
治承四年(1180)五月、以仁王が諸国の源氏に平氏追討の令旨を
発し蜂起を促していたことが、平清盛に察知されました。
以仁王は平氏政権の専横に反感する園城寺(三井寺)に入り、
源頼政も近衛河原にあった自邸に火をかけ、
以仁王に合流するため園城寺に入りました。
しかし、協力を仰いだ延暦寺が動かず、危険を感じた
以仁王・頼政の軍勢は南都に向かって出発しました。
この時、園城寺から奈良に急ぐ途中に通過したと伝えられる道を
頼政道といい、逢坂関と宇治を最短距離で結ぶ古道と伝えられています。
『源平盛衰記・巻15』は、その逃走経路を次のように記しています。
「関寺・関山打ち続き行くも帰るも逢坂や。一叢(むら)杉の木の下より
筧(かけい)のしみず絶え絶えなり。くぐ井坂・神無の森・醍醐寺に懸りて、
木幡の里を伝いつつ宇治へぞ入らせ給ひける。」
これによるとそのルートは、逢坂から逢坂山の西側、神無の森(追分)、
醍醐、木幡から宇治となります。
やはり『源平盛衰記』巻10第5(宇治合戦附頼政最期の事)に
「宇治と寺との間、行程わずかに三里ばかりなり」と記され、
宇治と園城寺との間が約12キロメートルであることがわかります。

逢坂山は逢坂の関が設けられたため、関山ともよばれました。

関寺は謡曲『関寺小町』で知られ、逢坂越え沿いにあった寺院ですが、早くに衰微し、
長安寺(大津市逢坂2丁目)が昔あった関寺境内にあると云われています。



長安寺より逢坂山を望む

醍醐から山科日野、木幡山の中腹を経て万福寺東方より
宇治平等院への道は現在、山中いたる所宅地開発が進み、
頼政が通ったという道は分かりにくくなっていますが、醍醐路から
木幡にかけての間に断続的に「頼政道」の名が市道名として残っています。


醍醐寺裏手の長尾天満宮参道傍にある「頼政道跡」の碑

長尾天満宮(醍醐寺金堂東北、長尾丘陵の上)

長尾天満宮本殿(旧醍醐村の産土神)

醍醐山西麓にある一言寺には参道階段の中ほどを横切る小道があり、
地元の人はこの道を「頼政道」と呼んでいます。醍醐山山麓づたいに
南へ進むと、日野の集落に入ります。法界寺から日野誕生院の前の道を
さらに南下すると、頼政が髭を洗ったところと伝える「髭の辻」に出ます。
この辻を過ぎると山手にかかり、住宅が山の頂まで建ち並んでいます。
宇治市木幡の平尾山の西麓を進むと、市道頼政道沿いに
「頼政道」の碑が据えられています。

バス停頼政道(東宇治高校東)

平尾山(木幡山)丘陵に残る自然石に刻まれた「頼政道」

頼政道(裏面の碑文)
この道は遠い昔から人々の生活を支えてきた。
治承四年(1180)五月二十六日の払暁、老将源頼政はこの道を奈良に
向かったという。以来この道はその名とともに生きてきた。
新しい街づくりのため、この道は生まれかわった。
わたしたちはこのゆかりの地点に口碑を刻み、
その名を永くとどめる。平成元年十二月吉日

この道をさらに南へ行くと南山団地入口の弥陀次郎川には
「頼政橋」が架かり、頼政が通過したことを伝えています。
頼政が平等院へと急いだ道筋は、醍醐から日野の法界寺を経て、平尾山と
御蔵山の間を抜け、五ヶ庄広岡谷から芝の東へ至る道ということになります。
以仁王謀反(三井寺への逃走経路)
『アクセス』
「長尾天満宮」京都市伏見区醍醐北伽藍町 地下鉄「醍醐駅」下車徒歩20分位
「頼政道の碑」宇治市平尾台一丁目
京阪宇治線・「六地蔵駅」下車、京阪バス「頼政道」バス停徒歩2分
『参考資料』
水原一「新定源平盛衰記」(2)新人物往来社 増田潔「京の古道を歩く」光村推古院
「三井寺」三井寺発行 「三井寺と近江の名刹」小学館 「滋賀県の地名」平凡社
「日本名所風俗図会」(8)角川書店「 日本名所風俗図会」(11)角川書店
斉藤幸雄「宇治川歴史散歩」勉誠出版 「京都府の地名」平凡社
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)(南山城)駿々堂