平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




積翠園(しゃくすいえん)は、妙法院境内の北にあります。
昭和29年(1954)日本専売公社が妙法院からこの地を買収し、
京都専売病院が管理してきましたが、今は東山武田病院の庭園となっています。
病院の受付の方に「お庭を見学させてください。」とお願いすると、
「どうぞ、ごゆっくり。」と快諾して下さったので、散策させていただきました。

この庭は現在は病院内の敷地になっていますが、病院が作ったのではなく、妙法院の
境内であった時からあったもので、
平安時代末期の浄土様式がうかがわれる庭園です。
江戸時代には、妙法院の庭園となっていましたが、平安時代末期には、
小松谷に邸があったことから小松殿とよばれた清盛の嫡男、
重盛の小松殿の庭であったとされ、その遺構として有力視されています


面積は約一万平方メートルからなり、庭園の形式は左回りの回遊式をとり、
中心にある約三千平方メートルの池には東側に大島、
西側に小島(亀島)があり、
大島の南側に並ぶ五個の夜泊石(よどまりいし)は、不老不死の妙薬を積んだ宝船が
港に停泊している姿をあらわしています。

小松谷とは、清水寺辺りを水源として西南方向に下っていた渓谷のことで、
それが渋谷街道と交差する辺に重盛の邸があったとされ、小松殿の所在地は、
山科へ抜ける渋谷街道沿い、
東国や伊勢平氏の本拠地伊勢・伊賀への玄関口にあたる
現在の東山区馬町交差点の東側辺と推定されています。

平安時代末期の庭園遺構とされる積翠園













武田病院は外資系ホテル「フォーシーズンホテル京都」として、
オープンするというニュース
を平成28年10月8日の
産経新聞の朝刊紙面で知りました。
それによると、
「同ホテルは開業(同月15日)を前に内覧会を開いた。地下2階、地上5階、
敷地内には、約800年前につくられ、平家物語にも登場する平重盛の別邸小松殿の
庭園積翠園約1万平方㍍が広がる。デラックスルームは1室7万5千円から。
プレジデンシャルスイートは120万から、客室は123室ある。」
(平成28年10月8日、追記させていただきました。)

東山七条から豊国廟への参道を上ります。
「フォーシーズンズホテル京都」正面玄関(平成28年10月撮影)


平重盛の念仏堂跡と伝える小松谷正林寺
小松谷正林寺(平重盛阿弥陀経石 )  
平重盛の墓(小松寺1)  
『アクセス』
「積翠園」京都市東山区東大路通渋谷下ル妙法院前側町東山武田病院内
「フォーシーズンズホテル京都」正面玄関 
市バス「東山七条」または「馬町」下車徒歩約5分
東山七条の信号を東に入り、豊国廟参道(女坂)を少し上ると左手にあります。
また「馬町」バス停すぐの妙法院北側にも出入口があります。
『参考資料』
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛東上)駿々堂 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店 
別冊太陽「平清盛」平凡社

 





 

























































































































 


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正林寺(しょうりんじ)は浄土宗の寺で、小松谷正林寺と通称しています。
渋谷街道の中ほどを小松谷(東山区上馬町・下馬町・瓦役町辺)といい、
清盛の嫡男重盛は、この谷に屋敷を構えていたので小松殿とよばれました。
『京都府地誌』によると、正林寺は重盛の念仏堂(燈籠堂)址で、
後に
九条兼実の別邸が営まれました。
兼実はこの地を深く帰依した法然に寄進し、法然は建永元年(1206)
東山吉水の庵室より移り、ここを小松谷御坊としたという。

その後、一時廃絶していましたが、僧恵空(えくう)が
享保年間(1716~36)に北野真盛町にあった正林寺を
小松谷御坊の跡地に移し再興したと伝えています。
再建にあたっては九条家の庇護をうけ、現在の本堂以下
山門・大師堂・鐘楼・庫裡などが整備されました。
大師堂に法然と兼実の木像を安置しています。
 
重盛の邸には、灯篭堂があったとされ、重盛が
「灯篭大臣」とよばれたことが『平家物語』に見えます。
また東大路通に面した馬町交差点付近、
妙法院の北にある積翠園(しゃくすいえん)は、
小松殿苑池の跡と推定されています。
渋谷(しぶたに)街道は渋谷越ともいい、東山を越えて
京と山科を結び、山科で東山道と合流する重要な街道でした。
 

また正林寺の東には、かつて若松池があり、
この池は清盛と深い縁のあった大納言藤原邦綱の山荘
若松亭(東山亭)の苑池と伝えられています。江戸時代中期まで
池の一部が残っていましたが、今は跡形もありません。
現在、正林寺の東側を清閑寺池田町と呼ぶのは、
若松池によるものと思われます。
若松亭は治承4年(1180)11月26日、南都攻撃に出陣する
平重衡を総大将とする平家軍が集合した場所です。
神戸市の大山咋神社(藤原邦綱)  

『平家物語・巻3・金渡し(こがねわたし)の事』によると、
平重盛は、来世の為に善根功徳を積んでおきたいが、我が国では
子孫が続いて先祖の後生を弔うことは難しい、そこで他国に
何か善根をして、後世を弔ってもらいたいと思い、
九州から正直者で有名であった妙典(みょうでん)という船頭を呼び、
砂金三千五百両を出して「五百両はそちにとらせよう。
三千両を宋に運び、千両は育王山の僧へ贈り、二千両は皇帝へ献上し、
重盛の後世を
弔ってほしいと伝えよ」といいつけ、宋の仏教の聖地、
育王山(中国五山の1つ・阿育王山の略)との結縁を求めました。
皇帝への二千両は、育王山(現、浙江省寧波府にある)の
伽藍を維持するために田地に代え
皇帝から育王山へ寄進して貰うためのものです。

その返礼として、建久九年(1198)、阿弥陀経石が日本へ送られ、
宗像(むなかた)大社へ届きましたが、
すでに重盛この世になく
平家一門も西海に沈んだあとだったので、
都へは運ばれず、宗像大社(福岡県)近くに置かれ、
のち寛文二年(1662)に宗像大社に
安置されました。

正林寺の石碑は、宗像大社にある阿弥陀経石(重要文化財)を
江戸時代の正徳四年(1714)、有志の人々がこれを模刻し、
小松殿址にちなんで正林寺境内に建立したものです。
宗像大社の神宝館に展示されている
原碑とほとんど同じ形状・大きさです。

 これと同じものが京都市百万遍に建つ
法然と源智(げんち)の寺、知恩寺の境内にあります。
これは源智が一の谷合戦で戦死した師盛(もろもり)の子で、
平重盛の孫にあたるという縁によるものと思われます。




正林寺の門前にたつ「小松谷御坊舊跡」の碑

境内は正林寺が経営している保育園の園庭となっています。
職員の方にお願いして拝観させていただきました。



本堂(阿弥陀堂)

境内墓地入口には、阿弥陀経石が建っています。
高さ約2m、
青味を帯びた水成岩の石塔で、上部に笠石を置き、
表面に「弥陀四十八願中」の三願と
定印の阿弥陀坐像が刻まれています。

基礎には反花(かえりばな)の蓮華を彫った
石をすえ、
その下の台座には多くの勧進集や結縁衆の名前が刻まれています。

背面には「仏説阿弥陀経」と「無量寿仏説往生浄土呪」が彫られています。






浄教寺 平重盛(1) 
重盛邸庭園の遺構 積翠園  平重盛(3)
 平重盛熊野詣(熊野本宮大社)  平重盛の墓(小松寺1) 
『アクセス』
「正林寺」京都市東山区渋谷通東大路東入3丁目上馬町 
 市バス「馬町」下車、 馬町交差点から東へ、渋谷越の坂を約25分上ります。
『参考資料』  
梅原猛 「京都発見」(5)新潮社 竹村俊則・加登藤信「京の石造美術めぐり」京都新聞社

 竹村俊則「昭和京都名所図会(1)(5)駿々堂出版 新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社
「京都市の地名」平凡社 「京都府の歴史散歩」(上)山川出版社



 

 

 


 



 





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四条河原町から寺町通りを南へ入るとすぐ左側に
平重盛ゆかりの多聞山浄教寺(非公開)があります。

平重盛(清盛の嫡子=1138~1179)は、東山の麓、
小松谷に屋敷を構えていたので小松殿とも小松内大臣ともいいます。
浄教寺(浄土宗)は、重盛が邸内に建てた燈籠堂にはじまります。



『平家物語・巻3・燈籠の事』によると、重盛は仏教に深く帰依して、
東山麓の小松谷の邸内に四十八間四方の御堂を建て、
一間に燈篭を一つずつかけ、
四十八体の「阿弥陀仏」を安置し、
若く美しい女房たちに昼も夜も灯が絶えないように世話をさせたという。

毎月14、15両日には、288人の美女たちを集めて念仏を唱え、
大法要を営んだので重盛は「燈籠大臣」とも称されました。 
その模様を『源平盛衰記・巻11・灯籠大臣の事』は、女房たちが
念仏を称えながら、48体の阿弥陀仏に次々と参り、念仏が終わると
6人1組となった女房が鐘や太鼓を叩いて
心の闇(やみ)の深きをば 燈籠の火こそ照らすなれ
弥陀の誓ひをたのむ身は 照らさぬところはなかりけり」と
今様を謡いながら堂内を回り、重盛は御堂の中央に座って
これを聞かれていた。と記しています。

『浄教寺縁起』によると、燈籠堂の傍には鎮守社として
重盛が勧請した熊野権現が祀ってありました。

平家都落ちの際、重盛の館は焼失しましたが、
灯篭堂は、下
京区東洞院通松原付近にある
灯籠町
(祇園祭の保昌山を出す町内)に再興され、
さらに室町時代に定意上人が再興し浄教寺と改め、
天正年間(1573~92)豊臣秀吉の都市改造によって現在地に移転しました。
以前は平家ゆかりの寺として、平家琵琶の会合などが行われたという。
祇園祭保昌山(平井保昌と和泉式部)  

本堂には、本尊の阿弥陀如来と重盛の木像が祀られています。

本堂前に建つ有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひと)
親王の筆になる重盛の顕彰碑。
「内大臣平重盛公之碑」と彫られています。


建仁寺勅使門
現在、重盛の邸は残っていませんが、邸の門が建仁寺に伝わっています。

建仁寺勅使門の柱や扉には戦乱を潜りぬけた矢の痕があるので、
矢の根門とも呼ばれ
小松殿ゆかりの門として知られています。

浄教寺は2020年9月に再建されました。
平重盛ゆかりの「三井ガーデンホテル京都河原町浄教寺」  
小松谷正林寺の阿弥陀経石 平重盛(2) 
 積翠園  平重盛(3)   平重盛熊野詣(熊野本宮大社) 
平重盛の墓(小松寺1)  平重盛の寵臣が開いた小松寺  
平重盛・清盛の墓(磐田市の連城寺) 
『アクセス』
「浄教寺」京都市下京区寺町通り四条下ル(非公開)
(阪急電車・四条河原町駅下車約6分)
『参考資料』
梅原猛「京都発見1」新潮社 村井康彦「平家物語の世界」徳間書店
 「京都市の地名」平凡社 
竹村俊則「昭和京都名所図絵」① ⑤ 駿々堂
完訳「源平盛衰記」(巻6~巻11)勉誠出版
倉富徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店

 



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