勇敢な武士70余騎を引連れ
一ノ谷の 後の山(鵯越と号す)に到着し、猪・鹿以外は
通ることのできないほど 険しいこの山から攻撃した。」とあり、
鵯越は平家城郭の後方の山として用いられています。
これについて富倉徳次郎氏は「吾妻鏡の編者の地名に対する大雑把な
書きぶりによるものと考えるべきものである。」と述べておられます。
(『平家物語全注釈(下巻1)』)
鵯越と一ノ谷とは直線距離にして約8kmも離れています。
こんなに遠いのでは、崖からの奇襲攻撃などできるはずありません。

一方、読み本系の『延慶本』では、「九郎義経は一ノ谷の上 
鉢伏・蟻(あり)の戸という所へ上って見給へば、軍(いくさ)は盛りと見たり。
下を見下ろせば、十丈ばかりの谷もあり、或いは二十丈の崖もあり」とあり、
義経が鉢伏山・蟻の戸という所から逆落としをしたと明記した上で、
鵯越という地名は平家陣地の北方の山々をいう名として用いられています。

鉢伏山は一ノ谷の背後、鉄拐山(てっかいさん)の西南に位置する山、
蟻の戸は、鉄拐山から鉢伏山へ続く途中の尾根と推測されています。

義経の進軍ルートを『大日本地名辞書』は、「鵯越の本路は
山田村藍那より東南夢野、若しくは長田に出づべきも、
藍那より南に出でて、多井畑に至り以て一谷に臨む別路あり、
九郎は此別路を取りしに似たり」と推定し、
鵯越より西に赴き、多井畑から一ノ谷に進軍したとしています。
このことからも、義経が逆落としを敢行したのは、鵯越ではなく、
『延慶本』が記すように、 須磨の裏手、鉢伏山・鉄拐山からと考えられます。

そこでこのルートに残る義経進軍にまつわる伝承地を
2回に分けてご案内させていただきます。




神戸電鉄藍那駅から急坂を上ると、藍那集落を抜け鵯越に出ます。



藍那の辻の宝篋印塔
藍那を通る鵯越の傍らに南北朝時代の宝篋印塔が残されています。
現在の鵯越周辺は、大規模な宅地開発が行われたり、墓苑がつくられたりと
町の様子は大きく変化していますが、この辺には昔の面影が残っています。





相談ヶ辻は道が左右に分岐しており、義経が進路を左にとり
鵯越に出るか右にとり白川に出るかと軍議を開いた場所と伝えられています。
右へ行けば白川から一ノ谷へ、左へ行けば鵯越から福原へ向かうこととなります。

神戸市立鵯越墓苑HP 墓苑図より一部転載

星和台住宅を通りすぎ、鵯越墓園の北門辺から墓苑内へ入り南へ進みます。



高尾地蔵院



高尾山(標高403m)への登り口にある高尾地蔵院(標高372m)境内には、
「義経馬つなぎの松跡」があります。



害虫被害にあい、今は切り株を残すだけとなっていますが、
義経が鵯越進軍の途中ここで休憩し、境内の松に馬をつないだといわれています。


1184年2月6日(現3月26日)晩、福原に集まった平家の10万の
軍勢を攻めるため、義経の軍勢がここに集まり、合戦の相談をした。
 高尾山山頂より眼下を見下ろすと、和田岬の周辺には総大将宗盛と
安徳天皇を守る平家の軍勢が篝火を焚き、火の海をつくっていた。
 義経は平家がつくる火の海を海女が藻塩を焼いている火と見なし、
「海女に逢うのに武具はいらいない」と笑いとばした。
山頂から戻った義経が、武者たちが囲む焚き火の中に加わると、
枝ノ源三が、翁と16才と13才の兄弟を連れて来た。
 義経はこの兄弟を道案内人として戦うことに決め、70騎の逆落しの部隊と、
逆落しを助ける岡崎四郎の軍勢とに分けた。 翌朝、わずか70騎で
10万の平家を敗走させる、「鵯越の逆落し」と呼ばれる有名な戦いが行われた。
無数の軍勢に立ち向かう勇気と、危険な崖から逆落しをした義経の勇気は、
後々まで語り継がれている。 後に、ここは「義経公御陣の跡」と呼ばれ、
ここにあった古松を「判官松」または「義経馬つなぎ松」と呼び伝え、
昔の人が大切にしていた。文責:兵庫歴史研究会 設置:墓園管理センター』

神戸市立博物館蔵

高尾地蔵からさらに南下すると、墓苑内の新芝生地区の小さな駐車場の背後に
蛙岩(神戸市北区山田町下谷上)があります。



蛙岩は鵯越と白川方面へ向かう山道との分岐点にある大きな岩で、
複雑な形に風化した岩が、数匹の大蛙と多くの小蛙のように見えるという奇岩です。

この岩は夜になると起き上がり、巨大な蛙となって旅人を襲ったといわれ、
昔の鵯越が物騒だったことを物語っています。

義経はこの辺りで再び軍勢を二分し、多田行綱に主力を預けて鵯越を進ませ、
自身は僅か70騎の精兵を率いて西南に折れ、一ノ谷の平家城郭の背後に向かいます。
鵯越の坂道を一挙に南下した行綱は、能登守教経・越中前司盛俊の山手陣を攻略しました。

ここで進路を西にとればひよどり台・白川・多井畑を経て一ノ谷に通じています。



下るとひよどり台4丁目です。

鵯越の進軍路をめぐる諸説の中には、ここで熊谷直実父子と
平山季重(すえしげ)らが義経の部隊を秘かに抜け出し、
須磨一ノ谷方面へと向かったとするものもあります。
熊谷・平山一二の懸(熊谷直実、平山武者所季重の先陣争い)  
義経一ノ谷へ進軍(義経腰掛の松 ほんがんさん)  

『アクセス』
「相談が辻」神戸市北区山田町藍那 神戸電鉄粟生線「藍那」駅より約1㎞

「神戸市立鵯越墓園」神戸市北区山田町下谷上字中一里山12
神戸鉄道有馬線「鵯越駅」下車 南門まで徒歩約10分 
墓参バスが墓園内を運行しています。
「高尾地蔵院」神戸市北区山田町下谷上「藍那駅」より約3900m
神戸鉄道有馬線「鵯越駅」下車徒歩約50分

『参考資料』
野村貴郎「北神戸歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター、2002年 
富倉徳次郎「平家物語全注釈(下巻1)」角川書店、昭和42年 
「大日本地名辞書」(第2巻)冨山房、平成4年
現代語訳「吾妻鏡(2)」吉川弘文館、2008年
安田元久「源義経」新人物往来社、2004年

 

 



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